思索の森と空の群青

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2011年 12月 30日

鬼と云うのは、人間が実行可能なのに中中出来ないことをするんですよ——京極夏彦『百鬼夜行——陰』

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148(470)京極夏彦『文庫版 百鬼夜行——陰』講談社(講談社文庫)、2004年。

※ 本作品は1999年に講談社ノベルスとして刊行。

版元 → 




 今年ラストの本になると思います。京極夏彦の百鬼夜行(京極堂)シリーズのサイド・ストーリーです。


 実力とは己の力ではない。己の背後の力である。岩川にはそれが備わったのだ。
□(415)


「つまり——神通力を持つ者だから教主なのではなく、教主が行うからこそ神通力になると、こう云うことだ。解るか。行っていること自体は何等特別なことではない」
□(461)


 ――視線。
 視線とは何だ。平野は考える。
 人と云うのは、どれ程の意志を以て能動的に世界を視ているのだろう。
 世界がただ在って、それがただ見えているだけであるならば、それは果たして意志を以て世界を視ていると云えるのだろうか。
 視ないと云うのは能動である。
 眼を閉じるのは、己の意志だ。

 だが視るとなると、これは怪しい。自分の意志で決定出来るのは視る方向ぐらいのものである。視覚は、向いた方向にある対象を厭でも全て捉えてしまう。選択の余地がないのならば、眼は単に世界を受け入れているだけだ。ならば視るではなく、寧ろ見えると呼ぶが正しかろう。

□(136.傍点省略)


「良いか、儂はそっぽを向いておったが、あんたが目を閉じている間、あんたにとって儂はあんたの方を向いていたのだ。あんたが目を閉じている間に儂が去れば、儂はずっとあんたを視ていたことにもなろう」
「しかしそれは事実と違いましょう」
「なんの違うことがあろうか。それがあんたにとっての真実だ。世界は観るものに依って決まるのだ」
「観ることが世界を変え得るのですか」
 依然平野には考えが及ばない。
観る者なくして世界はないわい。視線は発する者には在らず。受くる者にこそ在る。物理摂理には関係ない。あんたの思うのとはまるで逆だな」

□(156.傍点省略)


疾しい気持ちがない子供などいませんよ御主人。子供と云うのは、悪いことをしてはいけないと云うことは知っていますよ、叱られますからね。でも何が悪い事なのか、全て判断出来る知識や経験はない訳でしょう。だから子供は皆、知らず知らずのうちに悪い事をしてしまっているのではないかと、不安に思っている——そう云うものじゃないですか
□(200)


鬼と云うのは、人間が実行可能なのに中中出来ないことをするんですよ。それが出来る状態を鬼と呼ぶんですか〔ら〕。だから幽霊でも、ただ怨めしや、と云うだけの奴はただの幽霊で、それ以上のことをすると鬼になる。それは——」
「生きていても——同じことですか」
「そう。生きていても同じことです」
 そう云う状態を解り易く表現するのに角が便利なんですねえきっと——と、薫紫亭は続けた。
「盗賊悪等の類も鬼と呼ばれますでしょう。まあ残虐な行為、法を犯す戒律を破る、これはまあ一般にしてはいけない、中中出来ないことですから」
 ただ不可能〔な〕行為ではないでしょう、やれば出来ます——と薫紫亭は云った。
 ——出来ることなのに、
 ——人に出来ないこと。

□(215)


「解ったか。一応——俺は貴様の上官だからな。命令は聞け。生きろ
 ただ、涙が出た。嬉しいとか悲しいとか悔しいとか云う涙ではなかった。

□(228)


「嘘を吐いてはいけない。それが嘘でなかったとしても、手を出す訳でも口を出す訳でもない、ただ観ているのだから同じことでしょう。あなたは一度も救いの手を差し延べなかった。あなたはいつも他人の顔であの悲惨な光景を愉しんでいた。他人の不幸は己の幸福ですよ。あなたの顔は満ち足りていた」
□(240)


「人ってなぁそんな単純なものじゃないだろう。ひとつの理由がひとつの結果を生む訳じゃあない。理由は幾つもあるし結果も幾つもあらあ。だから、まあ思い込みみてェなものは誰でもあるんだろうが、大方のことは偶偶そうなっちまったってのが正しいンじゃないかい
□(273)


 勿論純子は戦前の教育が正しいなどと思っている訳ではない。あらゆる意味でそれは間違っていたのだ。皇国だの軍国だのと云う戯言は論外なのだが、仮令そうでなかったとしても、偏ったイデオロギーを無批判に押しつけることはどんな場合でも宜しくはなかろう。それは所謂洗脳である。そこまでは誰でも指摘する。しかし、例えばそれが政治的な意味合いを持たぬ思想であったとしても、或は何のポリシーをも持たぬ腑抜けたものであったとしても、生徒側に思索や選択の余地を与えない教育なのであれば、所詮は同じことなのだと純子は思う。平和的であろうと民主的であろうと——如何であれ、いずれ偏ったイデオロギーには違いないのだ。
□(319)


 本を読み、具体的なことばに触発されてきました。引用は思考の契機となってきました。しかし、引用することにより思考が限界付けられてきた側面もあるように感じています。もちろんわたしは引用すること自体に意味があるとは考えています。「読む」と「書く」とは違い、引用ではあれ「書く」という行為を通じて得られるものは少なくない。ただ、他者のことばを写すことは自己のことばを結果的に抑え込むことにもなりかねないとも思うようになりました。“引用して考える”と“最初から自分で考える”とは、前者のほうが節約的であり、後者には時間と労力と安定とが不可欠である。そういうことでわたしは前者を採用してきたわけではない——と言い切ることは、しかし正直難しい。「自己のことば」というものがあるのかどうか、それも疑問ではありますが、引用したいと感じた・思ったところを自分で論じなおすくらいの勢いで書くことが必要なのかもしれません。課題にします。

翌31日追記:やはりこの本が最後になります。今年読んだ非学術書(とわたしが勝手にカテゴライズした本(の大体全部))は148冊、ブログ開設以来の冊数は470冊となりました。ほとんど古本、全部購入、売却なし、なので、蔵書もそのぶん増えたことになります。アパートの本は1,000冊を超えたと思いますが、書物を前後2列に配した書架にはまだ余裕があります。)


@研究室
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by no828 | 2011-12-30 20:00 | 人+本=体 | Comments(0)
2011年 12月 30日

でたらめでもいいから、自分の考えを信じて、対決していけば世界は変わる——伊坂幸太郎『魔王』

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147(469)伊坂幸太郎『魔王』講談社(講談社文庫)、2008年。

※ 単行本は2005年に同社より刊行。

版元 → 




 今年の本の紹介、“ラスト前”になると思われます、伊坂幸太郎の『魔王』。ファシズムとの対決がテーマです、と言ってしまうとあれかもしれませんが、政治家の声に引き寄せられ・搦めとられていく人びとの様子を見ながら、そうなってはいけないと思考する男の努力、あるいは、シューベルトの「魔王」が描き出した不合理が描かれています。日本の実際の政治のありようと重なってきます。この本が出版されたのが2005年、伊坂の見た政治はどの政治なのか、誰が首相であったのかを読み手は思い起こすことになります。

 しかし、宮沢賢治の『注文の多い料理店』はファシズムを主題とした小説であったのか……。


汚職や不祥事、選挙の敗北、それらの責任で辞任した首相はいるが、国の未来への道筋を誤った、と辞任した首相はいない。なぜだ? 選挙で敗北して辞任はしても、それ以外では、辞めない。誰も誤っていないのか? 未来への道筋はいつも正しいのか? 政治家はなぜ、責任を取らない。国民はもう諦めているんだろう。若者は敏感だから、顕著だ」
□(51)


「だって、政治家なんて、自分たちの都合のいいことは勝手に決めちゃって、都合が悪いと、『国民への説明が足りないから、様子を見ましょう』とか言っちゃうわけでしょ。十年前にも思ったけどさ、何で、自衛隊の派遣は説明なしでやるくせに、議員年金の廃止は議論不足ってなっちゃうわけ? でさ、結局、多数決で決まるんだし、訳分かんないよ」
□(110)


ファシズムの何がいけないのだろう」マスターは問い掛けではなく、詠嘆口調だ。
「何がいけない?」

□(147)

 そこをこそ考えるべき。思考を煎じ詰めて結晶化したものが概念。だから概念は思考を短絡化・単純化しもする、善くも悪くも。大事なのは、概念それ自体ではなく、概念に込められてきたはずの意味。


「たとえば、この国の住人全員が、いや、全員でなくとも半分でもいい。数千万人の人間がある目的を持って、ある広場に、蠟燭を持って集まったとする。〔略〕その数千万人が自分の時間を割いて、誰かのために祈り、蠟燭を掲げたとする。〔略〕もし、そういうことが起きたら、世界で起きている大半の問題は解決すると思わないか?」
「え」〔略〕
とにかく、俺は訊きたいんだが、全員が結束し、意識を合わせ、蠟燭に火を点すのは、これは、ファシズムではないのか? 統一された行動と呼ばないのか?

□(148-50)


「俺たちが小学生の時に、アメリカはどっか、中東の国を攻撃しただろ、核兵器を持ってる可能性がある、とか言ってよ。その一方で、朝鮮半島の国は、核兵器を持っている、って自分から言っているじゃねえか。何で、そっちは攻めないんだよ。持ってない、って主張する国には爆弾を落として、持ってる、って威張ってる奴らは見守ってる、っていうのはどういうことなんだよ。分かんねえっての」
□(180)


「民族は、どの民族でも、善と悪について、独自のことばで語っている。国家は、善と悪についてあらゆることばを駆使して、嘘をつく。国家が何を語っても、それは嘘であり、国家が何を持っていようと、それは盗んできたものだ。ニーチェはそう言った」
□(195-6)


「どっちかと言えば、誇りが持てないのは大人が醜いからだよ。政治家がテレビの前で平気で嘘をついたり、証人喚問で、禅問答のような答弁をしたり、そういうのを見てるから、舐めてるに決まってるんだ。どこにどう誇りを持てって言うんだよな」
□(238)


「ちょっと前まで、日本はアメリカにべったりだったじゃないか。アメリカに、どうして軍隊を海外に派遣しないんだ、と叱られて、困っただけなんだ。そこで、断固たる態度で、『これはアメリカが作った憲法だろうが。自衛隊を海外に出せるわけがないだろ。自業自得だ』と突っぱねる度胸もなかった」
□(230)


「たとえば、国民投票って、昔、学校で習った時、憲法の改正は国民の過半数の承認が必要だ、って聞いた気がするんだよね」
「違うんだっけ?」〔略〕
憲法自体にはね、過半数としか書かれていないんだよ。だから、どうとでも解釈できるわけ。国民全部の過半数、とも、有効投票の過半数とも。で、今は国民投票法ってやつで、有効投票の過半数ってなってる
「いつの間に」
だから、投票率が低くても、投票率二十パーセントとかでも、過半数を取れば、改正される
「いつの間に」

□(276)

 ちなみに、関連現行法は以下のとおり。

 日本国憲法
 第9章 改正
 第96条 この憲法の改正は、各議院の総議員の3分の2以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。

 日本国憲法の改正手続に関する法律
 第3章 国民投票の効果
 第126条  国民投票において、憲法改正案に対する賛成の投票の数が第98条第2項に規定する投票総数の2分の1を超えた場合は、当該憲法改正について日本国憲法第96条第1項の国民の承認があったものとする。

 以上、伊坂の小説にあるとおりです。なお、法令検索は「総務省 e-Gov 法令データ提供システム」で可能です(→ )。


「最初は、大きな改正はやらないんだ。九条は、『自衛のための武力を保持する』とその程度にしか変えない。『徴兵制は敷かない』と足してもいい。それだけでもおそらく、大変な騒動になるだろうな。〔略〕大事なのはその後だ。時期を見計らって、さらに条文を変えるんだ。マスコミも一般の人間も、一回目ほどのお祭りは開催できない。抵抗も、怒りも、反対運動も持続はできないからだ。『もういいよ、すでに九条は改正されてるんだからさ、また変えればいいじゃないか』という感じだろうな。既成事実となった現実に、あらためて歯向かう気力や余裕はないはずで、『兵役は強制されない』の条文を外すことも容易だ。一度、認められれば消費税は上がる一方で、工事は途中では止まらない」
□(305)


「私を信用するな。よく、考えろ。そして、選択しろ」
 おまえ達のやっていることは検索で、思索ではない、とも言った。

□(333)


「まあ、赦してあげてよ」
この世の中で一番贅沢な娯楽は、誰かを赦すことだ
「それ、誰の言葉?」
「ノーバディ・グッドマン」
「誰それ?」
「昔、アメリカで二十人を殺して、死刑になった男、だったと思う」
「そいつだけは赦しちゃ駄目だよ」

□(74-5)

 ノーバディ・グッドマンは、たぶん実在の人物ではない。“善い人間(男)などどこにもいない”という名前の人はいないでしょう。


「兄貴、俺さ、『今まで議論で負けたことがない』とか、『どんな相手でも論破できる』とか自慢げに話している奴を見ると、馬鹿じゃないかって思うんだよね」
「どうしてだ」
相手を言い負かして幸せになるのは、自分だけだってことに気づいてないんだよ。理屈で相手をぺしゃんこにして、無理やり負けを認めさせたところで、そいつの考えは変わらないよ。場の雰囲気が悪くなるだけだ」

□(46-7)

 最近思うのは、議論をするということの本質は、議論をした者のなかで誰が勝つか負けるかという勝敗にではなく、また、弁が立つのは誰で口下手なのは誰なのかの判定にでもなく、議論することで何が新しく見えてきたのかにあるということです。弁証法的かもしれませんが、問題がさらに掘り下げられたとか、別の課題が見えてきたとか、そういう地平に到達できるかどうか、議論の本質はそこにあるのではないかということです。

 わたしは口下手だという自己認識があり、だからその場で(アドリブで)しゃべることではなく、書いて考えることを重んじてきたように思います。しかし、口下手であるかどうかが本質でないとすれば、議論自体に臨む姿勢を変える必要があるかもしれません。


「兄貴は頭がいいから、いろいろ考えすぎなんだ。考えすぎてる兄貴は、どこかおっかないし」
本当に頭がいい奴は、考えすぎたりしない

□(126)

 これは本当にそのとおりだと思う。「頭がいい奴」は結論を出すのが早い。速やかに結論を出す。だから考えすぎない。

 わたしは結論を出すことに臆病なだけなのかもしれない。


「昔ね、三本しか映画を撮らなかった、孤高の映画監督がさ、ある評論家にこう言ったらしいよ。『リアリティ、リアリティとうるさいが、映画ばかり観ているおまえはさぞかし、現実社会に詳しいんだろうな』って」
□(293)


「〔略〕たとえば子供が難病にかかった、とか、親の暴力に悩まされてる、とか、そういう人たちからしたらさ、憲法とか自衛隊のことを気にしている場合じゃないよね」
「世界の問題よりも、目の前の自分の問題だ」〔略〕
「ってことはさ、逆に言えば、世界とか環境とか大きいことを悩んだり、憂慮する人ってのは、よっぽど暇で余裕のある人なのかもしれない。さっき、そう思っちゃったんだ。小説家とか、学者とか、みんなさ、余裕があるから、偉そうなことを考えるんだって」

□(272-3)


俺はさ、俺が学生の時になりたかった大人には絶対なっていない気がするんだ
「そうか」としか答えられない。
「俺さ、もっと自分に期待してたんだけどな。恰好いい大人になる自信があったんだけどよ」
「巨乳とか女子高生とか言わないような大人、か?」〔略〕
「そうじゃなくてさ」〔略〕「なあ」〔略〕「世界、とか、未来、とかって死語なのか?

□(118)


でたらめでもいいから、自分の考えを信じて、対決していけば世界は変わる
□(182)


@研究室
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by no828 | 2011-12-30 15:50 | 人+本=体 | Comments(0)
2011年 12月 29日

人はその仕事の本質に集中するとき、本当の孤独を見るものである——森博嗣『毎日は笑わない工学博士たち』

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146(468)森博嗣『毎日は笑わない工学博士たち I Say Essay Everyday』幻冬舎(幻冬舎文庫)、2002年。

※ 単行本は2000年に同舎より刊行。

版元 → 




 1996年8月から1997年12月までのウェブ日記の書籍化。先に刊行された『すべてがEになる』(→ )は1998年のものだから、実は『毎日は笑わない工学博士たち』のほうが時間的に先行。わたしが読み終わったのも、実はこちらのほうが先。


野球のピッチャは球を投げる瞬間にスタンドのファンのことを思い浮かべているだろうか? 100mの走者は、息もしないでゴールまで走り抜けるのだ。人はその仕事の本質に集中するとき、本当の孤独を見るものである(いや、それさえも感じないだろう)。彼らの成し得たものは、断じてファンのおかげではない。

 ただ、素直に嬉しく思うだけだ。
 そして、嬉しいと思えるうちは、続けようと思う。

□(15)


 スバル氏と子供たちが、昨夜だったか、サンタクロースが人殺しをするTV番組を見ていて、食事のとき、どんな話だった? ときいてみると、リストラで会社で苛められた男が犯人なのだそうな。セクハラとか、離婚とか、社会情勢をマイナスに誇張して話に取り入れるのが日本的で、結局、そういった関係者を苛めているのはマスコミなんじゃないかな。アメリカの映画では、少なくとも、それを乗り越える主人公を描く(これも、どうかと思うけど)。
 そういえば一昨日だったか、食事中にTVをやっていて(森は見ないのだが家族は見るのです)、久しぶりに戸塚ヨットスクールの校長がインタヴューを受けていた。曰く、「苛めが問題ではない、苛め方が問題なのだ。苛めが悪いなんてとんでもない」。それを聞いて、スバル氏曰く、「さすがやねえ(大阪の女なのです)」。森も、さすがだと思った。それに気がついていないTVと新聞は見る価値がないよね。

□(81)

 ここをどう理解するか。苛めはすでに・常に起こっており、非難される苛めと非難されない——あるいは苛めだと認識されていない、苛めだと認識されないようにしている——苛めとがあり、問題はむしろ後者だ(マスコミがしているのは後者だ)ということか。「苛めが悪いなんてとんでもない」と言い切ることはとんでもないが、この文脈ではその言い切りに“苛めはない”との認識が不十分であることを挑発的に告発するという意図を見出すこともできなくはない。苛めには、どのような苛めがあり、どのような苛めがないのか、という種別の問題しかないのか。


 問題はそんなところにあるのではなくて、多数決による決定が必ずしも正しくない、という点です。このことを考えもしない人が多いのです。
 もし原発を自分の故郷に建てることに対して多数決を採るならば、あと10年しか生きられない人間よりも、30年生きる人、あるいはまだ生まれていない世代の意志で多数決を採らねばなりません。原発の問題は、そこが特徴です。数十年の未来に対する多数決は採れません。しかし、その「未来合意」と呼ばれるものが必要なのです。難しいですが、この合意によって計画されることが重要です。どうしたら未来合意が得られるのか、考えなくてはなりません。ただ危険だという意見は、とにかく必要だという意見とまったくの同レベルで、解決にはなりません。いかに未来の設計をするのか、という議論をして、その議論のできる人間だけで判断すべきでしょう。多数決ではなくてです。政治家がそれをしているのか、という問題ではなく、国民がその判断をしているのか、が問われます。

□(147-8)

 非常に重要な論点だと思った。デモクラシーの問題系に連なるものである。

 311後、読む本のなかに出てくる「原発」に引っかかるようになった。繰り返し繰り返し言及されてきたことに、今更ながらに気づかされ、同時に自分の意識の低かったことにも気づかされている。


 テレビを見ない。外食しない(食事時間と往復時間が惜しい)。酒を飲まない。パチンコとか麻雀とかゲーム類一切を人生から切り落とした(昔は入れ込んだけど)。子供の相手をほとんどしない。といったところですか。32歳くらいまでは、研究に〔1日〕18時間は使っていたと思います。
 学生の教育とか、自分の子供の教育とか、そういったものをしていません(笑)。子供をどこかに連れていったり、遊んでやったりしたことはほとんどないです。子供と遊んでくれる大人よりも、学生の面倒をみてくれる先生よりも、夢中に生きている大人、夢中に研究している先生が、森は好きでしたからね。

□(160)

 ここから話を展開・発展させる。大学院に行くことに関する話へとである。

 「独立研究科」とか「独立修士課程」と呼ばれるところ以外の大学院の専攻には、大抵同じ系統の学部が存在している。教育学研究科、あるいは〜研究科教育学専攻の“下”には教育学部、という具合である。高等教育政策により大学院の重点化が図られた、という背景はさておくのだが、大学院の、研究科の、専攻の、定員充足率がよろしくないところがある(すべてとは言わない)。私の所属するところは少なくともそうで、一部の教員・院生は学部(類)生のリクルートに躍起になっている。“大学院に来ない理由はリクルートが足りないからだ”との考えがその根底にはある。

 わたしはそのような方々とは距離を置く。圧倒的に置く。わたしが教育学部出身ではないということもあるのかもしれないが、大学院に来ない理由を“リクルートの不足”には認めていないからである。この理由付けをわたしは一切認めない。だからといって、学部生が大学院に来ないのは“現実的にその先が見えないから”である、ともわたしは考えていない。たしかにそういう側面はある。だが、問題の本質をわたしはそこに見ない。

 学生が大学院に来ない理由は、教員がおもしろい研究をしていないからであり、教員がおもしろそうに研究をしていないからである——わたしはそのように考えている。ずっとそう考えている。もう何年も前、「大学院に来る学生が少ないのはなぜだと思う?」とある先生に訊かれたことがあった。別の院生は「リクルートが足りないからです」と答えた。「君はどう思う?」と言われたわたしは、「教員がおもしろい研究をしていないからです」と答えた。その先生は「そのとおりだ」とおっしゃった。その先生のことをわたしは以前から研究者として尊敬していたから正直にそう答えたし、「そのとおりだ」という答えを受けてわたしの尊敬は間違っていなかったと思った。
 
 リクルートに精を出す人たちはこの点を決定的に見誤っている。学生をリクルートする前に、学生をリクルートしようとしている自分を、その研究を見つめなおすべきだ。学生は、教員の知の位置を鋭く察知する。その教員が知を自らにどのように位置付けているのか、学生はそれを鋭く見定める。学生はそのことを、あるいは自覚はしていないかもしれない。だが、間違いなくそれを見ている、あるいは感じ取っている。教員は自らの知の位置を誤摩化すことはできない。教員はそれに嘘をつけない。ついても見破られる。

 自省のない者のリクルートに引っかかる学生はいないはずである。引っかかった(その背景はいろいろあるとしても)学生は必ず苦しむ。ただでさえ、状況的に見て、現実的に言って、大学院に行くことの困難は明らかである。それでもなお大学院に行くことを決意させるのは、もちろん最終的には自分の考えなのだが、その決意の背中を押すのは“先生のなかに知はどのように存在しているのか”というその1点であり、それ以外にはないし、あってはならない。

 森博嗣の研究に関する意見にわたしが共感するのは、まさに自分がそのように考えてきたからである。『喜嶋先生の静かな世界』(→ )に憧れるのも、それゆえである。


 実はまだ新作を手がけていないのです。最初の引用文を探しているところ。いつも、この引用を最初に決めて、次に登場人物を固めて、書く、というパターンであります。
□(163)


 学会があって、増えるものは? 疲労名刺
□(191)


 森も文部省から科学研究費というのをほぼ毎年受けているのです(これ自体はとてもありがたいです)が、なんと1年区切りで、最後の1円まで使わないといけないのです。年度の最後に3000円くらい余ったとき、それを返すシステムがないのです。しかたがないので、毎年、生協でファイルとかサインペンとか見繕って買ってきて、最後の1円まで消耗品で金額を合わせるのだけど、これ、おかしいでしょう? どうしてこんなことしなくちゃいけないんです? 日本中から3000円を戻して集めたら、また何人かの研究者がそのお金でやりたい研究ができるんじゃないですか。みんな喜んで返しますよ。
□(242-3)

 同意。「そのお金でやりたい研究ができる」研究者がここにもいます。

 ちなみに、昨年度から学外の先生が研究代表の科研費プロジェクトに加えてもらっています。本を何度か買ってもらいました。非常にありがたいことです。


 最大の防御は「攻撃せず」、最大の攻撃は「防御せず」
□(254)

 これでわたしは日本国憲法第9条を思い起こす。


思い出は捨てる方法がありません。
□(258)


※ 今年読んだものは今年中にエントリを済ませたいと考えています。


@研究室
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by no828 | 2011-12-29 14:48 | 人+本=体 | Comments(0)
2011年 12月 29日

またああいうの、書いてください——奥田英朗『空中ブランコ』

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145(467)奥田英朗『空中ブランコ』文藝春秋(文春文庫)、2008年。

※ 単行本は2004年に同春秋より刊行。

版元 → 




 奥田英朗は『イン・ザ・プール』(→ )に続いて2冊目。主人公はやはり(患者の視点から捉えられた)精神科医。「精神分析」とは一体何なのか、と思う私にはおもしろく読める。


「ちなみに原因に心当たりは? 強迫神経症の場合、親の躾が厳し過ぎたっていう説が一般的だけど」
「伊良部はそう思うのか?」
「ううん。全然」首を振る。頰の肉がプルンと揺れた。「それって安易過ぎるよ」
 ほう。達郎は、伊良部が意外と進歩的なのに感心した。近年は脳研究が進み、特定の脳内物質の不足が神経症にかかわっていることがわかり始めている。なんでも心的外傷に原因を求めるのは古い精神医学だ。

□(130)


「そういうのを一年間続ける。すると周囲もあきらめる。性格っていうのは既得権だからね。あいつならしょうがないかって思われれば勝ちなわけ
□(138)


「先生、ちょっと休みませんか」
 いい加減くたびれたので、キャッチボールをやめ、二人で芝生に腰を下ろした。
「あらたまって投げると、どうもコントロールが定まらないんだよね」伊良部がしきりに首を捻っている。
「さっきの調子で投げればいいだけじゃないですか」
ねえ坂東さん、コントロールってなんなの?
「そんなこと聞かれても……」虚を衝く問いかけだった。これまで考えたこともなかった。
「ゴルフやテニスとは根本的にちがうと思うんだよね、手でボールを投げるってことは。正しいフォームなら思い通りのところへ投げられるわけでもないし」
 そうなのだ。今、自分が陥っている症状がそれなのだ。
 コントロールって、いったい何だ——?
 真一は、生まれて初めての疑問にぶつかった気がした。

□(188)


「先生。ぼくはカウンセリングを受けたいんですけどね」
「無駄だって。話して治るなら、医者はいらないじゃん

□(193)


 そうか、みんな挫折すると彷徨するのか。愛子にも心当たりがあった。〔略〕
「この国で映画の仕事やってると、こんなのばっかだよ。ここで報われないとこの人だめになる、だから神様お願いですからヒットさせてくださいって天に手を合わせるんだけど、それでも成功することの方がはるかに少ない。私は彼らを前にして思うよ。せめて自分は誠実な仕事をしよう、インチキにだけは加担すまい、そして謙虚な人間でいようって——

□(278)

 こう思ってくれる人がいる、そのことが“救い”になるのには、やはり限度があるのか。


「星山さんの『あした』、読みました」マユミがぼそぼそと言った。
 予期せぬ投げかけに、愛子はうまく反応できなかった。
「すごく面白かったから、言っておこうと思って」
「あ……」愛子は言葉を失った。忘れてた。読者がいた。
「わたし、小説読んで泣いたの、生まれて初めてだったから」
 わたしは救いようのない馬鹿だ。読者を忘れていたなんて。
 マユミは怒ったような顔をしていた。目も合わせない。照れているのだ。可愛い。
「そう、ありがとう」愛子は心から言った。飛び上がりたいほどのうれしさだ。
「それだけ。またああいうの、書いてください
「うん、書く。今日から書く」
〔略〕感激した。わざわざ追いかけて、言ってくれたのだ。胸が熱くなってきた。

□(281)


@研究室
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by no828 | 2011-12-29 09:55 | 人+本=体 | Comments(0)
2011年 12月 28日

図書館は学校の延長機関ではなく、また家庭の躾の代行機関でもありません——有川浩『図書館戦争』

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144(466)有川浩『図書館戦争』メディアワークス、2006年。

版元 → 




 ようやく105円で入手(続編含めまだまだ安くなっていないが、文庫化はされているようだ)。タイトルは知っていたが、どんな内容なのかはまったく知らないままに読みはじめた。本を中心とした出版物に対する国家統制が強化された時代の物語。図書館は活字の自由のために闘う、というか文字どおり、戦う。

 社会教育(学)、生涯学習(学)関係の方は読んでおいてよいと思います。


何を言われても当然ってのと何を言っても当然ってのは違うのよ!
□(108)


正論は正しい、だが正論を武器にする奴は正しくない。お前が使ってるのはどっちだ?」
□(117)


「メディア作品が犯罪を助長するってんなら男は老いも若きも総性犯罪者予備軍よ、AVにしろエロ本にしろ調教だの陵辱だの性犯罪願望のオンパレードじゃないの。メディア真似して犯罪が起こるってんならまず真っ先に女性に銃の携行許可が下りるべきだわ
「し、柴崎、ちょっとはっちゃけすぎ……」
 郁は思わず顔を赤くした。柴崎の物言いはたまにあけすけ過ぎる。「あらごめんね」と柴崎はあまり頓着した様子はない。
結局のところ何かのせいにして落ち着きたいのよね、こういうのって。犯人はあの本のせいで歪んだ、この映画に影響されて犯行に及んだって。理由付けをして原因を取り除いたら子供を監督する側は安心できるって仕組みね。気持ちは分からないでもないけど、」
 読書嫌いでもないのに親や学校の勧める優良図書しか読んだことない奴なんか、イイ子すぎて逆に恐いけどね。とこれは郁も同意だ。優良図書が悪いという問題ではない。
 しかし、こういう事件が起こると検閲を正当化する動きが高まるのが図書館やメディア関係者としては頭の痛いところである。

□(142-3)


「面倒くさいと思う人に面倒くさがるなって言っても仕方がないし、面倒くさがる人は必ずいるのよ。協力するべきなのにってブツブツ言うより、協力的じゃない人に協力させる方法を考えたほうが建設的じゃない? 義理も縁もない他人に何かを頼むとき、『協力してくれるべき』とか『してくれるだろう』とか甘い見通し持ってる奴は絶対失敗するわ。協力って期待するものでも要求するものでもなくて、巧く引き出すものなのよ」
□(244)


図書館は学校の延長機関ではなく、また家庭の躾の代行機関でもありません。もちろん、教育の一助となることを否定するものではありませんが、開放された多様な図書の中から子供たちが自由に本を選択できる環境を提供することが自立への支援になると考えています。そして何より、娯楽作品との距離の取り方は保護者が指導するべきものです。その責任を学校や図書館に求めることは、保護者としての責任を放棄していることになるのではありませんか?
□(262)


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by no828 | 2011-12-28 17:40 | 人+本=体 | Comments(0)
2011年 12月 28日

まずお父さんお母さんが、いろいろな経験をしてみましょう——森博嗣『すべてがEになる』

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143(465)森博嗣『すべてがEになる I Say Essay Everyday』幻冬舎、2000年。

版元 → 




 1998年の1年間のウェブ日記の書籍化です。「考え方」を学ぶことができる。


誠意に関する法則を書いておきましょう。

 誠意を示すことは、もしそれがある場合、こんな簡単なことはないし、ない場合、こんな難しいことはない。

□(68)


「どうしてボランティア活動に反対なのですか?」とのお問合わせ。反対だなんて書いていません。「成績として評価するな」と言っているのです。評価すれば、もうボランティアではなくなるのですよ。それは、お金をもらうのと同じことになるのです。
□(70)


 ですから、仕事で徹夜をしたりとか、〆切ぎりぎりまで何かをしている、といった状況はこの20年間に1度もありません。もっとも、勉強で徹夜した経験は40年間で1度もありませんね。工作で徹夜したことなら何度もありますし、毎朝4時に起きて、出勤まえに模型飛行機を飛ばしにいったこともありますが……。
 つまり、頭脳は徹夜に向いていない、というだけの理由でしょう。これに気づいた人は徹夜はしないはずです。〔略〕徹夜して〆切ぎりぎりまで仕事をすることは、終わったときの達成感があったりするので、これは、趣味としてはわりと愉快なのですが、単なる自己満足に過ぎません。
 できあがったものを客観的に見る必要があります。
〔略〕
 森は子供たちに「勉強が好きになれ」なんて絶対に言いません。仕事も勉強も、本来苦しいものです。しかし、苦労をして、成し遂げて、達成感を味わうために存在しているものではありません。山は坂道が辛いから上る〔ママ〕のではありません。何が得られるのか、という客観性を常に持つべきでしょう。

□(278-9)


 さて、それら〔ブルーバックス〕の中に、1つ象徴的なエピソードが書かれていました。
 娘が「あの鳥はなんというの?」と父親にききます。父親は「鳥の名前を教えても良いが、中国人は別の名であの鳥を呼んでいるよ。それよりも大切なことは、あの鳥がどうして飛べるのか、何故あのような翼を持っているのか、なんだ」と答えます。

□(288)


考えた物語は、しばらく熟成させるというか、頭の中で発酵するのを待つのも良いのです。こうすることによって、ストレートだったものに、深みが出ます。放っておくだけで、存在感のある味が出てくる、こういった醸造みたいな他力本願のいい加減な行為を「発酵打算」といいますね。
□(292)


「コンピュータを知らない人間には読めない」とか、それに近いことも言われますが、まあ、そう思う人は読まなければ良いでしょう、というのが基本的なスタンスです。
 少なくとも、まったく想像できない人は読んでも面白くないでしょう。しかし、普通の小説を読んでいると、ワインの銘柄が出てきたり、ファッションのブランドが出てきたり、アイドルの名前や、知らない地名(特に関東地方が多い)、歴史の話、などなど、知らない固有名詞がもの凄く沢山出てきますが、そういうのはどうなのでしょうか?
 森は、そういった小説を読んでも、「作者が知識をひけらかしている」などとは思わないし、「これは○○分野を知らないと読めない本だ」と人に忠告することもないですよ。
 〔略〕「こんな、読者にわからない単語を使うな!」とは怒りませんけど……。
 では、どういう人たちが怒るのでしょうか? おそらく、自分の知っていることは、社会でとても一般的な知識で、自分の知らないことは、それ以外の余分な知識だ、と自信を持っている「馬鹿」でしょう。少なくとも「知らざるを知る」人ではありません。

□(298-9)


 え〜(校長先生か)、「目標」というのは、工学的にいえヴぁ(出典:をかへま氏)、実現して当たり前の数値でなくてはいけないのです。それがデザインというもの。目標って言葉を、「実現できない理想」のように使ってほしくない、とときどき思いますが、まあ、そんなことはよろしい……。
□(362-3)


感謝するというのは、自惚れるな、くらいの意味ですよね。本気で環境・状況に感謝するというのは、神様を信じる人にしかできません。
□(365)


子供たちに、「いろいろなことを経験させる」といった言葉をよく耳にしますが、森は「させる」のは反対で、「いろいろな経験」など必要ないと思います。子供にさせるくらいだったら、まずお父さんお母さんが、いろいろな経験をしてみましょう。その話を子供にしてあげて下さい。子供はそれがしたくなるでしょう。「したくなる」ことがきっと大切なのです(たぶんね)。
 実は、どんなものでも「経験」であって、「広い」も「狭い」も、「浅い」も「深い」も、優劣などありません。ボランティアもバイトも留学も、毎日家に閉じ籠もって遮二無二読書をすることに比べて、特に「良い経験」だとは思えません。

□(406-7)


1、カッタで切ろうと考えて、実際に切り始めたからこそ、初めて次のアイデアが浮かんだ。
 このように、実行することは前進である

□(494)


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by no828 | 2011-12-28 14:07 | 人+本=体 | Comments(0)
2011年 12月 28日

新しい共生関係を作り上げたとき、ヒトは一歩進んだ世界を手に入れる——瀬名秀明『パラサイト・イヴ』

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142(464)瀬名秀明『パラサイト・イヴ』角川書店(角川ホラー文庫)、1996年。

※ 単行本は1995年に同書店より刊行。ちなみに4月。文庫化は翌年12月。

版元 → 




 いまさらだと自分でも思うが、研究者小説だと最近知って購入した(もちろん古本で)。筆者の瀬名も本書の主人公も、いずれも薬学系の博士。本書はミトコンドリアを軸に展開していく。

 目次を見て驚いたというかシンクロニシティを感じたのは、
 
 第一部 Development——発生
 第二部 Symbiosis——共棲
 第三部 Evolution——進化

 とあったから。おぉ、symbiosis、おぉ、共棲。本文中では「共生」ともある。おぉ。


 石原という教授は、回虫など幾つかの寄生虫を挙げたあと、体の中にいる腸内細菌の例を出して「共生」という言葉を説明しはじめた。
「寄生虫と同じように、腸内細菌もわれわれの体の中で生活し、われわれ宿主から栄養分をもらって生きています。しかし腸内細菌はいま申しましたように、ビタミンKをつうってくれたり、われわれにとって随分と役に立つ存在であるわけです。このように別々の生物が共同して生活し、そしてお互いがそれによって利益を受ける関係を共生といいます。腸内細菌はわれわれにとって寄生虫ではあるものの、われわれにとってもなくてはならない存在なのです。では、われわれと共生しているのは腸内細菌だけでしょうか。もちろんそうではありません。ここでようやく今回の講演の趣旨に入るわけですが、みなさんも名前は中学の理科の時間で習ったことがあると思います、あのミトコンドリアも実はわれわれと共生する寄生虫〔パラサイト〕であったことがわかってきました。もちろんミトコンドリアは虫ではありませんから寄生虫という言葉は厳密にいえばおかしいわけですが、宿主であるわれわれと共生しているという点では同じなのです。そしてこのミトコンドリアを研究することによって、われわれ自身についても様々なおもしろいことがわかってきたのです。私共の講座ではこのミトコンドリアについて研究しております。今日は、このミトコンドリアと人間の共生関係についてお話ししたいと思います」

□(187-8)

 “共に生きている”ことが最低限観察されれば、利益の授受がなくても「共生」と言う、という立場もあるが、この引用文中で説明されている「共生」は相利共生か、片利共生か、その名のとおり寄生なのかと引用しながら、腸内細菌はわれわれがいないと本当に存在できないのか、という疑問が湧いてきた。われわれは寄生虫を必要とするが、寄生虫はわれわれを必要とするのか。本当は誰が誰に寄生しているのか。この辺りのことが本書でも問われていくことになる(はず、たぶん)。


 それは限りなく人間の形に近かったが、しかし決して人間ではなかった。豊かな胸、柔らかな腰の曲線、流れるような髪、それぞれは人間の女性の持つ姿であり形だった。それら部分はすべて完璧な女性であった。人間の女性以外の何者でもなかった。だが全体としてその生命体を見つめたとき、すべてがあまりにも完璧であり、完璧を超越していた。人間の女性を遥かに超えていた。人間では決してなし得ない姿がそこにはあった。これは人間ではない、と利明は思った、〔ママ〕これまで地球上に現れたどんな種類の生命体とも異なっていた。女性になるための生命、女性を表すための生命、女性であることの悦びを最大限にまで享受するための生命、いわば完全な女性性だった。利明はそれを目前にし、畏怖にも似た感情が湧き起こるのを感じていた。それはあまりにも美しく、そして同時にあまりにもグロテスクであった。利明は突き抜けるような性的快感を覚えるとともに吐きそうなほどの悪寒を感じていた。
□(418-9)

 完全なもの、完璧なことは存在しないし、存在したとしてもわれわれはそれを完全なもの、完璧なこととしてそのまま認識できない。われわれは完全なもの、完璧なことからずれたものしか認識できない。しかし、そこから完全なもの、完璧なことを推定する、あるいはしてしまう——ということかもしれない。プラトン的というか(カント的というのとは違うか)、“向こう側にあるもの・こと”を想定するという人間の「心性」とでも呼ぶしかないものがわれわれの認識の形式、認識枠組みの型を形成しているのかもしれない。

 こういう認識論が問題を作り出してきた、と断じることは簡単だが、問題の本質は果たしてそれなのか、という気もする。こういう認識論自体が問題なのではなく、こういう認識論を使用し(て具現化もしてき)た行為主体が限定されていたことが問題の本質ではないか、という気が最近するのである。


進化とは自らと全く異なるものと共に暮らす過程で起こるものだ。相手が生命体のときもあれば環境のときもあるだろう。その場所が地球なのか、別の惑星なのか、それとも細胞の中であるのか、それはわからない。だが新しい共生関係を作り上げることができたとき、ヒトはさらに一歩進んだ世界を手に入れることができるのだろう。
□(435)

 これだと植民地主義を正当化しかねない。


一見、大胆で奇抜な着想なり発想なりというのは、実は物事をいったん抽象化し、地道に論理を重ねていった果てに、極めて必然的な形で立ち現われるものなのである。
□(485-6)

 これは瀬名を評した篠田節子の解説。できあがったものだけを見るのではなく、それができあがるまでの地味な(あるいは苦しい)過程を理解しようとした(あるいは共感的に言及した)批評を読むとわたしは安心する。


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by no828 | 2011-12-28 11:12 | 人+本=体 | Comments(0)
2011年 12月 27日

みんなが子供たちにかじらしたりんごを吐き出させてやりたいんだ——サリンジャー『ナイン・ストーリーズ』

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141(463)サリンジャー、J.D.『ナイン・ストーリーズ』野崎孝訳、新潮社(新潮文庫)、1974年。

※ 原書の刊行は1953年。

版元 → 




 題名のとおり、9つの短篇から成る。9篇はサリンジャーの自選。

 しかし、へんてこりんな物語ばかりである。


「母はとても聡明な人だったんです。いろんなことに、すごく感覚的なんです」
□(149)

 「感覚的」とは? 原語を確認したくなる。


 事実がはっきり分るのはいつも遅きに失するのが通例だけれど、「喜び」と「仕合せ」の最も著しい違いは「仕合せ」は個体であるに反し、「喜び」は液体だということだ。
□(235-6)

 「仕合せ=幸せ」とは現状維持、つまり変化なし、だから個体という言い方はよくわかって、「喜び」は生成だから液体という言い方もよくわかる。


芸術家であるために蒙る最大の被害は、そのためにいつもちょっぴり不幸を味わわされるということかもしれません。
□(242)

 「喜び」と「不幸」とは、隣り合わせなのかもしれない。


死んだら身体から跳び出せばいい、それだけのことだよ
□(286)


 ニコルソンは彼を振り仰いだ。そして引き留めるようにそのまま相手を見続けながら「もしきみが教育制度を変えられるとしたら、どんなことをやるだろう?」何が狙いなのか、そんなことを言いだした「実はぼくの専門は教育でね——教育学をぼくは教えてるんだ。それで訊いたのさ」
 「そうだな……何をやるか、あまりはっきりした考えはないけどね」と、テディは言った「一般に学校でまず最初に教えることからは始めない、これは確実に言えるな」彼は腕を組んで少しの間考えていたが「まず子供たちを全部集めて、みんなに瞑想の仕方を教えると思う。自分たちの単なる名前とかなんとか、そんなことじゃなくて、本当に自分は誰なのか、それを発見する方法を教えようとするだろうな。……いや、それよりも前に、親やみんなから教え込まれたことを全部、頭の中からきれいさっぱりと吐き出させるね、きっと。たとえば、象は大きいと親から教えられていたとしても、そいつを吐き出さしちまうんだ。象が大きいのは、何か他の物——犬とか女の人とか、そういったものと並べたときだけ言えることでね」テディはまたちょっと考えてから「ぼくなら象には長い鼻があるということだって教えないだろう。手もとに象がいたら、見せはするかもしれない。けどそのときでも、子供たちを象のとこにただ行かせるだけだな。象が子供たちのことを知らないように、子供たちにも象のことは知らせないでおくね。草とか、そのほかの物もおんなじさ。草は緑なんてことさえぼくは教えない。色は名称にすぎないからね。つまり、もしも草は緑だと教えると、子供たちは初めから草をある特定の見方——教えたそのご当人の見方——で見るようになっちまう——ほかにも同じようによい見方、いやもっとはるかによい見方があるかもしれないのにさ……よく分んないけどね。ぼくはただ、両親やみんなが子供たちにかじらしたりんごを、小さなかけらの果てまでそっくり吐き出させてやりたいんだよ
 「それではしかし、無知蒙昧なチビッコ世代ができてしまう危険がないかな?」
 「どうして? 無知蒙昧にはなんかならないよ。象だって無知蒙昧じゃないだろう。あるいは鳥だって。木だって」と、テディは言った「ある物がある態度をとる代りにある形で存在するからといって、それが無知蒙昧の理由にはならないさ」
 「そうかな?」
 「そうとも!」と、テディは言った「それにだね、彼らがもしほかのいろんなことを——名前だkとか、色だとか、そういったことをさ——学びたいと思ったら、後になって彼らがもっと年とってから、その気になれば、やれることだからね。でも最初は物を見る本当の見方から始めてもらいたいんだ、ほかのりんご好きの連中の見方じゃなくね——そういうことさ、ぼくが言うのは」

□(289-90)

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by no828 | 2011-12-27 11:49 | 人+本=体 | Comments(0)
2011年 12月 26日

一喜一憂しても仕方がない。棺桶の釘を打たれるまで何が起こるか分からないよ——伊坂幸太郎『死神の精度』

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140(462)伊坂幸太郎『死神の精度 Accuracy of Death』文藝春秋(文春文庫)、2008年。

※ 単行本は2005年に同春秋より刊行。

版元 → 




 短篇集。死ぬ人の前に現われて生/死の判断を下す死神(とその死ぬ人との関係)の物語。物語同士も関係していく。

 ちなみに、死神はミュージックが好き。

 なお、解説はロシア東欧文学の沼野充義。“おぉ、そう来たか”と思わされた人選である。


「弱きを助け、強きをくじく」
「クジク?」足をくじく、という言葉なら知っている。
 阿久津は言ったそばから、照れ臭さと誇らしさのせいなのか顔を紅潮させた。「やくざってのは元々はそういう役割だったんだ。藤田さんがよく言うんだよ。弱者ってのはたいてい、国とか法律に苛められるんだ。ってことは、そいつを救えるのは、法律を飛び越えた男なんだってな。つまり、無法者ってわけだ。無法者ってのは悪いイメージしかねえけど、それは、弱きを助けるってことなんだよ。それがやくざなんだよ
「それが、やくざの定義か?」
「定義?」阿久津は怪訝そうに首をひねってから、「藤田さんだけだ。藤田さんは、他の奴らとは全然違うんだよ」と顎を上げた。
〔略〕
「藤田みたいな男は、味方からも煩わしく思われてるんじゃないか?」
「何だよ、それ」
人と違う奴ってのは、嫌われやすい。そうだろ?

□(69-70)

 この意味での「やくざ」にはわたしも共感する。しかし、この意味での「やくざ」が今どれほどいるかについてわたしは知らない。


「とにかく、嫌なんです。二十三になって、初めて分かったんですよ。今まで付き合ってきた女の子はみんな、僕の外見が気に入っただけなんだって」
「いいことじゃない」
「でもそれって、本質では、ないですよ」
外見だって本質でしょ」店長はすげなく言い返す。

□(192)


「本当ですか」彼女はその場で飛び上がりそうになる。そして、「わたし」と言った。「自分と他の人が同じことを考えたり、同じことを言ったりするのって、すごく幸せに感じるんですよ
「ああ、それも荻原が言っていた」

□(205)


人が生きているうちの大半は、人生じゃなくて、ただの時間、だ
「何だよそれ」
「昔、私が仕事で会った男が言っていた」確か、二千年ほど前にいた思想家だ。

□(213)

 それはたぶんセネカだ。


あんなにたくさんの人がいて、人間のことで悩んでいる奴は、たぶん一人もいない
「馬鹿じゃねえの。みんな悩みばっかだって」
自分のことで悩んでいるだけだ。人間のことで悩んではいない」確かこれも、以前、どこかの思想家が言っていた台詞だな、と私は思い出す。

□(223)

 これは知らない。


「頼りにしていた人間が、実は臆病者だったとか、信じていた英雄が、実は、馴れ合いを得意とする狡い男だったとかさ。味方が敵だったとか。そういうことに、人間は幻滅する。そして、苦痛に感じる。動物なら、たぶん違うんだろうけど」
「それと湖が何の関係があるんだ」
あの広い湖とか、美しい奥入瀬の流れは、絶対に、俺を裏切らない。幻滅させない。そう確信できて、だから、安心できるんだ

□(233)

 信頼しなければ幻滅もしない、だからはじめから信頼しない——という方向には行きたくない。


幸せか不幸かなんてね、死ぬまで分からないんだってさ
生きていると何が起こるか、本当に分からないからね」老女がしみじみと、けれど重々しさはなく、言った。「一喜一憂してても仕方がない。棺桶の釘を打たれるまで、何が起こるかなんて分からないよ

□(299)

 そう思って、自分なりに地味に地道に、歩いて行くしかない。他人を羨んでも仕方がない。というのが最近の心境。


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by no828 | 2011-12-26 12:23 | 人+本=体 | Comments(0)
2011年 12月 22日

情事OLの1984年——田口久美子『書店繁盛記』

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139(461)田口久美子『書店繁盛記』ポプラ社、2006年。

版元 → 




 リブロからジュンク堂へと働き歩いたリアル書店員によるリアル書店の具体的な日常。そう言えば、巨大リアル書店に最近行っていないなぁ……(古書店を除く)。

 売上調査カードが本に——挟まれていたのではなく——印刷されていたのがおもしろかった。“だからこそのユーモア”、今回で言えば“本屋さんだからこそのユーモア”だが、そういうのは割と好き。割と? いや、結構好き。


 出版社が、アマゾンの「一五〇〇円以上の本、送料無料」という設定にあわせて、単行本の定価付けの最低ラインを一五〇〇円にあわせようとしている。価格の変化が、今静かにおきているのだ。
□(はじめに)

 今は、基本的に送料無料のアマゾン。1,500円以下の洋書(いわゆる「原著」)をさきほど注文したばかりだが、とくにオプションを付けないコンビニ受取で送料無料であった。


 それにしてもアマゾンがブロックする本のリストを誰か作らないかなあ。
□(18)

 今もあるのかなあ。


 それにつけても、その頃の書店の棚は作りやすかったろうな。純文学、中間小説、大衆小説(清張の推理小説はここに)、時代小説、各々垣根がはっきりしていた。文学と小説ってどう違うの? とは誰も問わなかった。えーい、もうこんなに垣根が曖昧なら、みんな、オトコもオンナも、純も中間も大衆も一緒に作家の五〇音順だー、なんていうこともなかったろう。
□(81)

 ジャンルの問題。カテゴリの問題と言ってもよいであろうが、ジャンルはいずれ崩壊する運命にあると思うし、少なくとも学術書に限って言えば、書いた人がすでにひとつのジャンルだと思うから、五〇音順、アルファベット順でオーケーではないかと思う。


 比べて、人文はちょっと外れて、アカデミズム&在野の実用・趣味書なのだ。リブロに入社した頃「人文」とはなに? ときいたら、個人としての人間そのものに関わる学問、といわれた。「社会科学」とは? 人が複数集まったときに発生する学問、と重ねて聞かされた。今でも覚えているので、二十代の私にとってはとても根源的な答えだったのだ。だから、と教えてくれた人は(もう誰だったか忘れたが)続けた、「人文」には在野(もうこんな言葉はなくなったのだろうか)で勉強している人が多いんだよ、要は、趣味書なんだから、と。
 言葉を変〔ママ〕えれば、人文書は「その枠組み自体を問う学問」ともいえるし、アカデミズムを常に在野が突き上げているジャンル、ともいえる。だから在野が元気だった八〇年代、いち早くそれを察した今泉正光がリブロで独自な書棚を作ることができた。こう考えると、今泉がリブロに出現した意味が腑に落ちる。あのリブロ人文書全盛期に、「この解釈で行く!」と独裁者今泉が押し通し、顧客が支持したときに、棚が意味を持ったのだ。この間の記録は拙著(『書店風雲録』)に書いた。

□(244)

 棚で言えば、最近は丸善丸の内本店の松岡正剛プロデュース松丸本舗。眺めるだけで勉強になるし(これの隣にこれがあるとは! とか)、もっと勉強したい気持ちになる。

 ところで(!)本棚は大事。自分の内側を外側に出したものが本棚だから、できれば見渡せるようにしておきたいとわたしは願う(実現する見通しは立っていない)。


私が笑ってしまった問い合わせのダントツは——。お客さんがメモを見せた、「情事OLの1984年」と書いてある。「すみません、ジョージ・オーウェルの『1984年』(ハヤカワ文庫)でしょうか」「そう書いてあるでしょう」
□(305)

 傑作。

 参考:オーウェル『1984年』 → 
 参考の参考:伊藤計劃『ハーモニー』 → 


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by no828 | 2011-12-22 13:35 | 人+本=体 | Comments(0)