思索の森と空の群青

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2014年 03月 31日

勿論、答えは《知らない》でいい——北村薫『鷺と雪』

c0131823_18271326.jpg北村薫『鷺と雪』文藝春秋(文春文庫)、2011年。130(785)

版元 → 
単行本は2009年に同春秋

 ベッキーさんシリーズ最終巻。時代は昭和11年2月。帯には「良家の女学生・英子と女性運転手が、帝都・東京で起きる謎を解き明かす」とあります。この「女性運転手」別宮(べっく ← 名字です)を英子は「ベッキーさん」と呼びます。


「俺達も、社会見学に行くことはある」
 雅吉兄さんは、現在、三田にある私立大学の大学院に通っている。そんな年になって、学年揃っての見学会などあるのだろうか。〔略〕
「社会事業研究会というのに入って、一円払う。すると、現代の暗黒街が見学出来るんだ。まあ、見られる側からすれば、《見学》じゃなくって、《見物》。物好きな金持ちの、物見遊山にしか思えんだろうがね」
「どこに行ったの」
「浅草の裏の顔を覗いたよ。歩いて、あれこれ見た。十六銭・二十八銭の宿泊所まで行った。食事の方は、一番安くすますには、おかずなしの飯だけ。――二銭だ
「……」
そこで、案内の人がいった。ひとつ、はしご段を踏み外すと、落ちるのは簡単。こういうところにも、案外な学歴の人がいたりするってな……
(16-7)

 見たように撮れるところまで行っていない。人間の眼はたいしたもので、明るいところ暗いところで、絞りを自動的に調節出来る。写真機はそうはいかない。あれやこれやと面倒だ。それこそ、体の一部のようになるまでには、かなりの時間がかかることだろう。
 わたしは今まで昼間の、それも、お天気のいいところでしか撮影していない。こんな夜では、うまく写せないに決まっている。ましてや相手はお月様。天空の一点だ。印画紙の上では、何が何やら分からなくなってしまうだろう。
〔略〕
 そう考えているうちに、月は雲の波間に隠れてしまった。仮に腕がよくても、これでは間に合わなかった。
 《真を写そう》にも、《機》がなければ仕方がない。家に入ることにした。
(181)

「絵本、買って頂戴」
 そういえば、薄い本の束を抱えている。どこかで処分されたものだろうか。色とりどりだが、綺麗な本とは思えない。
 それでも、あまり嫌な気持ちにならないのは、少女の賢そうな顔立ちによるのかも知れない。
「おうちで、……妹と弟が、お腹を空かして寝ているの」
 荒れ果てた家の内が浮かんだ。
「四冊十銭なんだけど……」
 そういわれて、心が動いた。十銭なら、わたしにとって、どうということのない金額だ。それで、この子が助かるなら出してもいい。しかし、絵本はいらない。処分に困る。売れるものなら、他の人に売ってもらいたい。かといって、ただお金をあげるのは失礼だろう。子供心を傷つけてしまう。
 ――年頃からいえば、ちょうど鶴の丸の巧君ぐらいだろうか。
 そこで、いい考えが浮かんだ。
「あのね、お姉さんはね、今、あることを調べてるの。質問に答えてくれたら、十銭あげましょう」

 少女は不審げに眉を寄せた。商売を取り締まる側の人間かと、勘ぐったのだろう。わたしは、急いで言葉を継いだ。
「――この上野で、《ライオン団》なんて聞いたことないかしら?」
 勿論、答えは《知らない》でいい。お金をあげるための方便だ。
(134-5)

 この最後の引用文のあとから物語の文脈が一気に転換します。ここで引用を止めるのは、物語の展開からするとよろしくないのですが、わたしの引用は大体本筋とは無関係な、部分的なことのほうが多いのです。この引用は、むろん「援助」とは何かを思考する契機を与えてくれたからです。

@研究室
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by no828 | 2014-03-31 18:30 | 人+本=体 | Comments(0)
2014年 03月 28日

つゆが薄い場合はどっぷりつけていいんだよ——池波正太郎『男の作法』

c0131823_19213396.jpg池波正太郎『男の作法』新潮社(新潮文庫)、1984年。129(784)


版元 → 
単行本は1981年にごま書房


 2014年も3ヶ月が通過し、年度末の暮れも暮れなわけで——だからわたしもまだ研究室にいるわけで——すが、昨年2013年に読了した——学術書以外の——本の記録のアップロードがまだ終わりません。冒頭書誌情報脇の、今回で言えば「129」が2013年の読了冊数、「784」が本ブログ開設以来の読了冊数を表します。

 本書は、池波正太郎の“語り下ろし”です。作法には理由がある、ということがわかりました。「作法」と呼ばれるものは一見不合理の極北のように感じられることもあるわけです。しかし——少なくとも本書で挙げられていたものを見るかぎり——作法は合理的なのです。

 ちなみに、池波正太郎の本を読むのはこれがはじめてです。テレビ番組の「鬼平○科帳」は祖父が観ていました。“ソフトな時代劇”と“ハードな時代劇”があるとするなら「鬼平」は後者で、幼いわたしは観るのが恐かったという記憶があります。原作本ではどうなのでしょう。


 そばのつゆにしても、ちょっと先だけつけてスーッとやるのが本当だと言うけど、これだって一概には言えないんだ。つゆが薄い場合はどっぷりつけていいんだよ。
 ちょっとつけるというのは、どっぷりつけたら辛くて食べられないからちょっとつける。たとえば東京の「薮」のそばなんかは、おつゆが濃いわけだから、全部つけられないわけだよ。だから先にちょっとつけてスーッと吸い込むと、口の中でまざり合ってちょうどよくなるわけ。
(49-50.傍点省略)

 自分のおしゃれをする、身だしなみをととのえるということは、鏡を見て、本当に他人の目でもって自分の顔だの躰だのを観察して、ああ、自分はこういう顔なんだ、こういう躰なんだ、これだったら何がいいんだということを客観的に判断できるようになることが、やはりおしゃれの真髄なんだ。(55-6)

「すべて前もって前もって……」
 と、事を進めて行くことが時間のつかいかたの根本なんだよ。あまりそういうことに気を遣いすぎていてはのんびりできないというかもしれないが、クセになれば少しも気ぜわしくないんだ。
 余裕を持って生きるということは、時間の余裕を絶えずつくっておくということに他ならない。一日の流れ、一月の流れ、一年の流れを前もって考え、自分に合わせて、わかっていることはすべて予定を書き入れて余分な時間を生み出す……そうすることが、つまり人生の余裕をつくることなんだよ。それをしないから、いざというときになって泡をくらっちゃうことになる、たいていの人は。
〔略〕
 前もって前もって事を運ぶのはせっかちだとか気が早いとかいうけれども、せっかちじゃないようにしたいからこそ、そういうようにしているわけだ。
(93)

 若いときはお金がないこともあるだろうが、つまらないところに毎日行くよりも、そのお金を貯めておいて、いい店を一つずつ、たとえ半年ごとでもいいから覚えて行くということが自分の身になるんですよ。
 ちゃんとした店に行くということは、いろいろ勉強になる。ただ食べるということだけではなくて、いろいろ相手の気の配りかたがわかれば、こっちの勉強にもなるわけです。

 だから、毎日千円の昼飯を食べるとして、そこを三百円のハンバーガーにしておいて、七百円浮かしたら、一月二万なり二万五千円なりになる。それで本当のいい鮨屋に行くとか、いいレストランへ一人で行って飯を食うとかということを若いうちからやらないと駄目なんだ。
(175-6.傍点省略)

 気分転換がうまくできない人は仕事も小さくなってくるし、躰もこわすことになりがちだね。会社でもいやなことばかりに神経を病むような人は、やっぱり躰をこわしてくると思うんだよ。
 さりとて神経が太いばかりだったら、何ごともだめなんだよ。太いばかりだと馬鹿になっちゃう。隅から隅までよく回る、細かい神経と同時に、それをすぐ転換できて、そういうことを忘れる太い神経も持っていないとね。両方、併せ持っていないと人間はだめです。
(176)


 そろそろ帰りましょう。

@研究室
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by no828 | 2014-03-28 19:36 | 人+本=体 | Comments(0)
2014年 03月 25日

そのことを喜べない人は、そもそも先生になるべきではないんだ——たかのてるこ『モロッコで断食』

c0131823_19314661.jpgたかのてるこ『モロッコで断食〔ラマダーン〕』幻冬舎(幻冬舎文庫)、2004年。128(783)

版元 → 
単行本は2002年に上下分冊で同舎


 モロッコ旅行記。著者たかのてるこのこの「第三世界」への一人旅シリーズ(?)は、思考を駆動させてくれることが多いです。わたしが「開発」に関心を抱いているからだと思いますが、それとともに人間への洞察が多く含まれているからだとも思います。「人間不信」という言葉の入った文章を今回引用しましたが、だからこそ人間を深く観察できているのではないかと感じました。


 だが、私がポケットサイズの英和・和英辞書を使って難しい話をしようとすると、「ごめんね、僕は英語が読めないんだ」と首を振る。
「読めないって、話せるのに!?」
 彼は英語を話すことはできても、読むことができないのだという。正真正銘、文字ではなく、耳で覚えた英語なのだ。どんなふうに彼の脳ミソに英語がしまわれているのか、私はもう不思議でならなかった。
(30-1)

「小学校の時にね、酷い先生がいたんだよ。毎日愛も意味もなく、めちゃくちゃな理由をつけてはボコボコになるまで殴るんだよ。鼻血なんて何回出したか分からない。だから私は子どものころ、不眠症になって、人間不信に陥ったんだ。不眠症は治ったけど、人間不信って克服するのが大変で、それ以後の人生、ずっとリハビリが続いてるような気がするよ。もしかすると、ひとり旅はそのトラウマの荒療治なのかもしれない。人を信じることを、問われ続けるから
〔略〕
「まったく酷い話だ。教職を目指すものとしても、君の友人としても、その先生が許せないよ。先生は、『モノを教えてやる』なんて思っちゃいけないんだ。先生と生徒は対等なんだ。自分が毎日教壇に立つことで、生徒の知識が毎日増えていくことを喜ばなきゃいけないんだ。いや、喜ばなきゃいけないんじゃなくて、そのことを喜べない人は、そもそも先生になるべきではないんだ
(80-1)

 前半の話し言葉が筆者、後半の話し言葉がモロッコで教職を目指す青年。「先生と生徒は対等」というところには疑問符ですが、生徒の知識が増大することを喜べるかどうかが重要だ、というところには同意です。教育は卓越主義であらざるをえないのかなあ……。

「たとえば弱さに関していうと、イスラムでは禁酒だよね。それは、弱い人間に酒なんか飲ませたら、どうなるか分かったもんじゃないと考えているからなんだ。酒を飲んでもいいことにすると、酒を飲んだにもかかわらず、車の運転をする人が必ず出てくる。飲酒運転が原因で、大きな交通事故が起きることもある。日本も飲酒はオーケーでも、飲酒運転はオーケーじゃないよね? 飲酒運転を取り締まるよりは、弱い人間にもともとお酒を飲まさなければいい。そう考えて、イスラムでは先にお酒を禁止してしまっているんだ」(92-3)

「イスラムでは女の人がベールを被っていて、ロングスカートをはいていることが多いよね。あれも、弱い男を誘惑しないようにする知恵なんだ。弱い男のために、女性に協力してもらっているようなものだよ」(94)

「でも、どうして4人まで奥さんを持ってもいいことになってるの?」
「もともとは、戦争で夫を失った未亡人や、彼女たちの子どもを救済するのが目的だったんだ。母子家庭で生活していくのは大変だからね」
 一夫多妻は、弱い立場の女性を守るためにできた法律だったんだ。私はてっきり、男にとって都合のいいことを女に押しつけている制度だと思っていた。
(95)

 わたしはこれで納得できない。ただ、なぜ納得できないのかをうまく言語化できません。「弱さ」をアリバイのように使用しているように感じられる、から? 

「祈ると、その日の体調チェックにもなるってこと。僕らの祈りは、かがんだり、首を動かしたりするだろ? だからお祈りをすると、『あ、ちょっと肩が凝ってるな』とか『首の調子がおかしいな』とか、自分の体調が手に取るように分かるんだよ」
 知れば知るほど、イスラムが生活に密着している宗教だということが分かってくる。
(140)

 人と人が知り合っていく過程で、互いの共通点を見つけることは、仲良くなれるかどうかのポイントになる。でも最終的には、宗教だろうが、食べ物の好みであろうが、相手と自分の“違う”点を受け入れられるかどうかなんだろう。互いの共通点を面白く感じ、“違い”を尊重し合えるかどうか、と言ってもいいかもしれない。(156-7)

 カリッドも、カリッドの家族も、私を全然不安な気持ちにさせない。彼らが私にくれるのは、絶対的な安心感だけだ。
 この心の安らぎは、いったいどこから来るんだろう。この村に来てからというもの、どうしてこんなにも子供のころのことが懐かしく思い出されるんだろう。この、私を狂おしいほど懐かしい気持ちにさせる何かは、男と女の役割が決まっている安心感から来るものなんだろうか。
 私は長い間、“男だから”とか“女だから”という価値観が大嫌いだった。〔略〕
 なのに、あぁ、どうしてだろう! 私の胸は今、こんなにも満たされている。
(193)


@研究室
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by no828 | 2014-03-25 19:47 | 人+本=体 | Comments(0)
2014年 03月 22日

具体的な他者との埋めることのできない隔たりに遭遇したあとで——重田園江『社会契約論』

c0131823_16411089.jpg重田園江『社会契約論——ホッブズ、ヒューム、ルソー、ロールズ』筑摩書房(ちくま新書)、2013年。

版元 → 


 昨年出版され、昨年のうちに購入し、そして読んだ本です。手に取った動機は、

(1)「社会契約論」の意義を自分なりに掴めていなかったから、掴みたかったから
(2)「教育制度論」の講義に、とくに「制度」とは何かという点に示唆が得られると期待したから
(3)『連帯の哲学Ⅰ』(版元 → )、『ミシェル・フーコー』(版元 → )といった著作から、筆者に関心を持っていたから

でした。

 読みおわり、上掲3点の動機は十分に満たされました。が、そうした動機、あるいは想定を超えて、わたしがもっとも共感したのは「おわりに」の文章でした。

 以下に長めに引用するように、著者は20歳の頃にマニラの「スモーキー・マウンテン」へ行き、現地で生活する人びととのあいだに圧倒的な、決定的な存在上の懸隔を実感します。この懸隔は、わたしがダッカで実感した、彼の地の子どもとのあいだに実感したまさに懸隔に重なるものです。子どもを前に、わたしは何をすればよいのかわからず、何をしてよいのかわからず、何をすべきなのかわからず、ただただ立ち尽くすしかありませんでした。

 著者への共感はこの懸隔という点に限られません。そうしたかなり実際的な体験をした、にもかかわらず、著者が理論や思想の研究に携わっている、その点にも共感を覚えました。マニラでの体験は、著者の研究の問題意識の少なくとも一端を形成しているように思われます。先に示したように、著者の研究主題はフーコーやフランスの思想に置かれています。大学卒業後の日本開発銀行での実務的な勤務経験はありながらも、著者は研究に取り組んでいます。しかも、政策科学ではなく、理論や思想といった、すぐには実際の状況を変え——られ——ない事柄、基礎的な事柄を研究しています。この姿勢、この態度は、わたしの研究のそれに通じるところがあります。わたしもまた実際的な体験から、理論や思想のほうへ、哲学のほうへと来ました。

 がしかし、著者は「研究」と「行為」とを分け、研究の外側で、論文の外側で、研究者としてではなく行為者として、何らかの社会変革に携わっている可能性もあります。わたしは文章の外側の著者を知りません。研究として取り組むこと、研究としては取り組まないこと、著者はこの2つを分けている可能性もあります。わたしは、自分のなかで理論や思想と行為(実務)とをうまく分離・接続できていません。したがってこの点に違いはあるのかもしれません。

 「問題意識」と呼ぶ前の「思い」のようなものを書物の「はじめに」や「おわりに」などに記すことを禁じ手と見る向きもあるかもしれません。わたしもその向きに共感するところがあります。あくまで本文で勝負、「はじめに」や「おわりに」は言い訳にすぎない、という考え方があります。それもわかります。本文から著者の「思い」を汲み取ることも可能だ、という考え方もわかります。しかし、そこに書かれたから伝わることがある。そこに書かれたから受け取れることがある。それも事実です。

 実際的な体験をした、だからこそ、理論や思想の研究をする、という行路に、先人の足跡を確認することができたように思います。

 私が学生だったころ、〔略〕日本に来て風俗の仕事をしている東南アジアの女性たちのことが知りたくて、マニラに行った。そして当時マニラにあった、「スモーキー・マウンテン」と呼ばれる、都市から出るゴミを長期間廃棄しつづけたとんでもない場所を見にいった。
〔略〕
 帰りたいとか逃げ出したいとかいう気力もくじかれた状態になっているとき、そばの山の上から声がした。ふり返ると、あちこちに煙が上がるゴミの山のてっぺんに、掘っ立て小屋のようなものが建っていて、人が住んでいるらしい。そこの住人らしき女の人が、片手に赤ちゃんを抱いて笑いながらこっちに手を振っていたのだ。
 私はそのとき、この人や赤ん坊に、何をどう思えばいいのか分からなかった。顔をタオルで覆うこともなくそこの空気を吸い、ゴミの山からボロボロのビニール袋を選り分けて背中のかごに入れている、小学生くらいの子どもたちに対しても。彼らと自分との違い、生まれた場所や生きる境遇の違いをどう受け止めればいいのか。自分はいったい何をすればいいのか。当時二〇歳だった私はただ呆然とするだけだった。
 どうしようもない隔たりの中で、人はいろんなことを考える。そのうちの一つに、「なんかこの世の中間違ってないか?」というのがある。〔略〕
 人が他者との間にどうしようもない違いと隔たりを感じ、同情や共感そのものが吹っ飛ぶような、なんというか強烈な場面に遭遇したとき、その場に立ち尽くすしかなくなる。でも、そのあとはどうなるのか。どうすればいいんだろう。私はいまだにその光景をときどき思い出し、なんともいえない陰惨な気分になる。
 いまになって思うのは、そういう経験が、「この社会は間違ってるんじゃないか」あるいはもっとストレートに「社会を変えたい」という思いの原動力になることだ。具体的な他者との埋めることのできない隔たりに遭遇したあとで、それでもその人、その境遇に関わりたい、関わらなければと思ったときに人が考えるのは、そういうことではないかと思う。
(273-5)


@研究室
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by no828 | 2014-03-22 17:37 | 思索の森の言の葉は | Comments(0)
2014年 03月 21日

沢山の講義に出て、質問をして、自分で見極めることが大事です——森博嗣『大学の話をしましょうか』

c0131823_18294454.jpg森博嗣『大学の話をしましょうか——最高学府のデバイスとポテンシャル』中央公論新社(中公新書ラクレ)、2005年。127(782)

版元 → 


 題名のとおり、森博嗣の大学論、学問論などが含まれています。共感するところが多かったです。

 実際に大学などで教えるようになり、一斉授業の意味・意義を考えることが増えました。わざわざ同じ時間に同じ場所で同じ教員の講義を受ける意味・意義とは何か、考えます。それは学生が考えればよいことだ、とも考えられますが、出欠を確認しなければならないところ——があるのです——ではとくに、教員も考えなければならないのではないかと思います。来年度は、本件に関するこれまでの私的な仕組みを変更し、部分的に学校側の決まりに反抗しながら、一斉講義を展開していこうと企画中です。本書を通してヒントを得られたところもありますが、その大学に常にいるわけではない非常勤講師という身分で何ができるのかは、また自分で考えないといけないと思いました。


 ただし、働いている者が偉い、働かない者は一人前ではない、という考え方は間違っていると思います。その理屈が、男女差別や、老人差別、子供差別の基本になっているものです。〔略〕これまでは、みんなが労働をしなければ生きられない貧しい時代だった。〔略〕しかし、労働という意味が、既に昔とは異なってきているのです。(24)

大学の教育とは、講義室で行われる授業にあるのではなくて(あれは単なるガイダンスだと思って良いだろう)、学びたい学生が、自分からすすんで教官の部屋へ訪ねてくる。そこで議論があり、ともに学ぶことができる。こういった学び手の主体性のうえに成り立っているのが本来の大学のシステムだろう、と森は考えている。(62-3)

何が問題なのか、何を研究すべきなのか、といったスタート地点を探すことから自分の力でしなくてはならないのだ(原則して、ではあるが)。
 森も最近気づいたことだが、本当のところ、研究とは、何を研究したら良いのかを見つければ、峠はもう過ぎていると考えても良いくらいだ。〔略〕どこに問題があるのかを考えることができるのは、個人の頭脳だけ。博士とは、つまり、その能力に与えられる称号といえる。
 仕事と手法が与えられたとき、それを的確に解決できるのが、学士。仕事を与えられたとき、手法を自分で模索し、方向を見定めながら問題を解決できるのが、修士。そして、そもそも、そのような問題を与えることができるのが博士である。
(67)

 だから、「大学院へ進学して何が良かったか?」ときかれれば、答は「大学院で勉強していた、そのとき、その瞬間が最高に楽しかった」と答えることにしているし、今でも、それが正解だと信じている。できることなら、もう一度、大学院生になりたい。(70)

〔略〕これから研究を始めようというときには、実績なんてない。そうでしょう? 実績があるのは、もうその研究である程度のレベルに達している証拠です。どちらかというと、実績がないところへこそ資金を回すべきなのです。(96-7)

学者として、研究者として、自分が知りたいもの、解決したいもの、作り上げたいものへ向かっている視線に魅力を感じるだろう。
 少なくとも、学生だったときの僕はそうだった。そういう先生たちの視線を垣間見たからこそ、自分も大学に残ろうと決心した。
(136)

〔略〕面白い講義とは、やはりその先生が、そのテーマに真剣に取り組んでいて、それが伝わってくる、そういうものではないでしょうか。若者というのは、本当に敏感で、先生が研究に打ち込んでいるその視線を必ず感じ取るものです。
 だから、〔略〕良い研究者であれば、自然に良い教育者だ、と僕は考えています。学びたい人間にとって、力のある研究者が身近にいることが重要であり、そういった人に接することこそが大学の最終的な、ほとんどの唯一の存在理由でしょう。
(157-8)

〔略〕教育というのは、先生が生徒に力を見せるものなんです。(164)

 極端な話ですが、大多数の人が反対するようなことでも、正しいことはあるのです。〔略〕それを指摘するのが、学者の使命だといえます。そうなると、本当はどこからも資金提供を受けていない立場の人間でいることが重要なのです。だから、すぐに役に立つ研究ばかりに手を出さないで、基礎学問をもっと押し進めてもらいたいと思います。(169-70)

〔略〕良い先生を捜さなくてはなりません。そのためには、沢山の講義に出て、質問をして、自分で見極めることが大事です。そして、この先生ならば、という人が見つかったら、そこのゼミを希望して、学問を体験する、ということが大学でできる最も正当な道ですね。(174)


@研究室
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by no828 | 2014-03-21 18:50 | 人+本=体 | Comments(0)
2014年 03月 19日

科学哲学って、あれは、そういう通じる言葉を作る役じゃないんでしょうか——筒井康隆『脳ミソを哲学する』

c0131823_18385125.png筒井康隆『脳ミソを哲学する』講談社、1995年。126(781)

版元 → 

 筒井康隆と科学(に関わる仕事をする)者との対談集です。筒井の科学に関する背景的知識の多さに驚きます。

 本書内でA・E・ヴァン・ヴォクトの『宇宙船ビーグル号の冒険』(版元 → )に何度か言及されています。同書に登場する「総合科学者」の役割の重要性が指摘されています。細分化した科学の下位分野間の“通訳”のような役割を果たせる人のことです。というわけで、『宇宙船ビーグル号の冒険』をいま読んでいます。

 また、107ページにあった筒井の発言(6番目の引用)には強く共感しました。“この先、行き止まり”の標識を掲げることにも意義があると思います。成功したことだけを綴る論文は、何というか、本末転倒のようにわたしは感じます。

 ちなみに、対談相手は以下の人たちです。

 科学哲学  村上陽一郎
 解剖学   養老孟司
 生命誌   中村桂子
 動物行動学 日高敏隆
 数学    森毅
 気象学   根本順吉
 生物工学  軽部征夫
 理論物理学 佐藤文隆
 イカ学   奥谷喬司
 評論    立花隆


筒井 対象をあまり愛しすぎるのはアマチュアだと村上さんは以前おっしゃっていましたが、もちろんよい意味でのアマチュアということでしょうが、そういうアマチュアっぽさもないとなんというか、科学の先端をやっている人たちがみんなサラリーマン的では、わたしもなにか情ないような気がしますね。(18)

村上 サラリーマン的な研究者というのは小さなレンガは積みますが、そこに積んだレンガの上に美しい装飾をかけるのは、やっぱり面白がったり、こんなのはどうだという独創的な発想のある人なんです。地道さというのは大事ですが、地道さだけで、この世界が動いているとは思えませんね。〔略〕地道な人は地道な人で、そのかたがたにも協力していただきましょう、だけども、そこにあえて軽薄という言葉を使えば軽薄、あるいは面白いからこんなことやってみようよというのが付け加わっていかないと、やっぱり豊かにはならない。(25)

筒井 さっきから考えているんですけど、科学哲学って、あれは、そういう通じる言葉を作る役じゃないんでしょうか。
村上 ある意味ではそうです。分化した、それぞれの科学の基礎に、どうやったら、共通の文法と共通の翻訳ができるような土台が見つかるか、その土台を探すものではあるんです。
(28)

中村 生きものは三十億年くらいは海にいて、五億年くらい前に陸に上がった。実際に、わたしたちは生まれてくるまではほとんどの間、水の中にいるわけです。羊水って、ほぼ海の水と同じ成分なんですね。そこから、だんだん陸へ出ていくといったような歴史を身体で表現している。(80)

日高 ぼくは昆虫の研究から入ったわけですが、なぜかというと、昆虫を見ていてこいつらなにをしているんだろうっていうのが、いちばん気になってしかたがないんですね。なぜだろうって。(96)

筒井 この実験を延々とやってきたけれど、仮説の立て方が間違っていて全部失敗に終わったという場合でも、少なくともこれは間違いであるということは記録に残る。それはつまり、役に立っているわけですよね。(107)

軽部 なぜかと言いますと、三十五億年にわたって偶然性によって進化してきた生物を、偶然にではなく、わたしたちの意思でわたしたちの役に立つように改良することができるようになったからです。
 生物の進化や、人間はこれからどのように進化していくべきかというようなことを、自分たちで決めることができるようになってきたのです。幸か不幸かわかりませんが、これがバイオテクノロジーの本質じゃないかと思っています。
(185)

立花 でも、フロイトが精神分析論で説明づけたような精神的病いが、実は遺伝子レベルのある酵素欠陥が原因だったというようなことが、いま、どんどんわかってきつつあります。そうすると、あの理論というのは一体なんだったんだということになるわけです。
筒井 心理学は実証ということがまったくできない学問で、自然哲学に近かったり、統計学に近かったりするわけです。でも僕は、なにかのかたちで統合的に科学になり得ると思うのです。
筒井 心理学が科学になり得るのは、それが脳の実際の構造機能と結びついたときでしょうね。
(272)

軽部 たとえば、高齢化社会と言われていますが、言葉でコミュニケーションをとれなくなったお年寄りと言葉を介さず、脳と脳でコミュニケーションできるようになれば、より満足のいく介護もできるでしょう。(205)

 ALS。

@研究室
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by no828 | 2014-03-19 18:53 | 人+本=体 | Comments(0)
2014年 03月 14日

内面と云いつつも、「内面のイメージ」に過ぎないわけだ——角田光代・穂村弘『異性』

c0131823_1735689.jpg角田光代・穂村弘『異性』河出書房新社、2012年。125(780)

版元 → 

 小説家 角田光代と歌人 穂村弘が“男と女”について代わる代わる考察を加えていきます。角田の内容を踏まえて穂村が書き、その穂村の内容を踏まえて角田がさらに書き、ということが続いていきます。

 一種の「対話」によって、かなり深いところまで思考が到達している気がします。対話において重要なのは、一方の他方への優位を確認することではなく、双方にとって新しい認識を獲得することである、ということがよくわかります。“それ”を「議論」、さらには「論争」と呼んでもよいのかもしれません。その目的は、少なくとも理想的には、勝負にあるのではなく、開拓にあるのだと思います。

 先に「かなり深いところ」と書きましたが、それを「本質」と呼ぶと誤解を招きやすい——とわたしは思ってしまう——し、わたしは別に「男」や「女」や「男と女の関係」などに本質主義的内容を想定して/できていないので、その「かなり深いところ」を「本質」とはあえて呼ばないことにします。



「人間は内面か外見か」という永遠のテーマがある。
 だが、内面が純粋に内面であり続ける限り、それは他者からは知覚できないことになるのではないか。つまり、内面と云いつつも、実際にはひとりの人間の表情や口調や行動パターンから推測される「内面のイメージ」に過ぎないわけだ。
(穂村弘.20)

 これは運なんかじゃない、じつに正当な経済バランスだ、とそのとき思った。自身に金を遣う女の子は、たしかに、食事やなんかまでまかないたくないのだ。相手のためにもうたくさん遣っちゃったんだから、あとはその人が出さないとフェアじゃない。私を含む自身に金を遣わない女たちは、手ぶらで出てくるわけだから、いいのだ、割り勘で。(角田光代.27)

「私のこと好き? ずーっと好き? 一生好き?」と訊くのは、なぜかおおむね男性ではなく女性だ。そうしてさらにどういうわけだか、そう訊かれた男性はおおむね、「うん好き、ずーっと好き、一生好き」とは、答えない。どちらかというと、答えを渋る。
 これはおそれるものの違いだろうと私は思う。
 女性はものごとが変化変容するということを本気でおそれている。嘘でもいいから「変化しない」と言ってほしいのだ。
 それを言わない男性というのは、変化ではなく固定をおそれているのではないだろうか。〔略〕
 自分も経験があるが、別れの際、とくに女がふられた場合、私たちは「でも、本気で好きでいてくれた時期はあったよね」と、相手に確認したい衝動にかられる。意味がないとわかりつつ、そうする(場合が多い)
(角田光代.47)

 それに対して、女性は全然そんなことないと思う。リストラで自殺なんてきいたことがないし、夫が死んだあとの妻の中には、けっこう生き生きと海外旅行に出かけたりするひとも多そうだ。
 また妊娠や出産という身体的な大変化も女性だから乗り越えられるもので、もしも(という仮定に意味があるかどうかはともかく)男性の身に同じことが起こったらとても耐えられないって説もあるらしい。
 これってどういうことなんだろう。
 君たちは変化をおそれていたんじゃなかったのか。
 でも、実際の変化に弱いのはむしろ僕らの方だ。
 それともリストラとか死別とか出産じゃなくて、恋愛に関してだけおそれの気持ちが女性の中に生まれるのだろうか。

 〔略〕
 変化に対するおそれと実際の苦しみは必ずしも比例しないってことなのかなあ。
 女性がおそれている変化の正体って一体なんなんだろう。
(穂村弘.51)

 あるところでは「変化、カモーン!」なのに、恋愛相手の気持ちの変化を異様におそれるこの心理は、穂村さんが首を傾げるとおり、いったいなんなのだろうと思わざるを得ない。そして実際に恋愛関係が変化してしまったとき、おそれているほどには女性は(個人差はあるが)ダメージを受け「続け」ない。別れた恋人を忘れられないのは、いつだって女性より男性に圧倒的に多い。
 自身の体も人生展開も、価値基準も変化せざるを得ないから、女性は何かひとつ、変化しないものを切実に求めている……と考えれば納得もしやすいが、でもなぜそれが「恋愛」なのか?という新たな疑問も生まれるのである。
(55.角田光代)

 この〔女性の〕慈愛は、「かわいい」にもスライドすると思う。自分よりちいさいもの弱いものを見て、「かわいい」と言うが、ある時期「かわいい」のインフレが起きて、かわいいと指摘することによって、自分より大きいもの、強いものから脅威を削ぐ術も、私たちは覚えたように思う。そうして「かわいい」と言葉にするのは、やっぱり男性より女性が多い。(角田光代.62)


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by no828 | 2014-03-14 17:51 | 人+本=体 | Comments(0)
2014年 03月 13日

親と子が同じパソコンを使い、同じフィギュアを一緒に買いに行き——菊地成孔『時事ネタ嫌い』

c0131823_1832528.jpg菊地成孔『時事ネタ嫌い』イースト・プレス、2013年。124(779)

版元 → 


 時事ネタが嫌いな著者による時評集。わたしは、TBSラジオ「菊地成孔の粋な夜電波」の愛聴者でもあって、それは著者の思考や知識や言語のセンスに関心を抱いているからです。もちろん流れてくる音楽も好きです。

「本当のオトナは幼児プレイをしなくちゃ」からの引用、親と子ども、大人と子ども、そのあいだの境界線の希薄化への着眼は、ハンナ・アーレントの教育論を想起させるものでした。



 社会不安の多くは、というか、恐怖心それ自体が、裏に隠れている、もっと巨大な不安を忘れるためのガス抜きもしくはよそ見に集中することを意味します。ソーセージやハンバーグが、心理的背景に粘土遊びという退行的なイメージを持ち、日本人の多くは、微妙な肉の味なんてそもそもわからない。という、はっきりとば口にされない国民的コンセンサスによって、あの会社は「安心して」袋叩きにされました。
 本気で総ての食品安全を求め始めたら社会不安どころか、生じるのはパニックなのである。と、誰でも心の奥底で知っているのです。思考停止するのにちょうど良い騒ぎだったと言えるでしょう。
(「日本人にとって挽き肉とは何か」58)

挽き肉の配分だの鰻の産地なんて、そんなもん喰ってわからない奴には教える必要なんかないぐらいの話だよ(「日本人にとって挽き肉とは何か」59-60)

〔略〕いざ始めてみると自分が嫌いだと思っていたことを敢えて続けてみるということは、場合によっては精神衛生上、そんなに悪くもないかもしれないと思うようになりました。(「食い物屋は頭を下げる」87)

 ズバリ一言で正鵠を射ようとする人々が世に絶えたことはありません。(「他人なんて殺せませんよ。家族じゃあるまいし。」93)

 日米は、世界でも1位と2位を争うであろう「コドモと青年の国」です。親と子が同じパソコンを使い、同じフィギュアを一緒に買いに行き、同じグラビアアイドルが好きで、つまりは友達と同じであるが故に、イジメに遭ったコドモが「助けてくれる(話の通じない)未知の領域」を失い、バカスカ自殺してしまうのは仕方がないことですし、親が子を殺すのも、子が親を殺すのも同根です。(「本当のオトナは幼児プレイをしなくちゃ」101)

 ワタシは過去、トルエン中毒の友人も、マリファナ中毒の友人も、あらゆるイリーガルドラッグ中毒の友人も、アルコール中毒の友人もおり、彼等の悲惨さ、滑稽さ、崇高さ、総て含んだ上で彼等を心から愛し、彼等の味方であるとはっきりと宣言することができます。しかし、インターネット中毒者に対しては、同じ気持ちにはなれません。何故か? 彼等がリーガルそしてマジョリティだからです。前回、格差社会というのは経済的な側面だけではないと書きましたが、インターネットを全くやらず、その代わりに校庭でこっそり煙草を一服する中学生と、煙草をくわえたこともなく、一日中ネットにハマっている中学生。という格差が定着することをワタシは願っています。(「イジメ社会(タバコに対する)」130)


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by no828 | 2014-03-13 18:42 | 人+本=体 | Comments(0)
2014年 03月 07日

小さなところを大切にしてこそ、文芸の出版社。弱小に光を当てるのが文学——大崎梢『平台がおまちかね』

c0131823_19154989.jpg大崎梢『平台がおまちかね』東京創元社(創元推理文庫)、2011年。123(778)

単行本は2008年に同社
版元 → 

 版元サイトを見てわかりましたが、本書は「出版社営業・井辻智紀の業務日誌」シリーズの1冊目のようです。表紙にて羊のかぶり物が披露されているのは、「井辻」が「羊」と呼ばれたりもしているからです。ちなみに本シリーズ2冊目は、『背表紙は歌う』だそうです(→ )。未入手です。

 2番目の引用文中に「弱小に光を当てるのが文学」とあります。「文学」の意味内容をこのように規定する人は少なくないと思います。壁か卵かと問われたら卵の側に立つ人のほうが文学界には多いのではないでしょうか。しかし、こうではない定義もあるでしょう。そして、「文学」についての複数の定義が対立することもあるでしょう。“本来の文学”、“これが文学だ”などというものはなく、結局どう定義するか、だとすると、各人が好きに定義すればよく、定義が乱立しても構わない、ということになります。このときに「概念」という言葉を思い浮かべ、“定義の妥当性をどう判定するのか”ということを気にしてしまうのは、わたしが哲学に片足を突っ込んでいるからでしょう。

 3番目は、「作家」を「研究者」にしても通用する文章だと思いました。



「思いがけないアクシデントは起きるものだ。突然のトラブルに見舞われることも。うっかりのミスだって、人間ならどうしてもありえるよね。だからしょうがないのかもしれないけれど、せめて、申し訳なかったと思ってる気持ちだけは受け取ってもらわなきゃ。伝える努力を怠ってはいけないよ。途中で投げ出せば、溝は決定的なものになる。ちょっとやそっとじゃ埋まらなくなる。だから、井辻くん」
 くれぐれも気をつけてと、吉野の眼差しが智紀に注がれた。
(45)

 大きいところは大きいところなりに大変だろう。でも、小さなところを大切にしてこそ、文芸の出版社だと思う。弱小に光を当てるのが文学だから(49)

「今さらびびってもらっては困るよ。プロの作家になるってことは、自分の作品を世に問うということだ。それは最初からわかりきってることじゃないか。みんながみんな好意的に読んでくれるなんてありえない。出すまでは作家も出版社も努力するけれど、そこから先は読者にゆだねるしかないんだ(147)


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by no828 | 2014-03-07 19:35 | 人+本=体 | Comments(0)
2014年 03月 06日

そのためにいつも一番不幸な方になっていらっしゃるのですよ——ドストエフスキー『貧しき人びと』

c0131823_19323136.jpgフョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー『貧しき人びと』木村浩訳、新潮社(新潮文庫)、1969年。122(777)

原著は1846年刊行
版元 → 


 書簡形式の小説です。2人のあいだで交わされた手紙が交互に配されています。地の文はありません。

 「貧しさ」とは何か、が本書を貫く問いであろうことは題名からも容易に推測できるのですが、そこには「不幸」とは何か、という問いも立てられているように思いました。「貧しさ」と「不幸」はどのような関係にあるのでしょうか。



ところでわたしは誰に対しても厄介になっておりません! わたしはちゃんと自分のパンを持っています。たしかに、それはありふれたパンで、時にはぼろぼろに乾いていることもありますが、それでもこれは自分で働いて得たパンですから、誰からも後ろ指さされずに、堂々と食べてよいものです。これで十分じゃありませんか!(91)

今朝の四時すぎにゴルシーコフの子供が死んだのです。原因は知りませんが、猩紅熱かなにかでしょう。わたしはゴルシーコフ家へお悔みにいってきました。とにかく、その貧しいことといったら!〔略〕もう小さなお棺がきていました。出来合いのを買ったので、ごくふつうのお棺でしたが、かなり小ぎれいなものでした。九つの男の子で末の見込みのあった子だったそうです。ワーレンカ、まったくあの人たちは見るにしのびません! 母親は泣いていませんでしたが、かわいそうに、それは悲しそうにしていました。ひょっとすると、あの人たちは肩の荷が一つおりたので、ほっとしていたのかもしれませんが、まだ二人残っているんです。〔略〕小さな女の子は、棺によりかかって立っていたのですが、それがまたかわいそうに、なんともいえずさびしそうなんです! ワーレンカ、小さな子供がじっと考えこんでいるのはいやなものです、わたしは見る〔の〕もいやです! ぼろ切れでつくった人形が足もとの床にころがっているのに、その子は遊ぼうとしないのですから。一本の指をくわえて、じっと立ったまま、身じろぎもしないのです。女主人〔おかみ〕がお菓子をやっても、受取っただけで食べようともしないのです。ワーレンカ、ねえ、こんな悲しいことってありますか?(98)

あなたはあたくしがあなたの不幸の原因となったことを、あたくしに悟られまいと気を使ってくださいましたが、今度はご自分の行いで二倍の苦しみをあたくしに与えてくださったわけですのよ。ねえ、マカールさん、あたくしは今度のことではほんとにびっくりいたしました。ああ、あたくしの大切な方! 不幸は伝染病みたいなものですわね。不幸な者や貧しい人たちはお互いに避けあって、もうこれ以上伝染させないようにしなければなりません。あたくしはあなたが以前のつつましい孤独の生活では一度も経験なさったことのないほどの不幸をあなたに持ってきたのでございます。それを思うと、あたくしは苦しくて、死にそうですわ。(137)

 マカールさん、あなたはほんとに変なご性分ですこと! あなたはなんにでもあんまり感受性がおつよいのですね。そのためにいつも一番不幸な方になっていらっしゃるのですよ。(165)


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by no828 | 2014-03-06 19:43 | 人+本=体 | Comments(0)