思索の森と空の群青

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2012年 08月 27日

重要なことは読書の最中に起こってしまい——高橋源一郎『文学じゃないかもしれない症候群』

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132(592)高橋源一郎『文学じゃないかもしれない症候群』朝日新聞社(朝日文芸文庫)、1995年。

単行本は1992年に朝日新聞社より刊行。

版元 →  ただし、品切れ・再版未定。


 文芸評論集。橋本治のことを肯定的に評価した文章がありました。日本の文壇はなぜ橋本治を無視しているのか、とも書かれていました。内田樹も同様のことを書いていましたね。

 ↓ 高橋源一郎は以前ツイッターで鶴見俊輔の教育論に触れていたことがありました。わたしはそれを読んで高橋源一郎を信用しようと思いました。
 鶴見俊輔をはじめて読んでから二十五年以上たった。以来ずっと、今日にいたるまで、わたしは鶴見への敬意を失ったことがない。思想家がどういうものなのか、またどうあるべきなのか、わたしにはわからない。だが、「最良の思想家」という時、わたしが思いうかべるのはいつも鶴見俊輔だった。「最良の思想家」はおそらく「最良のことばの使い手」でなければならない。わたしは鶴見俊輔の「ことばの使い方」に魅せられつづけてきたのである。鶴見俊輔の文章は誰の書いたものよりわかりやすい。それは考え尽くしたあげくにでてくる思考の上澄みの「透明さ」のようなものだ。だが、それだけで鶴見の魅力を理解することはできない。
 鶴見俊輔は(もしそんなものがあるとして)「言文一致」の理念を生きてきたのではないか。最近、わたしはそんなことを考えるようになった。「言文一致」の理念でわかりにくければ、ことばというものを素直に信じることができないという思い、といいかえてもかまわない。「言文一致」はいつも、自らを表現することのできることばを求めてはじめられ、そんなことばを見つけたと思った途端に忘れられる。鶴見が立ちつづけたのは、「言文一致」を求めて心が噴出する最初の瞬間だったのである。
(「まる子とジョイス」86-7)


 ↓ むおぉ、と思いました。
 わたしはこの文芸時評のために毎月平均して、十二日から一六日をあてている。そのほぼ半月の間に、だいたい三度、本の買い出しに出かける。そして、部屋の真ん中に本の山を作ると、別の山に腰を下ろし、右手にボールペンを持ち、山のてっぺんから読みはじめる。いったん読みはじめると、なにが起こっても席を立たない。例外は「ごはんですよ」もしくは「競馬やってますよ」という家人の声だけだ。わたしの考えでは、重要なことは読書の最中に起こってしまい、結果として書かれたものはほとんどその脱け殻だけなのである。だから書評であれ、文芸時評であれ、つまらないに決まっている。どうしても書かねばならないなら、少なくとも対象となっているその本の二倍の長さが必要なのだ。(「「脱線」について」186)


 ↓ これは胸に刻んでおこうと思いました。
 もの書く人はそれだけで不正義である——作家太宰治のモラルはこのことにつきている。ものを書く。恋愛小説を書く。難解な詩を書く。だれそれの作品について壮大な論を書く。政治的社会的主張を書く。記事を書く。エッセイを書く。そして、文芸時評を書く。どれもみな、その内実はいっしょである。見よう見まねで、ものを読みものを書くことにたずさわるようになって数十年、ちんぴらのごとき作家のはしくれであるぼくがいやでも気づかざるをえなかったのはそのことだけである。ものを書くということは、きれいごとをいうということである。あったかもしれないしなかったかもしれないようなことを、あったと強弁することである。自分はこんなにいいやつである、もの知りであると喧伝することである。いや、もっと正確にいうなら、自分は正しい、自分だけが正しいと主張することである。「私は間違っている」と書くことさえ、そう書く自分の「正義」を主張することによって、きれいごとなのである。もの書く人はそのことから決して逃れられぬのだ。(「威張るな!」198)


@研究室
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by no828 | 2012-08-27 18:12 | 人+本=体 | Comments(0)
2012年 08月 25日

グランドキリン

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キリン グランドキリン

蔵元 → 


 先行発売のSブンイレブンで購入。びんのまま行きたかったのですが、色や泡の強度を確認したかったのでグラスに注ぎました。王道で勝負、というビールだと思います。

 原料:麦芽、ホップ
 度数:6%

 残暑が厳しい夏の、それもクーラーの入らない土曜日の研究室でこういうことを書いていると、今すぐにでもプシュッとビールを開栓したくなります。採点も終わったところですし。今度はびんのまま行きたいですね。


@研究室
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by no828 | 2012-08-25 12:46 | ビール | Comments(0)
2012年 08月 23日

学生時代や院生時代は行動圏内の古書店は毎日のように虱つぶしに通う——「図書」編集部編『書斎の王様』

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131(591)「図書」編集部編『書斎の王様』岩波書店(岩波新書)、1985年。

版元 → 


 椎名誠、下村寅太郎、立花隆、由良君美など、さまざまな人の「書斎」が紹介されています。書斎がほしいです。

 ↓ こういう考え方は割と好きです。孫引きです。原書はこちら(版元 → 
 現実。それは「哀しみ」の異名、である。空想の中でだけ、人々は幸福と一しよだ。私は現実の中でも幸福だ、といふ人があるかも知れないが、さういふ人は何処かで、思ひ違ひをしてゐる。(中略)正確に、現実の中でだけ幸福だ、と言ふ人があれば、それは遠い祖先の猿から、あまり進歩してゐない人である。(森茉莉『贅澤貧乏』)(小泉喜美子「夢みん、いざや」61)


 ↓ 大きなテーブルがほしいです。就職したら、食卓用のテーブルを研究用に転用する予定です。
 この判断は正しかった。いまでも私はこのテーブルが日本で入手できる最高の机だと思っている。そして、いい机という条件が、もの書き稼業にとってこんなにも大切なものかということを日々に痛感させられている。(立花隆「わが要塞」133)


 ↓ 「執念」かあ、と思いました。
 考えてみるとすべてのことは、私が物を書かずにいられない点から発している。いろいろの来し方の私の姿は、何としても書きつづけようとする執念にもとづき、そのことによって断崖を登りつづけているのである。
 物を書くという仕事は、少なくとも自分自身の考え方をきちんと彫りつけようとすることであり、「我」を確立したいことでもある。つまりは登ろうとして断崖にハーケンを打ちこむことにほかならないだろう。
(永瀬清子「女なのに書く場合」146-7.章題の傍点省略)


 ↓ 状況が認識を選ぶ、認識が状況を選ぶのではなく。むむむ。
 評論家になってからずっと、マルクス主義の立場から戦後を見、評論してきた。六〇年代安保までは見えていたのに、高度成長がはじまると何か見えなくなった。暗黒のトンネルの中でふっと見えだしたのが、一九七〇年の公害の噴出である。(山田宗睦「書斎七遷」196)


 ↓ 近くにほとんど古本屋がない!
その点、学生時代や院生時代は暇があったから、自分の行動圏内の古書店は毎日のように虱つぶしに通うことができ、どの棚に何があるか番頭以上に暗記できたものである。こういう探し方は時間がかかるようでいて、実はその逆。暗記しているからこそ棚の本の様子が少しでも昨日と相変〔さまがわ〕りしていると、ゲシュタルト認識のように一見してパッと分るから、変えられた箇所だけを見れば済むわけで、かえって時間はかからないものなのだ。(由良君美「縁・随録——集書の不思議」205-6)


@研究室
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by no828 | 2012-08-23 18:08 | 人+本=体 | Comments(0)
2012年 08月 22日

抽象的すぎてわからない? それがもう勘違いである——森博嗣『自由をつくる 自在に生きる』

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130(590)森博嗣『自由をつくる 自在に生きる』集英社(集英社新書)、2009年。

版元 → 


 今日明日と院試のようです。わたしのときは2月のみでしたが、近年は8月実施、定員が充足されなければ2月にも、というスケジュールのようです。「のようです」を2回繰り返して他人事のようですが、他人事です。

 2月院試というのは、当時が一貫制博士課程ということもあって、“卒論も書いていないのに何が院試か”という雰囲気が根強くあったからのようです。卒論を書いたことが受験資格のように捉えられていたのだと思います。であれば、卒論とそれに基づいた(+研究計画に関する)口頭試問でよいではないか、と思いますが、試験は筆記と口頭から構成されていました。受験する側からすると、卒論を出してすぐに試験勉強という苛酷な日程をクリアしなければならず、結構大変であったと記憶しています。外部(他学類を含む)からの受験者を想定していなかったのかもしれません(教育は12月卒論締切)。

 今回の8月院試は、卒論を書いていない代わりに筆記試験、という位置付けをすることができますし、受かってしまえばあとは卒論に全力を注ぐことができますので、このくらいの時期に設定するのは妥当かもしれません。とはいえ、そもそも「院試」はなくてもよいのでは? 少なくとも今のかたちでなくてもよいのでは? という気もします。現行のものが形式的にすぎる感がありますし(院試とは落とすときの対外的な理由作りである、ならばそれでもよいのかもしれませんが)、その割には教員(一部)が大変そうという印象があります。

 という話と今回の本は直接関係しませんが、森先生も大学の業務に携わられていたのでした。

 もう少し説明すると、「人の目を気にする」人間の大半は、「自分の周囲の少数の人の目を気にしている」だけである。そして、「人の目を気にしない」というのは、自分一人だけの判断をしているのではなく、逆に、「もっと確かな目(あるときは、もっと大勢の目)」による評価を想定している、という意味だ。それは、「今の目」だけではなく、「未来の目」にも範囲が及ぶ。(55)

 ↑ とくに最後のところ、アダム・スミスとその影響を受けたアマルティア・センのことを思い浮かべました。
 
 ところが、研究という仕事には、こういった〔分量と時間が決まっているなどの〕支配がない。だから、終わりというものがない。毎日大学から家へ帰るときには、やりかけの仕事の合間にトイレへ行くのと同じ感覚だった。(60)

 ↑ 共感。 

 これは、葬式についても〔結婚式と〕同様に思う。そんなに愛している人なら、死ぬまえに訪ねていって、本人と話をしたり、挨拶でもすれば良かったのではないか、死んでしまったら本人はいないのだから、わざわざ行く意味がない、と考えてしまう。(71)

 抽象的すぎてわからない? それがもう勘違いである。抽象的だから理解できるのだし、具体的すぎてわからないものが多すぎるのだ。(107)

 ↑ 同意見です。これは後輩のレジュメを読むときいつも思うことです。具体的な情報はたくさん詰め込んであるのだが、ただそれだけ、という場合が多い。そこから透けて見えてくるもの、というか、立体的に立ち上がってくるもの、というか、そういうものがない。ちなみにわたしは「抽象的すぎてわからない」と言われる口です。これはこれで受け止めないといけないと思っています。

個性というのは自然に滲み出るもので、表面をいくら取り繕っても、そのうち周辺に香るものではないだろうか。(125)

 ↑ これも同意見。出そうとして出たかに見えるものは個性ではないし、そのうち消えます。論文を書くとき、オリジナリティを出すために書こうとするのと似ていると思います。

 「生きる」とは、結局は「死」への抵抗である。(156)

 ↑ 同様のことをどこかで読んだか見たかしました。

 たとえば、「毎日一万文字を書く」というノルマを決めたとする。一万文字という制限は、それをクリアしなければならない「下限」の意味だ。しかし、これを僕は「上限」だと思い込むのである。「一万文字以上書いてはいけない」という意味だと無理に捉えるのだ。(179)


@研究室
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by no828 | 2012-08-22 16:00 | 人+本=体 | Comments(0)
2012年 08月 21日

この世界だけが唯一の現実であるという確信が欲しかった——筒井康隆『エディプスの恋人』

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129(589)筒井康隆『エディプスの恋人』新潮社(新潮文庫)、1981年。

単行本は1977年に同社より刊行。

版元 → 


 一昨日(→ )、昨日(→ )に続けます。「七瀬3部作」最終第3作です。

 今回の七瀬は、高校の職員になっています。主題は、「神」(本書では「意志」と呼ばれます)。人間の存在や記憶をも操作する「神」。「神」による人間の配置。ジョージ・オーウェルの『一九八四年』(→ )を想起させる場面もありました。

 しかし、「神」を措定せずとも、人間だけの、人間だらけの世界にも、きれいに重ねられる認識が示されているように思いました。

 わたしが酒を飲みはじめ、放蕩の限りを尽すようになったその原因を、銅里村の人たちはなんと言っていましたか。おそらく、絵の学校へ行けなかった為だと言っているでしょうね。それは違います。たいへんな自信家でしたから、最初のうちは、絵の学校などへ行かなくても独学で技術を磨けば、などと思いあがったことを考えていたのです。だけどそのうち、わずかながらもだんだんと芸術というものの底知れぬ奥深さ、恐ろしさがわかってきました。美術全集だの美術史の本だのを買いこんで遅まきながら勉強し、出品と落選を何度も、何十度もくり返し、通信講座を受け、美術雑誌で画壇のことを知り、近くの村や町にいる画家志望の人たちと会ったりするうち、自分の未熟さ、いえ、未熟さどころではありません、生来の素質のなさがわかりはじめ、いやでも自覚せざるを得なくなってきたのです。(179-80)

 お察しください。いくらせいいっぱい、わたしなりにいい絵を描いても、常に本来の価値ではなく後から附加された価値によって賞讃されるのです。いくら褒められ、いくら絵が高い値で買われても、それはわたしの才能とは無関係なのです。それを知りながら尚も絵を描き続けなければならぬ空しさを。(231)


ただ、この世界だけが唯一の現実であるという確信が、もはや無理とは知りながらもその確信だけが欲しかった。そう確信できればどんなに嬉しいことか、と、七瀬は思った。(268)


@研究室
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by no828 | 2012-08-21 14:36 | 人+本=体 | Comments(0)
2012年 08月 20日

第一の時間ABに連続して起る筈の出来ごとはどこへ行ってしまうのかしら——筒井康隆『七瀬ふたたび』

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128(588)筒井康隆『七瀬ふたたび』新潮社(新潮文庫)、1978年。

単行本は1975年に同社より刊行。

版元 → 


 昨日(→ )に続けます。「七瀬3部作」2作目です。七瀬は同じ「精神感応能力者〔テレパス〕」と出会ったり、同様の(?)「超能力者」と出会ったりしますが、そうした「超能力者」を抹殺しようとする集団(国家?)が出現し、戦うことにもなります。

「ぼくがある人間の未来に関して何かを予知したとする。でもぼくはそのことを当然本人には言わない。もし教えてやったとしても信じてくれないだろう。ところが君だけはぼくが予知能力者であることを知っている。だからぼくが予知したことに対策を立てることができる。つまりぼくの予知した未来を人為的に改変できるのは君だけだ。するとぼくの君に関する予知は、厳密にいえば間違っていたことになるんだ。これを逆に言うと、予知した未来の人為的な改変は予知能力者の存在の否定につながるわけで、ぼくが君の未来に関して予知できない第一の理由は、ぼくの予知能力の中にある、そういったことを恐れる機構が働くためだろうと思うんだ。わかるかい」(219)

 対策込みの未来を予知する、ということをしていると無限後退になりますね。社会科学と社会、人文学と人間、その関係にもつながる話です。

「たとえばわたしがB時点からA時点へ遡行したとするでしょう。当然その時のわたしは、A時点からB時点までの間に何が起ったかを知っていて(第一の時間AB)それを否定するために戻るわけね。(第一の時間ABの否定)そして今度はa時点からb時点(第二の時間ab)までの出来事〔ママ〕を自分に都合のいいように発展させるわけでしょう。(第二の時間abの肯定)するとその場合、第一の時間ABに連続して起る筈の出来ごと〔ママ〕はどこへ行ってしまうのかしら。(ここからはわたしもわからないのだけれど)そのまま消滅してしまう筈はないと思うのよ」
 あっ、と七瀬は思った。藤子の考えているのはいわゆる多元宇宙であり、彼女は時間旅行者としての自分の存在が、つまり彼女の時間旅行が、多元宇宙の発生につながっているのではないかと疑っているのである。そして藤子は、自分の新しく発生させた宇宙が、悪しき宇宙に違いないという考えを抱いてしまっているのだ。
(297-8)

 ライプニッツを想起しました。


@研究室
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by no828 | 2012-08-20 15:59 | 人+本=体 | Comments(0)
2012年 08月 19日

七瀬は十八歳になる今日までそれが珍しい才能であると思ったことは一度もなかった——筒井康隆『家族八景』

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127(587)筒井康隆『家族八景』新潮社(新潮文庫)、1975年。

単行本は1972年に同社より刊行。

版元 → 


 「七瀬3部作」の第1作です。「精神感応能力者〔テレパス〕」である、つまり「読心」のできる火田七瀬、この作品では「お手伝いさん」であり、働き先の家族の内なる思考を感受します。

 怖いですね、読むのも、読まれるのも。

 ただ、こういうものを読むと、「読心」はもともと人間に備わった能力であったのかもしれない、とも思います。それが退化してきた、ということです。「読心」ができるがゆえに人間関係の(再)構築・維持に支障がもたらされ、それゆえに人間は意図的にその「読心」能力を退化させてきたのではないか、という気がしないでもありません。

 うーん、SF。

 筒井康隆の文章は、人間が目をそむけたがる日常のある側面に、リアルに迫っていきます。フィクショナルに事実=ノンフィクションに迫ります。

 怖いですね。

 他人の心を読み取ることのできる能力が自分に備わっていると自覚したのがいつだったか、七瀬は記憶していない。しかし七瀬は、十八歳になる今日まで、それが特に珍しい才能であると思ったことは一度もなかった。おそらく、多くの人間がそういう能力を持っているに違いないと思っていた。なぜなら、そういう能力を持っている者は必ず、自分同様それを隠すだろうから、と思っていた。
 読心ができるため、自分は得をしているとも思わなかったし、損をしているとも思わなかった。聴覚や視覚の一種であると考えていた。他の感覚と少し違うところは、感知するために多少の努力を要することだった。七瀬はそれを「掛け金をはずす」ということばで他の精神作業と区別していた。
 「掛け金をはずし」た以上は、必ず「掛け金をおろさ」なければならないことを、七瀬はきびしく自分に律していた。掛け金をはずしたままにしておくと、相手の思考がどんどん流れこんできて、ついには相手の喋ったことと考えたことの見わけがつかなくなり、自分の能力を相手に知られるという非常に危険な事態になり兼ねないことを、七瀬は経験から悟っていた。
(10-1)


@研究室
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by no828 | 2012-08-19 15:08 | 人+本=体 | Comments(0)
2012年 08月 17日

切実な問題意識をもって「読む」ことは創り出すことにつながる——「みすず」編集部編『読書の現在』

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126(586)
「みすず」編集部編『読書の現在——読書アンケート1980-1986』みすず書房、1988年。


版元 → (ただし、本書の書誌情報は掲載されていないようです。)


 本文4段組み、354ページ。Lブロ池袋本店の古本市で先日購入しました(→ )。300円。毎年みすず書房が実施している「読書アンケート」(たとえば → )が書籍化されたものです。本書の帯によりますと、ここで紹介されている本の冊数は、5,000冊。わお。関心を持った本や紹介文に蛍光ペンで線引きしながら読みました。相当数にのぼりましたが、とりあえず4冊ほどAマゾンの古本市場に注文しました。

 こういうのを読むと、もっと勉強しないといけない、と気持ちが昂ります。また、書評の仕方という点でも、勉強になりました。

 本を読ま(め)ないことを「恥じ」る研究者がどれほどいるか、ということなのです(研究に関連する本は読むのかもしれませんが)。また、わたしに近い分野で言えば、“現地調査すればオーケー”というのだけではいけないと思います。
 本年も講義、演習、個人的な仕事に追われて、読書のための読書が少なかったことを恥じています。(山崎庸一郎(フランス文学)37)

学説とは結局のところ人であろうから。(越智武臣(イギリス史)58)

 ジャーナリストの伝記・遺稿集は戦前からおびただしい数に上るが、これだけ私に衝撃を与えた本はない。その感動を整理して紹介することは、いまの私にはまだできない。(新井直之(ジャーナリスト)88)

 こういう評価の仕方もありだな、と思いました。
〔略〕両者を併せ読むと実に興味ぶかい研究上の展望が生まれてくるように思います(大塚久雄(経済史)139)

トロロップも実際家(郵政官僚)でありながら、午前五時から八時までを執筆に宛〔ママ〕てることにより、英文学史上空前絶後の大量生産(質も高い)を果した(古賀正義(弁護士・英米法)257)

 脱構築などと仰々しく掲げなくとも、切実な問題意識をもって「読む」ことは、創り出すことにつながるということを悟らせてくれる。(山室信一(思想史)310)


@福島
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by no828 | 2012-08-17 11:28 | 人+本=体 | Comments(0)
2012年 08月 16日

葬式ってのは、故人の生き方には関係ない。残された人間の本性を暴く場なんだ——宮部みゆき『小暮写眞館』

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125(585)
宮部みゆき『小暮写眞館』講談社、2010年。


版元 → 


 本文713ページ。男子高校生を主人公とする、4話構成の長篇であります。表現の軽さが随所に目立ちました。が、全体としては、じんわりと沁みてくる、よい話でありました。ちなみに、帰省のさい、S河のBックオフで買いました。もちろん105円。

 以下は宗教者の発言ですが、という逆接が妥当かどうかわかりませんが、まともだと思いました。
「わたくし共には、御仏のなさることの、すべての意味がわかるわけではないのですよ。わからぬことはそのまま受け入れ、わかるはずだ、わからねばならぬと思った時に生まれる傲慢を矯めていかねばなりません。それが今世での修行というものです」(90)

 消えていてほしい。
「でも残ってた。過去って消えないんですよ」(229)

 “逃げ”ではない、という解釈。
 田部女史と面会するには、翌週の木曜日まで待たなければならなかった。何かかんか都合が悪いとかわされたのだ。田部さん、結果を聞く勇気を溜めてるんだなと、英一は思っていた。(286)

ボク思うけど、不登校の子って、学校が嫌なんじゃなくて、学校が怖いんだよ(363)

「人間、生きるか死ぬかの最後のとこは、てめえじゃどうにもならねえ。運次第だって」
 しんみりしてから、笑った。
「ま、若い人には、まだこんな話は用がねえな」
(375)

「兵隊と非戦闘員じゃ、絶対に違うところがあるじゃないか」
〔略〕
非戦闘員なら、誰も殺さなくって済む
 殺される恐怖は同じでも、殺さなければならないという恐怖あない。垣本順子はそう言った。戦争の最中でも、兵士でなければ、人殺しをせずに済む」
 殺される恐怖は同じでも、殺さなければならないという恐怖はない。垣本順子はそう言った。戦争の最中でも、兵士でなければ、人殺しをしなくて済む。
「〈救われた〉っていうのは、そういう意味だよ」
(476)

「でも、創作物というものは、常に誤読・誤解される可能性を持っているだろ。むしろそうでなくっちゃいけないのかもしれない(488)

 ——葬式ってのは、故人の生き方にはまるで関係ない。残された人間の本性を暴く場なんだ。(570)

 ——芸術は人を待ってくれないけれど、人は芸術を待つことができます。(645)


@福島
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by no828 | 2012-08-16 20:06 | 人+本=体 | Comments(0)
2012年 08月 11日

勉強して、そして、それ以上に勉強している教官を観るべきでしょう——森博嗣『臨機応答・変問自在 2』

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124(584)
森博嗣『臨機応答・変問自在 2』集英社(集英社新書)、2002年。


版元 → 


 『森助教授 VS 理系大学生 臨機応答・変問自在』(→ )の続きです。森先生は、試験をせずに、毎回提出してもらう“質問の質”で評価します。本書は、それを教室の学生から一般の読者へと拡張したものです。

〔略〕「質問で人を評価する」とは、質問の仕方とか、質問に至るまでの経緯とかではない。〔略〕その疑問の「発想の切れ味」を見ているのである。(13)

理系のスタンスは、物理法則や数学はきっちりと割り切れるものだが、人間や社会といったものはつかみどころがなく、一般的に論じられない、というものだ。一方、文系の学問の中には、まさにそれらを一般的に論じようとするものが数多く存在する。つまり、人の心理や社会の動きに法則性を見出したりすることは、文系の特徴であって、それは理系から眺めると、「どうしてあんなに、ものごとを杓子定規に決めつけられるのだろう?」と不思議に感じられるのである。(14-5)

 Q宗教や民族の違いによる争いが絶えませんが、将来なくなると思われますか? またその理由を教えて下さい。
 ★基本的に豊かになるほど争いは減少しています。したがって、エネルギィ問題が解決すれば、なくなる可能性はあるでしょう
(25)

 Q研究は、社会のためになるものであるべきなのでしょうか?
 ★基本的にそうです。
(31-2)

 これは意外な答えでした。「自分のため」だと予想していました。

 Q「価値」と「利益」と「必要性」は同義ですか?
 ★いいえ。必要性が価値を生み、価値の移動で利益が生じます。
(53)

 Q私は趣味でイラストや短い文章を書きます。作品ができた直後は「会心のできだ」と思えても、三日ぐらい過ぎてから改めて見返してみると、一転してみすぼらしく見えてガッカリすることがよくあります。先生にも似たような経験はありますか? こうしたごく短期間での認識の変化って、どういうメカニズムで起きているのでしょう?
 ★客観力不足です。上達とは、そのタイムラグを短くすることです。
(87)

 工学と理学の本質的違いは何とお考えですか?
 ★分野によりますが、理由(why)を探求〔ママ〕するか、対処策(how)を考えるか、の違いに集約される気もします。しかし、両者は切り離すことができません。
(151)

 こういうのはおもしろいですね。

 学生は大学では、何をするべきだと思いますか?
 ★勉強して、そして、それ以上に勉強している教官を観るべきでしょう。
(181-2)

 そういう教官が近くにひとりでもいれば、それは恵まれています。複数いれば、すごく恵まれています。

 Q人は何故、より大きく、より高く、より速くを目指すのでしょうか。
 ★何かを目指すことは、目指さないよりも楽だからです。
(240)


@研究室
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by no828 | 2012-08-11 16:43 | 人+本=体 | Comments(0)