思索の森と空の群青

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2014年 08月 27日

普段は目立たない存在だったその子は、照れ臭そうにしながらも——たかのてるこ『サハラ砂漠の王子さま』

c0131823_2036153.jpgたかのてるこ『サハラ砂漠の王子さま』幻冬舎(幻冬舎文庫)、2004年。10(833)


版元 → 
単行本は分冊『モロッコで断食 上 リビドーウォーズ編』『モロッコで断食 下 愛と断食の日々編』として2002年に同舎


 モロッコ旅行記。題名のとおりの出会いも描かれています。


 旅は、格闘技のようなモノなのかもしれません。
 旅先では、いろんな人と出会うことになりますが、
 こちらの出方次第で、相手のさまざまな性格を引き出し、
 向こうの出方によって、自分の思わぬ性格が引き出されてしまうからです。

 この旅の道中、予期せぬことばかりが起き、
 私は、自分が本当はどういう人間だったのか思い出せなくなるような、
 自分がどんどん自分ではなくなっていくような、
 そんな不思議な感覚に、何度も何度も襲われました。

 それくらい、愛と、スリルと、リビドーと、笑いに満ちた、
 数々の事件や出会いは、想像を絶する、とんでもないことの連続だったのです。

 たぶん、人には、確固たる性格なんてないのでしょう。
(4)

 平日ということもあって、館内の至るところに学校の課外授業らしい集団がいた。その年代もさまざまで、小学校の低学年らしき小さな子どもたちのグループもいれば、中学生か高校生と思われるティーンのグループもいる。生徒たちはみな、作品の前の空間を陣取って床に座り込み、引率の先生らしき人から作品の説明を受けている。彼らはおとなしく先生の話に耳を傾け、一心に作品の模写をしていた。そんなふうに課外授業が行われている場所では、観光客らはグループの後ろを通って、離れた場所から作品を鑑賞することになる。つまりこの美術館、というかフランスでは、芸術鑑賞に関して観光客よりも自国の教育を優先させているのだ。私も小学生のとき、遠足で写生をしたことはあったけど、対象はいつも花とか山とかサルとかで、美術館で有名な作品の模写をした経験なんて一度もなかった。ちぇっ、まったく教育内容までオシャレだよなぁ。フランス人はこんなふうに小さいころから絵に親しんでいるせいで、芸術的なセンスが磨かれるのかもしれない。
 だが、よくよく観察してみると、おとなしく模写している子どもたちの中でも、絵に対する興味に差があるらしいということが分かってきた。熱心に絵に見入り、時間を忘れてスケッチをしているような子もいれば、どうも落ち着きがなく、明らかに退屈そうな子もいる。中には、他の子がどんなふうに描いているのかが気になって、人の絵をのぞき込んでばかりいる子もいた。絵の鑑賞の仕方も、描いている絵も、それぞれの個性で千差万別なのだ。
 そんな光景を見ていると、自分の子どものころのことを思い出さずにはいられなかった。小学生のとき、私のクラスにも絵を描くのがとても上手な女の子がいた。図工の時間になるとみんなでその子のまわりを囲み、「ほんまに上手やな~」などと口々に言って、彼女の絵をほめちぎったものだ。そんなとき、普段は目立たない存在だったその子は、照れ臭そうにしながらも、本当に嬉しそうな顔になった。勉強が大嫌いだったガキ大将の山田くんはスポーツが万能で、体育の時間になると急に張りきりだしたし、歌はオンチでも笛を吹かせると天下一品の男の子もいた。
 みんな、それぞれどんな大人になったんだろう。
(39-40)


@研究室
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by no828 | 2014-08-27 20:42 | 人+本=体 | Comments(0)
2014年 08月 26日

古酒と従姉妹の息子の結果はううううう

c0131823_1947669.jpg お盆に帰省するさい、少し寄り道をして——のはずでしたが、結構遠回りになってしまいました——T木県H賀町の「Mらいけん」(→  外部リンク)で遅めの昼食としました。メニューの先頭にあった「煮ちゃーしゅー麺」(650円)と迷い、結局メニュー2番手の「純塩らぁ麺」(700円)。平日限定のAとBとCのセットがあるようなので、こちらは先頭のAにしたら、+100円で味玉とミニライスでした。ミニライスはなくてもよかったかも、とすぐに思いました。周囲を見渡すと、Bセット+150円で味玉と茹で餃子(2個?3個?)を注文する人が多かったです。ラーメンはおいしかったですし、次回があればBにしましょう。とはいえ、頻繁に来られる場所ではありません。にもかかわらず、お会計のときにお店の方から「期限のないスタンプカードがありますがいかがですか」とこのうえない笑顔で言われたものですから「は、はい」と答えてしまったことをここに付記しておきます。


c0131823_1947082.jpg 今夏の実家では家族会議を要する案件がありまして、そちらを田舎に特有の長男としての役割を果たさざるをえず、動かなければなりませんでした。今回の帰省はこのために、休めたという実感があまりありません。

 写真は、母方の実家=叔父のお店の囲炉裏の写真です。今回は昼間にお墓参りに行ってすぐに帰るつもりであったので、こういう具合(→ )にはなりませんでした。ちなみに、「こういう具合」のときは原発事故前です。原発から20kmとほんの少し離れた叔父の家の置かれた環境は、あのときとはだいぶ変わりました。早くに戻った叔父はみんなの帰りを待っており、近くの小学校が再開するなどの動きはありますが、戻ってきた人はまだ少ないようです。戻らない人を責める気はまったくありませんし、わたしに責める資格があるとも思いませんが、戻りたい人が戻れる状態に早くなるように願ってはいます。願うことは外部の者だからこそできることであり、願うことに資格は問われないでしょう。


c0131823_19471897.jpg お墓参りから戻り、結局「ビールでいいか?」ということになり、「2杯目からはセルフな」ということになり、飲んだわけです。「セルフ」というのは、サーバーから自分で注ぐ、ということです。そのうち、「“かなりいい”焼酎があるから飲んでみろ」ということになり、普段焼酎はほとんど飲まないものの、味を確かめたかったのでロックで飲みました。写真にある2種類です。1杯ずつ飲み、右側の「越乃寒梅 10年古酒乙焼酎」(→  外部リンク)がまろやかで甘くてとくにおいしく感じました。さてそろそろ帰ろうというときに、「最後にもう1杯飲んでいけ。どっちがいい?」と問われたので、「10年古酒乙焼酎を」。3年か4年か待たないと入手できないお酒のようで、新潟のお客さんからのいただきものとのことでした。

 ビール2杯と焼酎ロック3杯。ただ飲むだけなら問題なかったと思うのですが、叔父の娘(3姉妹の長女、普段はK奈川県K崎市)、つまりわたしの従姉妹、の息子(たぶん)4歳と(たぶん)2歳を囲炉裏スペースの横にある畳敷きの広間で抱っこしたり、追いかけたり、肉体を動かして遊んでいたため、酔いがだいぶ回りました。片手で2歳を抱っこして、片手で4歳の攻撃に対応する、2歳を広間の隅に積み上げられた座布団の上にゆっくり落とす、背後からの4歳の攻撃に応答する、2歳が回復して攻撃してくるから今度は逆さまに抱き上げてそのまままたゆっくり座布団にゆっくり落とす、という繰り返し……。二日酔い、のその手前、その日の夜にすでに頭痛。ううううう。4歳と2歳と仲よくなりましたが、次に会うときまで覚えてくれているかどうか……。


@研究室
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by no828 | 2014-08-26 20:48 | 日日 | Comments(0)
2014年 08月 25日

たとえ他人の文章であっても、現に書いているという実感さえ手に入れば——法月綸太郎『一の悲劇』

c0131823_20423796.jpg法月綸太郎『一の悲劇』祥伝社(祥伝社文庫)、1996年。9(832)


版元 → 
1991年に同社ノンノベル(新書判)


 ミステリ。錯綜する誘拐事件。誰が誰をなぜ誘拐したのか。

 引用は、相変わらず本筋とは関係ないところからです。


「なるほど。それにしても、三浦は何の目的で、こんな剽窃をしたのでしょう」
「——一種の現実逃避なんです」法月は苦い口ぶりで言った。「たとえば、ぼくの場合、半日ワープロの前に坐って、真っ暗な画面とにらめっこしても、まともな文章が一行も浮かんでこないことがあります。そういう時は、つい本棚に手が伸びる。自分を鼓舞するために、好きな本の気に入った場面を写していくんです。中世の修道院の写字生みたいに。ディック風に言うと、尊敬する作家の執筆行為を疑似体験するわけです
「そんなことをしても、時間と労力の浪費ではないですか」
「確かに。しかし、たとえ他人の文章であっても、現に書いているという実感さえ手に入れば、一行も書けない状態より、はるかに気が楽なものです。それが優れた文章なら、なおさらです。もっとも、こうして楽をしている限り、一歩も先には進まないんですが。締切りを目前に控えた時は、特にそうです。書けない時は、書けないという現実を直視しなければ、何も始まりません。
 むしろ、それ以上に危険なのは、最初は軽いウォーミング・アップのつもりで始めても、やがて、写していく作業そのものに、麻薬的な快感を覚えるようになることです。そこで引き返さないと、深みにはまってしまう。読む行為と書く行為の境界が曖昧になり、自前の文章より引用に頼る頻度が高くなります。
最終的には、どこかからコピーしてきた文章を、平気で人前に出すようになるでしょう。そうなったら、作家としてはおしまいです」
(226)


@研究室
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by no828 | 2014-08-25 20:46 | 人+本=体 | Comments(0)
2014年 08月 22日

従って、残された道は、逃暴力主義しかない——東直己『バーにかかってきた電話』

c0131823_19203021.jpg東直己『バーにかかってきた電話』早川書房(ハヤカワ文庫JA)、1996年。8(831)


版元 → 
単行本は1993年に同書房


『探偵はバーにいる』(→ )に続く、シリーズ第2弾。第2弾も、基本、探偵はバーにいて、仕事の電話もバーにかかってくるようにしています。今回は「コンドウキョウコ」からの電話で物語が起動します。舞台は北海道、とくに札幌です。


 それにまた、組織的な暴力に対する恐怖は、独特なものがある。〔略〕ある組織が〔略〕何かの目的のために、誰かの抹殺を決定して、それを遂行するというのはとても不気味だ。こういう言い方は好きではないが、人間の存在がいかに脆いものであるかがシミジミと身にしみる。
 だからといって、平和主義や非暴力主義に転じればいいかということにもならない。それも結局無力なことは、ガンジーの最終的敗北を見るだけでわかることだ。非暴力や無抵抗は、暴力をふるう人間に良識や品位がある場合に限って有効だが、暴力をふるう人間は、良識や品位を持っていないものだ。
 従って、残された道は、逃暴力主義しかないわけだな。
(82)

 俺はウォルター・B・キャノン(という文化人類学者がアメリカにいたのだ)の受け売りを話してやった。とにかく、ヴドゥーに限らず、呪いで人間が死んでしまう、肉体的暴力や毒を使わなくても人間を殺す、と言うか、死なせる黒魔術は、主に「プリミティヴ」と呼ばれる文化の中には現実に存在している。そして、その効果は、少なくとも白魔術師によって対抗魔術を発動してもらわない限り、死亡率は百パーセントに近いと言われている。ただし、そういう「恐怖やショック、あるいは慣習による死」はそれほど珍しいことではない。昔のイギリスでは、男に捨てられた女はいとも簡単に「メランコリー」で死ぬことになっていた。要約すればそれだけのことを話してやったが、途中相田がわりと真剣に質問を挟んだりするので結構な時間がかかった。で、結局、呪われる人間がその呪いの存在を呪いの文脈の中で信じていて、その上に自分が呪われたことを認識することが必要なのだと教えた。
そこだな、ポイントは
 そう呟いて、相田は頷いた。なにか、自分なりに考えを巡らしているらしい。
(182)

 なんとなく湿っぽい気分で〈アン〉に入った。すでに松尾が窓際のブースに座っていた。コーヒー・カップを前にぼんやりしている。一目で、疲労の極限にいるのがわかった。珍しくくたびれた服に身を包み、目が血走っている。頭はクシャクシャだ。俺に気づいてニヤリと疲れた笑顔を見せた。
よう。なんだ、相変わらずチンドン屋みたいな格好しているな
こういう格好してると、夜のススキノで喧嘩を売られなくて済むんだよ
虎の威を借る狐ってヤツか?
乞食の威を借るディオゲネスと言ってもらいたいね
(258)

 学生運動の「闘士」が、「卒業」してあっさりと転身しちまうのは珍しいことではない。成金趣味の背広でベンツに乗って、「これで私も若い頃は火炎瓶投げたりしたこともあるんだよ、わはは」と自慢するおじさんはザラにいる。他人を支配し、権力を持とうとする人種は、最新テクノロジーを導入する工場のように、トレンディな思想やイデオロギーを利用するものだ。自分を正当化するために。(319)

そいつは、これからの小樽は観光に賭ける、と熱心に喚いた。市役所の自治振興室観光企画の誰それだ、と得意そうに名乗った。俺はこの街の観光には全然興味がないので彼の名前は知らなかった。だから、はぁ、というと、なんだかイヤな顔をした。でもすぐに元気を取り直して、あと五年すれば小樽は道央観光の中心になる、と赤い頰を膨らませて胸を張って言った。俺自身は観光地は好きではないので、つまり、観光地というのは他人の懐をアテにして、他人に媚びて金を貰うコジキの巣だと思っているので、別にどうとも思わなかったが、小樽にはほとんど売春施設がないのに観光客がたくさん来たらどうなるのだろう、と心配になった。それでその点を尋ねたら、小樽は若い女性と新婚旅行をターゲットにする、と得意そうに言った。俺は、心の底から感心した。(378)


@研究室
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by no828 | 2014-08-22 19:30 | 人+本=体 | Comments(0)
2014年 08月 21日

当日券売り切れにあたふたする5年目の夏の講義の前

c0131823_19292519.jpg 先月のある日の行状。

 その日にしなければならない具体的な仕事は、T川の専門学校での夜間の講義のみ。同じ曜日に組み込まれていたE古田の講義は、なし。にもかかわらず、早めに上京。理由は、映画を観るため。目当ては「大いなる沈黙へ——グランド・シャルトルーズ修道院」(→   いずれも外部リンク)@J保町I波ホール。(注:先に記しておきますと、この映画は後日観ることができました。ちなみに、I波ホールでの上映は明日8月22日(金)までです。)

 しかし、当日券売り切れ……。こんな事態に遭遇したことはこれまでありません。こんな貼紙も見たことがありません。「ハンナ・アーレント」のときにほぼ満席になった経験はありましたが、まさかの当日券売り切れ。J保町界隈、近くに映画館はなく、代替策を思案、日陰に立ち尽くしながらあいほんで探索するも、観たい映画の公開がまだであるなど妙案は現われず、古本街をしばし探索することにしました。


c0131823_19293227.jpg 古本店では結局、小沼丹『椋鳥日記』など3冊を購入。コーヒーを飲みながら本に目を通し、18時からの講義までの大いなる時間の使い方を引き続き検討するために、適当なお店を探します。J保町的喫茶店は大体禁煙・分煙が徹底していない印象が少なくとも強いため、まずはSタバ。満席。次にDトール。分煙が徹底されていたものの満席。別のDトール。満席ではないものの分煙が徹底していないために撤退。再度、Sタバ。引き続き、満席。分煙が徹底されているほうのDトール。何とか座席確保。アイスコーヒーで一服。

 予定どおり、本をぱらぱら眺めてからあいほんにて大いなる時間の使い方。

 落ち着いて頭を動かしたところ、こういうときの——とはいえ、こんな経験もあまりないのですが——時間の使い方としては、とりあえず、基本的に、以下の3つが私的にはありうるのではないか、あってよいのではないかと想定しました。


c0131823_19301479.jpg(1)喫茶店で本を読む。
(2)映画を観る。
(3)美術館・博物館へ行く。

(1)とりあえずDトールでは無理。冷房が効きすぎていてやや寒い。わたしはあまり冷房を寒がらないほうだと思いますが、これは寒い。実行するなら別のお店に移動することになる、けれどもわざわざ大都会T京まで出てきて喫茶店のはしごをしなくてもよいのではないか。却下。

(2)全国一斉ロードショーものは多々あるものの、そういうものは基本的に観ない方針なので、S宿の単館上映ものをいくつか再探索。しかし、いまいちであったり、上映日が先であったり。残念ながらこれもやはり却下。

(3)思いつくままに美術館・博物館の名前で検索。いろいろ候補はあるようです。実行可能性高めです。ただ、美術館・博物館が割と集合したU野方面にこれから戻るのも億劫に感じ、西側に焦点化。結果、国立S美術館(→  外部リンク)の「オルセー美術館展 印象派の誕生——描くことの自由」(→  外部リンク)に決定。何年か前にそれこそ同じ美術館でオルセーを観た記憶はあるものの、同じ内容ではないようなので、よしとしました。


c0131823_2081921.jpg 移動の前にJ保町に留まって昼食。「キッチンN海」へ行ってみました。少々並んでから店内最奥のカウンター席に座り、「カツカレー」(たしか700円)を注文。待つあいだに店内を見回すと、3人のコックさんが皆さんヒゲであることに気づきました。親近感。鼻の下、それからもみあげからあごにかけてつながる形状。ヒゲを生やさなければならないのか! と思わず感嘆符を加えてしまったのは、もっとも若いコックさんがどうにもヒゲが生えにくい体質・肌質のようであるにもかかわらず、鼻の下ともみあげからあごにかけてうっすらとヒゲをかろうじて残している、確保しているように見えたからであります。

 また食べに来ようと思ったのは、コックさんがヒゲだから、というよりは、大変丁寧に作られたカツカレーであることがとてもよく伝わってきたからです。客の出入りも多く、店内は慌ただしくもあるのですが、その慌ただしさをカレーには感じられませんでした。ちなみに、写真だと見えにくいかもしれませんが、カツの下には千切りのキャベツが敷かれ、その下にごはんがあります。ルーも黒っぽく見えますが、そんなに辛くありません。おいしい。


c0131823_1930389.jpg N木坂に移動。オルセーを以前観たのは、たしか読書会のメンバーと一緒であったような気がしてきました(何年前だ?)。そのときに、「Mクドナルド」の期間限定復活「チキンタツタバーガー」(だったはず)をSに大いにすすめられ、みんなで食べさせられた記憶があります。そしてTくばに戻ってから駅付近でお酒を飲んだはずです。ちなみに、「Mクドナルド」ではわたしはセットでジンジャーエールを頼みましたが、Uはアイスティーを頼み、なぜアイスティーなのだいまは炭酸の気分だとさっき言っていたではないかといったようなことを——指摘するに価する事柄かどうかはさておき——指摘したら、帰ってからビールをおいしく飲むためにいまは炭酸は自粛するのですといった内容を返され、一理ある、いや、二理はある、と思って、以来わたしは夜のビールのために昼の炭酸を我慢するという生活の知恵に頼ることが度々あります。(何の話だ?)

 ポスターに描かれた作品、エドゥアール・マネの「笛を吹く少年」が今回の目玉のようで、少年が吹いている楽器の再現模型も展示されていました。「印象派」がどういう一派なのかよくわかりません——図録も買ったのにまだ読めていません——が、当時の主流への対抗の意味合いが含まれていたことはわかりました。労働者を描いたり、庶民の裸を描いたり、というのは、当時はよしとされていなかったことのようです。今回の展示、その副題にある「描くことの自由」の意味を考えさせられました。図録と一緒に、とくに勝手に共感し、うまい具合に商品化もされていたギュスターヴ・カイユボットの「床に鉋をかける人々」(→  外部リンク)——と、ベルト・モリゾ「ゆりかご」——のマグネットも研究室用に購入しました。


c0131823_19305598.jpg 最後の写真は、鑑賞後、美術館の外に出て見上げた空の様子です。

 この空のもと、図録も加わって——ただでさえいつも重いのに——さらに重くなった鞄を持って、わたしはT川へと向かいました。T川行脚、5年目の夏であります。


@研究室
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by no828 | 2014-08-21 20:51 | 日日 | Comments(0)
2014年 08月 20日

一番怖かった。 本気でやって、何もできない自分を知ることが——朝井リョウ『桐島、部活やめるってよ』

c0131823_20251656.jpg朝井リョウ『桐島、部活やめるってよ』集英社、2010年。7(830)


版元 → 


(売れた本はすぐには読まない、という方針です。それはしかし、気になってはいる、ということでもあります。「B○○K ○FF」税抜き100円棚への陳列が、そうした本に手を出す時機の目安の1つです。定価で買うことが書き手への敬意の表明だ、という考え方も、頭にはありますが、それはもっぱら本分のほうで実行しています。)

 高校バレー部のキャプテン桐島が部活を辞める、という出来事をめぐって桐島の周囲の人びとが照射され、その影として桐島が浮上させられる、という手続きで展開する物語。これまで桐島の“影”として存在していた周囲の人物たちが“光”となり、これまで“光”として存在していた桐島が“影”となる——。おそらくもっとも光っていたのは、終盤までもっとも暗く描かれていた映画部の「前田」と「武文」のふたり。

 桐島本人は出てこない。そして、桐島が辞める理由も具体的には明かされない。

 ちなみに、映画は観ていない。


 桐島は何ひとつ間違っていなかった。
 だけど、何ひとつ間違っていなかったからなのかもしれない、と今は思う。

 桐島はやっぱりうまいし、小学校からバレーをやっていたらしいし、ていうかなによりキャプテンだし、リーダーシップあるし、誰にだってアドバイスしているし、一番チームを見ているし、きついことをきつい言葉でたくさん言うけれど、それはもちろんチームのためで勝利のためでメンバーをまとめるためであって、
 みんなわかっていた。みんなそれをわかっていて、
 桐島だけ、ぽかんと、浮かんだ。
(小泉風助.31)

「君たちは若い。パワーがある。これからなんでもできます。いわば君たちは今、真っ白なキャンバスです」
 校長はいつもこのようなことを言う。君たちはまだ高校生だ、無限の未来が広がっている、真っ白なキャンバスだの何も書かれていないスケジュール帳だの夢への旅路だの、いつも同じことを言うし喩えが斬新でない。生徒の若さがうらやましいのかな、とも思う。
(前田涼也.81)

 俺達はまだ十七歳で、これからなんでもやりたいことができる、希望も夢もなんでも持っている、なんて言われるけれど本当は違う。これからなんでも手に入れられる可能性のあるてのひらがあるってだけで、今は空っぽなんだ。(菊池宏樹.174)

 思ったことをそのまま言うことと、ぐっと我慢すること、どっちが大人なんだろう。こうやって、狭い世界の中で生きているとわからなくなる。かすみみたいに、さりげなく別の話題に誘導できちゃうのが、今んとこ一番大人なのかな。
 私は悔しくて絵理香に本当のことを言えないし、だけどカレーじゃなくてハヤシライスが食べたいなんて言っちゃうし、でも「カオリ」はもういないよ私は実果だよなんて言えないし、私はなんていうかもっと、内側から、この人には芯があるなって思われるような人間になりたいんだ。
 カオリみたいに。
(宮部実果.147)

「てか映画とか作っとる時点でサッカー抜きでキモーい」
 タイトルロミジュリ系とかウケる、と笑う沙奈の前髪が風にさらわれていく。きれいに整えられた眉毛が姿を現す。
 きれいだ、山なりの眉毛もサラサラの髪の毛もしっかりしたアイラインも、ピンクの頰も爪もマフラーも。
 だけど俺は、こういうことを言う沙奈をかわいそうだと思う。〔略〕
 沙奈はきっと、これからずっとああいう価値観で生きていくんだろうな、と思った。〔略〕ダサイかダサくないかでとりあえず人をふるいにかけて、ランク付けして、目立ったモン勝ちで、そういうふうにしか考えられないんだろうな。
 だけどお前だってそうだろうが、と、夕陽に長く伸びる自分の影を見て思った。
(菊池宏樹.178)

 はじめからサボるつもりなら、こんな重くて大きなカバンで学校に来ない。馬鹿みたいに道具だって毎日ちゃんと持ってきて、だけどサボることで誤魔化していた。
 一番怖かった。
 本気でやって、何もできない自分を知ることが。

 ほんとは真っ白なキャンバスだなんて言われることも、桐島も、ブラスバンド部の練習の話も、武文という男子の呼びかけも、前田の「わかってるよ」と答えたときの表情も、全部、立ち向かいも逃げもできない自分を思い知らされるようで、イライライライライライラして、
 背中でひかりを浴びる。
 大丈夫、お前はやり直せるよ。と、桐島に言ってやろう。お前は俺と違って、本気で立ち向かえるものに今まで立ち向かってきたんやから、そんなちっさなことで手放してまったらもったいない、って、言ってやろう。俺は校門とは逆方向に歩きながらそう思った。背中でひかりを浴びて、ぎらりと黒く輝くカバンをもう一度肩にかけ直して、俺は校門とは逆方向に歩いていく。
(菊池宏樹.198)

 この物語に背骨があるとするなら、それは菊池宏樹の語りではないかと思いました。

@研究室
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by no828 | 2014-08-20 20:37 | 人+本=体 | Comments(0)
2014年 08月 19日

濁点を探しに出かけられないのはその夜の雨のせい

c0131823_21155752.jpg せっかく6日間連続で記事をアップロードすることができたのに、ここも世間並みにお盆休みをしてしまいました。帰省中にも書く予定でしたが、今回の帰省はそれほどに心休まらず、といった内容であったため、続けることができませんでした。

 先日、「Lンチハウス」がその名の限界を超出して夜の時間帯も営業していることを知った、と書きました(→  最後の記述)。今回はそのことを書きます。

 先月(7月)末、濁点の所在がよくわからないE古田での講義のため、前泊する機会がありました、というより、そういう機会を設けました。1限のための、念のための、自腹による、前泊です。E古田では本来この曜日の1限に講義はありません。しかし、定例の曜日・時限だけでは9月中に終わらないらしく、変則で講義が組まれました。組まれたこの時間帯は、いつもはA見での講義に当たっています。しかし、そちらがちょうど講義のない日でした。断る正当な理由が見当たりません。

c0131823_2116652.jpg 前泊したのは、念のために、のほかに、せっかくだからE古田の街をもう少し歩いてみたい、と思ったからでもあります。いつもは、講義の前に来て遅めのお昼を食べて看護学校へ行って、講義が終わったらバスでN野駅まで行ってC央線特快に乗って夜間の講義のためにT川へ向かう、という稠密なスケジュール——「スケジュール」が適切な日本語に咄嗟に変換できない——のため、余計なことがほとんどできません。

 Tくばを夕方出発し、夜のはじめにE古田着。こんな時間にE古田にいることが非日常です。「Lンチハウス」が夜も営業していることを知ったのは、このときに宿へ向かう途上ででした。おぉ、と思って写真を撮るのを忘れました。劇的な瞬間を撮影する習性がわたしには身に付いていません。

 以前はウィークリー・マンションであったと思われる宿にチェック・イン。入室し、浴室などを点検したのち、室内はいまいちだが歩いて学校まで行ける宿はここしかないのだ——満員電車を避けたいというのも前泊の理由に含まれていたことをいまさらながらに告白したい——と言い聞かせる必要があった、と述べておきましょう。デスクライトやFァブリーズ(のようなもの)がないため、フロントへ。夜の勉強の用意、明日の準備の一端を整え、よし、さて、いざ、と思ったところに雷鳴、続いて豪雨。仕方がないので勉強用の読書。なかなか降り止まないので、さらに読書。切りがないので雨脚の弱まった20時くらいに外出。予定していた広範囲にして詳細な探索はあきらめ、駅を挟んで学校のある側とは逆の方面に向かいます。駅の向こう側にはほとんど行ったことがありません。

 線路を越えてほどなくしていわゆるN芸のキャンパス。暗闇に明るさを浮かべるN芸のキャンパス。

c0131823_21165697.jpg その先にある「K時」(→  外部リンク)というお店で夕飯としました。もちろんはじめて来ました。塩ワンタン麺を注文(たしか950円)。店内も器内もたいへんに調っていました。

 夕食後、腹ごなしにもう少しぶらぶらしようかと思ったのですが、食事中から雨脚が再度強まり、そんな余裕もなくなりました。最上の写真に微妙に入り込んでいる「B○○K○FF」で何かおもしそうな古本はないか探そうかと思いましたが、その意気込みをも縮減させる空模様。ちなみに、この「B○○K○FF」には講義前にたまにちょっとだけ寄ることがあります(寄れるときがあります)。近くにM蔵大学などもあることから、人文学・社会科学の棚が割と充実しています。だから、なのか、しかし、なのか、良書は税抜き100円の扱いにはなかなかなりません。

 途中のスーパー(ここもはじめて入店)でビールを購入してから元ウィークリー・マンションへ戻りました。せっかくの前泊なのに、という思いが強く残りましたが、明日の講義の導入に話せる、笑いを誘える内容ができたと思うことにしました。風呂に入り、勉強をし、一段落してからビールを開け、久しぶりにテレビを1時間ほど観てから寝ました。テレビを普段観ない生活を続けています。

 E古田の話をテレビを観ないと書いて終わらせるのもどうかと思いながら、本日は終わることにします。

@研究室
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by no828 | 2014-08-19 22:22 | 日日 | Comments(0)
2014年 08月 12日

「あ、あまい」ぼくはまずそう言った。うまいの前に、あまさを感じた——椎名誠『新宿熱風どかどか団』

c0131823_18182080.jpg椎名誠『新宿熱風どかどか団』朝日新聞社、1998年。6(829)


版元 → 


『本の雑誌血風録』(→ )の続編です。時代は1980年、雑誌『本の雑誌』発行3年目の頃です。

 先日『本の雑誌』を購入しました。『本の雑誌』を買うのは3回目か4回目です。特集は「ブックオフでお宝探し!」(→  外部リンク)。亡くなった「渡辺淳一の十冊ならこれだ!」コーナーでは、わたしが渡辺淳一で唯一読んだことのある『花埋み』(→ )も挙げられていました。それ以外のページも充実していて、紹介されていた本を私的購入本リストに追加しました。


「で、その生ビールですがね、たぶん日本で一番うまい生ビールをのませてくれるところを見つけましたよ
「え? えっ?」
「それもわりと近くです。東京駅の近くです」
「えっ! えっ! どこですか」
 たちまち声がうわずっている。なさけないが仕方がない。
どうも体験者の話ではとりわけそこのビールがうまい、つまりビールの銘柄がうまい、というのではなくて、その注ぎ方がとてつもなくうまいようなんですよ。つまり名人芸というやつですね」〔略〕
「そりゃあもうとにかく行って確かめるしかないでしょうねえ。すぐ行くべきですね。今行くべきですね」早くもぼくは軽い腰をあげそうになった。
 話はたちまち決まりさっそくその週末にでかけた。
 なるほど近い。東京駅八重洲口から歩いて五、六分のところにある「灘・コロンビア」というちょっと変わった店名の一見居酒屋ふうの店がまえだ。カウンターと細長いテーブル席と小あがりがあって客は圧倒的にサラリーマンが多い。みんな生ビールをのんでいる。店主は新井徳司さん六十一歳である。ワイシャツにベストにネクタイ。やっぱりナミの居酒屋とはちょっとちがう。
 ちょうどあいていたカウンターに座って、たちまちなにはともあれ生ビール、生ビール! の状態になった。
 間もなくカウンターの上に、把手のない大きなグラスに入った生ビールが置かれた。ビール七対泡三。ひと目でその泡の並はずれたキメ細かさ、というものがわかる。〔略〕
あ、あまい
 ぼくはまずそう言った。うまいの前に、あまさを感じた。泡があまいのである。しかもさっき見て感じた以上にそのキメの細かさがものすごい。質量を感じる泡だ。ビールの泡がこんなにあまくてうまかったとは……。もちろんそのあとに続くビール本体も断然タダモノではない。
う、うまい
 ヨロコビと感動がひたひたと身を包む。どうしてこの店をもっと早く知らなかったのだろうというぞわぞわとした悔恨が身をゆする。
(236-7)

 残念ながらこの新井徳司さんはもう亡く、「灘・コロンビア」ももうないようです。ただ、この技を引き継ぐお店があるようです。「BIERRIESE'98」(→  外部リンク)がそのお店のようです。

@研究室
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by no828 | 2014-08-12 18:27 | 人+本=体 | Comments(0)
2014年 08月 11日

えこたの濁点はどこだ

c0131823_1926754.jpg 前期は週1回、首都T京のN野区とN馬区とのあいだにある看護学校で教えていました。と、過去形で書きましたが、9月にも続きがあります。わたしの出講先の看護学校2校は、いずれも小中高と同じように、7月末まで授業、8月末まで夏休み、9月頭から授業、という構成になっています。看護学校であるがゆえに実習がしばしば入り、「休講」となることもしばしばです。もちろん学年歴上で予め定められ、講師陣にも知らされている実習ですので、厳密には「休講」とは呼べません。講義は基本的に毎週ある、という状況に慣れていますと、“実習だから講義がない”というのはなかなか不思議なものです。そのような状況で15回——そこには試験を入れるの入れないのごにょごにょごにょ——を確保しようとしますと、7月末までにすべての講義を終わらせることは難しいわけです。ここ数年は 映画 → 議論 で2コマ続きを数回組んだことがあり、そうすると夏休み前に講義が終わり、さらには試験をも終わらせることができます。しかし、今年度は2コマ続きをやめて、毎回1コマ“講義らしい講義”を続けています。講義の仕方の試行錯誤は終わりません。そういうわけで、出講は9月にも2回あります。


c0131823_17435498.jpg この看護学校は4限目の講義のため、午前中は研究室、お昼から移動をはじめます。前期も後期も週に1コマだけの非常勤講師時代には外食は財政的に許されたことではありませんでした。しかし、各期それぞれに複数の講義を持ち、研究員の仕事もするようになり、講義の日は外食をしてもよい、というか、せざるをえない、という状況になりました。どうせなら、可能なら、チェーン店ではなくその街のお店で食べようと思っています。お店探索にはウェブ上の情報を頼ることが多いですが、ここは駅前の路地を歩いてみるのも愉しいものです。近くにいわゆるN芸やM蔵大学やM蔵野音楽大学などがあり、駅前のこじんまりとした空間のなかに、食事をする場所、コーヒーを飲む場所などが密集しているような印象も受けます。さまざまな学校へ教えに行くのは大変ではありますが、知らない街を知るというおもしろさもあります。とはいえ、すべての学校、その最寄駅がかように探索しがいのある場所とは限らず、駅を出たら大きくロータリー、空は広く、すべてが1度に目に入る、探索の前にすべては差し出されていた、というところもあります。もちろんそうした“郊外”も、時間をかけて歩き回ったり車で見て回れば、おもしろい発見もあるでしょう。

 左上の写真は、前期のいつかの講義の前に行った、Lンチハウスというお店のBセット650円(と記憶。BセットのBは何かの頭文字ではなく、単にAセットBセットCセットのBです)。チキンカツ(たしか2枚)と焼肉とナポリタンと生野菜が1皿に載っていました。ちなみに、店名はLンチハウスですが、営業は昼のみにあらず、夜も営業していることがわかりました。なぜわかったかという話は、また今度書きます(たぶん)。

@研究室
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by no828 | 2014-08-11 20:11 | 日日 | Comments(0)
2014年 08月 10日

親に媚びてるってなら、そりゃ親でいて欲しいからじゃねーの?——京極夏彦『死ねばいいのに』

c0131823_20451351.jpg京極夏彦『死ねばいいのに』講談社、2010年。5(828)

版元 → 

 1920年代の日本の話ではありません。舞台は現代日本。“死んだ”アサミがどんな人間であったかをその女と親しかったと思われる人物たちに訊いてまわるケンヤの物語。真っ直ぐな——あるいは真っ当な——ケンヤによるその人物たちの“憑き物落とし”の物語と言ってもよいかもしれません。本書を“憑き物落とし”かもしれないと認識するわたしのような読者にとってみれば、本書は読者の“憑き物落とし”をする物語とも言えるかもしれません。

 ちなみに、この物語にアサミ本人は出てきません。有吉佐和子『悪女について』、あるいは最近なら朝井リョウ『桐島、部活やめるってよ』。

 いわゆる「ニーバーの祈り」にも似た文章が出てきます。その部分も以下の引用に含まれます。


「死者に鞭打つみたいな感じになるじゃないよ」
「あ、それ」
 ケンヤはコーヒーカップに視線を落としたまま言った。
「それって——俺いつも思うンすけど、意味ないっすよね。死んだって悪いのは悪い訳でしょう。罪を憎んで人を憎まずとか言うじゃないすか。なら、人の方が死んじまったって罪は罪なんだし、何か良くねえことしたんなら、そのこと言うのに生き死に関係ねーと思うけど
「まあそうだけど。死んじゃったら弁解とか出来ないじゃない。だからじゃないの。例えば私が嘘言ったって判らない訳だから。不公平でしょ。そういうことよ」
「死んじゃったからって嘘言っちゃうんすか」
「馬鹿ね。嘘じゃなくても勘違いとか思い込みとかあるじゃない。だからよ。私の見聞きしたところの話なんだから、本人にしてみれば違うってこともあるでしょ
(二人目.108)

「少なくともオレらは。ニートとかも言わねえし。だいいちそういうのって、あんまし考えるのが得意じゃねーオヤジどもが勝手に枠に嵌めて呼んでるだけじゃね。だって、普通っすよ、みんな。学校行ったり行かなかったり、働いたり働かなかったり、それぐらいの違いしかねーから。あんまり変わりないっすよ。どーでもいいってか。でも、その」
 ケンヤは俺を観る。
「佐久間さん達は、何というか」
「ふん。それ言うならこっちだって変わらねえよ。ちゃんと経済活動して社会参加してるんだ。やり方は多少違うかもしれねえが、何もしねえお前らよりマシだろ」
 解りませんとケンヤは言った。
 迎合しねえな。
(三人目.143)

「あの子は——そういう子よ。他人行儀というか、甘えないというか――だから、他人には控え目でイイ子に見えるのよ」
「他人じゃなく親っしょ」
「他人よ。何度も言うけど、どれもあたしの亭主なの。あの子にしてみれば他人よ。だから——」
 色目を使ったのかと思ってしまう。
「——ただウケるって話じゃないの、親爺に」
「あのさ、それ解るわ」
 ケンヤはそう言った。
「何が解る訳よ」
そういう、親爺に媚びるつーか、そうすることで生き残ろうとしてたんじゃね? だってアサミにしてみりゃすげー負い目じゃん。自分の所為であんたが苦労してるのは判ってる訳っしょ。自分のために結婚してさ、自分のために離婚とかなると、やってられねーじゃん。だから、新しい旦那に好かれようと努力したんじゃねーの?
何よ。色目使って誑し込んだってこと?
 ケンヤは黙った。
「何よ」
「あんたさあ」
 何だ。
 何だよこいつのこの眼。
子供が親に媚びるのと、色目使うのと一緒かよ。誑し込んでるのあんたじゃん。あんたにしてみりゃ金蔓か、何か知らねーけどもさ、アサミにしてみれば新しいお父さんじゃねえの? お父さんに嫌われたくないと思う子供が、色気出す訳か? それ狂ってね?
「狂ってる?」
「そうじゃん。あのさ、小学生とか中学生だぜ。お子様まっしぐらだぜ」
「でも、最後は」
「高校にもなれば男欲しけりゃてめえで探すって。何で母親のお下がりに色目使わなきゃなんねーの? 親に媚びてるってなら、そりゃ親でいて欲しいからじゃねーの?
(四人目.250-1)

 ——死ねばいいのに

「何だって?」
「だってどうにも出来ねえなら我慢するか、我慢出来ねえなら死ぬっきゃねーじゃん」
「何だって?」
だからさ。あんたらさ、あんただけじゃねーけど、どうしてそんなに簡単なことが解んねー訳? どうにも出来ねーどうにも出来ねーって。そんなことそうある訳ねーって。必ずどうにかなるのに、どうにもしないだけだって
 しない?
厭なら辞めりゃいいじゃん。辞めたくねーなら変えりゃいいじゃん。変わらねーなら妥協しろよ。妥協したくねーなら戦えよ。何だって出来るじゃん。何もしたくねーなら引き蘢もってたっていいじゃん
(五人目.330.傍点省略)

「あのさ、アサミはさ、俺に死にたいって——そう言ったんだよな。別にそれ程不幸でもねーし、切羽詰まってる訳でもねーし、哀しくも辛くもねーけども、それでも、死にたいってさ。アサミ、何にも望んでなかったっすよ。大して愚痴も言わなかったんすよ。俺が聞いた限り、ここ何箇月かに会った連中の誰より不幸すよ、アサミ。それなのに、文句は言わねーの。でも、ただ死にたいって
「死に——たい?」
だから俺は、アサミのことが知りたくなった。でも他の連中はさ、みんなぐずぐず不平ばっか言って、自分が世界一不幸だみてえなことばっか言って、それでもみんな死ぬとは言わねーの。そんな我慢出来ねえ程不幸なら、死ねばいいじゃんて思うって
(331)

「なら——もう少し反省の態度を示すとか、贖罪の証しを見せるとかだな」
アサミに対して、って話すよね
「え?」
それと、アサミの関係者に対してって話じゃないすか。アサミが死んで哀しむ人達に対しては、謝りてーし償いたいすよ。哀しませたの俺だし。でも、五條さん、アサミと関係ないっすよね? アサミ死んで、哀しいとか思ってる訳じゃないすよね。そうなら俺の弁護なんかしねーっしょ」
「いや、哀しいとか哀しくないとか、そういう問題じゃなくて」
「だからそういう問題じゃない訳すよね? なら五條さん相手に下向いてみせる意味ないように思うんすけど。俺、五條さんに何か謝らなきゃいけねーことしたっすすか? なら言ってください。俺、迂闊な男なんで、気づかないこと多いんすよ。迷惑とか、かけてねーっすよね? まあ、こうやって弁護してくれてるのも仕事っつー理解でいい訳ですよね。なら、これも迷惑かけてるってことじゃないすよね?」
「迷惑ということはないが」
 近いものはある。
 国の依頼だからといって差をつけるつもりはないのだが——このままだと迷惑に近い。
「なら、どうして五條さんの前でしおらしくしてなきゃいけねーのか、俺には解らねーんすよ。人殺したら関係ねー人にも謝らなくちゃいけないんすか? 誰も観てねーとこで殊勝な態度取ったり、関係ない人の前で落ち込んでるようなポーズ取ることが、何か意味あることなんすかね
(六人目.346)


@研究室
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by no828 | 2014-08-10 21:00 | 人+本=体 | Comments(0)