思索の森と空の群青

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2011年 09月 27日

彼の本当に本当に本当に見たいものは、彼のいない世界にしか存在しえない——三島由紀夫『暁の寺』

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93(415)三島由紀夫『暁の寺——豊饒の海(三)』新潮社(新潮文庫)、1977年。

※ 単行本は1970年に同社より刊行。

版元(→




 昨日の非常勤講師先・立川との往復の電車内にて読了。全425ページ。(帰りの武蔵野線内途中で読み終わってしまったので、あとは柄谷行人を読んでいた。)

 「豊饒の海」第一巻『春の雪』(→ )、第二巻『奔馬』(→ )。第三巻本巻『暁の寺』の主人公は弁護士として巨富を成した本多繁邦。テーマはやはり転生。

 三島の文章には相変わらず、読む者をぞくぞくっとさせる色気がある。

 なお、185ページに「福島県三春地方」というのが出てくる。わたしの故郷の隣の町、滝桜で有名なところです。


 もし生きようと思えば、勲のように純潔を固執してはならなかった。あらゆる退路を自ら絶ち、すべてを拒否してはならなかった。
 勲の死ほど、純粋な日本とは何だろうという省察を、本多に強いたものはなかった。すべてを拒否すること、現実の日本や日本人をすらすべて拒絶し否定することのほかに、このもっとも生きにくい生き方のほかに、とどのつまりは誰かを殺して自刃することのほかに、真に「日本」と共に生きる道はないのではなかろうか? 誰もが怖れてそれを言わないが、勲が身を以て、これを証明したのではなかろうか?
〔略〕
 いかに怖ろしい面貌であらわれようと、それはもともと純白な魂であった。

□(32-3)



 唯識の本当の意味は、われわれ現在の一刹那において、この世界なるものがすべてそこに現われている、ということに他ならない。しかも、一刹那の世界は、次の刹那には一旦滅して、又新たな世界が立ち現われる。現在ここに現われた世界が、次の瞬間には変化しつつ、そのままつづいてゆく。かくてこの世界すべては阿頼耶識〔あらやしき〕なのであった。……
□(163)



そして愛されたいという欲望が、ますます梨枝を醜くしたのである。
□(202)

 愛は“愛する”にしか存在せず、“愛される”には存在しない、とアリストテレスは言っていた。



……本多は自分のそれを、「客観性の病気」と私〔ひそ〕かに名付けていた。決して参加しない認識者の陥る最終的な、快い戦慄に充ちた地獄。……
□(220-1.傍点省略)

 学者も?



 さるにても、生の絶対の受身の姿、尋常では見られない生のごく存在論的な姿、そういうものに本多は魅せられすぎ、又そういうものでなくては生ではないという、贅沢な認識に染まりすぎていた。彼は誘惑者の資格を徹底的に欠いていた。なぜなら、誘惑し欺〔だま〕すということは、運命の見地からは徒爾〔あだごと〕だったし、誘惑するという意志そのものが徒爾だったからである。純粋に運命自体によってだけ欺されている生の姿以外に、生はない、と考えるとき、どうしてわれわれの介入が可能であろう。そのような存在の純粋なすがたを、見ることさえどうしてできよう。さしあたっては、その不在においてだけ、想像力で相渉〔あいわた〕るほかはない。〔略〕知らないということが、そもそもエロティシズムの第一条件であるならば、エロティシズムの極致は、永遠の不可知にしかない筈だ。すなわち「死」に。
□(264)

 学者を駆り立てるのもエロティシズムである、ということになる。



 どうして本屋にいると心が落着くのか、本多は幼少の頃から、そういう癖を持っていたとしか云いようがない。〔略〕それはどういう癖であろう。たえず世界を要約していなくては不安な心、まだ記録されない現実は執拗に認めまいとする頑なな心、ステファヌ・マラルメではないが、何事もいずれは表現されるのであり、世界は一冊の美しい書物に終るのであれば、終ってから駆けつけても遅くはないのだ。
□(280-1)



 飛翔するジン・ジャンをこそ見たいのに、本多の見るかぎりジン・ジャンは飛翔しない。本多の認識世界の被造物にとどまる限り、ジン・ジャンはこの世の物理法則に背くことは叶わぬからだ。多分、(夢の裡を除いて)、ジン・ジャンが裸で孔雀に乗って飛翔する世界は、もう一歩のところで、本多の認識自体がその曇りになり瑕瑾になり、一つの極致の歯車の故障になって、正にそれが原因で作動しないのかもしれぬ。ではその故障を修理し、歯車を取り換えたらどうだろうか? それは本多をジン・ジャンと共有する世界から除去すること、すなわち本多の死に他ならない。
 今にして明らかなことは、本多の欲望がのぞむ最終のもの、彼の本当に本当に本当に見たいものは、彼のいない世界にしか存在しえない、ということだった。真に見たいものを見るためには、死なねばならないのである。
 覗く者が、いつか、覗くという行為の根源の抹殺によってしか、光明に触れえぬことを認識したとき、それは、覗く者が死ぬことである。

 認識者の自殺というものの意味が、本多の心の中で重みを持ったのは、生れてはじめてだと云ってよかった。

□(380-1)

 ここを読んで量子力学を想起した。“見たいもの”があり、しかしそれを実際に見たときにはもはやその“見たいもの”は見たかったものの姿をしていない、“見たいもの”は見ていないときにのみ“見たいもの”の姿をしているのであり、それを「見る」とはだから、「想像する」ということでしかない。

 こういうの、嫌いではない。


@研究室
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by no828 | 2011-09-27 19:13 | 人+本=体 | Comments(0)
2011年 09月 23日

人間の到達しうるもっとも純粋な悪は、志を同じくする者が全く同じ世界を見、生の——三島由紀夫『奔馬』

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92(414)三島由紀夫『奔馬——豊饒の海(二)』新潮社(新潮文庫)、1977年。

※ 単行本は1969年に同社より刊行。

版元(→




 『春の雪——豊饒の海(一)』(→ )に続く作品。ようやくである。ちなみに、『豊饒の海』は全四部作。まだ終わらない。

 本作は、第一部『春の雪』の主人公であった松枝清顕が転生した——と下記本多が捉えた——青年飯沼勲が物語の主軸。その軸に、松枝の友人であった本多繁邦の存在が絡む。本多は控訴院判事になるが、この物語において弁護士へと転じる。それにも松枝の生まれ変わりである飯沼が関係する。

 その本多が飯沼に宛てた手紙の一節。飯沼の危険な純粋さに惹かれながら、それを諭そうとする。


 歴史を学ぶことは、決して、過去の部分的特殊性を援用して、現在の部分的特殊性を正当化することではありません。過去の一時代の嵌め絵から、一定の形を抜き出して来て、現代の一部分の形にあてはめて、快哉を叫ぶことではありません。それは単に歴史をおもちゃにすることであり、子供の遊びであります。昨日の純粋さと今日の純粋さは、いかに似通っていてもその歴史的諸条件を異にすることを知るべきであり、むしろ純粋さの類縁を求めるならば、歴史的条件を同じくする現代の『反対の思想』に求めるべきであり、これこそ特殊的小部分にすぎぬ『現代の私』のとるべき謙虚な態度であって、そこには歴史の問題は捨象されて、単に、『純粋性』という、人間性の超歴史的契機が問題にされていると考えたほうがいい。そのとき、共有された同時代の歴史的条件は、方程式の定数にすぎなくなるからです。
□(137)


 あのとき本多は、もう百年もたてば、われわれは否応なしに一つの時代思潮の中へ組み込まれ、遠眺めされて、当時自らもっとも軽んじたものと一緒くたにされて、そういうものとの僅かな共通点だけで概括される、と主張したおぼえがある。又、歴史と人間の意志との関わり合いの皮肉は、意志を持った者がことごとく挫折して、「歴史に関与するものは、ただ一つ、輝かしい、永遠不変の、美しい粒子のような無意志の作用」だけに終るところにある、熱をこめて論じた記憶がある。
□(252)



 真杉海堂の仏教ぎらいは有名だった。篤胤派だから当然でもあるが、彼は篤胤の仏教罵倒、釈迦罵倒をそのままに口移しをして塾生に教えた。彼は仏教が決して生を肯定せず、従って大義の死をも肯定しえないこと、仏教がついに「たまきはるいのち」に接触せず、従って「いのち」の「むすび」の本道である天皇道に到達しないことを蔑んでいた。業〔カルマ〕の思想こそすべてをニヒリズムへ融かし込む悪の哲学だった。
□(285)


 飯沼。


 同志は、言葉によってではなく、深く、ひそやかに、目を見交わすことによって得られるのにちがいない。思想などではなく、もっと遠いところから来る或るもの、又、もっと明確な外面的な表徴であって、しかもこちらにその志がなければ決して見分けられぬ或るもの、それこそが同志を作る因〔もと〕に相違ない。
□(231)


 ひどく寒かった。勲は更衣室へ連れて行かれて、一糸もまとわぬ裸にされた。あけた口の奥歯までしらべられ、鼻の穴、耳の穴を綿密にのぞかれ、両手をひろげて前を検〔あらた〕められたのち、四つ這いになって後を検められた。肉体をこんな風に端的に扱われると、却って、自分の肉体は他人であって、自分のものは結局思想しかないと思うようになる。そう思うことがすでに屈辱からの逃避だった。
□(397-8)


 人間は或る程度以上に心を近づけ、心を一にしようとすると、そのつかのまの幻想のあとには必ず反作用が起って、反作用は単なる離反にとどまらず、すべてを瓦解へみちびく裏切りを呼ばずには措かぬのだろうか? どこかに確乎たる人間性の不文律があって、人間同士の盟約は禁じられているのだろうか? 彼は敢てその禁を犯したのであろうか?
 ふつうの人間関係では、善悪や信不信は、混濁した形で少量ずつまざり合っている。しかし、一定数の人間が、この世のものならぬ純粋な人間関係を成就すると、悪も亦、その一人一人から抽出され蒐められて、純粋な結晶体になって残るのかもしれない。そしてその純白な玉の一群には、必ず漆黒の玉の一個がまじるのかもしれない。
 この考えを、しかし、もう一歩押し進めれば、人は世にも暗い思想に衝き当るのだ。それは悪の本質は裏切りよりも血盟自体にあり、裏切りは同じ悪の派生的な部分であって、悪の根は血盟にこそあるという考えだった。すなわち、人間の到達しうるもっとも純粋な悪は、志を同じくする者が全く同じ世界を見、生の多様性に反逆し、個体の肉体の自然な壁を精神を以て打ち破り、折角相互の浸蝕を防いでいるその壁を空しくして、肉体がなしあたわぬことを精神を以て成就することにあったかもしれない。協力や協同は、人類的なものやわらかな語彙に属していた。しかし血盟は、……それはやすやすと自分の精神に他人の精神を加算することだった。そのこと自体、個体発生の中に永久にくりかえされる系統発生の、もう少しで真理に手を届かせようとしては死によって挫折して、又あらためて羊水の中の眠りからはじめなければならぬ、あの賽の河原のような人類的営為に対する、晴れやかな侮蔑だったのだ。こうした人間性に対する裏切りによって、純粋をあがなおうとする血盟が、ふたたびそれ自体の裏切りを呼ぶのは、世にも自然な成行だったかもしれない。かれらはそもそも人間性を尊敬したことがなかった。

□(401-2)


「いや」と勲は全身を慄〔ふる〕わせて逆らった。「一寸やわらげれば別物になってしまいます。その『一寸』が問題なんです。純粋性には、一寸ゆるめるということはありえません。ほんの一寸やわらげれば、それは全然別の思想になり、もはや私たちの思想ではなくなるのです。ですから、薄めることのできない思想自体が、そのままの形でお国に有害なら、あいつらの思想と有害な点では同じですから、私を拷問して下さい。そうしない理由はないじゃありませんか」
□(421)


@研究室
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by no828 | 2011-09-23 19:12 | 人+本=体 | Comments(0)
2011年 09月 22日

ビキニや国際支援を身に着けて、彼らはビール数本と正義と善意に酔いしれた——中村安希『インパラの朝』

c0131823_1651315.jpg91(413)中村安希『インパラの朝——ユーラシア・アフリカ大陸684日』集英社、2009年。


版元(→


 ずっと読みたいと思っていた。たぶん、身体性を伴ったことばを探すために。

 タイトルがいい。第7回開高健ノンフィクション受賞作。



 私は二〇〇八年に、会おうと思えばモモに会える。二〇〇九年でも一〇年でも、その可能性に変わりはない。けれどその逆はない。モモはどれだけ望んでも、私に会いには来られない。私は日本に生まれ、モモはミャンマーに生まれた。私たちのどちらもが、それなりに楽しく、またそれぞれの問題を抱え、異なる国で生きてきた。つまりそういうことだった。
 私はほとんど一睡もせず、出発の日の朝を迎えた。

□(53.ミャンマー〔ビルマ〕)



彼女は宿のベッドに座り、援助やさまざまな経験について、いつも親切に教えてくれた。
「国際協力の旅を始めて、『支援したい』と考えている人のあまりの多さに驚くと同時に、支援を妨害する組織、つまり障害の多さにはただ唖然とするばかりだわ。例えば、一つの村を助ける。すると格差や嫉みが生じて周りの村が不満を言いだす。それが紛争の火種となって、状況がますます悪化することもあるの。他にも、キリスト教の寄付と名前でいい学校を建てたりすると、裕福な家の子が殺到して地域の教育が混乱する。改宗騒ぎに発展したり、宗教や民族の間だけでなく、地域間対立にだって拡大するのよ。だから学校を建てるなら、公立の学校より悪い設備で、現状よりさらに低い水準に教育の質も落とさなくてはいけないわ。ちょっと矛盾しているけれど……。宗教や地域や集落には、外部の人には理解できないルールや秩序やシステムがある。原理主義者や過激派もいるし、そこには権力やプライドもある。私たちが信じる改善や、提供してきたせっかくの善意が、時に彼らを挑発し、バランスや社会の構造を壊してしまうこともあるのよね。何かをしようとすればするほど、援助って本当に難しい」

□(56.インド)


 あっという間に日は過ぎて、お別れの時がやってきた。ママはうっすらと涙を浮かべ、私の頰にキスをした。路地に出ていた弟たちがバイクの手配を整えた。私は、彼らが提供し続けてきた親密で誠実な態度に対し、それから数限りない思いやりに満ちた行為に対して、何をしたいと考えた。
皆さんがくれた親切に対し、私は何を皆さんにお返しすればよいのでしょうか
 彼らは飾らずにこう言った。
私たちが出会ったことを忘れないでいてください。私たちもあなたのことを一生忘れはしないでしょう。ただ、それでよいのだと思います

□(74.パキスタン)


「イラクで暮らしている限り、食べることには困らなかったし、教育は無償で受けられた。高い教育水準を誇り、PhDを持つ学識者だってイラクは多数輩出してきた。アラビア文学の発展や文化遺跡の発掘といった国家プロジェクトも推進されて、都市開発や技術の進歩も確実に進められてきた。すべてが良かったわけではないけど、平穏無事で希望があった」
□(125.イエメン)


 到着してから数日経って、夫人は私が寄付した物資を子供に分配することにした。サンダルはサイズが小さすぎたし、持っていったジーパンは農村地帯のファッションとしては地域に馴染んでいなかった。加えて田舎の女の子たちはみんなスカートをはいていて、ズボンばかりを買って揃えた私の的はすっかりはずれた。贈った物資の実用性や適性の低さは否めない。それでも夫人はこう言った。
「今回の寄付に感謝しますし、意義あるものだと感じています。これまでに受けた寄付の中では、食糧やお金や薬品といった実生活に不可欠な援助の品がありました。とても有り難いことでした。そして今度のあなたの寄付は、子供たちを励ます意味で効果があったと思います。子供たちは今日、一人一人が、それぞれ自分の手の中に贈り物を受け取りました。実際に目で見て手に触れて所有できる贈り物です。ここで学ぶ孤児たちにとっては、あなたから何かを貰ったことがとても嬉しく、また励みになります。自分たちの存在を誰かが見ていてくれること、気にかけているということを、あなたは子供に分かるかたちで表現してくれました
 夫人の言葉は温かかった。〔略〕
『何が一番必要なのか?』
〔略〕夫人は私に語り始めた。
「一般的に『貧困』は、農村地帯にあるものではなく、都市に存在するものです。都市では貧しい人が集まり、そこにスラムを形成し、路上で生活している子供や物乞いになる人がいて、彼らは『貧しく』暮らしています。農村地帯にいる限り、贅沢なものは食べられないし、便利な暮らしは望めませんが、食べるものにも困らない。節度を保っている限り、飢えることはありませんから」
 同感だった。〔略〕
『何が一番必要なのか?』
 提供可能な支援や物資の必要性や効果については、考え方は一つではない。答えが出るには時間がかかり、事情の変化に伴って試行錯誤が求められる。けれどその一方で、誰にも動かすことのできない絶対的な『必要』が、たった一つだけ見つかった。
 それは夫人の存在だった。

□(159-63.ウガンダ)


 楽しそうに話し始めた二人の横をすり抜けて、私は部屋を抜け出した。自分の置かれた状況を暗に強調するような、気持ちの沈む出来事だった。ピザとビールのパーティーも、バナナボートの若者も、ビキニ姿のNGOも、夜通し騒ぐカラオケやそこへ集まる協力隊も、すべてが面倒になっていた。私はどこにも属することなく隅でイジケて萎縮した。私の言葉もジェスチャーも、いつものノリや笑顔さえ通用しなくなっていた。みんなとても清潔で、可愛い〔ママ〕く、お洒落でセクシーだった。彼らはインターナショナルで、ボランティア精神に満ち溢〔※〕れ、『不幸な人』を助けるためにアフリカへ来た人たちだった。ビーチやビキニや国際支援をファッショナブルに身に着けて、彼らはビール数本と正義と善意に酔いしれた。けれどその一方で、同じ言語を共有できるたくさんの人が射る場所で、私は疎外感に頭をぶつけ、相対的に孤立を深めた。そして、自信を失って自分勝手にひがんでいった。
□(182-3.マラウイ)※ つくりは、八 一 八 皿 の縦列。


 そして、私は強く思った。
「私は自分の人生を、楽しく生きる権利がある。ある程度快適な生活と、食べたい食事ややりたいことを、私自身の基準の中で可能な範囲で追求しながら、好転していく未来の姿を想像する権利がある。悲観的に落ち込みほど、無意味なものはこの世にない。そして、あの男性やコックだって、同じように楽しむべきだ。もちろん、彼らが回転寿司やプレゼントを追う必要はない。けれど彼らの基準の中で、彼らにとって大切なものを彼らなりの方法で、プライドを持って追求し、獲得し、夢を持って生きる権利が彼らにだって等しくある。楽しく生きるということを、絶対に、誰一人として、妥協してはいけない」と。

□(223.ブルキナファソ)


 戦うことをやめたとき、すべての事物が流れ始めた。勝ち取ることをやめたとき、すべてはおのずとやってきた。
□(トーゴ—ベナン.226)


 青年海外協力隊の隊員の女性と親しくなった。〔略〕彼女は二年の任期を終えて、もうすぐ帰国すると言い、取り組んできた支援の成果を、こんなふうに私に話した。
「〔略〕できる限りのことをして、彼らの暮らしが少しでも楽になればいいと思った。だけど、変化は少なかった。今はね、彼らは彼らなりのやり方で、やっていけばいいと思う。ここにいる人たちが、みんな不幸で暗いかと言えば、全然そんなふうじゃないし、みんなどうにか生きている。私の目には非効率で貧乏そうに映ることでも、彼らはずっとそのやり方でずっとこの地で生きてきたんだし、自分たちのペースを守って納得しながらやってきた。そのやり方を否定して無理に変える必要なんてないんじゃないかと思うのよ
 共感できる話だった。〔略〕
 先進国は、アフリカや途上国へとどんどん踏み込みインフラ整備を手伝って、資源の獲得競争と未来市場の開拓に汗を流して取り組んでいく。そしてテレビを設置して、欧米の暮らしを宣伝し、物があるということがどれだけ豊かなことなのか、物を持たないアフリカ人が、どれだけ惨めで貧しいのかを熱を込めて教育していく。みんな、物が欲しくなる。みんなカネが欲しくなる。先進国が開拓し、援助をしてきた道を歩けば、地元の人が大挙してきて、私に右手を差し出した。
「物をよこせ。カネをよこせ。それがお前の『義務』だ」と。
 発展途上の多くの国が物質欲に傾けば、あるいは援助に頼るあまりに自発性(自発的な開発力、生産力)を失えば、先進国は諸手を挙げて援助額を増大し、建設事業を拡大し、貿易輸出を増やせばいい。投機マネーを流し込み、急成長を後押しし、面倒になれば引き揚げればいい。アフリカはどんどん舞い上がり、真の成長を忘れるだろう。アフリカはどんどん欲しくなり、もっと貧しくなるかもしれない。
〔略〕
何が本当に必要なのか、適切な支援が何なのかを、見極めることは難しい。現地に暮らす人人〔ママ〕が『何もいらない』と言うこともある。それでも何かを探し出し、与えなくては予算も落ちない。彼らの食べない野菜を作り、関係のない言語を教え、村民に嫌われることもある
 たとえ不要なことであっても、ちょっと有害なことであっても、やらなくてはいけないこともある——役人もコンサルタントも井戸掘りに来た技術者も、みんなが食べていくために。

 アフリカで出会った旅人は、ある日、私にこう言った。
アフリカは世界のごみ箱だ。途上国は言ってみれば、先進国のごみ箱だ
〔略〕
 貧困? それはまさに私自身が一番言おうとしていたことだ。私はアフリカへ行くにあたって、一つの構想を立てていた。アフリカへ行って貧困と向き合い、現地の惨状を確認し、世界に現状を知らしめて共感を得ようと計画していた。アフリカの貧困を見極めて、貧困の撲滅を訴えて、慈愛に溢〔※〕れる発想を誰かに示すはずだった。先進国の豊かな知恵を貧しい人に紹介し、不幸そうな人を探して幸福を与える夢を描いた。けれど、あてがはずれてしまった。なぜなら、予想していた貧困が思うように見つからなかったからだ。想像していたほど人々〔ママ〕は不幸な顔をしていなかった。
 私はしばらく混乱し、テーマも話題も失った。そしてある時、愕然とした。私がやろうとしていたことは、旅の意義に逆行していた。既成概念を設定し、そこから逆算しようとしていた。既に出ている結論に正当性を与えるための根拠集めに奔走していた——まるで退屈な数学の証明問題を解くように。

□(ニジェール.236-47)

 わたしのこれまでの問題意識をできるだけ反映させようとしている博士論文(中途なう)とも関連することが書かれていた。ここに記されたようなことを個人の体験談として済ませるのではなく、個人のプライベートな思いとしてやり過ごすのでもなく、論理——を伴った静かな倫理——へと何とか結び付け、相互に議論を行ないうるためのパブリックな土台を整えたい。「開発」とは、「支援」とは、「必要」とは、という問いはプライベートでしかありえない、それらはパブリックな、あるいは学術的な議論の俎上には上がらない——という主張にわたしは抗いたい。ことばがパブリックになった途端に身体性が削がれるとは思わない。パブリックはプライベートをその不可欠な構成要素とする。

 博士論文では以上のことを、その一端でもよいから示したいと思う。

@うつくしまふくしま
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by no828 | 2011-09-22 16:48 | 人+本=体 | Comments(0)
2011年 09月 20日

“できない”を認めろ——橋本治『橋本治の男になるのだ』

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90(412)橋本治『橋本治の男になるのだ——人は男に生まれるのではない』ごま書房、1997年。

版元(→ ごま書房は消滅。本書の版権が、ごま書房新社にあるのかゴマブックスにあるのか、わからない。)




 たしか白河ぶくおふ105円。タイトルはもちろん、ボーヴォワールの「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」を模したものである。

 テーマは、“男の「自立」とは何か”というよりも、“「一人前」になる”とはどういうことか。


自分達がその集団を作っていて、そこに属していて、その状態に慣れてしまったから、いまさらそういう自分達の現状を否定したくないんです。「そんなことはめんどくさい」と、ただそれだけの理由で自分達の現状変革を嫌う。日本の男の「自立」嫌いの中には、こういう側面が明らかにあるのです。
□(78)

 現状維持 = 俗流保守主義。


「不測の事態」がやってきて、「自分はそれに対応できない」ということになったら、もう安心はない。だから、そういう可能性に目をつぶって、「安心できる自分の現状」の中から出てこない。「ボタン一つ押すのでもめんどくさい」は、このことのあらわれなんですね。
□(171-2)

 できないこと、わからないことに直面してパニックになる(哀れな)自分を回避するために自分のできないこと、わからないことを知ろうとしない——原発含め事故の原因(の根源(のひとつ))ですね。


「日本の男は組織にがんじがらめになっていて、言いたいことも言えない」とは、よく言われることです。〔略〕でも私は、これを額面通りには受け取れません。それを言うなら、「日本の男は簡単に組織にがんじがらめにされてしまって、そのうちに言いたいことを失ってしまう」です。
□(84)


「会社べったり」というのは、なにかから逃避しているのです。「家族べったり」もまた、別のなにかから逃避しているんです。「仲間べったり」も同じです。「逃避している」という実感があるから、必要以上にそこにのめり込む。「逃避」にまつわる後ろめたさを消すために、それだけののめり込みが必要になる。
□(205)

 慧眼。ここには“二重の逃避”がある。なにか“からの”逃避、別のなにか“への”逃避。



三十六計、逃げるが勝ち」〔略〕
“戦う”とは、生きるためにすることである。だから、負けて死ぬということがわかりきっている戦いに進んで向かって行くのは、愚かなことである」という哲学が、「三十六計、逃げるが勝ち」の裏に隠れています。

□(91)


隆車に向かう蟷螂の斧」〔略〕「小さなカマキリがでっかい戦車に向かってカマを振り上げたって、戦車につぶされるだけだ」ということですね。〔略〕ともかく「自立」とは、そういう「生き方に関する戦い」なんです。
□(105)

「隆車に向かう蟷螂の斧」、読みは、「りゅうしゃにむかうとうろうのおの」ですね。



 学校というのは教育の場ですが、これは意外なことに、「子供を勉強ができるようにするところ」ではありません。「できているはずの子供達の能力を検査するところ」——それが学校です。
□(154)


 織田信長は、ムチャで残酷なことを平気でする。比叡山の焼き打ちと一向一揆の殲滅は、彼の残酷な部分を語るものとして知られていますが、織田信長がこれをしたおかげで、日本では「宗教が政治に介入する」ということがなくなった。「宗教の呪縛から離れて、自分の頭で物事をきちんと考える」という近代理性を日本で最初に確立した人は、織田信長だったんですね。
□(71-2)



「自分はああはなりたくない」と、「魅力のない男像」に対して拒絶を表明する——これが「男の自立」への第一歩なんですね。
□(66)


 じゃ、「達成された一人前」というのはなんなのか?「自分のするべきことはなんでもできる」です。「自分のするべきことはなんでもすると覚悟して、なんでもする」です。そしてこのことは、もちろん、「できないこと、わからないこと、知らないことを、できない、わからない、知らないと素直に認める」と同じです。
□(192-3)


 私が一貫して言っていることは、「“できない”を認めろ」です。「“できない”を認めれば、“できる”ようになる」——これだけです。「“できない”を認めて、さっさと“できる”ようになれ」ではありません。「“できない”を認めれば、いつかは“できる”ようになるんだから、落ち着きなさい」というだけです。〔略〕
 人間には、「人前であがる」ということがあります。なぜそうなるのか?
 それは、人間がミエっぱりだからです。「人前で“いい自分”を見せよう」と考える。〔略〕これを避ける方法は、一つしかありません。「自分は自分で“この程度の人間”なんだから、今さらこんな自分を“よく見せる”もへったくれもない」と思うことです。そうすれば緊張しないし、あがらない。

□(208-10)


「相手も自分も同じ人間、世の中にある組織も人間の作っているもの、どんなことでも人間のすること」——こう思わない限り、なにもできるようにはなりませんよ。
□(213)


「できない」を認めるということは、同時に、「いつかできるようになりたい」という希望を胸にしまいこむことでもあります。その「希望」をプレッシャーに変えるのは、つまらないことです。
〔略〕「簡単にできるようになったものは簡単に忘れられる」ということだけは確かです。「なにが大切か」ということは、時間をかけてしみわたっていくものなんですから、そういう意味で、きっと人生は長いのでしょう。「一人前になる」ということは、人間が一生をかけて実現していくようなものなのです。

□(230)

 自分の内面の動きをよくよく観察し、認識することが不可欠なようです。そして、必要以上に格好を付けず、必要以上に恐れを抱かないことが肝要なようです。


@研究室
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by no828 | 2011-09-20 16:33 | 人+本=体 | Comments(0)
2011年 09月 19日

学者の世界というのは、実は独学のようなものです——柳川範之『独学という道もある』

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89(411)柳川範之『独学という道もある』筑摩書房(ちくまプリマー新書)、2009年。

版元




 先日、ぶくおふ新書文庫250円均一セールのときに買った1冊。
(註:105円の本まで250円になるのかと怖れていたが、そういうことはなかった。これを機に、なかなか安くならない三島由紀夫『豊饒の海』の3・4巻なども購入した。)

「独学」とは研究者の基本的な姿勢であるとわたしは考えていて、だからその姿勢を学ぼうと思って読んだ。同様の考えが書かれていた。共感した。だが、「独学」とは言っても、それを導く「先生」の役割はやはり小さくはないのだ、ということを、著者の文章を読みながら思った。

 ちなみに、著者は高校に行かず大検を受けて大学院まで行って経済学の研究者になった人物。また、シンガポールやブラジル、アメリカでの生活経験がある。


〔ブラジルのリオデジャネイロの〕ビーチはとてもきれいで、広大な砂浜が広がっていて、夕日がそのビーチに沈んでいくとても美しい光景、その前景に、年端もいかないような子どもたちが一生懸命小銭を稼いでいる。ぼくの中でそのコントラストをなす絵が、とても強く印象に残っています。
 それはそれだけのことで、ぼくがそこで何かをしてあげたとか、あるいはそういう人たちに何かを語りかけたとか、そういうことでは残念ながらないんですね。ないんですけれども、やっぱりその瞬間に自分が感じたとてももやもやした気持ちだとか、そのビーチの雄大な夕日の雰囲気だとか、そういうものが渾然一体となって非常に印象に残っています。今から考えると、——いろんな跡付けができるんですけれども——そういうワンショットの絵のような感じで、非常に心に残っていることが、その後の生き方に少なからず影響を与えているように思うんです。
 くり返しですけれど、そのような心に刻み付けられる思い出ができたというのは、得がたい経験なんだと思います。今、いろんなことをわかった上で、ふり返って考えてみると、やはりその理不尽なまでの貧富の格差の光景が、自分の心にすごくインパクトを与えたと思うんですね。ただ正直に申し上げれば、その時はそこまで深く思い至っていたわけではありませんでした。

□(17-8)

 こういう原体験のようなものはわたしにもある。しかし、その原体験はまったく変型していないかというと、たぶんそういうことはない。著者も言うように、跡付け、事後的な意味付け、ということを人は自らの過去に対してするわけであり、それが常でもある。だから過去を変えることはできると言ってもよいかもしれない。未来は変えられる、そして、過去も変えられる。



学者の世界というのは、ほとんど実は独学のようなものです。つねに新しいことを考えていかなくてはいけないので、そこは誰かが教えてくれるわけではないんですね。自分で何かを考えて、何か結果を出して論文を書いていかなくてはいけない。
□(34)

 だから、“研究を評価する”ということはきわめて困難な所業であり、原理的にはおそらく不可能な行為である。研究者はみな、それぞれに最前線を走っている——あるいは、走ろうとしている——からである。その研究者よりも先を行っている研究者というものは、原理的には存在しない。


 学者になってからあらためて思うことは、勉強や研究の自分なりのマスターの仕方を、自分なりに工夫することが実はとても大事だという点です。そこをうまくやれると、ずっと早い〔ママ〕スピードでステップアップをしていきますし、そこを間違うと結局回り道をしてしまうということなんじゃないかと思います。〔略〕自分なりに合った勉強の仕方、時間の使い方をうまくつかめると、ぐっとステップアップできるのだろうと思います。
□(51)

 試行錯誤なう。


 おそらく他の研究者の方々も、学問の性質や研究者のスタイルによっても違うと思いますが、人に聞いて何か答えを出すことができない以上、悩んでは立ち止まり、進んでは壁にぶつかって、というのをくり返しているのではないか。もう一回その壁にぶつかるのか、諦めて遠回りをして別の道を探すのか、というようなことにたえず悩んでいる。そんなところは、どんな研究者であれ、多かれ少なかれあるんだと思うんですね。その時の時間の使い方も、やはり悩んでいるんだと思います。
 論文を書いているときも、つまずいてしまうとそこで一週間や二週間、一歩も進めなくなるようなことはいくらでもあります。その時に粘って時間を使うことが新たな道を切り拓いて行くことになったり、逆にそんなにゆっくりやってもいられないので、早く〔ママ〕進むところは進むこともある。そういったペース配分がうまくできないと、なかなか論文を書いていくことはできないんです。

□(67-8)


やはり、好きだったり関心のあることを一生懸命やるのが、人間の自然な姿ではないかと思うんです。〔独学には〕そこに集中できることに大きなメリットがあるし、ぼくは自分でそのようなやり方をしてきました。
 もちろん、やりたいことをやろうと思ったら、付随して面白くないことをやらなくちゃいけない場合もあります。〔略〕けれども、本当に面白くてやりたいことだったら、付随したつまらない部分も我慢して、やり遂げることができるように思います。だから、自分の好きなことをできるだけたくさんやることが大事だと思うんですね。学者の世界でも、ある意味、自分の好きな研究をやっていくことで、それで学問が進んでいく部分がありますので、そこも一貫して共通している部分ではないかと思います。

□(69)



 単に漠然とした目標を決めるだけでは、なかなかやる気が出ない。短期的に、明日これをやると決めておくと、それがなんとかできるように頑張るというパターンになります。〔略〕
 ただ、それでそのとおりに着実に階段を上がっていけたのであれば、きれいなお話ですが、あくまで自分で決めた目標にすぎないので、実際は目標を達成できないことも多かったですね。考えていた目標の八割いければいいほうでした。それでも、何もないよりは、そういった目標があったほうがよくて、自分であらかじめ計画を立てることでやる気も出るし、目標を立てる時に、目標を考えるという作業自体にも意味があったように思います。

□(64)

「目標」とは何なのか、というのは一体何なのか。未来における現在、実現されるべき価値、……。



 アメリカでの留学経験もそうですし、ブラジルでの経験もそうですし、世界でいろいろなものを見てきますと、実はさまざまな違った能力を持った人が、違った形でそれぞれに評価をされ能力を発揮していることがよくわかります。そういう機会というのは、世界中を探すと至るところにあって、理解のスピードが遅くても、時間をかけていい仕事ができるのであれば、それをとても評価してくれるところもあるし、逆に速さ勝負という場合もあるように、評価基準は実にさまざまあります。また仕事内容によっても、必要とされる能力はかなり変わってくると思います。
□(119)


 少し学問的な言い方をすると、もっと人びとの選択肢が広がるような世界にしないといけない。それはいろんなレベルでそうで、たとえば、勉強をしていくプロセスにしても、すでに述べたように何年かかっても別によいはずだし、今の受験システムに通らない能力ということもありうる。そういう意味での勉強の仕方や選択肢には、多様性があったほうがいい。もちろん怠けてもいいということではなくて、それなりに頑張るにしても頑張り方が違っていてもいいんじゃないかという気がします。
□(127-8)

 それで、高校から大学への直接進学を原則禁止せよ、というのが著者の提案。大学に入る前に働くでも旅をするでもいいから、何かしたほうがよいと、それによって学ぶ意味がより鮮明になると、著者は言う。

 選択肢を拡大する、かぁ……。


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by no828 | 2011-09-19 15:09 | 人+本=体 | Comments(0)
2011年 09月 16日

「自分が明日死ぬとしたら、いま何を学びたいか」という問いを発すると——中島義道『ウィーン愛憎』

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88(410)中島義道『ウィーン愛憎——ヨーロッパ精神との格闘』中央公論新社(中公新書)、1990年。

版元(→




 哲学者の1979年、33歳からのウィーン留学記。中島はそれまでに学士号2つ、修士号1を取得していた。このことは以前から知っていた。しかし、なにゆえにそこから留学をしたのかはわからなかった。本書でその一端が見えた。

 学問に生きていこうとする者の内面の翳りのようなものには、非常に共感する。


 つまり、〔口論において〕攻撃された瞬間に真実に取りすがってはならないのであり、相手に自分の弱みを一切見せてはならないのである。攻撃された瞬間、自分は全知全能の神のような存在に上昇し、相手は無知無能の輩に下落する。そして、このタテマエをどこまでも大真面目に、相手に一分の隙も与えずに貫くとき、私は勝利はしないかもしれないがけっして敗北はしない。屈辱感に身を奮わすこともない。
□(23)

 アカデミックな議論においてはどうか、と考えてみる。



明治以来わが国はヨーロッパの文物を貪欲に吸収したが、ただ一つだけ学ばなかったものがあるとすれば、それは、ヨーロッパ人の体感にしみついた中華思想だと思われるのであるが、いかがなものであろうか。
□(65)



 私は東京大学の文科一類というところに入学したが、将来は法学部に進むべきそのコースで哲学にかぶれ、一年留年して教養学科の「科学史科学哲学分科」——略して「科哲」という——に進学した。そこを選んだ理由はもちろん驚くほど多様な諸要因から成っているが、詰めていくと、入学後かなりの虚脱状態が続いていくなかで「自分が明日死ぬとしたら、いま何を学びたいか」という問いを発すると、どうしてもそれは法律ではなくて哲学であるという動かし難い結論に達したからである、と言えよう。
 とはいえ、当時の私はカントやデカルトやニーチェに没入したわけではなく、「時間」や「空間」や「真理」や「意識」や「必然性」や「美」などの概念が何を意味するのかまったくわからなくなり、直接自分なりの答えを出そうと悪戦苦闘していた。いまとなっては不埒な思い上がりであるが、当時は古典哲学の文献考証から真理が得られるとは考えていなかった。
 そして、ついに法学部へ進学するか留年するかの瀬戸際に立たされて、私はかねてその著書から衝撃を受けていた「科哲」の大森(荘蔵)先生に直訴することを決意した。薄暗い応接間で、大森先生は「考えていることを話してみなさい」と言われた。不思議に先生は私の哲学的問題を真剣に受けとめてくれた。それは、大学入学以来はじめて体験したことであった。私は感動した。帰り際に大森先生は、「私は物理学科を卒業してから哲学科に入り直しました」とお話くださり、それから断定的ではないが、「科哲に来なさい」と言われた。
 最も尊敬している哲学者が私の言葉を真面目に受け取ってくれたというだけで、私はまさに雲の上を歩いているようであった。
 だが一方で、自分はこれで一生「哲学」に捕らえられてしまうであろうと予感し、恐ろしかった。〔略〕
 いま思っても、当時の私の哲学病はかなり純粋なものであったと自負している。そしてこの純粋さは、当時の頭の水準がかなり低かったことによることもわかっている。もし当時の私に古典への親近感と読解力と柔軟性とがあれば、私はプラトンやデカルトやカントのうちに自分の哲学的問題への指針を見つけることができたであろう。〔略〕
 私はそのころさかんに出版されていた「論理実証主義」関係の啓蒙書に心酔し、その学派に共通の古典哲学嫌いもあって、自分の頭で哲学的難問に答えを与えようとほとんど無駄な努力を重ねていた次第である。

□(44-6.傍点省略)

 まじめに話を聴いてくれる先生がいるというのはとても恵まれたことだ。そういう先生がいるというのは、実は稀なことだ。

 それから、古典哲学を読む姿勢、そこに学ぶ姿勢は重要だと思うが、そこから古典哲学のなかに答えを探そう、救いを見出そうとする姿勢に転じると、うーむ、と思う。“誰々の何々思想”のような研究は、たしかに自らの哲学を展開するためのステップとしては必要であろうが(批判して乗り越える、とか)、それで終わるのであればそれは哲学ではなく思想史であって、それを哲学と呼んではいけないとわたしは考える。だから、「直接自分なりの答えを出そうと悪戦苦闘」や「自分の頭で哲学的難問に答えを与えようとほとんど無駄な努力」にも、きっと意義と意味とがあるはずだと考えるのである。



 博士論文を書くなどという野心はなかった。ただ一、二年徹底的に学問に没入することが自分には必要なことに思われた。そのころはもはや、哲学は学問ではないなどとうそぶくほど愚かではなかった。本場でぼろぼろになるまで学問と格闘し敗れればそれでよい、学問を軽蔑することはそれからでもよい、と思った。むしろ、学問を軽蔑することができるためにも一度は学問のなかに没入しなければならない、と考えた。
 いまでも思い出すごとに胸が締めつけられるのは、当時のこうした悲愴な決意である。
私は自分の決意が充分他人を納得させるものではないことを知っていた。ウィーン行きを連絡すると多くの人は戸惑いを示し、口での賛同の言葉とはうらはらに探るような疑惑のまなざしを私に向けた(ように思った)。私は、そうしたまなざしの矢に全身射られて、息もたえだえに機上の人となったと言えよう。

□(49)

 これは、読み手の胸をも締めつける。「悲愴な決意」を自分のなかに見つけ出すことができる人もいるはずだ。


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by no828 | 2011-09-16 17:39 | 人+本=体 | Comments(0)
2011年 09月 15日

でね、真理に関しては著作権が無いわけ——糸井重里・橋本治『悔いあらためて』

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87(409)糸井重里・橋本治『悔いあらためて』光文社(光文社文庫)、1984年。

版元(→ 書誌情報なし)




 こんな本が出ているなんて知らなかった、というぶくおふでの発見。たしか白河店、もちろん105円。


橋本 というよりもね。コピーライターって小説家の全く逆だと思うのね。つまりコピーライターは、完全な家を見るわけ。見て、完全な家の中の一カ所、隙間を探すんだよね。
糸井 そうそう。
橋本 そこの隙間に楔をぶちこむとその家がぶっ壊れちゃう、という隙間がどこかにあるはずなのね。で、そこを探して、そこに楔を一本ポンと打ちこむのがコピーライターだから、小説と全く逆なんだよね。

□(43-4)

 この説明は非常にわかりやすい。



橋本 だから、この先何かやれる人っていうのは無意識を意識化して掌握出来るか、さもなくば、無意識の中から自由自在に意識化出来るものを採り出していける力を持っている人か、どちらかの力を持っている人じゃないと駄目なのね。
□(61-2)



橋本 没個性って、ある意味で一番楽な状態だものね。
□(85)



橋本 〔略〕誰かの本を読んでるはずなんだけど、誰が書いたか、なんて全部覚えてないわけ。何故かっていうと、それは「真理」だから。誰が書こうと、関係ないんだってことがあるから。
糸井 うん。
橋本 でね、真理に関しては著作権が無いわけ。
糸井 公共のものだから!
橋本 そう、私してはいけないっていうのあるわけ。私するんだったら、その為に、テクニックというものが必要なのである。だから、テクニックはレトリックであるから、レトリックのある人間だったら、著作権を要求してもいいってことはあるわけ。
糸井 すごい、いいねえ!

□(169)

 なるほど。



糸井 そうそう。そうするとさ、下が何でも、例えば、学生服っていうのがね、どれだけ戦後民主主義をね、支えたかっていうとさ、「貧乏な子は裸の上に着なさい。お金持の子は下にセーターを着なさい。それは全て学生服の詰襟のここをパチッとすることによって等し並です」っていうのを支えるためにあった。
□(232)

 で、「トックリセーター」は楽だよね、と。



橋本 僕は新聞作りたいってことと同時に、最近ヒシヒシと思うのはね、教師育てる学校が作りたい。つまり学校だとね、その学校〔地域?〕に色のついた学校が一校だけあるとね、あれは色の付いた学校だってことになるけれども、色の付いた教師作っちゃって、どこにでもバンバカ、バンバカおくりこんじゃえばいいんじゃないかと。
□(259)

 教育の要は教師。ここでの「色」はその人の内側から滲み出てきたものである必要がある。



糸井 橋本さんのあれだね。六〇年代、ワーっとみんながやってんのを、こっちから見てた。見てたってのはさ、ちょうど、「しない権利」でしょう。しないのもあるって権利で。
橋本 ああ、イエス。

□(305)


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by no828 | 2011-09-15 16:54 | 人+本=体 | Comments(0)
2011年 09月 14日

お嬢様はアホでいらっしゃいますか——東川篤哉『謎解きはディナーのあとで』

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86(408)東川篤哉『謎解きはディナーのあとで』小学館、2010年。

版元(→




(昨日の朝永振一郎からのこの展開というか転回というかがものすごいと自分では思う。)

 売れた(売れている?)ということは知っていて、ぶくおふ105円の棚にて発見したものですから、ついつい。売れたのはなにゆえか、という関心も。

 長編小説かと思っていたら短篇6編の集積で、わたしの読後の感想は「軽い」であって、引用したいと思える文章には出会えなくて、それが残念であった。

 が、「谷保(やほ)」という地名が出てくるなど、舞台は国立界隈であって、毎週月曜に立川まで非常勤講師に行くために南武線を使うことがあるわたしにとっては、やや親近感を抱くものではあった。加えて、執事影山の推理を読んで、論理の重要性を改めて意識させられたのもよかった。目下入手できた情報から推定できることはなにか、それを無理なくつなぎ合わせることにより、なにが見えてくるのか、勉強になった。筆者はどのようにしてプロットを構成していったのか、点で存在する個別情報をいかにして線へと作り上げたのか、すでに線があったからこその点なのか、この執筆過程に興味を覚えた。

 ちなみに主人公は大金持ちのお嬢様で刑事の宝生麗子である。わたしのなかで“大金持ちのお嬢様”と言えば、森博嗣の西之園萌絵なのだが(彼女は学生だが)、こうした設定の“ありえなさ”が一般読者に受け入れられるのはなにゆえか、と思う。圧倒的な格差の対岸・彼岸にいる人びとには、利害関係なく親しみ・愉しみを覚えることができるのであろうか。近くの小さな格差には敏感であっても。


「失礼ながらお嬢様——この程度の真相がお判りにならないとは、お嬢様はアホでいらっしゃいますか」
□(26)

 というのが、パターンです。


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by no828 | 2011-09-14 12:36 | 人+本=体 | Comments(2)
2011年 09月 13日

この新理論に進もうとする若い連中は、独学をするほかなかったのであります——朝永振一郎『量子力学と私』

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85(407)朝永振一郎『量子力学と私』江沢洋編、岩波書店(岩波文庫)、1997年。

版元(→




 物理学者 朝永振一郎(1906 - 1975)の自分史の展開と量子力学の(たぶん平易な)解説。1965年、ノーベル物理学賞受賞。

 量子力学に関心があるのと、朝永の文体に興味があったので(わかりやすいという評価を聞いたことがある)。「光子の裁判」は、他の文章とは趣が違っているが、おもしろかった。量子力学というものの性格(科学観?)がよくわかる。

 もっと学問しよう、と思う読後。それから、朝永のような学者でさえ、机に向かってもなお、紙に向かってもなお、1日を無為に過ごすという感覚を抱いていたというのが、何というか、安心というか。


私は一九二九年に京都大学を卒業しましたが、そのころ日本のどの大学でも、みずから新しい量子力学を研究、教授することのできる先生は一人もなかったといえましょう。したがって、この新理論に進もうとする若い連中は指導や助言を受ける先生を見出すこともできず、ただ若いものどうしで主としてヨーロッパからくる論文を読み合ったりしながら、独学をするほかなかったのであります。
□(98)

 というような記述が散見される。「独学」したからこその力というものがありそうである。



〔一九三八 - 九年ドイツ留学中の日記〕一日机にすわっていると、ヘルメッケ小母さんなどは、実に勉強をよくするとて感心している。すわっていることと勉強とは別だ。先日から学校怠けてばかりいる。今週は一日も出ない。これでは困る。
□(151)

 仁科〔芳雄〕さんから手紙がくる。その手紙をみて、なみだが出てきたのは、実にセンチだ。だが話はこうだ。せんに、うちに仕事がうまくいかないのでゆううつになっていると心をうちあけてかいたのを、仁科さんが知って、それに対する返事なのである。「業績のあがると否とは運です。先が見えない岐路に立っているのが吾々です。右へ行くも左へ行くもただその時の運や気で定まるのです。それが先へ行って大きな差が出来たところで余り気にする必要はないと思います。またそのうちに運が向いて来れば当ることもあるでしょう。小生はいつでもそんな気で当てに出来ないことを当てにして日を過ごしています。ともかく気を長くして健康に注意してせいぜい運がやって来るように努力するよりほかはありません云々。」これをよんでなみだが出たのである。学校へ行くみちでも、この文句を思い出すごとに涙〔ママ〕が出たのである。
□(153-4)

 田中夫妻がぼくに結婚しろという。結婚すれば考え方が変るものであろうかしら。子供が出来て、それを父おやとして教育するなどということが出来るかしら。父おや自身どうなっていいか判らずに子供におしえることが可能であろうか。こう考えると学校の教師にもなれない。教師が目標ももたずに人の子を教えることが可能であるとは思われない。
□(155)

 どうも日記をかくのがおっくうになってきた。書けばとかく泣き言になるからだ。学問とか道徳とかいう崇高なものに反ぱつ心がおこっていけない。歴史の上に大きな足跡をのこした人などに向ってそんなのが何だと言いたい気もちがする。そう言いながら悪たいをついて、一もくさんににげ走るひきょうもののような気がする。実は心の中ではそんなものは何だなどとは思っていない。そんなものほんとに何だと思っているなら、こんなことを日記に書かなくてもいいのである。
□(159)

 市場を作るために、戦争までして、国と国とが争う。すべて迷いではないかという気がしてくる。それからひいて、物理学など〔と〕いうものを人間がやり出したために、こんな結果になったのではないかという気がしてくる。もと、科学をやる人間は神のすがたを見るつもりでやった。自然の調和をもとめるつもりでやった、といえるであろうが、それが人間の欲望と結合して、こんなあさましい結果を来すことになった。欲を去って、もともとのすがたにかえれというかしらぬが、今の科学はあまりに文明とむすびついてしまって、実際おそらく文明なしに科学だけということは不可能であろう。人間の欲望をみたそうという努力がなければ、科学も今のようにはならず、どこかで止まっていたにちがいない。
□(181)


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by no828 | 2011-09-13 14:11 | 人+本=体 | Comments(0)
2011年 09月 12日

可能性は可能性のままがベストだ——森博嗣『工学部・水柿助教授の日常』

c0131823_1244570.jpg84(406)森博嗣『工学部・水柿助教授の日常 Ordinary of Dr. Mizukaki』幻冬舎、2001年。


版元(→


 単行本ぶくおふで105円。文庫はなかったため。著者の自伝的「小説」(?)。大学を舞台にした書物には関心がある(というか、出てきた。というか、出てきて久しい)。



 研究には大きく分けて二種類がある。社会のニーズに敏感に応える開発研究と、そういったことに無関係な基礎研究である。ファッションのように、研究テーマにも流行があり、それを追いかける研究者も多い。そこにお金(研究費)が集まるからだ。だが、どんな分野でも同じことだと想像するが、「追いかける者」は、決して人の先に出ることがない。したがって、何かの研究テーマが急に社会的課題として認識されたとき、その分野のトップに立つことになる研究者は、必ず以前から、すなわち、その課題が誰にも見向きもされなかった頃から、興味本意〔ママ〕で研究に取り組んでいた人間だ。そういった研究者は、例外なく、時代をリードしようなどと大それたことは考えていない。念頭にないし、興味もないのだ。ちょうど、鳩を追う子供の周辺に、鳩が集まらない光景に似ている。こういった御託を、水柿君は研究者仲間からよく耳にする。では、自分はどうなのか、といった分析さえ、馬鹿馬鹿しいのでまだしていない水柿君だ。
□(20)

 開沼博 君のことが頭に浮かんだ。

 再確認。わたしは“何々な誰々である”という文章が好きでない。



 学会の「大会」では、日頃は会えない遠方の研究者仲間に会える。また、学生たちはここで研究発表をして場数を踏み、さらに、専門分野の研究発表会や国際会議などへとステップアップを目指す。つまり、よく使われる表現だが、年に一度の「お祭り」なのである。真剣に研究発表をしている人は少ない。真に注目すべき研究は、こんな場所には出てこない。
□(21)

 かもしれない、と最近思う。最近、学会発表の意味がよくわからなくなっている。学生は比較的真剣に発表していると思うが、そうでない人のなかにはそうでない発表をする人もいて、嫌になる。“何しに来てるわけ?”と思うことが多い。真に注目すべき研究をしている人は、学会大会になどは出てこないのかもしれない。

 ということを考えていて、だから学会を選ぶのは大事だと、就職したら取捨選択しようと、そう考えてもいる。



 水柿君の仕事は研究である。ものごとの理屈を探究することだ。謎を探し、それを一つずつ解決して前進する。その作業の繰り返しといえる。あるいは、目の前の美味しそうな謎に惹かれて前進しているだけかもしれない。その途上には、謎は無数にある。謎のあまりの多さに、魅力的だとか平凡だとか、大きいとか小さいとか、いちいち評価する暇などない。
 解決がエレガントであれば、とても嬉しい。
 一つの謎の解決が、ときとして他の多くの謎を一気に消し去るようなシーンに出会うとき、一瞬の無上の興奮を感じる。
 解決の手法にオリジナリティがあれば、また別の醍醐味が生まれるだろう。それらは、日常に生じるミステリィなど、とても比較にならない。研究ほど愉快なミステリィは他にない。

□(49)

 教育学という分野も、哲学という分野も、謎が段階的に存在しているようには思われない。“ここまでわかったから次はそこまで”という感覚が味わいにくい分野だと思う。言い換えれば、“何がわかって何がわかっていないのか”がわかりにくい分野だと思う。



 また一方で、監督者や教官も、カンニングに対してある程度は寛容である。これには反論があろうが、あえて極論を書こう。実社会に出て、カンニングが許されないような状況はほとんど存在しない、といっても良いのだ。セレモニィにおけるスピーチだって、格好が悪いのは事実であるが、カンニング・ペーパを持っている人が多いではないか(特に役職が高くなるほど割合が高くなる傾向にある)。つまり、何も見ずに、誰にも相談せずに、正確に質問に答えなければならない、といった状況は、大人の社会にはありえない。そもそも、人間性を無視した、そういった余分な能力を問う状況こそ不合理だ。
□(118)

 ただし、もう一度だけ繰り返すが、試験のように、誰にも相談できず、資料を閲覧することも許されず、時間内に難題を解決しなくてはいけないようなシチュエーションに実社会で出会う確率は、0パーセントに近いといって良い。友人に電話をかけて内緒で教えてもらった人も、自分独りで解決した人も、社会では同じ評価を受ける。夕方までに仕事を片づけて、さっそうと遊びにいった社員も、仕事が遅いために、残業してしまった社員も、翌朝になって上司に見える仕事量に変わりはない。つまり、同じ価値だ。
 社会は、何でもあり、なのである。
 自分が駄目な分だけ友人に頼る、という人格も、それはそれで、ある種の能力といえる。頭で覚えられない分だけ、常に辞書や資料を手もとに置いている人も、無能だといわれる筋合いはない。計算が遅くても、電卓を持っていれば事足りる。
 こうしてみると、試験とは何なのか?
 常々、水柿君はそれを考える。
 そして悩む。
 彼は、最近では自分の教えている科目で、試験を一切しないことに決めた。

□(149-50)

 これは、わたしも考える。よくわからない。「評価」とは何か、とも思う。「できる」、「できない」、ではなく、「できる」ための条件こそが問われるべき?



 〔入試の採点作業中——〕部屋の端っこへ移動し、彼女から離れて、水柿君は黙々と答案を見た。頭がぼうっとしてくる非生産的作業である。こうしてみると、マークシート方式の試験は、少なくとも、全国の優秀な頭脳が無駄に消費されていない、という点で多大な貢献をしている。このメリットは、世間ではそれほど注目されていないようなので、ここで強調しておこう。
□(136-7)

 このことは、採点をしてみるとよくわかる。部分点とか、面倒くさい。



 若いときの恥ずかしさを知ることが、すなわち大人になることであって、それが少なくとも人間という種族の完成形への一つのステップ、そしてハードルといえるものだ。おそらく、六十歳になると、四十の頃が無性に恥ずかしくなるものと推察されるけれど……。案外、歳をとると、恥ずかしいという感情そのものを忘れてしまうのかもしれない。
□(163)

 二十歳の頃を思い出して恥ずかしさ覚える三十路の入口

 今日は中秋の名月であります。



 実は、水柿君とつき合うまえに、須摩子さんにもボーイフレンドがいた。彼は、東京の大学へ行ってしまった。どちらかというと、彼の方が熱心だったのに、彼女は当時はまだまだ自分の可能性がわからなかった。今でもわからないから、それは同じである。自分の可能性というものを、できれば試したくない。可能性は可能性のままがベストだ。それが須摩子さんの信条である。
□(205)

 これは個人的に、さらに考えてみる必要がある。

@研究室
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by no828 | 2011-09-12 12:49 | 人+本=体 | Comments(0)