思索の森と空の群青

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2012年 04月 30日

環境によらず、自分を高めることが可能でしょう——森博嗣『数奇にして有限の良い終末を』

c0131823_14243972.jpg68(528)森博嗣『数奇にして有限の良い終末を I Say Essay Everyday』幻冬舎、2004年。

版元 →  文庫版の情報のみ。表紙デザインは同じです。画は萩尾望都、森博嗣が「天才」と呼ぶ人です。


 ウェブ日記の単行本化。2001年の日記です。この I Say Essay Everyday シリーズ(幻冬舎的には「天才・森助教授の行動と思考シリーズ」)は、これまでに『すべてがEになる』(→ )と『毎日は笑わない工学博士たち』(→ )を読みました。本書がシリーズ最後の作品です。これら2冊と本書とのあいだには、『封印サイトは詩的私的手記』と『ウェブ日記レプリカの使途』の2冊があるようですが、まだ入手していませんし、見掛けてもいません。探してみましょう。あいだを飛ばしますが、まぁよいでしょう。

「思ったことの半分も言えない」よりも「言ってることの半分も思ってない」の方が圧倒的多数。(31)

 研究室はこつこつ研究を重ねて、そのノウハウが世界をリードしていれば自ずと価値や力を持ってきます。こういう場合は、たとえ大学が独立法人化しても大丈夫でしょう(売るものがありますから)。これに対して、ただ文部省(もうありませんけれど)に予算を申請し、人(ポスト)を増やし、建物を増やす要求ばかりしているところは、結局のところ将来の自分の首を絞めることになる(組織や建物が新しくても、売るものがない)。〔略〕とにかく要求して増やすことばかり。それが勝ちだと考えている。そのために、無理な組織換えに頭を絞っている。仕事が増えて研究ができないので、売りものはどんどん減ります。(42)

 わたしの組織にあてはまりまくりです。少なくとも組織としては、研究は縮小再生産でしょう(個々の研究者に例外はいます)。もちろん、人文学・社会科学は即物的な「売るもの」「売りもの」はありません。論文を書く、本を出版するなど、きちんと研究実績を作っていくことが一層必要でしょう。ただ、この組織は出版社との関係をうまく形成しているとは言えません。院生・ポスドクに書く機会を与えるということもほとんどありません(この意味で、T京大学はうまいと思う)。では研究指導をしっかりしているかと言えば、そうでもありません。仕事を持っている人の仕事は仕事を持っていない人に仕事を作ることだと仕事を持っていない人の立場から思いますが、そういうことにはなっていません。当たり前ですが、自分で切り開くしかありません(再々々々〔略〕々々々確認)。ちなみに、「仕事を作る」とは「研究していない人をコネで就職させる」ということではありません。

〔略〕森は、思いついたアイデアを書き留めないことにしています。つまり、一度忘れた方が良い、という考えなのです。まあ、その方が成熟して本当に必要なときに出てくる、というわけで、創作ノートなどを一切使わないのも同じ理由。(83)

〔略〕M島君の博士論文の公聴会でした。この研究を既に20年ほど続けていますが、ちょっとエポックになる1編だったので、とても嬉しかったです。というのは、研究を築き上げるとき、自分はとにかく前進を望むもので、だいたい指導する学生たちも、その前進を共にする仲間なのです。ところが、M島君の研究は、森が築き上げた構造物の基礎を固めるような内容で、「どうも、この足許が弱いから、これ以上高く積めないのだな」と限界を感じていたところだったのです。そういう意味で非常に嬉しかったわけですが、しかし既に研究の最前線は若い彼らのものだ、と認識しました。清々しいです。(102)

 いろいろな人間とつき合わないと視野が狭くなる、といいますが、それは、いろいろな人間とつき合うこと(たいていは酒を飲むだけですが)でしか視野が広げられない人間だからです。〔略〕「井の中の蛙」といいますけど、それは「蛙」だからですよね。人間は、たとえ井戸の中にいても、いつでも大海を想像し、客観的な視野を持つことができます。環境によらず、自分を高めることが可能でしょう。(137)

 人は見たいように見る。聞きたいように聞く。しかし、言いたいようには言えない。(158)

ところが、研究という行為は、謎を追いかける仕事の最先端かと思いますが、問題などどこにも明確に提示されていない、そして答もありません。問題かどうかがわからず、まして、答があるかどうかもわかりません。そういう謎に慣れているせいか、人から問題を突きつけられ、しかも解答が待っているような状況には、どうも今ひとつ興奮できない、という人々が森の周囲には多い。(246)

本当のところ、ハードカバーの価値というのは、装丁にあると思います。つまりは、その本づくりに対する意気込みとかセンスの結晶を買うわけですね。これだけは自分のものにしたい、と思わせるブックデザインをしなくては、存在意義は非常に危ういと思うしだい。(259)

所得というのは、売上げから必要経費を引いたもので、何でも必要経費にしてしまえる人は所得を減らすことが可能。こういった真似ができないサラリーマンや労働者には消費税の方が有利。どうして共産党は消費税に反対なのだろうか。もともとは共産党を支持していたのですが、消費税の導入の頃から、わからなくなりました。(335)

〔略〕小説の持つ元来の曖昧な価値を論じる困難さを感じさせてくれることこそ、書評の価値でしょう。それは、学びたい者を手元へ導くことではなく、より学びたい姿、すなわち遠くを見る目を見せつけることこそが、教師の存在価値であることと類似しています。(361)

 自動車の需要を増やしたいのなら、自動車保険の制度をもう少し見直してほしいです。あれって、どうして自動車にかかるのでしょう? 運転手にかけてほしいですよね。つまり、自動車運転手保険も作ってほしいです。1人で一度に複数の車には乗れませんので、事故の確率は上がらないはずです。車両保険は別ですけれどね。(394)

〔911を受けて〕〔略〕無条件・無差別の行為であっても、つまり動機や原因を抜きにしても、起こりうる最大級の被害を最小限に食い止める安全技術を模索する必要があるし、悲しいけれど、それがエンジニアにできる唯一の反撃だろう。(424)

研究でもそうだけど、一番初めに、何をどう始めるのか、という最初の一歩が、実は一番大きな仕事なのです。あとはひたすら歩くだけ。二番目に大事なのは、どこで止まるか、です。(498)

 他人を信用しない人間ほど、何故か他人に期待する傾向が強い。(526)

「どうもうまくいかない」という仕事の95%は、「最初からやらなければ良かった」ものである。(575)

「やる気」の有無は重要ではない。問題は「やる」か「やらないか」〔ママ〕の違いである。(587)

つまり、言葉というのは、他人がいるからこそ、全部は出てこないものではないでしょうか。聞かれては困るから、飲み込んでしまうのです。(612)


@研究室
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by no828 | 2012-04-30 15:58 | 人+本=体 | Comments(2)
2012年 04月 29日

それだけにかえってまちがった考えを持つ心配のない男だ——サン=テグジュペリ『夜間飛行』

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67(527)サン=テグジュペリ『夜間飛行』堀口大學訳、新潮社(新潮文庫)、1956年。

版元 → 

原著の刊行は1931年、原題は Vol de Nuit 。彼の最初の作品「南方郵便機」を併録。


 須賀敦子の影響で読みました(→ )。夜のあいだに郵便機を飛ばせば荷物は早く着くと考えた男がおり、その男に雇われて雨の夜に郵便機を運転する男がおり、その男を大事に思う人がいるのです。

あいつは何にも考えない人間だが、それだけにかえってまちがった考えを持つ心配のない男だ」と、リヴィエールが言ったことがあった。(「夜間飛行」33)

あるとき、ある若い母親が、リヴィエールに告白したことがあった。「子供が死んだという事実は、あたしにはまだはっきり理解できません。辛いのはかえって、些細な事柄です。子供の着物が目についたり、夜半の目ざめに、心の中に湧き上がるあの愛情、この乳房同様、もはや役に立たないあの愛情です……」と。(「夜間飛行」103)


 時間を置いて読みなおすことがあるかもしれません。今回は須賀敦子ほどの感銘を受けませんでした。須賀が(たしか)子どもの頃に読んだ本であることに鑑みると、わたしが“もはや”感銘を受けることはないのかもしれないと思いながらも、“まだ”感銘を受ける状況にはないのかしれない、とも思います。本棚に入れておきましょう。


@研究室
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by no828 | 2012-04-29 16:13 | 人+本=体 | Comments(0)
2012年 04月 28日

典型的な1週間

 23日(月)小雨。出講日。午前中は研究室。お昼のTXで都内へ(N山おおたかの森駅で快速に乗り換え)。乗り継ぎを繰り返し西武池袋線E古田駅。学校へは都営大江戸線S江古田駅のほうが近いし、乗り継ぎも楽なのですが、S江古田駅前は“休憩場所”がとくにありません。そういうわけでE古田駅前のMクドナルドで昼食兼読書20分ほど。学校まで歩くと暑いです。蒸します。講義開始15分前には着くようにしていますが、蒸し暑さはなかなか収まらず。90分講義。教室はもはや暑かったです。終了後は直帰。研究室には寄らずにアパートへ。明日の講義の準備も午前中に終わらせてきました。

 24日(火)晴れ。出講日。今日は短大で講義。研究室には寄らずに駅へ直行。11時頃のTX区間快速。N山おおたかの森、K日部、T木。駅からは短大のワゴン車、の予定が、来ません。が、これは十分すぎるほどに想定していたことでした。というか、たぶん来ないな、と思っていました。5分待って短大に電話。担当者に「聞いていない」と言われ(これも想定の範囲内)、「先週手続きをしました」とお応えし(冷静ここに極まれり)、「では、今から行きますから待っていてください」、「はい」。無事にワゴン車で短大へ。事務の方にスリッパを出してもらいました。実は、この短大は校舎内上履き。それを知らずに先週は土足で入ってしまってすみません(教えてくれないのが悪い、とも少し思う)。先週、女子学生がみんな同じ白いサンダルのようなものを履いていたのに2コマ目の途中で気付きました。講師の名前入りの下駄箱があり、上履きは自分で用意しなければならないようですが、スリッパでもよいかなと思います。今週ももちろん2コマ。2コマ目、先週に続いて最前列にひとりで座る女子学生は、授業中ほぼ無反応なのに最前列に攻めてきてわたしの使うチョークの粉(が飛んでくるようなのです)をときどき払ったりしています。気にしないようにしていますが、「後ろに座れば」と言いたくなります。言いにくいですが。

 25日(水)天気を覚えていません。午前中に自分の研究。午後から読書会。そして勉強会。勉強会とは言っても実質は“後輩の指導”であり、後輩も指導をいただくという姿勢です。対等に議論するという勉強会ではありません。わたしは“指導”に不熱心でして、そういう“指導”中心の勉強会のわたしにとっての意義をあまり認めていませんが、現在の立場上、せざるをえないところがあります。違和感が増してきたら、抜けようと思っています。しばらくは続けてみますが。

 26日(木)くもり、少し雨。午前中から夕方前まで自分の研究。途中、博士特別研究員の出勤簿に押印。夕方から明日の講義の準備。講義の前にあまり焦らなくなってきたというか、緊張しなくなってきたと思います。慣れ、でしょうか。火曜の短大の講義は教職科目なので教員志望の学生がほとんどです。「緊張せずに人前で話すにはどうしたらいいですか?先生はすごく落ち着いていたので」のようなことを質問用紙に書いてきた女子学生がいました。落ち着いている自覚はありませんし、緊張が悪いことだとも思いませんが、結局は場数を踏むしかないかもしれません。

 27日(金)雨。出講日。看護学校です。5時30分に自然起床。起き出してシャワーを浴びて準備して移動。学校近くのMクドナルドで1時間弱勉強(田舎のせいか、お店に立ち寄るのはリタイアされたと思しき人が多かったです。友だちと一緒に朝食かな、という様子でした)。1限から初回講義。対象は1年生71名です。横長の教室です。相変わらず見渡すのが大変です。担当が「英語」なので、英語で授業をはじめてみました。みんなぽかーんとしていたので数分で日本語にしました。わたしの場合、英語をしゃべると多少気持ちが上がります。理由はよくわかりません。月曜、とくに火曜の講義と比べて、“明るい”講義になっているなと自己認識しました。この“明るさ”の欠如が、火曜の学生を恐縮させているのでしょうか。よくわかりませんが、無理に演出することはしないでおこうと思います。

 たぶん、以上が前期の典型的な1週間になるでしょう。研究時間が減っている(代わりに講義をしてお金をいただいて生活をしていく)ことは自覚していますので、土日祝日も研究室に来る割合が一層増えるでしょう。今日も6時自然起床、研究室に来ています。休みの日は研究室界隈が静かでよいです。午前中に非学術書(ベッドに寝転びながら)と学術書(これは研究室で)、1冊ずつ読めました。


@研究室
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by no828 | 2012-04-28 15:26 | 日日 | Comments(0)
2012年 04月 27日

男というのは、悲しんでいるところを他人には見られたくないものなのだ——アボット『図書館長の休暇』

c0131823_1448578.jpg66(526)ジェフ・アボット『図書館長の休暇』佐藤耕士訳、早川書房(ミステリアス・プレス文庫)、1999年。

版元 → なぜか情報なし
原著は1996年に刊行、原題は Distant Blood


 最後まで行ってしまいましょう。『図書館の死体』(→ )、『図書館の美女』(→ )、『図書館の親子』(→ )と続くこの作品シリーズには、実は「家族」が通奏低音として流れています。本書の原題も、そういう意味合いが含まれています。

 引用は以下の1箇所です。しかも、強いて、です。

「ぼくのことなら気づかいは無用です。だいじょうぶですから。みんなのほうこそ、きっとショックだったでしょう」
「なに、どうせこの家族はもっとひどいことを経験してきたんだ。それに死んでいく男が、自分が死ぬことやほかの人間が死ぬことを考えてひとり暗がりに座っているのは、あまり健康なことじゃない。さあ、座って一緒にブランデーを飲〔や〕らないか?」
「それじゃ、いただきます」コーヒーテーブルの向かいにある座り心地のいい読書椅子に、ぼくは座った。マットは横にあるホーム・バーのカウンターでさっそく用意すると、戻ってきてぼくに、なみなみと注がれたブランデーグラスを手渡した。そのときマットは、かすかに顔をそむけた。目もとが赤く腫れあがっている。ぼくはそれを見て目をそらしたし、マットを抱擁する気もなかった。男というのは、悲しんでいるところを他人には見られたくないものなのだ。
(145)

 わからなくもない。しかし、父方の祖父が死んで(わたしが高校1年のとき)、斎場に行ったとき、父方の叔父が奥さん(わたしからすれば義理の叔母)の手をぎゅっと握っていたのを見て、わたしの父は絶対そういうことはしないだろうなあということもあって、こういう悲しみ方もあるなあ、と思った記憶があります。


@研究室
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by no828 | 2012-04-27 15:05 | 人+本=体 | Comments(0)
2012年 04月 26日

彼女のやさしさに対して、人生はいつもやさしさを返してくれたわけじゃない——アボット『図書館の親子』

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65(525)ジェフ・アボット『図書館の親子』佐藤耕士訳、早川書房(ミステリアス・プレス文庫)、1998年。

版元 → 

原著の刊行は1996年、原題は Promises of Home


 連続で行きましょう。『図書館の死体』(→ )、『図書館の美女』(→ )に続く3作目です。

「それともうひとつ。今日はあたしもここにいて、あなたたちの力になってあげるわ。いいでしょ?」
 ぼくは感謝の気持ちをキスで伝えたいくらいだったが、クローがいやがるだろうと思って、やめにした。クローは心根のやさしい女性だけれど、ほとんどだれに対しても腕の長さ分ほどの距離を保っている。彼女のやさしさに対して、人生はいつもやさしさを返してくれたわけじゃないからだ。
(168)

 うーむ、そうなのか、と思って少し立ち止まったところです。

戻ってなにをする? おまえがいくら苦労してすばらしい学位を手に入れたって、このミラボーでなんの役に立つっていうんだ。あのいかれたビッド叔父さんのところで弁護士でもやるか? おまえはあんな男には耐えられないはずだ。それとも町長にでもなるか? いいや、おまえは政治家タイプじゃない。学校で教師をやるか? 学生時代の借金をきれいさっぱり返せるほど余裕のある給料はもらえっこない。いっそのこと、〈一服亭〉でドクター・ペッパー・フロートでも作るか?」トレイの声は、次第に棘々しくなっていった。
「どうしてそんな話をするんだ」
おまえには、おれたちの頭の悪い友だちみたいに、ミラボーが世界の中心だなんて思ってほしくないのさ。おまえには、おまえの持ってる可能性を無駄に費やしてもらいたくないんだ
「ぼくは戻りたくなったら戻ってくる。そして、住みたくなったら、ここに住む」ぼくはそういって立ちあがったが、風が勢いよく吹きつけ、足もとがふらつくような気がした。トレイの身体の輪郭は、暗闇のなかでぼんやりとしか見えない。「どうしてそんなくだらない説教なんかするんだよ」ぼくは大声でいった。
「それはな、おれがやりたいと思ってることを、おまえは全部実現してくれるからさ。それに、兄弟のいないおれにとっちゃ、おまえは弟みたいなもんなんだ」
(261-2)

 成人式で地元に戻ったとき、中学のときの同級生は「みんな戻ってくればいいんだ」と言いました。その同級生は、高校も地元の学校に通って、そのときも地元にいました。それを聞いて“戻ったほうがよいのかな、地元で地元の人と地元のために働いたほうがよいのかな”と思って、それから一時期悩みましたが、結局戻りたいとは思えませんでした。「おまえには、おまえの持ってる可能性を無駄に費やしてもらいたくないんだ」と言ってくれる友人がいたら、また少し考え方も、というか考え方の形成のされ方も違っていたかもしれません。それを言われなかったのは、ただ単に他者が「可能性」と認めるものがわたしになかっただけかもしれませんが。


@研究室

 
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by no828 | 2012-04-26 13:24 | 人+本=体 | Comments(0)
2012年 04月 25日

ぼくは、よそからミラボーに来た人々のことをあまりよくは思わない——ジェフ・アボット『図書館の美女』

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64(524)ジェフ・アボット『図書館の美女』佐藤耕士訳、早川書房(ミステリアス・プレス文庫)、1998年。

版元 → 

原著の刊行は1995年、原題は The Only Good Yankee


 『図書館の死体』(→ )に続くシリーズ2作目。アメリカの北部から「ヤンキー」が南部を「開発」しにやってきた、という話です。世界の「北」と「南」の議論にもあてはめながら読みました。

「エルナンデスさん、基本的にぼくは、よそからミラボーに来た人々のことを、あまりよくは思わないことにしているんです。ぼくらから土地を買おうとする人々も、それを売らないようにと説得する人々も。それにぼくらのことを、こいつらは間抜けで自分じゃなにも考えられない、なにをしたらいいか人に教わらないとなんにもできない田舎者だと思う人々も(41)

「必要ないわ! こんな開発なら!」トゥワイラが横から割って入った。「ビッドウェル、わたしだって開発そのものが悪いことだとはかならずしも思わないけど、開発の進め方については町のみんなが管理できるようにしたいのよ。だって、どこの馬の骨かもわからないような人間に土地を売って、土地も川もめちゃめちゃにされたらいやでしょう」(97-8)


 “内発を謳った外発”ということをよく考えます。“みなさん、大事なのは内発です”と言って外から入り込んでいく開発のありようです。“内発であればよい”というとき、それを言うのは誰か、ということも一緒に問われるべきでしょう。外発がすべて悪いとは思いませんけれど。

「魅力なんてのは移ろいやすい売り物だよ。背丈はそうじゃない」(69)

べつに白人と黒人が特別なかよくしなくちゃいけないとも思ってなかったし、マイケル・アディは友だちでもなんでもなかったけれど、そのとき、こう思ったことだけはたしかだった。もし父さんが、同級生がいじめられているのにぼくがなにもしないで突っ立っていたと知ったら、さぞがっかりしてぼくのことを怒っただろう。それまでの経験からすると、それは確実にありうることだった。(80)


「たぶん? 愛にたぶんはないわ。愛しているか愛してないか、それだけよ(74)

信頼と愛はちがうと思うわ。でも、信頼は愛の基本よ。男にはそれがどうしてもわからないみたいだけど」(340)

「あなたってほんと、救いようがないわね」キャンディスは首を振った。「愛はするものじゃないわ。お昼を食べたりテストでいい点を取ったりするのとはわけがちがうの。ただ愛せばいいのよ。ちがいがわからない?」(342-3)


 「愛(love)」は覚悟だと目下のところ考えていますが、本当のところ(← 傍点を打ちたい)はよくわからないものかもしれない、とも思っています。解釈学的に、実際に「愛」に付与されてきた意味を取り出してくるのもひとつの方法で、このブログでしていることもそういうことですが、いまのところ納得には至っていませんし、解釈学は納得を目指すものではないのかもしれないとも思います。


@研究室
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by no828 | 2012-04-25 18:18 | 人+本=体 | Comments(2)
2012年 04月 22日

そのことがいつか彼女に、ただの美人よりもはるかにプラスに働いてくるはずだ——アボット『図書館の死体』

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63(523)ジェフ・アボット『図書館の死体』佐藤耕士訳、早川書房(ミステリアス・プレス文庫)、1997年。

版元 → 

※ 原著の刊行は1994年。原題は Do unto Others


 タイトルに「図書館」と入っていたから、が読んだ理由です。実際、主人公のジョーダン(ジョーディ)がテキサスのミラボーという町の若き図書館長という設定です(32歳くらいかな? ちなみに彼の幼なじみのジューンバッグは警察署長です)。ジョーダンは大学を出てからボストンの教科書の出版社で働いていましたが、地元へ戻ってきたという経緯があります。

 『図書館戦争』(→ )や『図書館内乱』(→ )のような、図書館や書物へのコミットメントを期待していましたが、つまり図書館や本についての描写や認識が展開されているのかなと思って読みはじめましたが、そこはあまり……。しかし、物語としておもしろかったです。この作品はシリーズ化されていて、わたしの手元には第4弾までありますが、どうやら4作で終わりのようです。

 なお、本作品はアガサ賞とマカヴィティ賞(最優秀処女長篇賞)を受賞しました(読んでから知りました)。

「きみはいったいだれを疑ってるんだ? バットで人を殴り殺すなんて、よほどの冷血人間でもなければ、やれるはずがないじゃないか」
 するとジューンバッグは、訳知り顔でにやりと笑った。
心の冷たい人間はけっこういるもんなんだ。外からは見えないだけさ
 それ自体はぼくにも思い当たらないことはなかったので、反論はしなかった。
(65)

 ぼくはコーヒーを飲み終えた。たしかにチェルシー・ハットは、不細工かもしれない。けれども自分をしっかり持っている。そのことがいつか彼女に、ただの美人よりもはるかにプラスに働いてくるはずだ。(213)

 性別関係なく、そうだと思います。


@研究室
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by no828 | 2012-04-22 15:08 | 人+本=体 | Comments(0)
2012年 04月 21日

自分の限界を知っていながら愛されたいと望むのは他人をサギにかけるようなものだ——三田誠広『高校時代』

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62(522)三田誠広『高校時代』角川書店(角川文庫)、1980年。

版元 → ウェブ情報なし

※ 本作品は1978年4月から1979年3月まで「僕はどこへ行く」というタイトルで旺文社刊『螢雪時代』に掲載された。


 先日紹介しました『高校紛争』(→ )に挙げられていた小説です。著者三田の自伝的小説です。三田作品は以前、『いちご同盟』を紹介したことがあります(→ )。

 「高校紛争」に身を投じた若者が求めていたもの、それは“興奮”であったのかなあと思いました。主人公・真〔まこと〕は、そういう“興奮”から身を遠ざけ、自己への沈潜を欲するようになります。

 真はそうしてある決意をするわけですが、そのくだりを読んだとき、“決意をしないとできないこと”と“決意をしなくてもできること”との違いを思いました。前者のほうが“すばらしい”と思われがちですが、実は後者のほうが“すごい”ことなのではないか、とか。あるいはまた前者の場合、ややもすると“決意すること”それ自体に執着してしまうのではないか、とか。それは「高校紛争」の当事者であった高校生の、その一部の態度であったりもしたのではないか、と思ったのでした。

 夢と現実の区別を知っているからこそ、真は自分の将来に、何の希望ももてない。どのようにあがいたとこで、しょせんは平凡な、何の変化も面白味もない人生を送るしかない。
 小説など、読まなければよかったのだ。なまじドラマチックな世界の興奮を知ってしまったから、平凡な日常が耐えがたくなる。それにしても、いったい人間は、何のために生きているのだろうか。
(5)

「うん。まァ、一つの論理を提出すればええわけやな。例えば、教育ということをテーマに据えると、こういう言い方ができる。教育いうもんは、本来、人間真理にめざめさせるもんや。ところが、現実の教育いうのんは、反対にわれわれを真理から遠ざけ、国家や資本家の都合のええように飼いならしてしまうことに目的がおかれてるんやな。資本家が働け言うたら、一生けんめい働く。国家がやったらあかんと言うたらぜったいやれへん。戦争せえ言うたら戦争しにいく。そういうロボットみたいな“イエスマン”を育てるために、教育というのをやってるわけや。そやから、人間というのは何やろ、とか、国家はいかにあるべきか、なんていうことは学生に考えさせんようにして、そんなことを考えるひまもないくらいにつめこみ教育を押しつけて、○×式の知識ばっかりはもってるけど、自分で何かを考えていくことはでけへん人間をつくろうとする(35)

 自分というものの限界を知っていながら、愛されたいと望むというのは、言わば他人をサギにかけようとしているようなものだ。そんなかたちで愛されたとしても、とても喜ぶ気持ちにはなれないだろう。(138)

 受験というのは、要するに、他人を蹴おとして、自分だけが幸福になろうという、エゴイズムに根ざしている。そんなちっぽけなエゴイズムに執着して、がむしゃらに受験勉強に励むことが、ベトナムという一つの現実と照らしあわせてみると、ひどくみにくいものに感じられる。
 しかし、そう思う一方では、こんなことに時間をさいていては、受験レースからとりのこされてしまうというおそれも、うちけすことができない。自分が落ちこぼれになってしまうというのは、まさに恐怖だった。
(140)

「君のような革命家は、もちろん、人々の中をわたり歩いていかんと、仕事がでけへんわけやけどな。しかし、屋根裏の哲学者みたいな人間がひとりくらいおってもええやないか」
「しかし、その哲学を、どうやって他者にひろめるんや」
べつに他者にひろめる必要はないんや。自分ひとりで考えているだけでもええ
それやったら君は、何のために生きてるんや
「何のために——?」
ふと、真は、言いよどんだ。いったい自分は、何のために生きているのだろう……。
「何かのために生きなあかんということもないやろう。しいて言うなら、自分自身のためや」
「ふん、それは結局、小市民的なエゴイズムやないか」
(154)



@研究室
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by no828 | 2012-04-21 15:28 | 人+本=体 | Comments(0)
2012年 04月 20日

通勤疲労

 今週から非常勤の講義がはじまりました。前期は以下のような予定です。

 月曜午後「生命倫理」1コマ@看護学校(N野区、T京都)
 火曜午後「教育原理」2コマ@短大(T木市、T木県)
 金曜午前「英語」1コマ@看護学校(A見町、I城県)ここは来週から

 「生命倫理」と「英語」は引き続き受け持ちます。前者は3年目、後者は2年目です。「教育原理」は今年度からです。同じ内容を2学科の学生に別々に講じます。いずれも教育学科の学生ではありませんが、いずれも中学校教諭2種免許状の取得を目指す学生です。女子のほうが多く、養護教諭を目指す人も結構いました。なかには1種を狙って4大への編入も視野に入れている学生もいるかもしれません。

 T木は、とりあえず遠いことがわかりました。片道2時間以上かかります。行きは10時30分に出発(11時頃発の TX)、帰りは21時頃(21時30分頃着のTX)になりました。午後の2コマとはいえ、丸1日仕事です。駅から短大へは、また、短大から駅へは、短大側の用意した送迎車が走ります。出発時刻はすでに定められており、講義の時間に都合のよいものを選んで乗ることができます(ということを事前に教えてもらえなかったので、初回の行きは自腹バス)。
 
 わたしの講義は基本的に教科書は使いません。必要な資料は自分で用意して配布します。T木の場合もシラバスでそのように指示したのですが、なぜか前年度までの教科書が指定されていました。「教員室」(という非常勤講師の控室・大部屋)に行ったら、わたしの場所にその教科書が置いてありました。また、講義のさいに学生に訊いたところ、すでに購入した人が結構いました。「教育原理」なのに「教育制度」や「生徒指導」や「教育方法」などにも触れられた幅広い内容の教科書ですが、こうなると使わざるをえません(というわけで、この短大事務への期待値をさらに下げました。そういえば、こちらから訊くまで給与も教えてもらえませんでした)。

 1コマ目は20人くらい、2コマ目は35人くらいです。学生にグループになってもらって模擬授業をさせるのもよいなと思いました。教員志望の学生ですからね。たとえば教育思想などの抽象度の高い部分はわたしが担当し(自分なりに整理したいから)、「教育制度」などの具体的な部分は学生に授業を展開させてもおもしろそうです(自分なりに……)。

 授業の構成については、T木の短大に限らず他の看護学校においても、毎回本を読ませる時間を設定しようと考えています。10分か15分です。理由は、昨年度までの実感として、本を読まない学生が多いから、また、日本語の文章を読解できない学生が多いから、また、思考が短絡的である学生も目についたから、です。本を読まない“から”日本語が読めず、“かつ”、思考が短絡的になりやすい、のかどうかはわかりませんが、本読みの不足にも要因はあるような気がします(個人的経験則)。ルールとして、教科書・漫画・絵本は禁止、それ以外であれば授業に関係なくてよい(むしろ直接的に関係しないほうがよい)、というものです。小説や評論、詩などを例示しました。前期の終わりに、どういう本を読み、どういうところに線を引いたのかを報告してもらうつもりです。授業のなかではおそらく無理なので、たぶん紙で出してもらうことになります。ちなみに「英語」でも、日本語の本を読ませます。学生は“英語をかっこよく話したい!”という願望を持っていますが、まずは日本語です。あるいは母語が日本語ではない学生もいるかもしれませんが、今回は日本語で統一するつもりです。

 今週は水曜にもT京で勉強会があったため、3日連続の TX となりました。講義も勉強会も意義のある経験ですが、正直、移動が疲れます。常勤職に就いたら、職場から近いところに住もうと思いました。「先生、あそこのスーパーでカップ・ラーメン買ってたでしょ」と言われても、よいのです。


@研究室
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by no828 | 2012-04-20 16:42 | 日日 | Comments(2)
2012年 04月 16日

生死は自然の現象である。理屈ですべてわかるというわけにはいかない——養老孟司『解剖学教室へようこそ』

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61(521)養老孟司『解剖学教室へようこそ』筑摩書房(ちくま文庫)、2005年。

版元 

※ 本書は、1993年に同書房よりちくまプリマーブックスとして刊行。


 信頼できる知性。「わからないことがある」と言える学者をわたしを信頼します。
 
 そういうわからないもの、人が作ったわけではないもの、それを自然という。人のからだは、自然である。だから、からだは、根本的には理解できないものに属する。車なら、作る人に、ある「つもり」があって作っている。ちゃんと動かなくてはならない。すぐ故障しては困る。走る機械なのだから、それなりにさまざまな装置が必要だ。
 からだのほうは、そこがはっきりしていない。なんのためか。まずそれがわからない。車なら走るためだが、人のからだは、なんのためにあるのか。いくらでも説明はできるが、その説明に終りはない。どの説明も不十分である。こう言われると、困ってしまうであろう。えらい人にきいたら、なんでもわかっているんじゃないか。そうはいかない。どんなえらい人でも、よくわからないところが必ずあるもの、それが自然なのである。人のからだは、その自然である。
 生死は自然の現象である。だから、それは、理屈ですべてわかるというわけにはいかない。
(51)

 人は死んだら、モノか。それは違うと言った。なぜか。
 モノだと思えば、生きているうちから、モノである。なぜなら、そもそも場所をとる。体重がある。だれかにぶつかると、壁にぶつかったのと同じで、通りぬけるわけにはいかない。こういうことはすべて、モノすなわち物体の特徴である。それなら人は、生きているときから、物体としての性質を持っている。死んだ後も、その性質にはまったく変わりがない。それだけのことである。死んだから、急にモノになった。そういうわけではない。
(52)

 だから、「頭」という名をつけると、そこで「境」ができてしまうのである。「境ができる」ということは、いままで「切れていなかった」ものが「切れる」ということである。〔略〕からだは自然にできたのではないか。だから、言ったでしょう。自然に起こることは、たとえ生死であっても、その境は、簡単には決められませんよ、と。
 それを簡単に「切ってしまう」のは、だれか。「ことば」である。名前である。ことばができると、つながっているものが切れてしまう。ことばには、そういう性質がある。
(60)

 だから、人間の作った機械を、なにか人間とは特に違ったものと考える必要はない。人間とは違ったものだ、という気がするのはたしかだが、それは君たちが、たとえば切り取った手を一本置いてある、そういうものを見たことがないからである。自分の手を切りと〔ママ〕って、それを机のうえに置いておく。それが「自分の一部」だと、思えるだろうか。もともと自分の一部だったのに、そうして置いてあるとすると、自分の一部とは思えない。でもそれは、じつは「そう思えない」だけのことなのである。手であれば、切り取ってすぐなら、もとにもどすことができる。そうすれば、また自分の一部になるのである。(194)

 
 ちなみに(何にちなんでいるのかよくわかりませんが)、『ターヘル・アナトミア』というタイトルの本はないそうです。「ターヘル」はオランダ語・ドイツ語、英語の「テーブル」、すなわち表、図表。「アナトミア」はラテン語で「解剖」。この2つを杉田玄白らがくっつけた、いわば通称のようなものらしいです。
つまり、玄白の時代には、すでに西洋の学問を取り入れることができるだけの用意が、江戸の社会にできていたのである。五十年前であれば、そんな西洋の学問など、とんでもない。そう言われてしまったかもしれない。それだけではない。そういうことを言う社会には、そもそも玄白のような人は、生まれなかったのである。(102)



@研究室
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by no828 | 2012-04-16 11:55 | 人+本=体 | Comments(0)