思索の森と空の群青

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2014年 10月 30日

『死にたくない!』って言いながら死んだら、どうして駄目なんだろう——上原善広『聖路加病院訪問看護科』

c0131823_19305520.jpg上原善広『聖路加病院訪問看護科——11人のナースたち』新潮社(新潮新書)、2007年。26(849)


版元 → 


 生命倫理への関心からと看護学校での講義のための勉強用に。最後から2番目の引用部分に共感しました。


 第二次大戦中は米国系の病院であったため白眼視された時期もあったが、東京大空襲では米軍機による爆撃をほとんど受けなかった。そのために築地一帯だけは聖路加国際病院の存在のおかげで、一つか二つの間違って落とされた焼夷弾以外、被害はほとんどなかったとされる。(6)

 この聖路加病院には各科それぞれに医師がいるが、聖路加の中でも唯一「医師のいない科」がある。それが在宅医療を専門に扱う訪問看護科である。(7-8)

 そもそも日本における訪問看護師のルーツは約百年前に遡れるほど古いものだが、きちんと制度化されたのは九二年からと、比較的最近である。これは超高齢化社会を見据えてのことだが、一面では膨大な医療費を削減したい政府方針により、入院期間を短くして自宅療養を推進するための制度化でもあった。長期入院から自宅療養の時代へ。つまり訪問看護の制度化は、まさにこれからの超高齢化社会の象徴でもあった。療養の現場は現在、病院から自宅へと移りつつある。この新しい流れについて、もっと知りたいと思った。
 そしてもう一つ、訪問看護師という仕事の特殊性にも興味を引かれた。一般の病棟に勤める看護師とは違って、訪問看護師は在宅療養している患者・家族と長期にわたって付き合い、訪問先ではたった一人で患者の状態を見極め、処置しなければならない。〔略〕
 そして最後に、これは私のもっとも興味を引かれるところであるが、この訪問看護という仕事は、否が応でも、人の生き死にに正面から向き合わざるを得ない
(9-10)

 神さまに質問
〔略〕
 選ばれたぼくは 生きるという命のたいせつさを
 社会の人たちに 教えることを 神さまが与えて下さった使命だと思いたい

 障害者は 社会が忘れていることを 思い出させるために
 神さまは派遣されたのだと思う


 この詩は、〔栗原征史が〕当時通っていた養護学校長の「君たちは世間が忘れていることを知らせるために、この世に生まれてきたんだ」という言葉から着想された。
(131-2)

 → 『神さまに質問——筋ジストロフィーを生きたぼくの19年』(ファラオ企画、1992年)
 → 改題『希望をもって生きてる——筋ジストロフィーを生きたぼくの19年』(ラ・テール出版局、1999年)

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 押川真喜子 ナースマネージャー(看護師長)
 まず院内での昼夜を問わない営業活動をさらに活発に行い、積極的に病棟に出かけては医師や病棟看護師と会う。安定している患者がいれば病棟、患者家族と話し合いの上で家に帰し、訪問看護の患者を増やす。結果的にこれが、安定しているのに長期入院している患者を自宅に帰すことができ、また患者側の医療費負担を軽くすることにつながった。そして訪問件数が増えるとそれだけで科の収入も増えるため、患者と訪問看護科のどちらにも利が出る。(105)

「でも最近もっと思うのは『いやだ! 死にたくない!』って言いながら死んだら、どうして駄目なんだろうってことです。八〇歳の人が『百まで生きたかったのに』って言うのはどうして駄目なんだろう。安らかに死にゆくというのは、『死の受容ができている』という言い方をするのですけど、どうしてそれが最良だといえるのでしょうか。『死の受容』なんて、残された者に対する配慮なだけじゃないのでしょうか……。〔略〕
 緩和ケアでは病気からくる身体の痛みだけでなく、そうしたスピリチュアル・ペインまで和らげようと頑張っているけど、実はそれはただ、おこがましいだけなのではないでしょうか。人間の限界を知らない若いナースが、それに取り組むのは必ずしも悪いことではないけど、スピリチュアル・ペインは、もしかしたら生への叫びなのかもしれないと思ってはいけないのかな
 私は、死の受容をさせることが、かえって良くない患者さんもいることを知っています。死の受容というのは、実はただ生への諦めであることも多いからです。反対に『いやだ、死にたくない』という患者さんは、可哀想な人なんかじゃなくて、かえって生に対してアグレッシブな人じゃないかと思います。『この人はすごく生きることを頑張ってるね!』って評価してあげちゃ、どうして駄目なのでしょうか。そして、それをサポートするのが私たちなんじゃないかとも。」
(180-1)

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 桐朋学園は、世界的指揮者である小澤征爾が卒業していることでもよく知られ、その前身は軍人の子息子女のための学校だった。しかし戦後になって東京教育大学と分離して桐朋学園として新たに発足して以来、音楽教育の実践の場となった。桐朋の“桐”は、東京教育大学の校章を表している。(140)


@研究室
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by no828 | 2014-10-30 19:49 | 人+本=体 | Comments(0)
2014年 10月 25日

空はどこまでも高かった——見沢知廉『囚人狂時代』

c0131823_2153643.jpg見沢知廉『囚人狂時代』新潮社(新潮文庫)、1998年。25(848)


版元 → なし
単行本は1996年にザ・マサダ


 獄中記。ただし、暗くなく、むしろ愉しそうでさえある獄中記。著者は「新右翼」、スパイ粛清事件の実行犯として逮捕され、懲役12年。服役中、さまざまな人(事件を起こした人)と出会います。精神医療に関する言及もあります。

 著者が獄中からお母上宛てに発信した手紙が掲載されています。ものすごく細かい字で書かれています。「1ヵ月7枚までと制限されているので、小説を書くためA4の便箋1枚に3000~4000字を詰め込んだ」(264)とあります。

 また、「参考資料」として、冊子「受刑者の生活心得」(千葉刑務所)、冊子「守らなければならないきまり」(千葉刑務所)、「ノート使用許可条件書」、「願箋」、「情願却下通告」が附属します。ちなみに「情願却下通告」は法務大臣名で出されますが、当時(1990年12月27日付け)の法務大臣は梶山静六であったことがわかります。


 あさまさん〔と呼ばれる、あさま山荘事件の実行犯〕の父親は財閥系企業のエリート重役だったが、事件で退職。母親も教養のある人で、あさま山荘では呼びかけをやらされていた。
 兄さんがいるが、精神の発達に遅れがあって、施設に入っている。それで、あさまさんは福祉に強い関心があるという。将来は、そういう障害者の世話をする仕事に就きたいと言っていた。
 あさまさんが〔野球をしたときの2件の骨折事件により〕野球禁止になったあと、俺たちはもっぱらグラウンドの隅のベンチに坐り、新聞などを読みながら話を交わした。
僕もスパイを殺ったんですが……あれ(あさま山荘)は、皆仲間殺しだったんですか?
いや、スパイはいました。公安のね。それは報道されない。ただ仲間殺しとだけ糾弾される。悔しいですね……
「あさまで警部と警視撃ち殺したの、吉野さんか板東さんか謎がありますが、どっちです?」
「……いやあ、ははは、まあ、いいじゃない」
「ライフルやらは、猟銃店で奪ったんですよ」
「やりましたね。若かったからなあ」
……革命は、もうする気ありませんか?
福祉とかは興味あるし、そういう市民運動はいいと思うけど……はは、党派の革命はちょっとねえ
新右翼に来ません? 反共や天皇万歳の右翼じゃないですからね。僕たちは北一輝三島由紀夫の純粋な夢を受け継ぎたいというのでね」
「もう年だしなあ……無期なんで二十年はここにいるしねえ」
「植垣さんも遊びに来ますよ」
「僕も、遊びにならね」
 秋。透き通った日射しがベンチの上に、あさまさんと俺の影をくっきりと映し出していた。彼のおだやかな声が耳に心地よい。空はどこまでも高かった。
(111-2)


@研究室
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by no828 | 2014-10-25 21:12 | 人+本=体 | Comments(0)
2014年 10月 24日

わたしはこのとき、かつて社会の底辺に位置する肉体労働者に——上原善広『被差別の食卓』

c0131823_20424812.jpg上原善広『被差別の食卓』新潮社(新潮新書)、2005年。24(847)


版元 → 


 世界各地で差別されてきた/されている人の側の料理のルポルタージュ。


アメリカ
 ソウルフードとは、まだアメリカが南北に分かれていた奴隷制時代、白人農場主の食べない食材を、黒人奴隷たちが工夫を重ねて作り上げた料理のことだ。〔略〕
 またソウルフードは、黒人奴隷をルーツにもつ料理であると同時に、南部の田舎料理でもある。これは、黒人奴隷がおもに南部の大農園で働かされていたことからきている。白人家庭で日々の料理を作っていたのが黒人奴隷だったことから、南部の白人の間でも、ソウルフードと今日呼ばれる料理を「南部郷土料理」としてよく食べている。
(15-6)

「ほら、鶏の手羽ってあるでしょ。フライドチキンが奴隷料理だったというのは、あの手羽先をディープ・フライしていたからなのよ。白人農場主の捨てた鶏の手羽先や足の先っぽ、首なんかを、黒人奴隷たちはディープ・フライにしたの。長い時間油で揚げると、骨まで柔らかくなって、そんな捨てるようなところでも、骨ごとおいしく食べられるようになる。焼くほど手間はかからないし、揚げた方が満腹感あるしね(19-20)

また当時の奴隷は肉体労働者がほとんどだから、腹持ちの良いフライ料理が好まれた(21)

「〔ミシシッピ州〕ナッチェスでは、黒人と白人の割合は半々くらいね。だけど便利な町の中心部では、住民の八〇パーセントは白人よ。学校も黒人と白人とは分かれているしね。
 ここにある私立校なんて、白人生徒一一〇〇人に対して、黒人の生徒はたったの一〇人だけ、市役所で市政に関わっているのもほとんどが白人よ」
(37)

「アメリカの黒人の間では、ミシシッピとアラバマがとくに評判が悪いのよ、差別が強いって」(37)

 しかし、ソウルフードの本質というのは、実はその味にはない。
「本当においしいソウルフードの店はどこ?」とアメリカ黒人(アフリカン・アメリカン)に問えば、ほぼ全ての人が「母の作ったソウルフードが一番」と答えるだろう。これは、ソウルフードというものが基本的には家庭料理のことを指すので、きわめて当然のことなのだ。
(49)


ブラジル
ブラジルでは小学校から私立と公立に分かれるのですが、私立はほとんど白人で占められています。反対に公立はひどい状況です。教員の給料や待遇が悪いためにストも頻繁におきますし。それでここに学校をつくったのです。しかし、それから上への進学率は大変低いのです。大学は公立の方が環境も良いのですが、黒人で大学に進学できる人はほとんどいません。だいたい大学に進学する前のステップで道は閉ざされているのです」(66-7)


ブルガリア
欧州では、ハリネズミを食べるのはロマだけなのだ。そのためにハリネズミは「ロマの豚」と形容されることもある。〔略〕
 こと食事に関しても、ロマ以外の、外部の人間の作ったものはすべて穢れている(外部の人間自体が穢れているから)とする彼らは、例えば乞食であっても他人の残飯を口にしないといわれているほどだ。また動物においても、自分の身体を舐める猫は外部の穢れを内に取り込んでいると見られ、敬遠される。蛇が嫌われるのは、ほかの動物を穢れた外皮ごと丸呑みしてしまうからだ。
 そうした意味でハリネズミは、彼らの穢れ観をもっとも満足させる、清浄な動物だと考えられている。
〔略〕彼らはその穢れ観によって一般人から自らを隔離し、あたかも“ハリネズミ”のように自身を守ってきたのである。
(84-5)


ネパール
横を見ると、茶店の婆さんが砂糖の入った袋を客の女に渡すところだった。婆さんは「ほれ」という風に、決して女に触れないようぽとっと、女の手に、砂糖の入った袋を落とし、代金をもらっていた。〔略〕
 相手に触れないで商品を渡すには、相手の手にぽとっと落とすしかない。客の女は、不可触民であった。決して触れられない、穢れた民。
(129-30)

 また不可触民の中には、バディという、売春を生業とする民もいる。これは相手に触れなければ性交できないのだから、不可触民というには言葉としておかしいのだが〔略〕(132)

 昔はヒンドゥー教徒もみな、牛肉を食べていたといわれている。それが食べなくなった理由には、もともと牛が重要な家畜で富の象徴だったこともあり、仏教の殺生観も影響して食べなくなったのではないかと考えられている。〔略〕
 そこで牛を食べることをタブーとするため、不可触民がその役割を担わされることになった。牛をタブーとすることで、それに関わる人々を穢れていると“見せしめ”にすることで、一般民衆に牛肉食を忌避させる思想を広めさせる。そしてアーリア人はさらに菜食主義的傾向を強め、自らの神秘性を高めるようになったのである。
(153)


日本
「なんやねん、ちりめんジャコやったら何千匹殺してもええのに、なんで牛とか豚やったら差別されなあかんねん(168)

 外も暗くなり、もうぶっ倒れるのではないかと思った頃、親父がいなくなったのを見計らい、古参の従業員が「な、よっちゃん。これでちょっとそこまで買いに行ってくれへんか」と、千円札をわたしに握らせた。
 わたしがそれで買えるだけのカップ酒を買って帰ると、ちょっとした酒盛りとなる。皆、ぱかっと蓋をとって二口ほどで空にしてしまう。「よっちゃんも呑み」と中学生だったわたしにもそれは渡され、おかげで秘密を共有させられることになる。
 その頃まったく飲めなかった酒も、あまりの疲労からか、不思議とおいしく感じられた。わたしが空にしたころには、もう他の人はそれぞれの部署について仕事を始めている。
 わたしも、肉塊を真空パックしていく下っ端の作業を再開すると、やがて体がぽかぽかと温まり、さっと顔に血の気がさすようになる。さっきまで石の地蔵のように強張っていた体の節々がやわらかくなり、また仕事ができるようになる。わたしはこのとき、かつて社会の底辺に位置する肉体労働者になぜアルコール依存症が多かったのか、理解できたのだった。
(179-80)


@研究室
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by no828 | 2014-10-24 20:51 | 人+本=体 | Comments(0)
2014年 10月 19日

子供ひとりの生命の代価をたったの五百万円とか一千万円とかに軽く見積ったことは——筒井康隆『富豪刑事』

c0131823_20434061.jpg筒井康隆『富豪刑事』新潮社(新潮文庫)、1984年。23(846)


版元 → 
単行本は1978年に同社


 4作品からなる連作短篇。裏表紙の説明「キャデラックを乗り廻し、最高のハバナの葉巻をくゆらせた“富豪刑事”こと神戸大助が、迷宮入り寸前の五億円強奪事件を、密室殺人事件を、誘拐事件を……次々と解決してゆく。金を湯水のように使って」。

 ドラマ化されたようですが、そちらは観ていません。

 と書いて思い出したことがあります。わたしは講義のなかで、本の紹介を学生に課すことがあります。学生の顔と名前を一致させるため、という隠れた目的もありますが、第一義は本を読む習慣を付けてもらいたい、鞄に本を入れておいてもらいたい、本を読んで勉強してもらいたい、というところにあります。しかし、本を紹介するさい、「この本は映画化もされているようなので、本を読むのが大変だという人は、映画を観てください」といったようなことを言う学生が結構いまして、ああ趣旨が理解されていないと、わたしは頭を抱えるのです。


「むろん犯人に対してです。誘拐という卑劣な手段に腹を立てていることはもちろんですが、子供ひとりの生命の代価をたったの五百万円とか一千万円とかに軽く見積ったことはもっと許せない。さらには、たったそれだけの金を支払うこともできない多くの人びとが現実に存在することも腹立たしい。それから、そんなことに怒りを向けなければならない自分にも腹が立つ」
「金持ちの息子として生れたことにも腹を立てとるのだろうな」喜久右衛門が悲しげに言った。「わしはよくない親じゃ。許してくれ」
(「富豪刑事のスティング」152)


@研究室
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by no828 | 2014-10-19 20:46 | 人+本=体 | Comments(0)
2014年 10月 18日

出講先で雲が出た(蜂も出た)

 13日は休日ですが講義日であり、しかし2週連続で台風が接近中であり(今度は19号)、講義はあるのかどうなのか、と思いながらも出講先のウェブサイトには休講の掲載はなく、講義が終わってからの帰りの時間が心配だ、と思いながらも行くしかあるまいと研究室を出たものの、Tくば駅改札に入る手前で改めて情報を確認しようとあいほんを見たら留守電あり、出講先からで「本日5限は休講」、雨漏り研究室のために雨漏り対策をして出た研究室に戻り、対策を解除し、やるべきことの続きに取り組みました。夕方メール・ボックスを開くと、「14日は通常とおり授業を行う予定です」と1カ所濁点を欠落させたメールが出講先から届いていました。

 14日当日は風が強く、そのためにTXにもT武線にも遅れが生じました。念のために余裕を持たせて移動をしたので、出講先最寄駅の教員バスに乗ることができました。

 気温も高くなるようであったので、半袖シャツで出かけ、実際にそれでちょうどよいくらいの天気となりました。講義も窓を開けて行ないました。気温のゆえかなにゆえかはわかりませんが、3限目受講生100名弱の大教室での講義中、巨大な、本当に巨大な蜂——たぶんクマバチ。黒い部分が多かった——が教室に窓から侵入してきました。学生はざわめき、受講にも身が入らなくなったように見受けられたので、事務の方に処置をお願いしました。事務の方が教室に来られ、窓に留っていた蜂を軍手を掴み、事なきを得ました。ありがとうございました。

 わたしも学生の頃、講義を受けているあいだに教室に蜂が侵入してきたことが度々ありました(しかしこの3限の蜂ほど大きなものではない)。先生が何かしてくれるわけでもなく、放っておくしかなかったように記憶しています。Sが蜂に過剰に反応していて、「俺、蜂がダメなんだ」と言っていたことを思い出しました。

 その日の写真を幾枚か。

 Tくば駅A3出入口から空(雲はない)
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 K日部駅舎の隙間の空 1(雲はない)
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 K日部駅舎の隙間の空 2(雲はない)
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 出講先玄関からの空(雲がある、すごくある)
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@研究室
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by no828 | 2014-10-18 21:30 | 日日 | Comments(0)
2014年 10月 16日

実は賛成だ

 先週末は学会大会へ参加(のために、FにおけるRの結婚おめでとうの集まりには参加できず)。この学会(大会)は、自由研究発表を設けません。発表しないのに学会大会へ参加する意義はあるのか(反語疑問)、という思いが常にあるわけですが、この学会(大会)は議論に重点を置くところにも特徴があり、そこに惹かれて基本的に毎年参加しています。とはいえ、若手が発言することはなかなかに憚られる雰囲気でもあります。

 今年は道徳の教科化に問題意識を発した議論の場も設けられました。この学会は実践志向ではありません。議論も、現実の政策的な動きを細かく追跡するというものではなく、研究を含めた実践を反省するための契機を探ろうとするものでした。

 教科化に対し、賛成の立場を表明している人がおり、反対の立場を表明している人がいます。今回の議論は、司会者が反対、報告者3人のうち賛成が1人、立場不明(と思われた人)が2人、という構成ではじめられました。教科化の賛否を問うことは主題ではなく、主題はむしろ教科化の動きがあるなかでもう1度社会と道徳について考えるということであったので、立場不明であることは問題ではありません。しかしながら議論のなかで、立場不明の(と思われた)人が実は賛成だ、ということになり、注目されたのはその根拠でした。賛成の場合も反対の場合も、重要なのはその根拠です。

 実は賛成だ、の根拠は、次のようなものでした。大まかなまとめです。一言一句の聞き書き、文字起こしではありません。詳細はおそらく来年発行される学会誌に掲載されることになるでしょう。いや、議論の主題ではなかったから省略されるかもしれません。

 日本では道徳が教科ではない。また、教室では道徳の時間が学級活動やら何やらに振り替えられ、実際の道徳の時間はとても少ない。にもかかわらず、日本の子どもの、若者の道徳への意識、規範意識は国際的に高いというデータが示されている。日本は道徳的な圧力の強い社会(共同体)である。道徳的な圧力の強い状態が社会(共同体)の常態となっており、道徳が全体化しており、道徳を相対化する契機が存在しにくい。つまり、日本の道徳教育はすでに成功している。これが実は問題なのではないか。また、現在道徳は学校全体で、すべての教科を通して教えていく、ということになっているが、それも全体化という同様の事情から問題だと言いうる。教科化すれば、道徳と距離を取りやすくなる、道徳の相対化が可能となる。だから教科化したほうがよい。これは実は教科化反対派(の一部)が望むことではないか——

 制度に深く組み込んだほうが統御しやすい、それは制度に組み込めるものにすぎない(という認識が重要だ)、という考え方が示されています。この根拠への反対もありうると思いますが、この先の議論は、これが議論の主題ではそもそもなかったことに加え、時間の制約があって展開されませんでした。

 T町駅前。
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 T町駅前のTリーズ。早めに着いて少し勉強しました。
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 この商店街を通り抜けると、会場の大学の正門近くの交差点に出ます。
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 ビルのあいだのT京タワー。
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@研究室
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by no828 | 2014-10-16 20:13 | 日日 | Comments(0)
2014年 10月 13日

そう言われると、次の言葉が出てこなかった——角岡伸彦『被差別部落の青春』

c0131823_1732038.jpg角岡伸彦『被差別部落の青春』講談社(講談社文庫)、2003年。22(845)


版元 → 
単行本は1999年に同社
著者の「角岡」は「かどおか」


 題名のとおり、被差別部落のルポルタージュ。解放教育、同和教育、人権教育については講義で取り上げることもあります。その勉強用の読書でもありました。教えなければ差別はなくならない、という意見と、教えなければ差別はなくなっていく(教えると差別をむしろ助長する)、という意見とに一般的には分けられます。政治的な事情はさておくとして、いずれも差別はよくないという基底は共有しながらも、その方法をめぐって対立点があります。あくまでも教育という立場、さらには教育学という構えにこだわったとき、そこから論理的にはどちらの立場が支持されるのかを考えますが、論理的には答えが出ないようにも感じています。


「ここはね、昭和四十年代に解放されたんですよ……」
 解放された? しかも二十年以上も前に? よくよく話を聞いてみるとこういうことだった。多くの部落、とりわけ都市にある部落では、住環境、就労、教育などにおいて部落外と著しい差があり、スラム的な様相を呈していた。部落の人々は生活改善の要求運動を起こし、国はその声に応え、同和対策事業を開始する。行政は事業を行う前に、どこが部落(行政では同和地区という)であるかを指定しなければならない。ところが私が訪れたこの部落は、「行政の援助は一切いらない。そのかわり同和地区指定をしないでほしい」と行政に要望したというのだ。福住職のいう「解放された」という言葉は、同和地区指定を固辞したことを意味していた。同和地区に定められた部落では、老朽住宅は団地型の改良住宅などに建て替えられることが多かったが、ここではそのような事業は行われてこなかった。
(11)

「だいたい教師は、部落の子は頑張れ、在日(韓国・朝鮮人)やから頑張れとか、思い入れが大きいいうかね。自分の意志で言うのはええけど、教師に言われて部落民宣言とか本名宣言とか、教師はそのときええかっこできるけど、本人は一生、それ背負て生きていかなあかんねんから。こんなん言うたらおかしいけど、わしは差別してきた人間やから、世の中の差別いうのはよう知っとるわけやね。そやからせんでええことはせんでええと。部落出身やと言うても得ないねんから。わしの現実論からしたら、損か得かで割り切った方がものすごいわかりやすい」(36)

 なぜいまどき、そんなことを気にするんだろう。相手が部落出身者であろうがそんなことは関係ないではないか。読者の多くはそう考えていることだろう。私だってそう思う。だが、手塩にかけて育ててくれた親や、小さなころからかわいがってくれたおじいちゃんやおばあちゃんが、部落出身者との結婚に対して否定的だったら……。身近な人に、部落出身者はやめといた方がいいよと言われたら……。場合によっては、そんなことは関係ない、と思っていた自分がもろくも崩れ去っていくこともある。(58)

「うちのおやじは平気でゼッケンつけて外歩いたりするわけよ。お母さんは、部落をあからさまにするのがいややねん。あたしは別の意味でダサイとか思うねん。弟はそういうの絶対ダメ。そういうのでも全然違ってくるから」
 以前、父親は私に「いつまで経ってもムラの中では入り人〔いりびと〕は入り人やねん」と語ったことがあった。入り人とは、部落に入って来た部落外の人という意味である。父親は部落に住んで三十年近くになるが、いまだに「よそ者」として見られるのを感じるという。意外にもきわめて身近な家庭という場で、そう感じている人間がいたわけである。
父親は部落問題でしんどなったらフェイドアウト(次第に消えること)できるもん。あたしはひとつしか道はないやん。お父さんはふたつ道があるんやって、あたしちっちゃいときからずっと思っててん。そやし好きなことできんねって。あたしはどこまでも母親の味方やねん
 家族の中でもお父さんは別――。裏返していえば、逃げることができない立場を、文輝は自覚している。
(38)

 結婚までの長い道のりを振り返り、道子は途中から自分が“選択される側”であることを痛感していた。
「博さんにとっては、親と私のどっちを取るかという状況やったけど、私を取って親を犠牲にするんも酷やんか。どっち取っても私は責められへん。だから『どっちを選ぶかは、あんた次第やで』って言うてた」
(67)

 でもな、奈良市内で部落の子と朝鮮の子と仲が悪かってん。お互いケンカするねんけど、あたし、どっちの味方にもなれないとこがあんねん。友達になりたいのに、なんでケンカせんならんのかな、と思てた。高校に朝高狩りで有名な先輩がおって、バリッバリッのムラの子やねん。あたし半分ムラの子やんか。敵にしてるのが朝高の子やんか。つらいなぁ思た。兄貴の友達にも、あたしの友達にも朝高の子もいてたから。(106)

「その人とたまに同和の話が出るんや。『お前らは、わしらの仕事を食い物にして』とわたしが言うたら相手は『お前らこそ、同和や同和やいうて道や施設つくったりしとるがな。逆差別やで』と言い返してきよる。そういう話を得意先でできるようになってきた。なんせこれまでそういう話ができる状態とちゃうかった。差別はあかんと言われて頭から押さえつけられて、同和問題についてはあたらずさわらず、というのがこれまでやったからな」(169)

「部落であるかないかは、他人が決めることや」
 差別する側が部落民を規定する、というのが一郎の考え方である。
(202)

 兵庫県のある公立高校が九七年(平成九年)に全校生徒九四九人を対象に行った調査によると、部落差別の存在を誰から聞いたか、という質問に対して「先生」と答えた者が八三・三パーセントと最も多く、「親」(五・七パーセント)、「友達」(二・八パーセント)を大きく引き離している。また大阪府内の府立高校一年生八七〇人を対象にしたアンケート調査(九八年)でも、部落や同和地区があることを誰から知ったかという質問に対して、「先生」と答えた者が七四・七パーセントを占めている。先生の次には「父母や家族」(一〇・一パーセント)、「友人」(三・一パーセント)と続き、兵庫県の高校と同じ順序になっている。
 これらの統計を見る限り、部落問題を学ぶ同和教育が行われている地域では、部落や部落差別の存在を学校教育の中で知ることが圧倒的に多いといえる。最初に部落問題と出会う場が学校であるという事実は、ある意味で驚くべきことだが、学校教育が部落問題に大きくかかわっていることはまぎれもない事実である。
 部落問題の解決を目的とする学校・社会教育を同和教育という。同和教育は一九五〇年代に部落の子供たちの長欠・不就学が問題化されたことから取り組みが始まった。六〇年代には学力・進路保障、非行問題の解決が加わり、八〇年代には、部落問題の解決には正しい知識を広げることも必要だとして、部落外の子供や大人たちにも対象は広がった。
部落外への取り組みは、差別する側をこそ変える必要があるという声が高まったことに加えて、同和対策事業による部落外のねたみ意識が目立つようになった、などの背景があった。〔略〕
差別は自然にはなくなりません。これは断言します。〔略〕寝た子を起こさずにそうっとしておけば部落差別はなくなるんだという意見の方がいらっしゃいますが、そんな甘いもんだったら差別はなくなってます。〔略〕」〔略〕
部落差別は誰から教えられるかというと親、きょうだい、おじいちゃん、おばあちゃん、いわゆる身内じゃないですか。親が子供に教えていくとずっと残っていく。それに対抗するとすれば学校の教育しかない。大人になってからじゃ遅いですよ。幼稚園ぐらいでもいいからきちっとした同和教育を、できれば部落出身の先生が教えていかないと差別はなくならんのじゃないかと思いますね」
(230-2)

 田中が初めて自分が部落出身であることを知ったのは、小学校の高学年のときだった。自分が住んでいる地域を指して友達が「ガラが悪い」「あそこは違う」「悪い人間ばっかり」と噂していた。なんでそんなこと言われるんやろ? 不思議に思い、母親に尋ねた。ここは部落と呼ばれる地域で、悲しいけど私らは就きたい仕事にも就けない、部落外の人とも結婚できないんや、と母親は言った。
「そんなんやったら私を産んでくれなくてもよかったのに……」
 口をついて出た言葉に、母親の目から涙がこぼれ落ちた。
(236-7)

 宮本がクラブ活動〔部落問題研究会〕をする上で悩んだのは部落出身者ではないという立場だった。
一回生のころは出身者じゃないというコンプレックスがありましたね。立場を問われんで済みますから、なんぼ出身者やったら楽やったかと思ったこともありました
 部落出身者が出自にコンプレックスをもつことはあるが、宮本の場合、その逆である。振り子が端から端に揺れるように、部落問題は部落の側の問題であると思っていた高校時代から一転し、いかに部落の立場に立つかが課題となった。一緒に活動しよう、部落差別に反対しようと学内の出身学生に声をかけるが言い返された。
あんたは部落の実態を知っているのか
自分の思いは出身者以外にはわからない
出身者じゃないからクラブやれるんや
 そう言われると、次の言葉が出てこなかった。
(258) 

 この構造、この引け目。

@研究室
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by no828 | 2014-10-13 17:50 | 人+本=体 | Comments(0)
2014年 10月 10日

夕方の空を横切る雲

 朝から研究室です。午前中は勉強・研究。昨日購入した「エルサルバドル」を挽いて4杯分のコーヒーを抽出。大きめのマグカップで2杯分ずつ2回に分けて午前中に飲むのが朝から研究室に居られるときのいつものパターンです。

 研究室で昼食を摂ったあと、ループを通り、大学会館近くのATMで現金の引き出し。出講のための交通費が嵩みます。講義期間中は定期的に現金を確保しておく必要があります。非常勤なので、定期ではありません。もちろん持ち出しというわけではなく、1カ月遅れで入金される大学がほとんどではあるのですが、Y浜キャンパスとは名付けられているものの最寄駅はT塚なのだからT塚キャンパスが誠実なのではないかと思わないでもない、の大学は半期すべてが終了してから出講分がまとめて振り込まれます(給与は月ごと)。1回の往復でたしか4,000円弱になりますので、結構な額です。

 大学会館書籍部で東京大学出版会の雑誌『UP』を入手。研究室に戻って来週の講義のハンドアウトの作成など。ハンドアウトは1コマ分を完成とし、全体の4/5が終了。この週末に何とか時間を確保してあと1コマ分を作る必要があります。

 夕方の空を横切る雲
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 今日は曇っている時間が長く、ATMの行き帰りの空の具合は一様でありました。しかし夕方、窓を開けたら、この空でした。

@研究室
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by no828 | 2014-10-10 20:48 | 日日 | Comments(0)
2014年 10月 09日

17時すぎに4階の窓を開けたら空

 昨夜は研究室を出たのが23時となりました。19時から読書会(雑談、皆既月食観察のための外出を含む)をはじめ、22時すぎに終了。ハイデガー『存在と時間』和訳最終巻である第4巻目に突入しました。そのあと仕事のメールを打ってから退室。

 今日は朝から研究室。コーヒー豆が本日午前分で終了。お昼はコーヒー豆を購入するついでに外食。今回のコーヒー豆は「ブラジル」と「エルサルバドル」。豆を買うと無料でサービスとなるドリンクは今回もアイスラテ(シロップ入り)。

 夕方、仕事のメールの作成、総合科目の件でK澤先生とTAのO澤さんと打ち合わせ、大学中央図書館で予約しておいた本の借り出し、来週の講義のハンドアウトの作成、と続きました。

 ハンドアウトは、先週の台風のために休講となった分の持ち越しを含め、3/5コマ分が完成しました。後期は5コマです。ハンドアウトは、学生が講義の終わりに書いたA5版のリアクションペーパーというか質問用紙というかを読み、よい質問、よいコメントを書き出してA3版にまとめたものです。これを次の週に学生全員へ配布します。後期の学生総数は約300人(目下の内訳は、115人、94人、52人、52人、4人)です。300人分を読むのは正直なところなかなか大変ではありますが、講義に出る意義のひとつは、同じ講義に出た学生同士が互いの考えを知るところにある、と思うに至り、こうした形式を採用しています。わたしはわたしの講じる授業へ学生には出てほしいと思いながらも、大学は講義ばかりでもない、とも思っています。学生の頃、わたしは講義に出て勉強するほうでしたが、「つまらない授業には出ない」と言って自分で勉強し、試験を受け、単位をきちんと取得していた友人もいました。この辺り、考えをまだ確立できていません。大学における講義とは——わたしにとって——何なのか、考えが定まりきらないところがあります。

 体育館の屋根の上
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 K棟 → F棟
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@研究室
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by no828 | 2014-10-09 21:10 | 日日 | Comments(0)
2014年 10月 06日

台風過ぎ去りし空と置き去りし水

 台風18号。出講先は2大学とも休講。1大学は昨夜の判断・周知、もう1大学は今朝の判断・周知。11時30分くらいまで暴雨、14時くらいまで暴風強風。午後の天気は概ね回復。後出しになりますが、5限の講義は可能であったかもしれないとの思いもあります。が、休講となったことにより、余裕のある月曜日となりました。

 以下、夕方に眠くなってきたので散歩に出たときの写真です。写真はあいほんによるものです。縦に撮影した写真はこのフォームだとうまく収まらず、ここに収めるには横にしたほうがよいようです。また、このサイズ(中)ですと、br clear=allを<>で挟んだタグを使わなくても、きれいに整列させられるようです。(追記 大きな画面で閲覧すると並びが乱れるおそれがあるかもしれないと思うに至り、タグを挿入しました。)

 K棟の池を挟んだ向かいの建物
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 F棟
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 水面に映る木々、一見すると池、実は冠水した駐車場
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 いわゆる“一の矢高速”入り口の電波塔
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 影で区切られた芝生
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 雲と月
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 研究室の雨漏り
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 研究室の雨漏り2
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 昨夜22時くらいに帰宅しようとしたら、天井裏で“ポツポツ”と音がしました。これはもしかしたらと思いまして、この下部を片づけ、ゴミ箱を置き、周辺に雑巾を敷いてから研究室を出ました。今日来ましたら、案の定。事務の方に報告しました。施設部の方かどなたかが対応してくれそうです。以前、この天井板(?)を張り替えていただいたのですが、それはこのパイプ周辺の天井板に染みが広がっていたからです。いまから思いますとその染みは雨水によるものでしょう。このパイプのなかを雨水が通るようで、その周辺に染みが広がったものと思われます。ということはこのパイプは雨樋ということになりますが、これは室内に設置しないほうがよろしいでしょう。

@研究室
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by no828 | 2014-10-06 20:35 | 日日 | Comments(0)