思索の森と空の群青

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2011年 06月 14日

観念と生身をあげて行為するところでは世界は〈不可避〉の一本道しかあかさない——吉本隆明『最後の親鸞』

c0131823_14462025.jpg46(368)吉本隆明『最後の親鸞』筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2002年。

※ 本書は1981年に春秋社から刊行された『増補 最後の親鸞』にエッセイ1篇を加えたものである。

版元

 ようやく。



〈知識〉にとって最後の課題は、頂きを極め、その頂きに人々を誘って蒙をひらくことではない。頂きを極め、その頂きから世界を見おろすことでもない。頂きを極め、そのまま寂かに〈非知〉に向って着地することができればというのが、おおよそ、どんな種類の〈知〉にとっても最後の課題である。この「そのまま」というのは、わたしたちには不可能にちかいので、いわば自覚的に〈非知〉に向って還流するよりほか仕方がない。しかし最後の親鸞は、この「そのまま」というのをやってのけているようにおもわれる。
□(15.傍点省略)


 親鸞は、〈知〉の頂きを極めたところで、かぎりなく〈非知〉に近づいてゆく還相の〈知〉をしきりに説いているようにみえる。しかし〈非知〉は、どんなに「そのまま」寂かに着地しても〈無智〉と合一できない。〈知〉にとって〈無智〉と合一することは最後の課題だが、どうしても〈非知〉と〈無智〉とのあいだには紙一重の、だが深い淵が横たわっている。〔略〕〈無智〉を荷った人々は、宗教がかんがえるほど宗教的な存在ではない。かれは本願他力の思想にとって、それ自体で究極のところに立っているかもしれないが、宗教に無縁な存在でもありうる。そのとき〈無智〉を荷った人たちは、浄土教の形成する世界像の外へはみ出してしまう。そうならば宗教をはみ出した人々に肉迫するのに、念仏一宗もまたその思想を、宗教の外にまで解体させなければならない。最後の親鸞はその課題を強いられたようにおもわれる。
□(17-8.傍点省略)

 スピヴァクのポストコロニアルな知的態度を想起したが、そういうことでもないのかな……。



ただ飢えないものと飢えるものとがいることだけは、はっきりと眼の前にみていた。こういう条件のなかで親鸞は、浄土真宗の思想を形成せねばならなかった。
□(22)


眼前にうち捨てられて、どこからも救いがやってこない飢餓の群れと屍体をまえに、親鸞の思想は、浄土宗を浄土真宗へと転回させるために、執拗に試みをうけたといいうる。この試みは、現実世界が信心につきつける極限の問いであった。
□(28)

 思想の、すべてとは言わないが、その多くはこうした現実との対決の中から生み出され、鍛えられてきた。思想など意味がない、頭の体操だ、何の役にも立たないではないかと批判する向きは絶えないが、わたしはそうは考えない。すぐに役立つことは、すぐに役立たなくなる。強いて“役立つ”という観点から言えば、思想がこんなにも長いあいだ変型を受けながらも瑞々しく継承されているのは、それがすぐには役立たないが、ずっとどこかで誰かにとって役立つものであるからにほかならない。だからこそ思想は、本エントリの最後に引いた中沢新一も示唆しているように、危うさをはらんでもいる。だからといって思想との取り組みを放棄することは、余計に危うさをはらむことにもなる。



ひとくちに云ってしまえば、人間はただ、〈不可避〉にうながされて生きるものだ、と云っていることになる。もちろん個々人の生涯は、偶然の出来事と必然の出来事と、意志して撰択した出来事にぶつかりながら決定されてゆく。しかし、偶然の出来事と、意志によって撰択できた出来事とは、いずれも大したものではない。なぜならば、偶発した出来事とは、客観的なものから押しつけられた恣意の別名にすぎないし、意志して撰択した出来事は、主観的なものによって押しつけた恣意の別名にすぎないからだ。〔略〕ほんとうに観念と生身とをあげて行為するところでは、世界はただ〈不可避〉の一本道しか、わたしたちにあかしはしない。
□(35-6)

 こういうことかもしれない、という理解の及ぶ、ぎりぎりのところ。

 吉本の親鸞は、〈不可避〉であるということは、〈自由〉が消滅するということではない、とも述べている。「現世的な歴史的な制約、物的関係の約束にうちひしがれながら、〈不可避〉の細い一本道ではあるが〈自由〉へとひらかれた世界が開示される」(36)。



しかし結局は、親鸞の理解によれば、本願他力なるものは絶対他力にまでゆくよりほかない。そして、絶対他力にゆくためには、〈知〉と〈愚〉とが本願のまえに平等であり、〈善〉と〈悪〉もまた平等であるというところから、〈愚〉と〈悪〉こそが逆に本願成就の〈正機〉であるというところまで歩むほかなかった。〔略〕浄土へ往生する易行道は、ただ念仏することだという『大経』の第十八願を、念仏すれば浄土へゆけるといった単純な因果律に倒錯してしまうことから免れている存在は、〈愚〉と〈悪〉とである。なぜなら、死んだあとは浄土へゆきたいというような信心を、じぶんからはけっしておこさない非宗教的な存在だからである。いいかえれば、宗教の領土の外にある存在だからである。最後の親鸞の思想的な課題は、この悪人正機、愚者正機を、どのように超えるかというところにおかれた。
□(46)


 解説は中沢新一。中沢は、マルクス主義者の過激な行動を見つめながら、学問の世界から生み出されたはずの「理念」は、実は「宗教」と同じ本質を持っていたのではないか、しかし、それだからといって「理念」の中から「宗教」の要素を外に括り出せばよいというのでもないのではないか、と述べている。


 こういう〔「理念」と「宗教」との〕悪循環を断つためには、「宗教」を思考の外に放り出してしまうことでけりをつけるのではなく、「宗教」の思考の内部に踏みとどまって、これを内側から解体しつくすことができるのでなければならない。そうでないと、それはかたちを変えて、際限もなく人間の思考にまつわりつづけることになってしまうだろう。
□(230)

 同意。

 ただ、中沢自身が自身の体験から注意を促しているように、内部に踏みとどまると、その内部に溺れてしまいかねない。そこを救ってくれたのが、この吉本の『最後の親鸞』であったと、中沢は述懐しているのである。

@研究室
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by no828 | 2011-06-14 15:35 | 人+本=体 | Comments(0)
2011年 06月 10日

早く嘘を殺さないと、真実のほうが殺されそうで怖かった——吉田修一『悪人』

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45(367)吉田修一『悪人』(上・下)、朝日新聞出版(朝日文庫)、2009年。

※ 本書は、2007年に朝日新聞社より単行本として刊行された。

版元(上) 版元(下)


 評判になったことは知っていて、ぶっくおふの棚で先日見つけた。

 長崎・佐賀・福岡。そこにある風景、そこにある日常、あるいはそこにある呪縛。

 結局「悪人」とは誰なのか。彼は「悪人」なのか。「善」を守るための「悪」。すぐそこにある「悪」。ふとした瞬間に降りてくる「悪」。見逃される「悪」、見逃されない「悪」。


 「悪」を消せなかった「善」は「悪」になるのか。


 勝治が病に臥す前は、朝三合、夕方五合の米を毎日炊いた。男二人の胃袋を満たすのに、この十五年、ずっと米を研いでいたような気さえする。
 子供のころから、祐一はよくごはんを食べた。沢庵一切れ与えれば、それで軽々と茶碗一杯のごはんを食べるほど、炊きたての米が好きだった。
 食べたものは全部身になった。中学に入学したぐらいから、毎朝、祐一の身長がちょっとずつ伸びているのではないかと思うほどだった。
 房枝は自分が作り与える食事で、一人の少年が一端の男に成長していく姿を、呆れながらも感嘆の思いで眺めていた。
 男の子に恵まれなかったこともあるが、娘たちのときには味わえなかった何か、女の本能のようなものを、孫を育てていくうちに感じている自分に気づいた。

□(上 141)

 こういう文章を読むと、故郷を思い出す。死んだばあちゃんのことを思い出す。ばあちゃんは、男子はいつもお腹を空かせている、とにかく何か食べさせないとと思っていた。食糧難の戦争体験から来るところもあったかもしれない。



 休憩4800円の「フィレンツェ」と名付けられた部屋だった。個性的なことを強調するが故に個性を消されてしまったラブホテルの一室だった。
□(23 下)
 
 個性は、出そうとして出るものではない。そのうち出てくるもの。個性を強調すればするほど、個性は消える。



「……俺は何もしとらん。俺は何もしとらん」
 祐一は目を閉じていた。佳乃の喉を必至に押さえつけていた。恐ろしくて仕方なかった。佳乃の嘘を誰にも聞かせるわけにはいかなかった。早く嘘を殺さないと、真実のほうが殺されそうで怖かった。

□(132 下)



 一人の人間がこの世からおらんようになるってことは、ピラミッドの頂点の石がなくなるんじゃなくて、底辺の石が一個なくなることなんやなぁって。
□(234 下)



あんた、大切な人はおるね?
 佳男の質問に、ふと鶴田が足を止めて、首を傾げる。
その人の幸せな様子を思うだけで、自分までうれしくなってくるような人たい
 佳男の説明に鶴田は黙って首を振り、「……アイツにもおらんと思います」と呟く。
「おらん人間が多すぎるよ」
 ふとそんな言葉がこぼれた。
今の世の中、大切な人もおらん人間が多すぎったい。大切な人がおらん人間は、何でもできると思い込む。自分は失うもんがなかっち、それで自分が強うなった気になっとる。失うものもなければ、欲しいものもない。だけんやろ、自分を余裕のある人間っち思い込んで、失ったり、欲しがったり一喜一憂する人間を、馬鹿にした目で眺めとる。そうじゃなかとよ。本当はそれじゃ駄目とよ

□(245 下)


@研究室
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by no828 | 2011-06-10 21:23 | 人+本=体 | Comments(0)
2011年 06月 07日

自分が欲しかったら手前で手前を騙すんだ——京極夏彦『覘き小平次』

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44(366)京極夏彦『覘き小平次』角川書店(角川文庫)、2008年。

※ 本書は、2005年に中央公論新社より C★NOVELS として刊行された。

※※ 本書は、このブログで一時期連投していた、いわゆる京極堂シリーズの中の1冊ではない。

※※※ 本書は、第16回山本周五郎賞受賞作である。

版元




 京極夏彦の作品には、やはり物事の理を問う視線が伏在しているように思われてならない。つまり、一般に流布した、しかし本当にその意味がわかって発されているのかは甚だ疑問である、そのようなことばを用いて言えば、すなわち「哲学的な」問いというものが、そこには常に、ある。

 今回の『覘き小平次』に貫通するのは、“〈ただ-ある〉とは何か”。宇月原晴明の解説「ただともにあることの不思議へ」は、そのタイトルがすでに示しているとおり、この問題を取り上げている。今回は、それを引くことからはじめたい。


 我思うゆえに我あり。
 この言葉は、デカルトの懐疑を共有しない者にとっても、第一の原理であり続ける。なぜなら、人は誰も、ゆえなくして生きることはできないからだ。

 ○○ゆえに我あり。
 家族、仲間、仕事、故郷……○○に入るものは、いくつもある。そうしたすべてを失ってしまったら、どうなるか。
 我ただあり。
『覘き小平次』は、意味も価値もない、ゆえなくただあるだけの〈異形な〉者どもの物語だ。

□(409-10)

 だから、わからなくもある。ゆえなきがゆえにわからなくもある。だから、おそろしくもある。ゆえなきことはおそろしい。

 近代は理性の時代だ。理性(reason)とは何か。それはまさにあらゆる言動に理由(reason)を附属させることではないのか。理由の通じる相手を想定して、相手に通じる理由を添付する。だから、理由の通じない相手は格下と看做すか、端的に排除してきた。それは、たぶん、その相手が“わからない”という意味でおそろしいからだ。主文だけでは、わからない。そこに理由が備え付けられていないと、わからない。理由は、人を安心させる。

 この本が取り上げているのは、まさにこれまで他者との理解関係を促してきた理由の、その“なさ”なのである。それがない状況で、つまり、ゆえなき状況で、〈わたし〉は他者と「ただともにある」ことは可能なのか。理性や理由や理解、その理(reason)不在の「ただともにある」ことは果たして可能なのか。

 自分で発しておきながらこのように言うのはあれだが、これはわたしの引き受けなくてはいけない問いのひとつであるように思われる。だが、その問いが眼差す先にあることは、ゆえなきことであるがゆえに、説明自体を拒むものかもしれない。できるのは、ただ記述するのみ、かもしれない。「説明」には、なぜそのようにあるのかという根拠、すなわち理由が必要になるが、「記述」にはそれが不要だからだ(たぶん)。



 惚れるとは如何〔どう〕いうことか。今のお塚にはそれこそ解らない。
 否、それは昔から解らなかったことなのかもしれぬ。好きだ嫌いだがどれ程大事なことなのか、お塚は能く解らない。そもそも人の心など、有って罔〔な〕きが如きもの。朝〔あした〕と午〔ひる〕、午と夕で違うもの移ろうもの。どれ程好いた相手でも、いずれ厭うこともあろうし、厭いたから取り換えるというのも怪訝しな話。添うた以上は添い遂げよ、連れ合いのために堪えよ尽くせよと、世の人人は謂うではないか。ならば好きだから一緒に暮らすという論〔りくつ〕は立たぬ。
 ——ならば。
 何故に人はつがいになりたがるのか。一つ屋根の下、寄って集って暮らすのは何故なのか。

□(77 傍点省略)



「〔略〕何か思えよ。思ってやれよ。何もなかったような面してよ」
 無視をするなと言ってるんだよと言って、多九郎は小平次の襟首を攫んだ。首を竦めても遅かった。小平次は地面から引き剝がされて、仰向けに転がされた。
「無視してるンじゃねえよ。苛つくんだよ」

□(185)



 先乗りの座本が帰路途中〔かえりしな〕、郡山の辺りでの興行を取り付けて来たのである。何処で如何渡りをつけたのか判らぬが、一座は安積郡笹川〔あさかごおりささがわ〕に落ち着いた。
 安積山麓安積沼——。

□(214)

 郡山・安積というのは、私の出身高校のあるところです。



 映るような気がするだけ。
 実は、映っているのは己だ。
 想い出は、遍く己の影である。

□(169)


他人の裡は覘けますまい。覘いた気になっているだけ。覘いて見えるものは、全部自分の裡で御座います。ですからそれは、屹度私の気持ちなのでしょう
□(231)

 わたしが認識しているものはすべてわたしの裡にあるものだとすれば、他者とコミュニケーションする理由は消え失せる。いくらコミュニケーションしても、それでわかるのは結局自分の裡でしかないからだ。他者は結局わからない。だから、沈黙する。だが、それでよいか。



「紙っぺらみてェに薄かったお前の女房と子供にな、たった今、厚みがついた」
「厚みが——」
お前が語ったからだよ。お前がお前の物語にした所為で、嘘でも法螺でも血が通ったぜ
「血が」
「オウよ。いいか小平次。お前の女房と子供ァな、ちゃアんと居たぜ。そしてお前を好いていた。お前もそうだよ。成行きだろうが何だろうが、十何年も暮らしたのだろう。それなら立派な夫婦だし、紛うことなき親子だぜ。夫婦なら、親子なら」
 死んで哀しくねェ訳がねえよと治平は言った。
「お前はな、悲しみ方が判らなかっただけだ」
「悲しみ方」
 ことの序でに教えてやるよと治平は吹いた。
哀しい時はな、哀しい哀しいと莫迦みてェに言え。嬉しい時は嬉しい嬉しいと言え。口に出さんでもいい。肚の底で思え。そうして自分を騙せ。己で己を騙せ。それしかねェ
「騙す」
 騙るのよと治平は言った。
〔略〕
「信じるってこたァ、騙されても善いと思うこと。信じ合うッてこたァな、騙し合う、騙され合うてェ意味なんだ。この世の中は全部嘘だぜ。嘘から真実なんか出て来やしねえ。真実ってなァ、全部騙された奴が見る幻だ。だから——」
 それでいいじゃねェかと治平は言った。
本当の自分だとか真実の己だとか、そんなものに拘泥する奴は何より莫迦だ。そんなものァねえ。自分が欲しかったら手前で手前を騙すんだ。騙すのが下手なら下手で——
 それでいいじゃねェかと、もう一度治平は言った。

□(235-6)

よう小平次、お前の昔は今日俺が、確とこの場で聞き取った。仮令お前が忘れても、もう罔くなるこたァねえや。だから案ずるな。好き勝手に生きやがれ
 有難う御座いますと小平次は頭を下げた。

□(238)



「意気がったって怖くなんかないよこの唐変木。惚れるのと抱きたくなるのと如何違うのさ。男は惚れなくたって女を抱けるなんて、聞いた風な口利くんじゃないよ。そりゃこっちの科白さね。女はね、惚れてなくたって寝られるわいな。でも如何さ。なんのかんの言ったって、男は惚れなきゃ役に立たないじゃないか。惚れなくても抱けるなんてのは、女の気ィ引くことも出来ない屑野郎が言うことだよ」
□(377)

 女と男の問題を一般論で片付ける気はまったくないが、男よりも女のほうが自分を騙すのが上手な気がする。もちろんここでの「騙す」というのは、上で引用した論脈におけるそれの意味を踏襲している。「騙す」は「覚悟する」に近いが、やや、ずれる。“そういうことにする”のが、女はたぶん上手だ。たとえば、極端に言えば、女は“好きじゃなくても付き合える(好きなことにして付き合える)”が、男は“好きじゃないと付き合えない(好きなことにして付き合うことはできない)”。と書くと、学類女性陣から総攻撃を受けそうではあるが、しかしとにかく、これは一般論ではなくわたしの印象であり、だから、男は、というよりも、わたしは、“そういうことにする”のが苦手なのだ。


@研究室
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by no828 | 2011-06-07 14:51 | 人+本=体 | Comments(0)
2011年 06月 05日

だいじょうぶだから、そのまま歩いて来いよ——橋本治『勉強ができなくても恥ずかしくない』

c0131823_16304441.jpg43(365)橋本治『勉強ができなくても恥ずかしくない』筑摩書房(ちくま文庫)、2011年。

 ※ 本書は、2005年にちくまプリマー新書として3部作で刊行された。

 版元

 1948年生まれの橋本治の自伝的小説。だから主人公の「ケンタくん」は「オサムくん」。描かれるのは、主に小学校から大学入学までの生活、とくに「勉強」(と「親」と「友だち」)に対する著者の認識の変遷。だから時代は1954年頃から1967年頃まで。

 あるいはこれは、著者橋本治の自己承認に至る記録とも言えるかもしれない。

 ちなみに、「『勉強ができなくても恥ずかしくない』というタイトルの裏には、「勉強ができるだけだったら少し恥ずかしくない?」という問いも隠されています」(「文庫版のあとがき」262)。



 はじめてビー玉で優勝して、六年生の男の子に勝って、ケンタくんはすごく大切なことがわかりました。今までの自分の人生の中で、いちばん大切なことです。それは、自分に自信がないと、おどおどしてしまって、自分のまわりにあるものがなんにも見えなくなってしまうということです。できるようになって、自分に自信が持てたら、自分の目の前にあるものがはっきり見えて、こわいものはなくなってしまうということです。
□(133)


 まだその頃は、「塾というのは、学校の勉強ができない子が行くところだ」と、多くの人が考えていました。じつは、ケンタくんもそう思っていました。だから、なかなか「塾に行きたい」とは言えませんでした。それを言うことは、「ぼくは勉強ができません」と白状することと同じだったからです。
□(142)

 友だちが行っているから、休み時間の話題はそれだから、という理由で、同じ塾に行きたくなる気持ちはよくわかる。

 時代は「塾」の社会的位置付けを変える。「家庭教師」も。


 その頃の子は、「家に家庭教師が来ている」なんていう子のことを、バカにしていました。それは、「どうしようもなく勉強のできない、みっともない金持ちの子」でしかなかったからです。「あいつん家、家庭教師が来てんだぜェ」と、バカにしたようすでだれかのうわさをしているのを、学校で聞いたことだってあります。いくらなんでも、そんなバカげたことが自分の身の上に起こるなんて、ケンタくんは考えたこともありませんでした。
□(182)


 ケンタくんは、だれにもうそなんかついていません。人間は、だれでも成長して変わっていくものなのです。でも、だれもケンタくんに、そんなことを言ってくれません。だれかが、「ケンタくんは変わったねェ」と言ってくれたら、ケンタくんだって、「自分は成長したんだ」と思うかもしれません。でも、だれもそんなふうには言ってくれないので、ケンタくんは、「自分はすごい努力をして変わったんだ」と思えないのです。
□(159-60)

 人間が生きていくためには承認が必要だ。その承認は他者から与えられるもののほうがよい。大人になれば、自分で自分を承認することもできる。だが、子どもは自分で自分を承認することが難しい。だから大人が承認する必要がある。承認されてはじめて子どもは“自分はこれでよいのだ”と思えて、前に進めるのである。それは自信にもつながる。


 でも、ケンタくんはふしぎです。富岡さんの成績が、そんなに悪いはずはないのです。「ちょっと貸して」と言って、ケンタくんは、富岡さんの持って行った答案を、また取りかえしてしまいました。そして、答のまちがっているところを見て、「ここがちがうよ」と教えてあげました。
 富岡さんも、「どこ?」と言ってのぞきこんできて、そこで教えっこが始まってしまったのです。
 ケンタくんが、「ここはこうでさ」と言うと、まわりの男の子達も、「そう、そう」と言います。そうすると、富岡さんや、ほかの女の子達がのぞきこんで、「あ、そうなのォ」と言います。
 ケンタくんの教える番が終わると、べつの男の子が、「ここはさァ」と、別のところを富岡さんに教えます。それは、じつは、ケンタくんもまちがえた問題です。それでケンタくんは、友達の男の子の説明を聞いて、「あ、そうか」と言ったのです。

□(212)

 これを「学びの共同体」と呼ぶかどうかは別にして、こういうのは、よい。


だれかひとりが頭がよくて、みんながそれについてくよりも、みんなでいろんなところの頭がよかったほうが、ぜったいに楽しいに決まっている
□(223-4)


「わからない」ということは、すごく苦しくて、つらくて、そして、とても困るのです。
□(243)


 大学での勉強は、「自分の考えたいことをきちんと考える」というものでした。ケンタくんには、考えたことがいくらでもありました。〔略〕
「自分の考えたいことを考える」ということがわかって、ケンタくんは、「小学校や中学校や高校の勉強は、そういうことができるようになるためにするもんなんだな」ということもわかりました。そして、「今頃そんなことがわかっても、遅いかな」とも思いました。

□(257-8)


 遠い未来で、大人になったケンタくんは、また昔の自分に言いました。
だいじょうぶだから、そのまま歩いて来いよ

 ケンタくんの話は、これでおしまいです。

□(259)

@中央図書館
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by no828 | 2011-06-05 17:06 | 人+本=体 | Comments(2)
2011年 06月 01日

元来言葉にならないのだから、それを言語化するのは矛盾で、完全な言語化は不可能だ——神林長平『言壺』

c0131823_15134045.jpg42(364)神林長平『言壺』中央公論新社(中公文庫)、2000年。


 単行本は1994年に中央公論社より刊行。
 版元


 第16回日本SF大賞受賞作品、ということを知らずに。この本は“「言葉(ことば)」とは何か”がテーマであるとの情報をどこかから入手して読んでみようと思っていたら、某ぶっくおふでたまたま見つけたのであった。

 「ワーカム」という著述支援用マシンのある未来。ワーカムは、文法のおかしな文章を訂正してくれるだけでなく、著者の書きたい想いを文章に変換してくれる。「あなたが考えていることはこういうことか」と。それは正確だ。

 ワーカムは、意味不明な文章を受け付けない。拒否する。ワーカムの言語ルールに反するものは誤りとして認識され、代案が提示される。

 ワーカムはまた、通信機器としても機能する。“小説”などはこのワーカムのネットワークに上げられ、読者はワーカムを通してそれを読む。ワーカムの言語空間はそれゆえに拡大し、根を下ろしていく。それゆえにワーカムの言語ルールに何らかの方法で変更が加えられた場合、ワーカム自体とそのルールを文字どおり身に付けた人間とに狂いが生じる。

 ことばに支配された世界。

 ことばにまつわるSFには、なぜか本のない未来が描かれやすい。『言壺』には、印刷物としての本はほとんど存在しないものとして、本は過去の遺物、物好きが製本するにすぎないものとして描かれる。

 なお、この本が単行本として出版されたのは、冒頭に記してあるように、1994年である。早い……。



言葉は、物理的に人体に作用するんだ」とおれはつぶやいた。「いい気分にさせたり、不快にさせたり、だ。狂わせることもできる。精神を破壊することもできる。ペンは剣よりも強い。剣は一人しか殺せん。一人ずつだ。が、言葉は、出版し放送しネットワークに載せれば、大量の人間に作用させることができる。悪用すれば人類は狂気で自滅だ
□(30)


そのつもりはなくても、言葉をつらねているうちに本当だと思えてくることもある。いや、常に、そうなんだ。言葉が現実を構築していくんだ。ルールに従って、だ。おれはそのルールそのものに干渉して、それを証明してやりたいんだ。おれの文を受け入れる人間は、現実がいかに危うく変化するものかを体験するだろう。
□(39)


 つまり、わたしが表現したいものは、本来言葉にならないものなのだ。
 そんなことは少し考えてみればだれにでもわかる。そこはかとない人生の哀しみ、などというものが一語で表現できるのなら、その一語でこと足りる。そんなものはないから苦労して書くのだ。書くうちに、そこはかとない哀しみが浮かび上がってくる、というのが小説に違いない。
 ようするに、核になるものはわたしの場合、言葉ではなく、非言語的な想いであって、表現したいことははっきりしているものの、言語ルールにはもともとのせることができなくて、書いているうちになんとなくそれに近づいてくるのをよしとするものなのだ。
 おそらく他の作家にしても似たようなものだろう。一つの文の挿入で、がらりと流れが変わったりする。そんなのは作家にしてみればあたりまえのことで、神秘でもなんでもない。それをうまく制御できるかどうかが、力量ということになる。これはかなりの力業を要求される。本来言葉にならないものを言葉に移し換えるのだから。小説を創るというのは、想いを言語化すればこういうことかと再認識し、発見することだ。〔略〕というよりも、元来言葉にならないものなのだから、それを言語化するというのは矛盾であって、完全な言語化は不可能なのだ。真実があるとすれば、書くという行為、そのものにある、という説もあるが、なるほど、と思う。書き上げたとき、やはりこれと核になったものは違う、と思うのはそのせいだ。だから、また書く気になれる。これでよし、ということがない。想う能力があるかぎり。
 ワーカムを使うと、そんなあたりまえのことがわからなくなる。わからなくなるというよりも、わからなくても書けるようになるのだ。

□(94-5)


「最初にヒトがいたのは確かだろうさ」と兄は勝手に話をすすめた。「しかし二世代目の人間はすでにそうじゃない。生まれる前から、外に言語空間があるんだ。この世の空間に生まれ出るということは、言語空間に身をさらす、ということだ」
〔略〕
「〔略〕子供は言葉を覚える。言葉というのは一種の時空認識のための構造だよ。現実認識、といってもいい。言語が異なれば、異なる現実認識をもつ。現実が異なるんだ」
「ま、そうだろうな」
〔略〕
「ようするに、言葉を使って他人の現実に干渉できる、頭をおかしくさせることができる、ということだ」
「そんなの、あたりまえじゃないか」
「生まれたときからおかしくされていると考えれば、あたりまえではすまん。あたりまえだと信じていることは実は言葉による幻想なんだと気づけば、おかしなことはいくらでもある。
〔略〕」

□(171-3)


「〔略〕意識することなく、自分が変えられてゆくとしたら、それは病気だ。侵入しているのは物語なんかじゃない、病原体だ。違うか」
「意識しないなにかが、侵入しているというのか」

□(175-6)


「貨幣制度そのものがおかしいんだ」と兄はサンドイッチにビールという食事を取りながら言った。「金も幻想だよ。ただの紙切れにすぎないのに、価値幻想を皆が共有することで、仮想世界が成り立っている。言葉も同じだ。ヒトは言葉を持ったときから幻想空間で生きるようになったんだ
□(189)

 ことばは常に、“本当のこと”と、ずれている。


言葉自体には嘘も真〔まこと〕もなく、意思に反した言葉が出てくるのが適切でない、というのだった。
 子供が明らかに嘘をついていることがわかっても、その言葉の育ち方が正しく相手に伝わるものならば、教師はその言葉の配列を非難することはなかった。嘘をつきとおすという意思に忠実に言葉を操る能力があると認めるのだ。ただ、教師に向かって嘘をつくという、その意図を、注意する。嘘を言葉にしてばかりいると、最初は嘘だと自分でわかるのは当然だが、自分で読みかえすうちにそれを生んだときの自分の思惑を忘れてしまい、うまく書かれていればいるほどそれが真実だと錯覚する恐れがある、それは言葉に支配されるということで、危険だと教えた。
 言葉にはそれを操る者自身を逆に操る力があり、言葉は危ないものなのだ、と子供は教え込まれる。一番危ないのが嘘をつくときだ、嘘の言葉がきみ自身を偽りの存在に変化させていくだろう、嘘をつかなければ、怖いことはなにもない、言葉は忠実な僕でいる、と。

□(215-6)


〈ポットの外に出た言葉は、操り手がいない。責任をとる者がいないわけだよ。それは言葉の死骸だ。紙に書かれた言葉というのは、死骸ですらない。それは言葉じゃなく、文字というもので、いってみれば言葉を人間が真似て作ったものだ。わかるかな〉教師は真顔になって説明する。〈そんな文字という言葉の偽物で書かれた本というものは、もはや書いた者にも訂正はできない。文字というものにはもともとアクティブな力はないからだ。毒にも薬にもならない内容ならどうということはないが、なかには世界を破滅に導くような言葉の配列を文字として著した本もあった。読んだ者がそれを言葉に変換して自分のポットにそれを移植し始めたら、アクティブな言葉を自分の考えだと疑わなくなるかもしれない〉
□(219)

 言葉が実体として存在する世界。そこでは文字は言葉ではない。


@研究室
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by no828 | 2011-06-01 16:30 | 人+本=体 | Comments(0)