思索の森と空の群青

onmymind.exblog.jp
ブログトップ

<   2012年 06月 ( 14 )   > この月の画像一覧


2012年 06月 29日

なんてったって、親切でなきゃいけないよ——ヴォネガット『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』

c0131823_14454259.jpg99(559)カート・ヴォネガット・ジュニア『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』浅倉久志訳、早川書房(ハヤカワ文庫SF)、1982年。

版元 → 

原著は1965年、God Bless You, Mr. Rosewater


 ぶっとんだ小説ですが、現実への洞察(突き詰められたひとつの認識)が間違いなく埋め込まれています。その洞察を素直に書くことに照れて、あえて小説にしたのかな、ヴォネガットという人が小説(という方法)を選んだのはそのためかな、という気もします。

「おれは神様に一度きいてみたいと思ってるんだ。この下界じゃとうとうわからずじまいだったことを」
「というと、どんなこと?」
〔略〕
いったいぜんたい、人間はなんのためにいるんだろう?
(32)

「いずれそのうちに、ほとんどすべての男女が、品物や食糧やサービスやもっと多くの機械の生産者としても、また、経済学や工学や医学の分野の実用的なアイデア源としても、価値を失うときがやってくる。だから——もしわれわれが、人間を人間だから大切にするという理由と方法を見つけられなければ、そこで、これまでにもたびたび提案されてきたように、彼らを抹殺したほうがいい、ということになるんです(288.傍点省略)


 すべての人間のユートピアを目ざして誕生したアメリカ合衆国がまだ百歳を迎えないうちに、ノア・ローズウォーターとその同類は、建国の父祖がある一点で愚行を犯したことを実証してみせた。残念ながら、これらのごく新しい先祖たちは、ユートピアの法律を作るとき、市民各自の富に制限を設けることを忘れたのだ。(17)

もうペコペコしたりはせんぞ! たしかにおれたちは貧乏だ! いいじゃないか、貧乏で! ここはアメリカなんだ! そしてアメリカは、このみじめな世界の中で、貧乏人が胸を張って歩けるただ一つの国なんだ! アメリカでは、こういう質問だけが大切なんだ。「この男はよい市民か? 正直か? 自分の役目をちゃんと果たしているか?」(227-8)

「貧乏人の中で働いていれば、だれだってときにはカール・マルクスにかぶれずにはいられませんよ——それでなければ、いっそ聖書にかぶれるかだ。ぼくはそう思うんですが、この国の人たちが平等に物を分けあわないのは恐ろしいことです。こっちの赤ん坊は、このぼくがそうでしたが、広大な地所を持って生まれてくるのに、あっちの赤ん坊はなんにも持たずに生まれてくる——そんなことを許しておく政府は、不人情な政府です。ぼくにいわせれば、いやしくも政府と名がつく以上、せめて赤ん坊にだけは公平に物を分配してやるべきです(137)

こんにちは、赤ちゃん。地球へようこそ。この星は夏は暑くて、冬は寒い。この星はまんまるくて、濡れていて、人でいっぱいだ。なあ、赤ちゃん、きみたちがこの星で暮らせるのは、長く見積もっても、せいぜい百年ぐらいさ。ただ、ぼくの知っている規則が一つだけあるんだ、いいかい——
 なんてったって、親切でなきゃいけないよ
(146)


「もしエリオットが、あらゆる人間を、相手が何者だろうと、相手がなにをしていようとおかまいなく愛するつもりなら、われわれのように特定の人間を特定の理由で愛するものは、新しくそれ専用の言葉を見つけなくちゃなるまい」〔略〕「たとえばだな——わしは家内を、いつもうちへくる屑屋よりも深く愛していた。だが、それだと、わしは現代の最もいまわしい犯罪に問われることになるんだ——サベツイシキというものにな」(101-2)


 そもそも、というところへときどき戻って思考することの大切さ、ということを改めて思いました。


@研究室
[PR]

by no828 | 2012-06-29 15:14 | 人+本=体 | Comments(0)
2012年 06月 28日

ホーネン! ホーネン!——みうらじゅん『色即ぜねれいしょん』

c0131823_15523399.jpg98(558)みうらじゅん『色即ぜねれいしょん』光文社(光文社文庫)、2007年。

版元 → 

単行本は2004年に同社より刊行。


 私立仏教系男子校に通う高校1年生のいわゆる“青春”。映画化もされました(→ 

 たしかに、読み手においても映像化しやすい物語というか、文章でした。しかし、小説において読み手が映像化しやすいことは果たしてよい小説であることを意味するのか、ということも考えます。どうなのでしょう? とくに具体的な考えを持っているわけではありません。疑問だけです。

 この書籍の発売当初、“読んでみたいな”と思ったことは憶えています。引用はありません。こういうときは、第1文を見るのがよいのかなと思います。第1文はこれでした。

「ホーネン! ホーネン!」


 以上です。


@研究室
[PR]

by no828 | 2012-06-28 16:04 | 人+本=体 | Comments(0)
2012年 06月 23日

大会後記というか顛末記というか

c0131823_16431011.jpg6月14日(木)
 発表原稿を書きはじめる(遅い)。18時頃、寒気、悪寒がする。ぶるぶる。震えを抑えながら、なお書く。肉体も所々痛い。結論をどうするかを、ぼぉーっとした脳で思考する。よくないなあと思うも仕方がない。21時30分頃、原稿=配布資料を完成(自発的に)。印刷。コピー30部。コピーを待つあいだ、ふらふらで立っていられないので印刷室の椅子に座る。文字どおり“がんばって”帰り、途中のドラッグストアで風邪薬とPカリスエット。体温計は37.8℃。身体の調子が悪いときでもなかなか発熱しないので少し焦る。少しだけ食べて薬を服用して、その日のうちに何とか寝る。


6月15日(金)
 7時に起きる。肉体の痛みはないなどだいぶましになったが、まだ少しぼぉーっとする。シャワー。朝食、薬。看護学校へ向かう。9時から10時30分まで講義。アパートへ戻ってF岡へ行く準備をする。昼食、薬。徒歩で駅へ。外は暑いし、荷物は重いし。汗だらだら(この日はそこまで気温が高くなく、看護学校の学生からは「質問用紙」に「先生、半袖で寒くないんですか?」と書かれた。私は熱いのだ)。

 A葉原、H松町、H田空港第2ターミナル。16時30分発ANA263便F岡空港行。

 18時15分F岡空港着。雨。着陸に向けて高度を下げていくさいに揺れまくる。CAのみなさんも機長命令で着席。それでも無事に(と言うべきであろう)着陸。到着ロビーは南国独特と言うべきか、むわっとしている。嗅覚を刺激する暑さ。バングラデシュに着いたときを思い出した。


c0131823_1644968.jpg 地下鉄でH多駅へ。すぐに(2駅で)着いたので驚く。え、こんなに近いの?「東比恵」を「恵比寿」と見間違えたりもする(熱のせい、だと思う)。

 駅から徒歩7分のホテルへチェックイン。シャツをホテルのコインランドリーで洗おうかと思ったが、ランドリーがいまいち。近くの(都会って便利ですね)Uニクロでオクスフォードシャツ1枚。コンビニで食糧(今夜分と明日の朝食分)とPカリ。H多ラーメンとかもつ鍋とか、今夜は我慢。部屋でシャワーを浴びてとりあえず食べて薬。すぐに横になる。最低でも明日の自分の研究発表までは無事でいなくては……。


6月16日(土)
 7時起床。わたしの個人研究発表の日。相変わらず雨。しかも強い雨。シャワー、朝食、薬。徒歩でH多駅へ。8時30分頃のバスに乗車(ターミナルが2つあって困った)。大会参加者でごった返すと思ったバスはがらがらで逆に不安になる。Q大北門で下車。わたしひとり。むむむ。とりあえず受付へ行き、会員控室に移動する。S藤先生、Y原さんに偶然お会いする。Y原さんといきなり研究の本題に突き刺さるお話をする。このまま議論し続けたほうが有意義なのでは? という考えも脳裏をよぎったが、まじめに部会の部屋へ(こういうところがまだ制度に囚われているな、わたしは)。部会中、ごぉーんという音が響くので階上で何かしているのか地震なのか何なのかと思ったが、上空を飛行機が飛んでいたのでした。そういえば、空港が近かった(当たり前ですが、このごぉーんは期間中ずっと続いていました)。11時30分から12時30分までお昼休憩。弁当を買う(明日の予約チケットも買う)。400円。S口と控室で食す。早めに食べおえてそれぞれの部会の会場へ。


c0131823_16442496.jpg わたしは今回はじめて「理論・思想・歴史」部会に回される(いつもは「開発と教育」)。司会の先生にご挨拶してレジュメをお渡しする。わたしは1人目の発表。「開発」系の方々がわざわざ部会へ聴きに来てくださったのに感謝。質問をくださったのにも感謝(M山さんにはここのところ毎大会質問をいただいている。ありがたい)。ただ、わたしは理論の話をしているのに“「現場」はそうじゃない”というふうに“批判”されるのはちょっと困ります(M山さんではなく)。わたしは「事実」を説明したいのではない。だから「現場」とずれて当たり前です。あと、「現場」という言葉は金科玉条ではありません。研究者であれば誰にでも、それぞれの「現場」があります。“途上国へ行って汗水たらして泥々になって調べてきた”という方法にわたしは敬意を抱いていますが(本当に)、“おまえはそれをやっていないし、何もわかっていない”というのは違います。そうしたらわたしも“あなたも理論のこと何もわかっていないでしょう”と反対給付的に言い返したくなります(無益だから言わないけれど)。とか何とかがわたしの内面にうずまきながらも、20分発表+10分質疑を何とか。ほっ。


c0131823_172417.jpg しかし、3人目の発表者がドタキャン(というか、無断欠席)で、司会のI井先生が「では、繰り上げはせずに30分休憩にしましょう」とおっしゃったのに、重鎮の先生が「先の2人の発表について議論しましょう」と言い出し、わたしともうひとり、およそ15分ずつのさらなる質疑応答へ(しかも言い出したその先生はわたしがはじまってすぐに席を立ってどこかへ行ってしまった。失礼ながら「おいおい」と思った)。I井先生はわたしの発表を内在的にご理解いただいたうえでコメント・質問をしてくださり、とてもうれしかった。

 そのあと課題研究、総会(来年の開催校はJ智大学、世界大会はブエノスアイレス、どちらも行きたいが、後者はお金次第)、懇親会。Q州大学のお酒もいただく。しかし、と言うべきか何と言うべきか、懇親会に最後まで居残っていたために、6月30日(土)の某研究会で発表することに(ドタキャン(?)の代打です)。むむ。2次会には行かず、ホテルへ(体調はたぶん大丈夫ですが、一応)。


c0131823_16454739.jpg6月17日(日)
 6時30分起床。発表がない日はやはり気持ちが軽い。部会は“定時”より30分早い9時から。参加した部会の1発目の発表で別世界へ誘〔いざな〕われそうになって身構えたり。Y原さんのご発表はやはり前乗り気味で聴く(その場で質問できなかったので後日メールをしまして、お返事をいただいたところです)。11時から12時という早めの昼休みの設定で、それをわかっていなかったと思われる弁当販売業者がお昼休みを半分過ぎてから来て困った。急ぎ目で食べて午後の部会へ行き、公開シンポジウムにも最後まで出席してQ州大学をあとにする。ぐっばい。


c0131823_164636.jpg S口とH多駅へ。「女性のH多弁めっちゃいいですっ!」というS口とは裏腹に、わたしはまだネイティブの発音と会話をよく聞いていないので、何とも言えず。もつ鍋屋さんに入って、あるいは店員さんの発声に触れられるかも、と思ったが、メインの会話は男性店員とのみ。このお店には、1人用もつ鍋カウンター席のようなものがあって、結構ひとりで食べに来ていた人がいた(女性も)。H多方面ではこういうの普通ですか?

 夜の便で帰筑するS口と駅で別れ、しばし駅の周辺をぶらぶらする(ふらふらはもうしていない)。こういう無為の時間を過ごすの久しぶりだなあと思う。よいものですね。ホテルへ戻ってからは明日の講義の準備など。よいものですかね。


6月18日(月)
 7時起床。シャワー、朝食。薬はもう飲まない。講義資料を仕上げてメールで送信。チェックアウトして9時すぎの地下鉄でF岡空港へ。10時5分発ANA248便。出発が20分くらい遅れて焦ったが、H田着は予定どおり11時45分(バスで搭乗口(搭降口?)まで移動)。そこからS川、I袋、E古田。昼食。14時40分から16時10分まで講義。いつもはTXだが、この日は荷物が重いのなんのでT京駅Y重洲口へ行って高速バス(アパートの近くにバス停がある)。しかし、チケット販売の仕組みがよくわからない(同じ線内なのに、値段同じなのに、行き先選ばせるって何?)。19時頃アパートに帰り着く。シャワー浴びて、明日の講義2コマ分の準備。大会期間中は使える時間があるようで、実はないんですよね。


 今回は新しいことを言ったので(もちろん毎回新しいことは言っています。新しいテーマで、ということです)、当然ながら新しい反応をいただくことができました。踏まえてさらに進めて・深めていきたいと思います。ありがとうございました。お疲れさまでした。


@研究室
[PR]

by no828 | 2012-06-23 16:50 | 日日 | Comments(0)
2012年 06月 22日

生き残っている者には decency を守るくらいが関の山じゃないか——大江健三郎『「雨の木」を聴く女たち』

c0131823_18534983.jpg
97(557)大江健三郎『「雨の木〔レイン・ツリー〕」を聴く女たち』新潮社(新潮文庫)、1986年。

版元 → 

単行本は同社より1982年に刊行。


 連作短篇集。

——〔略〕ああいう死はおよそ誰にも償いようのない、最悪の死だからね。生き残っている者にはどうしようもないじゃないか。生き残っている者には——これはアメリカの作家が書いていることだけど、decency を守るくらいが関の山じゃないか? それはひかえめな態度で礼儀正しくある、というようなことだけれども。〔略〕やはり生き残っている者にできるのは、死んだ人間のために decency を守るくらいのことじゃないか?
〔略〕
—— decency を守るということで、なにをいまの自分がやれるのかなあ〔略〕。
——きみの場合、水泳のトレーニングより他にないと思うなあ、と僕はいった。きみがやった事実、やらなかった事実、それらすべてふくめて、悔いがあり悩むところがあれば、それはバカ食いしたりクヨクヨ寝そべっていたりするだけでは、ふりはらうことはできないよ。それは僕自身の仕事をつうじての経験からいうんだけれども、きみにできることはあらためてトレーニングを強化して、一秒でも二秒でも記録をちぢめるまで、自分をいためつけることじゃないか?
(287-8)

 そうだよなあ、と思いつつ、decency という単語で政治哲学者のジョン・ロールズを思い出しました。decency をどう日本語に翻訳するか考えたことがあったなあと思い、ロールズもアメリカの人であったなあと思ったのでした。


@研究室
[PR]

by no828 | 2012-06-22 18:57 | 人+本=体 | Comments(0)
2012年 06月 21日

でも作家は社会学者じゃありません——エルキンズ『古い骨』

c0131823_15473271.jpg
96(556)アーロン・エルキンズ『古い骨』青木久恵訳、早川書房(ミステリアス・プレス文庫)、1989年。

版元 → 

原著は1987年刊行、Old Bones


 「人類学教授」が活躍する本だと聞いて読みました。研究とは、というところが書かれていたりもするかもしれないという期待のもとに読みはじめましたが、そういうわけではありませんでした。

「もちろん素晴らしいですよ。でも作家は社会学者じゃありません。作家は観察力ではなくて、表現スタイルで判断されるべきだと思いますね。バルザックはどう見ても未熟ですよ。それにぼくの好みから言うと感傷的すぎるし、モラリスト的傾向が強すぎる」
「それなら、フロベールはモラリストではない、感傷的ではないとおっしゃるの?」
「うん、まあ、そうは言わないですけどね。少なくともそれほどじゃない。しかしそれはどうでもいいことですよ。肝心なのは彼が文章一行一行に払っている細心の注意。あらゆる点から見て非の打ちどころのない適切な一語でなければ満足しない点です。フロベールほど綿密周到な作家は他にいないでしょうね」
〔略〕
「でも」と娘は反論した。「綿密さ、周到さが——」彼女はうれしそうに笑い声を洩らした。
「そういう言い方でいいのかしら。それが文学とどんな関係がありまして? 傑作かどうかは感動させる力で決まるもので、著者が適切な言葉を捜してどれだけ類語辞典と首っぴきになったかは関係ありません。もちろん『ボヴァリー夫人』は傑作です。でもそれはフロベールが読者に大きなものを語りかけているからであって、正確無比な言葉を捜し求めて一行一行悩んで書いたからではないでしょう」
 レイはさも楽しげににこにこ笑った。「いや、ぼくはそうは思わないな……」
(48-9)



@研究室
[PR]

by no828 | 2012-06-21 15:59 | 人+本=体 | Comments(0)
2012年 06月 20日

僕の胸の痛みこそ、僕の生が続いていることの、象徴ではあるまいか——ボービー『潜水服は蝶の夢を見る』

c0131823_19103970.png
95(555)ジャン=ドミニック・ボービー『潜水服は蝶の夢を見る』河野万里子訳、講談社、1998年。

版元 → 

原著は1997年にフランスで刊行。原題は Le Scaphandre et le Papillon. 直訳だと「潜水服と蝶」。


 1週間ぶりのエントリになってしまいました。学会大会でばたばたとし、講義でばたばたとしていました。

 さて。

 脳出血からロックト・イン・シンドロームになり、左目以外の身体が動かなくなった著者が、その唯一動く左目の瞬きだけで紡いだ言葉の連なりが本書です。

 ちなみに以前、本書を原作とした映画を観て、それを紹介したことがあります(→ 、公式サイト → )。先日看護学校で観せることにしたのを機に、古本屋で入手できた本書も読みました。

 週に一度の入浴は、悲嘆と至福が背中合わせでやってくる。湯につかってほっと一息ついたとたん、脳裏には、ゆったりくつろいでいた、以前の贅沢なバスタイムがよみがえってくる。一杯の紅茶かウィスキーと、いい本を一冊、あるいは新聞をひと山持ち込んで、のんびり寝そべり、足の指で蛇口を操作しながら、いつまでも浴槽につかっていたあの頃——。この思い出ほど、僕の胸を引き裂き、今の自分を突きつけられるように感じるものはない。〔略〕
 だがこうした僕の胸の痛みこそ、僕の生が続いていることの、象徴ではあるまいか。僕がまだ僕自身であるということの、証なのではあるまいか。
(22-3)

 いやおうなしの孤独の中で、何週間かを過ごした後、僕には、ある種のストイシズムが備わってきた。そして、病院の職員にもふた通りの人間がいることを、理解した。一方は、僕のSOSを必ず読み取ろうとしてくれる人たち。幸い、こちらが大半だ。だがもう一方には、僕が困り果てているサインも見て見ぬふりをし、立ち去ってしまう人たちもいる。(48)

 生きている限り、呼吸をする必要があるのと同じように、僕は、感動し、愛し、感嘆したい。する必要がある。そして実際、友からの手紙や、バルテュスの絵の絵葉書や、サン=シモンの文章の一ページは、過ぎゆく時間に意味を与えてくれる。だが警戒すべきことは警戒し、なまぬるいあきらめの中に落ちていかないためには、一服の怒りと、嫌悪も、失ってはなるまい。それは決して多過ぎず、また少な過ぎないのがいい。ちょうど圧力鍋についている、あの爆発防止のための安全弁の具合のように。(67)

 言語療法は、もっと広く知られるべきものだと思う。舌というものが、ことばの持つあらゆる音を出すために、いかにさまざまな運動を無意識のうちに行っているか、まったく驚かされるばかりだ。僕は目下、〈L〉の音と格闘している。自分の雑誌の名前『ELLE』もまともに発音できなくなってしまったとは、なんと情けない編集長だろう。(48-9)

 言語療法については、もっと知られてよい旨が多田富雄『寡黙なる巨人』でも触れられていました(→ )。

 もし人が、すべてを失い、〈心〉だけの存在になったとしたら、世界は、そして人生は、どのように見えるのだろうか——。(157.訳者あとがき「魂のエレガンス」)


 学会大会@福岡のことはまた今度書きます。


@研究室
[PR]

by no828 | 2012-06-20 19:38 | 人+本=体 | Comments(0)
2012年 06月 13日

町で本を読みたいと思ったときは、なんといっても——村上春樹・安西水丸『ランゲルハンス島の午後』

c0131823_14553583.jpg
94(554)村上春樹・安西水丸『ランゲルハンス島の午後』新潮社(新潮文庫)、1990年。

版元 → 

単行本は1986年に光文社より刊行。


 エッセイ25編です。表題作(書き下ろし)がいちばんじわっときました。が、引用はそこではない2カ所から。

 
町で本を読みたいと思ったときは、なんといっても午後のレストランがいちばんだ。静かで、明るくて、すいていて、椅子の座り心地が良い店をひとつ確保しておく。ワインと軽い前菜だけでも嫌な顔をしない親切な店が良い。町に出て時間が余ったら書店で本を一冊買い、その店に入ってちびちびと白いワインを舐めながらページを繰る。こういうのってすごく贅沢で気分の良いものである。チェーホフなんか読んでいると、情景的にすごく似合いそうである。(「レストランの読書」11)

 かなりよさそうです。

 
引出しの中にきちんと折ってくるくる丸められた綺麗なパンツが沢山詰まっているというのは人生における小さくはあるが確固とした幸せのひとつ(略して小確幸)ではないかと思うのだが、これはあるいは僕だけの特殊な考え方かもしれない。なぜならひとり暮らしの独身者をべつにすれば自分のパンツを自分で選んで買うという男性は、少く〔ママ〕とも僕のまわりにはあまりいないからである。(「小確幸」82-3)

 村上さんのエッセイには、たびたびこの「小確幸」という表現が出てきますね。

 
@研究室
[PR]

by no828 | 2012-06-13 15:10 | 人+本=体 | Comments(0)
2012年 06月 10日

たった一人のある人間がどう考えたのかを特定することはかなり困難だ——森博嗣『λに歯がない』

c0131823_1452342.png
93(553)森博嗣『λに歯がない λ Has No Teeth』講談社(講談社文庫)、2010年。

版元 → 


 森本、続くのはここまでです。Gシリーズ5冊目。「λ」は「ラムダ」です。

「でも、生きていれば、いろいろなことができます」
「そう、死ぬことだってできる」犀川は言った。「だから、生きている方が、少なくとも上位ではある。逆からは戻れないんだからね。しかし、たとえば、芸術家が、ある作品を完成させようとしているとき、それをいつ完成と見なすか、いつ作ることをやめるのか、と考える。その選択にも似ている。手を止め、創作をやめることは、つまり作品の死かもしれない
「死ぬことで、個人が完成する、という意味ですか?」
「そう考えることもできる、というだけだけれどね。そういった種類の、死にたいという気持ちも、必ず存在するはずだ」
「作品だったら、完成して、眺めているうちに、また手を加えたくなりますよ。でも、死んでしまったら、もう終わりです」
「今はね」犀川は言った。
(109)

「べつに今回の事件に限ったことではないけれど」犀川が話した。「ある人間の行動に対して、別の人間が推測をする。どうしてあんなことをしたのだろう、と考える。どう思ったのだろう、と想像する。心理学というのか、平均的にはこうだ、という一応の理屈はたしかに存在するだろう。こういう場合が多い、という統計結果は出る。しかし、たった一人のある人間が、どう考えたのかを特定することはかなり困難だ。つまり、そういうのが、この事件から学べることなのでは?〔略〕そもそも、殺人を犯すことが平均的ではない。平均的でないものに、平均的な道理を当てはめようとするのは、不思議な話だね(110-1)


@研究室
[PR]

by no828 | 2012-06-10 15:08 | 人+本=体 | Comments(0)
2012年 06月 09日

教育だって、結局は他人を支配しようとする欲求ではないか——森博嗣『εに誓って』

c0131823_149407.png
92(552)森博嗣『εに誓って Swearing on Solemn ε』講談社(講談社文庫)、2009年。

版元 → 


 さらに続けます。Gシリーズ4作目。「ε」は「イプシロン」です。物語として、というか、トリックが、おもしろかったです。認識がひっくり返りました。ミステリにおいては“古典的”なのかもしれませんが、認識枠組みの転換はかなりの愉悦をもたらすものだと思います。研究においても、そういう「転換」を目指したいですが、そんなに簡単には起こせません。

 そうか、情けないものだな、生命とは。
 たった一つきりの肉体に偶然にも支配され、
 この危ういシステムの中でしか生きられないのだ。

 大人になれば、もう最後、どうにもならない。誰にもならない、もう自分はこの肉体で決まり、この形からは抜け出せないのだ。
(33-4)

 不思議なのは、他人の生命を奪おうとする行為である。〔略〕
 たぶん、他人を支配することが人の力だと信じているのだ。すなわち、人の命を左右する力だ。社会では殺人を非難しているけれど、しかし、政治だって、教育だって、そして経済だって、結局は他人を支配しようとする欲求ではないか。すべて同じものだ。金にものを言わせるのも、理屈を捏ねて説得しようとするのも、情に訴えるのも、全部殺人と同じだ。そうまでして、他人を支配したいと考えることは、やはりそうすることで、自分に力があると信じたいのだろう。そんなことを証明してどうなるというのか。
(159-60)



@研究室
[PR]

by no828 | 2012-06-09 14:30 | 人+本=体 | Comments(0)
2012年 06月 08日

思考というのは、既に知っていることによって限定され、不自由になる——森博嗣『τになるまで待って』

c0131823_1791536.png
91(551)森博嗣『τになるまで待って Please Stay until τ』講談社(講談社文庫)、2008年。

版元 → 


 昨日に続けます。Gシリーズ3作目。「τ」の読みは「タウ」です。「超能力」が出てきます。

 ちなみに、森本では全体および各章の扉に引用が置かれることが多いのですが、本書はそれがハイデガーの『存在と時間』からなされていました。むむむ、次はこれを読みますか? > 読書会諸氏。読みたいときが読むべきときであったりします。

一人でいるときには、能力を確認することはできません」神居はゆっくりとした口調で話した。「子供のときは、数々の能力を誰もが持っています。自覚はできますが、しかし、他人から見れば、単なる一人遊びの領域を出ないものです。相手が関心を示さないことで自分を修正し、また大人に指摘されて、共通する最低限の感覚しか持ってはいけない、ということを子供は学ぶのです。それによって、自らの能力を封じ込める」(107)

「大丈夫、大切なことは信頼です。お互いの存在を許す。それが大事なことです。息をして。ゆっくりと。今までの貴女の内側にあったものが、今は外側になる。周囲にあるものは、実は貴女の内側です。そして、貴女の外側にあったものが、貴女の内側に仕舞われる。裏返しになった。そう、表と裏が反対になった。わかりますね?」(124)

「そういった、何故そうしたのか、という理由に立ち入ると、最初から数々の可能性が否定されてしまうことになるんじゃないかな」山吹が言う。「そうじゃなくて、物理的にどんな方法が現実にありうるのか、をまず問うべきだよ。理由というのは人間の気持ちの問題であって、そんな心理まで考慮していたら、結局は論理に曖昧性を持ち込むだけで、目標が霞んじゃうと思う
「凄いこと言いますね、山吹さん」加部谷は素直に感心した。
「これに似たことを国枝先生から言われたことがあるんだ。研究でね。つまり、自分が既に持っている常識が、新しい可能性を知らないうちに排除してしまうことがあるって
(222-3)

思考というのは、既に知っていることによって限定され、不自由になる」犀川が煙草を消しながら言った。「まっさらで素直に考えることは、けっこう難しい。重要なことは、立ち入らないことだ。海月君が真理を見抜いたのも、その視点によるところが大きい」
「びっくりしました」西之園が目を丸くする。「そういうことをおっしゃるのって、先生、久しぶりですね。学生向けですか?」
(305)


 自分の専門分野だからこそ、よく見えていないかもしれない、と日々感じます。視点を繰り上げる、というか、更新する、というか、初期化する、というか、そうしたことをするためにも、他分野の勉強は必要だと思います。


@研究室
[PR]

by no828 | 2012-06-08 17:31 | 人+本=体 | Comments(0)