思索の森と空の群青

onmymind.exblog.jp
ブログトップ

<   2011年 07月 ( 18 )   > この月の画像一覧


2011年 07月 30日

共著刊行のお知らせ

 タイトルのとおりの本であります。が、タイトルへと投じられたことばをそのままに語り、諸手を挙げて称揚するのではなく、これらのことばを語ること・行なうことの難しさ・危うさを反省的に経由し、それでもなお、それらのことばを掲げることの意味が思考されています。もちろん、その営みをこの本で完遂できたとは思いませんし、完遂してもいけないのですが、表紙の、とくに右上に描かれたような、光のある方向を指し示すことはできたのではないかと思います。全25章、わたしの文章は第5章に収められました。

c0131823_18524310.jpg


 ぜひお手に取ってください。よろしくお願いします。

 amazon

 bk1

 楽天ブックス
 

@研究室
[PR]

by no828 | 2011-07-30 18:57 | 掲示板 | Comments(0)
2011年 07月 30日

優柔不断ということですが、ふるまいに一貫性がないのもまた嫌なんです——仲俣暁生『〈ことば〉の仕事』

c0131823_15572071.jpg
62(384)仲俣暁生・大野純一『〈ことば〉の仕事』原書房、2006年。

版元




 小熊英二、山形浩生、佐々木敦、小林弘人、水越伸、斎藤かぐみ、豊﨑由美、恩田陸、堀江敏幸へのインタビューとその写真。


□小熊
 大学に行くのは週二日。残りの平日は朝七時半か八時くらいに起き、朝九時には作業を始めるという。日曜日は翌日の授業のための準備と、バンド活動を行っているので、そのリハーサルに充てている。大学の研究室に籠もるタイプではなく、仕事はもっぱら自宅でするという。研究の合間には地元の街を歩き、図書館や古書店をのぞいてまわり、ゆきつけの喫茶店で一息つく。
□(14)

 研究者の、とくに「すごいな」とわたしが思う研究者の“日常”には関心がある。何時に起きて、どこで研究するのか、本はどのように読むのか、……。


□小熊
「でも、私はかつて出版社に勤めていて、注文を出す側にいたから、極端に言えば雑誌なんて、『たいした内容のない原稿が多少あってもとにかく誌面が埋まってさえいればいい』という一面があることを知っている。だから、注文を受けてマスコミ上で発信してゆくことが世の中に役に立つことだ、とは考えていないんです。実際、これまで私が出した本は、すべて自分から出版社に原稿を持ち込んだもので、依頼されて書いたものではありません
□(15-6)
□豊田
「誰に言われたかは忘れたんですが、ライターは書いたものが名刺なんだ、その名刺で呼ばれるべきで、自分から編集部に行って『読んでください』なんて言っちゃだめだって言われて、なるほどと思った。どこまでやっていけるかわからないけど、営業は一切しないぞと決めたんです。実際、一度も自分から売り込みに行ったことはありません」
□(186)

 答えだけ、考えだけ見れば、対照的。しかし、その理由には、いずれも納得。

「ライターは書いたものが名刺なんだ」というのは、研究者にも当てはまるように思われる。学会大会の懇親会でセンセにお酌して名刺を配りに行く院生を眺めていると、「何か違うよな」と思う。だからわたしは行かない。


□小熊
「私が学問をまともに始めたのは、三十歳前後になってから。いまの大学院生を見ていると、もちろん例外もいるけれど、この研究がやりたいから大学院にいくというのではなく、大学院にいくために研究テーマを探している。つまり極端にいえば、研究をすることより、大学に先生として就職することが目的になっている。そうなると、そのときの学界の流行や、先生から言われたことに研究テーマが左右されやすい。でも、そういうふうに選んだテーマだと文章に迫力が出てこないし、できあがった論文に他者性がなくなってしまう。ある狭い範囲、たとえばゼミのなかの人間関係や、ここ十年くらいの学界の流行を知っている人たちの内側だけでしか通用しないものになってしまうんです」
□(21)

 いますね、わたしの周りにも。


□小熊
何年間か教えてきてわかったことは、とくに学部の一年生などは、必ずしも講義の内容を聴いているのではないということ。一生懸命聞いていたり、毎回講義に来たりするけれど、内容を百パーセント咀嚼して理解しているわけではない。じゃあ彼らは何を求めて講義に来ているかというと、ちょっとうまく表現するのが難しいですが、教室という場で〈何かが起きている〉ことを期待している。教師の言っていることが完全にはわからなくても、何か新しいことが言われているらしいぞ、新しい考えがこの場では湧き出ているようだぞという印象、ある種の生命感みたいなものを求めているらしいですね。
 だから、同じ内容の講義でも、こちらの気が乗っているときと乗っていないときでは明らかに違う。つまり、内容もさることながらこちらの話し方、といっても技術的なことではなくて、気合いが入っているかどうかとか、その場で教師が一生懸命やっているかどうかみたいなことが大きい。若い人間を教育するというのは、知識をきちんと教えるということも大切なことだけど、こちらが本気で『教育という仕事』をしているところを見せることが大切みたいです

□(27-8)


□佐々木
ぼくは『考える』ことは好きだけど、結論を出すことに興味がない。結論が思いつくんだったら、それを最初に書けばいいわけで。それよりも、自分が考えたりしているプロセスをそのまま書きたい、という気持ちがだんだん強くなってきた。おかげで批評的なこととエッセイ的なことが混じったような文章を書けるようになってきて、それはすごく自分にも新鮮に思える」
□(88)
 

□豊﨑
小説の書評をやっていて面白いのは、ひとつだけの正解っていうものがないこと。この本の読み方で正しいのはひとつだけなんてことはなくて、どういう角度でどういうところをクローズアップするかで全然違うでしょう。理系や数学者になった人がよく、子供の頃から算数が得意で、答えがひとつだけなのが気持ちよかったなんていうけれど、私は逆で、答えがひとつしかない状態は気持ちが悪かった。自分が正解のほうに含まれなかった場合の恐怖を考えてしまう性質だったんです。小説というのはそういう線引きがないもので、どんな立場にも足を掛けることが可能な文章表現だし、そういうところのほうが私は落ち着くし、いて楽しいんですよ」
□(178)

 中学のとき、担任でもあった数学の先生から、「おまえは、難易度の高い証明の問題なんかに、時間をかけてじっくり取り組むのが向いているな」と言われたことをいまでも憶えている。当時は「はぁ」ぐらいにしか答えられなかったはずだが、どこかでわたしのことを規定してきたのかもしれない。研究は、つまりはそういう行為だと思うから。

 わたしは、答えを出したい派である。答えはひとつしかない、というのはつまらないが、答えはいろいろあっていい、というのもつまらない。いくつかの答えがきちんと出しうる、そして、答えまでの道筋もきちんと示しうる、というのがよい。

 わたしは数学の単純計算問題が好きではなかった。1+1=2、のような。なぜそうなるのか、説明は存在するはずなのに、それを省略する、だからよくわからない、ゆえに好きでない。証明はきちんと〈あいだ〉がある。だからこうなる、ということがわかる。それに、証明の仕方はいくつかある。やりようによっては、たぶん正反対の答えも出せる。そういうのに惹かれた。


□豊﨑
「たとえば、中上健次が生前『ダカーポ』でやっていたみたいに、新聞や雑誌の書評を全部読んで、評価するみたいなことを私はやってみたい。同業者からはものすごく嫌われると思うけど、この書評はどうしてダメなのか、どこがいいのかということを、私の観点から書いてみたい。先達に立派な書評家がたくさんいるのに、ここまで弱体化してしまったのは、私も含め、書き手の側の努力が足りないせいだと思うから
□(192)

 この思いは、『ニッポンの書評』へと結実した(→ )。


□堀江
「ジャンルがどうあれ、ひとたび書かれたものは、すべてフィクションであると、これまで繰り返し述べてきました。それを、個人的に、『強いフィクション』と呼んでいるんです。フィクションというと、日本では物語ある作品を思い浮かべがちだけれど、ぼくに言わせれば、それは『弱いフィクション』にすぎない。つまり、素材が現実の出来事であったとしても、いったん言葉にしてしまったら、それらはすべて、すごくリアリティのある〈嘘〉の世界に入ってくる、ということなんです。学術論文でも、新聞記事でも、その意味ではみなフィクションだと思うんですね。論文であれば、膨大な資料をどうあつかい、なにを切り取って、なにを付け足すかによって、書く人、引用する人の個性が出てくるわけですから」
□(236-7)

 この〈嘘〉は、書かなくても、話すときにも感じることがある。ことばは常に逃げていく。


□堀江
 そういえば、堀江さんの本の題名や文章には「一階でも二階でもない」「中心でも周辺でもない」といった、非決定を意味する言葉がしばしば使われている。
「タイトルはいつも書いたあと決めるので、気がつくとそうなっていたという場合が多いんです。なんていうのか、決めるのが苦手なんですね。乗り物の座席でさえ、すぐに決められない。優柔不断ということですが、一方で、ふるまいに一貫性がないのもまた嫌なんです
 この「決められない」という態度の底には、あんがい深い決意がこめられていると私は思う。逆に、いまはあまりにも何かを「決める」ことが拙速に行われすぎているのではないか。

□(242-3)

 共感。非常に共感。


@研究室
[PR]

by no828 | 2011-07-30 17:29 | 人+本=体 | Comments(0)
2011年 07月 29日

農業漁業をやめるなと言うことは「貧乏に耐えろ」と言うことと同じ——吉本隆明・辺見庸『夜と女と毛沢東』


c0131823_16115470.jpg
61(383)吉本隆明・辺見庸『夜と女と毛沢東』文藝春秋(文春文庫)、2000年。

※ 単行本は1997年に同春秋より刊行。

版元




 吉本と辺見との対談集。



辺見 奴隷というのは、奴隷同士の会話では互いに主人の自慢をしあって、「俺の主人の方がよっぽど立派だ」みたいに張り合うらしいですね。
□(24)



吉本 ただ、ここを離れずに動かなくてもわかることは、いっぱいあると思うんです。たとえば僕がある時期に熱中していたヘーゲルやマルクスの歴史認識、歴史理解の概念、一言でいえば「段階」という概念ですが、これは圧倒的な認識力をもたらしてくれたと思っています。たとえばヘーゲルは『歴史哲学講義』で世界史をアフリカもアジアも含めて縦横無尽に説いていますが、勿論、彼はアフリカもアジアも行ったことがない。しかしこの人の認識は実に的確だと思います。見事な抽象化、普遍化だと感嘆します。
 ですから僕はここにいて離れずに、ヨーロッパのこともアメリカのことも、だいたい理解できていると信じています。概念の形式を使って、相当なところまで物事は把握できると信じています。とはいえ、実際に体験しなきゃ危ないぞという懐疑は、いつでも抱えてきたと思ってはいるのです。

□(46-7)

辺見 吉本さんは直接的経験を、どこかで執拗に拒否しようとされておられるように見える。
□(198)



吉本 連合赤軍のときにもやはり〔地下鉄サリン事件と〕同じような空気になって、赤軍側に理解を示すような発言をしたら抹殺されかねないような有り様でした。そのとき加賀乙彦さんが、あれは気違いのやっていることだから情状酌量の余地はない、という発言をされた。僕はそりゃあまりに単純な見方だと憤慨して、反論したことを覚えています。そうじゃない、人間性の中にはある条件が揃って追い詰められると、敵を作りだしてこれを粛清するという習性が含まれているんだ。連合赤軍事件は例外的なケースじゃなくて、いつでもどこでも起こりうることなんだ。自分だけがそういう条件から免れていると思うのは間違いだ、と反駁しました。
□(61)



辺見 要するに、〔地下鉄サリン事件では〕敵が明確に措定されていない。
吉本 そうなんです。
〔略〕
辺見 「敵を措定しない」というのは近代思想の中にはなかったですね。そういう新しい暴力の形を彼らは不意に差し出してきた。

□(62-3)



辺見 〔阪神大震災で〕もう一つ驚いたのは、数日たって水が出て、電気が回復したりするわけですけれども、現地の若い人たちの多くが何に一番喜んだかというと電話だというんです。つまり水とか光とかいう生活の実感よりも、常に関係性というんですか、人と人との関係をこよなく願っている。僕はその話を聞いてちょっとギクリとしましたね。
□(76)



辺見 重みのある言葉なんかテレビからは出てこない。だから『朝まで生テレビ』なんかくだらない討論番組は僕は見ない。あれは思考を刺激するのではなく、感情を刺激するだけの、論理圧殺番組です。第一、人をゆっくり喋らせないでしょう、あの番組は。あれが嫌なんです。テレビに出て一番嫌なのはそれなんです。所与の単位時間でモノを喋らせる。テレビは言い淀むということを許さない世界ですから。しかし人間はやっぱり言い淀むものだと思う。
□(100-1)



吉本 いや、それは全くその通りです。恋愛とか性というのは行為であって認識ではないですから
□(163)



辺見 最近、ヘルマン・ヘッセについて書かれたものを読んでドキッとしたんです。彼は家庭がうまくいってなかった。さっぱりダメだった。だから大きな仕事ができなかったと。彼はファシズムに対して批判的な言説を残しています。しかしそれを充分に展開しうる安定性が、作者の側になかったと言うんですね。
□(165)



辺見 開高健が書いていたハイエナ・コンプレックスという言葉を思い出します。彼は作家だけれど新聞社の特派員のような立場でよくヴェトナムやアフリカへ行っていたでしょう。飢えたり戦争をしている人間たちを取材して、自分は空調の効いたホテルでものを書いて、一枚いくらの原稿料をもらう行為に、腐肉をむさぼるハイエナのようないかがわしさを感じていたというんですね。彼はそれをハイエナ・コンプレックスであると書いているのです。一見派手にやっていた開高さんの、そこがいいところですね。
□(201)



辺見 いま大量殺戮というものをしからしめるのは軽薄さというか、思想の薄さなのかもしれないと思いました。米国の歴史心理学者のロバート・リフトンは、崇高な思想が大量殺戮を可能ならしめると語っていますが、この逆も今はあり得るかもしれないということです。
□(206)



辺見 今、アメリカで流行っている言葉に「ニンビー」(NIMBY)というのがあります。これは「not in my backyard」——のアクロニムで、俺んちの裏庭じゃまっぴらご免だよ、というのが直訳ですね。どういうふうに使うかというと、たとえばホームレスに対して援助するのは賛成だけど、でもわが家の庭に彼らに入り込まれるのは嫌だよ。たとえば原発は絶対反対、しかし今までのエネルギー消費のスタイルを変えるのは嫌だよ。有事立法についても口では賛成、でも自分が兵隊に行くのは嫌だよ……。つまり総論賛成・各論反対、高邁に世界を語り、世の不正を憂えもするけれど、わが身は世界から切り離すという、日本でも典型的な考え方ですね。こうした、わけ知り顔で手前勝手なご都合主義の態度を称して「ニンビー」というわけです。
□(233)



吉本 今の保守の人は外国から侵略があったら、自衛隊が自衛権を発動して、戦争をやって国を守ってくれるという考え方をしていると思うんですが、僕はそういうのはダメなんです。
 なぜかと言うと、自分が自衛隊の兵隊になれない限りは、防衛力は必要だとか、自衛権はあるんだなんて言うまい、というのが僕の考え方なんです。どこかの国が日本に攻めてきたとして、俺は何もしないけど、自衛隊が代わりに戦ってくれるだろうというのは、僕は戦中派として絶対に認められないんですね。反対に、自衛隊が戦わなくても、俺は自分で何かするかもしれないぜ、と思うことはあるんです。だから僕は、戦後民主主義の人みたいに絶対平和主義ではないんです。やり方はともかく、攻めてきたら、個人の喧嘩を吹っ掛けられたときと同じです。「おう、やってやろうか」って気持ちはあるんです。
辺見 私は吉本さんからまさにそのことをお聞きしたかったのかもしれない。

□(242)



吉本 以前、米不足で日本中大騒ぎになったことがありましたね。そのときも僕はこう言いました。自然相手の第一次産業はこれから縮小する一方で、これ以上拡大はしない。魚をとるのもお米を作るのもやめたい人はやめたほう〔ママ〕がいい、と。
 これ、大変な暴論に見えるでしょう。しかし漁師や農家に今の仕事をやめるなと言う方が横暴ではないのか? いいですか、漁業も農業もこれに従事しているかぎり、都会の消費産業に従事している人のように富を蓄積することはむずかしい。要するに農業をやめるな、漁業をやめるなと言うことは、「お前ら貧乏に耐えろ」と言うことと同じなんですよ。こっちの方がよほど傲慢無礼な物言いじゃないですか。
 あのときも共産党や社会党、物わかりのいい顔をした知識人たちは、みんな農業を大切にしろと叫んだ。しかし僕は敢えて反対の立場をとって、「お前ら、貧乏を他人に押しつけて平気なのか。そういう思考が反動的なんだ」と反駁した。〔略〕「俺、もうやめた。こんなのシンドクておカネが入らなくて、少しもゆとりがない。こんな職業はやめて他のことをやりたい」という人が出てきたら、それこそ転業資金を貸し付けるなり、提供するなりして、しかるべき施策をとって、やめたい人はやめさせた方がいいと思う。また何としても漁業を守るんだという人がいれば、産業資金を提供して精一杯の援助をしてあげる。そういう問題の解き方しか僕にはできないんです。
 じゃあ日本の食糧供給はどうなるんだ、と糾弾されるでしょう。それに対しては、世界的な地域役割分担に頼らざるをえない。ただしその役割分担に対する見返りとして、相応の贈与をおこなう、と僕は答えるしかない。

□(263-4)


@研究室
[PR]

by no828 | 2011-07-29 17:47 | 人+本=体 | Comments(0)
2011年 07月 28日

恋愛とは“お互いに好き合っている”という状態を達成する為の模索期間である——橋本治『女性たちよ!』

c0131823_14253361.jpg60(382)橋本治『橋本治雜文集成 パンセⅠ 女性たちよ!』河出書房新社(河出文庫)、1995年。

※ 単行本は1989年に同社より刊行。

 版元

 橋本治の女性論の寄せ集め。すでに発表されたもの、発表されていないもの、いろいろ。

 ちなみに、伊丹十三には『女たちよ!』がある。出版されたのは伊丹が先のはずだが、橋本治はこのあと『橋本治雜文集成 パンセⅡ 若者たちよ!』を出すのである。



 あなたに自分を省みる心があるのなら、あなたの思う“ダメ男”とは、その反対なのです。“ダメ男”とは、決して自分のことをダメ男とは思わない人種のことをいいます。そういう男と付き合わされると、あなたは一人で“あたしが間違ってるのかしら? あたしはイヤな女なのかしら、でもイライラするわ。そうするとあの人はあたしのことヤな女だっていうわ。そういう時のあたしってヤな女だと自分でも思うわ。あたしってヤな女ネ。アア、どうしよう”という悲惨な一生を送ります。そう思わせる彼氏は、だからダメ男です。今の世の中がダメなのは、こういう男が一杯いるからです。
□(21-2)



でも、大体の場合、男というものはそういう時に、憎ったらしくなって女をいじめるものなのです。だから、セックスってのは、いっくらでも激しく、燃え熾ることが出来てしまうのです。こんなことはあんまり面白い話じゃないから、普通の男はあんまり口にしません。“愛”なんてものを口にする男がどっか頼りなげで嘘くさいのは、普通の男じゃないからです。普通の男は、女を誤魔化すのはフェアじゃないからと思って、騙すぐらいなら黙ってた方がましだと思っているだけなのです。だから、男が真面目な顔をして、やさしげに“愛”なんてものを語り始めたら、眉に唾つけるしかないのです。
〔略〕男は女を愛し始めるのですが、ズーッと愛し続けるわけじゃなく、途中で憎たらしくなっていじめまわすわけです。この状態を“愛が激しく燃え熾っている”と普通は間違えて言っています。それでは、なんで愛してる筈の男が途中で女をいじめ始めるのか、という話をします。それは簡単です。“いいわ……”と言った途端に、女の人は目をつぶり、そのまんまズーッと目をつぶっているからです。
 それでは何故女の人は目をつぶるのか? それは、目をつぶっていた方がズーッと気持ちがいいからです。
〔略〕
 目をつぶっちゃう方はイイです。なにしろ気持ちいいんですから。でも、目をつぶられた方はたまったもんじゃありません。普通は、“愛してる”と言う側は、“じゃ、愛し合おう”という言葉を期待してるもんです。でも、“愛してる”と言った途端、言われた側の方は、“愛されてる”と思って勝手に目をつぶってしまいます。“いいわよ”と言うのが愛情表現だと思ってるから、目をつぶって、“サァ”と相手に自分を投げ出すのです。
〔略〕“愛し合おう”って言って“ウン”て言ったのに、事態は既に“サァドウゾ”という肉体しかないわけで、初めは男も“それが愛し合うことなんだ”と思っても段々にその肉体のドデンとしてる感じ、なんだか一人で勝手にイイと思ってる感じに頭来て、しまいにはいじめつくしちゃうようになるのです。

□(27-8)



 はたして女はセックスが好きなのかどうか? という根本的な疑問がある。〔略〕正確なところ、女はセックスよりも“愛”の方が好きなのである。なぜか? 単に、セックスはメンドクサイからである。“愛”というものは包みこむものである。だからして、女は何もしなくてただ座っているだけでも“愛に包まれる”ということは可能となるのである。
□(58)



 さて、“自主性”というのはメンドクサイ言葉である。自分の自主性だったらそんなもん自分のことだからどうとでもなるのだが、こと話が、“他人の自主性”ということになるとほとんどがメンドクサイ。他人のことは他人のことだからよく分からない。分かってはいけない、分からないということにしておくべきだというのが“人権宣言”以後の実情なのであった。他人のことを分かると「フン、分かってふりして!」と冷笑されたり怒られたりするのが現在だから、他人のことを分かったふりをしてはいけないのである。
□(127-8)



“愛している”“お互いに好き合っている”という前提が出来上がってしまったら最早それは恋愛の終りである〔略〕。恋愛というものは、結婚の足がかりを模索するものではなくして、“愛している”“お互いに好き合っている”という状態を達成する為の模索期間なのである。
□(135)

 これは橋本治『恋愛論』で論じられたことらしく、かなり前に『恋愛論』を読んだわたしは、しかしそれを覚えていない。



 私が今、「気に入らねえなァ、気に入らねえァ」と言いつつもよく聴いているのは、沢田研二の『カサブランカ・ダンディ』なのであります。〔略〕この曲の最高に気に入らないのは“しゃべりが過ぎる女の口をさめたキスでふさぎながら云々”という所で、今一番必要なのは“しゃべりが過ぎる女の口”に対しては、ひたすら耳を傾けることだと僕は思うからなのですネ。何故かというと、その女の口から聞こえてくるものというのは、いまだかつて聞いたことのない、一番新しい、そして多分今一番必要な思想だからなんですネ。
 大体男は歴史が始まってから、五千年以上も女の口を塞ぎ続けてきたんだもん、言いたいこと聞いてやるのが筋だと思うのネ。〔略〕

□(209-10)



 ローマ帝国の女ってのは結婚しても名前が変わらないんです。なぜ変わらないかと言うと、それは女の人権が保障されていないからではなくて、女というのが父親の所有物だから、「所有物として父親の名前をずっとひきずっているべきだ」という思想が根底にあるからなんですね。
□(263)

 前にどこかでこの点を読んだ。そして夫婦別姓問題を想起した。今回も同じように想起した。すなわち、“妻=女はそれまでの自分の名字を維持するべきだ”という夫婦別姓肯定派内部のひとつの立場は、つまりは“妻=女は父=男からもらった名字を維持するべきだ”を意味し、妻=女が名字をもらう主体が夫か父かで違うわけではあるものの、夫=男=父であり、結局は“名字を男からもらう”という点において変わりはなく、“女は男からもらった名字を維持するべきだ”と主張していることになる、ということである。

 だから何なんだという、その先はとくにないのだが、夫婦別姓問題は一体どこに行ったのか、ということを、ふと、思ってみたりはするのである。

@研究室
[PR]

by no828 | 2011-07-28 15:26 | 人+本=体 | Comments(0)
2011年 07月 27日

教員ごときが子供たちに熱く何かを語ろうなんて、勘違いも甚だしいのではないか——湊かなえ『告白』

c0131823_14581499.jpg59(381)湊かなえ『告白』双葉社、2008年。


版元


 ぶくおふにて105円。読みたいと思っていたのは、2009年本屋大賞第1位だから、ではなく、学校を舞台にしている(と聞いていた)から。小説の内容自体には、とくに感想を持たない。結末は予想できた。むろん、結末が予想できる小説はよい小説ではない、ということが言いたいわけではない。

 教育関係者は読んでおいてよい。

 以下、共感できるポイント基本的に引用。



「どうして高校ではなく中学の先生になろうと思ったの?」同じ教育者になるなら義務教育の現場に挑戦したいと思ったからです。高校は辞めたくなれば辞めればいいのですから。逃げ場のない現場にいる子供たちに関わっていきたい、そんな志を持っていました。私にも熱い時代があったのです。
□(9)



でも、あるとき思ったのです。完璧な人なんてどこにもいない。教員ごときが子供たちに熱く何かを語ろうなんて、勘違いも甚だしいのではないか。子供たちに自分の人生観を押しつけて、自己満足しているだけではないか。結局、子供たちを上から見ているだけではないか。一年間の休職が明けS中学校に赴任することになった際、私は自分にルールを設けました。子供たちを呼び捨てにしない。出来る限り同じ目線に立ち、丁寧な言葉で話す。この二つです。
□(11)

 もちろん、子どもを呼び捨てにせずに丁寧な言葉で「何かを語」り、「自分の人生観を押しつけて、自己満足」することは可能である。淡々と「何かを語」り、あるいは多くを語らずに、「自分の人生観を押しつけて、自己満足」することは可能なのである。



みんなは学園ドラマを見たとき、思ったことはありませんか? 熱血先生と問題を起こす生徒、両者は何か事件が起こるたびに深い信頼関係を築いていきます。では、エンドロールに何年何組の生徒たちとしかクレジットされない、その他大勢の立場はどうなるんだろう、って。〔略〕道を踏み外して、その後更生した人よりも、もともと道を踏み外すようなことをしなかった人の方がえらいに決まっています。でも残念なことに、そういう人には日常ほとんどスポットが当てられません。学校でも同じです。そして、それが毎日まじめに生活している人に自己の存在価値への疑問を抱かせ、時として、マイナスの思考へと向かわせていく原因になっているのではないでしょうか。
□(12)

 だから自分の存在価値を承認するため・させるためであれば自分より弱い者に暴力のベクトルを向けてよい、ということにはならない。



 あの日、悠子先生は私たちに少年法の話をしましたよね。私は守られている方の立場ですが、先生が話す前から、少年法に疑問を感じていました。
 例えば「H市母子殺害事件」の犯人である少年(今はもう少年ではない年齢ですが)は、女性と赤ちゃんを殺しました。遺族の方が、二人が、どんなくだらない理由で、どんなひどい殺され方をしたか、また生前、自分たちはどんなに幸せな毎日を送っていたか、という話をしているのを、何度かテレビで見たことがあります。
 それを見るたびに私は、裁判なんて必要ないじゃないか、犯人を遺族に引き渡して、好きなようにさせてあげればいいじゃないか、と思っていました。〔略〕被害者の遺族には、犯人を裁く権利を与えるべきだ、裁判は、裁く人がいないときだけ行えばいい、と思っていました。
〔略〕
 でも、この手紙を書いている今は、少し考え方が変わりました。
 やはり、どんな残忍な犯罪者に対しても、裁判は必要なのではないか、と思うのです。それは決して、犯罪者のためにではありません。裁判は、世の中の凡人を勘違いさせ、暴走させるのをくい止めるために必要だと思うのです。
 ほとんどの人たちは、他人から賞讃されたいという願望を少なからず持っているのではないでしょうか。しかし、良いことや、立派なことをするのは大変です。では、一番簡単な方法は何か。悪いことをした人を責めればいいのです。それでも、一番最初に糾弾する人、糾弾の先頭に立つ人は相当な勇気が必要だと思います。立ちあがるのは、自分だけかもしれないのですから。でも、糾弾した誰かに追随することはとても簡単です。自分の理念など必要なく、自分も自分も、と言っていればいいのですから。その上、良いことをしながら、日頃のストレスも発散させることができるのですから、この上ない快感を得ることができるのではないでしょうか。そして、一度その快感を覚えると、一つの裁きが終わっても、新しい快感を得たいがために、次に糾弾する相手を捜すのではないでしょうか。初めは、残虐な悪人を糾弾していても、次第に、糾弾されるべき人を無理矢理作り出そうとするのではないでしょうか。

□(72-4)

 特定の方向になだれ込んでいくのは、危険。言論においても。


@研究室
[PR]

by no828 | 2011-07-27 15:52 | 人+本=体 | Comments(0)
2011年 07月 26日

今まで書いたものすべてがその人の武器であるし、力なわけで——土屋賢二・森博嗣『人間は考えるFになる』


c0131823_1436355.gif
58(380)土屋賢二・森博嗣『人間は考えるFになる』講談社、2004年。

版元




 哲学者と工学者との対話。

 ちなみに、わたしは「論理」というものを土屋のエッセイから学んだ。



森 思うように操るというか、書きながら想像するわけです。「あの人が読んだらこう考えるな」とか「あの人が読んだらこういうふうに勘違いするな」とか「うちの奥さんは、ここで絶対疑うだろう」なんて。そのうち、それを利用しましょう、となる。
土屋 だから、それは典型的な詐欺師の手口ですよ(笑)。
森 初めからこう騙そうと決めて書いていくより、こう相手が出てきたらこう、こう考えてきたらこう、というふうにその場その場で相手のベクトルを利用して切り返した方が、切れ味が良くなると思います。

□(15)

 論文を書くうえでも大事。たとえば、“これについてあの先生であればこう言ってくるに違いない”とか、異論反論を予想して書きすすめる、異論反論をバネにして書きすすめる。この“あの人であれば”というのをどれくらい想定できるかが大事になってくる。



森 〔略〕今書けるか書けないかなんて、作家には全然関係のないことであって、今まで書いたものすべてがその人の武器であるし、力なわけで、書けば書くほど力は増してくる。今は駄目なんてことはない。
土屋 ああ、なるほど。
〔略〕
森 悪い作品を書くぐらいだったら書かない方が良い、良い作品だけ残した方が良いって、そういう気持ちがエンジニアとして理解できないんです。どんなものでも誠実に作っていれば、その人のものだし、なんらかのプラスになると思うんですが。

□(29)



森 工学は、専門的なもので先生の力が示しやすいんですよ。学生たちを圧倒できるというのがありますね。数学もそうです。学生にはわからないのに、先生にはわかるという状況がある。だから、力の差が歴然としていて、これはもう教えてもらうしかない。そうなると、〔先生を〕批判的には見られない。その力の差が、わかりにくい分野もあると思います。
□(43)

 土屋は、哲学はそうした差がわかりにくい分野だと言う。「語学力」や「哲学史の知識」の多寡はたしかにあるが、それは哲学にとって本質的なものでないと言う。

 同意。

 しかし、「教育」には、そしてときに「学習」にも、この教え手と学び手とのあいだの圧倒的な落差が必要とされる。



土屋 文献は読みますけど、必須ではないんです。だから、全く文献を読まないで素晴らしい哲学書を書くということは、可能なんです。凄く偉い哲学者って大体そうなんですけども、他人のものはあんまり読まない(笑)。
□(65)

 同意。しかし、日本の諸哲学は、先人の残したテクストの解釈、思想の抽出に傾注しているように見受けられる。だが、それは哲学史、思想史なのであって、“哲学する”という営みとは必ずしも言えない。
 


森 研究はしたい。でも、教師にはなりたくない。
土屋 そうそう。ケーキは欲しいけど太りたくないみたいない(笑)。僕たちの研究は実験がないから、やろうと思えば個人でできるんです。本代は必要ですけどね。それで、不動産屋になろうと思ったことがあって。
森 不動産屋ですか?
土屋 そう、できるだけ少ない労働時間で大きい収入が得られるかと思って。できれば一攫千金とかね。で、不動産屋の免許とって、実際三ヶ月くらいやってみたんです。計画段階では完璧だったのに上手くいかなかったんです。巨万の富がすぐに手に入ると思ってたのに。計画は緻密に立てても駄目ですね。緻密に立てなくても駄目だけど。

□(69)

 わたしも不動産屋の免許を(以下省略)


森 人に教えるのとかって、嫌ですよね。なんか、おこがましいと言うか。
土屋 そうそう。

□(71)



土屋 でも、研究の時間って年々少なくなってますけどね。
森 そのとおりです。大学の先生っていうのは、もっと暇にしてなくちゃいけませんよね。部屋でいつもごろごろして難しい本読んでて、何やっているかわからないというのが、学生から見たら憧れの姿だったんですよね。
〔略〕
森 理想の大学教授は「となりのトトロ」のお父さんみたいな感じかな。田舎に住んでいて、何してるのかわかんないってお父さん、いたじゃないですか。あれは大学の先生ですよね。あんな田舎に住んでて、出勤は大丈夫なのかな、とは思いますけれど(笑)。でも、あれが学者のイメージで、何をやってるのかわからないけれどお金が入ってきて良い商売だなって。そう思うと、子供も憧れるんじゃないですかね。

□(73)

 そういう観点から「となりのトトロ」を観たことがない。


土屋 研究の仕事は完全に好きでやってらっしゃるんですか? 研究から逃れたいっていう気持ちはありますか。
森 研究からはないです。でも研究以外のものからは逃れたいです(笑)。研究対象が面白いというよりは、工作と一緒で、作ってる過程が面白いと感じます。
土屋 それは給料をもらってなくても、やりたいことですか?
森 もちろん。

□(101)



森 〔略〕ミステリィファンというのはミステリィの九割が嫌いな人たちのことです。ミステリィファンに限って「こんなのミステリィじゃない」と言う。「うるさがた」という形容が適当だと思います。
□(105)

「研究者というのは既存の研究の九割が嫌いな人たちのことです。研究者に限って「こんなの研究じゃない」と言う」。



森 〔略〕殺すとか憎むというのは、基本的には相手になにかを求めているんですね。求めて得られないから反対の感情が出てくるのだと思います。
土屋 え、何を求めているんですか?
森 愛されたいとか、関係をもっと深くしたいとかでしょうか。元から人間関係にあまり期待していない人間はもつれないわけです。

□(110)



森 そうですね。他人から好かれたいというところが人間の弱さなんですよね。自分が好きになるのは良いですけれど、好かれたいと思うのは非常に弱いとか醜いというイメージがありますね。
□(126)



土屋 ディオゲネスなんていう特殊な人がいて、一人で樽の中で暮らしていたわけですけども、あれはほんとに異端みたいな感じだった。ディオゲネスは、ソクラテスを崇拝していたんです。
森 それと樽が関係するのですか?
土屋 関係ありません(笑)。ソクラテスは死刑になったんですけれども、ディオゲネスみたいに樽の中で暮らしてたら死刑になんかなってないです。
森 なるほど、社会性があったから社会に殺されたわけですね。
土屋 そう思うんです。

□(128)



森 みんなで力を合わせなきゃいけない場面になれば、人間は力を合わせますよ。協調性とかってあまり無理に求めなくても、たとえばチーム組んで今からサッカーやろうとなったら、みんな話し合ってちゃんと力を合わせます。明確な目的さえあれば、協力するように人間はできている。何も目的がないときから、みんなで一致団結して声を揃えようという、今までのやり方の方がおかしかった。
□(134-5)



森 ジェットコースタは、乗っているときが楽しいというのは倒錯ですよ。本当は乗っているときは怖くて、終わったときにほっとして、「怖かったね」というのが楽しい。
□(139)



森 そうです。小説書いていて思ったんですけれど、次はこうなると思いついても、その途中がないんですよ。そこは埋めていかなきゃいけない、相手に説明するときに。見せたいシーンまで持っていくのが凄い大変。
土屋 その目的の場面を盛り上げるために、いろいろ状況を作っていく。
森 そうです。そういう場面にもっていくために、いろいろ辻褄を合わせる。

□(144)

 逆算。結論からの逆算。哲学の論文もそうなのでは? と思った。「事実(〜である)」を記述・説明する自然科学・社会科学とは異なり、「抗事実」「価値(〜であるべき、〜が大事)」を提示していく哲学(の一部)は、先に言いたいことがあり、その言いたいことが妥当である、正当であることを論じていくというのが実際であろうと思う。もちろん、社会科学の場合にも、研究者自らが大切であると信じる価値を、直接論じるのではなく、「事実(事例)」のなかから見つけ出してきて、“ほら、こんな「事実」があるんですよ、大切なんですよ”というふうに持っていくことがある。“自分では語らず、相手に語らせる”ということである。わたしからすれば、“正々堂々と価値を論じなさいよ”と思うわけだが。そして、そもそも“「事実(事例)」として存在するから価値がある”とはすぐには言えないのだが。



土屋 〔略〕僕は哲学でも実生活でも、問題の所在はわかるんですけども、答を導くのが苦手なんです(笑)。
□(153)

 Me, too. 哲学は問題解決型ではなく問題発見型の学問だと思う。(わたしの出身学類に求めたいのも、問題発見型のカリキュラムである。あそこは問題解決型だから、そもそもなにゆえにそれが問題だと言えるのかという点の探究が疎かであったとわたしは思う。それが問題だと言うためには価値判断を経由しなければならない。価値判断には根拠が付帯されなければならない。その根拠をどこから持ってくるか。それを教科書内容や既存の政治的合意からただすぐに持ってくるのは、「考えている」とは言えない。もちろん、本気で考えはじめたら(ということは、疑いはじめたらということをも含むから)「実務家」にはなれないのだが。)



森 小説家っていうのは、最後に「完」って書ける人のことだと思うんです。誰でも書き始めることはできます。小説家だけが話を終わらせることができる。どこで話を終わらせるか、というのが非常に難しい。
□(160)


@研究室
[PR]

by no828 | 2011-07-26 16:04 | 人+本=体 | Comments(0)
2011年 07月 25日

もうアカンってくらいきつくなってからが、本番——佐藤多佳子『一瞬の風になれ』

c0131823_1526940.gifc0131823_15263058.gifc0131823_15265531.gif


57(379)佐藤多佳子『一瞬の風になれ 1・2・3』講談社、2006年。

※ 3部作を表す「1・2・3」は、「イチニツイテ・ヨウイ・ドン」と読む。

版元1 版元2 版元3


 陸上競技、とくにショート・スプリントに賭ける高校生を描いた作品。ようやく入手(ぶくおふにて各105円)。ずっと読みたいと思っていた。「2007年本屋大賞」「第28回吉川英治文学新人賞」受賞作、だからではない。わたし自身が中学・高校と陸上競技に取り組んできたからだ(ショート・スプリントではなくロング・ディスタンスだが)。それゆえに読みたいと思い、しかし正直に言えば、同時に読みたくはないとも思っていた。

 わたしはそれほど速くなかった。それに、きちんと競技のことを考えて取り組んでいたわけではなかった(だから速くなかったのかもしれない)。この練習はどういう意味があるのか、これを食べた(食べない)ほうがよいのはなぜなのか、……。よく考えていなかった。もっと考えられたのではないかと思う。高3になって、引退間近になって、このまま終わるのは嫌だと思って、自分でメニューを考えて練習した。あのときの取り組み方がもっと前からできていれば、もっと違った競技生活を送れたのではないかと思う。あとは、本番は練習の延長線上にあるということを、もっと鋭く意識しておけばよかった。本番と練習とは切り離されてあるわけではない。だから本番だけ緊張しても仕方がない。わたしの場合、もっと楽な気持ちで本番に臨めれば、もう少しよいレースができたのではないか(練習では走れていたのだから)。気持ちが弱かった。

 気持ちの弱さは、なにゆえに自分は陸上競技をしているのか、続けているのか、という点に自分なりの答えを出していなかったところにも由来していたように思う。そのようなものがなくても速い人は速いのかもしれないが、わたしの場合はそうではない。自分なりの納得がないままに物事に取り組むことは苦手だ。しかし、高校時代はその納得を得るために考える余裕がなかった。大学進学という目標があったから高校に進学したわたしは、その目標とは直接関連しない部活をすることの意味を十分に考えていなかった。中学からの継続という、ただそれが大きかった。あとは、部活をせずに勉強だけするという生活が、まったく想像できなかったからでもある。しかし、高校に入った時点で、わたしの陸上競技に対する気持ちは、実はもう、薄れていたのかもしれない。わたしはそのことに、気付かないふりをしていたのかもしれない。

 だから、陸上競技に没入する高校生を描いた『一瞬の風になれ』を読めば、わたしの競技生活の意味のなさが余計に際立つように思われた。『一瞬の風になれ』を読んで得てしまうであろう感動は、わたしの競技生活を余計に色褪せさせてしまうように思われた。そして、事実、『一瞬の風になれ』から飛び出してくる光の輝きは、わたしの競技生活に影を与えた。しかし、その影によって、わたしは自分と陸上競技との関係を改めて考えることができた。陸上競技を通して得られた仲間にも、改めて思いを馳せることができた。



 三輪先生は歩きながら俺の頭をパンとはたいた。
人生なんて、すべて出会いよ。おもしれえもんよ。俺とおまえも出会ったわけだから、そこに何かが起こるんだよ

□(1: 87-8)



「なんで、サッカーやめたの?」
〔略〕
可能性?
 って俺は言った。ぽっと言葉が頭に浮かんだから。
自分の能力みたいなのに幅があるじゃん。最低から最高までさ。その一番上が見えないのがいい。夢とかさ。なんか、そういうことなんだけど、ワクワクできるのがいい。やれるかもしれないって自分で思えるのがいい
 谷口はうなずいた。
「これで良かったなんて自信はないけど、後悔はしてないよ」
 俺は言った。

□(2: 26-7)

 高2のとき(かな?)、先生から「400mHに転向してはどうか」と言われた。「200mとか300mのスプリント力は(長距離にしては)ある、肺活量もある」と言われた。「やっぱり上の大会に行けたほうが楽しいだろ、上に行ける競技をやってみたらどうだ」と言われた。
 長距離ではもう上に行けない、そう言われている、だからむっとしたのと同時に、新しい可能性が開けるかもしれない、とちょっと思った。ヨンパーに賭けてみるのもよいかも、と思って、胸がちょっと高鳴った。覚悟を決めて新しいほうに賭けようと思っていたら、翌日であったか、先生から「すまん、あれは俺が間違っていた。やりたい競技をやったほうがいい」と言われた。わたしはそのまま長距離に残った。あのとき……という思いは、いまでも消えない。



「簡単に比較はするな。陸上はずばり数字で出てくる競技だ。比較は簡単だ。だが、その選手の潜在能力は現在のタイムだけでは測れない。追いつこうとあせったらダメだ。そう簡単に追いつける相手じゃない。それでも、追いかけるんだ。盗めるものは全部盗め。真似られるところは真似しろ。おまえと一ノ瀬は違うタイプのランナーだから、いずれはおまえはおまえの走り方を追求していくことになるが、スプリントの基本ができあがるまではいくら真似してもいい。生きる教材だ。あれ以上のものは望めない。その点で、ウチの部員どもは、おそろしく幸運だ。……この話はいつもしてるな?」
 三輪先生は確かめるように俺の顔を見た。連を真似しろという話は前から何度も聞いているが、ここまで強く言われたことはない。
あせらず、腐らず、しっかり追いかける。走りの基礎を作り上げて、さらに自分自身のスタイルを目指す。それができたら、おまえは三年の総体の頃には一ノ瀬と競える選手になると俺は思っている

□(2: 169)



 努力したぶん、きっちり結果が出るわけじゃない。だけど、努力しなかったら、まったく結果は出ない。
□(182)

 “努力したからといって成功するとは限らない、でも、成功した奴は必ず努力している”というのを、高校受験だか大学受験だかのときに読んだ覚えがある。



自分が何を持っていて、何を持っていなかったか。持っていないつもりで何を持っていたか。持っているつもりで何を持っていなかったか。病院で動けないでいる時、そんなことばっかり考えてた
 見たことがないような深い目の色だった。
一度なくしてみないと、わからないものがある。なくしたつもりで、でも、もし、取り返しがつくなら、前よりいいプレーヤーになれるだろうな。絶対に
 絶対に、の一言を異常に強い口調で言い切った。
 ものすごく大事な言葉を聞いている——と俺は思った。緊張と興奮で身体が細かく震えるのを感じた。
「信じてるよ」
 声が震えないように気をつけて、俺は言った。
「俺は疑ったことがないよ。健ちゃんのプレーを。誰よりすごい。ずっとそう思ってる。怪我くらいで壊れない。健ちゃんは。健ちゃんのプレーは……」
 壊せない。壊させない、神様にだって。
 健ちゃんは、ちょっと笑った。
「前と同じにはできないこともあるかもしれない。でも、それでも、前よりもいいプレーをする。あきらめない。俺はあきらめない」

□(3: 10-1)



もうアカンってくらいきつくなってからが、本番。今日の練習な……。これからな。これからが本番だな」
□(3: 31)



 俺は希望を持っていなかった。いや、頭では無理と思っていて、それでも捨て切れない望みが心にしがみつき、もしや、万一、ひょっとして、と毎日ささやき続けていた。総体が終わったら、告白はするつもりだった。すっぱりフラれて、気持ちの整理をしようと思っていた。
 希望が生まれてしまった。大きな希望が。そいつは、強烈な毒薬のように俺をノックアウトした。希望というのは、すばらしいことだと思っていた。明るく輝き、力の素になると。なんで希望がこんなに苦しいんだ。恐ろしいんだ。まったく眠れねえ。日付が変わっていた。もう、谷口にコンタクトするのは無理だ。眠れねえ。胸が苦しい。

□(3: 124)

 「希望」とはなにかと、昨年から考えている。だが、それって中学以来の自分の主題かもしれない、と最近思った。



 スタート位置についた時には、なんとか落ちついた気持ちになれた。入江は10位以内に入れなかった。力が出せなかった。中長距離は、三年でも、秋の丹沢湖の駅伝を走るヤツが多いから、これで最後ってわけじゃない。でも、今は悔しいだろう。俺は人のことを心から締め出しておけない。だから、チームメートの喜怒哀楽を自分の中に貯めこんで走るよ。そうやって力を出すよ。
〔略〕
 6位以内に入ろうと、ただそれだけ思った。あとの考えは頭から締め出した。連と勝負するとか、仙波についていくとか、高梨に負けないとか、全部忘れた。根岸、溝井、入江、五島、届かなかったチャレンジを見た、知った。彼らのぶんを俺は走ることはできない。でも、俺が行ける時は絶対に行かないといけない。

□(3: 218)



「いいか、神谷、今日のおまえに反省点はない。いっさい、ない。落ち込むのはもちろんだが、反省することも禁じる。いいな?」
 三輪先生は俺にそう言った。
「1本、1本、全力で行ったな。それでいいんだよ。今、おまえは、すごい勢いで伸びている。一つ走るごとに理論や技術じゃ伝えられないことを吸収して成長している。見ていて、恐いくらいだよ。地区からの一つひとつのレース、その全部がおまえを育てている。今は、ただ、思いきり、走れ。結果を考えずに1本、1本、走れ。細かいことを気にするな。小細工はするな。一つひとつ思いきり走れ。どんな結果も恐がるな」
 先生の言葉を聞いていて、急に涙がこぼれた。泣くつもりはなかった。勝手に目にあふれてこぼれ落ちた。
「でも、俺は、本当に、本当に、マイルで関東に行きたかったんです……」
 俺はうめくように言った。
「んなこたァ、わかってるよ」
 根岸は言った。
「わかってるよ、新二。わかってるって」
 根岸の顔が歪んで、目に涙が光った。
 五島もうなずきながら泣き始めた。

 結局、皆、泣いてしまった。
 連も、みっちゃんも。桃内までも。

□(3: 235-6)

 わたしも。


 昨日、俺の失敗に、色々言ってくれた言葉、根岸や五島や三輪先生や連の言葉は、全部大きな救いになった。あれがなかったら、俺はほんとに死にたいような気持ちになっただろう。だけど、どれほどありがたく思っても、100パーセントは救われない。この痛みや苦しさは、どんな言葉でも消せない。もし、同じメンツでもう一度、来年マイルを走って関東を決められたら、消すことができたかな。でも、それはありえないことだ。
 何か言葉を口にする前に、自分のすることをとことんまで見つめたいと思う。自分のできること、しなければならないこと。「関東へ行こう」と言った俺の言葉にカケラも嘘はなかった。だけど、全身全霊を賭けた重い言葉にならなかった。もう、こんなことはしたくない。
 人生は、世界は、リレーそのものだな。バトンを渡して、人とつながっていける。一人だけではできない。だけど、自分が走るその時は、まったく一人きりだ。誰も助けてくれない。助けられない。誰も替わってくれない。替われない。この孤独を俺はもっと見つめないといけない。俺は、俺をもっと見つめないといけない。そこは、言葉のない世界なんだ——たぶん。

□(3: 246)


@研究室
[PR]

by no828 | 2011-07-25 17:21 | 人+本=体 | Comments(0)
2011年 07月 23日

自分が最初なんだったら、認めてもらえる訳なんかないじゃない——橋本治『蓮と刀』

c0131823_1533018.jpg56(378)橋本治『蓮と刀——どうして男は“男”をこわがるのか?』河出書房新社(河出文庫)、1986年。

※ 左掲表紙画像はわたしの読んだものとは異なるが、一応。

版元


 橋本治先生の男性論、ジグムント・フロイト批判、エーリッヒ・フロム批判、土居健郎批判、あるいは精神分析学批判。


 フロイトが突きとめたことは、人間の中には“無意識”というものがあるということと、幼児にも性欲があるということの二つ。フロイトの功績は、この二つの発見しかない。
 フロイトは、この二つのことを、自分の心と他人の心をつき合わせることによって分って行った。〔略〕
 フロイトの悲劇——結果としてフロイトの限界に繫がってしまったものの原因は、たった一つだけである。それは何かというと、自分の心と他人の心をつき合わせて検証させるという方法を取って来た御当人の心を検証するような“心”に出合わなかったこと。他人の心を検証している自分の心が、絶対に正しいバロメーターかどうかなんていうことは、分りっこないんだから。

□(62-3)

 自省が足りなかった、再帰的ではなかった、リフレクシブではなかった。この再帰性は近代のものなのか、それが先鋭化しているのが現在で、だから目下は後期近代なのである、とするか、そうではない、再帰性は近代ののちに見出されたもので、だから現下はポスト近代である、とするか。(2011年7月25日(月)追記:いずれにしても、われわれは近代との関係のうちに、近代との距離を計りながら、物事を考えていかざるをえない。) 



 すべての新しい理論が必ず欠陥を持つというようなことになりがちなのはなぜか?——思想家が、彼の時代精神によって制約を受けてしまう傾向にあるから。
〔略〕
 新しい理論を提唱する人間は、往々にして彼の生きる時代に屈服して、つかざるをえない嘘をついてしまう——が正解ね。
〔略〕
 一体フロイトは、何を隠してどういう嘘をついてたんだ? これが分る人?
 います?
 フフフ、僕分っちゃったァ、だからこんなにデカイ面して書いてんのォ。フフフ、教ェてあげるのね。
 あのね、フロイトの隠してたことは、“自分の父親を殺したい”ってことね。そんで、フロイトがついてた嘘は、“おかあさんと寝たい——セックスしたい”ってことね。これがフロイトの嘘の元凶。
 そう、あの有名な“エディプス・コンプレックス”って、実はでたらめなのォ!
 俺もう、声を大にして言っちゃう。

 でたらめなのォ!
 だからあんなにもっともらしいのよ、精神分析って。
□(74-6.強調原文)

 「時代精神(Zeitgeist)」は、たしかヘーゲル用語。



 子供の時は、「おとうさんがこわい」なのね。思春期になると「おとうさんが邪魔だ」なのね。邪魔なんだけど、「邪魔だからそこどいて、おとうさん!」とは言えないのが思春期の限界ね。そして、フロイトは言えない点で、ズーッと思春期止まりという訳ね。言えなかったのよ。言えないからその“根拠”をデッチ上げてエディプス・コンプレックスなるものを発明したのよ。要するにサ、エディプス・コンプレックスなんてものを発明したフロイトは、根性のない人間だったのね。ただそれだけ。本節を終ります。
□(128-9.傍点省略)



 フロイトの作った“精神分析”っていうのは、“方法”だったのよね。研究する為の学問じゃなかったのよね。研究する対象は“人の心”で、“精神分析”っていう方法なんかじゃなかったのよね。言ってみれば、精神分析というのは“心理学”という学問に奉仕する一方法だった訳でしょう? それがどうして“精神分析学”になるの?
 どうして“精神分析医”の他に、“精神分析学者”なんてものが存在するの?

□(145.傍点省略)



 大体セックスという行為はなんの為に存在してんのか? あなたの性欲を発散させる為に存在してんではないのね。アレは勿論、人間同士が仲良くなる為に存在してんのね。
 本当だったら、ここは一発、セックスという行為は子供を作る為に存在してるんだと言いたいんだけど、現段階ではそれは無理だからねェ。
 だってサ、もう子供いらないって分っててセックスしてる夫婦っているもんね。

□(197)



 日本の学者は“新興宗教”にはなりませんねェ。そこだけは、西洋人と日本人の違いを弁えてますねェ。弁えてるから〔セックスを〕除くんですねェ。除くから肝腎なことが分んないですねェ。分んないから、日本の学者は
 “解説屋” “紹介屋”
になって、日本の一般人の教養レベルを上げてけるんですねェ。
□(202.強調原文)



 ヘンなもんに手ェ出したらヘンな目で見られる。だからやらない。ヘンなもんに手ェ出せても、それを発表すれば確実にヘンな目で見られることが分ってる。だからやんない。ヘンな目で見られたって構わないと思って発表したとしたって、そんなヘンなこと公けにしたのはその人が最初だから、誰にもそれを認めては貰えない。そんな無駄なことやったってしようがないと思ってんだろうねェ、日本の学者は。
 日々の生活とか世間づき合いとか、日本のセンセェ達にも、色々事情はあんだろうねェ。エライ先生に睨まれると、日本じゃちょっと、生きて行きにくくなるからねェ。
 でも、俺不思議なんだ。どうして日本のセンセェって、“認めてもらおう”って思うんだろう? 自分が最初なんだったら、認めてもらえる訳なんかないじゃない——“分ってもらえる”ってことはあってもね。
 でも、日本のセンセェって、やっぱりそういうことってやらないねェ。「俺はエライんだから分れ!」って押しつけることはあってもねェ。“討論の結果ここはこう修正いたしました”なんてェこともあんまりないんだよねェ。日本の学界って、あんまり新しい説が出て来ることなんか期待してないんだよねェ。自力で“真実”探して来て、自分が真理の開祖になれるかもしれないって、そういう気って、日本の学者には、ないのよねェ。新しいことは、みィーんな、クロフネに乗って海の向うから来るとでも、相変わらず思ってんのかしら?

□(206-7)



 センセェ御自身分ってないらしいけど、そりゃァ勿論、センセェが他人に甘えたいからよ。
 土居センセェ、他人に甘えたいのサ。他人ともう少し気持よく仲良くやってきたいのサ。そういうのが自分の中にあるからサ、外側に「甘え」というものを見つけることが出来たんだわァ。精神分析というものは、開祖フロイト以来代々、その人間の持っているひっかかりはその人間の研究対象を見れば分るという種類の学問だったりするもんだからねェ。
 土居センセェ、自分の中に“人に甘えたい、人から素直に甘えてもらいたい”っていう感情があること知ってたのよねェ。知ってたけど、そんなこと大っぴらに言えないんだってことも分ってたのよね。分ってて、なんとかして大っぴらに言い出したかったのね。

□(218-9)

 これは、多かれ少なかれ、人文学・社会科学者には見出しうることなのではないか、と思う。


@研究室
[PR]

by no828 | 2011-07-23 16:23 | 人+本=体 | Comments(0)
2011年 07月 21日

研究を進めているときには前を向いているが、論文を書くときは後ろ向きになる——森博嗣『四季 夏』

c0131823_141154.gif
55(377)森博嗣『四季 夏 The Four Seasons Red Summer』講談社(講談社文庫)、2006年。

版元




 以前読んだ『四季 春』(→ )に引き続き。今回の夏を読み、この四季シリーズはS&MシリーズとVシリーズとの結節点を示すものなのではないかと思った。もちろん、四季シリーズは、森博嗣の最初の、S&Mシリーズの最初の、すなわち『すべてがFになる』(→ )の事件背景を語るものだから、それは当然なのかもしれないが。さて、残りの秋と冬でどうなるか。


外部とは何ですか?」四季は尋ねた。
「外部ですか……、いや、外部は、つまり、外側のことで、建築外、周囲の社会、そして自然のことだと思いますが」
「そういった概念を人が感じるとき、それは電波やケーブルを伝わってくる信号と実体は同じものです。では、外部はアンテナやケーブルの中にありますか? それでしたら、通信ケーブルという窓が開いていれば充分では?」
「しかし、今の社会は、今の人間は、まだそこまでは……」
「そう、そこまでは洗練されていません。形式的には、あと数十年かかるでしょう。しかし、それがあるべき姿だということです。人の躰は、外側で周囲と接していますが、人は、頭脳によって外部を認識しています。これはすなわち、頭脳の中に、社会や自然というすべての概念が取り込まれていることに等しいのです。そうなれば、結局、その人間の外部は、脳の中にこそ存在するのではありませんか? それが外側なのでは?
「ああ、そういえば、胃袋の中というのも、トポロジィ的には人間の外側だ」真賀田教授が話した。「まあまあ、そういった議論を、今頃ここでしてもしかたがない。もう図面のとおり造るしかないのだからね」
「議論は、無駄ではありません」四季は微笑んだ。彼女は、対面の若い学者を見て、首を僅かに傾げる。「疑問は解消されましたでしょうか?」
「はい、ええ……」彼は頷き、頭を下げる。「恐縮です」

□(25-6)



 仕事は四季の予測どおり進行した。父親は彼女に論文を書いて発表するように、とアドバイスをしたが、それには彼女は従わなかった。論文を書くことは、彼女には、後ろ向きの作業だと思えたからだ。それはアメリカの大学でドクタ論文を書いたときに感じたことだ。研究を進めているときには前を向いているが、論文を書くときは後ろ向きになる。大多数の研究は、そういった後ろ向きの視点を必要としている。確認作業や、人に説明する客観的な評価があって初めて気がつくこと、あるいは新たな糸口の発見があるからだ。しかし、四季にはそういったことはなかった。彼女にとっては、論文の執筆など、無駄な時間以外のなにものでもない。身近にいる、事情に精通している人間に説明することさえ億劫だった。まして、不特定多数を対象に、研究の成果を説明することなど問題外、必要なエネルギィの大きさに対して、得られるものは極めて小さい。
□(161)

 論文を書くときに研究がストップするのはたしか。しかし、わたしが(まだ?)後ろ向きの作業を必要としていることもまたたしか。研究と論文執筆とが同時並行的に進められればよいのだが、その感覚はわたしにはよくわからない。



「うまくいくかどうかなんて、愛情とは関係がないのです」
「どういうこと?」四季は目を細めた。「不思議なことを言う」
「失礼ですが、たぶん、四季様もいつかご理解なさるでしょう。相手がどう思おうが、どんな仕打ちを受けようが、自分から相手に向かった愛情の強さには関係がないのです
それで、報われるの?
それも無関係です」各務は首をふった。「よくわかりませんが、そういうものなのです。人を愛することは、うーん、自分が死んでしまうことと、大差がありません」

□(174-5)


@研究室
[PR]

by no828 | 2011-07-21 14:37 | 人+本=体 | Comments(0)
2011年 07月 20日

学問は人に甘えたり励まされたりしてするものではありません——渡辺淳一『花埋み』

c0131823_1127727.jpg54(376)渡辺淳一『花埋み』新潮社(新潮文庫)、1975年。

版元

※ 単行本は1970年に河出書房新社から刊行。

※※ 表紙画像はわたしの読んだものとは違うが、一応。


 渡辺淳一は「敬遠」してきた作家のひとりだ。“男女の性を描く人”というイメージは、“男女の性だけを殊更に描く人”に発展し、“なにゆえにそこまで性を描くのかわからない”、だから“読まない”という結論に達していた。“性を描くことを通して伝えたいことがあるに違いない”とは思いながらも。

 この小説はそうではない、とどこかで読んで、それならばと思って手に取った。

 日本最初の女医、荻野吟子(荻野ぎん)という実在した人物の物語。時代は明治初期。夫に性病をうつされたのを契機に吟子は離縁し、好きな本を読みながら身体の回復を待った。しかし、当時の医者は男性ばかり。女の病気も男が診る。女の病気を男に診られることの恥辱、屈辱を味わった吟子は、自らが医者として女の病気に取り組む決意をする。しかし、当時の時代状況は“女が医者になる”ことをなかなか許さない。



 荻江の熱っぽい口調にぎんは圧倒された。
「こんな部屋にひっこんでいる必要はありません」
「でも……私は離縁されたのですよ」
「それがなんです」
 荻江はそう言うと笑い出した。男のような磊落な笑いだった。
離縁されたから貴女の能力が変ったとでもいうのですか。書を読み理解する力が失くなったとでもいうのですか。貴女の知恵が落ちたとでもいうのですか
 荻江はぶつからんばかりに顔を近づけてきた。
つまらないことです。離縁しようが結婚しようが、一人でいようが、その人の才能には何の違いもないでしょ
「私もそう思います」
 今迄一人で漠然と考えていたことが荻江によって確かなものに変えられていく。それが正しいことか、間違っていることか、ぎんにはよくわからない。だがその中には確かな真実があるように思う。
「世間の眼など気にする必要はないのです」
「でも、世間様があっての自分でしょ」
「そう教えられたのですね」
 荻江は半ば憐れみ、半ば蔑むようにぎんを見返した。
今迄の教えが、全て正しいというわけではないでしょう
「間違っているのですか」
「時代はどんどん動いているのです」

□(39-40)



世の中には、私のような婦人病で悩んでいる女性がたくさんいます。しかしその女性達のすべてが医師の診察を受けているとは限りません。受けたくてもその病気を羞じ、隠して診察を受けない人が無数にいるのです。この人達を救ってあげたいのです
「…………」
「今のままではあまりに女が可哀想です。女に責任がないのに、一番苦しんでいるのは女です」
 荻江はこんなに輝いているぎんの眼を見たのは初めてであった。

□(75)



「ところで、そなた女の身で本当に学問が好きか」
「はい、先生に存分に御教えいただきたいのです」
私にはわからないことが沢山ある。ありすぎて何から手をつけてよいか迷っているほどだ。学問はやればやるほど解らなくなるぞ、それでいいか
「…………」
 何と答えていいものか、万年のような穏健な学者とは大分趣きが違う。これが東京というところの広さなのかとぎんは呆んやり頼圀の大作りな顔を見ていた。
〔略〕
「分った。門に入る入らぬは別としてまず、この書物を読んできなされ」
 にわかに振り向くと頼圀は背の書棚から一冊の本を取り出した。『日本外史』とある。
とにもかくにも読むことだ。本はいろいろなことを教えてくれる。古人にも解らなかったことが沢山書いてある。それを生きているうちに一つでも解くのが我々のつとめだ。学問というのはそういうものだ
 腕組みをして頼圀は大声で言う。聞いていると襟元の着崩れも気にならない。つい先程のくだけた感じとはまったく別の毅然とした態度がそこに現れていた。

□(91-2)



「この頃、医者であることが何か急につまらなく思えてきました」
〔略〕
医者が患者にしてやれることは本当に微々たるものだと思うのです
〔略〕
「それは医者が助けたのではありません。その人の体力と環境が病気に打勝ったのです。医者はそれをただ側面から手助けしたにすぎません」
〔略〕
「そのわずかな手助けさえ、してやれないことがあります」
〔略〕
「医者が足りないとか、体が続かないということを言っているのではありません。まず私がいくらしてやりたくても患者さんが来てくれなければどうにもなりません。たとえ来たとしても、こちらの言うことを守ってくれるのでなければなりません。また患者が守ろうとしても周りの人が協力してくれるのでなければどうにもなりません」
〔略〕
何の変りもない平凡な病気の陰に、人それぞれの事情が絡んでいます。それによって治る病気も治らないし、死ななくてもいい人も死ぬことがあります」
〔略〕
「いいえ、現実には医療を与えるより、その人の周りの環境を改めた方がはるかにいいといった場合が沢山あります。その方がずっと手っ取り早いのです」
〔略〕
要するに医療以上のもっと大きな問題、貧困とか社会制度とか、慣習とか、そういったことを取り除き改めることが先決ではないか、それらを改めないで医術だけ先走りしたところでどうなるわけでもない、そんな風に思えるのです

□(291-3)

 そうして吟子は社会運動にも身を投じていくことになるのだが、以上を以下のように言い換えてみたくなった。

「この頃、教師であることが何か急につまらなく思えてきました」
〔略〕
教師が子どもにしてやれることは本当に微々たるものだと思うのです」
〔略〕
「それは教師が助けたのではありません。教師はそれをただ側面から手助けしたにすぎません」
〔略〕
「そのわずかな手助けさえ、してやれないことがあります」
〔略〕
教師が足りないとか、体が続かないということを言っているのではありません。まず私がいくらしてやりたくても子どもが来てくれなければどうにもなりません。たとえ来たとしても、こちらの言うことを守ってくれるのでなければなりません。また子どもが守ろうとしても周りの人が協力してくれるのでなければどうにもなりません」
〔略〕
「何の変りもない平凡な子どもの生活の陰に、それぞれの事情が絡んでいます」
〔略〕
「現実には教育を与えるより、その人の周りの環境を改めた方がはるかにいいといった場合が沢山あります。その方がずっと手っ取り早いのです」
〔略〕
「要するに教育以上のもっと大きな問題、貧困とか社会制度とか、慣習とか、そういったことを取り除き改めることが先決ではないか、それらを改めないで学校だけ先走りしたところでどうなるわけでもない、そんな風に思えるのです」



学問は人に甘えたり励まされたりしてするものではありません。自分から自分を正して行うものです
□(323)


@研究室
[PR]

by no828 | 2011-07-20 12:26 | 人+本=体 | Comments(0)