思索の森と空の群青

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2013年 02月 28日

『責任』っていうのは『気が付けなかった』ってことじゃないの?——辻村深月『冷たい校舎の時は止まる』

c0131823_182477.pngc0131823_1821778.png辻村深月『冷たい校舎の時は止まる 上・下』講談社(講談社文庫)、2007年。16(671)

2004年に同社のノベルスとして刊行。

版元 →  


 上591ページ、下576ページの大部。辻村深月のことは、講義先の短大日本文学専攻の学生が好きだと言っていました。『勝手にふるえてろ』の学生です(→ )。それが念頭にあり、古本屋で目に止まりました。ちなみに『ツナグ』は読んでいませんし、たぶん読みません。

 著者辻村は(年齢はわたしの2つ上で、というのはさておき)教育学部出身のようです。「教育学部出身」というところに、むむ、となりました。本書は、題名からわかりますように、学校が舞台です。高校です。登場人物に著者と同姓同名の「辻村深月」がいます(これは法月綸太郎と同様のパターンです。→ )。ということは……ということですが、以下、引用でございます。

 片瀬充は、自分のことを気弱な人間だと認めている。
 自分の意見を強く主張することができない。自分が言ったこと、したことを通して、他人に迷惑をかけたくない。こんな自分のことを、周囲がどう受け止めているのかを充はよく知っている。自分を『優しい』と評してくれる人間は多い。
 が、充は時にその声に耳を塞ぎたくなる。
 充は優しいわけではない。自分は単に、他人に対する責任を放棄したいだけなのだ。人を傷つけてしまうことが怖い。ただそれだけだ。相手の声を否定せず、他人の言いつけを素直に聞いてさえいれば、充は誰のことを傷つける心配もない。だから断らない。それはとても楽な方法で、とても臆病な生き方だ。
〔略〕
 自主性のまるでない、他人を受け入れるだけの無責任な優しさ。充の中にあるのは、そんな空っぽなものだけだ。
(上.360)

「俺、直情型でね。自分の好きなことをやることしか考えてないとこがあるんだよな。だから清水にも絵が好きならそっちに行って欲しいし、高い学歴が魅力ならT大受けたらいいと思う。他にもしたいことがあるんだったら、料理学校に行くなり留学するなり、応援してやるよ。世の中、やりたいことだけやるために努力するんだって俺は思ってるけどね(上.509-10)

「他にもっと楽なやり方がいくらでもあるのに、自分から進んで苦しい方へ苦しい方へ行く。周りの人間がいくらそれを痛々しいと思っても、どうにもできないところがある」
「そう、ですか?」
「自分で気が付かないところもよく似てるよ」
(上.511)

「だから思うんだけど、リカたちの『責任』っていうのは一緒にいたのにその悩んでることに『気が付けなかった』ってことじゃないの?(下.21)

「驚いたでしょう? 保険証がないって」
〔略〕
「ヒロちゃんね、生まれた時は出生届も出してもらってなかったみたい。それを地域の人たちでどうにか話して、提出したんだって」
〔略〕
本当はもっとヒロちゃんの家庭の細かいことがわかったら、できることもいっぱいあるし、今回だって病院に連れてってあげることもできるかもしれないんだけど。そこまで聞けない、できないってことがたくさんあるんだよね。うちだけじゃなくって、ここら辺だと学校でも同じ。先生たち大変みたい
聞いてると結構面倒臭せぇんだよな。全部親に代わってやっちまえばいいのに
「本当にそうだね。できたらいいのに」
 『ひまわり』は子どもたちの面倒を見る施設に違いなかったが、出過ぎないよう、やり過ぎないよう細心の注意のもとに成り立っている施設でもあった。危ういところで均衡を保ちながら、どこまで子どもの内情に踏み込むべきなのかを、スタッフも歯嚙みして迷っていることが多かった。
(下.293-4)

「……兄ちゃんは、普通に帰る家があって、お母さんもお父さんも普通にいる。家に帰るとお風呂が沸いてて、ご飯の心配しなくても良くて、だから」
「……だから何だよ」
俺は、兄ちゃんがそのことでずっと引け目を感じてること、知ってる
〔略〕
「兄ちゃんも俺も、先のことなんか何も決めなくていいし、黙ってればみんなお母さんがやってくれる。恵まれてて、幸せなんだ。俺は……」
〔略〕
俺は兄ちゃんがそのことを恥ずかしく思ってること、わかる。知ってる
〔略〕
……でも、兄ちゃんにそうやってお母さんがいるのも、お父さんがいるのも、ご飯の心配しなくていいのも、ヒロちゃんがかわいそうなのも……ヒロちゃんにお父さんがいないのも全部それは兄ちゃんのせいじゃない、スガ兄のせいじゃないんだよ
〔略〕
「……お前ね、自分の痛みよりも先に他人の痛みに気付くようだとなかなか幸せになれねぇよ」
(下.373-4)


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by no828 | 2013-02-28 18:31 | 人+本=体 | Comments(0)
2013年 02月 27日

なぜその客が作り話をしたのか、そこまで見抜けねば仕事は終わりにはならないよ——宮部みゆき『おそろし』

c0131823_16515397.jpg宮部みゆき『おそろし——三島屋変調百物語事始』角川書店(角川文庫)、2012年。15(670)

単行本は2008年に同書店より刊行。

版元 → 


 宮部みゆきの時代小説です。三島屋の おちか という子(表紙の子)が、お店を訪ねてきたお客から奇妙な話を「百物語」ふうに聴いていく(聴くことによって おちか もいわば治癒していく)、というお話です。おちかもまた、闇を抱えていたのでした。

 昨年出版されたものですが、古書105円でした。少したわんでいます、ふやけています。それが安くなっていた理由だと思います。Bックオフでは、書き込みがあったり、ひどくいたんでいたりする本があった場合に申し出ると(そういうことをしたことがありますが)、「大変申し訳ございません。こういう商品は売ってはいけないことになっております。本来は破棄しなければなりません。ただ、もしお客様がご入用ということでしたら、105円でお売りいたします」というようなことが言われます。おかしいですね。
 
「作り話でも、それとわからなければ同じだろう?」
「だって——」
「作り話か真実〔ほんとう〕の話か、おまえには見抜けるかね?」
〔略〕
もしもそれと見抜けたなら、おまえの手柄だ。しかしおちか、その場合にはまだ先がある。なぜその客が作り話をしたのか、礼金が欲しかっただけなのか、そこまで見抜けねば仕事は終わりにはならないよ
「無理ですよ!」
〔略〕
「それにおちか、ひとつの話がまるまる作り話のときには、まだ易しいよ。話のなかの、ある一部分が違っていたり、削られていたり、付け足されていたりすることだってあるだろう。その場合も、嘘と真実を見極めた上で、語り手がどうしてそんなことをするのか、おまえは考えてみなくてはなるまいね。そして私に教えておくれ」
(103-4)

 おちかは、顔に出てしまうほど強く訝った。伊兵衛がこの“変わり百物語”の趣向をし、聞き役としておちかを据えた意図は、もうわかった広い世間には、さまざまな不幸があるとりどりの罪と罰がある。それぞれの償いようがある。暗いものを抱え込んでいるのはおちか一人ではないということを、ただの説教ではなく、他人様の体験談として聞かせることで、おちかの身に染み込ませようという考えだったのだろう。
 その結果、おちかはおしまに身の上を打ち明けることができた。それで楽になったわけではないが、背負ったものを言葉にし、話として語りおろしたことで、おちかは自分の背にのしかかっているものの形を知ることができたと思う。それには確かに、意味があった。
(253)

「亡者はおりますよ」
〔略〕
「確かにおります。おりますけれど、それに命を与えるのは、わたしたちのここでございます
 ここというところで、〔略〕胸の上に掌を置いた。
「同じように、浄土もございますよ。ここにございます」
(345-6.傍点省略)

真の商人は、金のやりとりを決めるとき、相手にとっての価値を先に考えて駆け引きをする。自分がどう思うか、どれほど利益を得るかということは二の次だ」(343)


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by no828 | 2013-02-27 17:15 | 人+本=体 | Comments(0)
2013年 02月 26日

貧しさのゆえに、彼らの語る言葉は常に約束の重みを帯び——亀山郁夫『あまりにロシア的な。』

c0131823_16371252.jpg亀山郁夫『あまりにロシア的な。』文藝春秋(文春文庫)、2013年。14(669)

単行本は1999年に青土社より刊行。

版元 → 


 著者1994年春から1995年冬までのロシア留学記。著者には“『カラマーゾフの兄弟』の新訳者”というイメージが濃厚に付着しています。本書を通して、著者の研究テーマに(わずかではありますが)触れることができたのは、よかったです。

 ↓ 先日この『イワン・デニーソヴィチの一日』を古本で購入したのでした。というところから引用をスタート。
スタニスフ・レムっていますよね。ポーランドの作家で。彼がソルジェニーツィン『イワン・デニーソヴィチの一日』のことを、『政治的ポルノ』といっているんです。べつに悪意ある批判ではないのだけど」
ポルノというのは、リアリズムの極限だからね
(80-1)

「実はね、革命前のロシアは、絵看板というのがあって、たとえば肉屋の入り口には大きな牛の絵がかかっていた。革命後は、そういう絵看板がみんな撤去されて文字看板に変わった。つまり、ロシア革命とともに都市の景観が文字化し、商店の文字看板が革命のプロパガンダなんかと同じレベルで通行人の目に入ってきたってわけさ」
「一見そっけなくて、味家もなにもないんだけど、ぼくはあの文字看板がすごく好きなんです。あれだって、十分にロシア的なんだと思うな。何しろ、モノと言葉がとても近い場所にあるって感じがするから。もしかすると、あの単純さは、ロシア人の事実崇拝にも結びついているのかもしれませんね
 文字と結婚した革命——
(28)

「ジノヴェフのこの結論に異論をはさまずにいることは難しい。しかしここから学ぶべきことは、結局のところ歴史は一つしか選びえない、それがいかにグロテスクな道であろうと、その事実を徹底して見つめることしかない、ということだ。そして現在のロシアが置かれている混乱を見るかぎり、国家崩壊に突き進んだ道が誤りかもしれないという考えに私は導かれていく。〔略〕
 ベルジャーエフは、かつて、愛から憎しみ、憎しみから愛へと一挙に境界を飛び越してしまう、「中庸を知らない」ロシア人の精神性を、「分極性」という言葉で表現した。ロシア人を、常に悪の泥沼に身を沈めながら、悪を他人事として片づけている、健忘症の人々と思いたくない。がしかし、「分極性」が、たくみに身を翻す能力のことでもあるなら、スターリン批判を行った人々も、国家崩壊を演出した人々も、あまりに能天気で健忘症の人々、自分たちの責任をすべて他者になすりつけた人々といえないだろうか。強制収容所(ラーゲリ)に対する責任をだれ一人とらない恐ろしい無責任さこそ、庶民が苦労して貯めた外貨を平気でむしりとるデモクラシー国家の礎なのだ」
(194-5)

「タタールの軛、動乱時代、十月革命、そしてソ連崩壊……しかし、失敗の歴史を生き、断絶の歴史を生き延びる彼らには、他の西欧諸国には見られない「生成」のエネルギーがたえず満ちあふれていました。彼らにとって「衰弱」とか「枯渇」という言葉は無縁でした。貧しさのゆえに、彼らの語る言葉は常に約束の重みを帯び(ロシア語の「スローヴォ(言葉)」が同時に「約束」という意味を帯びているのは、とても暗示的です)、未来への希望と原初の輝きを失うことがなかったのです。ぼくがロシアを愛する理由は、何よりも彼らの言葉のもつ意味の重さです(215)


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by no828 | 2013-02-26 17:04 | 人+本=体 | Comments(0)
2013年 02月 24日

薫り華やぐヱビス

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薫り華やぐヱビス(サッポロビール)

蔵元 → 


 たしかに薫り華やぎます。プレミアム・モルツよりも華やぎます。春を感じさせます。

 グラスに注いだときの印象は、“色が薄い”で、そこから“薫りも弱い”、“味も薄い”を連想しましたが、そんなことはありませんでした。発泡酒やリキュールはその順接がよくあるわけですが、さすがにビールでそんなことはない、あるいはさすがにヱビスでそんなことはない、と思いました。

 ちなみに昨日夜の時点で Yまや(G園店)はすでに売り切れ状態でした。在庫はあるのかもしれませんが、少なくとも店頭からは消え去っていました。わたしが買ったのは20日(水)です。

 原料:麦芽、ホップ
 度数:5%
 原産:日本


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by no828 | 2013-02-24 16:52 | ビール | Comments(0)
2013年 02月 23日

時々考えるんですよ。 理解できないというのは罪なのか、って——恩田陸『ユージニア』

c0131823_17195986.jpg恩田陸『ユージニア』角川書店(角川文庫)、2008年。13(668)

単行本は2005年に同社より刊行。

版元 → 


 関係者へのインタビューを通して事件の「事実」に迫る構造になっています。ミステリ、だと思うのですが、論理明晰タイプではありません。少しふわっとしています。

 一つの出来事を、たくさんの人の口から聞くというのは、興味深かった。
 逆に、事実って何だろう、と何度も考えましたよ。
 それぞれの人は皆事実だと思って喋っているけれど、現実に起きた出来事を、見たまま話すのって、難しい。というよりも、不可能ですよ。その人の先入観とか、見間違いとか、記憶違いがあって、同じことを複数の人から聞いたら、どれも必ず少しずつ違う。その人の知識とか、受けてきた教育とか、性格で、見方も異なるわけでしょ。
 だから、実際に起きたことを、本当に知るというのは絶対に無理なんだなあと思いました。
(49-50)

 それでもまだ、当時はのんびりしていたと思います。今だったら、あんなもんじゃ済まなかったでしょうよ。マスコミが殺到して、あっというまに家族の写真も出回って、外出もできなかったでしょうね。今は、被害者も、加害者も、まだ真相も解明されていないうちから、ほとんど私刑みたいな扱いを受けるじゃありませんか。悪いことをした人を非難できるのは、被害に遭った当事者だけです。なぜ赤の他人までが「じゃあ自分が叩いたって構わないだろう」って思えるんでしょうねえ。あたしには理解できません。(108)

 だけど、尊敬と軽蔑、憧れと妬みは紙一重。(178)

 時々考えるんですよ。
 理解できないというのは罪なのか、って。

 親でも子でも、きょうだいでも、理解できないものはできない。それっていけないことなのか。理解できないならできないと認めて、あきらめることだって理解の一つなんじゃないのか。そんなことを考えるんです。
 だけど、今日び、世界は理解できないものを許さないでしょう。分からないと言ってはいじめ、得たいが知れない、説得不能だと言って攻撃してしまう。なんでも簡略化・マニュアル化が進む。人が腹を立てるのは、理解できないからのことが多い。
 本当は、理解できるもののほうがよっぽど少数派ですよね。理解したからって、何かが解決できるわけでもない。だから、理解できない世界で生きていくことを考えるほうが現実的だと思うのは間違いでしょうかね。
(191)

——私は、今、世界から問い掛〔ママ〕けられている。これだけ私という個人に対して大きな問いを投げか〔ママ〕けられているのに、私は沈黙している。そのことに耐えられないんです。私は、どんな答えであれ、世界に返事をしなければならない。そういう意味で、私は今、大きな責任を感じているんです。
——責任? 責任というのは? 事件はあなたのせいじゃありません。何かひどいことに巻き込まれて、罪悪感を感じる人は多くいますが、その人のせいじゃありませんよ。あなたが責任を感じる必要はどこにもありませんよ。
——そうでしょうか。でも、実際のところ、巻き込まれたのは私です。他の誰かではなく、この私が選ばれたんです。だったら、それには何かの理由があるんじゃないでしょうか。私に対して、返事を求めているんじゃないでしょうか。
(210-1)

 ファミレスって、おかしな言葉だねえ。
 そう思いません? 聞く度に違和感を覚えるんだな。
 本当はファミリーレストランの略なんだろうし、頭では分かってるんだけど、俺はいつもファミリーレス、つまり家族がない、って言葉を連想しちゃうんだな。そう、セックスレスと同じ用法ね。
(230)

 兄さんが学問に関して話をする時は、なんていうのかな、兄さんの頭の中に、立体的に理論が構築されているのが見える感じがするんだ。緻密で、きちんと体系がなされている。細かいところまでしっかりしているから、どの方向から質問しても、一貫性があって、イメージしやすい。
 それに、兄さんは子供だからといって態度を変えたりしなかった。子供のほうは、自分を対等に扱ってくれる人間を本能で察知するんだね。だから、兄さんは子供にもてたんだよ。
(238)


 冒頭に「少しふわっとしています」と書きましたが、本書全体で「理解できないというのは罪なのか(いや、罪ではない)」ということを問うているのかもしれません。わからなさにしぶとく付き合うことの重要性には、気づいているつもりです。


@研究室
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by no828 | 2013-02-23 17:56 | 人+本=体 | Comments(0)
2013年 02月 22日

見たくないって思うかもしれないけど、でも——角田光代『八日目の蟬』

c0131823_14544497.jpg角田光代『八日目の蟬』中央公論新社(中公文庫)、2011年。12(667)

単行本は2007年に同社より刊行。

版元 →  ウェブ上の表記は「蟬」ではなく「蝉」になっています。


 少し前に、短大の講義で『狼に育てられた子』(→ )を、というよりも、それを論じた西平直『教育人間学のために』(→ )を取り上げました。『狼に育てられた子』の内容詳細は省きますが、論点のひとつに“カマラとアマラを人間の生活に「戻す」べきか、そのまま狼との暮らしを続けさせるべきか、それはなぜか”が考えられます。それを学生に問いました。意見は半々くらいに分かれました。

 人間に「戻す」べき、という意見の理由には、“もともと人間だから”がありました。わたしはそれに対し、“産みの母と育ての母が違う人間の子どもがいたとする、そのときも産みの母に「戻す」べきか”という疑問を発しました(発問ではない。発問は嫌い)。このことを別の文脈で“こういう授業をした”と話したとき、本書が言及されました。であれば、授業の前に読んでおけばよかったなあと思った次第です。次年度の講義で関連づけたいと思います。

学校なんかいくのは取り柄のない人だよ、ハナちゃんはこんなに絵がうまいんだからなりたいものになんだってなれるよ」(188)

 知らないことを知りたかった、忘れていたことを思い出したかったと、千草と名乗る女は言った。私はそんなふうに思ったことはない。知らないことを知って、忘れていることを思い出して、いいことなんかひとつもないと思っていたし、今でも思っている。しかし今、目を閉じて眠りを待つ自分の内に、彼女の言葉がちいさく、しかし執拗に響いている。なんで? なんで私だったの?(230)

 聡美ちゃんちの薄暗い部屋でビデオを見ながら、数え切れない「もし」があふれかえった。もしあの女がいなかったら私たちはふつうの家族だったはずだ。もしあの女がいなかったら父も母も私をふつうに愛しただろう。もしあの女がいなかったら友だちが見えない壁を造ることもなかっただろう。もしあの女が、もし、もし、もし。(274)

「でもね、大人になってからこう思うようになった。ほかのどの蟬も七日で死んじゃうんだったら、べつにかなしくないかって。だってみんな同じだもん。なんでこんなに早く死ななきゃいけないんだって疑うこともないじゃない。でも、もし、七日で死ぬって決まってるのに死ななかった蟬がいたとしたら、仲間はみんな死んじゃったのに自分だけ生き残っちゃったとしたら」〔略〕「そのほうがかなしいよね(282-3)

「前に、死ねなかった蟬の話をしたの、あんた覚えてる? 七日で死ぬよりも、八日目に生き残った蟬のほうがかなしいって、あんたは言ったよね。私もずっとそう思ってたけど」〔略〕「それは違うかもね。八日目の蟬は、ほかの蟬には見られなかったものを見られるんだから。見たくないって思うかもしれないけど、でも、ぎゅっと目を閉じてなくちゃいけないほどにひどいものばかりでもないと、私は思うよ(343)

慣れればいろんなことがどうでもよくなった。ていうか、どうでもよくならなきゃ暮らしていけないんだよ(331)

 手放したくなかったのだ、あの女とのあり得ない暮らしを。ひとりで家を出てさがしまわるほどに、私はあそこに戻りたかった。でも、それを認めてしまうことができなかった。あの女のもとに戻りたいなんて、たとえ八つ裂きにされても考えてはいけないことだと思った。私は世界一悪い女にさらわれたのだ。私が家を好きになれないのは、父と母が私に背を向けるのは、すべてあの女のせいだと思えば、少しだけ気持ちが楽になった。楽でいるために私はあの女を憎んだ。あの女の存在を私たち家族のなかにひっぱりこんだ、父と母をも憎んだ。憎むことで私は救われ、安らかになれた。
 憎みたくなんか、なかったんだ。私は今はじめてそう思う。本当に、私は、何をも憎みたくなんかなかったんだ。あの女も、父も母も、自分自身の過去も。憎むことは私を楽にはしたが、狭く窮屈な場所に閉じこめた。憎めば憎むほど、その場所はどんどん私を圧迫した。
(352-3)


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by no828 | 2013-02-22 15:57 | 人+本=体 | Comments(0)
2013年 02月 21日

古書を抱えて講義へ行って

c0131823_15331436.jpg 月曜は研究室へは行かずに図情キャンパスで勉強してから正午の区間快速で上京。T川遠征講義前にI袋のLブロ古本まつりに寄りました(写真によると今日までのようです)。古本まつりへ行くためだけに、古本を買うためだけに上京すると、そのぶんの交通費がかかり、少なくとも“必要な本をできるだけ安く買う”という目的には合いません(古本そのものに愛着があるのならばそうではない)。講義のついでに行けば“足”の出方も少なくて済みます。ただ、荷物が多くなるのが難点です。

 古本まつりには1時間とちょっといました。買うべき本、買わなくてよい本の区分けが、自分なりにだんだんとついてきたように思います。買うべき本であればそれほど安くなっていなくても買う、という判断ができるようになりました。ただ、これは学術書に限定されることで、それ以外の小説などはあいかわらず105円の原則に貫かれています。原則からの逸脱はほとんどありません。

 古本まつりは、古書店ごとに区画を作るように配置されています。人文学はこの辺、社会科学はこの辺、岩波文庫はこの辺、というふうにはなっていません。もちろん古書店ごとの性格・特徴を知っていれば、古書店名を目安に動くこともできます。しかし、わたしはそこまでわかりません。一通り見て回る必要があります。見て回ってみると、大体前回(?)の古本まつり(→ )と同様の配置のように思えました。あの辺とあの辺とあの辺にわたしの読みたい本があるはず、という経験値を用いることができました。

 今回は、入口を入ってすぐのエリアで(ここは経験値とは無関係に)、ツヴェタン・トドロフの『他者の記号学』を見つけました。副題は「アメリカ大陸の征服」。トドロフはわたしの関心の対象に含まれますが、訳書は高いのでなかなか買えません。古本も安くなりません。同じくトドロフの『われわれと他者』は、科研で買っていただきました。

 その科研で議論のさいに言及されていた社会学者にアルフレッド・シュッツという人がいます。「シュッツ」は聞いたことはありますが、どういう研究をする人かはまったく知りませんでした。それが悔しかったのですが、わざわざ本を買って勉強するところまではできていませんでした。今回はたまたま『現象学的社会学』を見つけたので、これを機に購入。


c0131823_15544222.jpg 購入したもののうちもっとも高かったのは(「もっとも」と付けるほどのこともないのですが)、フランツ・ファノン『革命の社会学』と『アフリカ革命に向けて』。古本の割に安くはなかったのですが(定価が高い)、研究遂行上、持っておいたほうがよい本です。Bックオフなどで105円で見つけることがあったら、悔しいのでまた買います。持っておいたほうがよい、という点では、ハーバーマスの『公共性の構造転換 第2版』。議論の大筋は大体わかっているのですが、全部自分で読んだわけではないので、やや引け目のある本です(そういう本がたくさんあります)。

 そういうわけで、総額は5ケタになる寸前くらいでした。重いし、T川まで持って行くのがなかなか大変でした。ただでさえ重い(とわたしは思うので増刷のさいにそれを申し上げたら、よい紙を使っているので仕方がない、というご返答のあった)教科書を持っていたので、荷物が増えるのはやはり大変です。ちなみに、その日はその教科書の第3章の回でした。わたしがただ解説してもおもしろみがないので、まずは学生自身に本文にぶつかってもらい、数名に要約と批判を書いてきてもらう、それを発表してもらう、というスタイルを授業内に取り込んでいます。今回は要約が(とくに)うまくできていない、という印象を持ちました。要約ができない、ということは、わかっていない、ということです。抽象的だ、という反応がありましたが、抽象的であることは批判すべき点ではありません。また、わかりにくい、という反応がありましたが、批判というのはわかってからするものであって、「わかりにくい」それ自体は批判ではなくて、ただの感想になってしまいます。そういうことの説明から来週ははじめたほうがよさそうです。ただ、第3章は冒頭に掲げた問いに対する手続きと答えが論文途中の3節までで示されていて、この4節は何だ? 必要なのか? という疑問がわたしにもないではありません。冒頭の問いと無関係ではないのですが、直接の答えではない。本書全体を見渡すとこの4節の必要性はわかりますし、そういう意図で含めたとは思うのですが、章単体で読んだ場合は本論の枠からはみ出しているように思われます。今度ご本人に訊いてみましょう。

 火曜は夕方から「ジャマイカ」から「マ」を抜いた機関での勉強会でした。いろいろと取り組むべき事柄があったため、この勉強会のためだけに上京して、終わったらすぐに帰ってくる、という上京の使い方としてはあまりうまくないことになってしまいました。勉強会自体からは学ぶことが多かったです。わたしは理論の勉強と研究に注力していますので、この勉強会は実務の世界を知るひとつの契機としてものすごく貴重です。勉強会自体の趣旨は研究者と実務家をつなぐことにあるわけですが、しかし今回の発表と議論を聞きながら、つながりすぎでは? という気もしました。そんなに話が通じてしまってよいのか、というような感触を逆に持ったということです。これは、発言すべきことを見つけられなかった、作れなかったわたし自身への反省の裏返しでもあります。あとは、勉強会(研究会、学会)と懇親会の関係、懇親会の意味についても、改めて疑問に思いました。“本番は懇親会ですから”、“本音は懇親会で”ということがよく言われますが、本番は勉強会だし、本音も勉強会で言うべきでは? と思います。これは、懇親会的なものがあまり得意ではないわたしの性格から立ち上がる僻みかもしれません。


@研究室
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by no828 | 2013-02-21 16:47 | 日日 | Comments(2)
2013年 02月 20日

生れたことが幸福なら、それがわれわれの存在を正当化する理由になります——フォースター『インドへの道』

c0131823_1774722.jpg
エドワード・モーガン・フォースター『インドへの道』瀬尾裕訳、筑摩書房(ちくま文庫)、1994年。11(666)

本書は1970年に同書房より『世界文学全集53』として刊行。原著は1924年。

版元 → 


 528ページの大部。舞台はイギリス支配下のインド。ものすごく平易な(思い切った)言い方になりますが、“イギリス人とインド人は友だちになれるのか”が主題です。ただし、個人レベルの話です。が、“インド人であるわたし”は“イギリス人であるあなた”となかよくしてもかまわないのか、ということになります。「イギリス人と親交を結ぶことは可能か不可能か、というのが二人の話題だった」(12)。

 「サバルタン(subaltern)」には、英軍限定のようですが、「士官」という意味もあるようです。

「正しいと思うことを先にのばしてはいけない」とハミドゥラが言った、「インドにある原因はそれなんだ。われわれがなんでも先にのばしてばかりいるからだ(19)

「そうこうするうちに芝居は終り、素人オーケストラが国歌を演奏した。話し声も玉突きの音もとまり、人々の顔は緊張した。そえは彼ら占領者全体の讃歌なのだ。この歌を耳にして、クラブの会員ひとりひとりは男女の別なく、自分が大英帝国の一員であり、しかも異境に暮す身であることを想い起した。いささかの感傷とともに、意志の力が新たに力強く湧きあがるのを感じた(39)

「でもわたしはインド人に会いたいのです」
〔略〕「インド人にお会いになりたいですって! ほんとに珍しいことをおっしゃるかたね!」〔略〕「現地人ですって! まあ、おどろいたわ!」
(40-1)

ぼくたちは親切に振舞うのが目的でインドくんだりまで来ているんじゃありません!
「それどういうこと?」
「言葉どおりです。正義を行ない、治安を維持するためにこの国に来ているんです。これがぼくの意見です。インドは応接間じゃありません」
(79-80)

「こういう質問を一つ許してくださいますか。もしそうだとしたら、インドをイギリスが支配していることをどうして正当化できるのでしょう?
 そらきた! また政治だ。「そういう質問はあんまり考えたくないのですよ」とフィールディングは答えた。「ぼくがここへ来たのは職がほしかったからですよ。イギリスがインドを支配しているのはなぜか、あるいはなぜ支配しなければならんのか、といったことについてはぼくは何も言うことはできません。ぼくには全然わからない問題なんですから
「立派な資格を持ったインド人たちもたくさん教職につ〔ママ〕きたがっていますよ」
「そうだと思いますね。でもぼくのほうが先でしたからね」とフィールディングは微笑しながら言った。
「また失礼な質問ですが――インド人にだってできる職にイギリス人が就〔ママ〕いちゃうなんて公正〔フェア、とルビ〕なことでしょうか? もちろんあなたを非難してるわけじゃありませんよ。個人的には、われわれはあなたがここへおいでになったことを喜んでいますし、こういう率直な話は大いにためになるのですが」
 こういった話に対しては『イギリスがインドを支配しているのはインド自身のためだ』と答えるより仕方がない。しかし、フィールディングはそういう答え方はしたくなかった。彼は、正直に話そうという熱意に燃えていた。「ぼくもまたここに来たことを喜んでいます――これがぼくの答えです。そしてぼくのただ一つの申し訳です。公正かどうかという問題については何も申し上げられません。ぼくが生れたのも公正でないかもしれない。呼吸するたびに誰かほかの人の空気を取っちまうわけですからね。そうでしょ? それでも生れたことはうれしいし、ここへ来れたこともうれしいのです。われわれがどんな悪党であろうと、もしも生れたことが幸福なら、それがある程度われわれの存在を正当化する理由になります
(183-4)

「人生の大部分は非常に退屈でつまらないものだから、それについて言うべきことは何もないくらいである。それを面白いと述べようとする書物や話は、それ自身の存在を正当化するために、勢い誇張せざるを得ない。仕事とか社会的義務とかいう繭のなかで、人間精神はたいていねむっているのだ。快楽と苦痛のちがいは感じてはいるが、われわれが口にして言うほど目覚めてはいない。もっともスリルに富んだ一日の間でも、何事も起らない時間が何度かあるはずだ。われわれは「とても面白い」とか「とても恐ろしい」とか言いつづけているが、実は嘘なのだ。「わたしが感じているかぎりでは、面白い、恐ろしい」というのが真相なのだ。そして有機体というものは完全に調整されている場合は何にも物を言わないのだ(218-9)

「万物は空間においてふれ合い、時間において離れる」(317)

「その二十五年のあいだに知ったことは、イギリス人とインド人が親しく交わろうとすれば、かならず、悲惨事を惹き起すということなのだ。付き合うのはいいですよ。礼を尽し合うことは結構。だが親密な交際――これは絶対にいかん。わしの権威のすべてをかけて反対だ」(270)

 この最後の引用ではとくに「共生」と「共存」の違いを考えました。

@研究室
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by no828 | 2013-02-20 17:11 | 人+本=体 | Comments(0)
2013年 02月 17日

合理主義というのは頭を使わないのはばかだと軽蔑する——赤瀬川原平『新解さんの謎』

c0131823_14412697.jpg赤瀬川原平『新解さんの謎』文藝春秋(文春文庫)、1999年。10(665)

単行本は1996年に同春秋より刊行。

版元 → 


 三省堂の『新明解 国語辞典』の独自性が明らかにされていきます。「図版構成」は南伸坊。43ページと53ページの写真、その位置がおもしろかったです。

 新解さんのおもしろさはその語の定義にあるのですが、それは直接「辞典」にあたっていただくとして、引用は控えます。

辞書に限らず学問の世界というのは、できるだけミスを指摘されないように、守りに徹して、堅苦しく堅苦しくやっていけば間違いはない。でもそうすると正しくはなっても明解にはならない。しかしそういう不明解な正しさなんて何ぼのもんじゃ、というので新解さんは攻めに回る。(48)

 私はかねがね聖書と辞書は似ていると思っていた。本の大きさ、厚さ、字の細かさ、ページの紙の貴重品的な薄さ、そして何より座右に置かれるという在り方、しかも内容にはこの世の森羅万象が詰まり、人はその本をまず第一の指針とする、というところで両書はそっくりなのだ。(177)

 文章なんてそんなもんだなあと思う。一文字一文字が集積した結果に文章があるんじゃなくて、じつは一つの文章の流れの中に、よく見ると一文字一文字が並んでいるんだ。(208)


 偶有性を理論的にどう扱うかということを考えます。↓ はその関係での引用。
 くじ引きは偶然の選択である。人間の頭が考えて選択するんではなく、偶然に頼って選択する。そうすると、合理主義というのは人間の頭を使う主義だから、頭が使われないとなると眉をひそめる。頭を使わないのはばかだと軽蔑する。
 合理主義というのは、人間の頭の派閥みたいなものらしい。仕事は全部頭で解決しようとする。頭以外には仕事は回さない。頭一族で仕事の解決を独占しようとする。偶然なんてものが割り込んできたら、お前らは他所者だとののしる。
(186-7)


 いま考えたんだが、選挙の投票用紙も有効期限というのをなくして、良い人がいないときは使わずに溜めておいて、これぞという人が出たときにまとめてどどっと五票ぐらい入れるとか、そういうのはどうだろう。(223)

 白票も集計して有権者数に占める割合が何割以上のときには当該選挙区の選挙自体が無効、全国で何割以上を占めた場合は選挙全部無効、ということを以前から考えます。“当選させたい人”ではなく“当選させたくない人”に投票する仕組みでない以上は、白票にもきちんと意味を持たせることが必要ではないかということです。投票率が何パーセント以下の場合は選挙自体を無効とする、という考えもあるでしょう。いずれにせよ、そうすることによる“不都合”も合わせて考える必要があります。そもそも代議制でよいのか、という議論もありますが。


@研究室
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by no828 | 2013-02-17 15:19 | 人+本=体 | Comments(0)
2013年 02月 16日

退屈するのがどんなに心地良いか、あんたには——山田詠美『ソウル・ミュージック ラバーズ・オンリー』

c0131823_1582528.jpg山田詠美『ソウル・ミュージック ラバーズ・オンリー』角川書店(角川文庫)、1987年。9(664)

版元 → 情報なし


 短篇集。「私は黒人が好きである」(あとがき.215)とあります。この本に限らず、山田詠美の小説には「黒人」が登場するものが多いと思います。『トラッシュ』とか。わたしには一時期“山田詠美期間”がありました。

「結婚なんてしちゃ嫌だよ。アイダに似合わない」
「よく似合ってるのよ。今の私には」
「退屈するだけだよ」
退屈するのがどんなに心地良いか、あんたには解らないのよ
(「WHAT'S GOING ON」28)

「結婚て、時々、すごく不便。男のひとを安心させることが出来るから嬉しいけど、でも、憂鬱になったり悲しくなったりした時、相手を替えられないもの」
「いい旦那じゃないか」
「カーティス、あなた解ってないわ。どんな男とつき合おうと、その時、その時に悩みは生まれて来るものよ。でも、よかった。今日、あなたとこうしたことで少し楽になれたわ」
(「GROOVE TONIGHT」159)

愛してセックスをする。その経過を映画で見た時、僕は不思議な気持になった。何故、愛したことがセックスにいくのか。知った素振りでそれについて話す友人たちも、その理由を説明してくれはしなかった。尋ねてみたかったが、僕には出来そうになかった。なぜなら、女の体を知らないのは仲間うちで僕だけになりつつあるのは確かで、それをからかわれるのは屈辱だったからだ」(「ME AND MRS. JONES」37-8)。

ひとりの男を愛すると三十枚の短編小説が書ける。この法則を私は最近知った」(あとがき.215)。

「ひとつの問題にぶちあたると五〇枚の学術論文が書ける。この法則を私は最近知った」

と、言ってみたいです。


@研究室
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by no828 | 2013-02-16 15:31 | 人+本=体 | Comments(0)