思索の森と空の群青

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2014年 04月 30日

人間どうしを温かさで結びつける鍵がジョークの中にあるとするなら——イシグロ『日の名残り』

c0131823_19285243.pngカズオ・イシグロ『日の名残り』土屋政雄訳,中央公論社(中公文庫)、1993年。140(795)


版元 → 情報なし
単行本は同社から1989年。原著は、Kazuo Ishiguro, The Remains of the Day, 1989 です。


 英国の老執事が旅に出る物語。すべての人の生とは豊饒な物語であるということがよくわかります。日々の生活の仕方が、日々の些細な出来事が、その人の生を形成するのだということがよくわかります。

 この老執事の父親もまた執事でした。主体的に誰かに・何かに奉仕する、という姿に違和感がないではありません。しかし、それは「主体的に」であって、奉仕する側の内面が無なのではありません。その内面には豊かな世界が深く広がっています。


「本気だよ、スティーブンス。ぜひ骨休みしてきたまえ。ガソリン代はぼくがもつよ。だいたいだね、年中こういう大きな家に閉じ籠って、ひとに仕えてばかりで、君らはせっかくのこの美しい国をいつ見て歩くんだい、自分の国なのにさ?
 ファラディ様がそのような疑問を口にされたのは、これが初めてではありません。常々、不思議に思っておられたことのようです。脚立の上で同じ質問を投げかけられたこのとき、じつは、私の心には一つの答えらしきものが浮かんでおりました。それは、私どものような職業のものは、たしかに国の名所旧跡を見て歩くという意味では検分が広いとはいえませんが、真に「国のありさま」を目のあたりにするという意味では、大方より恵まれているのではないか、ということです。なにしろ、私どものいる場所こそ、イギリスで最も重きをなす紳士淑女のお集りになる場所なのですから。
(8)

「ミスター・スティーブンス、どうぞ後ろを向いて、あのシナ人をご覧になってください」
「よろしい、ミス・ケントン。あなたにとってそれほど大事なことなら、後ろのシナ人が間違っているかもしれないことを認めましょう。しかし、そんな些細な過ちをなぜこれほど気にするのです? 私にはそこがわかりません」
過ち自体は些細かもしれません、ミスター・スティーブンス。でも、その意味するところの重大さを、あなたももうお気づきにならなければいけませんわ
「何のことかわかりませんな、ミス・ケントン。さ、そこをどいて」
「では、私から申し上げます、ミスター・スティーブンス。お父様は仕事を抱えすぎておいでです。あの年齢の人には無理なほどの仕事を」
「また、何を言い出すかと思えば……」
「お父様が昔どんな方だったかは存じません。でも、いまはずいぶん弱っていらっしゃいます」
(81)

「さらに、ミスター・ルーイス、私にはあなたが『プロ』という言葉で何を意味しておられるのか、だいたいの見当はついております。それは、虚偽や権謀術数で自分の言い分を押し通す人のことではありませんか? 世界に善や正義が行き渡るのを見たいという高尚な望みより、自分の貪欲や利権から物事の優先順位を決める人のことではありませんか? もし、それがあなたの言われる『プロ』なら、私はここではっきり、プロはいらない、とお断わり申し上げましょう(149)

たしかに、真の名家に雇われていることこそ、「偉大さ」の第一条件であるのに違いありますまい。みずからの執事人生を振り返り、「私は偉大な紳士に仕え、そのことによって人類に奉仕した」と断言できる執事こそ、真に「偉大な」執事であるに違いありますまい。(167)

 しかし、こんなことは、所詮、後知恵というものかもしれません。自分の過去にそのような「転機」を捜しはじめたら、そんなものはいたるところに見えてくるでしょう。(252)

 人生が思いどおりにいかなかったからと言って、後ろばかり向き、自分を責めてみても、それは詮無いことです。私どものような卑小な人間にとりまして、最終的には運命をご主人様の——この世界の中心におられる偉大な紳士淑女の——手に委ねる以外、あまり選択の余地があるとは思われません。それが冷厳なる現実というものではありますまいか。あのときああすれば人生の方向が変わっていたかもしれない——そう思うことはありましょう。しかし、それをいつまで思い悩んでいても意味のないことです。私どものような人間は、何か真に価値あるもののために微力を尽くそうと願い、それを試みるだけで十分であるような気がいたします。そのような試みに人生の多くを犠牲にする覚悟があり、その覚悟を実践したとすれば、結果はどうであれ、そのこと自体がみずからに誇りと満足を覚えてよい十分な理由となりましょう。〔略〕
 ベンチのすぐ後ろに、六、七人の一団が立っておりまして、私はこのグループに興味を引かれました。〔略〕じつに楽しげに笑い合っております。人々が、どうしてこれほどすみやかに人間的温かさで結ばれうるのか、私にはじつに不思議なことのように思われます。〔略〕私には、どうも、ジョークの技術がそこで大きな働きをしているような気がして仕方がありません。いまも聞いておりますと、互いに、つぎからつぎへと冗談を言い合っております。おそらく、こういうやり方が、多くの人々の好む方法なのでしょう。先ほどまで私の横にすわっていたあの人物も、もしかしたら私と冗談を言い合いたかったのかもしれません。そうだとしたら、私はあの人物をひどくがっかりさせたことになります。本腰を入れて、ジョークを研究すべき時期に来ているのかもしれません。人間どうしを温かさで結びつける鍵がジョークの中にあるとするなら、これは決して愚かしい行為とは言えますまい。
(356-8)

 タイトルを「過ち自体は些細かもしれません、ミスター・スティーブンス。でも、その意味するところの重大さを、あなたももうお気づきにならなければいけませんわ」から部分的に引こうかと思っていましたが、わたし自身より温かな気分になりたいようで、この最後の「ジョーク」の部分にしました。わたしもジョークは大事だと思います。講義では学生には伝わりきらない高貴な、高尚な、レベルの高いジョークを言おうと思っていますし、毎回は難しいにしても言っています。繰り返しになりますが、それが伝わるかどうかはわかりません。もっと言えば、ジョークによって教室が「温かさ」ではなく「冷たさ」で満たされ、「結びつける」どころか「離れていく」おそれもあるのです。わたしもまた「本腰を入れて、ジョークを研究すべき時期に来ているのかもしれません」。

@研究室
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by no828 | 2014-04-30 19:37 | 人+本=体 | Comments(0)
2014年 04月 25日

私のように意志ばかり肥大させて生きてきたような人間には、それは——内澤旬子『身体のいいなり』

c0131823_184148.jpg内澤旬子『身体のいいなり』朝日新聞出版(朝日文庫)、2013年。139(794)


版元 → 
単行本は2010年に同出版


 帯文は「38歳、フリーランス。貧乏のどん底で乳癌発覚。しかしそれは新しい世界への入口だった……」。手に取ったのは、著者を『センセイの書斎』(→ |文庫版 版元 → )を読んで知っていたから、でもありますが、今回はそれよりもむしろ、人間にとっての「肉体」に関心があるから、です。わたしにとっての「肉体」(→   )。

 良書です。タイトルも好きです。カバーの絵も好きです。


「ウチザワ、癌はお金かかるよ。保険に入ってないなら三百万は見ておいたほうがいいよ」(73)

 ほとんどの検査に共通するのであるが、身体をモノ扱いされるのもきつかった。決められた時間内に何人もの患者をさばいていけば、そのような態度になるのは至極当然であるのだが、はじめのころは、他人の前で裸になるのだけで緊張するのだから、それをあちこち触られたり、へんな器具を押しつけられたり、裸同然で待たされたりしながら、疼痛や不快感に耐えると、もうくたくたになってしまうのだ。〔略〕
 ただし恐ろしいもので、私のようなヘタレでも、しばらくモノ扱いされていると、結構慣れてしまう。気持ちのいいものではないにせよ、ある程度予想がついてくると、ピリピリせずに、淡々と受け入れることができるようになる。終わった後にぐったりすることも減ってくる。
 それはつまり、ちょっとオーバーなのだが、自分の身体が唯一無二の特別な存在なのではなく、他の大勢の人間とおなじ炭素だの水素だのの、構成要素で組成されたモノにすぎないということに気付かされ、ある程度受け入れられたということなのかもしれない
 普段忘れがちなことだ。
(56-7)

 菜食主義をすべて批判する気はまったくない。私とて体調が悪いときは菜食にする。玄米と豆ご飯と納豆も大好きだ。ただ、菜食主義の中でも肉食を殺生とつなげて否定する考え方にはなじめない。人間は何の生命も犠牲にせずに生きることはできないのだから、傲慢だとすら思う。ついでに言えば、ヒンドゥー文化と菜食主義の根底とは切っても切れない関係にある、カースト制度もどうしても肯定する気になれない。(111)

 自分の家がつらいとは、どうしたものか。
 自分の家だけでなく、薄暗く狭く湿った空間全般が苦手になり近づけなくなった。これまではどんなに暗く汚く狭いところでも大丈夫で、本がたくさん積みあがっていてもいっこうに気にならなかったのに、朝起きた途端に床にもたもた積んであるのをザバーッと全部一気に捨てたくてたまらなくなる。
 聴覚異常やのぼせからだけでなく、気持ちの問題も大きかったのかもしれない。癌になってみて人生のあとさきを考えなくて済むようになった分、「いつか読む、書く」ために積んである本というものがまったく無意味でくだらないゴミにしか見えなくなってしまったのだ。恐ろしい。
(119)

 主治医の先生に恐る恐る相談すると、そうしなさいと、あっさりカルテを出してくださった。ありがたい。これをもってさあどこに行くか。ああ面倒くさいと思いつつ、ネットで調べてみて、二つの病院に的を絞った。しかしすごいのは価格である。セカンドオピニオンには保険が適用されないのだ。病院によって異なるが、ある病院では三十分までで三万千五百円、あと三十分延長ごとに一万五百円追加となる。うううう。さいですか。
 まあしかたがない。日ごろ主治医の先生にはものすごく長々と丁寧に説明していただいても薬の処方も検査もないと、その日の診療代が五百円以下というときもあり、これはいくらなんでも安すぎると思っていたのである。私は貧乏人だが、これでもなんでも安けりゃいいとは思っちゃいないのだ。
 薬よりもなによりもきちんと納得、安心できるまでの説明が患者には必要なのに、それが医師の労働対価として反映されていないのはあまりにも悲しい。医師のだれもが患者に対して納得のいく説明をするためにも、もうすこしお金をとってほしいとは思う。しかしセカンドオピニオンの値段は、ちときつい。
(145)

 切ってもらった医師に最後まで診てほしいというのは、家を建ててもらった大工さんにずっとメンテナンスをしてもらいたいと願うのと同じくらい贅沢な願いになりつつあるのかもしれない。診ることと看ることの境界を、私たちはどうしても混同しがちだ。(208)

 四度の手術で私が得たこと、それは人間は所詮肉の語りであるという感覚だろうか。何度も何度も人前で裸にされて、血や尿を絞り出しては数値を測って判断され、切り刻まれ、自分に巣喰う致死性の悪性腫瘍という小さな才貌を検分されるうち、自分を自分たらしめている特別な何かへのこだわりが薄れてしまった。人間なんてそんなごたいそうなものではない。仏教の僧侶が言うとおり、口から食物を入れて肛門から出す、糞袋にすぎない。
 私のように意志ばかり肥大させて生きてきたような人間には、それはちょうど良い体験だったのかもしれない。独立した存在であるように思っていた精神も、所詮脳という身体機能の一部であって、身体の物理的な影響を逃れることはできない。
私はそれをあまりにも無視して生きてきたんじゃないだろうか。
 ただし、意志だけで生きてきたこれまでの人生は、身体はつらかったけれども、たのしいこともたくさんあった。身体(と生活)を極限まで無視した分、得がたくおもしろいことを見られたし、学べたという自負はある。でも癌をつくるまで(?)身体を本気で怒らせることになったのはまずかった。癌を通じて、私の意志は一度身体に降参し、身体のいいなりになるしかなかったのだ。
 だから、これらの体験は私にとっては病との闘いというよりは、意志と身体との闘いであったと思う。これからは双方並び立つうまいバランスをとるように再構築していかねばならない。
(219-20)


@研究室
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by no828 | 2014-04-25 18:52 | 人+本=体 | Comments(0)
2014年 04月 24日

知識人を導くのは、保守的な精神ではなくて、革新的な精神でなければならない——萩原延壽『自由の精神』

c0131823_17355543.jpg萩原延壽『自由の精神』みすず書房、2003年。138(793)


著者の名前の読みは「はぎはら・のぶとし」
版元 → 


 在野の思想家。革新的な、根源的な、という言葉の意味がそれこそ根源的に考えられています。共感する部分がありました。

 ちなみにこの本は、在野を主体的に選択するか、在野を選択せざるをえないか、そんなことをわたし自身が考えていたときに入手したものです。「考えていた」と書きましたが、それは過去のことではなく、いまも考えています、というか、考えざるをえない。


 第九条は一種の「良心的兵役拒否」の宣言にひとしい。
 しかし、ここでわれわれは、「良心的兵役拒否」に伴う「苦役」、さまざまな代替義務をすすんで引き受ける用意と準備を整えてきたが、そのための具体的な方策を講じてきたかという深刻な反省に直面せざるをえない。
 個人の「良心的兵役拒否」を制度的に認めている国々でも、その審査はきびしく、且つこれには「苦役」が伴う。日本の場合は、国家としての「良心的兵役拒否」であり、これを国際社会に認知してもらうためには、たいへんな努力、「苦役」を甘受する努力と、その努力の蓄積が必要となろう。ことは資金面の協力だけですむことではないと思われる。
(5)

 このように、革新的であるということは(それが Radical という英語に対応する表現であることを承認した場合)、言葉の原義からみても、歴史的な用例から判断しても、必然的に特定の世界観や政治思想と直結するものではなくて、むしろ、一つの精神態度、さまざまな世界観や政治思想に対決する一つの姿勢、に関係するものであることが理解される。そして、これに付け加えていえることは、なんらかの意味で、現在の変革を志向する精神態度だということだけである。その「変革」の対象となる「現在」は、資本主義の場合もあり得るだろうし、社会主義の場合もあり得るだろう。しかし、精神態度である革新は、一定の世界観を含むイデオロギーとしての社会主義とは、必然的に結びつかない。(14.傍点省略)

 結局、経験的には証明できない未来についてのヴィジョンをもって、国民に訴えかけねばならない――、革新はつねにこの負い目を背負っている。いや、この負い目は、つねに意識していなければならない。そうすることによってはじめて、革新は傲慢さから救われるのである。「過去」の歴史と「現在」の事実を引き連れた保守の立場は、すべて「既知なるもの」によって、武装しているだけに、「未知なるもの」に頼らねばならぬ革新にくらべて、通例、説得力においてすぐれていることはやむを得ない。(24)

 しかし、政治が本質的に保守的な態度を要求するのにたいして、思想の生命は革新にしか求められない、といってよい。なぜならば、不断の懐疑と詰問によって、絶えず新しい認識の次元を開拓してゆくこと、つまり、「既存のもの」の享受や維持ではなくて、その批判と克服が、思想活動に従事するものの任務だからである。すなわち、知識人を導くのは、保守的な精神ではなくて、革新的な精神でなければならないことになる。(30)

いいかえれば、日本社会における社会党の存在理由について、もっと懐疑的になるべきではないか。もちろん、それらを承認した上で、「それにもかかわらず」と、不退転の叫びを挙げるのが真の社会主義者である。しかし、いまはまず、徹底的な懐疑が必要であり、それを踏み台にしてしか、吉田松陰が示したような革新的な精神は生まれないのではないか、これがわたしの感想である。革新的であるというのは、自己を批判し切る能力と情熱でもあるのだ。(185.傍点省略)

 一九四五年七月といえば、すでにナチス・ドイツは崩壊し、日本の幸福も目前にせまっていた時期である。イギリスの生存を賭したきびしい試煉の日々も、いまや勝利の裡に終ろうとしていた。そこで、戦時の挙国一致内書くをひきいてきた首相チャーチルは、戦争のために延期されていた総選挙をおこない、戦後の時代にのぞむイギリスの民意を問うことにしたのである。その結果は、アトリーのひきいる労働党の圧勝であった。チャーチルのひきいる保守党は、イギリス政治史上に前例を見ない一八〇議席(この時の下院の議席総数は六四〇)という大差をつけられて、惨敗したのである。〔略〕A・J・P・テーラー〔略〕戦争の終結が目前にせまった時、イギリス人の関心は、もはや国際問題からは離れていった。いまやイギリス人の関心は、もっぱら、自分たちの将来の生活のこと、つまり、住宅であり、完全雇傭であり、社会保障の上に注がれることになった。そして、この点についていえば、労働党は、保守党にくらべて、いっそう頼み甲斐のある政策をかかげたのである、と。(195-6)

 書評の場合にひきうつしていえば、とり上げられた書物の著者と主題にたいする習熟度という居住者の倫理に加えて、批評するものもまた同じ主題の追求に参加するという共同作業が、書物(あるいは著者)とのあいだに成立しなければならない。この共同作業があってはじめて、書評にパースペクティブというひろがりや奥行が生れてくるだろうし、評価を下す判断の基準もあたえられることになるだろう。(283-4)

萩原――ただ在野と言っても、それほど自覚的に在野になったわけではなくて、外国から帰ってきたら職がなかったところからはじまって、その後光栄にも三回ぐらい大学からオファーがあったんです。それを自覚的に在野でいるんだということで断ったのではなくて、いま考えると、行っておけばよかったと思っているぐらいです。たまたま、そういうオファーがきたときに、何か非常に忙しい用事があって引き受けられなかったというのが実情なんです。(332)

横山〔俊夫〕――日本だと、森銑三さんとか、何人か……。あの方もやはり、大学から離れたところにおられましたね。
萩原――在野ですね、まったく森さんなんかは。
横山――本当に味のあるお仕事をしておられたけど、それが大学の研究のおもな流れのなかには入っていかないという……どうしてなんですかね。
萩原――やはりイデオロギー過剰だったのかなぁ。
横山――研究する前にどういう形のストーリーになるかというのが、どうも決まっていたような気がするんですね。
萩原――もう結論がわかっているようなところがあるわけですから。
(345)

萩原――それから、〔ジェフリー・〕ハドソンの言った忘れられないアドバイスは、書かなければいけないことは本文で書け、書く必要もないことは注でも書く必要がないと。(351)


@研究室
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by no828 | 2014-04-24 17:49 | 人+本=体 | Comments(0)
2014年 04月 23日

青春小説は若者の文学ではなく、年老いた者の哀惜の文学である——目黒考二『活字三昧』

c0131823_18512060.jpg目黒考二『活字三昧』角川書店(角川文庫)、1996年。137(792)


版元 → 情報なし
単行本は1992年に同社


 またの名を北上次郎の、題名のとおり、本に関するエッセイです。


青春小説は若者の文学ではなく、年老いた者の哀惜の文学である(107)

 そういうふうに池袋は私たちのごく身近な街だったので、よその街で育った人たちが「池袋はコワイ」「池袋はヤボッたい」と言うのがわからなかった。文学者の回顧録を読んでくると小林〔信彦〕氏のような否定的評価だったりする。種村季弘〔すえひろ〕氏が断続的に池袋のことを雑誌などに書いているが、早く一冊にまとまらないものかと思っているのである。(119)

 わたしも「池袋」は怖いイメージがあります。前期は週1度、E古田出講のさいの乗り換えに使います。ただし、時間に余裕のあるとき限定です。

@研究室
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by no828 | 2014-04-23 19:09 | 人+本=体 | Comments(0)
2014年 04月 16日

この時代に生れたO君は本当に気の毒だったと思う——徳永康元『ブダペストの古本屋』

c0131823_1853355.jpg徳永康元『ブダペストの古本屋』筑摩書房(ちくま文庫)、2009年。136(791)


版元 → http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480426130/
単行本は1982年に恒文社


 著者(1912-2003)は戦前にハンガリー留学の経験もある、東欧・中欧の専門家のようです。博学です。


「春の驟雨」の監督のフェイェーシュという人も、彼自身がまさにハンガリー人らしい数奇な運命をたどった才人だったらしい。彼ははじめ医者になったが、第一次大戦末期のクン・ベーラ共産政権の崩壊後、反革命の嵐の吹き荒れていたハンガリーからアメリカへ亡命し、生活のためにハリウッド映画界に入って、探検・紀行映画のパイオニアとして名をなした。サイレント映画のころ、ポール・フェヨスという名で監督したアメリカ時代の劇映画が日本でもいくつか上映された筈で、コンラート・ファイトの「最後の演技」もたしかその一つではなかったかと思う。「春の驟雨」は、映画人として成功した彼が久しぶりで母国ハンガリーへ帰って作った映画だったが、第二次大戦後、フェイェーシュは人類学者に転身し、若いころ記録映画を作ったラテン・アメリカのインディアンなどについてすぐれた業績をのこしている。戦後間もなくアメリカへ留学した民族学の石田英一郎さんが帰国して、向うで世話になった有名なウェンナー・グレン学術基金が役員がフェイェーシュというハンガリー出身の人類学者だったと私に知らせてくれたことから、調べてみたところ、これが「春の驟雨」の映画監督と同じフェイェーシュだったのにはちょっとおどろいたものだ。十年ほど前だったか、彼が死んだときには、アメリカの人類学の雑誌と、ハンガリーの映画雑誌の両方に、それぞれ心のこもったネクロロギーが載っていた。
 ハンガリー人の中には、他の東ヨーロッパの小国と同じように、こういう強いられた流転生活を送っているうちに、かえって絢爛たる才能を開花させ、国際的に地名な芸術家や学者になった人物も少くない。ルカーチももちろんその一人だが、彼の青年時代からの親しい友人だったバラージュ(Balázs Béla, 1884-1949)も、同じような運命にあやつられた多才な芸術家だった。
(37-8)

 学者・文人の回想録や随筆には古本屋がよく出てくるが、古本屋小説となると、ありそうでいてなかなか思い浮ばない。それでも、荷風の『濹東綺譚』や中野重治の『歌のわかれ』のように、作中のどこかに古本屋の店が出てくる小説ならいくらでもあるだろうが、主人公に古本屋を取りあげた小説は案外すくないようだ(近年のものでは、関口良雄山王書房主が登場する尾崎一雄の短篇「口の滑り」と、梶山季之の連載小説「せどり男爵数奇譚」ぐらいだろうか)。
 範囲を欧米だけに限れば、先ずフローベールの短篇「愛書狂」(Bibliomanie, 1836.)がある。これはフローベールが十四歳のときに書いた作品で、そのころ実際におこった事件からヒントを得たものだという。
(185)

 ミュンヘン留学時代にはじまる鴎外原田直次郎の親しい友情は、十三年後に原田が世を去るまで終始変ることがなかった。〔略〕
 鴎外は原田の性質を語って、彼が「久しく洋行して居ながら少しも欧羅巴〔ヨーロッパ〕の風に染ま〔ら?〕なかった」日本人であったにもかかわらず、この地の多くの師友に愛されたこと、大学教授の息女で才貌兼備のチェチリーや、原田の旅寓だったカフェー・ミネルワ(斎藤茂吉は三十数年後にこのカフェーをさがしあてて随筆「カフェ・ミネルワ」を書いた)の娘マリイに恋い慕われるという「艶聞」を残したことは、原田に余人とは異る一個の自然人としての人間的魅力があった故だろうと述べている。
 しかし、帰国後の原田の不運については、話すに忍びないと欧外は言う。その原因の一つは、当時の日本には未だ彼の構想を生かすような環境がなかったことであり、二つにはその後間もなくフランスから帰国した黒田清輝らが洋画壇の主流となり、結果的には原田らの旧派の根を枯らしたことにある。その上、原田は間もなく四肢が麻痺する難病にかかり、そのまま再起できず三十代の半ばで世を去ってしまう。
 だがこの悲運の中でも、恬澹〔てんたん〕無欲な原田は不遇をかこつこともなく、病の治不治に心を労する様子も見せなかった。また、四人の幼児をかかえた細君が常に晴々とした顔色で病人を看護していた睦まじい家庭を想うと、「原田は必ずしも不幸な人ではなかった」と、欧外はこの文を結んでいる。
(201-3)

 原田直次郎の「四肢が麻痺する」病とは何であったのか、気になります。「生命倫理」の講義で扱うことに関連するかもしれません。

 私が東京高師附属小学校〔=東京高等師範学校附属小学校、現在の筑波大学附属小学校〕へ入ったのは大正八年の四月で、卒業は十四年の三月だった。在学中には関東大震災のような出来事もあったが、総体的に見れば、この時期は第一次大戦のあとの比較的平穏だった時代といえるだろう。
〔略〕
 現在はどういうシステムになっているのか知らないが、この時代の入学者はたしか抽籤で一部から四部までに分けられることになっていて、私の入ったのは三部のクラスだった。〔略〕
 附属へ入った頃を思い出して、〔略〕私にとって忘れられない人がいる。それはO君という、私と一緒に三部のクラスへ入学した同級生のことなのだ。私自身、前に書いたように幼い頃から病気がちで家の中に閉じこもっていたせいか、小学校へ入ったはじめは、今でいう登校拒否症の傾向があって、友達と遊んだり、教室で何か答えさせられるのがおそろしく苦痛だった。ところが、私の隣りの机に座っていたO君は私よりもう一層気の弱い学校ぎらいだったらしく、先生に何かきかれるとだまって下を向いてしまうし、友達ともほとんど口をきくことがなく、到頭一年で学校をやめてしまった。このO君も、同じような性質の私にだけはいくらか気が楽なのか、時々小さな声で何かをきくことがあったし、私の方でも自分よりもっと気の弱い子供がいるという妙な安心感から、彼には親しく口をきいたような記憶がある。自閉症的な子供も、現在ならいろいろな対策があってかなり救われるのだろうが、この時代に生れたO君は本当に気の毒だったと思う。今でも私は、このO君が身代りになってくれたため、無事に学校をつづけられたような気がして、O君がどこかで幸せに暮していることを心から祈っている。
(224-6)

 後半の文章、どうしようもない「時代」の“制約”というものに身悶えしました。その「O君」はどういう人生を送ったのでしょうか。どうしようもないことだけに、余計に気になってしまいます。

 ちなみに、附属は現在も「1部1年」のように、年-組制ではなく、部-年制です。わたしは大学1年のとき、実際に種々の附属校へ行くという教職科目を取って、附属小へも行きました。そのときに「部-年」と聞いて、見て、小さく驚いた記憶があります。

@研究室
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by no828 | 2014-04-16 19:08 | 人+本=体 | Comments(0)
2014年 04月 11日

新しい大辞典はそれ自体が民主的な作品でなければならず——ウィンチェスター『博士と狂人』

c0131823_18591644.jpgサイモン・ウィンチェスター『博士と狂人——世界最高の辞書OEDの誕生秘話』鈴木主税訳、早川書房、1999年。135(790)

版元 → http://www.hayakawa-online.co.jp/product/books/90306.html
* ただし文庫。手元にあるのは単行本。

原著 Simon Winchester, The Professor and the Madman: A Tale of Murder, Insanity, and the Making of the Oxford English Dictionary, 1998


 銃声とともにはじまる辞書編纂の物語です。OEDこと『オックスフォード英語辞典』は、目下のところ、全20巻、2万1730ページ、29万1500の見出し語、62kg、のようです。本書はその端緒をめぐる物語です。


 たとえば、ウィリアム・シェークスピアが戯曲を書いたときも、英語辞書はなかった。めずらしい言葉を使ったり、ある言葉を普通は使われないような文脈のなかで使ったりするとき――シェークスピアの戯曲にはそういう例が非常に多いのだが――自分のしようとしていることが適切かどうかを確かめる手段はほとんどなかったのだ。自分の書棚に手を伸ばして役に立つ一冊を選ぶことはできなかった。自分の選んだ言葉の綴りが正しいか、適切な言葉を選んだか、適切なところで正しく言葉を使っているかどうか、教えてくれそうな書物を見つけることはできなかった。(97)

 OEDは、その編纂の方針において、他の多くの辞典と異なっている。印刷物やその他の記録から英語の「用例」を徹底的に集め、その用例を引いて、英語のあらゆる語彙の意味がどのように使用されているかを示しているのだ。このようにたいへんな労力を要する独特な編纂方法をとった理由は、大胆かつ単純なものだった。つまり、用例を集めて、そこから選びだしたものを示すことにより、あらゆる言葉のもつ性質のすべてを非常に精確に説明できると考えられたのだ。引用例によって精確に示すことができるのは、ある語が何世紀ものあいだにどのように使われ、意味のニュアンスや綴り方や発音の微妙な変化がどのようにして起きたかということであり、さらにこれが最も重要だと思われるのだが、それぞれの言葉がどのように、そしてもっと正確に言えば、そもそも「いつ」その言語に忍びこんだかも明らかになる。他の編纂方法による辞典では、このようなことはできない。例文を捜しだして示すことによってのみ、その語が過去にどう使われてきたかを余すところなく明らかにできるのだ。(39)

 というわけで、編纂者は用例をひたすら集めて整理することになるわけですが、そこに非常なる協力者として出現した人物がいるわけです。

 ただ、ここではリチャード・シェネヴィクス・トレンチが意見を発表したのだ。露に湿ったその夕刻に、フロックコートを着てロンドン図書館のなかで静かにすわっていた保守的な男たちにとって、それは危険をはらんだ革命的な提案だった。だが、結局はトレンチのこの考えによって、冒険的な企画がすべて可能になったのである。
 この計画に着手するには、一人の力では足りない、とトレンチは言った。英語のあらゆる文献を丹念に読み、ロンドンとニューヨークの新聞にくまなく目を通し、雑誌や定期刊行物のうち文学的なものを綿密に調べるためには、「多くの人びとの協力」が必要だ。そのためにはチームをつくらなければならない。何百人もの人びとで構成される巨大なチームをつくり、アマチュアの人たちに「篤志協力者として」無給で仕事をしてもらわなければならない、とトレンチは述べた。
 聴衆はどよめいた。そのようなアイデアは、いまなら自明のことと聞こえるかもしれないが、それまで提案されたことがなかったのだ。しかし、会合が終わるころになると、この提案には間違いなくメリットがあると言う者も出てきた。このアイデアには、粗野で民主的とも言える魅力があった。それはトレンチの基本的な考え方と一致していた。つまり、新しい大辞典はそれ自体が民主的な作品でなければならず、個人の自由を最優先することを実証する書物でなければならない。誰もが、辞典に管理された厳格な規則に従うことなく、好きな言葉を自由に使えるのだという考え方を、身をもって示すものでなければならないのである。
(125-6)

〔南北戦争で北軍として〕戦うアイルランド人の動機は複雑だった。だが、その複雑さが、やはりこの物語にとって重要な意味をもつのである。彼らは飢饉に苦しむアイルランドから来た新しい移民だった。だが、彼らがアメリカで戦っているのは、自分を助けてくれた国にたいする感謝の念からだけではなく、戦闘の訓練を受けて、いつの日か祖国に戻って戦い、憎むべきイギリス人を永久にアイルランドから追い払うためでもあった。当時のアイルランド系アメリカ人の詩に、それがあらわれている。
 平和と秩序がこの地に復活し、
 連邦が永久に確立されても、
 アイルランドの勇敢な息子たちよ、剣を鞘におさめるな。
 これから分離するべき連邦がある。
(73)


 関連して、アモン・シェイ『そして、僕はOEDを読んだ』(→ http://www.sanseido-publ.co.jp/publ/gen/gen4lit_etc/oed_yonda/)も読んでみたいと思いました(未入手)。

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by no828 | 2014-04-11 19:10 | 人+本=体 | Comments(0)
2014年 04月 09日

死ぬのって、救いになりうると思う?——ブラウン『体の贈り物』

c0131823_19232787.jpgレベッカ・ブラウン『体の贈り物』柴田元幸訳、新潮社(新潮文庫)、2004年。134(789)

版元 → 
原著 Rebecca Brown, The Gifts of the Body, 1994.


 連作短篇集。人間にとっての肉体の存在に関心があって手に取りました。

 HIV/AIDSの患者の人、その患者をケアする人。

 看護学校での講義のさいに紹介してもよいかなと思いました。本書には安楽死・尊厳死に関わる物語も含まれています。

 寂しいのは、悲しいのは、他者の死そのものではなく、他者の死への過程、他者の死にゆく過程なのだと、改めて思いました。と書いて、死にゆく過程とは実は日常そのものだということにも気付かされます。普段はそのことを直視しないようにしています。寂しいのは、悲しいのは、直視せざるをえないようになった他者の死にゆく過程です。ということを書きながら、こういうことを看護学校の講義でも話して、それを深くうなずきながら聴いていた学生がいたことを思い出しました。その学生の前職は介護士であったと、あとから聞きました。


 お湯が沸くと、彼女は立ち上がった。手がやかんをぎゅっとつかむのが見えた。血管が何本も浮き上がっている。持ち上げようとして、苦労していた。手伝いましょうか、と言いたかったが、まだ口を出すべきでないことはわかっていた。彼女は私をお客として扱いたがっているのだ。(「充足の贈り物」27)

けれどそれからというもの、家族がみんながジョーに――そしてやがてはジョーも含めた全員がおたがいに――クリスマス、誕生日、その他何かの記念日に、あるいはべつに何の名目もないときでも単なるプレゼントとして、シロップを贈るようになった。コニーが言うには、大切なのはパンケーキでもなく、シロップでさえもなく、家族がたがいに贈りあう自分たちだけのプレゼントがあることだと、一家みんな、子供たちもまだ小さいうちから承知していた。(「飢えの贈り物」79)

 ある日また訪ねていくと、エドが入ってきたときからいる人間は一人もいなくなっていた。みんな死んでしまったのだ。最古参になったことをエドは喜んでいなかった。何だかみんな僕がいなくなるのを待っているような気がする、と彼は言った。〔略〕
 誰かが死ぬたびに、みんなでそいつのことを一日か二日話して、それっきり話さなくなる、とエドは言った。年中新しい奴が入ってくるからね、死んだ奴のことをいちいち覚えてられないさ、と彼は言った。「みんな死んだら、僕らのことを覚えている人間は一人もいなくなる」
(「 」103)

最後はずいぶん苦しんだんだ」とマーティは言った。
気の毒に」と私は言った。
ものすごく痛がった」とマーティは言った。「あれで医者が、行かせてやる薬をくれないなんて犯罪だよ。あいつは行きたがったんだ。でも奴らには情けも何もありゃしない」。マーティは私の向こうを見通すような目を向け、それから私を見た。「医者はホスピスに移したがったんだけど、空きがなかった。それでいいのさ、本人は移りたくなかったんだから。自分の家で死にたかったんだ」。マーティは天井を見上げ、目をしばたたかせた。それから目を閉じて、何も言わなかった。
 しばらくして、私は「あなたも一緒にいたの?」と言ってみた。
 彼は目を開け、目を細めて私を見た。私は目をそらさなかった。
うん」とマーティは言った。
 マーティはため息をついた。ふたたび口を開くと、その声はひどく静かだった。「カーロスとは小さいころからの知りあいだったんだ。ずっとただの友だちでさ、深い仲とかじゃなかったけど、いろんなことを一緒にくぐり抜けたんだよ。僕のためならあいつは何でもしてくれた。本当に何でも。僕もあいつのためなら何でもした」
 私を値踏みするかのように、マーティはもう一度私を見た。「君、そういう友だちいたことある?」
「ある」と私は即座に答えた。
 マーティはうなずいた。目はまだ私に向けられていた。「カーロスは闘うのに疲れたんだ。ものすごく痛がっていた
 マーティの口がぎゅっと締まった。
わかる」と私は言った。
 マーティは大きく息を吸って、顔にある種の表情を浮かべた。自分が本当に答えを知りたいのか、よくわからないまま訊ねるみたいな表情だった。
死ぬのって、救いになりうると思う?」とマーティは訊ねた。
思う」と私は言った。
 マーティは息を止めていた。それから、ふうっと吐き出した。口元が柔らかくなった。そして、切なそうに私を見た。マーティは私に知ってほしかったのだ。
僕、手伝ったんだ」とマーティは言った。
カーロスのいい友だちだったんだね」と私は言った。
うん、そうだった」とマーティは言った。「僕は思いやりある行ないをしたんだ。僕はあいつに死の贈り物をあげたんだ
(「死の贈り物」132-4)

 彼らが死ぬと、こっちは彼らがいなくなって寂しくなる。でもある意味では、もうその前から寂しくなっているとも言える。じきに彼らが死ぬことを知っているから。そういう気持ちに、彼らと過ごす際のしかるべき態度を妨げられるように、気をつけはする。でもときには、そうしたくてもできない。そういう場合、彼らがいなくなったときは、とても辛い。(「言葉の贈り物」138)

 誰か知りあいが病気だと知るのは、病気だから知りあった人の場合とは違う。誰か、思ってもいなかった人が、まさかあの人がと信じていたような人がそうだと知るのは、たぶんそうなるだろうと思っていた人の場合とは違う。そんな違いがあるべきではない、でもあるのだ。かかった人はみな、かつてはかかっていなかったのであり、かかった人はみな、ひとつの喪失なのに。(「希望の贈り物」184-5)

利用者が食べるものに関して、我々はどこまで口を出す権利があるのか、どこまでは彼ら個人の選択なのか(この「個人の選択〔パーソナル・チョイス〕」というフレーズはオリエンテーションでやたらと聞かされる)。結局、我々が何かを提案することはできるが、あくまで彼らを手助けするのが我々の仕事であってあれこれ命令することではない、という肝腎な点がもう一度確認された。決めるのは利用者なのだ。(「希望の贈り物」190)

 誰かが死ぬと、いつもそこに穴がひとつできた。穴はいつも人々の真ん中にあった。(「悼みの贈り物」207)

誰かに腹を立てたままとか、誤解を抱えたままとかで死んでいくのって嫌よね。生き残った人はうしろめたい思いをさせられるし、そうなると死んだ人を想って悲しむのは難しいもの。悲しみって必要なのよ。悼むってことができなくちゃいけないのよ(「悼みの贈り物」209-10)


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by no828 | 2014-04-09 19:39 | 人+本=体 | Comments(0)
2014年 04月 04日

「大学っていいとこだな」って思った——立花隆・東京大学教養学部立花隆ゼミ『二十歳のころ Ⅱ』

c0131823_18151815.jpg立花隆・東京大学教養学部立花隆ゼミ『二十歳のころ Ⅱ 1960-2001』ランダムハウス講談社、2008年。133(788)

版元 → 情報なし
単行本情報も不明

 Ⅰ に続く著名人への「二十歳のころ」のインタビュー集。相手は、石弘之、加藤登紀子、赤川次郎、橋爪大二郎、萩尾望都、佐藤学、福島瑞穂、安倍なつみ、などなど。良書。

「バーテンダー」へのインタビューにある、受験という空気しかない教室での生きにくさへの指摘を読み、自分自身の中学校の頃を思い出しました。あの教室にも、きっと生きにくさを感じていた同級生がいたはずなのに、その空気をともに吸いたいけれど思い切りは吸い込めないのだという同級生がいたはずなのに、当時のわたしはそのことをほぼまったく想像することができませんでした。

 日比野克彦の話にある福田繁雄の「教育者」としての姿勢、また、本書の作者である立花隆の「教育者」としての姿勢には、共感するところが多かったです。とくに日比野の話(引用文全体)には感動しました(落涙間近)。高等教育の教員はまずもって研究者、専門家、その分野の先行者であって、学生よりも研究者・専門家として先行していること、その先で自らが開拓した世界・自らが付加した世界を見せること、そういったことが“教育技術”よりも重要ではないかと思います。

 『 Ⅰ 』(→ )のときにも書きましたが、このシリーズ2冊を——絶版のようだから古本でしか入手できなさそうだけれどもそれでも——大学2年生100人を対象にした講義でも紹介しました。ひとりでも手に取ってくれた学生がいればうれしいです。やはり紹介してよかったというふうにいまも思います。


 やっぱりね、友達できなかったね。法科系〔=東大文Ⅰ〕だったせいもあるかな。一年のときからもう司法試験がどうだとか、なんとか省に入るには優がいくついるとか、そういう話が耳に入ってきた。そういうことを考えてるクラスメートとおれっていったら、やっぱり開きがあった。
 高校〔=東京教育大学付属駒場高等学校〕はもちろん受験校だったけど、高校の方がむしろプライドを持って、そういう話はしなかったね。それは無言のうちの約束ごとというか、われわれは偉そうに天下国家を論じたりすることはあっても、成績だとか試験に受かる方法だとか、卑近な話をしないんだっていう。昔の一高生もそうだったんじゃないかな。おれは大学入ったら、むしろそういう人が周りにいっぱいいると思ってたんだけど、おれたちのころから学生が大きく変質したんだろうね。何先生の試験は優が取りやすいとか、おれらのころはもうそういう話をしてた。
 きれいごとで生きてる奴が少なかったのかな。二十歳ごろなんてさ、いくらきれいごと並べてもいいわけじゃない。「金なんか汚いよ」って言ってもいい。
おれらぐらいの年になると、もう絶対言っちゃいけないんだけどさ。せっかくそういう時期にいるのに、なんか変に悟ったような、違うな、過剰に現実的な、そういう奴が多かった。
(野田秀樹.420-1)

 大学は、同じ目的を持っているヤツらが集まっている所。岐阜にいた頃は、絵を描いていても、不安になってしょうがなかった。「本当に絵を描いてていいのか」って。普通の高校に行っていたから、みんな理系だ、文系だ、やれあっちだ、こっちだとやってるわけでしょ。学年で僕独りだけ絵を描いてた。「俺は美大に行く」って。それですごく、「俺だけ」って感じになっちゃうの。
 でも東京に行ったら、俺みたいなのがいっぱいいた。「わー、同じ目的を持ったヤツらがこんなにいっぱいいるって、なんて心強いことだろう。大学っていいとこだな」って思った。そんな場だったね、大学って。
 ちょうどその頃、福田繁雄という方が大学におられたの。彼は、いろんな社会で仕事をして来た人で、(大学の)外からいろんな情報を学校の中に持って来てくれた。「今、資生堂でこんな仕事をしてるんだ」とか、〔略〕そういう仕事を実際に見せてくれたのね。他の教授は、「ここの色は○○だ」とか、「ここの形は○○だ」とか言うけれども、その先生の作品は見たことがない。〔略〕でも、福田先生は、生徒の作品にはいちいち文句を付けなかったけれど、自分の作品をどんどん見せてくれた。それがすごく刺激的で、それがあったからこそ、今の僕らがいると思う。
(日比野克彦.477-8)

 前々からノンフィクションには疑問を持っていた。ノンフィクションとはいっても障害者や敗れたボクサーや戦争や病気を食い物にしているだけじゃないのか。なんでみんな小説を書こうとしないのだろう。ものを書く仕事をやってきて、その思いはますます強くなった。(永沢光雄.489)

 自分の中にはオウムなんかが潜む余地は絶対ない、って思っちゃうのは危ない。敢えて言ってしまえば、自分の中のオウム性を見つけて、見つめることが重要なんじゃないか。こういう、オウム的なことが無反省に排除されていく雰囲気に唯一対抗できるのは、自分自身の中にあるものを素直に見ることだけです。そうできなくなった人は、恐怖のために自分に蓋をしちゃうんです。
 例えば、自分の中に暴力性があったとしますよね。それにむりやり蓋をして人格者として振舞っていると、多くはある程度年齢を経たときに制御できなくなってしまうんです。
 それは、自分の中を見つめ、自分にある要素のコントロールの仕方を学んでいなかったから。
(高橋英利.549-50)

 さて、進学の時期が来る。「本当は高校なんてどうでもよかったんですよ。けどね、クラスの連中がみな高校受験の話題じゃないですか」。中学三年。高校受験を目標にクラスというコミュニティは統一される。村藤も、その一員でいたかったのだ。なぜなら、家庭がなくなった村藤にとって学校からもはじかれて生きていくには、まだ若すぎた。この中学三年のころには、何となくロックギタリストになることを夢見ていたという。高校受験前後に母親と父親は正式に離婚する。「母ちゃんは、オレたちをギャンブルで借金を作って家をメチャクチャにした親父の子供にした。あんなオヤジの元じゃどうしようもないこと知ってて、おふくろはオレたちを引き取らなかったんだな、これが」。それでも村藤は公立の工業高校に合格する。誰も喜んでくれない高校合格。(バーテンダー.593)

 このゼミは一応私が主宰者になっているが、私は二年間ただ自分がしゃべりたいことをしゃべりまくってきただけで、いわゆる教育的指導はほとんどやっていない。生来そういうことが苦手で気恥ずかしくてできないということもあるが、私は基本的に高等教育機関におけるいい教師というのは、初等中等教育におけるいい教師(手取り足取り型)とちがって、刺激役(stimulator)であればいいと思っている。いい刺激役であるためには、口頭の刺激(けしかけを含む)も大切だが、あとは実践を見せることと、本人が実験的実践の第一歩を踏みだすためのきっかけを与えてやることだと思う。(立花隆「あとがき」641)


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by no828 | 2014-04-04 18:36 | 人+本=体 | Comments(0)
2014年 04月 03日

精一杯少年の日々は夢を追え——立花隆・東京大学教養学部立花隆ゼミ『二十歳のころ Ⅰ』

c0131823_17512535.jpg立花隆・東京大学教養学部立花隆ゼミ『二十歳のころ Ⅰ 1937-1958』新潮社(新潮文庫)、2002年。132(787)

版元 → 情報なし
単行本は1998年に同社


 本書は立花隆の東京大学教養学部「調べて書く」ゼミナールの共同作品。著名人にその「二十歳のころ」をインタビューする内容です。鶴見俊輔、水木しげる、茨木のり子、萱野茂、大江健三郎、筑紫哲也、などなどなど。全633ページの圧巻。本書は Ⅰ ですから、当然 Ⅱ があります。 Ⅱ もすでに読みおわっています。いずれも良書。大学2年生対象の講義でも紹介しました。


 青春とは、やがて来たるべき「船出」へ向けての準備が整えられる「謎の空白時代」なのだ。そこにおいて最も大切なのは、何ものかを「求めんとする意志」である。それを欠く者は、「謎の空白時代」を無気力と怠惰のうちにすごし、その当然の帰結として、「船出」の日も訪れてこない。彼を待っているのは、状況に流されていくだけの人生である。
 そうではなくて、何ものかを「求めんとする意志」に駆られて苦闘しつつある諸君たちにやがてよき船出の日が訪れんことを祈って本稿の筆を置〔ママ〕くことにする。
(立花隆.29)

 そして、いい文章を書く秘訣はただひとつ、自分の文章を頭の中で何度も何度も繰り返して読むことである。ちょっとでもおかしいとか、ここはパッと頭に入らないとか、何かひっかかる部分があったら、丹念に直していくことである。(立花隆.33)

……おもしろい人もいたんですよ。例えば、当時、生徒自治会の会長は藤田君っていう人でした。この人は非常に立派な人に見えましたね。知恵もあるし情もある。やがて東北大学に行きましたがね。その当時、イールズ事件というのがありまして、これはきっと歴史の年表なんかにも載っていると思いますが、イールズさんというアメリカの教育者が日本の学生の思想傾向を調査して、変えようとしたんだね。アメリカ流の民主主義の方にもっていこうとして、ちょっかいを出したんです。それで猛烈な反発を受けましてね、学生たちはイールズさんを侮辱したわけです。それは東大でもあったし、北海道でも九州でもあった。東北大学は特に激しかったのですが、その当時の自治会の長が藤田君だったから逮捕されたんですよ。その後、どうなったかは知りませんがね……。(小川国夫.157)

――二十歳の黒柳さんに至る、幼少の頃の思い出で、黒柳さんの原点になるようなことがあったら教えてください。

 何か原点があるとすれば、幼稚園の時に「世の中は不公平だ。治る人がいるのに、治らない人もいる」って思ったことかしら。子供のころに、私は結核性股関節炎になってしまいました。石膏のギブスをウエストから右足の指まで、はめなくてはいけなくて、治っても松葉杖が必要でしょうと言われていました。隣の病室にも同じ病気の女の子がいました。私は運良く治ったんですが、完治した後でその女の子に会いました。その子は、松葉杖で歩いていました。そして、すれ違う時、私の足を見たんです。私は、(これからは、もう私の足はその子に見せられない)と思ったんです。辛かった。そういう時に、何とかしてあげたいって思うでしょ。五歳くらいでも人間は、そのくらいのこと感じるんですね。私は、こうして、子供のころから、他にも松葉杖をついた子供達ともお付き合いあったし、小学校で一番仲のいいお友達はポリオ(小児麻痺)だったし、同級生には背の伸びない子とか知能障害の子もいました。小学校の校長先生は、いつも「みんな一緒だよ。一緒にやるんだよ」っておっしゃってた。これが私の生きかたの基本です。今も聾者の方達と手話で御芝居をしていますが、皆さんがおっしゃるように、取りたてて特別なこととは感じたことはないのです。
(黒柳徹子.400-1)

 例えば、ルワンダの内戦は部族間の虐殺で五十万人以上が子供達の目のまえで殺された。難民キャンプでユニセフの人が五歳くらいの孤児の男の子に「君の両親は殺されたんだってね」と聞くと「分かんない」と答えたんです。ところが十分ほどして、その子供が後を追って来て「本当は両親は殺された」と話し掛けて来た。「なんでさっきは言わなかったの」と質問すると「だって、あなたと一緒にいた通訳が殺したんだもん」と打ち明けたの。ルワンダで殺されたのは主に大人だけれど、ボスニア=ヘルツェゴビナの内戦では子供までが完全に標的にされた。爆弾が落ちて来ると、とにかく母親が子供を連れて逃げますよね。それで何日かして攻撃がなくなると、何か残っていないかと自分の家に戻って来る。逃げる時に子供達は、大切にしてる、おもちゃや、ぬいぐるみを置いていきました。ところが戻ると焼けずに残っていたりもする。やっと爆撃がなくなって命からがら帰って来た時、大切なぬいぐるみを見つけたら、「ああうれしい」って子供なら抱きつくでしょ。恐ろしいことに、そのぬいぐるみに爆弾がしかけてあるの。(黒柳徹子.406-7)

 私はまず、軍事訓練を受けるため第二次世界大戦以来、フランスがドイツに所持していた兵舎に送られました。六ヶ月間もピアノ無しの生活ですよ! まったく、私の苦痛は御想像にお任せします。私に許されたことといえば、手や指を痛めないように手袋の着用を許されて作業に従事することくらいでした。ここで私はモールス信号を学び、暗号の勉強をしました。私にはピアノで鍛えた耳としなやかな手首がありましたからあの「ツ・ツー・ツー・ツー」というのを読み取ったり、発信したりすることは造作もないことで、あっという間に伍長にまでなれました。ところが思いやりのある上官はあるとき私に次のように忠告してくれたのです。「よく聞きたまえ、ハイドシェック伍長。仕事であまり優秀な成績を修めると、戦いの最前線に送り込まれるだけだぞ。君が仕事を下手になった振りをしていてくれれば、私は上層部に進言して君を前線に配属されないようにしてあげられるんだ」。(エリック・ハイドシェック.502)

――で、奥様とは……。

 私の妻は廣松渉夫人の妹です。私の結婚は彼の政治工作の成功した唯一のもので、彼はいろんな政治工作をしたけど、自分の女房にしようと思ってた女性の妹を加藤尚武と結婚させようってこと以外は、全部失敗したんじゃないですか。うす暗がりの中の陰謀が好きな男で、四人〔廣松、廣松夫人、廣松夫人の妹、加藤〕で学習塾をやるという案を作って、いろいろそういうお膳立てをして、結局彼の思惑どおり私は彼女と結婚してしまったわけです。結婚式をしたのが確か一九六五年の十月、院生時代です。
(加藤尚武.528)

 僕の家庭は父親を早くに亡くした母子家庭で、それも四人兄弟だったから、大変に貧乏だったの。三度三度の飯が食べられないような家庭だった。その中でムサ美という、あるいは芸術という虚なるものへ行っていいというのは、母親の愛ですよ。普通だったら大学どころじゃない、高校出たらすぐ働きに出なきゃいけないはずだった。でも、僕が何となく絵をやりたいということを知っていたから、親戚から借金して、なんとか入れてくれた。だから、四年間を無駄に過ごすなんてとても出来なかった。コンテストも、自分の名誉だけじゃなくて、「早く自分の職業的な道を見つけなきゃいけない」という切迫感があったわけ。だから、ちゃらんぽらんな学生では決してなかったね。(山藤章二.540)

 いろいろ大変だったけど、僕はやっぱりあの時代に感謝してますよ。情報が少なかった.僕は今でも本屋に行くのが嫌いなの。窒息しそうになるから。あの活字のジャングルを見ると、「もう書くことないな」と思えてしまう。僕は、情報に対して耳を閉じ、目を閉じてしまうタイプなんですよ。情報を貪欲に吸収して乗り越えられるタイプの人はいいけど、あまり自分の中のエネルギーが多くない人は、溢れる情報に対して閉ざさないと攻撃的になれないんだよ。何を読んでも感心してしまう。「ああ、俺のやろうとしていたことを先にやられた」ということばかりになる。(山藤章二.548)

 ある程度の経験を経ないと、自分の個性というのは確立できないものなのに、今の若者たちに与えられる時間ね、もう短すぎますよ。充電している暇もない。そういう時間をとることを社会が許さないともいえる、さぼってるとかいってね。だから本来なら大成する男が、その時間が短すぎるということのために挫折感を味わって消えていく。こういう事がたくさんおきているんじゃないかと思います。少なくとも三十すぎまでは様子を見ないと、本当の意味でのその男の個性というのは出てこないですよ。そういう場合が多いね。二十代では無理な場合が多い。(松本零士.580)

――先生の作品では、『銀河鉄道999』にせよ『1000年女王』にせよそうなんですが、最後には主人公は憧れの女性と一緒には暮らしたりしないで、別れることに……

 うん。人生の選択肢の部分でね、少年は大人になり、可能性という側面で少年期の夢を振り切る必要が出てくるはずなんです。必ず。いつまでも子供ではいられない。そのときに、少年の夢は心にしまって、振り切らなくちゃいけない。夢は大事なものなんだけどね。
〔略〕
 夢の中で生きてる時期が少年期だと思ってるんです。大人になると、現実に食うために死力を尽くして働かなきゃいけなくなる、自活して自立して自分で伴侶を見つけて……と。それが大人の世界だと。〔略〕大人になると生活のために夢はしまい込まなくてはならず、夢に浸っていられないわけですよ。自分の胸の中だけに残しといて、後は生臭い立ちまわりがはじまるわけです。これが大人の世界です。
 自分の中ではこういうふうに理解して書いてるわけです。だから「精一杯少年の日々は夢を追え」とね。後で後悔しないだけ夢を追うべきだ、大人になって泣き言を言うな、とね。
(松本零士.609-10)


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by no828 | 2014-04-03 18:07 | 人+本=体 | Comments(0)
2014年 04月 02日

つまりぼくは殴ってる仲間なんです——埴谷雄高・立花隆『無限の相のもとに』

c0131823_18231524.jpg埴谷雄高・立花隆『無限の相のもとに』平凡社、1997年。131(786)

版元 → 

 小説家 埴谷雄高への立花隆のインタビューの記録。『死霊』は未読です。が、本書『無限の相のもとに』のなかには共感する部分もあり、とくにもし今回の引用文にあるような思想が『死霊』において展開されているのだとしたら、それは読まなければいけないなと思います。埴谷雄高は人間が人間であるための条件を突き詰めた人なのだと思います。しかしその突き詰めたその突端の「堕胎」の部分は、簡単には呑み込めません。

「自同律の不快」という概念が埴谷雄高にとっては重要なようです。「自同律の不快」とは、「“存在は存在である”といった場合、全存在形式を予覚させず、現在の一存在形式の枠のなかへだけ私達を永劫に縛っておくことしか生じないのですが、我々が生まれると同時に、こうとしか考えられず、こうとしか存在し得なく閉じこめられていること自体がぼくにとって“屈辱”であるという意味なんです」(138)。いまここにこのように自分があることの不快、存在のこれとは別様のあり方を求め続ける態度、現今のこの存在のありように安住しない姿勢、とも言えるかと思います。

 それから、ライプニッツは埴谷にとって何であったのか、気になりました。本文中には論及はなかったと記憶しています。


埴谷 ぼくが言うのは、「自同律の不快」というものを持たなければ、あらゆる存在は存在的価値を持っていない。「自同律の不快」というのは絶えず満たされない魂を持っていて、満たされよう、満たされようと思って絶えず満たされる方向へ向かっていく。これがぼくの宇宙の原理なんです。その満たされざる魂を持っているのが宇宙の原理だけどね、ぼくもある意味でヘーゲル的なんですね。(215)

埴谷 党のことに入る前に、ぼくが台湾の新竹で生まれたということは、やはりひとつの決定的要素です。植民地支配をしている国民は非常に残酷に現地人を扱うわけなんですよ。〔略〕「バカッ」と日本人がトロッコを押している台湾人を殴ったりする。「まごまごしたら死ぬじゃないか」とか言って殴るわけです。子供ながら、人が人を殴っているのを見るのはとてもいやなもんなんです。あの当時は、親父が女房を殴る。ぼくの親父に対する反感はとてもすごいもんですよ。〔略〕子供心に、親父に対するいちばんの反感は、親父は横暴であるということですね。それと同じように台湾人にとって日本人が横暴であると、これは幼い感覚です。感覚としていやだと。これが歳とってからの反植民地理論とかそういう大きな理論とか感情じゃなしに、直観的に、あぁいやなことをするなと。
 そしてそういう時に抵抗しないんです。殴られっぱなしなんです。〔略〕〔日本人は〕威張っていることがまた自分の存在証明なんですね。俺は日本人だ、おまえは台湾人だというふうに。これが何となく日本人嫌い、生物嫌い、存在嫌いというような素地を植えつけた。ぼくの思考様式は分裂型ともいえるんですけど、この分裂型思考方式の始まりは台湾で育ったということ。とにかく自分の存在に違和感を覚えるということですね。親父たち、自分たちの親の仲間が台湾人を殴っている。同じ日本人なんですよ。つまりぼくは殴ってる仲間なんです。
(23-6)

埴谷 どうしても刑務所で壁ばかり眺めていると、壁の向こうはパスカルは、「われわれは本源と究極は見ることができない、われわれが生まれてきた本源もやがて入りゆく究極も見ることはできない」と言うけれども、思考というものはその見れない本源と究極を見たいわけなんです。絶対見れないけれども見たくなる。(69)

立花 あの時、埴谷さんに「超能力というのは人の首を切って元に戻せますか、そこまでいかないと超能力とは言えません」と言われてね、それはその後、ぼくはその論理をいただいていろいろなところで使ってますけどね。(93)

埴谷 読書ってものは普通のものを普通に読んでて、読んでるうちに、あ、こういうこともあり得るんだと思わなきゃ。実際はないけど、あり得ると思うことですね。(103)

埴谷 他の出現宇宙、のっぺらぼう宇宙とかいろんな宇宙がある。その出現宇宙ばかりじゃなくて未出現宇宙に対しても価値判断を持っている。出ようと思って出なかった宇宙がたくさんある、これは無限にある。そういう価値判断をするためにぼくが考えているのは、そういう否定されたり価値判断されてる宇宙の何ものかが出てきて横で何かを言うってことなんですよ。(105)

立花 例えば、あり得たけど起こらなかった過去というのがありますね。これは「虚体」ですか。
埴谷 未出現の「虚体」の中に入っているんです。ぼくはそれを未出現と言うんです。出現と未出現と両方とも「虚体」なんです。〔略〕無限に近いのは未出現のほうで、なぜ未出現が多いかというと、やはり存在することはいやなんですね。自同律の不快なんです。
(178)

埴谷 ぼくは存在が意識を決定してるんじゃなくて意識が存在を決定するという、カント的なんですよ。カントはやはり主体が客体を決めると。そういう考え方にぼくはなっちゃってるんですよ。ということは、人間のインテリジェンス、知性――丸山真男さんの言う理論信仰――そのもので人間が人間になった。知的な分析で真実が真実であるという証明ができるようになったことが人間だということです。その真実を拡張するためにぼくは妄想実験をやってるわけであって、真実を宇宙的にまで拡大しようと思ってる。(133)

立花 『死霊』の中で、単細胞生物がメス・オスに分かれたときから堕落が始まったんだと述べてますね。あるいは、人間にできる最も意識的な行為として、自殺と子供を作らないことと二つあるということをお書きになってて、実際でも奥さんに絶対子供を作らせなかったというのがありますね。
埴谷 さっきニヒリズムということがありましたけど、自分でいろんなことを考える決着がつくまでは子供は作らないとは思ってた。いまだに『死霊』は終わらないんだから決着つかないですね。そういう点では、ぼくの女房は非常に気の毒だった。「オレ自身は考えるために生きてるわけであって、子供を作るために生きてんじゃない。ダメだ!」って、これこそスターリン。
 それでね、ぼくが女房に悪いのは、三度ぐらいできたかな、全部堕胎したんです。戦前の堕胎は堕胎罪なんです。全部、女房が堕胎をする医者を見つけて堕胎するわけです。それで、三べん堕したあと、子宮が非常に悪くなって戦争中でしたけど子宮自身を取っちゃった。〔略〕戦後、子供が親のことをいじめるというのがずいぶん出てきた。そしたら、「子供がなくてよかったねえ」と女房が言ったけれども(笑)、それはずーっとあとになってからの話で、昔はうんと恨んで、「あの頃の子供がいれば今のあなたに似てるかもしれない」「いくつくらい」と。
(195-6)

埴谷 獣であるということを超克するのが思想だったわけですから。思想が、我々は獣であるということを明らかにした。思想がなければ、獣は獣であるということも分からないんですよ。(284-5)


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by no828 | 2014-04-02 18:26 | 人+本=体 | Comments(0)