思索の森と空の群青

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2012年 01月 31日

主義が間違っていたとしても、主張は間違っていなかった——矢作俊彦『ららら科學の子』

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16(486)矢作俊彦『ららら科學の子』文藝春秋(文春文庫)、2006年。

 全528ページ。

※ 単行本は2003年に同春秋より刊行。

版元 → 




 読みたかった本。偶然古本屋で発見しました。1968年の東京を生きていれば、内容をもっとよくわかったのではないかと思います。68年と98年、中国と日本、時間軸と空間軸とが交差します。

 昨日の宮部みゆき『名もなき毒』の「怒り」と、奇妙に接続するところもあります。

 ちなみに、ヴォネガットの『猫のゆりかご』とケストナーの『点子ちゃんとアントン』が作中に登場するのですが、それらも読みたくなりました。

 ↓ まずはいくつか。


 朝方、ジョン・レノンが二十年ほど前にニューヨークで射殺されたことを知った。この犯人を、ならずものともテロリストとも呼ばないのは何故だろう。彼は首をひねった。
□(298)


「そんなこと言ったら、結婚だってただの売春と大した違いはないわ」
□(310)


たまたまってことあるじゃん。たまたま一回のときに出くわして、それきりだったら、結局、それが本当みたくなっちゃうね
□(505)

 ↑ これは牛丼屋でビールを呑んでいたところをこの本の主人公「彼」に見つかった女子高生の発言。

 ↓ 中国の“1968年”。


「人民公社が何を生んだか知っているかね」
 彼はとっさには答えられなかった。頭は、きつい毎日の農作業のことで一杯だった。
「飢餓だよ」と、義父は言った。
「ほら、こんな具合に」と、そこだけ風船のように膨れた腹をさすった。
腹が減るから皆、怒りやすくなる。空腹が生む怒りは他人にしか向かわない。民、食をもって天と成すだ
 下放されて一、二年もすると、紅衛兵たちは故郷への帰還を許されるようになった。一九七〇年代の終わりには、農村から下放青年はいなくなった。しかし、莫賓の村には、彼と義父、やがて彼の妻になる娘が残されていた。

□(92-3)

 ↓ アメリカの「普遍主義」。


 いったい君はどこへ行きたいんだ。彼は尋ねた。そうだな、ハワイあたりがベストだね。黒人兵は笑った。
ウビ ペデース、イビ パトリア」口から言葉が転がり出た。
「何ですか、それ?」と、傑が尋ねた。
立っているここが祖国だって、そういう意味だよ
ホワイトハウスと同じだな
 礼子が声を立てて笑った。
「大統領は核攻撃スイッチをいつも持っていて、それがある場所がホワイトハウスなんです」

□(322-3)


「ハワイが、何であんな簡単にアメリカのものになっちゃったか判りますか? 土地を所有する、売り買いするってことが、ハワイのロコには最後の最後までどうしても理解できなかったからなんですよ」
□(327)

 ↓「貧困」と「貧乏」


貧困と貧乏は違うぞ」と、志垣は言った。
貧困っていうのは天然痘と同じさ。死の病だが、そのうちどうせ特効薬がうまれる。科学の敵じゃない。しかしな、貧乏は風邪みたいなもんだ。特効薬なんてできっこない。だいたい人によって症状も違う。三十九度の熱出しても、会社へ行く奴は会社に行く。くしゃみひとつで寝込んじまう奴がいるように、貧乏で会社を休む奴もいる。日本は今のところ貧乏じゃない。しかし、貧困には喘いでいる。だから、おまえには見えねえのさ」

□(353)

 ↓ レトリックではないとわたしは思います。


主義が間違っていたとしても、主張は間違っていなかった」と、彼は礼子に言った。
どういう意味? rhetoric はずるいわ
「おい。いいかげんにしろ!」と、傑が怒鳴った。広男の交差点に出来た渋滞に、車は立ち止まっていた。
「いいんだ。最後まで言わせてくれ」
 傑は不快そうに口の端を嚙んで、センターミラーからこちらをうかがった。そうすると、妙に子供っぽく見えた。
必ず正しいものが勝つというわけでもない。一度負けたからって、二度とチャンスがないわけじゃない
でも失敗したものを、また実験することはないわ。何億人もの人生が失われるような risky な実験、するほど価値がある思想なんてないもの
 言って、彼を見た。「そうじゃなくって?」
「黙れ!」傑が怒鳴った。
「バカが。利いたふうな口ききやがって! 生意気言うんじゃないッ」
「バカとは何よ!」礼子が怒鳴り返した。

□(402)

 ↓「国家」に対抗してきた者はやはり「国家」にこだわっていたのであり、その意味では遂行的に「国家」を強化してきたとも言えるがしかし、“無視すればよい”と言って片付けるわけにはいかないところが「国家」にはある——。


「自分の生き死にを、いちいち国家に確かめてもらう必要なんかない」
□(150)


 傑は、もう二杯ビールを注文した。眼の周りがすでに赤かった。
「親父がよく言っていたものです。世の中で信用できるのは、自分、家族、友達、それだけだって。女は入っていないんです。日系だけど、結局アメリカ人なんだな」
「信用できないものは何なんだ?」
「ぼくに言わせれば、自分、家族、友達、——同じだな」
「その順なのか」
「ええ」
「国家って言うかと思ったよ」
国なんかあってもなくても似たようなもんだ。そうじゃないですか
あるのとないのとじゃ全然違う。それだけはたしかだ」と、彼は言った。
 ビールが来た。手元のジョッキをあわてて空けた。込み上げてきたゲップを我慢した。鼻の奥に火花が散った。

□(522)

 ↓「女」は気付くのです。


 正月には帰ると、あわてて言った。
「しなくちゃいけないことが、たくさんあるんだ」
警察に石投げるの?
それは、しちゃうことだ。しなくちゃならないことじゃない
兄さんは世の中が何もかも気に入らないだけよ
親父がそう言ったのか
お母さん」と、妹が言った。
「いろんなことに怒ってるんだって。普段、怒るの我慢してたから、こんなことになったんでしょう。あたしにも、怒ったことないじゃん」
「気に入らないから怒ってるんじゃないよ」
 とは言ったものの、自信はなかった。彼がそのころ敵にしていたのは、目の前の警官や学内の右翼ごろつき学生だった。本当に怒るべきものはどこにあるのか。俺は本当に怒ってるのか。ふたつの疑問がないまぜになって、また言葉を失った。

□(238-9)


本当に好きなものを言ってみて。ひとつだって言えないでしょう
 妻はこちらに顔を向けた。目が光り、それがこぼれ落ちた。西日に赤らんだ妻は、とても美しかった。
この世に在るものより、この世にないもの、この世にとうとうありはしなかったものの方が絶対、好きなのよ
 あいかわらず、言っている意味が分からなかった。

□(347-8)

 この最後のは、かなり響きます。わたしにもそういうところがあると思います。


@研究室
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by no828 | 2012-01-31 15:35 | 人+本=体 | Comments(0)
2012年 01月 30日

なんで、僕だって少しは楽したいと願わなくちゃならないんだろう——宮部みゆき『名もなき毒』

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15(485)宮部みゆき『名もなき毒』幻冬舎、2006年。

全489ページ

版元 →  




 「名もなき毒」の名は、実は「怒り」です。不公正(unfairness)への怒りと言ってもよい。通読してそう思いました。ただし、そこには常に、“それ”は誰にとっての・どこから見ての「不公正」なのか、という論点が付きまといます。また、一方で「権力」を有する者にとっての「不公正」は比較的速やかに認識され、対処をもされながら、他方で「権力」を有しない者にとっての「不公正」は比較的認識されにくく、直されにくいということもあります。

 ちなみに、474ページ以降の記述(紙パックの実験と探偵業)は、「真相」はもう一層深いところにありそうな予感を読み手に抱かせます。続編の予定があるのでしょうか。


 ↓ 丸くなるな。丸くならないことにも丸くなるな。苦しみに安住してはならない。


 硬派のジャーナリストであっても、それを生業とする以上、一種の人気稼業ととらえられてしまうことを免れない。それが現代社会だ。正邪や真偽より、好感度や注目度、どれだけ目立つ存在であるかで、まず計られる。そのなかで言いたいことを言い、書きたいことを書いて生き抜いてゆくには、嫌でも尖らざるを得まい。が、人間というのは面白いもので、尖っていること自体を楽しむこともまたできるし、一方で世渡りをするために、それまでしなかった妥協をもするようにも〔ママ〕なる。上手く尖っていれば、それを許されるようになるからだ。仕事が粗くなるプロセスとは、煎じ詰めればそれだろう。
□(201)

 ↓ そう思いたい。思いたいがしかし、その「正しさ」はいつの・どこの・誰の? と問わずにもいられない。「正しさ」はどこへ収斂していくのであろう。


「えっと、いろいろ大変だと思いますけど、元気出してくださいね。正しいことは、時間かかっても、必ず正しいって証明できますから」
□(233-4)

 ↓ 権力論。「権力」と言うより「暴力」だと思いながら読みました。


究極の権力は、人を殺すことだ
 義父は続けた。口調は淡々としているが、目が光っている。
「他人の命を奪う。それは人として極北の権力の行使だ。しかも、その気になれば誰にでもできる。だから昨今、多いじゃないか」
 私は黙ってうなずいた。
「五人の命を、ミネラルウォーターに毒物を混ぜるというだけの簡単な作業で奪ってしまうことができる。〔略〕死ななかったんだから違うという言い訳は通用しない。他人を意のままにしたという点は同じなのだから
 そうだ。我々はそういう人間を指して“権力者”と呼ぶ。
「だから私は腹が立つ。そういう形で行使される権力には、誰も勝てん。禁忌を犯してふるわれる権力には、対抗する策がないんだ。ふん、何が今多グループの総帥だ。無力なことでは、そのへんの小学生と一緒だろう」

□(260-1)

 ↓ 子どもの成績が悪くて怒る親が怒っているのは実は自分のことである、というのと同型。


 自分の子を責めるのは、自分を責めるのと同じだ。それが親というものだから。
□(284)

 ↓ 「戦争」を「原発」に、「空襲で焼け野原になった場所」を「放射能で汚染された土地」に、「東京」を「福島」に。するとこの「毒」は「怒り」ではなく「私益追求」と呼ばないといけない。


「それに、いちばん大きな汚染源は“国家”なんですって」
〔略〕
「どういう意味?」
戦争よ。空襲で焼け野原になった場所、とにかく瓦礫を埋め殺して復興したわけでしょう。そうしないことには立ち行かなかったから仕方ないんだけど、結果的に、東京の地面の下には何が埋もれていてもおかしくなくなっちゃったのね」
 埋め殺しとは凄い表現である。
「だから戦争はしちゃいけないんだわ。やっぱりそうなのよ」

□(318)


「いちばん大きな汚染源は“国家”なんですって」
「どういう意味?」
原発よ。放射能で汚染された土地、とにかく瓦礫を埋め殺して復興したわけでしょう。そうしないことには立ち行かなかったから仕方ないんだけど、結果的に、福島の地面の下には何が埋もれていてもおかしくなくなっちゃったのね」
 埋め殺しとは凄い表現である。
「だから原発はしちゃいけないんだわ。やっぱりそうなのよ」


 実際に代入して読んでみて、自分でも怖いと思いました。

 ↓ “普通”の意味。


「こんなにも複雑で面倒な世の中を、他人様に迷惑をかけることもなく、時には人に親切にしたり、一緒に暮らしている人を喜ばせたり、小さくても世の中の役に立つことをしたりして、まっとうに生き抜いているんですからね。立派ですよ。そう思いませんか」
「私に言わせれば、それこそが“普通”です」
「今は違うんです。それだけのことができるなら、立派なんですよ。“普通”というのは、今の世の中では“生きにくく、他を生かしにくい”と同義語なんです。“何もない”という意味でもある。つまらなくて退屈で、空虚だということです
 だから怒るんですよと、呟いた。
「どこかの誰かさんが“自己実現”なんて厄介な言葉を考え出したばっかりにね」

□(337)

犯罪を起こすのは、たいていの場合、怒っている人間です。その怒りには正当な理由がある場合もあれば、ない場合もある。いや、“ない”というのも、あくまで客観的にはないように見えるというだけで、本人にとってはちゃんとあるんですがね」
□(339)

 ↓ こういう「怒り」もあり、それに共感する自分をわたしは実感し、そういう自分をメタ認知する自分が嫌悪する。「怒り」は何も生まない、それどころかマイナスを生む。それを頭ではわかっていても、「怒り」が募ることもある。


僕も、楽したかったから
〔略〕
もう、何もかも嫌になっちゃったから
〔略〕
すごく悲しくて
〔略〕
 なんでこんなことしなくちゃならないんだろう。なんでこんなことを考えなくちゃならないんだろう。
 なんで、僕だって少しは楽したいと願わなくちゃならないんだろう。少しどころか山ほどの楽をしている若者が、この世の中には掃いて捨てるほどいるのに。何も願わなくても、すべてかなっている人たちが大勢いるのに。
 どうして僕一人だけ、そこから省かれているんだろう。

〔略〕君が悪いことをしたから、この人生のなかに閉じ込められたわけじゃない。君が選んだ人生じゃない。君に選択の余地はなかった。
〔略〕
そしたら、何か急に腹が立ってきて。悔しくて、夜も寝らンないくらい悔しくて

□(419-20)

「世の中のすべてに腹が立って、自分にはこういうことをする権利があると思ってました。迷ったりなんかしなかった」
□(440)


 ↓ 誤植


「うん」と応じて私の顔を見て、萩原社長は笑った。
□(352)


@研究室
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by no828 | 2012-01-30 17:14 | 人+本=体 | Comments(0)
2012年 01月 28日

素でいいだろうが素で。面被らなきゃいけない理由なんて何もないぞ——京極夏彦『百器徒然袋——風』

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14(484)京極夏彦『文庫版 百器徒然袋——風』講談社(講談社文庫)、2007年。

版元 → 


 百鬼夜行(京極堂)シリーズのサイド・ストーリーです。百鬼夜行シリーズ自体は最新刊まで読んでいるはずで、このサイド・ストーリーもこれが最新刊です。「最新刊」とはいえ、いずれも古本で入手しましたが。

 本書は、『文庫版 百器徒然袋——雨』(→ )同様、薔薇十字探偵 榎木津礼二郎がメインであり、その「慨然」と「然疑」と「疑惑」のお話です。

 ↓ 文庫の表紙デザインにも関係する部分。「ない」にばかり思いを致していると、「ある」さえ忘れてしまう。


 徳とは、生まれつき、と云う意味ですと、中禅寺は続けた。
「だから徳は福や富のように、授かったり、遣り取り出来るものではない。生れつき〔ママ〕備わっているのが徳です」
 そうなのか。
「ですから徳を授かると云うのなら、それは生まれた時に授かったのだと云うことになるんです。人は生来、色色な徳を持って生まれて来るのですね。ただ——」
 これは満点と云うことではないんですと中禅寺は云った。
「生来欠けている徳もあるだろうし、持って生まれても、持っていることを忘れてしまっては徳も徳にならない」
 中禅寺は招き猫を撫でた。
五徳猫と題した化け猫の絵があります。その名前を聞く限り、徳のある、立派な良い猫であるかのような印象を持つ訳ですが、しかし、こいつはどうにもショボ暮れている。五徳猫と云うのは尾の裂けた所謂化け猫なんですが、頭に囲炉裏なんかに置いてある五徳を被っていて、火吹き竹でふうふうと炭を熾しているんですね。この化け猫は、どうやら何かを忘れているんだと、絵の作者の鳥山石燕は記している」
 何を忘れているのですか——と美津子が尋いた。
「ええ。秦王破陣楽〔じんのうはじんらく〕という舞楽があります。唐の太宗の七つの武徳を称える楽曲で、一名を七徳の舞と云う。信濃前司行長と云う学識ある人物が、この楽曲のうち二つを忘れ、以降五徳の冠者〔かじゃ〕と呼ばれたと、『徒然草』に出ています。石燕はその故事を引く。いいですか、五徳と云うのは、それだけならば誉め言葉です。徳は五つもある。七徳あるのが前提となるからこそ、二つ足りぬと云う貶し言葉になるのです。足りぬ徳に思いを遣る者は、即ち持っている徳をも忘れている——ことになる

□(258-9)

 ↓ 思い切るのはあまり得意ではないので、こう言われると少し安心します。もちろん、思い切れることと思い切れないこととがあり、思い切れることとはつまりわたしにとってその程度のことであり、思い切れないこととはつまりわたしにとって大切なことであるということです。


 思い切りと云うのは中中つかぬものなのです、と今川は云った。
「執着や思い入れと云うのは、合理的な感情ではないのです。使えるとか使えないとか、役に立つとか立たないとか、そうした理屈で片付くものなら、最初から取って置いたりはしないのです」

□(558)

 ↓ これはおもしろいと思いました。「呪い」と「祝い」、どちらも仕組みは同じ。これで「希望」と「絶望」ないし「希望」と「不安」という関係を思い出しました。いずれも、“将来に対する漠然とした気持ち”であることに変わりはないのです。


 でも——と今川は云う。
「でも畏怖心は発生した訳です。先程申し上げたように、その文言を書いた人と僕やあなたは何の関わりもないのです。こちらに呪われる謂れはないのです。それなのに、その箱書きや箱の佇まいは、あなた達お二人の心胆を寒からしめただけでなく、こうしてあなたが僕の処へ出向いて来ると云う行動までも生じせしめたのです。つまりあなたはその箱に操られてしまった——と云うことになるのではありませんか
それが——呪い?
「僕はそう思うのです。物理的な力などを用いることなく、場所を隔て、時間さえ隔てていても、第三者に作用を及ぼせるモノやコトのことを、呪いやら、祝いやらと呼ぶのだと思うのです

□(577)

 ↓ 榎木津。神?


「馬鹿だ。長さんだか留さんだか知らないが、何だって探偵がそんなことしなきゃいけないんだこの大馬鹿。いいか善く聞けこの大馬鹿者。この世界に於ける探偵と云うのは、世界の本質を非経験的に知り得る特権的な超越者なのであって、姑息にこそこそ覗き見し回るコソ泥野郎なんかとは天と地、土星と土瓶程に開きがあるものだろうがッ。思い上がりも甚だしいぞ」
□(656)

 ↓ と、榎木津は言う。


どこに行くんだって誰に会うんだって、素でいいだろうが素で。面被らなきゃいけない理由なんて何もないぞ。それなのにお前達はすぐに面を被るじゃないか。何か恥ずかしいのか? そう云う恥ずかしいことばかりしてるから恥の塊になってしまったんだな!
□(659)

 ↓ しかし、中禅寺は次のように言う。
 

「信念を持って臨めば疑いは晴れると、そう仰るんですか?」
「違う違う。信念なんてものはね、益田君。どんな局面に於ても何一つ役には立たんよ。害にはなるが役には立たない。僕が云っているのはそう云う意味ではないのだ」
「どう云う意味ですか」
〔略〕
「〔略〕主体である君が認識している君と云うものと、君以外が認識している君と云うものは必ずしも同一ではないし、本人だからと云って自己認識が完全に出来ている訳でもない。僕等の知っている君を君は知らないし、君が考えている君の姿がそのまま僕等に伝わっていることもない。僕等が知っているのは環境が要請する益田龍一像と君自身が想定した理想的益田龍一像とが一致したところに妥協的に形成される〈益田龍一〉と云う仮面でしかない訳だからね
「仮面——ですかぁ?」
「仮面さ。その仮面は、もしかしたら仮面を被っている俳優の素顔を模したものなのかもしれないし、或は別人に成り済ますための別人の面なのかもしれない。演出のため誇張や装飾が施されているかもしれない。しかしどれだけ素顔を精巧に模した仮面であったとしても面は面、それは素顔とは違うものだろうし、なにがしかの演出がされていたのだとしても、演出する者の計算通りに観客に作用しているとは限らない。俳優自身が仮面こそ素顔と思い込んでいることもある。そうなら仮面の下に抑圧されている俳優の素顔は俳優自身にも知り得ない、ということになるし、そうしたケエスは殊更多い。どうであれ観客としての僕等が知り得るのはマスダリュウイチと云う仮面を被って演じられる仮面俳優〔キャラクター〕の舞台演技でしかない訳だ。それこそが君の個性なのだ。個性と云うのは個人が作り上げるものではなく、社会の中で不可抗力的に出来上がってしまう仮面のことなのだよ

□(687-9)

 理解はできる。しかし納得はと言うと、うーん……。研究上でも他者から与えられた像をうまく使え、とO本先生には言われたことがありますが、難しいです。ことに自分にとって大切なこととなると、なかなかそのように割り切ることができないです。でも、そういうことも覚えていかないとそもそも研究では生きていけないような気も、少しだけしています。

 榎木津は群を抜いた特異な能力というか体質を授かっているがために、素で行けるのかもしれません。言い方を換えれば、そうした能力ないし体質を有していない、あるいは開発しきれていない者は、面を被るしかないのかもしれません。


@研究室
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by no828 | 2012-01-28 18:38 | 人+本=体 | Comments(0)
2012年 01月 27日

上野公園に行ってみたらゴヤ展が開かれていたという、そういう日のお話

c0131823_14463367.jpg 昨日は所用で上京。時間が空いたため、上野公園で何かしら開催中であろうと思い立って行ってみたらゴヤ展でした。実は、アヒル氏がゴヤ展に行ったと言っていたことが頭にあり、“もしかするとそれは上野の国立西洋美術館かもしれない”と思ってはいましたが、調べるところまではしませんでした。入場料は、「キャンパスメンバーズ」適用で1,000円。

 平日木曜の午後だというのに、かなりの人が入っていました。これが土日祝日であったなら、次の作品へとなっかなか進まない割烹(英語:couple)の方々に対し、舌打ちのひとつでもしたくなっていたかもしれません。ちなみに、昨日は平均年齢高めでした。


 展示解説では、フランシスコ・デ・ゴヤ(1746-1828)の思想にも触れられていました。ゴヤは、当時の啓蒙主義、合理主義へと合流するような考え方の持ち主であり、人びとの妄信、不合理、無知蒙昧を嫌い、また、そうした人びとによって構成されていた旧態依然の社会のありようを嫌っていたようです。哲学者が啓蒙や合理を言語によって訴えていたのに対し、ゴヤは——「ロス・カプリーチョス(気まぐれ)」という作品群を踏まえると、啓蒙や合理とは一見裏腹の関係にある——芸術という窓口を通して啓蒙や合理の重要性を描いていたということのようです。

 ただ、啓蒙主義や合理主義の考え方をゴヤの絵に見出そうとする(「そういうふうに観ることができるでしょう」という)解説・解釈を読み、やや興醒めしたことも事実です。もちろん、事実もその解説・解釈どおりなのかもしれません。しかし、そのように解説したい、解釈したい、という鑑賞者の欲望をそこにどうしても認めてしまいます。つまり、自らの欲望を自らが直接表現するのではなく、他者を介して、あるいは他者をいわば道具・手段として表現しようという態度をわたしはそこに見出してしまい、それに興醒めしてしまうのです(わたし自身もここで自分が興醒めしたことをしているのですが)。これは、ゴヤ展だから、ということではありません。もっと一般的なことです。解説や解釈はやはり二次的なものであり、一次的に存在する絵そのもの、絵を書く人それ自身には“勝てない”と思いました。(これはもちろん、研究の仕方ということにも関わっています。)


c0131823_14464883.jpg とは言うものの、ゴヤの考え方に関心のあるわたしは、カタログ(図録)を当然買いました(2,300円……)。あとで読みます、眺めます。ついでに、一筆箋(400円)としおり(200円)を買いました。一筆箋は、有名な「着衣のマハ」(上の写真にありますように、ゴヤ展の看板にも使われています)のものを買おうと思ったのですが、横書きであったためにやめました。日本語の文字は縦書きのほうが書きやすいです。縦書きはむしろこれしかなく、選択の余地なしでありました。


 ゴヤ展は明後日、1月29日(日)までです。
 参照:国立西洋美術館 → 


@研究室
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by no828 | 2012-01-27 15:30 | 日日 | Comments(0)
2012年 01月 25日

まず、その涎かけをとりたまえ。話はそれからだ——竹内薫+竹内さなみ『シュレディンガーの哲学する猫』

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13(483)竹内薫+竹内さなみ『シュレディンガーの哲学する猫』中央公論新社(中公文庫)、2008年。

※ 単行本は1998年に徳間書店より刊行。10年後の文庫化。

版元 → 


 「哲学小説」と呼ぶべきものです。“哲学の入門書を書く人の物語”と“その人が取り上げる哲学者の考え方の紹介”とが交互に登場します。この本自体が哲学の入門書でもあります。具体的には、ヴィトゲンシュタイン、サルトル、カーソン、フッサール、ファイヤアーベント、廣松渉、大森荘蔵などが取り上げられています。ファイヤアーベントは勉強したいと思ってきましたが、本が安価に入手できません。

 この本では、上掲哲学者の著作からの引用も頻繁になされています。以下は、そこからの孫引きを避けての引用です。

 ↓ サルトル。「アンガジェ」は英語だと「エンゲージ(engage)」。


 あるいは、女子高生の援助交際、満員電車の痴漢、暴走族、どのような行為も、実は、社会全体に影響を及ぼすのであり、「自分ひとりだけならいいだろう」という考えは甘いのだと云わねばならない。みんながやっているから、という言い訳は通用しない。一人ひとりの行動が、世界全体に影響を及ぼすという意味で、人間は常にアンガジェする生き物なのである。
□(69)

 ↓ ソクラテス、を書いたプラトンの「プラトニックラブ」。


 いわゆるプラトニックラブという言葉は、今では「肉欲を抜きにした精神的な愛」の意味に使われることが多い。その用法は、実際、半分は正しい。だが、プラトンの当時の「愛」の理想像は、〔略〕男性同士の精神的な愛のことであって、男女間の愛は含まれていない。つまり、子供を宿す可能性のある男女間の愛は、肉体的であることが当たり前であり、生殖に関係のない男性同士の愛の形態こそが問題だったのである。プラトニックラブというのは、だから、愛の美学のことだといっても過言ではない。
□(105-6)

 ↓ 大森荘蔵。


 大森荘蔵は、その哲学だけでなく、人物のスケールも大きかった。
 学生闘争華やかなりし頃のこんな逸話がある。
 当時、教養学部長をしていた大森の部屋にマスクで顔を覆った過激派の学生たちが乱入してきた。僕が大森の立場だったら、恐怖にかられて取り乱すところであるが、大森は実に毅然とした態度で云い放った。
 「君たち、まず、その涎かけをとりたまえ。話はそれからだ
 顔を隠した学生たちは、ぐうの音もでなかったという。

□(296)

 ちなみに、大森荘蔵は廣松渉——の学説——を嫌っていたそうですが、自分の後任の東京大学教養学部長には“彼しかいない”と廣松渉を指名したそうです。

 そういえば、中島義道の本にも大森荘蔵への言及がありました(→ )。


@研究室
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by no828 | 2012-01-25 18:15 | 人+本=体 | Comments(0)
2012年 01月 24日

俺は学者でも学生でもなく、単なる職人だったのである——京極夏彦『今昔続百鬼——雲』

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12(482)京極夏彦『文庫版 今昔続百鬼——雲 多々良先生行状記』講談社(講談社文庫)、2006年。

版元 → 




 百鬼夜行シリーズのサイド・ストーリー。本文749ページ。

 “在野の研究者”というあり方を、改めて考えた。個人的には、ゼミがしたいし(不特定多数向けの授業はいまいちだが)、図書館も近くにあるとよいし、大学という雰囲気も好きだし、といったことから大学に勤めたいが、それが無理ならば、研究・教育以外のことで生計を立てつつ、“個人的に”研究を続けたいと思っていて、だから以下のような文章を読むと、少し背中を押された気持ちになる。(あるいはスペシフィックな)「同好の士」を見つけることは、まだできていないのだが。


 俺は出来る範囲で関係資料を読み、話を聞き回った。民俗学と云う学問に就いては善く知らなかったから、集めた知識をどう体系化したものかは全く判らなかったのだが、兎に角熱心だった。
 しかし——。
 俺は学者でも学生でもなく、単なる職人だったのである。
 赤貧のうえに物好きな、見習の左官に過ぎなかったのだ。
 どれだけ熱心であろうとも、左官の小僧の独学なんぞと云うものはそもそも大したものではない。
 日銭稼ぎに明け暮れて、三度の飯を喰うだけでそれはもう大変だと云うような状況下に於て、仕事をし乍ら片手間に出来る研究など高が知れていると云うものである。右手〔めて〕に鏝〔こて〕、左手〔ゆんで〕に資料などと云う器用な真似は出来ないし、況〔まして〕や、過酷な肉体労働を終えた後に夜を徹して読書する——などと云う離れ業は、幾ら若くたって不可能なのである。
 知的好奇心は空腹にも睡魔にも勝てやしない。どんなに情熱を傾けていようとも、腹が空けば凹むし疲れれば矢ッ張り寝る。知識で胃袋は膨れないし、気力で体力は補えない。嗚呼面白いためになると心底感じていようとも、瞼は下がって来るものなのだ。
 俺は、幾度も書物の頁を涎で汚した。

 〔略〕
 独りだったら疾〔と〕うに止めていただろう。
 ところが——。
 欲すれば叶うと云うか念ずれば通ずと云うか、良くしたもので、俺はそのうち何人かの同好の士と知り合うこととなったのだった。

□(16-7)

 ↓ その学問がどういう背景を持っているのかを知っておく、というのはその学問の徒だと自覚する人はとくに必要、というか不可欠。


 すると、例えば未開の地と云う発想からして差別的だと云うことになる。文明に晒されていないとか文化がないとか、これまた勝手なことを平気で口にしているが、どんな土地にだって文化はある。未だ開かれぬ土地とは云い替えれば侵略者たる余所者が入り込んでいない地域と云うことでしかないのだ。
 博物学と云う学問は植民地政策や植民地思想と裏腹な関係にあると云うことである。それはつまり、近代を主体として全近代を見ると云う構図抜きには語り得ないものだ、と云うことである。

□(513)

 やがて。
 陳列対象たる前近代の象徴は過去から辺境へと移行したのだ。現在と過去と云う垂直軸から都市と辺境と云う水平軸に矛先を変えた訳である。どこそこの山奥ではこんな野蛮な因習が残っています、あそこの村ではこんな下等な妄信を守っています——。

□(514-5)

 ↓ 個人的な“好き”が公共的に・状況的にどういう意味を持つのか、あるいはどういう機能を果たしてしまうのか、ということを考えたほうがよいと、個人的には思う。好きだからしているのだ、他意なく単に好きだからしているのだ、という態度ならば問題はない、というわけではない、とわたしは思う、とくに他者を巻き込む場合においては。


 俺は慥〔たし〕かに、行く先先、見慣れぬ田舎の景色に、土着の習俗因習に、余所者として好奇の視線を向け捲っている。でもそれは好きだからなのだ。
 俺は慥かに旅人で、その土地の者にとっては異人である。でも俺の抱く興味は都会に住む近代的人間が山村に残る前近代に向ける博物学的興味と同等ではない。先述の通り、偏見が全くないとは云わないが、それでも違うと思う。
 ただ好きなのだ、
 物凄く。

□(519.傍点省略)


@研究室
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by no828 | 2012-01-24 16:20 | 人+本=体 | Comments(0)
2012年 01月 23日

だとしたら、そんな楽しい毎日はこっちから願い下げだ——北島行徳『無敵のハンディキャップ』

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11(481)北島行徳『無敵のハンディキャップ——障害者が「プロレスラー」になった日』文藝春秋(文春文庫)、1999年。

※ 単行本は同春秋より1997年に刊行。第20回講談社ノンフィクション賞受賞。

版元 → 


 
 (腕、背中、腰が予定どおり筋肉痛)

 米原万里の本(→ )で取り上げられていたのが頭にあって、古本屋に行ってとくに意識もせずに「あ」の棚から順に目を移動させていたら感知しました。

 内容はサブタイトルのとおりです。(脳性麻痺の)障害者がプロレスラーになる、ボランティア・グループ兼プロレス団体「ドッグレッグス」を作っていく——だから本書は文字どおり「障害者」の戦いを描いたものですが、同時に本書は「障害者」への闘いであり、「障害者」を見ない「健常者」への闘いでもあります。“「障害者」も「健常者」と同じ人間である”という“優しく美しい考え方”には与せず、だからといって“「障害者」は「健常者」とは違うから特別な配慮が常に必要である”という“過保護な考え方”にも与しない。“「障害者」は「健常者」と同じであり、かつ、違う”という、異同のあいだを行く考え方、葛藤を常にはらんだ考え方というのが、全体を通して示されていたように思います。良書です。本書末尾で示唆されていた続編の出版を期待します。


 ↓ 考え方。


「どうじょうの、はくしゅは、いらないのですね」
 ボランティアセンターでの慎太郎の言葉が頭にこびりついている。どうしたら同情ではなく、観客に正当に評価されるのだろう。健常者並みに歌や演技に磨きをかければいいのか。いや、そうではない。健常者に近づくのではなく、逆に障害者であることを強調することでこそ、固定化されてしまった障害者観を揺るがすことができるはずだ。

□(26)

 ↓ 現実。


 一週間の実習後、慎太郎はこの職場に就職しないことを経営者に告げた。給料が安いだけではなく、仕事がきつすぎて自分には勤まらないと思ったからだ。すると、次の瞬間、経営者から思ってもいなかった言葉が返ってきた。
障害者は働かないなら死になさい!
 一瞬、頭の中が真っ白になった。何を言われたのか、意味がわからなかった。いや、あまりの恐ろしい言葉に、慎太郎の頭が理解を拒んだのかもしれない。
 家に帰ってベッドに横になると、怒りがこみ上げてきた。
 ——なぜ、しねとまで、いわれなければならないんだよ! しごとだけで、にんげんを、はんだんするなよ!
 慎太郎は心の中で大声を挙げた。そして、怒りをぶつまけ終わると、その感情は次第に不安へと変化していった。
 ——じゃあ、もし、しごとが、みつからなければ、じぶんは、いきていても、しかたがない、にんげんに、なってしまうのだろうか。
 今度は急に恐ろしくなってきた。

□(85)

 ↓ 現実に合わせればそれでよいのではない。


 これまでの異者格闘技戦では、障害者と健常者が同じ条件で闘ってきた。それは肉体的にハンディがある障害者にとって、明らかに不利な闘いだった。しかし、私たちは慎太郎や浪貝を通して、努力だけでは乗り越えることのできない壁を見てきた。障害者が効率優先の健常者社会で生きるのは、実際に不利なのは事実である。そんな社会の現状を表現し、その中でともに生きていくための模索を、闘いを通じて見せたかったのだ。一方で、なぜ障害者は努力しなければならないのかという根本的な問題もある。健常者がさして疑問を持つこともなく手に入れるものを、障害者は人一倍努力して手に入れなければならない。
 多数者である健常者が変わらない限り、障害者が抱える問題は解決しない。

□(205)

 ↓ 養護施設。言葉を失った。そして、自分の内側に沸いてきた感情が「怒り」だと気付いた。


「……この傷は、なんだ?」
「……えっ……」
「だから、この頭の傷跡だよ」
「……まえに、なぐられたり、いろいろぶつけられたり、したから」
「……そ、そうか」
 まずいことを聞いてしまったと思い、それ以上は詮索しなかった。すると、二人のやりとりを側で見ていた小学生たちが、突然集まってきた。
先生、先生! じゃ、これはなにかわかる!?
「えっ?」
 子供がシャツの袖を捲ると、小さなしみが幾つかあった。
……火傷の跡かな?
これは、お父さんに煙草の火を付けられたんだよ!
 小学生は楽しそうに言った。
ぼくのも見てよ、先生!
先生、私のこの傷見て!
「…………」
 子供たちが嬉々として虐待の跡を見せるのは、悪い冗談のようにしか思えなくて、神山は苦笑いするしかなかった。

□(287-8)

 ↓ これについては、以前K岡と議論したことがある。一方に、虐待を受け、親がいない“から”問題行動を起こす中高生がおり、他方に、虐待を受け、親がいない“けれど”問題行動を起こさない中高生がいる。


 問題行動を起こす中学生や高校生には「虐待を受けたからなんなんだ、親がいないからなんなんだ」という開き直りみたいなものがあった。その一方で、警察沙汰になるような問題を起こせば、「オレがこうなったのは親と施設が悪いんだ」とすべて責任は他人まかせ。そんな子供たちを指導するといっても、本当のところ、どうすればいいのかわからなかった。幼い頃から地獄を見て育った子供たちに、綺麗事の言葉など通じはしない。殴ったところで、肉体的な痛みは所詮その場限りで、心にまで届きはしない。これまで生きてきた環境で身に付いたものは重く、簡単に変えることなどできはしなかった。
□(289)

 ↓ 子どもを産むのは親の勝手——。


 養護施設の子供を採用するとき、企業の中ではハンディを抱えた子をとるべきかという議論が必ず起こるという。いまだに養護施設に対して、少年院か教護院のようなイメージを持っている人は多い。施設にいる子供たちは、自分で悪いことをして入所したわけではない。むしろ責任は、生活能力のない親にあるのだ。大声で返事の練習をする彼と、それに付き合う高校生たちを見て、一体何がハンディなのかと神山は思った。
□(295)

 ↓ 著者の“はじめ方”はこうであった。ここから次のことを、すなわち動機はどうでもよい、はじめることが大事だ、ボランティアをすることが大切なのだ、それに、人は変わっていくから(実際著者が変わっていったように)——という命題を、導出してよいかどうか。


 漠然とテレビを眺めていた私だったが、突然「これだ! これだよ!」と叫びそうになった。自分より惨めな人間がいるのではないか。自分より可哀相な人間がいるではないか。その時の正直な気持ちは、「障害者は私の劣等感を吹き飛ばしてくれる」であった。障害者の手助けをしてあげれば、きっと自分の心が救われるはずだ。直感的に、そう感じたのだ。
□(321)

 ↓ 善意がなければ実現しない、という状況は正しいか。


 日本人の障害者理解なんて、本当に上っ面だけなのだ。生まれたときから両手両足のない青年の書いた本がベストセラーになることからもそれがよくわかる。「障害を持っていても、ボクは毎日が楽しいよ」という彼の本を読むと、障害者差別など日本には存在しないかのように思えてくる。
 しかし、本当にそうなのだろうか。
 その本によると、彼も予備校探しは「受け入れる設備がない」と断られて大変だったらしい。だが、彼は「そういうものか」と悲観することもなく簡単に納得してしまう。そして、「前向きに検討しましょう」という善意ある職員たちのいる予備校に通うことになる。
 私たちも「そういうものか」と納得し、「前向きに検討しましょう」という会場を探せばいいのか。「障害を持っていても、ボクは毎日が楽しいよ」と言うためには、厳しい現実を直視せず、善意の中にだけ身を置くしかないのか。だとしたら、そんな楽しい毎日はこっちから願い下げだ。

□(357)


@研究室
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by no828 | 2012-01-23 12:50 | 人+本=体 | Comments(4)
2012年 01月 22日

雪が積もった

 実家最終日の日曜日の午前中は雪かき(「雪掃き」が誤りらしいとわたしが気付いたのは、実はそう昔ではない)。かいたのは雪のみにあらず。汗もかいた(たぶん明日、腰が痛くなる)。木曜の夜から降り出した雪は、今朝方まで降り続いた。20cm くらい積もったと思う。これほど積もるのはめずらしい。

c0131823_12381781.jpg 断面。


c0131823_12384771.jpg 玄関の前の雪をかき集めたら、かまくらを制作できるくらいになった。


c0131823_123944.jpg また別の集合体。


c0131823_12392225.jpg 実家の前景。山があるはずなのに見えない。



 13時44分発の汽車で、まずはIわきに向かいます。


@福島
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by no828 | 2012-01-22 12:34 | 日日 | Comments(0)
2012年 01月 21日

だけど、それをどこで止めにする?——宮部みゆき『ステップファザー・ステップ』

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10(480)宮部みゆき『ステップファザー・ステップ』講談社(講談社文庫)、1996年。

※ 単行本は同社より1993年に刊行。ちなみに、わたしの手元にある44刷という驚異の数字を示した文庫本の表紙デザインは左のものとは違います。

版元 → 




 宮部本を(もちろん古本で)ごそっと買ったことがあって、そのなかの1冊。泥棒が双子のステップファザーつまり義父になるというお話。「泥棒」と言っても、平成の鼠小僧的な要素が含まれています。だからそこには、財の正当な移転とは何か、という問いが伏在しているのです(これはすぐに、財の正当な獲得、財の正当な所有とは何か、という問いをも提起するわけですが)。「あり余っているところから、足りなくて困っているところへ、金を移動させ、その手数料をもらっているだけの話だ。運送屋と同じこと」(65)。

 個人的には、焼いたソーセージと卵ひとつの目玉焼きとを一緒に皿に乗せた料理を「一卵性双生児」と双子が呼んでいたのが(不覚にも)おもしろかったです。

 なお、宮部さんは「気を使う」と一貫して表記していますね。一貫すると、それらしく見えてこないこともない。


 ↓ 宮部さんのお考えと思って読んだところです。


 暇つぶしにミステリーを読むことがある程度で、およそ文学とは縁のない人間がこんなことを言うのはおかしいかもしれないが、俺にはどうも、現代国語という科目が滑稽に思えて仕方ない。少なくとも、詩や小説を題材にして教えるということに関しては、絶対におかしい。どうかしている。
 〔略〕
 そもそも、文学作品や小説、物語は、考えたり説明したりするために味わうものではない。まず楽しんで、次に解釈——それも自由な解釈をしてこそ意味があるのだ。
 俺が育ったころの教科書には、「説明しなさい」「考えなさい」と書いてあった。今の教科書は、「いっしょに考えてみよう」などと、猫なで声を出している。だが、どっちにしろ、最後に「テスト」というものが待っていることを考えたら、出口はひとつ、結果は同じだ。自由に解釈し、自由に感動することは許されない。子供たちはみんな、テストで丸をもらえそうな答えを探すだけだ。そして、本を読むことが嫌いになる。そういう意味では、なまじっか、親切そうな「考えてみよう」などという提案口調の教科書の方が、ずっと始末が悪いかもしれない。こういうやり方を、教育亡国という。

□(135-6)

 ↓ 年を取る、ということは、こういう実感を深めていく、ということかもしれない、と思うようになったわたしは、だから年を取っているのです。


 だが、こうして突然、十三歳の子供二人の父親になってみて、俺はつくづくと考える。人生なんてものは、ドラマチックな恋愛や激情でできているものではないのだ。それは、期限の切れていない健康保険証や、住宅ローンの支払いが、今月もまた無事に銀行口座から落ちたことを報せる通知や、そんな細々としたものから成り立っているのである。
□(173)

 ↓ これを「関与」一般で考えると、あるいは「教育」や「援助」ということへと敷衍して考えると、じっくり考えないといけないことがあるとわたしは思っています。


「俺が言いたいのはな、俺だって淋しいと感じることってことさ。除け者にされたなら。もう要らないよと放り出されたなら。おまえらは俺を、実の親の代用品、取り替えのきく部品だと思ってるらしいけどな、俺にだって感情はあるんだぞ。だから、おまえらと楽しく正月旅行をするのもいいさ。仲良くなるのもいいだろう。お父さんごっこをしようや。だけど、それをどこで止めにする? おまえらと仲良くなったら、いつかどこかでごっこ遊びを止めたとき、俺がどんなふうに感じるか——おまえら、それを一度でも考えたことがあるか?」
□(217)

 ↓ よいですね。


「お父さん」
「今」
「発見したんだけど」
風邪ってさ
早くよくなってねって
心配してもらうために
ひくものじゃない?
 心配してくれる人がいれば、鼻風邪にかかることだって、楽しい。
 そう。そういうことなのだ。

□(246-7)

 ↓ 「教育」は「創造」行為なのか? と素直に疑問に思った。そう捉えたときに見えなくなることは何か、と思った。また、仮に両者を等号で結んだとき、教育=創造という働きかけを受けた子どもの側からの「反創造」という生成の動きはどう捉えられるのか。「反創造」を「創造」したこともまた「創造」か?


「仕事はみんな創造的なもんだと思いますよ」と、俺は言った。「非創造的な仕事なんてありますかね? 特に先生は、生身の子供を育ててるんだ。これにまさる創造はないと思うが
 礼子先生は、つと顔を赤らめた。

□(271)


@福島
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by no828 | 2012-01-21 18:10 | 人+本=体 | Comments(0)
2012年 01月 20日

だから昨日はエクセルシオール記念日(字余りどころではない)

c0131823_14521923.jpg 昨日から実家に帰ってきています。日曜には研究学園都市へと戻る予定です。以下、昨日のメモ。

 10時30分頃、アパートを出発する。徒歩でT園高校前のバス停に行く。おばさんに話しかけられる。バスが来ないとのこと。T浦駅行きには2路線ある。一方はT浦二高経由(10時41分)、他方はS束町経由(同48分)。件のおばさんは、「わたしはS束町経由のに乗って途中で降りたいの、それはT浦二高経由だと通らないところなの、でもねバスがまだ来ないのよ(時刻はすでに10時51分頃)、それにね、41分のも来ていないようなのよ、どうしたのかしらね」。路線バスに関する有益な情報を持ち合わせていないわたしは、「遅れているようですね」という何の内容もない、カント先生的に言えばきわめて分析的なコメントを返し、おばさんは「そうなの、いつも遅れるの」と言う。

 そんな会話ののちにバスが来て、わたしたち2人の前で止まるが、バスの前面および側面には「T浦二高」とある。しかし、おばさんは「あぁ、来た来た」と、そのバスのステップに足を掛け、乗車券を引き抜いて乗り込んでしまった。“まずい、これじゃないよおばさんっ!”と思ったわたしはおばさんを呼び止めようと決意したのだが、“このおばさん”を何と呼べばよいのかわからない。“「おばさん」ではやはり失礼か、「おばさん」はやはりわたしの内面に留めておいたほうがよいはずだ、では「おばさん」でないとすると「おねえさん」か、いやこれも適切ではない、明らかに「おねえさん」ではない、わたしの姉でもない、うー、うー、ここは無難に「すいません」で行くしかないっ!”ということを1秒以内に結論付け、「すいません」、聞こえていない、「すいませんっ! これは二高経由ですよ、S束町には行かないバスですよっ!」とご指摘する。「えっ」と振り向いたおばさんは急いで(と言ってもゆっくりだが)降りてきて、わたしが指差すバスの側面を見上げ、「あら、危なかったわ。すいません、ありがとうございます」と言う。

 二高経由のバスが行ってまもなく、S束町経由のが来る。「あぁ、こっちですね、これです」とおばさんは乗り込み、前のほうに座る。わたしも乗り込み、1番後ろに座る。おばさんは宣言していたとおり、途中で降りていったが、そのさいにわたしにまた1礼していった。わたしもまた1礼。

 教訓:自分のすること・したいことを宣言しておくと、誰かが手を差し延べてくれる(かもしれない)。

 T浦駅までのバスの値段は460円。みどりの窓口で学割を使って買った最寄駅までの片道切符は2,850円。合計3,310円か。
 
 駅前の「一成(いちなる)」(食べログ→ )で蕎麦。食べ終わってまだ時間があったため、駅ビルのなかの「EXCELSIOR(エクセルシオール)」(→ )でコーヒーを読みながら読書。「これからお淹れしますのでお席でお待ちください」と言われる。ここは注文ごとに淹れるのか。まもなく到着したコーヒーは、たしかにおいしかった。1週間以上ぶりにコーヒーを飲んだということもあるかもしれないが、おいしいと感じた。

 12時33分発Iわき行きJ磐線に乗る。車内は読書。

 14時58分Iわき駅着。15時41分発のB越T線(この変換にもいささか疲れてきた……)に乗り継ぐにはまだ早いと思いながらもとりあえずホームに行くと、汽車(電車ではない)はすでに到着・待機していた。“早っ!”と思い、“この早さは要らないからせめて1時間に1本は出してくれ”と思う。自販機で缶コーヒーを買おうと思ったが、缶コーヒーをあまりおいしいとは思わないわたしは、改札のところに看板の出ていた「ドトール」に行くことにする。改札を一旦出てエレベータで4階に行き、カウンターでホット・コーヒーを持ち帰りで頼む。

c0131823_14525339.jpg 再び改札を通り、ホームに行き、汽車のドアのボタンを押して車内に入る。温かい。コーヒーを飲む。あまりおいしくない。保温時間が長いときの味がする。そういえば、コーヒー・メーカーにあったものを注いでいたような気がする。エクセルシオールと同じ系列なのに、サーブの仕方、コーヒーの味がここまで違うのか……。勝者エクセルシオール。 

 15時41分の定刻に発車。車内は読書。(途中で乗り込んできた某高校の生徒の車内態度は感心できないなぁ……。)

 16時51分にF引駅着。母の車に乗り込み、そのまま食材の買い物へ。母の身体はまだ本調子ではないらしく、先週は2時間、今週は1時間の早退らしい。復調してはいるそうだ。

 19時すぎに父が帰り、1番下の弟(にもかかわらず1番先に就職した弟)が20時すぎに帰り、20時30分頃から夕食。弟に「痩せた?」と訊かれた。かもしれない。


 以上、昨日のメモ。今日はずっと雪が降っています。


@福島
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by no828 | 2012-01-20 15:01 | 日日 | Comments(2)