思索の森と空の群青

onmymind.exblog.jp
ブログトップ

<   2012年 09月 ( 16 )   > この月の画像一覧


2012年 09月 24日

大人物は時流には決してさからわない。しかし、時局だけは自分に従わせる——矢作俊彦『真夜中へもう一歩』

c0131823_15184988.jpg
143(603)矢作俊彦『真夜中へもう一歩』角川書店(角川文庫)、2005年。

単行本は1985年に光文社より刊行。

版元 → 


 休暇中に事件に迫る“フリーの”刑事・二村永爾(ふたむら えいじ)シリーズ、『リンゴォ・キッドの休日』(→ )に続く第2作です。この“フリーの”というところに、矢作俊彦の“日本のアメリカ”に対する姿勢、あるいは権力に対する態度が見て取れるような気がします。「解説」は高橋源一郎。読者を引き込むストーリーでした。徹底的に私的な経験は、共約不可能であるはずなのに、しかしやはり〈わたし〉を引き込みます。

「ここにいらっしゃるじゃありませんか。大人物というのは、時流には決してさからわないものだそうです。家のことは家人に従い、町では流行にも従い、金のことでは時流に従う。しかし、時局だけは自分に従わせる。そうじゃないんですか?(214)

「これは、アメリカの例だけどね、凄いのを一つだけ聞かせとこう。アリゾナの精神病院が五年にわたって人体を自動車会社に売ってたのさ。自動車の安全ベルトの開発用にね。人形〔ダミー〕より精巧だし、金もかからない。実験用人体を、自動車と一緒にぶっこわしてデータをとってたわけだ。国税Gメンの捜査から明るみに出たのさ」(341)

「ねえ、二村さん、ぼくが医学をはじめて最初に得たのは、人間が生きてるってことの方が死んでることよりずっと非科学的だって認識なんです。おかしいでしょう?」(414)


@研究室
[PR]

by no828 | 2012-09-24 15:17 | 人+本=体 | Comments(0)
2012年 09月 21日

雨の朝の講義のあと

c0131823_13434457.jpg 特筆すべきことがない、というか、わざわざブログに書くまでもない、というか、そういう日常的な「日々」が過ぎています。本当はあるのかもしれません。起きたことを整理して書く思考的余裕がないのかもしれません。研究は、現在入力期間でして、「読む」と「考える」の繰り返しで、出力のかたちを模索しています。来月の15日に締切のある論文と20日の研究会の発表原稿と、その2つを念頭に置いています。前者の構造はほぼ定まっているのですが、後者は……です。投げられた問いはまともに引き受けられないほどに大きなものなので、どう限定するか、どう枠付けるか、そこを考え中です。


c0131823_1425358.jpg その後者の一環にするかもしれませんが、現在的な思想上の問い(これはすでにわたしのなかにある)を歴史に投げ入れたときにどういう答えが返ってくるか、という思想史の方法に関心を持ちはじめたので、いまはその妥当性と可能性に探りを入れています。問題Aを自分で考えることがまずは大切ですが、(必ずしも問題Aについて考えたわけではない)過去の哲学者がこの問題Aを考えたとしたらどういう認識が得られるか、という問いの立て方は(もちろん文脈の違いは踏まえたうえで)強力な補助線、さらにはわたしの主張を支える“根拠”になりうるのではないか、と思うようになりました。また、このわたしが“わたしなりに”議論を展開してもなかなか耳を傾けていただけないということもあって(しくしく)、であればすでに名の通った哲学者の(威厳を後景に置くというとあれですが)思想に自分の考えを重ねるというのもありなのではないか、と思うようにもなりました。学問の(たぶん人文学・社会科学の、たぶんさらにその一部の)世界の根拠は、「データ」よりも/に加え、「権威」かもしれません。教育学の学的構造を以前講じたことがあるのですが、経験科学的教育学の主張の根拠は「データ」だ、とすんなり言えたのですが、規範的教育学の主張の根拠は、と考えたときに、煎じ詰めると、もしかして「権威」か? となってしまいました。何が語られているか、よりも、誰が語っているか、というより、誰の語った何なのか。学問に「権威」は関係ない、というのがわたしの基本的な考えではあるのですが。ちなみにここでの「権威」は「先行研究」ともちょっと(かなり?)違います。(写真のつけ麺のお店はTべログ → 


c0131823_14103095.jpg 本日金曜1限の講義は9時からでした。それも来週で終わりです。再来週に試験となりますが、それには出講する必要はありません。

 この看護学校では、講義後に学年担任の先生と世間話をするというのが風習になっていて(先生からすれば義務?職務?)、大体30分くらい話します。わたしの非常勤講師先にこういう学校はほかにないため、“先生方にも他に大事な仕事があるのではないか”、“実はとくに話したいと思っているわけではないのではないか”と思ったりもします。半分くらいの申し訳なさを抱えながら、質問(学生の調子はどうですか、など)に答えたりしていると、時間は経っていきます。

 今日は、いただきもののチョコレートをいただきました(やや、ややこしい)。女性教職員のみなさん(というか、女性しかいません)はブラックのチョコレートをほとんど食べないそうで、そのブラックと、なぜかTロルも。教員控室でホット・コーヒー(もちろんブラック)と一緒にブラック・チョコレートを2つ食べました。「先生、持ってってください」とすすめられましたので、出されたぶんを遠慮なくいただいて帰ってきました。


 雨ですね。


@研究室
[PR]

by no828 | 2012-09-21 14:36 | 日日 | Comments(0)
2012年 09月 20日

抽象・観念世界への上昇と具体・現実世界への下降のたえざる上下運動——生松敬三『書物渉歴』

c0131823_15233560.jpg
142(602)生松敬三『書物渉歴 1・2』みすず書房、1984年。
 
※ 「生松敬三」は「いきまつ けいぞう」。

版元 →  ただし、本書の書誌情報は掲載されていません。

 著者は思想史家、哲学者です。1928年生、1984年没。享年56。若すぎる死を惜しんだ哲学者の木田元が編者となって生松の書物に関する文章、たとえば書評、たとえば個人的な読書記録、を2冊にまとめました。書評の書き方の勉強に、という思惑もあったのですが、それよりもなによりも、著者がたいへんな読書家であり、本が好きであったことが強く感じられる本でありました。


c0131823_15234675.jpg
 哲学という姿勢について。
 しかし、その〔哲学の〕理論体系は、たえず現実の批判・検討によってつきくずされ、きたえられながら、はじめて築き上げられていくものでなければなりません。この抽象・観念世界への上昇と具体・現実世界への下降のたえざる上下運動の道がとざされたとき、もはや理論は理論としての用をはたしえません。ですから、なによりもたいせつなことは、なによりもまずぼくらの生きているこの現実のなかから問題をみいだし、それをどうしたら解決できるかを自分の頭で考え、考えられた理論を現実によって検証し訂正していく、というこの運動にある、といってよいでしょう。(6-7.1)

 鶴見俊輔やジョン・ロールズの姿勢あるいは方法。


 講義のやりかたについて。
 〔略〕私自身は大学での講義は一種読書案内を兼ねるつもりでしゃべっている。
 〔略〕作品やら研究所やらの書目をその時々に黒板に書いたりプリントして配ったりするから、それらを個別に読んで面白いと思うものにどんどん深入りしてゆくことが自分の課題であると考えてほしい、私の述べる思想史のアウトラインを筆記したり覚えたりすることは要求しない。単位を与える必要上ペーパーテストは学年末にやるけれども、それには関心をもった任意のテーマ、作家・思想家について読み調べ考えたところをこちらにその面白さがわかるように書いてくれればよい。講義はそのための一種の読書案内ともなってくれればよい——。
(66.1)

 参考にします。


 西田幾多郎について。
明治三十年代に中央の文壇や学界でめざましい活躍をしていた高山樗牛や桑木厳翼らよりも二年早く大学を卒業していたが、それが正規の哲学科ではなく哲学選科の卒業であったために長い間地方の高校教師という不遇の位置にいなければならなかった。けれども、その一〇年間の金沢での思索と体験とによって初めて『善の研究』は成立することができたのである。(117.2)

 わたしへの応援歌ならぬ応援文として読みました。不遇とは優遇のことである、とのちのち言えるように。


 参考文献表の書き方について。
 なお、巻末に「参考文献にちなむ小論」という文献解題が〔ダンハム『英雄と異端』には〕添えられているが、アメリカの研究者たちがよくやるこういう文献解題はたんなる参考文献の一覧よりも著者の諸文献への評価がうかがわれて、読んで面白いし有益でもある。(174.2)

 しかしこれは、当該文献(を書いた研究者)に対する相当の理解と文献同士の関係付けが十分にできていないとできない芸当です。もちろん解題までしなくてもそれは必要なことですが。


@研究室
[PR]

by no828 | 2012-09-20 16:00 | 人+本=体 | Comments(0)
2012年 09月 19日

悪口を言われているくらいがちょうどいい——村上春樹・安西水丸『村上朝日堂はいかにして鍛えられたか』

c0131823_14341780.jpg
141(601)村上春樹・安西水丸『村上朝日堂はいかにして鍛えられたか』新潮社(新潮文庫)、1999年。

単行本は1997年に朝日新聞社より刊行。

版元 → 


 エッセイ集。学校/教育について書かれた文章も収録されています。個人的には、「僕らの世代はそれほどひどい世代じゃなかったと思う」(306-10)の「被差別部落」の話が印象に残っています。印象の残り方にはいくつか(あるいはそれ以上)あると思いますが、このエッセイは、この文章が、というより、全体的に、なので、引用はしません。

 村上春樹の通った公立中学の話。村上は1949年生まれ。
 もちろん生徒を殴らない先生もいた。でも半分以上の男の教師は生徒を殴ったと思う。よくウヨクの人たちが「戦後の民主主義教育が日本を駄目にした」というようなことを言うけれど、なんのことだかさっぱり理解できない。僕にとっては「戦後の民主主義教育」なんてどこにも存在しなかったようなものだから。
〔略〕「こんなことで殴られるのは理不尽だし不公平じゃないか」と感じたからこそ今でもよく覚えているのだ。少なくとも僕は、その母校をもう一度訪問したいという気持ちにはどうしてもなれない。〔略〕
 考えてみれば、そこで教師たちに日常的に殴られたことによって、僕の人生はけっこう大きく変化させられてしまったような気がする。僕はそれ以来、教師や学校に対して親しみよりはむしろ、恐怖や嫌悪感の方を強く抱くようになった。〔略〕
 数年前に同じ兵庫県の高校で女子生徒の校門圧死事件があったときにも、「とんでもないことだけれど、僕の体験を考えれば、そういう無茶苦茶なことが起こっても不思議ではないのかもしれない」と思った。そしてその教師を「不幸な事件だが、教育に熱心な先生だった」と弁護する人さえいることを知って、ますます暗澹たる気分になった。熱心であることが問題をますます深刻なものにしているという事実が、この人たちにはわかっていないのだろうか?
(「体罰について」26-8.傍点省略)


 翻訳について。
翻訳でいちばんわくわくするのはなんといっても、横になっているものをまず最初に縦に起こし直すあの瞬間だからだ。そのときに頭の中の言語システムが、ぎゅっぎゅっと筋肉のストレッチをする感覚がたまらなく心地よいのである。そして翻訳された文章のリズムの瑞々しさは、このしょっぱなのストレッチの中から生まれ出てくる。この快感は、おそらく実際に味わった人にしかわからないだろう。
 僕は文章の書き方というものの多くを、このような作業から結果的に学んだ。外国の優れた作家の文章をひとつひとつ横から縦に「よっこらしょ」と直すことによって、文章の持つ秘密(ミステリー)を根もとから解き明かしてきたわけだ。翻訳というのはやたら時間のかかる「鈍くさい」作業だが、それだけに細かいところがしっかり身につくという大きな利点がある。
(「趣味としての翻訳」70.傍点省略)


 批評について。
 何かを非難すること、厳しく批評すること自体が間違っていると言っているわけではない。すべてのテキストはあらゆる批評に開かれているものだし、また開かれていなくてはならない。ただ僕がここで言いたいのは、何かに対するネガティブな方向の啓蒙は、場合によってはいろんな物事を、ときとして自分自身をも、取り返しがつかないくらい損なってしまうということだ。そこにはより大きく温かいポジティブな「代償」のようなものが用意されていなくてはならないはずだ。そのような裏打ちのないネガティブな連続的言動は即効性のある注射漬けと同じで、一度進み始めるとあとに戻れなくなってしまうという事実も肝に銘じておかなくてはならないだろう。
〔略〕それよりはむしろ「これはいいですよ、これは面白いですよ」と言って、それを同じようにいいと思い、面白いと喜んでくれる人をたとえ少しでもいいからみつけたいと思っている。経験的に深くそう思う。これは早稲田大学文学部が僕に与えてくれた数少ない生きた教訓のひとつである。
(「テネシー・ウィリアムズはいかにして見捨てられたか」86-7)


 生きていく姿勢について。
レースのキャリアにおいても人生においても、志なかばでこの世界を去って行かなくてはならなかったことは、無念以外のなにものでもなかっただろう。走っていて苦しくなると、今でもよくそのことを考える。そして「苦しくても、少なくとも俺はこうして走っていられるんだし、こうして書いていられるんだ」と思う。(「果されなかったもの」238)

 走るだけではなく、仕事の面でも、ものごとがあまりすらすら順調に運んでいると、どういうわけか気持ちが落ちつかなくなってくる。なにかもそもそとこそばゆくなってくる。誰かに褒められると体が緊張して(もちろん僕だって褒められれば嬉しいんだけど)、ついろくでもないことを口走り、自己嫌悪におちいってしまう。ところが風向きが逆になってくると、僕は俄然生き生きしてくるみたいだ。「よしよし、これで上り坂だ」と思うと顔がほころんできて(というのはちょっとオーバーだけど)、ギアをおもむろにローに入れる。自分でも変な性格だなと思わないでもない。長距離走が好き、それも上り坂が好きなんてね。でも性格ってきっと死ぬまで変わらないですね。(「梅竹下ランナーズ・クラブ通信❷」117)

〔略〕今思えばカウンターの中から世界を眺めていた七年間の体験は、作家としての僕にとって、何ものにもかえられない貴重な財産になった。僕はそこからいろんな教訓を頭ではなく、体でみっちりと学びとることになった。「下手に褒められるよりは、悪口を言われているくらいがちょうどいいんだ」というのがその教訓のひとつである。批判されたり悪口を言われたりするのはもちろん面白いことではない。でも少なくとも、欺かれてはいない。(「更衣室で他人の悪口を言わないで下さい」295)


@研究室
[PR]

by no828 | 2012-09-19 15:21 | 人+本=体 | Comments(0)
2012年 09月 18日

研究の本質は「さてと」と、手を止めて天井を見ている一瞬にある——森博嗣『ウェブ日記レプリカの使途』

c0131823_1754887.jpg
140(600)森博嗣『ウェブ日記レプリカの使途 I Say Essay Everyday』幻冬舎(幻冬舎文庫)、2004年。

単行本は2003年に同社より刊行。

版元 → 


 ウェブに掲載された、2000年1月から12月までの日記の書籍化。本文602ページ。「自分で書くのもおこがましいけれど、この日記シリーズ5冊が完結したときには、最も森博嗣そのもの、本人の思考と生活に一番近い内容がここに含まれていることを保証する」(10-1)とあります。この点は、過去の日記シリーズでも記されていたと記憶しています。

本当に良いものは、熱が冷めたときにわかるようです。(25.注)

 リーダの能力は、会議の長さに反比例する。(453)

 人前であがる人間ほど感受性が豊かで、人物として面白い場合が多い(面接官はそこを見よ)。(353)

 誠意と愛は、それが本当にあれば、自然に滲み出るものです。それがないときには、あるように見せかけるのがこんなに難しいものはないでしょう。(88)

昨日S儀氏とは、子供が罪を犯したとき、親に責任はあるのか、という真面目な議論をしました。これは一般論としてはなかなか成立しにくい(ケース・バイ・ケースの)テーマです。しかし、当人でない人は「親には責任はない」と言ってあげてほしいし、当の親は「私の責任です」と言ってほしい、と森は感じます(単なる願望)。(260)


つまり、10を知って1を書くのが論文で、1を知っていて10を書くのが小説かもしれませんね。(53)

実からスタートするのがジャーナリズムで、虚からスタートするのが小説だと思います。前者は実の中に虚を探し、後者は虚の中に実を見るのです。そうでなければ、他人に影響しない、つまり普遍的な価値を持たないからです。(69)

〔略〕評論とは、基本的に作品に対する「愛」の表現としてしか意味を持たない、というのが森の意見です。(77)

どこかの数学者がこう言ったそうです。「もう少しわかりやすく抽象的に説明して下さい(129)

忙しく論文を書いているときというのは、仕事をしているようで、実は単なるアウトプットなのです。研究の本質は「さてと」と、手を止めて天井を見ている一瞬にあるように思います。(197)

学問というのは(お!)、やはり、最初に発想があって、次に理論やモデルがあって、それを実験的に(あるいは数値的に)確かめる、という流れだと思うのです。それで、最も難しいのは、当然ながら最初の発想。あとはひたすら考え、ひたすら動かして証拠を見出せば良いだけで、これはある意味で労働です。「よくやったな」と褒められはするけれど、時間さえかければ誰だってできることなのです。(518)

〔略〕ようは、書くまえにどれだけ時間があるかが非常に大切なのです。2ヶ月以内に締め切りがある仕事を引き受けない原則もそのためで、ずっと以前から、それを書くことを決めていれば、ときどきそれを思い出し、日常の発想の中から、ネタを意識的にか、無意識的にか、拾い集めておくことができるわけです。(527)


 決して予想外ではありません。予想などいくらでもできます。正しくは「想定外」なのです。すべて災害を想定して施設は設計されます。その想定を超えたものが来れば、予想どおりの被害が出るでしょう。地震でも何でも同じことです。その想定は、技術というよりは、コストによって制限されます。
 そして、そのコストをかけないのは人間であって、住民であって、つまりは人々の理解に制限されているのです。
絶対安全な堤防も、許容量の高い排水設備も、無尽蔵に資金(つまり税金)をつぎ込めば技術的には可能です。そういった現状から目を逸らして、言葉だけで、「自然の猛威」とか「予想外の」で片づけてしまう姿勢こそ危険なのです。
(440)


@研究室
[PR]

by no828 | 2012-09-18 18:43 | 人+本=体 | Comments(0)
2012年 09月 17日

日々の料理を作り、仕事机をセットし、一応の本と音楽を揃え——村上春樹・稲越功一『使いみちのない風景』

c0131823_1559024.jpg
139(599)村上春樹・稲越功一『使いみちのない風景』中央公論社(中公文庫)、1998年。

版元 → 


 文章+写真。中公文庫の村上春樹は、なかなか渋いと思います。

 つまりある程度の期間その場所に腰を据えて生活をすれば、それはおそらく「住み移り」の場ということになるし、短い期間でそこを通り過ぎていくのであれば、それはおそらく旅行の場ということになる。
 僕の場合で言えば、そこで日々の料理を作り、仕事机をセットし、一応の本と音楽を揃えて——、というのがその「生活をする」ということの具体的な定義になるだろう。
 もう少しつっこんで言うなら、「住み移り」という行為には〈たしかに今は一時的な生活かもしれないけれど、もし気にいれば、この先ずっとここに住むことになるかもしれないのだ〉という可能性が含まれている。僕はそういう可能性の感覚を、あるいはコミットメントの感覚を、愛しているのかもしれない。
(26-7)

 仮の住処と思っていた場所にもう随分と長いこと住んでいますが、それを経ての実感は、どんなに短い予定でも、住むときはちゃんと住む、ちゃんと生活することが大事だ、ということです。

「いや、ここには何かもっと別のものがあったはずなんだ。これだけじゃないんだ」
 でも僕らがそのときに目にして、そのときに心をかきたてられたものは、もう戻ってはこない。
 写真はそこにあったそのままのものを写し取っているはずなのに、そこからは何か大事なものが決定的に失われている。
 でも、それもまた悪くはない。

 僕は思うのだけれど、人生においてもっとも素晴らしいものは、過ぎ去って、もう二度と戻ってくることのないものなのだから。
(108)



@研究室
[PR]

by no828 | 2012-09-17 16:18 | 人+本=体 | Comments(0)
2012年 09月 14日

IVYスタイルって、アメリカの優等生が自分と他人区別するために——矢作俊彦『リンゴォ・キッドの休日』

c0131823_17133813.jpg
138(598)矢作俊彦『リンゴォ・キッドの休日』角川書店(角川文庫)、2005年。

単行本は1978年に早川書房より刊行。

版元 → 


 本書の文脈は日本のアメリカ、直接の背景は1968年、あるいは全共闘運動、舞台は1976年の横須賀。主人公は“フリーの”刑事・二村永爾。会話に独特のテンポと位相があります。二村を主人公にしたシリーズが、以後展開されていくようです。

 矢作俊彦は『ららら科學の子』(→ )以来2冊目。矢作の問題意識がどの辺りにあるのか、ある程度推すことはできそうです。

 「蝗」の読みは、「バッタ」、あるいは「いなご」。

IVYスタイルって、アメリカの優等生〔ボックス〕が、自分と他人、区別するために考えたんじゃない? ジョンがそんなようなこと言ってたよ。あいつもそうだもん」(77)

 “服をまとうということは、思想をまとうということである”、というようなことを言ったのは誰でありましたか。


@研究室
[PR]

by no828 | 2012-09-14 17:31 | 人+本=体 | Comments(0)
2012年 09月 13日

Abbey Beer(アビィビール)

c0131823_17102163.jpg
Abbey Beer(アビィビール)

醸造元 → フランス語の「Abdij bier」で検索したのですが、探しあてられませんでした。



 M谷のKスミで見つけました。「ベルギービール」とあって、比較的安価であり、だからこそ半信半疑ではあったわけですが(以前この条件であまりおいしくないものを手に取ったことがある)、割とまじめなビールでおいしかったです。深みのある、よい苦味です。ベルギーの修道院で醸造されたことが淵源にあるようですが、アビィビール自体はそうではありません。何せ原産はベルギーではなく、フランスです。

度数:6%
原料:麦芽、ホップ
原産:フランス


@研究室
[PR]

by no828 | 2012-09-13 17:25 | ビール | Comments(0)
2012年 09月 12日

教師がおれを抑えつける根拠とは何だ? そんなものはないのだ——法月綸太郎『密閉教室』

c0131823_16453947.png
137(597)法月綸太郎『密閉教室』講談社(講談社文庫)、1991年。

本書は1988年に同社ノベルスとして刊行。「法月綸太郎」は「のりづき りんたろう」です。

版元 → 


 初 法月綸太郎です。学校を舞台にしたミステリです。真相はわからないもの、という真相が明らかになります(たぶん)。

「誰がそんなことを言った? あれにはきっと意味がある、ただその問い方がちがうんだ。本当の謎はなぜあんなことをしなければならなかったかという必然性の問いだよ。いかにして机と椅子を消したかという方法は問題じゃない(102)

 はい、概して方法は問題ではありません、と言いきりたいですが、そこまでは言いません。

「今のおれにとって最も我慢ならないのは教師という人種だ。彼らは教育と称しておれを抑えつけ、鋳型にはめようとした。おれはずっと支配されていた。このおれがだ。それも何ら正当な理由もないのに。
 教師がおれを抑えつける根拠とは何だ? そんなものはないのだ。彼らが今のおれより優れているわけではない。ただおれより先に生まれて、少しだけうまく立ち回った連中にすぎない。
そんな奴らにどうしてこのおれが従わねばならない? おれ以外の無能な連中がそうするのは仕方がない。彼らは最初からそういう仕打ちを受けるようにできているんだ。だがおれはちがう。おれは支配する人間だ。支配されることは死ぬことだ」
(309)

 最後のほうはどうでもよいのですが、最初のほう、「教師がおれを抑えつける根拠とは何だ?」の前後は割とまじめに思考すべき内容なのではないか、というふうに受け止めました。教育の根拠とは何か、教育を正当化する根拠とは何か、ということです。ここでは、あの人がこのわたしに教育することのできる根拠とは何か、という生徒(子ども)の立場からの問いかけですが、わたしはこの子に教育できるのはなぜか、という教師(大人)の立場からの問いかけにすることもできます。後者の問いは、これまでの研究で正面から問えていないのですが(だからかたちを変えて問うているのですが)、実はわたしの喉元にずっとひっかかっているものでもあります。


@研究室
[PR]

by no828 | 2012-09-12 17:11 | 人+本=体 | Comments(0)
2012年 09月 11日

大きく違うのは、まだ人生は終わっていないと考えることができるところです——新野剛志『八月のマルクス』

c0131823_1426494.png
136(596)新野剛志『八月のマルクス』講談社(講談社文庫)、2002年。

単行本は1999年に同社より刊行。「新野剛志」の読みは「しんの たけし」。

版元 → 


 古本屋の棚に据えられた背表紙のタイトルを見て(それだけで、に近い)買いました。しかし、カールのことではありませんでした。

 著者紹介欄に「'95年、「自分にイヤ気がさし」会社にも実家にも無断で失踪。ホームレス生活のなかで応募原稿を書き続け、'99年末、本作品で第45回江戸川乱歩賞を受賞」とあります。

 伏線がきちんと回収されていく、ばらばらに垂れ下がった複数の糸が縒り合わさっていく、そういう感覚を得られます。

 34ページに「親告罪」という言葉が出てきます。「申告罪」の誤植かと思いましたが、「親告罪」で合っていました。告訴がないと公訴できない、公訴するには告訴が必要、そういう罪のことのようです。本文からもそうした意味合いは確認できました。であるがゆえにわたしは、“被害者が申告しないと訴えることができないのだから「申告罪」なのではないか”と思ったのでした。

 いつものように引用は本筋に関係ありませんが、今回のところは看護学校で教えながら——とはいえ「基礎科目」ですが——“病を受け入れる”の意味がよくわからないなと思ってきたことに関係します。「受け入れる」とは何か。
「〔略〕最後、三段階目は受容です。自分は癌にかかり死んでいく、それを動かしがたい事実として受け入れるのだそうです。諦めに近いようですが、大きく違うのは、まだ人生は終わっていないと考えることができるところです。死ぬまで生活を続くし、人生も続いているのだという境地でしょう。ホスピスでは早くこの三段階目に持っていこうとカウンセリングを行うらしい。そこに至れば、ホスピスでは痛みを和らげる処置も施しますから、痛みに対する恐怖心からも解放され、平穏に残りの日々を送れるのです」(95)

 ちなみに一段階目は憤り、二段階目は無意味な希望、です。こういう段階論はわたしも読んだことがあります。しかし、三段階目だと判断されるところまで行っても、憤りが芽生えたり、希望を託してみたり、そういうこともあるのではないか、本当に「平穏」一色の日々を送ることができるのかと、思いました。もちろん憶測の域を出ませんが、憶測しかできない立場の人間はそれを押しつけることなく仮説的に物事を考えておく必要はあると思っています。


@研究室
[PR]

by no828 | 2012-09-11 14:49 | 人+本=体 | Comments(0)