思索の森と空の群青

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2012年 10月 31日

科学はどこにあるか、科学を出して見せてくれ——養老孟司『カミとヒトの解剖学』

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157(617)養老孟司『カミとヒトの解剖学』筑摩書房(ちくま文庫)、2002年。

版元 → 

単行本は1992年に法藏館より刊行。


 実験や観察による「事実」を根拠に物事を主張する科学、と宗教との同型性。科学を宗教的に処遇することの危険性。わからないことは、やはり、わからない。

 私は、根本的には、存在するものは個人しかない、と思っている。国や社会や組織があることは、とりあえず認める。しかし、それはあくまでも人間の約束事である。だから、時代によって変化する。そればかりではない。所詮作りものだから、人間側の都合次第で、年中変化する。〔略〕
 人間そのものはどうか。教育次第でたしかに変化する。しかし、遺伝的にはほとんど変わらない。少なくとも現代人と呼ばれる種類の生物は、ここ五万年ほど、解剖学上はほとんど変化していない。
(16)

 西欧における宗教と自然科学は表裏の関係にある、という指摘のあとに。
 宗教であれ、科学であれ、なんらかの合理性を扱う以上は、論理整合性という要求と、現実との適合性という要請の、二つを満たさなくてはならない。これをまとめて、合理性と呼ぶらしい。つまり、論理整合性とは、脳の中の合理性である。脳内の回路に、余計な分岐や、無関係な筋道が入っていない、ということである。現実との適合性とは、脳と外界との一致、不一致である。脳内でいかに能率のよい回路を組んだとしても、現実に応用できなければ、宝の持ち腐れである。外界の事物を対象に、この点を解決しようとする方法が、自然科学であろう。他方、宗教はヒトとその社会を対象として、同じことをやろうとする。(33)

 養老先生のは科学ではない、と言われた(批判された)ときに。
〔略〕相手は、科学というのは唯物論的であり、しかも抽象普遍性がある主張する。だから私は、すこし意地が悪いと思ったが、それなら「科学はどこにあるか、科学を出して見せてくれ」といった。唯物論者なら唯物論者らしく、抽象普遍だの科学だのという「ものでないもの」の存在を信じなければいい。現に読めるのだから、私は論文の存在は信じる。現に目の前にいるのだから、科学者の存在も信じる。しかし、目の前に出してくれなきゃ、「科学」の存在は信じない。そういう私の方がはるかに「実証的」「科学的」ではないか。(41)

 すべてのヒトは、異なった人生を歩む。したがって、すべての死は異なっている。すべての生が異なっているように。だから、明らかなことが一つある。死の観念を統一しようとする試みは、どこか誤っているのである。そこでは、私は、極端な個人主義者である。(80)

墓の形式に強い必然性はない。それが墓だという約束事さえあれば、どのような形でもとり得るという意味において、墓はまさしく抽象である。
 抽象とはなにか。それは頭の中の出来事である。頭の中の出来事というのは、感情を別にすれば、つまりはつじつま合わせである。要するに頭の中でどこかつじつまが合わない。そこで頭の外に墓が発生するわけだが、どこのつじつまが合わないかと言えば、それは昨日まで元気で生きていた人間が今日は死んでしまってどこにも居ない、そこであろう。だから墓というものを作って、なんとかつじつまを合わせる。
(99)

 不気味さは生首の性質ではない。じつは主体、すなわち見る者の判断である。それを、しかし、対象すなわち生首の属性と考える。ここに差別が発生する心理的な要因がある。生首は文句を言わないから、これは現実の社会的差別にはならない。しかし、相手が生身の生きた人間であり、その人に、その人の属性ではないものを属性として押しつける。押しつけた意識は、押しつけた当人にはない。その場合、押しつけられた側は、そこで「差別された」と感じるのである。(258)


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by no828 | 2012-10-31 17:04 | 人+本=体 | Comments(0)
2012年 10月 29日

細々となっても必ず続けていくことが大切。一度決めたらやめちゃだめだ——最相葉月『ビヨンド・エジソン』

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156(616)最相葉月『ビヨンド・エジソン——12人の博士が見つめる未来』ポプラ社(ポプラ文庫)、2012年。

版元 → 

単行本は2009年に同社より刊行。


 新刊を買いました。副題にありますように、「12人の博士」が登場します。自らの研究人生に衝撃を与えた書物1冊に導かれながら、研究の来し方が開示されていきます。“ちょっとしたこと”がその人の研究人生を動かしている局面に出会えます。そういうものかもしれません。わたしも10年後20年後に振り返ったとき、そんな“ちょっとしたこと”を見つけるのかもしれません。

 自然科学からのみの人選ではありますが、研究者一般におすすめです。とりわけ周りに切磋琢磨できる人がいないと嘆く人には、その「周り」をもう少し広げて人を探すことに加え、書物でしか触れ合えない人に触発される、そういうことも可能だということが示されることになります。

 ちなみに表紙デザインはクラフト・エヴィング商會です。

「一番いけないのは、研究を中絶することなんだ。何でもいいからとにかく手を着けて、研究を続けることが大切です」。寺田〔寅彦〕のこの言葉があればこそ、中谷〔宇吉郎〕は実験器具も何もない北大で雪の研究に着手することができたのだと知った。
「この言葉は私の中に響いています。研究者をしていると、研究に没頭できる時期とできない時期があります。私自身、授業や会議があって、研究をまったくやらない時期がたまにできてしまうんです。そうすると、もう一回始めるのはなかなかむずかしい。がんばろうと気持ちを奮い立たせないといけません。ですから、たとえ細々となっても必ず続けていくことが大切。一度決めたらやめちゃだめだと。前〔晋爾〕先生がおっしゃっていた低空飛行の話とあいまって、私の心に残っています」
(「第5章 南極の「空気の化石」に地球の歴史を見る——物理学者・深沢倫子と雪博士・中谷宇吉郎の随筆集」112)

 学習障碍の一種であるディスレクシアにはさまざまなタイプがあるのですべてにあてはまるわけではないが、このとき奇しくも峯松は、音声の物理学に基づいて彼らの存在をいい当てていたのである。驚きとともに、怒りがこみあげていた。音楽の場合、音楽を聞いて音名や階名がつけられない相対音感者であっても音楽は問題なく楽しめる。彼らを障碍者として扱うことはない。ところが、言葉の場合、文字の読み書きができないというだけで社会は彼らを障碍者にしている、と。
そういう社会にしたわれわれが悪いと思いました
(「第6章 言葉の不思議を探究する——音声工学者・峯松信明と動物科学者テンプル・グランディンの自閉症報告」127)

「残念ながら、犠牲者が三〇〇人ぐらいでは、どんなにうちがいいワクチンの候補をつくっても製品にしてくれないのです。インフルエンザだと先進国の人でも罹るのでどんどんお金を出すのでしょうが、開発途上国で死にゆく子どもたちには出さないんですね。WHOや日本政府がなんとかしてくださればと思うのですけど。私たちは、研究はできるけど自分たちでワクチンを打つことはできません。認可が必要です。でも目の前で人が死んでいくのを見たら、なんとかしたいと思いますよね。だからつくっておくことは大事なんです。それが今の私たちにできることだと思います(「第7章 ウイルスが紡ぐ生命の物語——ウイルス学者・甲斐知恵子と物理学者マリー・キュリー伝」145)

「〔大谷光瑞には〕橘瑞超という直弟子がいたのですが、彼に学校なんか行かなくていい、その代わりに自分が一番よい教育をしてやるといって探検させている。私たちも、デスクワークでは人は育たない、現地主義、現場主義が大切だというけれど、大谷が橘を育てていくあの迫力にはとてもかなわない。洞察力の優れた人物だったのだろうと思いました。もちろん教育は片側の情熱だけではだめですから、大谷の期待に応えた橘も優れた人物だったのでしょう(「第8章 黄砂は「空飛ぶ化学工場」——物理学者・岩坂泰信と探検家・大谷光瑞伝」173)

「通常、博士論文を書くには二、三年かかるのですが、そのころ、母のがんが再発していつでも日本に帰れるようにしなければならなかったので、実質四、五か月で書きました。驚異的に早〔ママ〕かったと思います。楽しかったのは、研究室の友人五名とリーディンググループをつくって博士論文を書くのを助けてもらったことですね。毎週私がひとつの章を書き上げるたびに、それを五人に配る。うちに集まってもらって私が夕飯とお酒をふるまう代わりに、みんなは私の書いたその章を丁寧に読んでお酒を飲みながらコメントしてくれる、といった集まりです。これが数か月のあいだ、ほぼ毎週続きました。おかげで着々と進みました。英語を直してもらったり、意味がよくわからないところを指摘してもらったり……。結局、その五人はみんな同じようなリーディンググループをつくって、博士論文を仕上げました」(「第9章 人間とコンピュータの対話をデザインする——情報科学者・中小路久美代と作曲家モーツァルト伝」188-9)


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by no828 | 2012-10-29 16:04 | 人+本=体 | Comments(0)
2012年 10月 26日

文字に書かれたものの不滅は、行動の不滅に比べたら、はるかに卑しげであった——三島由紀夫『鏡子の家』

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155(615)三島由紀夫『鏡子の家』新潮社(新潮文庫)、1964年。

版元 → 

単行本は1959年に同社より刊行。


 鏡子の家に集う男たちのお話。あるいは肉体と美のお話。肉体と美が否定ないし過剰肯定されると、死か国家へ向かいます。三島由紀夫が凝縮された作品のように思いました(全部読んだわけではありませんが)。

 思想は筋肉のように明瞭でなければならぬ。内面の闇に埋もれたあいまいな形をした思想などよりも、筋肉が思想を代行したほうがはるかにましである。なぜなら筋肉は厳密に個人に属しつつ、感情よりもずっと普遍的である点で、言葉に似ているけれど、言葉よりもずっと明晰である点で、言葉よりもすぐれた「思想の媒体」なのである。(76)

 考える人間の、樹木のようなゆっくりした生成は、峻吉の目には、憐れむべき植物的偏見としか映らなかった。文字に書かれたものの不滅は、行動の不滅に比べたら、はるかに卑しげであった。なぜならその価値自体が不滅を生むのではなく、不滅が保証されてはじめて価値が生ずるのであるから。そればかりではない。思考する人たちは、行動を比喩に使うことなしには、一歩も前進できない。大論争の勝利者なるものが、目の前に血みどろになって倒れている敵手〔あいて〕の体を見下しているときの勝利者を思いうかべることなしに、どうして快感にひたれるだろうか?(112)

 見て、感じて、描くこと。この活きて動いている世界を、色と形だけの、静止した純粋な物象に変えてしまうこと。それは何か怖ろしいことだったが、夏雄はその怖ろしさを感ぜず、最初恐怖を抱いた両親も、いつしか世間的な評価を担った才能という言葉に安心した。それはしかし依然として怖ろしいことだった。彼は物を見、事実彼には何かが見えるのだった!(127)

 決して忘れてならないことは、健全な社会人が芸術家に向って殊更示したがる劣等感、自分に芸術的感覚も芸術的才能もないと卑下したがる気持には、彼らの本音はなくて、それどころか私かな満足さえひそんでいるということだった。こういう卑下は通例真赤な贋物〔にせもの〕で、決して真に受けてはならなかった。(251)

そんなに筋肉が大切なら、年をとらないうちに、一等美しいときに自殺してしまえばいいんです(253)

「こんな世の中に生きてゆくことが、生きてゆくように助けてやることが、自殺の救済が、善いことだなんて誰が決めたの。私のやってきたことは、一寸手荒な安死術にすぎないの。あの一家心中の家族が、目先の急場を救われたところで、先には何の望みもないし、親に殺された子供たちは仕合せだったんです。
 ひどい暮しをしながら、生きているだけでも仕合せだと思うなんて、奴隷の考えね。一方では、人並な安楽な暮しをして、生きているのが仕合せだと思っているのは、動物の感じ方ね。世の中が、人間らしい感じ方、人間らしい考え方をさせないように、みんなを盲らにしてしまったんです」
(324-5)



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by no828 | 2012-10-26 16:10 | 人+本=体 | Comments(0)
2012年 10月 24日

違うのは、そこでたった一人で酒をのんでいる、ということだけだった——椎名誠『新橋烏森口青春篇』

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154(614)椎名誠『新橋烏森口青春篇』新潮社(新潮文庫)、1991年。

版元 → 

単行本は1987年に同社より刊行。

 
 『哀愁の町に霧が降るのだ』の続編と知って読みました。『哀愁』は大学院に入ったばかりの頃に(このブログをはじめる前に)古本屋で見つけて読み、その経済的に貧しいなかでの(たしか)4人の破天荒な共同生活に憧れを抱いたものでした。本書は共同生活解散後のお話、とくに椎名氏が小さな出版社に就職してからのお話です。ちなみにさらなる続編として文庫版2分冊の『銀座のカラス』があるようです。古本屋で下巻のみ購入済みです。上巻を探します。

 その大衆酒場は、共同生活をしていた仲間たちと、すこし小遣いに余裕があるとでかけた店だった。その日、何年ぶりかで入ってみたのだが、店の中の造作も、店の人もそしてそこで出されるメニューも殆ど変わっていなかった。
 違うのは、そこでたった一人で酒をのんでいる、ということだけだった。
仲間たちと共同生活をしていた時は、必ず誰かと一緒に大いに陽気に貧乏酒をのんでいたのである。
(250)


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by no828 | 2012-10-24 17:12 | 人+本=体 | Comments(0)
2012年 10月 22日

琥珀ヱビス(サッポロビール)

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琥珀ヱビス(サッポロビール)

醸造元 →  


 限定醸造。今年も出ました。果実感と苦味のよいバランスの上に成立しています。講義90分×2コマをしゃべり続けるとそれはそれはのども乾くわけでありますが、そんな日の講義明けにスーパーで発見をしましてそれそれは気持ち駆け上がること急勾配になりまして、より一層おいしくいただいたわけであります。

 色もきれいですね。

 原料:麦芽、ホップ
 度数:5.5%
 原産:日本


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by no828 | 2012-10-22 18:35 | ビール | Comments(0)
2012年 10月 18日

学問を支えるのは今も昔も「個人」である。真の学問の自由がそこから生じる——養老孟司『からだの見方』

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153(613)養老孟司『からだの見方』筑摩書房(ちくま文庫)、1994年。

版元 → 

単行本は1988年に同書房より刊行。


 前にも書いたかもしれませんが、わたしが養老孟司を信頼するのは、養老がわからないことについてはきちんと「わからない」と書くからです。

 私は中学、高校を通じて、幸か不幸か、イエズス会の学校で教育を受けた。キリスト教そのものは、私にとって関心外だったから、当時から知らぬ顔を決めこんでいた。しかし、この頃に受けた教育が、なにやら自分に影響しているらしいと気がついたのは、すでにひと昔前、不惑に近づいたころのことである。以来いまもって、特定の宗教に帰依しているわけではないけれども、こころや身体について考えるときに、どこかで宗教的な観点にも考慮を払っていることに気づく。宗教の存在がどうも意識から抜けない。だから、解剖学のように「こころ」や「身体」、そして「死」を考えざるを得ない、妙な職業についたのかもしれない。(「脳とこころの並行関係」92)

 わたしは幼稚園がキリスト教で、そのあと小4から中3までその学校に付設された英語学校へ通っていました。その影響はまさに身体に浸透していると、自分に対する認識が深まれば深まるほど、自覚の度合いが進めば進むほど、感じます。

〔略〕科学は本質的には正当化を求めない。むしろつねに訂正を求める。(「脳とこころの並行関係」101)

 哲学は正当化を求めます、というより、正当化をするのも哲学の役割です、と言ったほうがよいかもしれません。

つまり、究極的に物事がわからないからといって、それについて考えないというのなら、別段なにごとであれ、とくに考える必要はない。〔略〕問題は「どこまでわかるか」であって、問が解けるか否かではない。ここは究極を問題とする宗教や哲学と、自然科学、あるいは経験科学の違うところである。(「脳とこころの並行関係」102)

 分類とは、事実が先にあって、ヒトがそれをある見方で整理するものである。だから、分類は、あくまでも事実の見方の問題であって、真理の問題ではない。(「医学における分類・整理」127)

 理屈にならないと決めた時から、当たり前の話だが、もはや理屈にはならない。ほんとうは、理屈にする気が無いだけのことである。理で詰めようとすれば、まだ詰まるかもしれない。何事も、やってみなければわからない。(「色気の論理」156)

 研究というのは、のんびり着実でなくては、成果が出ない。(「メスの刃先」171)

 わたしはつんのめって研究してきたきらいがありますが、そうではないあり方もあったはずだと最近強く感じています。これからはその「そうではないあり方」、つまり「のんびり着実」という側面をきちんと意識して研究を進めていきたいと考えています。

 個性を尊重するのは、真の個性がまれだからであろう。しかし、人は一人ひとりみな違う。それが見えないのは、見る目がないせいかもしれないのである。(「メスの刃先」176)

 学問を支えるのは、今も昔も、本当は「個人」である。真の学問の自由がそこから生じる。だから私は、できるだけ個人のお金で研究をしたい。そう望んでいる。第一、私の研究がなんの役に立つのか、本人にもよくわからない。それでむやみに税金を使ったのでは国民に申しわけない。(「学問とお金」200-1)

 個人のお金で研究せざるをえないわたしはこの意見に共感するところ大であります。自腹を切ることは大切です。というか、自腹を切るほどにそれは自分にとって大切なことなのか、という自問を常にしなければなりませんから、感度が上がります。

つまり、自分として良い考えだと思うものが浮かぶときは、どういう考え方をしているか。それはつねに、ごく素直に考えた時である。良いことを考えようとか、独創的な思い付きはないだろうかとか、そういうことははじめから考えていない。興味のある問題について、論理の筋をただ素直に追っているのである。(「これを楽しむにしかず」236)

 「独創的な思い付きはないだろうか」という構えでは、たしかに独創的な思い付きはできません。(経験則)


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by no828 | 2012-10-18 16:53 | 人+本=体 | Comments(0)
2012年 10月 17日

君んちのママは中卒で、柿沼んちは大卒だろう。どうしてだ?——宗田理『ぼくらの七日間戦争』

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152(612)宗田理『ぼくらの七日間戦争』角川書店(角川文庫)、1985年。

版元 → 

単行本の情報は記載されていません。最初から文庫で出版されたのでしょうか。


 あまりにも有名な本なので敬遠してきた経緯があります。内容は、学生運動(全共闘)を経験した世代の子どもが中学生という設定です。その中学生が「解放区」を作って大人に反抗します。学校教育にも関係あるはずだし、と思って読むことにしました。

「だって、うちのママは、柿沼君のママの相談相手だもん」
君んちのママは中卒で、柿沼んちは大卒だろう。どうしてだ?
(119)

 これは本書のなかでもっとも驚いた場面です。今から振り返れば、時代に制約された認識、ということになるでしょうか。

えらい奴が、立派なことを言うときは、気をつけた方がいい
「じゃ、総理大臣が言ったら」
〔略〕
「あぶねえ、あぶねえ。政治家が子どものことに口出しして、ろくなことはねえ。ほら、最近言ってるだろう。少女雑誌に有害なのがあるとか」
(79)

「おとなって、どうして子どもにうるさく言うのかな?」
「そりゃ、いいおとなにしたいからさ」
いいおとなって何?
えらい人の言うことをよく聞く人間だ
(80)

「われわれは、子どもを“いい子”にしようとしています。われわれのいう“いい子”とはなんでしょうか? それは、おとなのミニチュアですよ。つまり、おとなになったとき、社会の一員として、役に立つように仕込むのが教育なのです(373)

「うそだ。おれは、お前たちを立派な人間にしたい。ただそれだけを思ってしごいているんだ。おれには私心はひとかけらもない。このおれの真情が、お前らにはどうしてわからないんだ」
その、正義の味方ってのが困るんだよな
(145)

「大体、親も勝手ですよ。家庭のしつけなんてものは皆無。まるで狼少年みたいなガキを学校に送りこんでおいて、まともにならなきゃ教師の責任とくるんですからね。そのくせ、厳しくやれば管理教育。じゃあ、どうしろと言うんですか?」
〔略〕
「君の言うとおりだ。だから教師たる者は、雑音に惑わされない情熱と信念が必要なのだ。ところが、信念をもって行動しようとすると、必ずリアクションがある。こんどのことも、それが原因ではないかと思っとるんだ」
(251)


問題ってのは、出されるより出す方がおもしろいな(284)



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by no828 | 2012-10-17 16:57 | 人+本=体 | Comments(0)
2012年 10月 14日

Anchor Steam Beer

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Anchor Steam Beer (Anchor Brewing)

醸造元 → 


 ラガーの王道。喉元へ二言なし。すっきり、でもしっかりビールを飲みたいときに、どうぞ。

 度数:4.9%
 原料:麦芽、ホップ
 原産:アメリカ


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by no828 | 2012-10-14 15:26 | ビール | Comments(0)
2012年 10月 12日

ことばがことばであり、ことばでしかない世界——村上春樹『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』

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151(611)村上春樹『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』新潮社(新潮文庫)、2002年。

版元 → 

単行本は1999年に平凡社より刊行。


 村上春樹のスコットランド&アイルランドのウィスキー旅行記。収められた写真は、奥さんの陽子さんが撮影されたもののようです。

 彼の地では、「ロック」という飲み方はしないそうです。ウィスキーをストレートで飲みながらチェーサーとしての水をその隣に置いておくか、その水をウィスキー・グラスに注いで「水割り」にするか、そのどちらかが常道だそうです。

 村上がパブで出会った、そして97ページから109ページにかけて展開された、ひとりの老紳士についての叙述が、印象に残っています。

ささやかな本ではあるけれど、読んだあとで(もし仮にあなたが一滴もアルコールが飲めなかったとしても)、「ああ、そうだな、一人でどこか遠くに行って、その土地のおいしいウィスキーを飲んでみたいな」という気持ちになっていただけたとしたら、筆者としてはすごく嬉しい。(12)

 なりました、すごく。

 もし僕らのことばがウィスキーであったなら、もちろん、これほど苦労することもなかったはずだ。僕は黙ってグラスを差し出し、あなたはそれを受け取って静かに喉に送り込む、それだけですんだはずだ。とてもシンプルで、とても親密で、とても正確だ。しかし残念ながら、僕らはことばがことばであり、ことばでしかない世界に住んでいる。僕らはすべてのものごとを、何かべつの素面のものに置き換えて語り、その限定性の中で生きていくしかない。でも例外的に、ほんのわずかな幸福な瞬間に、僕らのことばはほんとうにウィスキーになることがある。そして僕らは——少なくとも僕はということだけれど——いつもそのような瞬間を夢見て生きているのだ。もし僕らのことばがウィスキーであったなら、と。(12-3.傍点省略)


 そしてわたしは「アイルランド」と聞くと、椎名林檎の「茜さす 帰路照らされど…」が自然と流れてくるのであります。


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by no828 | 2012-10-12 15:42 | 人+本=体 | Comments(0)
2012年 10月 11日

聞くことができないのです。聞いた言葉を理解する頭がないのです——岡嶋二人『99%の誘拐』

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150(610)岡嶋二人『99%の誘拐』講談社(講談社文庫)、2004年。

版元 → 

単行本は1988年に徳間書店より刊行、1990年に徳間文庫、第10回吉川英治文学新人賞。


 初 岡嶋二人。タイトル買いというやつです。寝る前に読むのにほどよい軽さです、というのは、貶し言葉ではなく褒め言葉です(本当に)。このほどよさに出会うのは、なかなか難しいです(個人的に)。
 
 でもお前が知りたいと思った時、私が話してあげられるかどうかわからない。慎吾、お前には、自分がどんなことをされたのか、知る権利がある。知るのを拒否する権利ももちろんあるが、知る権利だって持っている。(11)

 「知るのを拒否する権利」は、法的に立てることはできるかもしれませんが、原理的には存在しえない、とわたしは考えています。知らないもの・ことを拒否することはできません。自分にとって知らないもの・ことは何かを知っている、という状況でなければ、拒否することすらできません。それはもう、「知っている」状態なのではないか、と考えるわけです。もちろんこれは、教育という営みとの関係で考えています。

「現在、完全な形の音声応答システムというのは、まだ出来上がっていないのです。コンピュータに言葉を喋らせることはできます。しかし、人間の言葉を聞き取り、その言葉の意味を理解して返答するといったシステムは、現在研究段階で出来上がってはいません。喋ることは今のシステムでもできますが、聞くことができないのです。聞いた言葉を理解する頭がないのです。世界のどこへ行っても、完璧な応答システムはまだ完成していないはずです」(200)

 文脈の存在もあるでしょう。今でもそうなのでしょうか、というのは素朴な疑問です。そうでないとすれば、「聞く」というよりも——むしろ「聞く」ことはできるのでは?——「聴く」というのは、かなり複雑な「行為」ということになります。機械はそもそも行為することはできるのでしょうか。それはつまり、機械は「意志」なるものを内在させることができるのか、ということでもあります。


@研究室
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by no828 | 2012-10-11 18:00 | 人+本=体 | Comments(0)