思索の森と空の群青

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2013年 03月 29日

生徒と接してるほうがよっぽど楽だ。先生たちと接するよりも——飛鳥井千砂『学校のセンセイ』

c0131823_1758476.jpg飛鳥井千砂『学校のセンセイ』ポプラ社(ポプラ文庫)、2010年。33(688)

単行本は2007年に同社

版元 → 


 古本屋でタイトル買い。何か得られるかもしれない、というのがその理由。カバーの解説をそのまま引くと、「なんとなく高校の社会科教師になってしまった桐原」のお話。
「何、キョロキョロしてんの?」
 中川が聞く。手元には、チューハイのジョッキがあった。
「キョロキョロ? ああ、こういう状況のとき、生徒がいないか確認しちゃうんだよな」
〔略〕
「飲み屋とかパチンコ屋に行くと、生徒に会ったらどうしようって思うんだよね」
「別にいいんじゃないの? 先生だってたまには飲んだり、パチンコしたりしても……。桐ちゃんパチンコするんだっけ?」
 中川がちょっと顔をしかめた。
「最近してない。元々そんなにしないけど……。俺が見つかるのはいいんだよ。逆。生徒を見つけちゃったらどうしようって話。いちゃいけないだろ、高校生は飲み屋とかパチンコ屋に
(7-8)

“生徒のことは平等に愛しなさい、好き嫌いをしてはいけません”
 冗談じゃねーよ。向こうもしてくるんだから、好き嫌い。こっちだってするに決まってるだろう。ただ、あからさまに態度に出したり、具体的に成績に響かせたりしなきゃいいじゃないか。感情の部分はしょうがないだろう……。ってのが、俺の持論。
(63)

 問題さえなかったら、生徒と接してるほうがよっぽど楽だ。先生たちと接するよりも。(95)


@研究室
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by no828 | 2013-03-29 18:11 | 人+本=体 | Comments(2)
2013年 03月 28日

自分のためだけに戦えばいい、その責任を自分が背負うべきだし、それを許される——大崎善生『将棋の子』

c0131823_18112519.png大崎善生『将棋の子』講談社(講談社文庫)、2003年。32(687)

単行本は2001年に同社

版元 → 


 『聖の青春』(→ )に続けて大崎善生です。大崎は日本将棋連盟で『将棋世界』の編集長をしていたようです。本作も将棋の世界が舞台です。ただし厳密には、将棋の世界を去らざるをえなかった人たちの、“その後”の物語です。プロ(になるため)の将棋には、厳しい年齢制限があります。翻って研究者の世界には、年齢制限は(少なくとも表向きは)ありません。そこから、年齢制限があることで(少なくとも制度上の)あきらめがつく、年齢制限がないことによって(少なくとも制度上の)あきらめがつかない、ということを思ってしまいます。しかし、研究者に「プロ」はあるのでしょうか? 研究者のプロ性が制度と関係ないとすれば、研究者の年齢制限とかそういうことは関係ないのかもしれません。

 しかし、奨励会員たちは違う。
 歳とともに確実に自分の可能性はしぼんでいく。可能性という風船を膨らまし続けるには、徹底的に自分を追いこみ、その結果身近になりつつある社会からどんどん遠ざかっていかなくてはならないのだ。
 ある意味では人間の生理に反した環境といえるかもしれない。それが、奨励会の厳しさであり悲劇性でもある。
(48)


「お父さんを亡くしてつらいのはわかるけれど、それとこれとは別の話だと思うんだけどなあ」と私は言った。
「でも、こっちもう頑張れないんだ」と成田は静かに言った。
「だから、君がもう頑張れないならそれはそれでしかたないさ。でも、それはお父さんやお母さんのこととは違う話だろう?」
「いや、一緒だ」
「どうして?」
「それは、一緒だ」と成田は強い口調で反発した。
「いや、違う」と私も語気を荒らげていた。
「そんなことはない。一緒のことだっぺさ。大崎さんにこっちの苦しさなんか何もわからないんだ」と成田は顔を赤くして大きな声で叫んだ。
 それは、そうかもしれないと私は口にしなかったが、そう思った。その通り、僕にはたしかに〔ママ〕君の苦しさはわからないのかもしれない。では、君には僕の苦しさがわかるというのだろうか。僕が君に持ち続けている、君の才能への羨望や、奨励会で戦う君の立場への憧れを一度でも感じてくれたことがあったのだろうか。奨励会は確かに〔ママ〕苦しいかもしれない、だけど君たちは間違いなくそこで戦うことを許された戦士なのだ。戦士は自分のためだけに戦えばいい、そしてその責任をすべて自分自身が背負うべきだし、それを許されるのだ。光り輝く宝石のようなそのことの意味に、君は気がついているのだろうか。
(186-7)

 (個人的には、「羨望」と来たら「憧れ」ではなく「憧憬」を使います。)


 将棋は厳しくはない。
 本当は優しいものなのである。
 もちろん制度は厳しくて、そして競争は激しい。しかし、結局のところ将棋は人間に何かを与え続けるだけで決して何も奪いはしない。
 それを教えるための、そのことを知るための奨励会であってほしいと私は願う。
(326)


@研究室
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by no828 | 2013-03-28 18:36 | 人+本=体 | Comments(0)
2013年 03月 26日

僕は病気だって死ぬことだって恐くない。恐いのは人間じゃ、人間だけじゃ——大崎善生『聖の青春』

c0131823_15234370.jpg大崎善生『聖の青春』講談社(講談社文庫)、2002年。31(686)

単行本は2000年に同社

版元 → 


 腎臓の病を背負って生きた棋士 村山 聖(さとし)の人生が描かれています。享年29。将棋に没頭する姿勢は、学者としても見習いたいと強く思いました。村山の師匠である森 信雄との関係にも憧れを抱きました。

 名著。

 聖が将棋という途方もなく深く広がりのある世界を自分なりに覗きこみ、理解しようと努力したことがすべてのはじまりだった。自由に体を動かせないことからくる苛立ちや、身近にある友達の死という絶望感すらも自分自身の内に抑えこむことができるようになっていた。風を切って走り回る緑の草原よりも、春先の山よりも澄みきった川よりも、将棋は聖にとって限りない広がりを感じさせるものだった。(48)

「僕は何も恐くない」
 喫茶店に残された聖は父と母の前でそう言った。
「何も恐くない」
 もう一度そう言った目にみるみる涙があふれ、病気でむくんだ頰を伝わって落ちた。
恐いのは大人じゃ」と言ってわんわんと泣き出した。
 両手の拳を握りしめ、自分の膝を殴った。歯を食いしばって耐えようとしても体の中からこみあげてくるどうしようもない怒りを抑えることはできなかった。
僕は病気だって死ぬことだって恐くない。恐いのは人間じゃ、人間だけじゃ
 そう言ってとめどもなく流れる涙をぬぐおうともせずに泣き叫んだ。
大人は卑怯じゃ。どうして、どうしてじゃ」
(82)

 人を助けること、弱い者に自分にできる限りの救済をすること、それはいつからか村山の心の奥底からふつふつと湧き上がってきた思いであった。そのことでトミコと激論を交わした。大人の一見合理的なように思えて、実は弱者をどこかで切り捨てているような考えかたが村山には納得がいかなかった。
 しかし、村山はこうも思った。
 では自分がやっていることは何なのだろう。奨励会員と競い合い、勝負で負かして自分は勝ち上がっていくしかない。より具体的にそして直接的に弱者を痛めつけているのは自分ではないのか。
 生まれてはじめて、村山の心の中に将棋に対する小さな疑問が生まれた。
(156)

しかし、勝負には決着が着く。僕が勝つということは相手を殺すということだ、目には見えないかもしれないがどこかで確実に殺している。人を殺さなければ生きていけないのがプロの世界である。自分はそのことに時々耐えられなくなる、人を傷つけながら勝ち抜いていくことにいったい何の意味があるんだろう。(188)

 C級1組に昇級した18歳の村山がまずはじめたことは、日本フォスター・プラン協会というボランティアへの寄付活動であった。東南アジアやアフリカの環境の厳しい国に暮らし、何らかの理由で親と別れ孤児になってしまった子供たちに毎月仕送りをして、金銭的な親代わりになろうというものである。毎月の対局料から、村山は積極的に送金をはじめた。
 弱者を助けたい、特に子供を。その思いは、長い間療養所での生活を余儀なくされてきた村山の願いであり、自分自身が生きていく原動力でもあった。将棋を勝つことによって生まれてくるお金を恵まれない子供たちのために寄付する、そうすることで人を倒し勝ち上がっていく勝負の世界に生きることの苦しみや、自分自身に対する矛盾を少しでも緩和できればとの思いもあった。

 その寄付はつづいた。それによって村山は自分自身の中に芽生えた、勝負としての将棋の小さな嫌悪感を封じこめようとしていたのかもしれない。
(189-90)

 病院で少年時代をすごし、常に身近にある死を意識しながら生きてきた村山にとって、人間の駆け引きとか狡猾さを学習する時間はなかった。お世辞も、自分を一歩ひいて相手を立てるようなテクニックもなかった。(295)


ネフローゼです」
 そして、独り言のようにつづけた。
お母さん、大変な病気にさせてしまいましたねえ
 そうか、とそのときトミコは思った。この若い医者は私に向かってこう言っている。母親であるあなたがこの子をこの病気にさせたのですよ。子供が病気になったのではなくて、親であるあなたがそうさせたのですよと。
 この言葉をトミコは胸に深く刻みこんだ。そして、一生忘れないでおこうと決心した。
(26)

 村山の前田アパートの玄関を出て、歩道の上にへたりこんだ。そこでトミコは奇跡のようなシーンを目撃することになる。
 へたりこむ村山の前にスーッと音もなく一台の軽自動車が止まった。
「村山さん、今日対局か?」
「はあ」と村山は力なく答えた。
「ああ、よかった。乗りなさい」
「はあ」
「自力で乗れるかい?」
「何とか」
 そのまま村山は車に乗せられて、対局にいってしまった。今日も三谷工業の人が、万一に備えてようすを見にきてくれていたのである。
 息子を乗せて走り去る車を見ながら、トミコはこぼれそうになる涙を懸命にこらえていた。
夜遅くに広島から前田アパートにたどり着いて疲れ果ててもいた。原爆の後遺症による肝機能障害で自分の体調も決して万全ではなかった。
 自分だけじゃないんだ、とトミコはすーっと肩の力が軽くなるような思いだった。聖はいろいろな人に助けられ、支えられて生きている。森先生もいるし、友達もいるだろう。しかし、それだけじゃなく多くのファンや見ず知らずの人までこうして聖のことを気にかけてくれている。
 その現実を目のあたりにして、トミコは深い感動を覚えずにはいられなかった。聖は一人じゃない、その事実が公園の木々を揺らす冬の透明な風のように、トミコの心を震わせるのだった。
(260-1)


 羽生善治は“村山と同じ時代に将棋ができてよかった”というようなことを言ったそうです。
 羽生善治もやはり小学1年で将棋と出会い、そしてひたすら本を読んで勉強した。村山家と同じように山を切りひらいて造った東京八王子の新興住宅地。母親が夜部屋をのぞくと、いつもまるで亀のように蒲団から頭と手を出して将棋の本に没頭するわが子の姿があったという。食事時にも将棋の本を離さない善治に母はせめて、食事中は読むのをやめなさいと注文を出した。母と妹はそんな善治少年の将棋の相手をつとめた。途中まで指すと善治が将棋盤をひっくりかえし、不利になっている母妹連合軍の側を持ってまた指しつづけたというのはあまりにも有名な話である。(45)


『将棋世界』中野隆義の文章
「ね。村山くん。どお」
〔略〕「詰みます」〔略〕
「ほんとに詰むの。村山君〔ママ〕」
「…………」
「ねえ、どうやるのかな」
「詰みます」
「…………」
 部屋には、険悪な雰囲気がちらと見えてくる。村山の力を見ようという下心半分の気持ちを見透かされた上に、バカにされかかっているかのようなやり取りである。
「ねえ、ほんとに詰むんだったら、どうやって詰ますのかなあ。教えてよ、どうやったら詰むのかなあ」
 おどけてはいるが、マジに答えなかったら許さんゾの気合が籠もっている。
〔略〕
どうやったら詰まないんですか
 スコーン。と、満塁ホームランを場外まで持っていかれる音が、頭の中でした。こりゃ、モノホンだ。すげえのが出てきたな。と、思ったものである
(186-7)


@研究室
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by no828 | 2013-03-26 15:32 | 人+本=体 | Comments(0)
2013年 03月 25日

何故、そんなに肉体を諦めている?——森博嗣『迷宮百年の睡魔』

c0131823_1775042.jpg森博嗣『迷宮百年の睡魔』新潮社(新潮文庫)、2005年。30(685)

単行本は2003年に同社

版元 → 


 『女王の百年密室』(→ )の続編のようです。

 現代ほど、少数民族の自主独立が絶対的に保障・優先された時代はかつてなかった。前世紀の中盤にエナジィ問題が解決されて以来、人類はかつてない豊かさを手に入れ、物質の所有権を巡る争いは自然に沈静化した。それと同時に、他人に対して無関心になり、それぞれのサークルの中で、自分たちだけの秩序を築こうとする動きが主流になった。(31)

新しい技術には危険がつきものですが、技術的な試行を継続することで人間は必ず活路を見出してきました。諦めれば、進歩は止まってしまいます」(179)

 ただし、教育に関しては、地域の独立性が完全に保障されている。現代において、子供をどう育てるかは、基本的に、個人あるいは地域社会の自由だ。他人が口出しすることではない。(187-8)

 思うに、僕はもっと複雑で、そして、人間は本来もっと複雑なのだ。複雑さを認めようとしない、認めたくないのは、単なる回避、つまり、それこそが危険回避なのだ。
 自殺することと、自殺なんてしないと決めることは、どちらも危険回避という点で同値だし、同じ結論だ、と僕には思える。僕は自殺しない理由は、ここにある。あんなことがあったのに、僕が生きていられる理由は、つまり、死ぬことができない理由は、そういうことだ。死を選ぶなんて結論は、僕には単純すぎる。我慢できないほど、単純すぎる。
(212)

「あなたが面白い。稀有の存在といえるかもしれない。何だろう? 何故、そんなに肉体を諦めている? 生きることと、思考することを、切り離そうとしているのは、どうしてだ? あなたの躰と、あなたの視線は、まるで統制がとれていない」(216)

 躰なんてものがあるから、あんなに重かったのだ。
 なにをしても、すぐに疲れてしまった。
 ようやく重力から解放された。
 もともと、その部分は、余分だったのだ。
 そう、単なる入れもの。
 単なる器。
 それがないと、自分が存在できないと、錯覚していた。
 不自由であることが、存在の証だと、誤解していた。
 そもそも、存在って何だ?
 存在することの価値って、何だろう?
 自分が存在することで、その位置を、その場所を、占有する、
 他者を排除する、それが何だというのか?
(252)

「希望?」
「はい」
「何だ? 希望とは。希望の実態とは、何だ?」
「わかりません」ロイディは首をふる。「おそらく、それを言葉として口にすることが、未来に影響するという認識を人間が持っているためと考えられます
(276)

「そうか、動物が起きている状態って、もともと、とても特別な活動なんじゃない? ずっと眠っているのが本来の姿なんだね。起きているのが異常状態で」(465)


@研究室
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by no828 | 2013-03-25 17:46 | 人+本=体 | Comments(0)
2013年 03月 24日

でも脳も酸素や水に依存しているよね?——土屋賢二『教授の異常な弁解』

c0131823_151474.jpg土屋賢二『教授の異常な弁解』文藝春秋(文春文庫)、2012年。29(684)

単行本は2009年に同春秋。

版元 → 


 昨年の本ですが、Bではじまる古本屋で105円。

 わたしには、論理というものを土屋賢二の本で学んだという側面がたぶんにあります。「哲学エッセイ」というか何というか。「分析」を至上とする(あるいは一部の)自然科学に対する批判として読んだのが、以下の引用です。

「魂っていうものが脳に依存しているんだったら、〈人間は魂に他ならない〉とは言えないと思う

魂は脳に依存していると思うんだね? でも脳も酸素や水に依存しているよね? そうすると、酸素や水の方が本当の自分だということにはならないの?
「わたしが言いたいのはそういうことじゃなくて」
(33-4)

 ようかんを二つに分割すると何が生じるだろうか。こざかしい子どもなら、「二切れのようかんと三人兄弟のケンカ」と答えるだろうが、アナクサゴラスはこざかしくもなければ、子どもでもなかった。彼は、二切れの所有権を問題にせず、ようかんが分割によって別のものになるわけではないことに注目した。そしてこれは分割を何回繰り返しても成り立つと考えた。ようかんを分割していくと何回目かに突然別のものになるようなことはありえない(栗などが入っていないと仮定する)。熱も醬油も加えないのに、たんに分割するだけのことで別物に変質するとは考えられない。
 現代科学では、ようかんを分割していくといつか突然、ようかんとは似ても似つかない原子になると考えるが、なぜこういう原子論が世間に受け入れられているのか不思議である。
(55-6)


@研究室
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by no828 | 2013-03-24 15:50 | 人+本=体 | Comments(0)
2013年 03月 22日

第一作にすべてを注ぎ込め——保坂和志『書きあぐねている人のための小説入門』

c0131823_15472692.jpg保坂和志『書きあぐねている人のための小説入門』中央公論新社(中公文庫)、2008年。28(683)

単行本は2003年に草思社。

版元 → 


 わたしは勝手に『書きあぐねている人のための論文入門』として読みました。もちろん共通しないところのほうが多いはずです(小説のことはよく知りません)が、両者の異同を意識することで見えてくることもあるように思いました。

 保坂和志作品は、実は読んだことがありません。

 自分なりに感じるということは、他人の言葉は鵜呑みにしないところから始まる。たとえば私が「これが小説の中に息づくものだ」と言ったとしても、「息づくもの」という言葉をそのまま持ち歩いていては、小説は書けない。
 ある人が発した言葉には、その人なりの身体性や経験が反映されている。つまり、私にとっては「息づくもの」であっても、Aさんにとっては「本質」という言葉のほうがぴったりくるかもしれないし、Bさんにとっては「音楽性」と言ったほうがピンとくるかもしれない。「小説を書く」とは、まずは他人が発した言葉を自分の言葉に置き換えることから始まるのだ。
(19)

 それに、そもそもの話、「一気に読める」ということは、早くその小説の世界から出てしまうということで、本当に面白い小説なら、そんなに早くその世界から出たいとは思わないはずではないか。(23)

 たしかにそう言われてみると、小説を書くということはかなり大変なことのように思えてくる。それに、そもそもの話、べつに私が書かなくても、すでに小説はあるわけで、その上で、いったい私は何を書けばいいのかという疑問もわいてくる(こういう疑問というか“ためらい”はとても大事で、そこをその人なりにクリアしないと、小説を書きつづけていくことはできないと思う)。(26)

 第一作にすべてを注ぎ込め
 〔略〕
 よく「次の作品のためにネタを残しておく」という変なことを言う人がいるけれど、いま書いているものが“第一作”にならなかったら、二作目はない。残しておけるようなネタは、たいしたネタではない。つまり、書くに値しない。〔略〕
 人間の能力というのは奇妙なもので、最初の一作のために全力を注ぎ込んだ人には、二作目がある。しかし、力を出し惜しんで、第一作を書きながら二作目のネタを残しておいた人には、二作目どころか第一作すらない。
 この、一見矛盾した言い方は、しかし本当は「奇妙」でも何でもなく、簡単に説明がつく。なぜなら、全力で小説を書くことで、その人が成長するからだ。
(37.傍点省略)

 すでに述べたように、小説とは、一作ごとにまず書き手自身が成長するためのものなのだから、そのためにはいま自分のなかにあるものをすべて注ぎ込む必要がある。少なくともそう心がけて書かなければ意味がないのだから、「テーマ」という枠の設定は、作品としての仕上げには便利ではあっても、書き手の思考や感受性や記憶の発露に制限を加えてしまうという点で、大きなマイナスになる。(74)

「自己実現」のための小説を書かない
 〔略〕
 自己実現や自己救済のための小説は、たまたま同じように鬱屈した人生を送っている人がいれば、その人たちの「共感」というのは、「わかる、わかる」という気持ちで、読み手にとっては一時の慰めにしかならない(ただ、「共感」は得られやすいので、ベストセラーにはなる)。
 しかし、「感銘」というのは、自分より大きなものに出会ったときの、心の底からわき上がってくるような感動のことをいう。
(42-3)

〔略〕「ほめられたい」とか「見直されたい」なんて根性で小説が書けるわけがなくて、小説とはやっぱり「義務感」や「使命感」で書くものだと思う。(259)

 個人的には、第一作にすべてを注ぎ込め、と、義務感や使命感で書け、というのに、非常に共感しました。実際、勝手な義務感や使命感で書いてきたし、第一作にすべてを注ぎ込みました。ある研究者の方から、「あれを最初に書いて、あと書くことあるの?」と言われました。

 あります。書くことによって見えてくることがある、書かないと見えてこないことがある、そういうことだと思います。


@研究室
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by no828 | 2013-03-22 16:51 | 人+本=体 | Comments(0)
2013年 03月 21日

クリアアサヒ プライムリッチ

c0131823_17184972.jpgクリアアサヒ プライムリッチ(アサヒビール)

販売元 → 


 広告の類をまったく知らずにいきなり現物をKスミで発見。そののちに、CMにM下奈緒が出演しているらしいことを教育学講義@T川からの帰りの電車内広告(ドアの両脇)で知りました。テレビを観ないので、このCMをまさにCMとして観たことはありません。ただ、CMの映像自体は上掲ウェブサイトで観ることができるようです。

 非ビールであることに鑑みますと、比較的よいと思います。非ビールだと、わたしのなかでは「麦とホップ」が最上級(最上位と言いきるほどには非ビール界を知らない)ですが、「麦とホップ」とは別の象限においてこの「プライムリッチ」も最上級かもしれません。コクを前面に押し出していますが、たしかにそうだと感じました。

 酒類:リキュール
 原料:麦芽、ホップ、大麦、コーン、スターチ、スピリッツ(大麦)
 度数:6%


@研究室
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by no828 | 2013-03-21 17:30 | ビール | Comments(0)
2013年 03月 20日

構造自体はそう代わり映えしていないのでございますな——京極夏彦『豆腐小僧双六道中ふりだし』

c0131823_1765660.jpg京極夏彦『文庫版 豆腐小僧双六道中ふりだし』角川書店(角川文庫)、2010年。27(682)

単行本は2003年に講談社。

版元 → 


 映画になったようです。が、もちろん観ていません。

 言語、認識、存在。改めて書いておきますが、科学とは何か、に関心のある人は、京極夏彦はおもしろく読めると思います。わたしもはじめはとっつきにくかったのですが、読んでみたらとてもおもしろかったのでした。

そもそも妖怪と申します言葉は、単に怪しいというだけの意味しかない言葉だった訳でございますな。(7)

「いいか、俺はな、家がぎいぎい鳴るてェ現象そのものなんだよ。家がぎいぎいガタガタ鳴るのはいつだって俺の所為だ。つまり俺は、家鳴り現象の説明としてこの世に居るんだ。だから鳴屋なんて名前なんだよ。けどよ、お前の方は何の説明もしてねェだろ」(47)

 そもそも人に見られるためだけに、人に見られている間だけ、束の間の夢幻のように存在を許されるのが妖怪の本分でございます。その妖怪が、誰にも見られていない状態——つまり一人きりの状態で、現世にとどまっていることと申しますのは、これ、稀有なことなのだと御諒解ください。
 ならば妖怪は元来寂しがり屋なのかもしれませんな。
(85)

「で、でも、そうだ、お化けは誰かが覚えていてくれれば、また復活するんだとか。で、では人は——」
〔略〕
そりゃあ人間も同じだ。誰かが覚えている限り、なくなりはしない。だが残るのは人そのものじゃなくて観念だからな
「かんねん?」
「こいつは死ねばただのゴミ。こいつ自身はもう二度と蘇らん。こいつの自我はなくなっちまう。でも、こいつのことを覚えてる連中が居る限り、こいつは記号として有効なのじゃ」
(122.傍点省略)

 しかしこの禅問答——公案と申しますものは、考えてしまってはいけないものなのでございます。答えはございません。下手に論理的に考えたり致しますとドツボに嵌ってしまいます。
 小賢しい考えを巡らせたり致しますと却ってパラドックスに陥ってしまったりする訳でございます。それもまた当然のことでございます。公案と申しますものは、逆説的状況に直面することで、飛躍的に論理を超克することを求める修行なのでございますな。ですからぐちゃぐちゃ考えてはいけませんな。瞬発力勝負でございます。かといって、ウケ狙いというのも、これはいけません。
(201)

言葉は本質ではない。従ってありとあらゆる諸相で発展進化しよる。例えば坊主は鮎の事を剃刀と呼ぶ。魚の鮎と剃刀はまるで別物、無関係じゃが、言葉の上では同じものになってしまう。かみそりの四文字の上で区別はない。使う者が使う環境に応じて区別しておるというだけだ」(206.傍点省略)

多様な解釈、多様な文化——その多様さが豊かさに繫がるのだ。何を誰が見ても同じように考えるような世の中は、恐ろしいとは思わぬか?
「よく解りません」
「正直だな。良いか小僧。この世の中に絶対に正しいことなどあり得ないのだ。しかし——例えば解釈が一通りしかなかったなら、それが正しいと思うてしまうであろう?」
「はあ」
「みんながそう思うておる。異を唱える者も居らん。当然のようにそう思うわなあ。それで今度は、その解釈が間違っておる——ということになればどうじゃ」
(279)

「いかんわ。過激な理想論者に武力を持たせると人命を疎かにし始めることがあるからな(419)

 しかし、よくよく考えてみますってェと、迷信に科学が、身分やら階級やらに貧富の差やら学歴やらが取って代わりましただけのことでもございまして、構造自体はそう代わり映えしていないのでございますな。結局、説明の体系やら解釈やらは大きく変わりましたものの、差別意識だの何だのというものはそのままの形で温存されておりましょう。(520)

 この「構造」は、わたしの思考上にもよく出現します。結局何も変わっていないのでは、ということです。


@研究室
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by no828 | 2013-03-20 18:07 | 人+本=体 | Comments(0)
2013年 03月 18日

彼らの天下というのは、僅か十丁四方の小さな公家社会のことであった——有吉佐和子『和宮様御留』

c0131823_1849220.png有吉佐和子『和宮様御留』講談社(講談社文庫)、1981年。26(681)

単行本は1978年に講談社。

版元 → 


 題名の『和宮様御留』の読みは「かずのみやさまおとめ」。「御留」というのは、日記というか記録というか、そういう意味のようです。内容は、徳川将軍家に降嫁した皇女和宮、の身代わり(の身代わり?)の話。

 いったい、公家とは何か。忠義は歎息した。征夷大将軍の職制が源氏の棟梁に渡されて以来、もう七百年になる。天下の実権は頼朝以来ずっと公家の手から離れ、徳川〔とくせん〕家がそれを掌握してからでもすでに二百五十余年になろうというのに、公家たちはその現状を一度も認識したことがないようだった。彼らは七百年前の先祖と同じ所に住み、同じ衣服を着し、御所に上ると先祖がかつて坐っていた場所に、多分先祖にどこか似た顔をして日がな一日じっと坐っているだけである。論ずべき政治は手になく、裁可すべき事柄は何もありはしないのに、ただ坐っていて、御所から供される曾末な昼食を摂り、暮れるまで動かず、やがて主上〔おかみ〕の在します所を拝礼し、めいめいの先祖の家に、ヒンプク、ヒンプクと呟きながら帰って行く。彼らは何もしない。もともと公家から出て町人の間にひろまった和歌や香道など遊芸の家元のような公家方には別途の収入が馬鹿にならなかったが、多くの公家は、関東と昵懇にしている公家衆を除いて、みな貧しかった。しかし彼らは、貧しさを父祖の血の尊さの故とでも思っているのか、黙々として、月に三度は、朝を迎えると御所に参内し、夕に退出するという行事を繰返している。
 だが、この公家たちが、俄かに政治づいた。忠義は再任されて京都に来たとき、公家たちの顔色が一変しているのを見て自分の任務の重さを痛感したのだった。前には終日眠っていたような青公家たちが、頰を紅潮させて天下国家を論じている。最初は驚いた忠義も、その内容の幼稚さに気付いたときは茫然とした。彼らの天下というのは、北は今出川御門から南は九条殿邸まで、東は鴨川で区切られ、西は烏丸通までという、僅か十丁四方の小さな公家社会のことであった。
(124)


@研究室
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by no828 | 2013-03-18 19:03 | 人+本=体 | Comments(0)
2013年 03月 17日

学校なんて仕組みは、既に物質的な空間では存在しない——森博嗣『虚空の逆マトリクス』

c0131823_17392210.png森博嗣『虚空の逆マトリクス』講談社(講談社文庫)、2006年。25(680)

2003年講談社ノベルス

版元 → 


 引き続き、森博嗣の短篇集。
 
 短い文章ですが、「学校」という物理的な空間の意味・意義を考えさせられました。現在からすると、どうやら未来のことを描いているようです。
 学校なんて仕組みは、既に物質的な空間では存在しない。子供を一箇所に集めることは現代ではありえない。危険でさえある。(94.「トロイの木馬」)


 回文が頻出する「ゲームの国」という作品があります。もっともしっくり来たのが以下の回文。
イタリアで見る絵、買える身でありたい(242.「ゲームの国」)

 回文を考えてみたいと思ったことはありません。ただ、さっきまで講義のシラバスについて考えていまして、それと回文を結び付けたらこんなものができました。「すばらしいシラバス」。これについては、わたし自身にはとくに感想はありません。


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by no828 | 2013-03-17 17:50 | 人+本=体 | Comments(0)