思索の森と空の群青

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2011年 04月 30日

『こんな夜更けにバナナかよ』のカバーの秘密

 本日2投目。

 以前に44冊目で紹介した(→

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渡辺一史『こんな夜更けにバナナかよ——筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち』(北海道新聞社、2003年)


 に触れる機会があった(版元)。

 何気なくカバーを外してみると、カバーの裏にも文字が……。読んだときにはまったく気付かなかった。

 昨日、こんなコメント(→ )をしていたわけですが、やっぱりあるんですね。

 ちなみに、というのも変ですが、この本はとてもよい本です。人に寄り添うことばが綴られています。ぜひ読んでみてください。


@研究室
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by no828 | 2011-04-30 16:29 | 人+本=体 | Comments(2)
2011年 04月 30日

美人が自分に優しく微笑んだとしてもそれで好意を寄せていると決めることはできない——森博嗣『魔剣天翔』


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28(350)森博嗣『魔剣天翔 Cockpit on Knife Edge』講談社(講談社文庫)、2003年。

版元




 Vシリーズ第5弾。

 ここでの本の記録と紹介も、350冊になりました。この「人+本=体」のカテゴリとエントリを愉しみにしていてくださる稀有な方がふたりぐらいはいらっしゃるであろうと思っています(ひとりは学友)。お付き合いくださり、どうもありがとうございます。

 350冊の非学術書の読書録を記してきたということは、このブログをはじめてから350冊の蔵書が増えたということであります。それ以前に購入し、読んだものも同じくらいあり、また、買ったのに読んでいないものも少々あり、わたしのアパートの部屋には、おそらく800冊ほどの本があります(同じかそれ以上の学術書が研究室にあることもわたしの名誉のために付け加えておきます。小説ばかり読んでいるわけではないのですっ!)。それが先月の大地震で本棚(=カラー・ボックスの複合体)ごと倒れ、棚は壊れ、本が散乱しました。“どうせまた地震で倒れるんでしょ”と、本たちは引越用の大きな段ボール2個に入れ、机上に積み、床に積み、という状態です。本棚はまだ購入していません(安くない買い物です)。どのタイミングで買うか、悩ましいところです。

 さて。


 さて、問題を解く場合は、このように、何故、何故、とひたすら理由、原因を究明していく方向が、通常の筋道、手順であろう。しかし、これとは逆に、原因を仮定し、また、それが作用するシステムの仕組みを大胆にモデル化し、もしそれらに従えば結果はこうなるはずである、といった数々のシミュレーションを繰り返すアプローチが存在する。いわゆる、逆問題、あるいは逆解析と呼ばれる手法だ。この場合、それらの分析から得られた結果と実現象の比較が行なわれ、見かけ上それが一致していれば、仮定した原因およびシステムが正しいのではないか、と推定できる。もちろん、原因と結果は必ずしも一対一に対応しているわけではないので、ただ一つの事例だけで、仮定した原因やシステムのモデルが正しいと決めつけることはできない。他の理由で、あるいは他の作用で、たまたま同じ現象が現れることがあるからだ。推論が間違った結果を招く場合(たとえば、人が勘違いでちょっとした思い込みをしてしまうようなときなど)、その誤解が生じるメカニズムは、単純な計算ミスを除けば、この逆解析に包含される根本的なジレンマに起因している、といって良いだろう。
 話が難しくなったので、簡単な例を挙げよう。
 目の前の美人が、自分に優しく微笑んだとしても、それで、単純に好意を寄せていると決めつけることはできない。別の目的(原因)で彼女は微笑んだのかもしれないし、それとも、目的もなく微笑むような仕組みを(彼女が)持っているのかもしれない。さらには、そのとき一瞬だけの好意だった、という可能性もある。

□(17-8)

 思考法というか、思考の枠組みというか、そういったものに無頓着な院生がわたしの周りには多すぎる気がする。なぜそういう結論になるのかよくわからない、それはただあなたの気持ちでしょ、そういう発表が多い。


 何についてもいえることだが、上っていくものの後ろ姿は綺麗だ、と七夏〔ななか〕はふと思った。おそらく、「羨望」という言葉のイメージが、この角度、この構図なのだろう。
□(144-5)


 地下鉄を降り、雑踏の中を流れに逆らわずに歩く。小学校の体育の時間に、この人混みを滑らかに歩く技術について、是非とも教育してもらいものだ、と彼は常々思う。少なくとも、鉄棒や跳び箱よりは、ずっと社会で役に立つだろう。
□(311)


@研究室
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by no828 | 2011-04-30 16:10 | 人+本=体 | Comments(0)
2011年 04月 29日

泣かなくなったのは味方がいないとわかったからか。そう思うと涙が出そうに——森博嗣『夢・出逢い・魔性』


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27(349)森博嗣『夢・出逢い・魔性 You May Die in My Show』講談社(講談社文庫)、2003年。

版元




 休憩中。本日2投目。Vシリーズ第4弾。


 自分よりもずっと躰の大きな奴と喧嘩をした。ブランコの取り合いだったが、否、そのまえに、もっといろいろなことがあったのだと思う。記憶はいつだって、一番肝心の原因は隠蔽してしまう。揺れているブランコに飛びついて、相手を振り落とした。頭にブランコが当たって、今まで聞いたことのない低くて近い音を練無は聞いた。それから、どうなったのか、よく覚えていない。ただ、怪我をして血塗れになった練無を見て、相手は怯んだ。逃げ出した。
 彼は泣かなかった。
 今でも、前髪を上げると、そのときの勲章が額に残っている。
 きっと、姉のどちらかが近くにいたら、泣いていただろう。
 味方がいる方が弱い。
〔略〕
 右手があると思うから、左手が弱い。
 味方がいる方が弱い。
 人は、そういうふうにできている。
 泣かなくなったのは、
 味方がいないことが、わかったからだろうか。
 そう思うと、涙が出そうになる。

□(251-2)


「ああ、緊張するなあ」紫子が言う。「日本の夏、緊張の夏
「それ、緊張している人が言うこと? オヤジだよねぇ」
「え、どうしてオヤジなの?」紅子が真面目な顔できいた。

□(306)


 私の周りでも、みんなそうですよ。どんな仕事に就いても、どんな人間とつき合っても、やっぱり、自分に都合の良い目標を近場で適当に見つけて、それに集中して、それに逃避して、それが自分の夢なんだって、思い込もうとするんです。人間ってそういう生き方しかできないんですよね。
 自分はエリートだ。自分はキャリア・ウーマンだ。自分は才能豊かなアーティストだ。ただ、そう思い込んだ人が勝ち。誰だって、他人のことを真剣に気にはしてはいませんから。自分で自分はこういう者だと名乗れば、世間ではもう簡単にそれで通用してしまうんです。自分で自分がどういう人間かを決めて、それを宣言して、実際にも、そうなっていく。違いますか?
 私はそう思いますよ。
 上手くいかない人間は、途中で、上手くいかない、と自分で決めたのです。

□(330)


 この、「かぶる」という表現は、伊藤自身が口にしたものだった。自分は、いろいろな人をかぶることができる、と彼女は話した。小さいときから、友達をかぶり、先輩をかぶり、自分の好きな人をかぶる。
 かぶっているときは、とても幸せだ。
 でも、かぶりものは、いつかは破れてしまう。
 彼女はそう語った。

 破れないような、丈夫なかぶりものが欲しかった。
 ずっと、かぶっていられるように、
 死んでも、それが破れないように、
 したかった、という。

〔略〕

 いずれにしても、人ほど、自分の皮膚を不安に感じる動物はいない。人は服を着る。そのうえ部屋に籠もる。家や城を築く。塀や城壁で取り囲む。さらには、村を作り、国を作る。
 そうして、社会というシールドを構築し、常に、その綻びに目を光らせ、直し続けるのだ。
 それが、人間という動物だろう。
 幾重にも及ぶかぶりものを一生脱がないまま、生きていこうとする。

 最後には死装束に棺桶。
 この歴史は何千年も変わっていない。

□(413-5)


@研究室
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by no828 | 2011-04-29 19:42 | 人+本=体 | Comments(0)
2011年 04月 29日

意見というのは、すべて個人的なものです——森博嗣『月は幽咽のデバイス』


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26(348)森博嗣『月は幽咽のデバイス The Sound Walks When the Moon Talks』講談社(講談社文庫)、2003年。

版元




 Vシリーズ第3弾。タイトルにある「幽咽」は「ゆうえつ」。


「ああ、ええ、ええ」紅子は頷いてくすくすと笑った。「それそれ、もちろん、知っていますとも。月夜のバンパイアでしょう?」
 やっぱり知っている。篠塚邸のことになると、もうその話しかない、といって良いくらい有名なのだ。何が根拠でそんな馬鹿げた噂話が広まっているのか不明だが、そもそも噂話というものは、荒唐無稽なほど伝播が速い。広まるほど、ますます荒唐無稽に磨きがかかる。
「どなたから聞かれたんですか?」
「莉英さん本人からよ」
「え? そうなんですか……」美紗も調子を合わせて微笑んだ。そうか、本人の耳にも入っているのか、と彼女は思う。当然かもしれない。「どうしてあんな話が広がったのか知りませんけど、でも、皆さんご存じなんですよね。いったい何が原因なんでしょう?」
「さあ……」紅子は首を傾げた。
火のないところに煙は立たないって言いますけど……」美紗は思い切って言ってみた。少し失礼だったか、と思いつつ。
完全燃焼すれば、煙は立ちませんけれどね」紅子は言った。

□(28)


「偶然ですって?」紅子は片目を細くして保呂草を睨む。「まあ、素敵な偶然だわ」
偶然のうちの半分は、人の努力の結晶です」保呂草は素っ気なく言う。
素敵な努力だわ
「わりと、努力するのが好きなんです。ええ、どういうわけか。子供の頃から、お前は努力家だってよくお袋に言われました」
「素敵なお母様だわ」
「紅子さん、やめて下さいよ」

□(59-60)


「そう」七夏〔ななか〕は頷く。「つまり、そうなると、鍵がかかっていたとは、とても信じられない、という結論に行き着く。いえ、これはあくまで個人的な意見ですけど
意見というのは、すべて個人的なものです」紅子はまたシートにもたれかかったようだ。声が遠くなった。

□(208)

 そのとおり。私見だが、「私見ですが」や「個人的には」ということばをわざわざエクスキューズのように発言に付属させる必要はない、と個人的には思う。自分でも使ってしまうことがあるが、他人が使っているとすごく気になる。「あなたが発言している以上、それは「個人的な意見ですが」とか言わなくてもあなたのものなんですよ」と思う。その人が発言している以上、それはその人の発言なのであって、他の誰のものでもない。それは明らかである。もちろん、その人が別の誰かの意見を紹介することもある。しかし、その意見をそこで紹介することにしたのはその人であり、別の誰かではない。その意味において、そこでの発言・意見はその人のものである。

 ま、組織が関わると面倒くさいことになるのだが。組織としてはこういう見解だが、しかしそこに所属するわたしはそういう見解ではない、とか。


@研究室
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by no828 | 2011-04-29 13:11 | 人+本=体 | Comments(2)
2011年 04月 28日

人の形こそが神から魂を授けられる条件であるという観測、信念、あるいは錯覚——森博嗣『人形式モナリザ』

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25(347)森博嗣『人形式モナリザ Shape of Things Human』講談社(講談社文庫)、2002年。

版元




 Vシリーズ第2弾。


 ぬいぐるみでさえ同様に感じられた。彼女はそれがとても恐かった。動かないことが恐かったのである。しかしそれも、成長し大人になるにつれて違和感は消えていった。今では人形もぬいぐるみも決して嫌いではない。
 おそらく、人間が生来持つ本能的な感覚が麻痺したのだろう、と彼女は考えている。子供のときに持っている鋭敏さの多くは、蒸発するように失われる以外に行き場がない。そもそも社会の価値観とは、そのような麻酔的な機能のためにある。逆に、それを意図して社会が構築されている、といっても過言ではない。
 失われることは、悪いことではないのだ。
 削り取られて、そこに形が現れることだってある。
 万が一にでも、美しい形が生まれることがあれば、尚更だろう。
 その希望こそが、生きる動機ではないか。
「私の家にも、以前、これと似たものがありました」紅子は隣の大河内に囁く。彼女が指さしたのは、頭部がセラミックの西洋人形だった。「顔がとてもよく似ているわ。もしかして、うちにあったものではないかしら」
 紅子は顔をさらに近づけて、その人形を凝視する。
「手放されたのですか?」
「はい、少しでも価値のあるものは全部持っていかれてしまいましたの」紅子はそう言って振り返り、微笑んだ。「だけど、本当に価値のあるものは、誰も気づきませんでしたわ」

□(56-7)


 人の形、動物の形を真似て、人形は作られた。それが最初である。そこに、生命に近い存在が宿る、と太古の人々は夢想したのであろう。自然な発想といえる。
 つまり、人の形こそが、神から魂を授けられる条件である、という観測、信念、あるいは錯覚なのである。何故なら、形が維持できなくなったときに、確実に生命が失われることを、彼らは、仲間や動物たちの死を観察して知っていたからだ。ギリシア彫刻を見ても、いつもその手の幻想を紅子は感じる。
 以来、人間は金を造り出そうとしたのと同様に、生命の創造を模索した。これも当然の欲求だろう。おそらくは、科学を育てた動機の何割かがここにある。

 生命とは何か?
 動くことなのか?
 動くとは何か?
 エネルギィ変換なのか?
 機械の多くは、道具の延長で構想されたものだ。しかし、そうではなく、生命への羨望で発想された機械も存在する。むしろ、そちらの方が「機械」と呼ぶに相応しい、人間の夢だったといえる。すなわち、動物の代わりに、人の代わりに、動くこと、働くこと。その実現が人類の夢だった。自分たちが働きたくなったのではない。楽をしたかったのでもない。それ以前に、もっと純粋で子供じみた興味が存在しただろう。ただ、自分たちに似たものを見たかった、作りたかっただけだ。
 ここに、形を越えた人形へのアプローチがある。
 操り人形のように、最初は外部からコントロールされたものが、やがては内部に動力を持つ機械へと発展する。それは、外部の生命を内部に封じ込める行為であり、すなわち、個としての「独立」そして「生」への願望に他ならない。
 自分が作ったのものが、自分の手から離れても作動する。自分の力が切り放されて、独立した生を持つ。生まれるという意味がそこにある。これが、神に少しでも近づいたという夢を人間に見せる。永遠への一瞬の幻想を与えてくれる。

 現在、最高の人形とはコンピュータである。人に最も近い機械だからだ。人を真似ることが、この機械を作り出したのだから、当然である。
 人の形に魂が宿る、と最初は考えた。
 それが、いつの間にか、この形が失われる。
 さて、「形」とは、何か?
 人形とは、何だろう?
 紅子はぼんやりと考えながら、その展示室を出た。

□(57-9)


@研究室
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by no828 | 2011-04-28 16:14 | 人+本=体 | Comments(0)
2011年 04月 27日

理由さえしっかりしていれば、殺人を犯しても良いのか?——森博嗣『黒猫の三角』

c0131823_15285427.gif24(346)森博嗣『黒猫の三角 Delta in the Darkness』講談社(講談社文庫)、2002年。


版元


 Vシリーズ第1弾。Vは、S&Mシリーズで言うところの犀川創平と西之園萌絵にあたる登場人物(主人公?)、瀬在丸紅子(せざいまる べにこ)の Venico の頭文字。

 例によって、ミステリィの本筋に関係なく、引用します。

 あ、これは文体の問題ですが、このシリーズでは「何々をする誰々である」という表現がよく採られています。「誰々は何々するのである」ではなく、「何々をする誰々なのである」。これにどうも“わざとらしさ”を感じてしまい、出くわすたびに引っかかってしまいます。



遊びで殺すのが一番健全だぞ」紅子はこともなげに答える。「仕事で殺すとか、勉強のために殺すとか、病気を直す〔ママ——治す〕ためだとか、腹が減っていたからとか、そういう理由よりは、ずっと普通だ」
「お嬢様、それはお言葉が過ぎます」
「では何か? 宗教的な儀式だとか、復讐に燃えるといった恨み辛みがあれば、それで正義だとでもいうのか? 復讐ならば正義か? 理由さえしっかりしていれば、殺人を犯しても良いのか? もしそうならば、殺人の許可証を区役所で発行してはどうだ?」
「少なくとも、人情的には理解できます」
「馬鹿馬鹿しい! 理解などして何になる」紅子は面白そうな表情で機千瑛を睨みつける。「殺人者の心境を理解して何が嬉しいのだ。何が得られる?」
「嬉しいのではなく、我々一般人の想像の範囲内であった、ということで、まあ、一応は納得ができる、と申しますか、安心するわけですな」
「何を馬鹿なことを……。殺人者の心境が想像の範囲内であることの方が不健全ではないか。それでは、自分もいつか人を殺したくなるかもしれない、と思って落ち着けるというのか? それよりは、遊びで殺した、全然理解できない、で済ませる方が私は安心だ。〔略〕」

□(47-8)

 これは去年の暮れから考えていることと重なる。理由がしっかりしていれば、何をしてもよいのか? 「まぁ、それなら仕方がない」と思われるような理由付けさえすれば、何をしてもよいのか? 主張と理由の関係、行為と理由の関係、……。主張のみ、行為のみを理解する、納得するということはほとんどない。なぜ、そのような主張をするのか、なぜ、そのように行為するのか、まさに理由があってはじめてわたしたちは他者の主張や行為に理解や納得を覚える。したがって、大切なのは主張それ自体や行為それ自体というよりもむしろ、それを支える理由なのではないか、とも考えられる。すると、理由にさえ共感が得られれば、主張や行為の内容は問われなくてもよい、何を言っても、何をしてもよい、という極端なところまで持って行かれかねない。


「理由は必ずある」紅子は頷きながら言った。「ただし、その理由が、言語として他人に伝達可能かどうか、あるいは、たとえ伝達可能であっても、他人の共感を得られるかどうか、という問題が残るだけなの」
□(185)


 不自由?
 よくわからない言葉だな、と練無〔ねりな〕は思った。
ね、どうして、不自由っていうのかな?」歩きながら練無はきいた。
「何ゆうてんの、君」紫子〔むらさきこ〕がこちらを向いて目を細める。
「どうして、非自由じゃないんだろう」練無は考えながら、言った。「名詞なら、不、じゃなくて、非、がつくはずでしょう? 自由って、最初は動詞だったのかな」
「どうでもいいことを」紫子が鼻息をもらす。「よくそういう、どうでもええことを思いつくなぁ」
「不思議だと思わない?」
「うーん。ま、私の解釈としては……」紫子が微笑む。「きっと、昔の日本にはなかった言葉なんよ、自由って。だから、使い方がようわからんうちに、広まってしもうたん」

□(327)


「〔略〕やむにやまれず犯した殺人っていうのは、情状酌量の余地があると思う」
「ある……」紅子は頷いた。まるで、練無がその意見を口にすることを予期していたかのようなレスポンスだった。「確かに、社会の理解を得て、刑が軽くなるような殺人が存在するみたいだね。けれど、それは、逆に見れば、つまり、死刑と同じで、人が人を裁いていることになるのだよ。そういった殺人を認めることは、正義のためなら戦争を許容し、正義のためなら死刑を許容することへ進む可能性がある。正義という名前の理由さえあれば、人を殺しても良いことになる。その理由がないものは駄目だ、という理屈になる。では、正義って何だい? 理由とは何だい? たとえば……、そう、正当防衛は許されているよね? 自分が殺されそうになったら、相手を排除できる。抵抗しても良いことになっている。ところが、それは物理的に不可避な場合だけで、精神的な攻撃には適用されない。精神的にどんなに痛めつけられても、相手を殺してはいけないことになっている。これ、どうしてだと思う? 人によっては、精神的な攻撃の方が耐えられない、という人格だってあるんじゃない? その答は簡単。つまり、精神的なダメージが測れないから。定量的に観察できないから。すなわち、躰なら怪我が見えるのに、精神の怪我は見えない。ただそれだけの理由です。そもそも、人間の作り出したルールなんて、まだその程度のレベルなんだ」紅子は腕組みをして、天井を見上げる。「テレビの時代劇なんか、主人公が悪者を切り捨てるけれど、あれも殺人だよ。あれは、正義かな? 大衆は、良い殺人と悪い殺人がある、なんていう作りものの価値観を見せられて、それを信じている。完全な妄想。完全な洗脳。とても大きな間違いだと私は思うな。危険な思想だとさえいって良い」

□(349-50)


「答は簡単よ」紅子はにっこりと微笑んだ。「私は、自分が殺されたくないからです。それ以外に理由はないわ。私はもう少しやりたいことがあって、もう少し生きていたい、という極めて個人的な希望を持っているの。勝手で我儘だけど、そうなんだからしかたがないわ。つまり、それだけ。それだけなのよ。だから、その、美しいかもしれない殺人を、私は認めるわけにはいかないの。それは、私のエゴです。私が殺されなくないから、みんなも殺さないで、という自分に都合の良いことを主張しているわけ。そのエゴが集まって、社会のルールを作っているだけのことなんだ。これは、正義でもなんでもないわ
□(353)

 「殺されたくない」という自己の欲求から「殺してはいけない」という他者への禁止に行けるのかどうか、ということを以前まじめに考えていた。

 社会契約説。

 もうすでにそこに「ある」のではなく、「作る」。


「うーん」保呂草〔ほろくさ〕は上を向く。「そもそも、人殺しって、何なんでしょうね?」
「何かしら……」
「僕は、それが知りたいな。人を殺してはいけない、ということになっているけど、でも、虫や植物は殺しても良い。意味もなく殺しても罪にならない。魚や鳥、牛や豚も殺されますね。じゃあ、人間はどうか……、日本だけで一年に何万人もの人が自殺しています。事業に失敗して、受験に失敗して、恋愛に失敗して、人は自殺する。それはつまり、誰かが成功したからではありませんか? 人は人を蹴落として這い上がろうとする。良い成績を取り、良い業績を上げ、人より得をし、人よりも幸せになろうとする。それで、敗れた者のうち何人かは、死んでいく。そうじゃありませんか? だとしたら、僕らは誰だって、知らず知らずのうちに、間接的に他人を殺していることになる。誰も殺さないでいたいのなら、勉強をしたり、仕事をしてはいけない。お金を儲けたり、得をしてはいけない。幸せになってはいけないことになる。戦争みたいな単純でわかりやすい人殺し以外にも、同じような殺し合いは、日常的に行われている。そうじゃありませんか?
「だから、人を殺しても良い、とおっしゃりたいのかしら」紅子はゆっくりとした口調で尋ねた。
「いいえ、違います」保呂草は首をふる。「人類という種族が繁栄するために、仲間どうしの直接的な殺生を慎むようなルールを決めた。それはそれで合理的な考え方、つまりは、省エネルギィの一環として評価できます。モラルとか、そういう馬鹿みたいな価値観で論じようとは思いませんけどね」
「私も、そう思うわ」紅子は顔を上げて優しく微笑んだ。
沢山の固定観念が作られる。どんどんどんどん、その固定観念で人間は鈍化していく、それが歳を取るってことだ。何故か? それが一番安全で、楽ちんだからです。〔略〕」

□(373-4)


「貴方は理由もなく人を殺した。理由がないことが美しいことだとおっしゃった。それなのに、次々に、自分の行為を正当化する理由をお話しになっています」
そう、それが、言葉の使命なんです。言葉の宿命なんですよ。あとからあとから湧いてくる、汚らしいばい菌みたいなもの、それが、言葉というやつです。言葉は、理由という飴に群がる蟻みたいなものなんです。遠くから眺めると、大きな生きものが動いているみたいなのに、実は、馬鹿みたいに単純な、小さな卑しい存在に過ぎません。ただただそれらが集まって、繰り返し歌われる。蟻の集合に過ぎない。けれど……、それが、実に面白い。そうですよね? こうして、言葉をやり取りすることは、非常にスリリングです。〔略〕」

□(401)


〔略〕その行為は、許容できるものではない(私には許容できない、という意味だ)が、その動機を、肯定したり、否定したりすることは、ナンセンスだ。動機は自由なのである。いかなる動機にも罪はない。
□(447)


@研究室
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by no828 | 2011-04-27 17:06 | 人+本=体 | Comments(0)
2011年 04月 26日

彼らには彼らで殺しあってもらう。わたしたちの世界には指一本触れさせない——伊藤計劃『虐殺器官』(後)

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23b(345b)伊藤計劃『虐殺器官』早川書房(ハヤカワ文庫JA)、2010年。
※ 単行本は2007年に早川書房より刊行。

版元




 後半行きます。


「終末医療に関する意志が不明であり、宗教をお持ちでない以上、お母様の治療を継続するか——はあなたに決めていただくしかありませんね」
〔略〕
 だれか、決めてくれてないんですか、とぼくは言った。正直に言うと、涙声だったと思う。ぼくは怖かった。そんな灰色の領域を放置しておいて、いまごろぼくに決断を押しつけるだなんて、医学はいったいなにをやっていたんだ、と思った。
 もちろんそれは医学の責任ではなかった。たぶんそれは、哲学の仕事のはずだ。けれど、腹の立つことに哲学にとってテクノロジーは重要な要素ではなかった。テクノロジーが人間をここまで分解してしまっているのに、哲学はいまだ知らんぷりをきめ〔ママ〕こむばかりだった。
 ぼくは決めたくなかった。いままで多くの人間の生死を決め〔ママ〕ておきながら、ずいぶんと身勝手な話なのはわかっていたが、それでも実際に愛する人間の生き死にを決めてくれと言われれば、うろたえるしかない。脳死、という言葉で白黒がついた時代はまだ、幸せだった。生と死のあいだに、これだけ曖昧な領域が広がっていることなど、誰も教えてはくれなかった。

□(199)


「でも、ぼくのなかに女性を強姦してしまう遺伝子があったとして、きみをめちゃくちゃにしてしまったら、それは遺伝子のせいじゃないのかい。ぼくが子供のころ虐待を受けて、その結果、愛情や利他行為というものの価値をじゅうぶん認識できなくなって、シリアル・キラーになってしまった場合、それは育った環境のせいじゃないのかい」
「それは違うわ。人は、選択することができるもの。過去とか、遺伝子とか、どんな先行条件があったとしても、人が自由だというのは、みずから選んで自由を捨てることができるからなの。自分のために、誰かのために、してはいけないこと、しなければならないことを選べるからなのよ
 ぼくはルツィアの顔を見つめた。どういうわけか、ものすごく救われたという思いにとらわれた。自分がしてきたことが肯定されたわけじゃない。自分がしてきたことの罪が消えたわけじゃない。
 ただ、自分がそれらを選んできたということを、誰かに罪を背負わされたのじゃなく、自ら罪を背負うことを選んだのだ、ということを、ルツィアが教えてくれたからだった。
「ありがとう」
 ぼくは言った。ルツィアは黙ってそれを受け止めてくれる。

□(207-8)


「人間がどんな性格になるか、どんな障害を負うか、どんな政治的傾向を持つか。それは遺伝子によってほぼ決定されている。そこに環境が加えられる変化となると、ごくわずかだ。すべてを環境に還元して、人間の本質的な平等を謳う連中はいる。わたしだって、人間は平等だと思うし、平等な社会を築くこと、遺伝子の命令を超えた『文明』をもつことができるのが、人間という存在であると信じている。だがわたしたちの可能性やそれにともなう責務と、結果を説明するための科学を混同してはいけない。すでに起こってしまったことに対する原因はあるし、それに対する生物学的、脳化学〔ママ〕的な説明もあるのだよ。きみはまず、自分が遺伝コードによって生成された肉の塊であることを認めなければならない。心臓や腸や腎臓がそうあるべき形に造られているというのに、心がそのコードから特権的に自由であることなどありえないのだよ
□(215)


「われわれカウンセラーがしているのは、あなたがた兵士を戦闘に適した感情の状態に調整することです。戦場での反応速度を高め、判断に致命的な遅れをもたらしかねない倫理的ノイズが意識レベルに這い登ってこないよう、目の細かいフィルターを脳内に構築する。まあ、フィルターというのは喩え話で、実際は前頭葉の特定の機能モジュールへのマスキングと、われわれ軍事心理士によるカウンセリングの、相互作用による感情調整過程ですが」
 倫理的ノイズ。確かに戦場において、度を越した倫理道徳の類は致命傷になりうる。感情とは価値判断のショートカットだ。理性による判断はどうしても処理に時間を要する。というより究極的には、理性に価値判断を任せていては人間は物事を一切決定することができない。完全に理性的な存在があったとして、それがすべての条件を考慮したならば、なにかを決めるということ自体不可能だろう。

□(257-8)


「たとえば、ハリケーンの被害者に寄付を送ろうという呼びかけに比べて、目の前に血まみれで倒れている人間を助ける場合のほうが、善悪の判断にまつわるモジュールと、特定の情動に関わるモジュールの反応は圧倒的です。当然といえば当然ですが、人間は目の前に事態に対してより強く、感情的に判断を下すのです。寄付という行為は理性的な判断にすぎません。人間の行動を生成する判断系統は、感情によるラインが多くを占めているのです。理性はほとんどの場合、感情が為したことを理由づけするだけです」
□(263)


 となると、ローマ規程や人権問題が障害になって、一見インド復興に積極的に参加していないように見えるアメリカも、ユージーン&クルップスを通じて影響力を及ぼすことができる。国軍を送らずに、民間軍事企業〔PMF〕を投入することによって。ユージーン&クルップスにインドの警備活動を発注しているのは日本政府をはじめとする国連インド復興計画だが、それを受けているのはほかならぬアメリカ企業というわけだ。
□(274)


 自由とは、選ぶことができるということだ。できることの可能性を捨てて、それを「わたし」の名のもとに選択するということだ。
□(354)


ご主人はよくやっていると思います。ご主人の書いたラジオ放送のスピーチを聞いていると、ぼくらががんばれば、この国は貧困からも、エイズからも救われて、そう遠くないうちに湖に魚が戻ってくるんだ、という気にさせられる。筋肉を輸出してお金をたくさん増やしながら、前世紀の初めのように、湖でとれる魚を食べて幸せに暮らす。そんな生活が手に入れられるように思えるんです。工場から出たイルカや鯨の内臓を食べてしのぐ女の子たちも、きっと学校に入れるようになって、あんなゴミ漁りをしなくていいようになる、って。がんばれば明日は昨日よりもっと良くなる、って信じさせてくれるんです。ああいう文章を書ける人は、きっと素晴らしい人に違いないから
□(358)


「人々は個人認証セキュリティに血道をあげているが、あれは実はテロ対策にはほとんど効果がない。というのも、ほんとうの絶望から発したテロというのは、自爆なり、特攻なりの、追跡可能性のリスクを度外視した自殺的行為だからだ。社会の絶望から発したものを、システムで減らすことは無理だし意味がないんだよ
「ルーシャスも言ってたわね」
わたしは考えたんだ。彼らの憎しみがこちらに向けられる前に、彼ら同士で憎みあってもらおうと。彼らがわれわれを殺そうと考える前に、彼らの内輪で殺しあってもらおうと。そうすることで、彼らとわれわれの世界は切り離される。殺し憎しみあう世界と、平和な世界に
 憎しみの矛先が、いまにもG9に向かいそうな兆候のある国を見つけ出す。
 自分たちの貧しさが、自分たちの悲惨さが、ぼくらの自由によってもたらされていることに気がつきそうな国を見つけ出す。
 そして、そこに虐殺の文法を播く。
 国内で虐殺がはじまれば、外の人々を殺している余裕は消し飛ぶ。外へ漏れ出そうだった怒りを、その内側に閉じこめる。ジョン・ポールは、ぼくらの世界へのテロを未然に防ぐため、虐殺の旅を重ねたと言っているのだ。

彼らには彼らで殺しあってもらう。わたしたちの世界には、指一本触れさせない。〔略〕」

□(371-2)


 次は『ハーモニー』を読む。もう購入済み。これはもっと生命倫理(学)寄りみたい。

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 ※ 白地に白だから見えにくいですね、すみません。




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by no828 | 2011-04-26 20:01 | 人+本=体 | Comments(0)
2011年 04月 26日

心の健康を保つにはシンプルなイデオロギーに主体を明け渡すのがラクチンだ——伊藤計劃『虐殺器官』(前)

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23a(345a)伊藤計劃『虐殺器官』早川書房(ハヤカワ文庫JA)、2010年。
※ 単行本は2007年に早川書房より刊行。

版元




 先進国-後進国という問題が出てくる(らしい)、また、民族問題が取り上げられている(らしい)ということから、3.11後に某西武内の某リブロで5%引きで新刊を購入。(3.11後のつくば市内のお店の再開という点では、某西武はきわめて迅速であった。)

 なお、著者の伊藤計劃は1974年生まれ、癌のため2009年没。大森望の解説には、伊藤本人の mixi 日記や伊藤のお母上のことばが引用されている。

 本書は兵士(=ハイテク殺し屋)の罪の物語であり、現代のエチカの書でもある。

 以下、前半の引用。後半は別途エントリしたい。それだけ引きたいことばがあるということだ。それは、ここでははじめてのことだ。


 心の健康を保つためには、深く考えないのがいちばんだし、そのためにはシンプルなイデオロギーに主体を明け渡すのがラクチンだ。
 倫理の崖っぷちに立たせられたら、疑問符などかなぐり捨てろ。
 内なる無神経を啓発しろ。世界一鈍感な男になれ。
 正しいから正しいというトートロジーを受け入れろ。

□(25)


「漢字、かっこいいですよね」
「読めない文字は情報というよりも意匠だからね」
「読めないからこそカッコいい、てことですか」
「そういう部分もあるな。理解できない文化は排斥の対象になりやすいのと同じくらい、崇拝や美化の対象になりやすいんだよ。エキゾチック、とか、オリエンタル、とかいう言葉のもつクールさは、理解できない文化的コードから発しているというべきだね」
「異国の文字は、ことばでありながらことばでない、と。それはテキスタイルと同じようなパターンや図像に近いわけですね」
「意味情報を消失しているわけだからね——正確に言うなら、ぼくらが意味情報を取得できない、ということだが。異国の文字でスクラブルをやったら、できあがったボードはほとんどアートにしか見えないだろうな」

□(40-1)


 逆に言えば、国家を生々しくイメージできる人々が、ぼくのかわりに世界のことを考えてくれる。そういう人間たちは国防総省やラングレー〔CIA〕やフォートミード〔NSA〕やワシントンにいて、アメリカという国家を生々しくイメージしながら、ぼくに誰それを殺せと命令してくれる。
 いま、ぼくたちがいるこの国で戦いを指揮している各武装勢力の親玉たちもまた、そうした能力を持っているのだろう。国を生々しく物として感じられるがゆえに、ぼくがイメージしづらい自国と他国の境界もまた、はっきりとイメージできるのだろう。現実感が「国家」に付着している人間でなければ、異質な他者を明確に敵として意識しつづける〔ママ〕ことは難しいに違いない。殴りかかってきたり撃ってきたりする目の前の暴力的な他者ならともかく、宗教や民族といった抽象によって彼我〔ひが〕の境界を維持し続け、あまつさえそれを敵として殺戮し続けるには、それなりの現実の在り方があるものだ。

□(43)


 歴史とは勝者の歴史、という言い方もあるが、それもまた異なる。
 歴史とは、さまざまな言説がその伝播を競い合う闘技場〔コロセウム〕であり、言説とはすなわち個人の主観だ。そのコロセウムにおいて勝者の書いた歴史が通りやすいのは事実ではあるが、そこには弱者や敗者の歴史だってじゅうぶんに入りこむ余地がある。世界で勝者となることと、歴史で勝者となることは、往々にして別なこともあるのだ。

□(44)


「虐殺だと。われわれの平和への願いをそのような言葉で冒瀆するのか。これは、われわれ政府と国民に対する卑劣なテロリズムとの戦いなのだ」
「あんたが『国防大臣』を務める『政府』とやらは、どの国連加盟国からも承認されてはいないし、その国民を殺して回っているのはあんた自身だ」
国連がどうしたというのだ。われわれの文化を土足で踏みにじり、自決権を鼻で笑う最悪の帝国主義者どもが、長いあいだ異民族が共存して平和に暮らしてきたわが国を……

□(59)


 父はなぜ自らの死を選んだのか。そもそもこの表現が間違っているのだろう。たぶん、父は「選ぶ」ことなんてできなかったに違いないのだから。選択肢がないから人は自死するのであって、その逆ではない。少なくとも父の脳内には自死以外の選択肢は降りてこなかった。
□(69)


「実際にはね、ヒトの現実認識は言語とはあまり関係がないの。どこにいたって、どこに育ったって、現実は言語に規定されてしまうほどあやふやではない。思考は言語に先行するのよ
「でも、ぼくはいま英語で思考していますよ」
「それは、思考が取り扱う現実のなかにことばが含まれているからね。思考が対象とするさまざまな要素のなかに言語が含まれていて、それを取り扱っているだけのことよ。言語は思考の対象であって、思考より大きな枠ではないの。それは、ビーバーは歯が進化した生き物だから、歯で思考しているに違いない、と言っているに等しいわ
「そうなんですか」
 ぼくは素直に感心してしまう。

□(122)


「知りたいんだ、ぼくは、ぼくは母さんを殺したのかな。ぼくが認証したとき、ぼくがイエスと言ったとき、母さんは死んだのかな。教えてよ、母さん」
罪の話ね」母さんはうなずき、「お前はよくやったわ。わたしのためにとても辛い決断をしてくれた。自分の母親の生命維持装置を止める。自分の母親を生かしているナノマシンの供給を止める。自分の母親を棺桶に入れる。それはとてもとても辛いことだけれど、でもあなたはわたしのためを思って、そうするしかないことをしたの」
〔略〕
「そう言ってほしかったんでしょ、お前は。本当のことなんて、誰にもわからない。だって、当のわたしは死んでしまっているのだし」
 ぼくは怖くなった。母は突然、おそろしく残酷になり、
「あなたはこう思っているんでしょう。いつも自分は、他人の命令に従っていろんな人間を殺してきた。それがさらなる虐殺を止めるためだなんて言われていても、自分は銃だ、自分は政策の道具だ、と思うことで、自分が決めたことじゃない、そういうふうに責任の重みから逃れてきた」
「やめてくれ、母さん」
 ぼくは泣いて懇願する。
でも、自分の母親を殺したとき、それは自分自身の決断だった。母さんは苦しがっている、母さんは生きているのが辛い状態に置かれている、と想像はできても、ベッドの上に横たわっているわたしはなにも言ってくれなかった。それは自分の想像にすぎなかった。だからあなたは、医者に迫られてわたしの治療を中断するとき、自分自身の意思でそれを決めたという事実を背負わなくてはならなかった。国防総省が、特殊作戦司令部(SOCOM)が決めたのではない、自分自身の殺人として背負わなければならなかった
〔略〕
「けれど、息子さん、わたしだけじゃないわ。いままで殺してきた将軍や大佐や自称大統領だって、あなたが自分で決めて、自分で殺したのよ。あなたはそれについて考えることをやめてきただけ。自分が何のために殺しているのか、真剣に考えたことなんて一度もなかったでしょ」
 ごめん、ごめんよう、とぼくは叫びながら、無人のプラハの街に駆け戻る。
わたしを殺したのがあなた自身の決断なら、いままで殺してきた人々の命もあなたの決断よ。そこに明確な違いはない。あなたは、わたしの死にだけ罪を背負うことで、それまで殺してきた人々の死から免罪されようとしているだけよ

□(159-61)


〔略〕「ハイテク機器と規模の拡大、あとは単純に人件費の増大によって、近代の戦争のコストは極端に膨れ上がった。戦争をやっても単純に言えば儲からないのです。それでどんなに石油の利権が確保できても、ね。では、それでもアメリカが戦争をしているのはなぜか。世界各地で、民間業者の手まで借りて火消しに走り回っているのはなぜか。正義の押しつけ、という人もいますが、コストを払っている以上、わたしはそれを、戦争をコミュニケーションとした啓蒙であると思っています
「啓蒙……戦争が啓蒙」
「アメリカ人がそう意識しているかどうかにかかわらず、現代アメリカの軍事行動は啓蒙的な戦争なのです。それは、人道と利他行為を行動原理に置いた、ある意味献身的とも言える戦争です。もっとも、これはアメリカに限ったことではなく、現代の先進国が行う軍事的介入は、多かれ少なかれ啓蒙的であらざるを得ませんがね」

□(179-80)


 耳にはまぶたがない、と誰かが書いていた。目を閉じれば、書かれた物語は消え去る。けれど、他者がその喉を用いて語る物語は、目を隠蔽するようには自我から締め出すことができない。
□(186)

 ひとまず、ここまで。


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by no828 | 2011-04-26 14:26 | 人+本=体 | Comments(0)
2011年 04月 24日

自在に海を泳いでいるようで、俺はまわりの鰯に合わせて体を動かしているだけなのだ——星野智幸『俺俺』

c0131823_16125795.jpg22(344)星野智幸『俺俺』新潮社、2010年。


 版元


 政治思想史の中島岳志さんがおすすめしていたので、小説なのに(小説はいつもは某ブックオフで105円のみなのに)めずらしく某アマゾンの中古で購入。文庫ぐらいの値段になっていた。

 以下、感想。

 不思議な本である。

 描かれているのは、存在論的不安に晒された者が希求する存在論的安心、その希求の現代的姿。描かれているのは、存在論的不安 → 存在論的安心 の → のありよう。

 自己への閉塞と自己の拡張という、一見矛盾するこのふたつの欲求を満たそうとする人びと、また、その社会。しかし、実はそれは矛盾しない。自己に閉じこもる者は、その自己に重合する(部分を持つ)物理的他者を自己と見なし、安心する。自己の拡張である。“俺みたいな奴”、“わたしみたいな人”を見つけると、安心する。だが、そのとき“俺”や“わたし”が“自分”を見出した物理的他者は、もはや他者ではない。それは自己である。自己だから理解可能である。理解可能な自己の中でのみ生活しようとする。理解不可能な他者を排除する。自己の増殖した社会という海に身を委ねて赤子のように揺蕩う。しかし、他者が消え去ることはない。自己の存在をある次元で脅かす他者の出現を止めることはできない。にもかかわらず、自己が増殖する社会、つまり自己増殖社会の完成と存続を願う。だから他者への対応がわからなくなる。暴発する。と同時に、自己増殖社会では自己が増殖しているわけだから、“他ならないこのわたし”という感覚も薄れてくる。“わたしはいなくてもよいのでは”という不安も強まる。その不安を解消するためのひとつの安直な方途は、他者の排除である。

 自己の不安との、他者への不安との付き合い方が求められている。

 処方箋は……自己への配慮と他者の他者のままでの尊重、か。不安の根源にあるのは、“わたしをわたしとして処遇してほしい”という承認欲求だから(たぶん)。自分を自分で承認する、他者から承認される、そのためには……。



相手が自分だと、本当に言わなくてもわかるもんだなあ。以心伝心よりすごいんだからね
言葉もいらないほどわかり合えるとかってときどき言うけど、本当にそんなことあるなんて思ってなかったよ。すごくいいよね
「相手が自分かもしれないなんて誰も思ってないから、わかり合ってみようともしなくて、それでわかり合えないだけかもしれない」
「それってつまり、俺らのほかにも……」
「そう。俺に大樹におまえ、兄貴に生活保護申請来た人。他にももっともっと無数にいると思うんだよ、俺らって」
「均さん、だから言うまでもないんだって」
「あ、そうだな」

□(102)


「大樹なんて、場に染まること以外何も考えてないといっていいぐらいじゃんか」という誰かの言葉がよみがえる。いつ、誰の言葉だったか。そのとおり。俺は何も選択したことなんかないのだ。常に、あたりの色に染まるだけ。脱税指南だって、俺がそうしたくてしたわけでもないし、やむを得ず苦渋の決断の末に引き受けたわけでもない。目の前に現れた時点で、俺はただ従うだけなのだ。だから俺なんていないも同然なのだ。
 俺の頭に、鰯のイメージが浮かんでくる。自在に海を泳いでいるようでいて、じつは俺はまわりの鰯に合わせて体を動かしているだけなのだ。誰かリーダーの鰯が動きを決めているわけではない。すべての鰯がまわりに倣うだけで、全体としては雲のように膨らんだり縮んだり横へ流れたりひたすら遠くへ泳いでいったりする。そこには意思はない。外れたら食われる。だから俺は周囲の鰯に遅れないよう、きびきびと動く。前後左右上下、どこを見ても同じ鰯鰯鰯。そのうち、どの鰯が自分かわからなくなる。自分がそこにいるのかどうかも、わからなくなる。

□(150)


 要するに、を馬鹿にしているから、食えたのだ。こんな下等な連中とは違う、と思っているから、その肉を食べることができた。でも実際には食ってるのは自分の肉なのだから、下等なのは俺自身だということになる。肉を食っちまうようなくだらない自分を食う自分は、さらにくだらなくなって、食えば食うほど俺自身の価値は落ちていって、クズ同然になる。クズを軽蔑すればするほど、俺は違うと証明したくて、自分を削除しては、また食っちまう。
 悪循環だった。自分を貶めている限り、この循環は止まらない。にもかかわらず、俺は自分を蔑むほかないような卑劣な行為に及んでしまう。俺を信用してくれたやつを、あんなふうに情けなく裏切っちまう。
 食ってくれ、と俺は思った。食い尽くして、骨は動物に齧らせて、俺なんか跡形もなくしてくれ。せめて、栄養分としてだけでも役に立てるなら、俺はありがたいと思わなくちゃいけない。俺を食って、生きながらえてくれ。俺が命の足しになるなら、それで十分だ。
 しかし待てよ、と俺は胸のざわめきを感じた。十分どころじゃない、こんなにまで俺が誰かの役に立ったことなんて、いまだかつてあったか? 俺は切実に求められていて、しかもそれに完璧に応えている。俺は今、俺史上最高に輝いてるんじゃないか?
 俺の中で、誇りの感情がはちきれんばかりに膨れあがった。俺はとてつもない充実を感じていた。

□(239)

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by no828 | 2011-04-24 17:01 | 人+本=体 | Comments(0)
2011年 04月 23日

人を愛したり子供を慈しんだり群れを成し社会を作ることは人間性ではない——森博嗣『有限と微小のパン』

c0131823_1555464.gif21(343)森博嗣『有限と微小のパン The Perfect Outsider』講談社(講談社文庫)、2001年。


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 S&Mシリーズ第10弾(最終作)。前半から中盤に掛けて読者に一定の認識枠組みを構築させながら、物語の後半、すなわち事件の解決の局面では、その枠組みを一次元上回る(メタの)認識枠組みを被せてくる。その二重の認識枠組みのあいだのずれ、それこそが仕掛け。



 人間だけが本能を乗り越える。本能を封じ込める。本能に逆らえる。それを犀川は「人間性」あるいは「人間的」と呼んでいる。人を愛したり、子供を慈しんだり、群れを成し社会を作ることは人間性ではない。むしろ、我が子を殺す意志こそが人間性だ。あらゆる芸術は、この反逆に端を発しているのである。
□(96)


〔略〕人間よりも速く、高く跳び上がり、力の強い動物たちが地球上には沢山いるということです。人間の価値はそんなものじゃありません。動揺に、記憶の量や正確さ、あるいは計算の速度も、道具を用いることによって改善できる。では、何が残っているでしょう? それは、研ぎ澄まされた思考だけです。この世で比類のないものとして、人類に与えられた最高の機能。コンピュータを駆使しても、将棋の名人にはかなわない。誰が、どんな道具を使っても勝てないのです。彼らこそ、正真正銘の覇者なのです」
〔略〕「僕は、天才と呼ばれる人たちを何人か知っています。実際に会って話もしましたけど、よくわからない。話をしても、その才能がどこからきたものなのか、そして、今どこにあるのかさえ、まったくわかりませんね。だけど、彼らに共通することが一つありました」
「共通すること?」
「ええ……」空になっていた萌絵のグラスに、彼は琥珀色の液体を注ぎ入れた。萌絵はその液体を見つめる。氷が音を立てた。
混ざっていない」塙理生哉は下を向いたままそう言った。
「混ざって……、いない?」
「そうです。人格が混ざっていない」グラスを萌絵の前に置き、彼は煙草に火をつける。「人格だけじゃない、すべての概念、価値観が混ざっていないのです。善と悪、正と偽、明と暗。人は普通、これらの両極の概念の狭間にあって、自分の位置を探そうとします。自分の居場所は一つだと信じ、中庸を求め、妥協する。けれど、彼ら天才はそれをしない。両極に同時に存在することが可能だからです

□(126-7)


「〔略〕天才は計算をしても答を出さない。彼らは、計算式そのものを常に持っている。我々は答しか持たない。これが、凡人と天才の差です。だから、コンピュータにも真似ができない。計算しない計算機なんて作れない」
□(129)


大きな声を出せる人は、小さな声も出せます。速く走れる人は、ゆっくりと走ることもできる。では、理解できる人は、理解できないことも、できるのではありませんか?
「できないと思います。一度知ってしまったら、それを忘れることはできません。宝石が偽物だと知ってしまったら、もう満足することは不可能です」
「それは、想像力が不足しているのではなくて、想像力が過剰なのです。貴女の認識は正反対ですよ。いいですか、つまり、想像力をコントロールできないことに起因した障害なのです」
「博士にはそれができますか? ものを意図的に忘れたり、わざと深く考えない。そんなふうに想像力をコントロールすることができるのですか?」
「ええ」真賀田四季はあっけないほど簡単に頷いた。

□(238)


「意味のないことをする、ということ自体が既に不思議です」
「いや、それは錯覚だ。意味のないことを面白い、やる価値がある、と考えるのが人間の高尚さじゃないか
「高尚なのですか? あの殺人が……」
「少なくとも、知能の低いほかの哺乳類はしない」犀川は答えた。「極めて人間性に根差した行動といえる。きっと、芸術的な価値があったのだろう」

□(348-9)


すべての問題は、現実と理論のギャップに帰着する」犀川は淡々と言った。「したがって、問題の解決には、通常、二通りのアプローチが存在する。現実を変更するか、あるいは、理論を変更するか、そのいずれかだ」
□(573)

「僕は、二通りしかない、とは言っていない」犀川は煙を吐きながら言った。「通常は二通りだ、と言っただけだ」
「それ以外に、問題を解決するアプローチがあるのですか?」
「ああ……、通常じゃない、三つ目のアプローチが存在する」
「どうするのですか?」萌絵がきいた。
「確かに、問題は、常に現実と理論のギャップにある。このうち、理論とは、ある意味で不動だ。我々が作り出したものだから、我々の言葉で記述できる。しかし、現実はそうではない」犀川はまた煙草をくわえ、煙を吐き出した。「我々が観察しているものは、はたして現実だろうか?
先生は、私たちが夢を見ているっておっしゃるのですか?」萌絵が言う。
 牧野洋子と反町愛も犀川を見つめていた。
 彼は、煙草の煙の行く先に、視線を移す。
それを自問するアプローチこそ、三つ目の手法だ

□(575)

 この「三つ目」は、「反省」という哲学の方法、だと思う。


〔略〕「〔略〕躰と意識、フィジカルとメンタルの境界が、関連性を追求するほど曖昧になるのと同じように、実現象と純粋情報の境界も非常に不確定だ。フラクタル的に入り組んで、上位が下位に繰り返される
「現実と情報がですか……」
「白い犬がいるとして、それを現実としよう。しかし、白い犬がいることを目で見たら、もうそれは映像という情報になる。白い犬がいる、と言葉にすれば、これも情報だ。観察され、単純化された情報であって、既に現実ではない」
「自分の目で見たことは、その観察者にとっては現実に近いものと認識しても良いのではないでしょうか。そうでなければ、現実なんて存在しなくなります」
そう、現実というのは、観察事項から推測された理論の中に存在する」犀川は答える。「白い犬を見たとしても、向こう側は見えない。その瞬間、向こう側は白くないかもしれない。しかし、犬の毛の色が瞬時に変化する機構を有していないとする実測結果と、躰の左右でちょうど色分けされている犬はあまりいない、という過去情報からの統計的推測によって、それを白い犬だと単純化する」

□(647)


「〔略〕僕らは、博士の頭の中にいるんだ」
「頭の中に?」
「どこで考えているのか、という話をさっきしたね。脳細胞の間の信号のやり取り、CPUの中の電子の移動、それ自体が、思考という物理現象だ。思考とは、ネットワークのアクセス現象であって、それはどこにあっても良い。場所を限定しない。器を限定しない。社会全体が自分の頭脳だと認識することも可能なんだ。きっと、真賀田博士はそう考えているだろう。僕が思いつくこと自体、その証拠といえるね」
「わかりません」
僕が考えて僕が動く。君が考えて君が動く。それも、博士の思考の一部なんだ。博士の頭脳は、博士の躰の中にあるんじゃない。現に、僕らだってコンピュータを使うことによって、思考作業の一部を既に躰の外に出しているだろう? コンピュータも、ほかの人間の頭脳も、さらに偉大なる頭脳の、有限かつ微小な細胞に過ぎない
「それが、真賀田博士の目的なのですか?」
「そうだ」犀川は頷いた。「自分の頭脳を拡大し増強する。それ以外に、生きている目的はないだろうね」

□(660-1)


〔略〕「先生……。私、最近、いろいろな矛盾を受け入れていますのよ。不思議なくらい、これが素敵なのです。宇宙の起原のように、これが綺麗なの」
「よくわかりません」
「そう……、それが、最後の言葉に相応しい」
「最後の言葉?」
その言葉こそ、人類の墓標に刻まれるべき一言です。神様、よくわかりませんでした……ってね
「神様、ですか?」
「ええ、だって、人類の墓標なのですから、それをお読みになるのは、神様しかいないわ」
「驚きました。真賀田博士がそんなことをおっしゃるなんて」
「矛盾が綺麗だって、言いましたでしょう?」
「ああ、そうか」犀川は微笑んだ。「なるほど、僕は……」
「飲み込みが遅い」四季は微笑んだ。

□(826-7)

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by no828 | 2011-04-23 17:35 | 人+本=体 | Comments(0)