思索の森と空の群青

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2012年 11月 28日

非常識な出来事の原因は非常識であるべきだな——京極夏彦『どすこい。』

c0131823_17405730.jpg京極夏彦『どすこい。』集英社(集英社文庫)、2004年。168(628)

単行本は『どすこい(仮)』として2000年に同社より、また、新書版が『どすこい(安)』として2002年に刊行。

版元 → 


 余裕はあまりないのですが……どすこい。

 京極夏彦はこういう作品も書くんですね。寝っころがって読むのにも余りあるほどの(考え尽くされた)無意味な作品です。次の作品が前の作品をメタ的に位置付けていくような構造で短篇が連作されています。

一同は、緊張感も焦燥感も同時に喪失した。そうなると人間は自堕落になる。(233)

「そうだなあ。非常識な出来事の原因は非常識であるべきだな(510)

 百鬼夜行シリーズであれば、「非常識な出来事の原因は常識であるべきだな」になると思いました。

 O先生は完全な覆面作家で、性別を除けば一切の私的情報を公表していない。著作に著者近影すら載せないという徹底ぶりである。読者との接点をテキストだけに絞り込むという考え方は大いに賛同できるし、常常見習いたいと思っている。(422)

 これは京極夏彦自身の考え方では必ずしもないようです。→ 

 誤植(と思われる箇所)
 誤 自身(300ページ、7行目・8行目)
 正 自信

@研究室
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by no828 | 2012-11-28 17:56 | 人+本=体 | Comments(2)
2012年 11月 22日

自分の不幸を見つめて暮すほかに、その不幸からのがれる道がない——三島由紀夫『禁色』

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三島由紀夫『禁色』新潮社(新潮文庫)、1964年。167(627)

単行本は、第一部が1951年に、第二部が1953年に、それぞれ同社より刊行。文庫版は1冊。

版元 → 


 本文573ページ。非常勤講師先が遠いので、分厚い本を持って行き帰りに読もうとしています。「行き」は大体、講義の予習に費やされがちですが……。

 本作品では、老齢の男性作家が女性(具体的、一般的)に対する復讐が試みられるのですが、その復讐は自分では行なわずに、「男色」の青年に行なわせる、ということになっています。

 同じ作者の本を何冊も読んでいると、その作者の主張を通奏低音として聴くことができます。

 檜俊輔氏の作品には、不測の、不安の、不吉の、——不幸の、不倫の、不軌の、——あらゆる負数の美が描かれている。(9)

 われわれが思想と呼んでいるものは、事前に生れるのではなく、事後に生れるのである。まずそれは偶然と衝動によって犯した一つの行為の、弁護人として登場する。弁護人はその行為に意味と理論を与え、偶然を必然に、衝動を意志に置きかえる。思想は電信柱にぶつかった盲人の怪我を治しはしないが、少くとも怪我の原因を盲目のせいではなく電信柱のせいにする力をもっている。一つ一つの行為にのこらず事後の理論がつけられると、理論は体系となり、彼、行為の主体はありとあらゆる行為の蓋然性にすぎなくなる。(11)

 彼にとって、思想とは、黒子のように偶発的な原因から生れ、外界との反応によって必然化する、それ自体の力は持たない或るものなのだ。思想はかくて過失、いわば生れながらの過失のようなものであり、まず抽象的な思想が生れてそれが肉体化されるということはありえず、思想ははじめから、肉体の何らかの誇張の様式なのだ。(545)

 さて灯を消したとき、彼は想像力の放恣にたよった。模写はもっとも独創的な行為である。模写に携わっているそのあいだ、悠一は自分が何ものをも手本にしちえないことを感じていた。本能は人を凡庸な独創に酔わせるが、本能にそむいた苦しい独創の意識は彼を酔わせなかった。(69-70)

道徳とは何事なのか? たとえばただ相手が金持だというだけの理由で、金持の館の窓に投石する貧民のしわざが不道徳だと云えるだろうか? 道徳とは理由づけを普遍化することによって理由を消滅させる或る創造的な作用ではあるまいか。たとえば今日なお親孝行は道徳的であるが、その理由が消滅しているために一そう道徳的なのである。(270-1)

単なる贈与をお互いに愛と考えねばならぬことは、贈与という純粋な行為に対する不可避の冒瀆としか思われず、同じあやまちをくりかえすごとに、味わうのはいつも屈辱であった。(296)

自分の不幸を見つめて暮すほかに、その不幸からのがれる道がないということを、教えて下さっただけになるものな」(312)

「愛する者はいつも寛大で、愛される者はいつも残酷さ」(419)

「しかし真の重要な問題は、表現と行為との同時性が可能かということだ。それについては、人間は一つだけ知っている。それは死なのだ。
 死は行為だが、これほど一回的な究極的な行為はない。……そうだ、私は言いまちがえた」と俊輔は莞爾とした。
「死は事実にすぎぬ。行為の死は、自殺と言い直すべきだろう。人は自分の意志によって生れることはできぬが、意志によって死ぬことはできる。これが古来のあらゆる自殺哲学の根本命題だ。しかし、死において、自殺という行為と、生の全的な表現との同時性が可能であることは疑いを容れない。最高の瞬間の表現は死に俟たねばならない」
(568)


@研究室
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by no828 | 2012-11-22 17:59 | 人+本=体 | Comments(0)
2012年 11月 19日

骨になったっていまだに死んでないじゃないか——養老孟司・吉田直哉『対談 目から脳に抜ける話』

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養老孟司・吉田直哉『対談 目から脳に抜ける話』筑摩書房(ちくま文庫)、2000年。166(626)

単行本は1994年に同書房より刊行。

版元 → 


 ここのところ余裕があまりなく、自分で文章を立ち上げられません。本のレビューが続くのはそのためです。コメントへの応答ができないという不義理が続きますのもそのためです。ご容赦を。 

養老 〔略〕目的性ということが一体どこから出来たか、どうしてもこれは、まず「時」が入ってます。時を先取りしないと目的はそもそも成り立ちませんから。〔略〕何々のために、という説明がどうして非科学的だと言われたかということなんですけど、よく考えてみますと、目的論というのは、一つまずい点があるんですよ。それは、状況が予め前提にされているということなんです。進化の過程なんか考えますと、世界がどうなるかということを生物は知らないわけです。知らない世界に合わせるというのは、事実上意味をなさなくなっちゃうわけですね。それで常に後知恵として環境に適応しているというふうに言うんですけど、これはあくまでも後知恵であって、その時の生物の立場になってみると、何が良いか悪いかということはわからないわけですよね。(73-4)

養老 もしそういう手術を真面目にやると、失敗します。私もインターンの時、八時間の手術についたことがありますけど、実は手術の失敗って、思わぬところに穴があるんですね。一番基本的なことに気が付かない、人間ってのは一生懸命になりゃいいってもんじゃないですね。何回もやった方はご存じかと思いますが、一生懸命になってる時に何かポカッと落ちてるんですね。(150-1)

養老 そうですね。「生きてる」って言い方はおかしいですけど、生きてた時にもってる機能をいまだに保存しているという意味では、保存しているわけですから。骨になっても死んでるんじゃないってのは、つまりある種の機能は残ってる、つまり支持する機能は残ってるわけですね、硬さという。それを思えば「骨になったっていまだに死んでないじゃないか」って言えば、死んでないところはあると。歯なんか典型的にそうですね。(165)

吉田 「アインマル・イスト・カインマル」——たった一回の実験結果はつまり無かったに等しい——ドイツ語でそう言うのが私の父の師の佐々木隆興先生の口ぐせで、父にとって最も肝に銘じたモットーだった、ということを思い出しました。(176)

吉田 それと同じようにおれはだめだって自分の方から出ていける組織が人体にあるとして、吉田はいやだから養老さんの方に行きたいとかいう、何かこれはオカルト的ですけれども、臓器が意志をもって、こっちは移植してると思ってんだけれどもむしろ臓器が叫んでるんじゃないか、ほかへ移って生きたいと。だから臓器移植という手術を、みんながやりたくなるし、やらなきゃいけないと思ってるし、いろいろ問題が起こってくる事態になってるんじゃないか、と思うんです。アナロジーですけれども……。
養老 面白いですね。実感がわいてきますね。
(236)

養老 〔略〕科学の世界像っていうのは、常に固いように見えますけれど、よく見れば決して固くはないですね。グチャグチャです、あんなものは。(238)


@研究室
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by no828 | 2012-11-19 14:21 | 人+本=体 | Comments(0)
2012年 11月 16日

「愛」は、物理的な量としての時間のなかで、「情」をこまめに積み重ね——森巣博『セクスペリエンス』

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森巣博『セクスペリエンス』集英社(集英社文庫)、2006年。165(625)

単行本は2002年に同社より刊行。

版元 → 


 著者は「国際博奕打ち」。『無境界の人』『無境界家族』などをおもしろく読みました。本書は、オーストラリアを舞台にした女性の生/性の物語です(experience(経験)の頭に s を付けたのがタイトルです。そういうことです)。博奕も絡みます。デュルケームや上野千鶴子からの引用がいきなり出てきたりもします。

 ちなみに、森巣の、「パートナー」という表現をすればよいのかよくわかりませんが、それは日本思想史のテッサ・モーリス=スズキです。

 緊張・分裂・高揚・収縮・解放・弛緩の過程を博奕は踏む。時空間が消滅し「自我」が溶解する。「集中する」とはそういうことなのだ。(8)

「合意である、合意でない、という部分は、この際、無関係です。教える者〔ティーチャー〕と教わる者〔トウト〕という権力構造のなかでは、それがたとえ合意のもとであったとしても、選択の幅は既に歪められています(69)

 物理的自由とは、行動の幅であり、心理的自由とは、「想像」と「主体」との距離である(96)

「愛」は、物理的な量としての時間のなかで、「情」をこまめに積み重ね、幸にしろ不幸にしろ、体験と記憶の厖大な共有によって形づくられていくものではないのだろうか。(126)

 もっとも、現代理論物理学では、真空とは、
 ——なにもない、
 状態なのでは決してなくて、
 ——真空というなにかがある
 状態だそうだ。
(261)


@新しい研究室
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by no828 | 2012-11-16 19:34 | 人+本=体 | Comments(0)
2012年 11月 14日

ひと口めより、ふた口めの方がおいしい——吉田篤弘『それからはスープのことばかり考えて暮らした』

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吉田篤弘『それからはスープのことばかり考えて暮らした』中央公論新社(中公文庫)、2009年。164(624)

単行本は2006年に 暮しの手帖社 より刊行。

版元 → 


 連作短篇集。日常を丁寧に生きることの大切さ、がじわじわと感じられる物語です。タイトルも好きです。そのタイトルに近い文章が43ページに出てきたりします(タイトルそのままではない)。ちなみに著者は、クラフト・エヴィング商會の方です。

 安藤さんは、つくり方はすべて自己流で、あとはただ当たり前につくっているとしか答えなかった。が、その「当たり前」が、毎日つづいていることに何より驚かされた。(33)

 なぜか僕は味噌汁だけは自分でもうまいと思えるものがつくれる。
 ひとり暮らしを始めたとき、自炊の教科書に選んだクッキング・ブックが、たまたま優秀だったのだろう。誰かに教わったわけではなく、毎朝つくりながら少しずつ教科書の模範をアレンジし、自分であれこれ試すうちに、いつのまにか今の味になっていた。
そこが肝心だよね。自分で考えるっていうのが
(90)

じつは、これは主役のいないスープなの
 あおいさんが、ふふふと意味ありげに笑ってそう教えてくれた。
「なあんだって思うでしょ。でも、わたしはこれこそスープだと言いたいの。わたしのノートにある名前のないスープは、どれも主役のいないスープだから」
(220)

「なんだろう、このパン」
「そうなのよ、変なパンでしょう?」
ひと口めより、ふた口めの方がおいしいけど
そうなのよ。でも、よく考えてみると、本当においしいものって、そういうもんじゃない?
(155)


@研究室
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by no828 | 2012-11-14 14:53 | 人+本=体 | Comments(0)
2012年 11月 11日

足らざるを知れって言いたいの——綿矢りさ『勝手にふるえてろ』

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163(623)綿矢りさ『勝手にふるえてろ』文藝春秋、2010年。

版元 →  


 短大の学生(女子)に強くすすめられました。日本文学の学生です。わたしの講じる教職科目に出席している学生です。小説を中心に本をよく読む学生なので、そのおすすめなので、読んでみました。

 書物本体は古本屋で買いました。文庫のほうがよかったのですが、安くなっていなかったのと、表紙デザインがあれなのとで(→ )、単行本にしました。この表紙の文庫を持ち歩く勇気はわたしにはありませんし、その勇気をどうかわたしに、とも思いません。

 今の学生はこういうものを読むんですね。展開される考え方は、そんなに新規に突出しているわけではないと思いますが(同型の考え方には割とよく出会う気がします)、だからこその広い共感が得られるのかもしれません。ちなみに、初 綿矢りさ です。インストールしたこともないし、背中を蹴飛ばしたこともありません。

 がむしゃらにがんばってきてふと後ろをふり返ったとしても、やりとげた瞬間からそれは過去になるんだから、ずいぶん後から自分の実績をながめ直してにやにやしても、まあ、そんなでしょ、べつにたいして幸せじゃないでしょ。逆にちょっとむなしいくらい。
 だから手に入れた瞬間に、手ばなしに、強烈に喜ばなくちゃ意味がない。限界まで努力してやっと達成したくせに、すぐに顔をきりきりとひきしめて、“さらに上を目指します”なんて、言葉だけなら志の高い人って感じでかっこいいけれど、もっともっと進化したいなんて実はただの本能なんだから、本能のまま生きすぎて、野蛮です。足るを知れ、って言いたいのかって? ちょっと違う。足らざるを知れって言いたいの。足りますか、足りません。でもいいんじゃないですか、とりあえず足元を見てください、あなたは満足しないかもしれないけれど、けっこう良いものが転がっていますよ。
(4)

 大体いつも気に入らなかった、なんで産む女の人だけが休みもらえるの。新婚旅行の休暇も育児休暇も当然のように既婚者は取っていくけれど、じゃあ結婚しない人間にも“自分の人生をじっくり見直す休暇”を取らせてほしい。ある意味育児休暇と同じくらい必要ですから。(125-6)

どんな人間でもいいっていうのは心が広いんじゃなくて、どうでもいいと思ってるのと同じ(157)


@研究室
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by no828 | 2012-11-11 14:29 | 人+本=体 | Comments(2)
2012年 11月 09日

誰が言っても正しいことは正しい、間違っていることは間違っている——森博嗣『自分探しと楽しさについて』

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162(622)森博嗣『自分探しと楽しさについて』集英社(集英社文庫)、2011年。

版元 → 


 エッセイです。

「自分」を見つけるには、「自分」のことを忘れられる行為に没頭することが効果的だと思う。(51)

 これは同感。ふと気付いたら周りには誰もおらず「自分」が立ち上がっていた、というのが“本当”だと思います。

 望んでいれば、必ず実現する」という言葉を、僕は何度か書いてきた。非常に綺麗事ではあるけれど、これが意味するところは、まず「望め」ということであるし、同時に「望めば、自分が歩ける道を見つけようとする」という予測に基づいている。(72)

 これも同感。飛躍しますが、目的論の問題はあるにしても、目的論を排除することの問題もある、と考えます。

 幸いなことに、今のところまずまずの健康だし、周囲に心配事もほとんどない。両親の面倒を見ていたのだが、いずれも最近他界したので、もうできることはなくなった。生きているうちにできることをしたから、死んだあとはなにもしないつもりだ。墓も作らないし、供養も一切しない。そういうことをするのは、きっと生きているうちにできなかった(と感じている)人たちなのだろう、と僕は考えている。(156)

 墓を作ることの意味については、養老孟司『カミとヒトの解剖学』のレビューにおける下から2番目の引用も参照(→ )。割り切れるかどうか、むしろ意図せずに、割り切ってしまっているかどうか。

 意見というのは、基本的に「理論」である。それはそれを発言した人間からは切り離して捉えなければならない。誰が言っても、正しいことは正しい、間違っていることは間違っている、という判断をするべきだ。(103)

 これは自然科学に限られるかもしれません。さらには経済学や記述主義社会学のように、自然科学であろうとする社会科学に限られるかもしれません。“書いたものから執筆者の固有名が消えてもよいか(消えるべきか)、書いたものだけが残ればよいか”という点で若手の先生方が(居酒屋で)議論していたことを思い出しました。少なくとも(とくにいわゆる「ポスト・モダン」後の)哲学では、“誰が言ったか”という点は無視しえないと思いますし、その立場からすれば、すべての発言はその発言者と安易に切断されるべきではない、ということになります。

 ちなみに、作品のなかではこういうことを言っています(『朽ちる散る落ちる』最初の引用 → )。


@研究室
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by no828 | 2012-11-09 14:46 | 人+本=体 | Comments(2)
2012年 11月 08日

問題なのはユートピア論が実践される時である——島田雅彦『偽作家のリアル・ライフ』

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161(621)島田雅彦『偽作家のリアル・ライフ』講談社(講談社文庫)、1989年。

版元 → 情報なし

単行本は1986年に同社より刊行。


 島田雅彦の初エッセイ集のようです。昔、島田作品をだだだと読んだことがあります。かなり久しぶりです。

 先進国(凋落国?)で人々はどんな生きがいを求めているのだろうか。今、生きていられるのが生きがいだといえばそれまでだが、ここでいう生きがいとは、不安を忘れさせるものとでも考えることにしたい。(「夢想者が考える世界の再生」20)

 大学は私立のマンモス大学となると特に、小さな社会としての機能も持っている。大学に何かを期待する人は、都会や外国に何かを求めて出かける人に似ている。ただし、この小さな社会は未だ閉鎖的である。住民のやることは、互いに似かより過ぎている。ここには多種多様体としての大学の姿はないといっていいだろう。本来、大学は学校とは別物であるべきなのに、完全に学校化している。政治運動や主義主張まで制御され、大学が一つの巨大なコンピューターと化している筑波大学や東海大学などの例をあげるまでもなく、学園祭のありさまこそ、今の大学の隠喩である。(「模造人間としての大学生」196)

 万人が似たり寄ったりであることは社会にとってはおあつらえ向きだとアドルノは書いたが、社会にできるのは悪意や異質なものを目立たなくすることだけだ。友達の顔色を見、集団の中にいづらくならないようにするだけで大学生活を終えるのは不幸だし、その程度の努力をして親しくなる相手など友達と呼ぶ必要もない。(「模造人間としての大学生」200)

 思想上のユートピアはお目出度いものとして珍重され、それ自体としては無害である。問題なのはユートピア論が実践される時である。思想は、広く大衆化される時、まとわりついていた無数の留保が無視され、あたかも万能の道具の如くになる。思想はイデオロギーというデーモンに変身して、現実のユートピアを建設しようとする賭博者を魅惑するのだ。(「ユートピア」12)

 思想は思想のままがよく、完全に実現されてはいけない、だからこそ思想は極論・極点を含むものがよい。というような考え方がここで披瀝されているわけではありませんが、わたしはそういうことを考えたりもします。


@研究室
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by no828 | 2012-11-08 15:13 | 人+本=体 | Comments(2)
2012年 11月 07日

教育学の修士号を持っている人なんかより役に立つこともある——ペイリー『最後の瞬間のすごく大きな変化』

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160(620)グレイス・ペイリー『最後の瞬間のすごく大きな変化』村上春樹訳、文藝春秋(文春文庫)、2005年。

版元 → 

原著は1974年に、訳書単行本は1999年に同春秋より、それぞれ刊行。


 短篇集。短篇は(わたしにとっては詩と同様に)行間が広すぎるので読みにくいところがあるのですが、ときどき、カチッ、カチッ、とはまります。

 「長距離ランナー」299ページに「第二呼吸」、ルビは「セカンド・ウインド」とあるのですが、これは文脈からすると「ランナーズ・ハイ」と同義かと思われるのですが、だとすると「ランナーズ・ハイ」は和製英語なのかしら、と思うわけであります。ちなみにわたしは、元長距離ランナーです。

 私は一人の相手と終生夫婦でありたいと望んでいた。前の夫とも、あるいは今の夫とも。どちらも一生かけてわたりあえるくらいしっかりした人物であった。そして、今になってみればわかることなのだが、人の生涯なんて、実はそれほど長い期間ではないのだ。そんな短い人生の中で相手の男の資質を知り尽くすことなんてできないし、あるいはまた相手の言い分の根底にたどりつくこともできやしないのだ。(「必要な物」17)

傑出した祖父やら叔父やらについてのファミリー・アーカイヴを手元に持っているというのは、あるいは文書ではなくてもいくつかの思い出話を持っているというのは、けっこうきついものなのだ。とくにその人が六十だか七十だかになっていて、身内にものを書ける人が一人もいなくて、子どもたちは自分の生活に追われて忙しいというような場合にはね。自分が死ぬことによって、自分が引き継いだものがみんなあっけなく無に帰してしまうというのは哀しいことじゃない、と彼女は言った。そうかもね、と私は言った。たしかにそのとおりだ。私たちはもう少しコーヒーを飲み、私は家に帰った。(「負債」22)

「終わりさ」と彼は言った。「なんていう悲劇だ。ひとりの人間の終わり」
「ちがうのよ、パパ」と私は懇願するように言った。「そこで終わらなくたっていいのよ。彼女はまだ四十そこそこなのよ。時がたてば、彼女はどんどん変わっていって、まったく別の人間になることもできるのよ。先生かあるいはソーシャル・ワーカーにでも。なにしろもとジャンキーだもの! そういう人間のほうが教育学の修士号を持っている人なんかより役に立つこともあるんだから
(「父親との会話」256)

 「教育学の修士号」というのは55ページにも出てくるのですが、グレイス・ペイリーは「教育学の修士号を持っている人」とのあいだに何か嫌な思い出があるのでしょうか、あるいはアメリカにおける「教育学の修士号」の位置付けは“その程度”なのでしょうか。まぁ、わからないでもないのですが……。

 
@研究室
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by no828 | 2012-11-07 16:53 | 人+本=体 | Comments(0)
2012年 11月 05日

一番搾り とれたてホップ

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一番搾り とれたてホップ(キリン)

醸造元 → 


 今年も出ました。某曜日の朝、講義へ出かけるために駅へ向かう途中のS友で発見。もちろんそのときには買いませんでした。夜に立ち寄ることに決めて、道中の水分のみを確保。

 味は、その名称どおり、ホップが前面・全面に出ています。軽快・爽快です。発泡酒などでホップを引き立たせたものだと、ホップの辛味だけが際だってしまうことがあります。これはそうではありません。そこがよかったです。

 ちなみに、1本につき1円が震災復興へと募金されるようです。

 原料:麦芽、ホップ
 度数:5%
 原産:日本


@研究室
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by no828 | 2012-11-05 14:59 | ビール | Comments(0)