思索の森と空の群青

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2011年 03月 08日

岩波書店にはこんな本を作らず超然としていてほしいというのが僕の本音だ——池澤夏樹編『本は、これから』

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19(341)池澤夏樹編『本は、これから』岩波書店(岩波新書)、2010年。

版元




 電子書籍時代に紙の本は生き残るのか——。出版(社)は生き残れるのか——。

 この編著は基本的に紙の本の存在を肯定しているが、紙の本が生き残るかどうかという現実的な見通しは論者によってばらつきがある。

 わたしは紙の本が好きだから、これからも紙の本を読んでいくはずだ。だが、別に電子書籍を否定しているわけではない。読みたい人は読めばいい。ただ、わたしは、紙を触りながら、線を引きながら、付箋を貼りながら、本を読むのが、ただ個人的に、好きなのだ。そして、自分で買って読んだ本に囲まれながら、物事を考え、それを書いていきたいのだ。

□池澤夏樹
 紙という重さのある素材を失ったために文筆の営みはすっかり軽くなり、量産が可能になった分だけ製品はぺらぺらのものばかりになった。そもそも人類の知の総量が変わるはずがないのだからインターネットによって生産を加速すれば中身は薄まる理屈だ。
 電子ブックはその一つの段階でしかない。

□(x)

□池内了
 子どもの理科離れが話題になっているが、その根源には実は大人の理科離れがある。科学は難しく取っつきにくいのがその理由だが、それだけではない。科学は専門家にお任せして、その成果を利用するだけで満足している大人ばかりになったためだ。〔略〕
 文学の作品はこれ一つしかないという意味で永遠だが、科学の本はその知見が次々と書き換えられていく運命にある。科学は積み上げで成り立っており、先人の仕事を乗り越えつつ、時代に制約された実験技術の下でとりあえずの結論を提示するしかないからだ。その意味で本の寿命は短く、たった数年前の出版なのに入手できなくなってしまう。

□(6)

 「科学は積み上げ」というのは大切。科学はひとりでするものではない。

□池上彰
 読書という作業をするための道具は変化するかも知れません。Kindle も iPad も、読書のための道具に過ぎません。読書そのものは永遠に不滅なのです。
□(11)

□岩楯幸雄
〔略〕毎日仕入れに行き現物を見て「この本はあの人に」「あの本はあの人に」と、お客様の顔を思い浮かべながら仕入れて来るのです。お客様のイメージが浮かばない本は仕入れないのです。
□(32-3)

 これは代々木上原駅の近くにある「幸福書房」の社長さんの言葉。朝8時半から24時半まで元日以外年中無休の本屋さん。行ってみたい。

□上野千鶴子
 出版関係の人たちには冷淡に聞こえるかもしれないが、書き手としてのわたしは、本という媒体がなくなっても痛くも痒くもない。書き手とはコンテンツ生産者だ。コンテンツ生産者は、媒体がどうなっても残る。わたしは書物を愛しているが、書物よりもコンテンツのほうがもっと大事だ。その意味では、出版社はなくなっても、編集者というしごとは残るだろう。編集というより、もっと広義のプロデューサーとして。
□(39-40)

□内田樹
 自分が全体のどの部分を読んでいるかを鳥瞰的に絶えず点検することは(あまり指摘する人はいないが)読書する場合に必須の作業である。というのは、ある文章が冒頭近くにあるか、中程にあるか、巻末が迫ったところにあるかによって、その文章の解釈可能性に大きな差異が生じるからである。
□(43)

 これはよくわかる。

□長田弘
 読むべき本、読んだ本の嵩によってでなく、むしろ、読まない本、読まなかった本の膨大さによって、本という文化、読書という文化はつくられてきました。本がつくってきた世界は、言うなれば、山なす不読の本によってできてきた世界であると言っていいかもしれません。
 本のつくってきた世界の豊饒さというのは、読まれる本によってより、むしろ圧倒的に、読まれなかった数知れない本によって、つねに豊饒であり、豊饒でありえてきた世界だったからです。読まれない本、読まれなかった本なしに、本の世界はなかった。

□(56-7)

□桂川潤
 人間は身体を持つからこそ建築を必要とする。本も同じだ。
□(63)

□柴野京子
〔略〕そこにある本を読む、のではいけないだろうか。それは果たして致命的といえるほど貧しいことだろうか。
 ごく単純い考えて、人が認識し、現実に見ることのできる本の量には限界がある。〔略〕むしろ選択肢がふえればふえるほど、選ぶのにエネルギーを費やさなくてはならなくなる。〔略〕にもかかわらず、知らないうちに「すべての本の中から〈最適なものを〉選ぶ」ということだけが、無条件によいこととしてスタンダードになっている。
 いかに「すべて」を網羅して「最適」なアルゴリズムを設計するか、が問題になっている。けれども、ほんとうはどう考えても「すべての本」を見ることなどできないし、人間がそこから「最適な一冊」を選びとることなどできはしない。

□(110)

□鈴木敏夫
 それでも、議論しているうちに分かったことがある。それは、テーマの後ろに見え隠れする「出版の世界はこれからどうなっていくだろう」という問題意識が、僕には明確に「ない」ということだ。いや、そもそもこの問題意識は誰のためのものなのか。そして、そこに答えはあるのか。
□(112)

 これは大事なポイント。わからないとき、なぜわからないのか、を考えてみることが大切(難しいことなのだけれど……)。

□鈴木敏夫
 「本は、これから」の後に言葉を続けるなら、冷静にこう言いたい。「適性な規模になる」と。だから、岩波書店にはこんな本を作らずに、超然と屹立していてほしいというのが僕の本音だ。
□(118)

 こういう意見もきちんと載せるのが、いい。


@研究室
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by no828 | 2011-03-08 21:00 | 人+本=体 | Comments(0)
2011年 03月 08日

早い者勝ちという分配原理は支持できるか(※ この題名は本文とほとんど関係ありません)

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 昨日は雪と雨の中、某科研の会合で東京は下高井戸の某大学へ。会場に着くなり、何種類かの本が山積みされている。「ん?」と思っていると、H田先生から「早い者勝ち、好きなの持っていって」と、M寺先生からも「遠慮せずにいただきなさい」とのありがたいお言葉を頂戴する。ジョン・ロールズ『正義論』の新訳(→ 版元)、重田園江『連帯の哲学Ⅰ』(→ 版元)、立岩真也・齊藤拓『ベーシックインカム』(→ 版元)など、計7冊を頂戴する(交通費が相殺されてもまだ余りある金額分……)。

 そのあと研究会。発表は2テーマ。

 (1)現象学の世界認識と、ルソーの「一般意志」(「全体意志」ではなく!)とヘーゲルの「普遍的な福祉」(これは初耳!)とを綜合的モチーフにした、公教育の理論的正当化の方法論の彫琢。

 発表者の依拠するポイントはヘーゲルの「欲望」=「自由」で、“自分のため”から“みんなのため”に行けるのだという理路をきちんと確保するということにあったと思われる。しかし、「欲望」=「自由」がよくわからなかったため、つまりは何なのかにわたしの理解が追いつかなかった。ただ、このあたりは竹田青嗣や西研が繰り返し説いていることでもあり、問題意識や主張の方向性はよくわかった。やはり『法の哲学』は読んでおきたい。

 それから、発表者はロールズの立論の仕方を批判していたが(それが当たっているかどうかはさておき)、発表者自身もロールズと同様の議論の組み立て方をしているようにわたしには見受けられ、ロールズに対する批判はそのまま発表者自身に対する批判として再帰するとの印象を受けた。


 (2)グローバリゼーションの中の大学。

 このテーマで発表2件。日本の「大学」概念と英米両国のそれとの比較において生じる諸問題。それから、EUとフランスの高等教育政策の紹介。

 EUの方では、「補完性の原理(subsidiary principle)」が紹介されていた(これは別にEU特有の原理ではなく、一般的に使用されるもの)。基本的に教育政策は各国が行なう、各国でできないことのみEUで行なう、そういう意味での「補完」である。しかし、発表を聞いていると、補完性の原理が反転しているような印象を受けた(そういう質問をされた方も実際にいた)。つまり、高等教育政策については基本的にEUが行ない、EUができないところは各国に任せる、という逆転した補完性の原理が生成されつつあるのではないか、ということである。現象としてはおもしろい(むろんこれが可能なのは、高等教育だからこそ、EU域内労働市場の統一を目指すからこそ、であろう)。ただ、原理的には、国家に存するとされる教育主権の行方、また、EUの教育主権と各国のそれとのせめぎ合い、そうしたところが問題になる。


 18時終了予定が、19時前まで延長。懇親会には出ずに、下高井戸から岩本町まで電車で行き、そこから歩いて秋葉原へ。そこに巨大な某ブックオフがあるらしい、ということで行ってみる。が、全体的に狭いというか細いというか、それに中の空気もよくなかったので長居をせずに退却する(たぶんもう行かない)。そのままTX区間快速で帰路につく。本7冊を持っての移動はなかなかに大変であったが、それでもいただけたことへの感謝はまったく薄まらない。ありがとうございます、勉強します。


@研究室
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by no828 | 2011-03-08 13:52 | 日日 | Comments(0)
2011年 03月 05日

自分の目で現実を見て自分の足でその場所に立つしかないんだ——京極夏彦『陰摩羅鬼の瑕』

c0131823_1532788.gif18(340)京極夏彦『陰摩羅鬼の瑕』講談社(講談社文庫)、2006年。

版元


 百鬼夜行シリーズ第8弾。タイトルの読み方は、「おんもらきのきず」。本文1203ページ(!)。

 読みはじめてすぐに、この本のモチーフはドイツの哲学者マルティン・ハイデガーにあると思った。実際、読みすすめていくとハイデガーの名前そのものが出てきたり、解説が西洋哲学研究者でハイデガーについても書いている哲学者の木田元であったりして、やはりこの本の仕掛け作りにはハイデガーが絡んでいることがわかった。

 生と死、存在と非存在、亡くなると無くなる、……。この、ずれ。伯爵の論理は明晰、論旨も明解、しかし論理を構成する要素の意味が一般とはずれているのだ!

 ということの確信が中盤以降強くなり、結末も想像できた。どうかそれとは別の結末を、と願いながら読みすすめたが、裏切られることはなかった。


「死ぬと云うのは、場所との交渉関係が断たれると云うことでしょう。つまり此処から無くなると云うことです。何故なら——そう、先程私が申し上げた通りです。今、此処に在ることが生なのですから」
「だから非存在こそが死だと?」
「そうでしょう。違いますか先生」
 と、伯爵は問うた。
 いや。
 違う。
 伯爵は。
 間違っている。

□(34 原文傍点省略 以下同様)


 そもそも、世界的な文豪が執筆した名文であろうとも、無名の子供が書き殴った悪戯書きであろうとも、文意が汲める体裁になっている限り、そのもの自体の価値に変わりはない筈である。作品と、作者の社会的地位やら思想的背景やら、況〔まし〕てや人格性癖などは一切関係がない。誰がどのような意図の下に記したものであろうとテクストは常にニュートラルなものなのだ。
 作者の格が作品の質を決める訳ではない。作品の価値が作者の格を定めるのだ。
 そして——。
 その作品の価値を決められるのは、それを読んだ者だけなのである。
作品の価値は作者が決めるものでも世間が決めるものでもない。

□(45)

 読み手が決める、というのはそのとおり。

 私の理解する哲学という方法的態度は、過去のテクストを利用・転用し、自らの主張を補強することがある。しかしそれは、哲学史・思想史の方から見ると、単なる曲解・誤読にすぎないということにもなる。

 この引用文で言われているのは、前者の態度に近い。

 しかし、実際の学問の世界では、自らの主張に箔を付けるために大御所を引用したりその文献を注に挿入したりすることが多い。


「さっきも云った、亂歩さんが僕の小説を評した文章でね、亂歩さんは、探偵小説が殺人を扱うのは、探偵小説が単なるパズル小説ではない証しだ——と云うようなことを書いておられた。謎と推理のみに固執するなら何も人殺しを扱うことはないと、亂歩さんは云う。まあ、蓋し慧眼だと思うけれども」
 そうなのか——と、私は感心した。
〔略〕
「ああ、亂歩説ではね、要するに探偵小説の魅力の半ば以上が、世人が、経験することを極度に怖れながらも意識下に於ては却ってその経験を欲している所為ではないかと」

□(195-6)


「人殺しが一番怖いものが何だか——お前さん判るかい」
 木場は訝しげな顔をした。
「殺人者が一番怖がるのは、警察でも裁判所でもない。死体だよ」

□(296)

 そうではないのが今回の事件。


「願いが叶うか叶わないかは祈った者の努力次第なのです! 神様は願いを叶えてくれるのではなく、願いを聞いてくれるのです。何と有り難い!」
□(351)

 これは榎木津。

 神様は背中を押してくれるだけだとわたしも思う。


「〔略〕探偵としての榎木津さんを——大変失礼な話だが、見縊っておったようだ。所詮名家の御曹司が道楽でなさっていることと——」
「大変失礼ですね」
 道楽を嘗めていると榎木津は威張った。
道楽とは道を楽しむと書くのです。世の中には道は渋い顔をしていないと歩けないと思っている愚か者が多いが、それは大いなる間違いです
 道を楽しんで歩くことが出来ない無能な者どもが云い訳がましくそう云うことを云うのですと、無頼探偵は明朗快活に云った。

□(386)

 道楽で何が悪いか、ということか。これは、本文にも書かれてあったが、努力や我慢でもって道を究めようとする、つまりは渋い顔で歩んでいこうとする人たちを怒らせるには十分な考えだ。そういう人たちには、道楽は手を抜いているように見えるからであり、道楽でもうまく行っている人たちには(自分たちにはない)才能があるからだ、と捉えられることになる。

 わたしは努力や我慢の方の人間だが、しかし愉快に生きていきたいとは思う。


「そうでもありません。研究者と云うのは信奉者ではない訳ですから。対象と距離を置かなければ研究は立ち行かないのです。儒学的な思想には長い歴史がありますからね、本場である大陸でも大いなる変遷を繰り返している訳だし、様様な学派教派がある。朱子学だ陽明学だ、どれか一つに与していたのでは研究など出来ません。本邦でも同様です。山鹿素行と荻生徂徠では違う。戦前の、所謂忠君愛国の教えと云うのも、謂わばそのヴァリエーションの一つに過ぎない訳で、研究者であればそれだけを礼賛するような態度を執ることは出来ない訳です」
□(442)

 教育学では、研究者=信奉者のパターンがきわめて多いのではないか。とくに教科教育学の方では、自分の信奉するある人(思想家でも実践家でも)ある思想から、「教育」に活かせそうな考え方を抽出し、それを基盤に教育内容や教育方法を作り上げ、それを用いて実際に教育を行ない、“ほら、これはよい教育でしょう!”と言う。

 わたしはこういうことをする人たちを研究者だとは見なさない。研究者は自分の行なっている研究に対する疑義を常に持っていないといけないとわたしは考える。科学者は科学を信奉してはいけないと言ってもよい。もし信じるのであれば、それは研究行為ではなく宗教行為である。

 こういう話を学内や学会で展開しても大体において理解されないのが哀しい。というか、展開する機会自体があまりない。こういう話をしてもオーケーなのは、というか、聞いてくださるのは、H田先生やO本先生、外部ではM山先生など、実に限られている。


修行は大変な程面白いでしょう。辛い程愉しい
「うん?」
 そんな逆説的な物云いもあるのだ。大変な程面白い、辛い程愉しい——そう考えられたなら世の中には厭なことなどなくなってしまう。私は熟熟〔つくづく〕感心する。
「俺は勉強しなかったからなあ。学問ってのは苦手だったよ。だから学士様ってのは偉いと思うね。色色憶えて賢くなるのは若いうちだ。ものは知ってるに越したことはない」
 今更遅いがなあ、と云った。
いや、伊庭さん、学問つうのはものを憶えることじゃないんですよ。考える力を付けることです。物知りと学者は違いますね。学者には物知りが多いですが。判らんことを筋道立てて考えて、その考えが正しいのかどうか検証する。その過程で知識が必要になる。だから調べる。結果的に物知りになるんでしょうな
「ほう。じゃあ何だ、俺達が証拠固めに地味な聴き込みするのと変わらないなぁ」
「変わりませんね。地味です」
 学問も事件捜査も変わらないのか。
 そう云った。
 柴は、それはそうでしょうと云った。

□(454)

 大事なことが書かれている。学問とは考えることだ。論文とは考えた軌跡と結果を書くものだ。しかし、それらのことを理解していない人がわたしの周りの院生を含む研究者には多い。学問は教育事情を紹介することではない。論文はカタログではない。


 そうだねえ、と中禅寺は曖昧な返事をした。
「まあ方便と云えば方便でもあったのだろうが——ただ林羅山と云う人は、天才ではなかったかもしれないが飛び抜けた秀才ではあったし、努力家でもあった訳で、策士でもあったと思う。僕は嫌いじゃあないんだ。惺窩〔せいか 藤原惺窩〕に入門する時に提出した読書目録には四百四十冊もの書物が記されていたと云うし、一家を成してからも年間七百冊もの書物に目を通していたそうじゃないか。大体、明暦の大火で蔵ごと蔵書が燃えてしまって、それで落胆して死んじゃった訳だろう
 他人事じゃないなと云って中禅寺は笑った。

□(472)

 読む読む読む。勉強勉強勉強。


「教育勅語は近代化を急ぐあまりに西洋文化の模倣ばかりし、自国の文化を軽視するような世の中の風潮を懸念して作成された——と謂われています。要するに自由民権運動を煙たく感じた藩閥政府が、保守的な思想を正当化しようとした訳ですが——保守的と云ってもですね、これはまあどの辺が保守なのかと云うのが難しいところだった訳で」
「どう難しい?」
「ですから、徳川〔とくせん〕時代に逆戻りと云うのも困る訳でしょう」
「ああ、そうか」
「明治政府自体が革新ではあった訳だから。将軍を天子様に、武士を政治家に置き替えたのじゃいけない。いけないけれど、天子様を頂点に頂く国家の体制を天下に知らしめる必要はある。そんな訳で作る側としても一枚岩と云う訳には行かなかったんです」

□(497-8)

 あぁ、たしかに。


「彼は『存在と時間』にいたく感心したんだそうでね。僕は『ヒューマニズムについての書簡』なんかの方が好みなのだが」
「哲学に好みって何ですよ」
 柴は笑ったが中禅寺は真顔で、
僕の目の前に置かれた書物は僕にとって凡て等価なのだ。言葉と文字になってしまえば後は好き嫌い以外に価値基準はないよ
 と云った。

□(507)

 哲学も思想も、根本的には、好み、ということになるとわたしも思う。


 死は、存在者が絶対に体験出来ない唯一のコトなのである。存在者にとって死は、常に未来にしかない。それは予兆として認識する以外に、知りようのないものなのだ。
 鬼神が不可知なるモノであるのと同様、死は不可知なるコトである。
 死と対になる概念は生とされる。
 しかし私はそうは思わない。生は多くの下位概念を含む。しかし死はそうではない。
 死は厳然として且つ孤高である。私は、時こそが死と対になる概念として相応しいと考えている。
 私達は時間に関して何も知らないし、何も語り得ない。私達存在者は時間を客観的に捉えることが出来ないからである。
 客観的時間を体感することは不可能なのだ。

□(629)

 時間か……。


「どれを選ぶか、と云うことだと思います」
「選ぶ——のか」
「能く、世間の立派な人は未来は自分で選ぶんだと云いますけど——未来なんてものは選べないんだと思うんです。自分で決められるものじゃない」
「まあ——そうだろうな」
 未来を選ぶとはまた歯の浮くような台詞だ。人は流されるように生きている。自分の意志で泳いでいると思うのは驕りである。流れに棹さしてみても無駄で、遡ることなど出来はしない。そもそも。
 未来なんてものはない。
でも、過去は選べるんですよ、きっと
「選べるか」
どの過去を選ぶかで、今が変わる。今を一番良くする過去を——きっと京極堂は選ぶんです
〔略〕
「皆、思い込みを信じて自分勝手に生きてるだけなんです。なら思い直せば別の世界に行ける。過去なんてものは、もうないんです。未来がないのと同じように」
「ない——か」
 ないのだろう。
だから——今が大事なんだな
 今、生きて此処に居ることが大事なんだろと私は云った。

□(908-9)

 未来も過去も現在である——これはわかる、そう思う。選べるのは未来ではなく過去である——これはまだわかったとは言えない。


「俺はな、大鷹君。長いこと刑事やっててな、そりゃ大勢の死に際に立ち会い、大勢の死に様を眺めて来たよ。だがな、矢ッ張り死の実感はないよ
「ないですか」
「ないな。死人の生前を知らない。俺達が関わる死人の生前は全部、誰かの記憶か何かの記録で作られるもんだ。でな、実際に身の回りの知人ってのは、いつの間にか死んじまってるもんなんだ」
 息子も。
 同僚も。
 女房も。
 気が付くと死んでいた。
「女房だろうが子供だろうが、他人の死は実感出来ないよ。死ってのは——我が身に降り掛からないと解らないものなんだ、きっと。お前さんは若いから解らないだろうが、俺くらいになると」
 何時自分が死骸になるか。
 他人事じゃなくなってくるのよと云った。

□(930)

 わたしはこれまでふたりの祖父とひとりの祖母を亡くした。死ということは今でもよくわからないが、“これでもうじいちゃんと話をすることができないのだ、ばあちゃんと話をすることができないのだ”と思うと、哀しく、寂しく、なった。これは、祖父の死それ自体、祖母の死それ自体を哀しんでいるのではない、寂しがっているのではない。そうではなく、わたしはここで“もう2度と祖父母とわたしとが一緒に存在することはできない”ということを哀しみ、寂しく感じているのだ。祖父母が亡くなった、というよりも、祖父母とわたしとが一緒にいることができなくなった、そのことが哀しみ、寂しさの正体なのであろうと思う。

 ハイデガーの「共存在」とは、たぶん、そういうことを指すのではないか。


「あなた自身があなたの生の証拠です」
 京極堂はそう云った。

□(1081)


「家と云う世界を家長個人の意識内現象として捉えると云うこと——自意識を拡大し家族をその内部に物理的に取り込んでしまうこと——これがこの度の事件の動機であり目眩し〔トリック〕であり真相なのです」
□(1170)


 自分の目で現実を見て自分の足でその場所に立つしかないんだと——。
 私の友人はそう云った。

 とても厳しく哀しい口調だった。
「傷は——致命傷でない限り、手当てをすれば治るだろう。そして傷の手当ては他人にも出来るさ。でも手当てをしたって、それで傷が治る訳じゃない。本当に傷を治すのは傷を受けた当人だ。当人の肉体だ。傷は自分で塞がるものなんだ。手当てと云うのは傷を治す手助けに過ぎないし、時に傷を受けた時よりも痛いものだよ。治るか治らないか、それは当人次第だ。そこは他人には手出しが出来ない処なのだよ。それは君が」
 一番能く知っていることだろう。
 能く知っているさ。
 知っているけれど解らないんだ。

□(1182)


 京極夏彦の本には、一種の思想が紡がれている。京極は哲学者なのだと思う。

 そして京極夏彦——それに森博嗣——の小説は、「学問小説」とか「研究小説」とか、そういうジャンルを新たに立ち上げているとわたしは思う。

@研究室
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by no828 | 2011-03-05 18:28 | 人+本=体 | Comments(0)
2011年 03月 03日

スラム街の子どもたちの笑顔が眩しかった、でよいか

 開発や援助などに興味を持った一般の人びとが、あるいは、何らかのアピールを依頼された著名人が、いわゆる途上国に行くことがある。わたしも前者のカテゴリに属す者として過去にバングラデシュを訪れたことがある。

 そうした人びとが抱く感想のひとつの典型に、以下のようなものが挙げられる。

 幸福の規準はお金ではない。幸福の価値観は人それぞれだ。
 物質的に貧しくても、それは必ずしも不幸ということではない(物質的に豊かでも不幸な人が多い日本を見よ)。
 1日1ドル以下の生活を送る人びとを指して貧困だと言うけれど、彼/彼女らに悲壮感などまったくなかった。彼/彼女らはとても明るかった。彼/彼女らは貧しくなどない。人間の状態を貨幣というひとつの規準で計測すること自体が間違っているのだ。
 スラム街の子どもたちの笑顔が眩しかった。
 お金がなくてもたくましく生きる人びとの姿に感動した。
 幸せかどうかは、人それぞれの気持ちの持ちようなのだ。
 
 これらは、実はバングラデシュを訪れたある方の率直な感想である(参照したのは某省庁の某メルマガ)。わたしもこれらの感想自体を否定する気はない。しかし、これらが言説として流布していくと、そこには問題が生まれるように思われる。

 どういうことか。

 上掲の感想では、「幸福度」と「所有貨幣量の多寡」とが切り離される。つまり、お金を持っていなくても幸せにはなれるのだし、逆にお金を持っていても幸せになれないこともある、要はお金を持っているか持っていないかではなく、当人の前向きな気持ちが大切なのであって、それこそが幸せであるための条件なのだ——と、こういうことになる。

 この論理はかなり容易に、それならばお金がなくても大丈夫だ、開発や援助は必要ない、お金がなくても幸せなのだから、彼/彼女らの価値観はお金を重要視していないのだ、というところに行きやすい。

 しかし、お金は生きるための大切な手段である。そして、生きるための大切な手段としてのお金という位置価は、グローバリゼーションによって広く共有されるようにもなっているのではないか、と思われる(ここはあくまで「思われる」の範囲を逸脱しない)。

 これは貨幣社会に生きるわたしの捉え方にすぎないのかもしれない。少なくとも日本社会は貨幣社会である。貨幣を持たない者が生きることは困難な社会である。

 そのような日本社会とは異なり、貨幣がそこまで浸透していない非貨幣社会、亜貨幣社会、あるいは未貨幣社会も世界には存在しているかもしれない。むろん、ここでの「社会」の範囲は国境で区切られた空間ばかりではない。それよりももっと小さな単位を見つめれば見つめるほど、貨幣社会ではない社会のありようが見えてくるかもしれない。

 だが、バングラデシュの少なくとも首都ダッカは、貨幣がなくては生きにくい社会であろうとわたしには感じられる。わたしは通りで何度も貨幣を求められた。もちろん、わたしの限られた経験は不十分な根拠にしかならない。しかし、わたしの感触それ自体は事実であり、その感触は上に掲げた感想と論理的には等価である。

 また、このようなわたしの感触には、開発や援助ではなく、自ら働くことで発展していくことが望ましいと考えている途上国ベースの起業家・企業家の方々も共感するのではないか。なぜならば、彼/彼女らも商品の対価として貨幣を受け取ることを前提・条件にしているからであり、それはつまり貨幣のあることが個々の人びとの労働を介した人間的・社会的な発展の礎になると考えているはずだからである。

 このように考えてくると、お金がなくても幸せになれる、という判断は、ある程度のお金がないと幸せになるための条件が整備できない、という(仮定的)事実を捨象することになりかねない。大切なのはお金ではなくて気持ちなのだという意見は、実はお金がないと生きられない・生きにくい社会に存在する人びとを——強い言い方をすれば——見捨てることにもつながりかねないのである。

 これら大別して2つの見方に共通する態度、すなわち“外部”からあなたは幸せだとか、いや幸せではないとか、そのように判定を下すことそれ自体の妥当性も問われなければならない。これは、幸福は主観的にしか評価できないのか、それとも客観的にも可能なのか、という問題でもある。わたし自身は後者の余地を残す方を支持するが、それでも外部から「あなたは自分では幸せだと言っているが、“本当は”不幸なのだ」とか、逆に「あなたは自分では不幸だと言っているが、“本当は”幸せなのだ」とか、そのようにして断じることは支持していない。ただ、人間の主観とはきわめて曖昧なものであり、だからこそ操作可能なものであり、それゆえに主観にすべてを委ねる方途は採りたくない。

 最後にやや跳躍してしまった感があるが、つまりは“彼/彼女らはお金がなくても幸せなのだ、子どもたちの眩しい笑顔を見てみなさい”という言説は“彼/彼女らはお金がなくても大丈夫だから放っておけばよろしい”という言説に容易に転じうるのであり、そこには注意を払う必要があるのではないかということなのである。


@研究室 
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by no828 | 2011-03-03 21:31 | 思索 | Comments(6)