思索の森と空の群青

onmymind.exblog.jp
ブログトップ

<   2012年 02月 ( 18 )   > この月の画像一覧


2012年 02月 28日

36 Sublo 印鑑ケース

c0131823_16264541.jpg 少し前に(もはや昨年ですが)吉祥寺の 36 Sublo で購入した印鑑ケース(お店の商品ページ → )。ウェブ上の写真は、わたしのものとは白と青の配色が逆になっています(しかも売り切れ中)。

 ウェブ上には「ドイツコットン」や「ドイツのファブリックをつかった」と記載されています。ドイツで作られた印鑑ケースを輸入した、というわけではなく、ドイツで育てられたコットンを輸入して日本で印鑑ケースにした、ということなのでしょう、きっと。



@研究室
[PR]

by no828 | 2012-02-28 16:35 | Arts & Crafts | Comments(0)
2012年 02月 26日

逃げるなという励ましは、時には上っ面をすべって滑稽に響き——佐藤多佳子『しゃべれども しゃべれども』

c0131823_1613436.jpg
29(499)佐藤多佳子『しゃべれども しゃべれども』新潮社(新潮文庫)、2000年。

※ 単行本は1997年に同社より刊行。

版元 → 


 落語家の周囲に集う“わけあり”のみなさん。もちろん、落語家自身の物語が主軸ですが、その軸は落語家から“わけあり”のみなさんへの関係の仕方によって太くなっています。

 結末付近で「好き」と「憧れ」との違いについて触れられていました。答えがきちっと示されていたわけではありませんが、わたしもそれを考えていた時期があったなぁと思い出しました。

 ↓ 話し方教室の場面。よくわかります。授業での立ち振る舞いにもあてはまります。教師は“ちょっと態度が大きいかな”くらいの心持ちのほうがよさそうだな、というのが実感です。


 続けて何人か出たが、皆面白くなかった。
 まず、正面が切れない。これは落語の言葉だが、高座に上って一礼して顔をあげた時、視線が真正面から客をとらえることをいう。これができないと大看板にはなれないと言われている。意外と度胸のいるものだ。俺も初めは出来なかった。顔だけ向けても見えていない。なにやらぼやっとわけのわからないものが並んでいる感じだ。少し落ちついて一人ひとりが見えてくると、これまた照れ臭い。そこで、そっぽを向く。自然、気持ちもそっぽをむく。客は敏感だ。故三平師匠のようにいちいち対話しなくてもいいが、あなたにむかって話しますという雰囲気作りは大切だ。

□(39)

 ↓ 研究者の生活も、こういう感じです。


 図書館で歴史と古文の勉強をして、好きな師匠の噺を聞き歩き、岡田老を訪問し、今昔亭一門の暇そうな先輩をつかまえて新しい噺を習い、家で速記本と録音テープに没頭し、あまりの時間で壁に向かって稽古をした。
 これ以下はないというほど地味な生活だ。〔略〕
 白馬師匠に、おまえのような若いもんが逆戻りしてどうすると言われたのに、いよいよ古い方角へ突進している。めくらめっぽうという感じである。目隠しをされて、厚手の布の上から、手探りで何かを見つけようとしているみたいだ。その何かもはっきりとはわかっていない。わかっていないものを少しずつ少しずつ自分の内側に蓄積しようとしていて、どのくらい溜っただろうと知りたくても、古井戸の底をのぞくように、ただただ暗くどろんと深いのだった。

□(187-8)

 ↓「滑稽に響き」に掴まれました。


「自分が大事だと思っているものから逃げると、絶対に後悔する」
 同じことを湯河原に言って嘲弄された。あきらめるな、逃げるな、という励ましは、どれだけ心をこめて言っても、時には上っ面をすべって滑稽に響き、時には残酷に傷口に食い込む。

□(221)

 ↓「一期一会」は“一度しか会わない人、これから会うことはないであろう人との縁を大切にしよう”という意味ではないようです。毎日会う人とも、それは“一度”です。


一期一会というんだよ」
 ばあさんは静かにそう言った。
お茶の心だよ。同じお茶会というのは決してない、どの会も生涯にただ一度限りだという心得さ。その年、季節、天候、顔ぶれ、それぞれの心模様、何もかもが違うんだよ。だからこそ、毎度毎度面倒な手順を踏んで同じことを繰り返し稽古するんだよ。ただ一度きりの、その場に臨むためにね
〔略〕
 一期一会という言葉は奇妙に耳に残った。
 失敗するかもしれない、間違えるかもしれない、絶句するかもしれない、誰一人として笑わず赤恥をかくかもしれない、慢性の不安が忍び寄ってくる時、その言葉は不思議な鎮静効果をもたらした。

□(305-6)

 ↓ 残酷な洞察だと思いました。


 俺たちを見て、子分の三人はハッとした表情を浮かべたが、宮田は顔色一つ変えなかった。よく日に焼けた皮膚と、茶色がかった長めの髪と、異様なほど長い手足と、侮蔑的な冷たい眼差しは、十一歳の少年の中では抜きんでて目立つだろうと思われた。青いままで出荷された形の美しいトマトを連想した。赤く色づく頃には、すかすかの味になる。十六歳になったら、宮田は、ひどくつまらない、すかすかの味の少年になっていそうな気がした。
□(366-7)


@研究室
[PR]

by no828 | 2012-02-26 17:00 | 人+本=体 | Comments(0)
2012年 02月 24日

夢に向かって頑張っていないと駄目なのか、何かを作っていないと駄目なのか——西加奈子『通天閣』

c0131823_1538465.jpg
28(498)西加奈子『通天閣』筑摩書房(ちくま文庫)、2009年。

※ 単行本は2006年に同書房より刊行。

版元 → 


 大阪を舞台にした小説です。主人公は男女2人。男の節、女の節と、交互に展開していきます。そして展開するほどに節の長さが短くなっていきます。つまり、男の残像を引きずりながら女を読み、女の残像を伴いながら男を読む。残像が濃くなる。そのため、男と女のあいだに横たわっていた“距離”も短くなっていくような印象を強くしていきます。2人は実際に物理的にも近づいていくわけですが、それは恋愛関係ということではありません。結末において浮かび上がるその関係は、実は物語の最初からその背後に描かれていたわけですが、前面に出てくるのは、最後にぐわっと、です。

 論文では、こういう構造の採用と効能への期待は、難しいかもしれません。(本にするときには、できるかなぁ……。具体的な例もアイデアもないですが。)

 ちなみに、西加奈子はテヘラン生まれ、エジプト育ちと著者紹介にありました。18歳まで同じところで育った(にもかかわらず(?)国際的な事象に関心を抱く)わたしは、そういう生まれ方・育ち方に憧れます。

 ↓「冷酷な」というか、「冷徹な」というか、こういった類の形容詞をその前に付加してもよいほどの 洞察 だと思いました。以下、3連続。気付けば、女の節からのみになりました。


 たまに思う。ううん、よく思う。何故、辞めてしまわないんだろう。
 でも、答えは分かっている。日本に残された私が辛い思いをすればするほど、マメへの気持ちが、とても崇高で、清らかなものになっていく気がするからだ。マメは、遠いアメリカでがんば〔ママ〕っているのだから、私も、嫌な仕事くらいこなさなければいけない。マメよりもきっと嫌な仕事をこなしていることを、マメは申し訳なく思ってくれるだろう。日本に残してきた私が、クソのような仕事をマメのためにしているのだ。マメは私のことを、いつも思い出すだろう。
 頑張〔ママ〕れば頑張るほど、ふたりの関係が、確固たるものになる。私はいつも、そう思っている。そう、この、気が遠くなるほどの、長い距離を越えて。

□(86)

 私はもう、何も信じない。
 マメのことを、信じていた。本当に、心から。マメが映像作家になりたいと思っているのなら、それでいいと思った。「何やの。それ?」そう思う気持ちを、胸の奥にしまって、「頑張れ」と、そう言い続けてきた。あなたのことをいつまでも待っている。だから、思う存分頑張ってください、そう思っていた。いや、そう思っていたら、マメが帰ってきてくれると思っていた。そういう内助の功、みたいなものを、男の人は好きだと思っていた。

□(169)

「めっちゃ頑張ってはんねん。作る映像も、なんていうか、新しいんや。」
 何を言いさらす。頑張ってて、新しい映像を作れば、あんたは好きになるのか。尻が大きくてそそるとか、セックスがうまそうだとか、甲斐甲斐しく身の回りの世話をしてくれるだとか、そういうことを言え。
 頑張ってるときの目がきらきらしてる?
 本人より作品に惚れたと言ったほうが正しい?
 じゃかましい!
 夢に向かって頑張っていないと駄目なのか、何かを作っていないと駄目なのか。自転車でバイト先に向かい、阿呆の相手をして、マメのことだけを思って眠る生活をしている私は、駄目なのか。
「きらきらと輝いて」、いないのか。
 どれだけ泣いても、涙が止まらなかった。もったいない、そう思った。マメに見られていないのに泣くのは泣き損だ。でも、私がこんな風に泣いたり、笑ったり、怒ったり、眠ったり、拗ねたりしているところを、マメが見ることはもうないのだ。
マメはニューヨークというところで、刺激的な毎日を送り、いつか映像作家になれるよねと、同じ夢を持っている「同志兼尊敬できる人兼好きな人」と、日々を過ごすのだ。
 なんたることだ。なんたる。

□(170-1)

 ↓ 解説は津村記久子(→ )。


 世界はこのようなものであるというところを、西さんは正確に言い当てる。そこに虚飾や容赦はない。けれど、そこに一ミリの希望を付与する。このようなものである世界に失望し続けるのは簡単だけれど、『通天閣』はそれをよしとはしない。ぐしゃぐしゃの街とわけのわからない出来事にまみれながら、人間が生きているということを肯定し、そこからでも光はつかめると気付かせてくれる。それがたとえば、「きらきらと輝いて」夢を追うことなどではなくても、無価値なものでは決してないのだ。
□(270)


@研究室
[PR]

by no828 | 2012-02-24 16:37 | 人+本=体 | Comments(2)
2012年 02月 23日

批評ぶりがこまやかである。あざやかである。かなしく、真摯である——山村修『書評家〈狐〉の読書遺産』

c0131823_1343643.jpg
27(497)山村修『書評家〈狐〉の読書遺産』文藝春秋(文春新書)、2007年。

版元 → 


 新書が続きます。

 amazon の古本。書評の勉強用に読みました。著者・訳者・編集者の真摯な仕事に対する真摯な眼差しが貫徹されています。基本的に、よいところを誉めています。温かさ、優しさというのを非常に感じました。ある点について一瞬否定したかと思っても、必ずそのあとにその点に対する逆転の肯定が待っています。すごい。しかし、仕事の甘さ・手抜きには厳しい指摘がなされています。ただそれはあくまで、仕事に対する評価であって、人に対する評価ではない。

 書評対象の本を1とすると、それに関連する知識は10以上ないと奥行きのある論評はできないのだと思いました。その本の著者をAとしたとき、そのAの書いた他の本にも目を通す。その本の主題をBとしたとき、Bを扱った別の著者による本にも目を通す。著者軸と主題軸とでどれだけの評価空間を評者が形成できているか、それがとても大事だと思いました。本書においては、著者の評価空間の幅広さ・奥深さに引き込まれました。

 書評の成功を何で評価するのかよくわかりませんが、その本を書いた者が実は伝えたかったであろうことに、そのために心を砕いたであろうことに気付き、それを拾い上げる・掬い上げる、それもまたひとつの規準であると本書から教えられたような気がします。

 あるいは、書評で取り上げた本を読者が読みたくなる——それがまた別のひとつの評価規準であるとするならば、この本は間違いなく大成功でしょう。それは読者であるわたしがよくわかることです(自分の未読書の数の多さに愕然としながらも)。

 なお、著者山村修は2006年8月に肺ガンで逝去。享年56。もう書かないのだと思うと、残念です。


 ↓ ここだけ引用しても部分的すぎてよくわからないかもしれませんが、“よいなぁ”と思った箇所です。


 秋だというのに、「麗子ちゃん」をさそって氷イチゴをたべる楽しいひととき。やがて死にゆく芥川の日々から、たとえばそんな小春日和のような時間をすくいあげてみせるところに、この小説にこめた作家の批評がある。その批評ぶりがこまやかである。あざやかである。かなしく、真摯である。
□(88.『蕭々館日録』(久世光彦、中公文庫)へ)

 ↓ 否定を肯定へ、の例を2つ。


 ここで中条省平は、もちろんそれをけなすわけではない。そうしたあいまいな表現の冗語的な繰り返しそのものが、主人公の内面の不安定さ、かれにとっての外界の不確定さ、恐怖感などを表現し、圧倒的なオリジナリティを得ていると語っていくのだ。
 それにしても、天下の百鬼園先生の文章をまず「ぞろっぺえな、だらしのない印象」と記し、それを大肯定の方向へと逆転してみせる中条省平自身の書きぶりこそ、じつに刺激的ではないかと感じ入った。

□(33-4.『文章読本 文豪に学ぶテクニック講座』(中条省平、中公文庫)へ)


〔本文引用ののちに〕
 これもまたいささか通俗的ないいぐさではあるだろう。しかし通俗であればこそ肌身にそくそくと沁みるのだし、肌身に沁みればこそ、あとの寒々しさが破滅的なのである。八十年ちかくもまえ、乱歩が抱いたのと通いあう夢の享楽であり、ニヒルの寒冷さである。

□(92.『江戸川乱歩全集 第2巻 パノラマ島奇譚』(光文社文庫)へ)


 人は、自分が他者を評価するさいに使用した言葉で、自分も他者から評価されるのかもしれません。


@研究室
[PR]

by no828 | 2012-02-23 14:05 | 人+本=体 | Comments(2)
2012年 02月 22日

宗教団体は現地の社会から見捨てられた人々に手を差し伸べる——石井光太『ニッポン異国紀行』

c0131823_1335515.jpg
26(496)石井光太『ニッポン異国紀行——在日外国人のカネ・性愛・死』NHK出版(NHK出版新書)、2012年。

版元 → 


 新刊で購入。石井さんならではのお仕事と言うべきでしょう。「日本人」からは見えにくい「在日外国人」の生活の現実が描かれています。「エンバーミング」という言葉をはじめて知りました。「遺体の腐敗防止措置」のことです。原語は——本文にはありませんでしたが—— embalming です。

 ↓ 死後の(肉体的な)復活を約束されたイスラーム教徒にとって「火葬は最大の屈辱」(67)となる、ということを踏まえ、以下。


テロリストは、天国へ行けると信じて体に大量の爆弾を巻きつけ、市街地の人ゴミでヒモを引っぱって自爆する。遺体は吹き飛び、焼けてしまうため、通常であれば天国へ行くことはできない。
□(68)

 言われてみればたしかに、と思いました。しかし、テロリストも天国へ行けるとされます。なぜならば、自爆する戦いは「聖戦」であり、自爆者は「殉教者」とされるからです。教義の“解釈”次第、例外あり、ということのようです。

 ↓ こういうのも Win-Win と言いますか?


「ヤクザはホームレスや生活保護受給者とつながりがある。彼らはNPOの皮を被って炊き出しをやって、そこに集まってきた日本人貧困者にこう言うんだ。『二十万円やるから、中国人ホステスと偽装結婚しないか』ってね」
□(131)

 ↓ 宗教と援助。関連して「途上国で活動する宣教師もまた、周縁に追いやられた人間なのだろうかと思った」(194)とあり、わたしはフランシスコ・ザビエルを思い出しました。彼は、本国の宣教師内ではどういう位置付けにあったのでしょうか。


 日本の仏教系の新興宗教が大陸に渡ったところで、信者を獲得するのは容易ではない。現地にはキリスト教、イスラーム教、ヒンドゥ教など多くの宗教が政治や生活と絡み合いながら根付いているし、言葉も習慣も死生観もまったく異なる。日本人がひょいと訪れて信者を集められることなどありえない。
 そこで、宗教団体は現地の社会から外されたり、見捨てられたりした人々に手を差し伸べるところからはじめるのが一般的だ。貧困者、難民、孤児、被差別民などである。彼らは今の疎外された状況のままであれば一生苦汁を味わうことをわかっており、今まさに助けを求めていたり、環境を大きく変えたいと願ったりしている。外から救いの手が伸びればすぐにでもしがみつきたいと思う。
だからこそ、宗教団体は援助を行うという名目で多額の寄付を集めて彼らの元へと歩み寄り、現地で拠点をつくってそこから少しずつ信仰を広めていくのである。

□(197-8)

 わたしとしては「外から救いの手が伸びれば」の「外から」にとくにこだわりたいです。

 また、カーストから逃れるためにはヒンドゥ教から改宗すればよい——改宗したあと、その人は本当に生きやすくなるのか、とくにヒンドゥ教が支配的である地域・国家において、という疑問が浮かびました。

 ちなみに、石井さんは“宗教がダメだ”という趣旨で上の引用部分をはじめとした文章を書かれているわけではありません。

 さらにちなみに、NHK出版新書には栞が付いていません。栞のある新書、ない新書、分かれます。栞なしの新書(の編集方針として)は、一気に読め、ということかもしれませんが、わたしには必要です。


@研究室
[PR]

by no828 | 2012-02-22 17:55 | 人+本=体 | Comments(0)
2012年 02月 21日

言葉の背後には発した者の様々な思いが込められている——梶原しげる『即答するバカ』

c0131823_15185571.jpg
25(495)梶原しげる『即答するバカ』新潮社(新潮新書)、2010年。

版元 → 


(「静けさ」は、努めないと得られないものになってしまいました。お金で買えるのかもしれませんが、買うお金がありません。ふと、南極は静かなのであろうかと思いましたが、応募は締め切られていましたし、教育学や哲学は観測隊員に求められる専門ではないようです。当たり前です。→ 

 さくっと読了。もちろん105円です。わたしは自分のことを“即答できないバカ”であると思っていますので、それを克服すべきかどうかを考えながら読みました。即答できなくてもよさそうです。しかし、即答を求める雰囲気が強くなっているようにも感じます。即答に限らず「答え」を求めるのは「問い」ですが、そもそも「問い」とは一種の暴力であるという一面を忘れてはいけないでしょう。

 本書の内容は、煎じ詰めると“相手のことを考えて発言しなさい”です。著者は即答することのすべてを否定しているわけではなく、“相手のことを考えていない即答”をする者を「バカ」と呼びます。

 しかし、「相手のことを考える」が成立しているかどうかは、発言後にのみ、相手が聞き取ったあとにのみ、わかることであり、自分ひとりでは決してわかりえません。“相手のことを考えていない”発言が、相手には“おぉ、この人はわたしのことをわかってくれているっ!”ものとして伝わることもなくはない。発話とはだから、「賭け」でもあります。

 著者の提案する「言葉の預金」は、すぐにできることかなと思いました。わたしも“おぉ”と思った単語や文章はノートに書き留めています。が、それを自分の表現において使用できるかどうかは、また別問題です。その言葉を使用した文章を作ってみるなどの練習が必要だと、著者も書いていました。

 これだけだと、“言葉遣いは技術だ、それを磨け”というふうに受け取られるかもしれませんし、あるいは技術が内実をもたらすという側面もあるのかもしれませんが、大切なのは思いなのだと随所で著者は強調していました。「感動とは、相手に取り入ろうという下心があるとうまく伝わらない」(22)。全方位外交、八方美人はすぐばれます。が、それらを一種の思想にまで昇華させ(← 大げさな表現です)、自らの行動指針として掲げ、別にそのことを隠さない、というところまで行くと、それはそれでわたしは尊敬します(少し)。


 ただし、言葉は単体で存在するものではない。言葉の背後には発した者の様々な思いが込められている。言葉にできない微妙な感情もある。
 対話する時、我々は、言葉と言葉の向こうに存在する、直接語られないメッセージにも思いをはせる、察する力も失ってはならないと思う。

□(136)

 なぜそのように言ったのか、なぜそのようにしか言えなかったのか——ということを「即答するバカ」だけでなく、即答された側も考えるようになると(この人はなぜこんな即答をしたのか、きっと理由があるはずだ、即答しただけで「バカ」と判定するのはやめよう、……)、「即答するバカ」は結局「バカ」のままということになるのでしょうか。

 その涵養を心がけたいのは、人間を洞察する力、なのかもしれません。その力を上手に発揮させるものが技術。

「え、また「力(ちから)」ですか?」


@研究室
[PR]

by no828 | 2012-02-21 15:55 | 人+本=体 | Comments(0)
2012年 02月 20日

美人というのはライトのことではなくて、ライトに照らしてもらう人なのに——姫野カオルコ『整形美女』

c0131823_1353561.jpg
24(494)姫野カオルコ『整形美女』新潮社(新潮文庫)、2002年。

※ 単行本は1999年に同社より刊行。

版元 → 


 思想が埋め込まれた小説。その思想が著者姫野が信じるものなのか、あるいはその思想に仮に立ってみたときの認識を示したものなのか、それはわかりません。

 甲斐子と阿倍子、あるいは都市と田舎、美と醜。

 解説は、鹿島茂。ジョン・メイナード・ケインズがかつて高度資本主義社会における「投機」を「美女投票」になぞらえて説明したことを引き合いに出しながらの解説となっています。審査員である自分がもっとも美女だと思う人と、一般大衆がもっとも美女だと思う人とは、必ずしも合致しない——その差異をどう利用するか。この「利用」とは、必ずしも理性だけの問題ではないのかもしれません。

 その差異を利用したと思っても、社会を先取りしたと思っても、人びとが、社会が、それについてくるとは限らないようです。あるいはそれは、差異を利用した、社会を先取りしたと声高に自慢する人を、人びとは、社会は、嫌うからかもしれません。


 ↓ 大曾根は老いた男性医師。甲斐子の美容整形を拒む。


「美容整形はいけないことだ! 不倫だ! 背徳だ!」
 大曾根がここまで叫んだとき、甲斐子は彼の腕をはなした。
「そう……」
 甲斐子は立ち上がり、大曾根を見下ろして言った。
でも、不倫だ背徳だというなら、なんであんなにTV番組や自動車レースのスポンサーを美容外科がやってるの? なんであんなに雑誌に美容外科の広告が出て、出版社社員はその広告料から給料もらって、その広告見た人がいっぱい美容整形して、したあとたのしく暮らしているの? 神から与えられた生命体に病気や事故でもないのにメスを入れて造りかえて他人を欺くことが神のお望みだったことなんじゃないの? 田畑の収穫物より、獣の血を流して食することをお望みだったように

□(10-1)

 ↓ 甲斐子。神の性別。


キルケゴールという人やカントという人や、そういうかしこいえらい人が何人も神さま〔ママ〕についての本を書いてらっしゃるけど、そういう人たちは、そういうことを書いているさいちゅう、それは男の人であるという前提があったような気がするんですけど、そんな気がするのは、私自身も今日までのせかいから記憶を埋め込まれてきたからなんでしょうか。神様〔ママ〕は男の人であるという前提が、もはや前提にさえもならないほど自然なせかいが、長い年月をかけて塵を積もらせるように音もなくカタマリにしてきた記憶がヒトのからだに遺伝してゆき、それを私もからだのなかにある箱にしまっているからなんでしょうか」
□(37)

 ↓ 甲斐子 → 大曾根。


「でもね、奥様の心根のよさに気づかれたのは、まずは奥様の外見に気づかれたのちだと、私は思います。ヒトはいちいち他人の内面なんか見ないわ。他人の内面なんかいちいち丁寧に見てたら神経がいくつあってもたりないではありませんか」
□(67)

 ↓ 甲斐子。この認識というか構造に関心を持ちました。ライトが照らすのは、たしかにライトそれ自体ではない。


(あれがブスのたどる道なのよ。デジャヴーだわ)
 甲斐子は阿倍子をあわれんだ。彼女のすがたは、かつての自分のようである。阿倍子はライトである。彼女自身が光源なのである。ライトは場を照らし、人を照らし、人の話を照らす。絢爛に輝く顔で阿倍子が笑えば、百人分のうけをとったように話し手は感じる。
なんであんなブスに整形したのかしら。美人というのはライトのことではなくて、ライトに照らしてもらう人なのに

□(173)

 ↓ 阿倍子。「隠す」の社会的(逆)効果。


「先生、今のわたしなら甲斐子さんに答えられます。もとにもどるかもどらないか、とか、芸能界で生きるか生きないかとか、そういうことが美容整形の不倫なのではありません」
 そして、すうと大きく息を吐いた。
それを隠したときから整形は不倫になるのです
〔略〕
「ヘミングウェイの孫娘は、プレイメイトの役をもらったので豊胸手術したとインタビューで答えました。人は女優としてプロ根性があると言いました。整形は、整形の行為自体よりも、隠すというところに、人は不正と狡猾を嗅ぎつけるのです」

□(227-8.傍点省略)

 ↓ 理性の限界? 計画経済への皮肉? 鹿島茂はこの本を高度資本主義社会との関係で論じたことは冒頭に書いたとおりですが、その裏側にあった——とあえて過去形で書きますが——と言いますか、それに逆立しえた——同様——共産主義社会をも、著者姫野は批判的に認識しているように思えました。


 人の、あるいはものごとの、不完全な部分、よくない部分にのみ、甲斐子は目を向ける。整形前からそうだった。整形と『計画』はただ、彼女のそのわびしい性癖を、自分に対してではなく他者に向けるようにさもしく変化させただけである。
「なによ、先生。私がなんの罪を犯したというの。なんで自責の人生を送らなくちゃいけないのよ」
 甲斐子は怒鳴った。
自分の気分がよくなるようにして工夫して生きるのの、なにがいけないの?
気分がいいようになっていますか?
 大曾根が問うと、甲斐子はもっと怒鳴った。なってるわ。そして眉間に深い縦の皺をつくった。

□(312)


@研究室
[PR]

by no828 | 2012-02-20 13:56 | 人+本=体 | Comments(0)
2012年 02月 18日

THE ROYAL BITTER(SUNTORY)

c0131823_1436173.jpg THE ROYAL BITTER(ザ・ロイヤル・ビター)

 販売元 →  
 SUNTORY 公式ブログ内記事 → 




 コンビニ限定。某ソンで購入しました。

 原材料が麦芽とホップのみという原則が貫かれているのは、目下の状況下にあっては、すばらしいです。こだわってほしいところです。しかし、「ロイヤル・ビター」という名称に期待しすぎたのかもしれませんが、「深み」「苦み」ともにまだ甘いという印象を持ちました。「ロイヤル」を冠するならば、もっと苦くても、もっと深くてもよいのではないか、と思いました。

 原材料:麦芽、ホップ
 度数:6%(← やや高め)
 販売元:SUNTORY


@研究室
[PR]

by no828 | 2012-02-18 14:44 | ビール | Comments(0)
2012年 02月 16日

何故こわいのか、いずれも「なかった」ことにするのが困難だからだ——穂村弘『本当はちがうんだ日記』

c0131823_1515771.jpg
23(493)穂村弘『本当はちがうんだ日記』集英社(集英社文庫)、2008年。

※ 単行本は2005年に同社より刊行。

版元 → 




 歌人のエッセイ。穂村さんとはどういう人なのか、以前から気になっていたのでした。ようやく古本屋で見つけた穂村本であります。

 ↓ 教育も「なかった」ことにできない。


私はリセットが好きである。
 私は今年四十一歳になるのだが、結婚したことがなく、子供を持ったことがなく、家を買ったことがない。その理由はこわいからである。何故こわいのか、それらはいずれも「なかった」ことにするのが困難な項目だからだ。
 実際に試してみて、もしもうまくいかなかったらどうしよう、と思うのだ。結婚したあとでもっと好きな人ができたら、どうするのか。家を買ったあとでローンが払えなくなったり奥さんとうまくいかなかったら、どうするのか。子供を作ったあとで可愛いと思えなかったら、どうするのか。
 ちなみにこわい順番に並べると、子供を持つ>家を買う>結婚する、となる。これはつまりリセットの困難さの順である。結婚はまだいい。お互いの合意があれば離婚というかたちで解消できる。だが家は一旦買ってしまったら、簡単には撃ったりできなさそうだ。さらに子供に至ってはリセット不可能だ。いったんこの世に生まれてしまったら「なかった」ことにはできない。子供を裸にして全身を隈なく調べても、どこにもリセットボタンはついていない。いちばんこわい。

□(「リセットマン」49-50)

 ↓ 箸の使い方は、わたしも父にかなり厳しく躾けられました。でも、弟のほうが叱られていました。弟が叱られるたびに、わたしは自分の箸の持ち方をこっそり再確認していました。そのためか、誰かと食事をするときは箸の使い方を見てしまいます。ペンの持ち方も同様。焼き魚の食べ方も同様。
 以前他大学の某先生と食事をご一緒したときにその先生の箸の持ち方がとんでもなくてかなりがっかりしたことがあります。そして、“あぁ、俺は「箸の持ち方」で人を評価するのか”と認識しました。


 昔読んだ記事のなかで、コメディアンの萩本欽一が「弟子入り志願者が来たら、まず一緒に食事をしてみる」と語っていた。箸の使い方をみるのだという。幼い頃は誰でも箸を上手に使えない。親に教わったり叱られたりしながら少しずつ上手くなってゆくものだ。「だから箸使いをみれば、そのひとが注意されたことを素直にきける人間かどうかがわかる」と云うのである。怖ろしい。
□(「いっかげん」78)

 しかし、「素直にきける」とはどういうことでしょうか。「言われたことをそのまま鵜呑みにする」でしょうか。

 ↓ 自分への気付きで終わります。


 台風の夜、駅前のタクシー乗り場には長い列が出来ていた。傘が全く役に立たないほどの激しい風に震えながら、私の自分の前にいる人間の数をひたすら数えていた。〔略〕
 だが、そのタクシーが乗り場に着いたとき、前の老人はそれに乗ろうとしなかった。くるっと振り向いて、私の後ろにいるひとに向かってこう云ったのだ。
「どうぞ、お乗り下さい」
 はっとして振り向く。そこには、赤ちゃんを抱いた若い女性がいた。
 あ、ああ、そうか、そうだよな、と思いつつ、ちょっと後ろめたくなる。二時間もそこに立っていながら、私は自分の「前」だけを気にして、後ろに誰がいるかなど全く意識していなかったのだ。でも、このおじいさんはちゃんと気づいてたんだ。自分の後ろの後ろのひとのことまで。
 女のひとはちょっと驚きながら、我々に礼を云って車に乗り込んだ。後ろめたさが増大する。そして、その直後、老人はごく自然な動作で私の「後ろ」に回ろうとした。がーん、となる。
〔略〕
「いえいえいえ、ど、どうぞ、次、乗ってください」
 私は慌てて口走る。老人の振る舞いに完全に圧倒されていた。それに、そもそも、そのひと自身が、杖が必要なほどの高齢なのだ。この状況で疲れていない筈がない。しかし、彼は自分よりも弱いものを思いやり、しかも、私に対しては当然のように「筋」を通そうとした。それに引き替え、私のあたまはお風呂のことで一杯だった。軽く会釈をして車に乗った老人を見送りながら、私は、負けた、と思っていた。
 この夜の出来事を振り返って、人間の立派さや素晴らしさについての自分の基準は、かなり普通というか昔ながらのものだということに気づく。

□(「タクシー乗り場にて」91-2.傍点省略)

 ↓ ザ・ベスト。


 先日、アンティークショップで、一枚のクリスマスカードを買った。
〔略〕
 その後、近くの喫茶店に入って珈琲を飲みながら、カードを取り出してゆっくりと眺める。改めてみると、それは使用済みで、裏側には万年筆の文字が記されていた。
 はしゃぎながら語りかけるような文面の結びは「暖かい、幸福なクリスマスを。ベティによろしくね」だ。薄れかけた消印をじっとみると、1904と読める。
 一〇一年前……、そう思った瞬間に、私は眩暈のような感覚に襲われた。
 このカードを贈ったひとも受け取ったひとも、もうこの世にいない。「よろしくね」と云われたベティも、もうこの世にいない。
 でも、生々しい手書きの文字と優しい言葉は、今、確かにここにある。私の手のなかにあるのだ。「いない」と「ある」のふたつが強烈に響き合って、私はくらくらしてしまう。

 一〇一年前の優しい気持ちは、いったいどこへいったのか。消えてしまった? いや、それは確かにここにある。でも、愛の挨拶を交わし合った彼ら自身は永遠に消えてしまった。

□(「ベティによろしく」168-9)

 共感の度合いが高かったです。他の本も読んでみたいです。


@研究室
[PR]

by no828 | 2012-02-16 15:53 | 人+本=体 | Comments(3)
2012年 02月 15日

同じ物を食べ、春一郎さんの体と私の体が同じ物からできていくのがうれしかった——小川糸『喋々喃々』

c0131823_14572669.jpg
22(492)小川糸『喋々喃々』ポプラ社(ポプラ文庫)、2011年。

※ 単行本は2009年に同社より刊行。文庫の表紙デザインの配色が好きです。

版元 → 




 新しくて状態もよいのに、まさかの105円でした。

 小川糸は『食堂かたつむり』(→ )に続いて2冊目です。本書『喋々喃々』〔「ちょうちょうなんなん」と読む〕は、いわゆる“谷根千”エリアが舞台の物語です。実在するお店も出てくるようです。このエリアに詳しい方が読むと一層愉しむことができるかと思います。

 主人公の栞は、このエリアで中古の着物屋さんを営んでいます。年齢は、20代半ばから後半であったと記憶しています。歳の離れた妹が主人公を(おそらく「しおりちゃん」と呼べなくて)「おしりちゃん」と呼んでいたのがかわいらしかったです。

 本書における書くことの選択(何を書くか)と描写の程度(どこまで描くか)に触れ、わたしは村上春樹が日常の細々とした具体を叙述するときの丁寧さを連想しました。ただ、小川の文体は村上よりも浮遊しています。

 また、「〜けれど」と「〜けど」の使い分けが気になるところがありました。地の文では「〜けれど」で、会話文では「〜けど」というふうに分けているのかなと思いながら読んでいましたが、たまに地の文で「〜けど」が出現し、違和を感じてしまいました。そもそも統一していなかったのかもしれません。

 ちなみに裏表紙によりますと、タイトルの「喋々喃々」は「男女が楽しげに小声で語り合うさま」の意だそうです。

(実は、簡潔に言いますと本書は「不倫」のお話です。この主題をこの文体で書いた、ということにわたしは戸惑いとともに感嘆を覚えました。なお、「不倫」は先日の山田詠美(→ )から続きます。)

 ↓ この感覚。正直、かなりどきっとしました。驚嘆の「どきっ」というよりも恐怖の「どきっ」です。


 こうして春一郎さんと同じ物を食べることで、少しずつ、春一郎さんの体と私の体が同じ物からできていくのがうれしかった。同じ細胞、同じ匂い。春一郎さんと重ねた食事が、年輪のように、私の体に刻まれていく。春一郎さんの体にも。
□(200)

 これは「教育」にも適用されますか? というわけで(少し書き換えつつ)代入してみました。


 こうして子どもに自分が学んだことと同じ内容を教えることで、少しずつ、子どもの考え方と私の考え方が同じ価値観からできていくのがうれしかった。同じ言語、同じ思想。子どもへと授けた教育が、年輪のように、私の考え方に改めて刻まれていく。子どもの考え方にも。


 少なくとも、「教育」に置換すると、怖いです。が、「教育」とは“本来”こういうものかとも思います。

 ↓ 著者小川糸も、あるいは普段から着物を着る人なのかなと思わせた箇所のひとつの例。


「きものって、結局糸がすべてですものね」
□(253)
 

@研究室
[PR]

by no828 | 2012-02-15 15:34 | 人+本=体 | Comments(0)