思索の森と空の群青

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2015年 02月 20日

それなのに、死ぬという恐ろしさは消えない。どうしたらいいのだろうね——宇江佐真理『ひとつ灯せ』

c0131823_1824826.jpg宇江佐真理『ひとつ灯せ——大江戸怪奇譚』文藝春秋(文春文庫)、2010年。66(889)

 
 版元 文庫書き下ろし(たぶん)

 まだまだです。 → 


 時代小説。人が集まって怖い話をし合うという物語(そのまますぎる説明)。帯にもありますが、「百物語」です。以下のような事情により生きることへ弱気になった友人をその集まりに誘うところから話ははじまります。


倅に店は渡したし、跡継ぎの孫もできた。もう思い残すことはないはずだ。それなのに、死ぬという恐ろしさは消えない。どうしたらいいのだろうね。恐ろしさがなくなれば、わしは明日死んでもいいのだよ
 清兵衛は声を励まして続けた。その声も弱々しく掠れてきた。
「お前さんが急に具合が悪くなったのは、そのせいかい」
(13)


@研究室
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by no828 | 2015-02-20 18:10 | 人+本=体 | Comments(0)
2015年 02月 19日

引用なし——宇江佐真理『今日を刻む時計』

c0131823_17164068.jpg宇江佐真理『今日を刻む時計——髪結い伊三次捕物余話』文藝春秋(文春文庫)、2013年。65(888)


 版元1 版元2 単行本は2010年に同春秋

 遅々とは進んでいます。→ 


 引用なし。

 伊三次とお文のあいだに新たに娘のお吉が生まれ、長男の伊与太は絵師の修業のために家を離れていました。ん? というのが読みはじめたときの感覚でした。話の展開を理解するのにやや時間を要しました。このシリーズを定期的に読み進めているわけではないので、余計にです。


@研究室
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by no828 | 2015-02-19 17:21 | 人+本=体 | Comments(0)
2015年 02月 18日

間違った言挙げをすれば、その呪いが自分に跳ね返ってくると信じられていた——宇江佐真理『我、言挙げす』

c0131823_16151379.jpg宇江佐真理『我、言挙げす——髪結い伊三次捕物余話』文藝春秋(文春文庫)、2011年。64(887)


 単行本は2008年に同春秋
 版元1 版元2

 さらに続きます。→ 


 シリーズ第8弾のようです。たぶん順番に全部読んでいるはずです。伊三次は髪結いが本職ですが、同心の不破友之進(-龍之進父子)に「小者」として付いて“御用”のお務めもしています。この時代小説のは舞台は、解説の島内景二によると「彼らが呼吸しているのは、徳川十一代将軍家斉の文化(一八〇四〜一八)年間の空気である。次の元号の文政と合わせて文化文政時代と呼ばれ、江戸文化が爛熟の極みに達した」(301)そうです。

「言挙げ」とは、率直には“言葉にすること”であり、いまから見ればそれ自体は問題ないように思われますが、“言葉にすること”自体に呪力があると強く信じられてきた経緯もあり、重大なことと見なされました。本書によると、用例の最初は『古事記』だそうです。いまは逆に、それがなさすぎるのかもしれません。本書の「言挙げ」は、しかし“内部告発”といった意味合いで使われています。奉行所内での“内部告発”です。


「無頼派は世間の反感を買うことを承知で騒ぎを起こしましたが、へこ組はそうじゃない。もともと、自分達の行動が世間にどう思われるかなど頓着しない連中です。狭量と言おうか、世間知らずと言おうか。だが、お白州では素直に罪を認めております。やったことは確かにやったと。言い訳も取り繕うようなこともしませんでした。考えてみたら、奴等も気の毒な連中だと思います」〔略〕
「なぜですか。押し込みを働いたんですから、こうなったのは自業自得ですよ」
「それはそうですが、もの心ついた頃から、薩摩へこ組として修業させられてきたのです。よいか悪いかの判断もできず、ただひたすら武士道を全うすることだけを教えられた。その意味では、わたしも同じですよ。祖父も同心、父親も同心の家に育ち、ついには自分も同心となった。同心は下手人を捕らえるのが仕事です。そこに何んの疑いも持たなかった。仮に、仮にですよ。ぽーんとよその土地に放り出され、その土地の人々の価値観が同心を悪と見なしたとしたらどうでしょう
(45-6)

道を見失うな。事実をねじ曲げたままにしてはいかん。お前は同心となる男だ」(88)

「そうしますと、自分の意志をはっきりと言うこと言挙げになるのですね」
「その通りだ。しかし、神代の頃、言挙げは言葉の持つ呪力を働かせる行為であり、一種の呪いと解釈されておった。それで間違った言挙げをすれば、その呪いが自分に跳ね返ってくると信じられていた。倭建命が出くわした白い猪は神の使者ではなく、神そのものの化身だったのだ。間違った言挙げをした倭建命は山の神の怒りを買い、激しい氷雨を降らされた。そのために疲れ苦しみ、とうとう命を落とす羽目となったのだ」〔略〕「当時、その話をおぬし達に語って聞かせたのは、倭建命を例に取り、慢心は悪い結果をもたらすものだから、心して発言せよと注意を促したつもりだったのだ」
(261)

「それがしは不破殿のように分をわきまえた行動ができぬ男でござる。一度袖の下を受け取れば、きっと次も期待する。仕舞いにはこちらから、あからさまに要求する男でござる。それがしは、そういう己れを恐れておっただけのこと」
「ご自分を戒められていたのですね」
「さよう。昔、大名家から金を受け取っていた与力と当時のお奉行を、それがしが諌めた話はお父上からお聞きになっていることでござろう。与力とお奉行に己れのなれの果ての姿を見た思いがしたのでござる。だから許せなかったのだ」
「それで言挙げをなさった……」
「よい言葉をご存じだの。いかにもその通りでござる」
 精右衛門はようやく表情を和らげた。
「帯刀さんのお気持ち、拙者、よっく得心できました」
「おぬしは、それがしの気持ちがわかると言われるのか」
 精右衛門は感心したように訊いた。
「はい。それこそ武士の武士たるものだと思いまする。拙者も帯刀さんを見習って、無用な袖の下は受け取らないように致します」
「それがしの気持ちをわかってくれたのは、龍之進殿、おぬしが初めてでござる。それがしも胸のつかえが取れましたぞ。したが、むやみに言挙げをなさるのは慎みなされ。それがしの二の舞でござるからの
(285-6)

 精右衛門は“内部告発”をして、“干された”のです。

@研究室
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by no828 | 2015-02-18 16:25 | 人+本=体 | Comments(0)
2015年 02月 17日

文学はすたれた。しかし、文学書はすたれない——紀田順一郎『古書収集十番勝負』

c0131823_15502735.jpg紀田順一郎『古書収集十番勝負』東京創元社(創元推理文庫)、2000年。63(886)


 1991年刊『魔術的な急斜面』改題
 版元 

 さらに続きます。→ 


 老舗古本屋を誰に継がせるか、というところで本書タイトルが出てきます。長女の婿と次女の婿のいずれもがこの古本屋の店員で、そのどちらに継がせるか、という話です。大学教授も出てきて、あるいは時代に制約されるのか個人の問題なのかわかりませんが、大学と古書店との関係の一端が(もしかしたら歪んだかたちで)見えます。

 192ページ「ご高承のほどお願い申しあげます」。「ご高承をいただく」は、相手から承諾を得るという意味の丁寧な表現のようです。これまで「ご諒解くださいますようお願いいたします」のように書いてきましたが、これからは「ご高承」も使ってみましょう。

 241ページ「韓信が股」というのが出てきます。相手の股を潜るということですが、意味は「大志ある者は目前の恥を耐え忍ばなければならぬ」。


 文学はすたれた。古本屋がそういっているのだから、間違いない。理由はわからないが、なにか深い事情がありそうだ。
 文学はすたれた。しかし、文学書はすたれない。はなはだ奇妙な現象に思えるが、それを立証できるのは新刊書店でなく、古本屋なのである。新刊では見向きもされなかった文学が、古本では定価以上の値がついて、ものによっては奪い合いとなる。のみならず収集の対象となる。
(112)


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by no828 | 2015-02-17 15:52 | 人+本=体 | Comments(0)
2015年 02月 15日

本の場合は本に書かれることが目的だし、それを保存することが目的でもある——碧野圭『書店ガール2』

c0131823_19171315.jpg碧野圭『書店ガール2——最強のふたり』PHP研究所(PHP文芸文庫)、2013年。62(885)


 文庫書き下ろし 版元1 版元2

 まだまだあります。→ 


『書店ガール』の続編。吉祥寺の大手チェーン書店へ転職した理子と亜紀。理子の働き方とともに、亜紀の妊娠が軸。書店の裏側が見えてきます。どうやってリアル書店を盛り上げるか、とか。


 本屋大賞は全国書店員の投票で決まる。だから、選考委員が話し合って決める賞と異なり、発表の何日も前に投票結果は出ている。投票に参加した書店員や受賞作の版元には、その結果が事前に知らされていた。大賞作品を発表後、すぐに売り場で大賞作品を大きく展開するためには、品切れにならないように増刷を掛けたり、注文した全国の書店にいきわたらせるための時間が必要だからだ。書店のセールスに直結させることが目的の賞だから、そのあたりは徹底されている。
 しかし、それは一般の人には話すべきことではない。
(7-8)

「その点、保育園はいいよ。保育士さんは一年二年の単位で継続的に子供を見てくれるし、いろいろアドバイスもしてくれる。それでいて、こちらの生活にずけずけ入り込んできたりはしないし
 情とか好意とかあてにならないものにすがるより、ビジネスとして子供に関わってくれる人の方が楽だ。プロの保育士に預ける方が安心だ。それは経験がなくてもわかる気がする。
「それに、同じ保育園に預けている母親仲間っていうのもすごくいいよ。立場が同じだからいろいろわかり合えることも多いし、お互い忙しいから無駄なおつきあいとかしなくていいし。私の場合は保育園に預けることで孤独な育児から解放された。育児の悩みがぐんと楽になったよ。子供とも適度な関係になれた、と思う。私に言わせれば、子供が小さい時こそ保育園に預けた方がいい。孤独な育児に悩んでうじうじするくらいなら、そっちの方が絶対安心だよ」
(105-6)
「やっぱり私、仕事続けたいって思うんですよね。だから、こういう本を読んで、理論武装したいと思うんです。一度きりの人生だから後悔したくないし。夫には欲張りだって言われるけど、子供のために自分を犠牲にしたくない。そんなことすると、あとで子供を恨むことになりそうで嫌なんです」〔略〕
「だけど、逆に子供に恨まれるかもしれないわよ
「えっ?」
大事な時に、おかあさんは居てくれなかった。いつも寂しい思いをさせられていた。おかあさんは自分の好きなことばっかりやって、私のことなんかちっとも大事じゃない。そういう言葉を子供からぶつけられるかもしれない
(111-2)

「それに、音楽の場合は、レコードが古いといってもせいぜい百五十年。CDで三十年。いまはデータ配信が主流になっているけど、これも最後の形態かどうか。これは僕なりの解釈なんですけど、音楽は本来はナマで演奏されるのが最高の形だと思うんです。レコードにしろデータ配信にしろ、それを再現する手段でしかない。だけど、本の場合は本に書かれることが目的だし、それを保存することが目的でもあるんです。そういう意味でもやはり本は完成形だと思うんです(185)

「結婚パーティの引き出物?」〔略〕
「それに香典返しも。そういう形でもらったら、もったいないからみんな、本屋に行くだろう?」
「ああ、いいですね。それを書店業界に関わる全員がやったら、結構いいんじゃない? 冠婚葬祭のお返しは図書カード。出産祝いも進学祝いも図書カード。お中元もお歳暮も図書カード。パーティの記念品もビンゴの景品も図書カード
(188)

 個人的には、お年玉は図書カード、を予定しています。

 もしかしたら、こういう関係性は昔の商店街に似ているかもしれないな。
 理子はふっとそんなことを思った。同じ場所で商売しているから、お互いが繁盛することがそれぞれの利益になる。客が客を連れてくるからだ。異業種だから競い合うこともない。それぞれのやり方で、場の繁栄を図るのだ。
 小売店の商売の在り方が変わっても、店舗を持って商売する以上、そうした関係性が必要なのかもしれない。
(192)

「ここにいるみなさんは、それぞれ書店というフィールドで闘っている。その敵は何か。ネットショップとかコンビニとか新古書店とか電子書籍とか、我々を脅かすものはいろいろあるけど、一番の敵は本に対する無関心さだと思う。本を読むことが面白い、本屋に行くことが楽しい、そういう想いを人々が失ったら、私たちの仕事はお終いだ、そう思うんです」(268)


@研究室
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by no828 | 2015-02-15 19:27 | 人+本=体 | Comments(0)
2015年 02月 14日

残念乍ら美学を含めた人文学はちっとも進歩しない所に特徴がある——奥泉光『『吾輩は猫である』殺人事件』

c0131823_18512521.jpg奥泉光『『吾輩は猫である』殺人事件』新潮社(新潮文庫)、1999年。61(884)


 版元 ただし電子書籍
 単行本は1996年に(たぶん)同社
 先はまだまだ長いです。写真の範囲に入ってきました。→ 


 舞台は『吾輩は猫である』の時代の上海。この「猫」が主人公で、殺されたのは「苦沙弥先生」です。全616ページ。

 375ページに「馬尻」とあって「バケツ」とルビが振ってあります。また、573ページに「亀毛兎角」とあります。“ありえないもの”を指すようです。亀に毛はなく、兎に角はない。
 すると「兎に角(とにかく)」や「兎角(とかく)」の由来・原意の説明はどうなるのでしょう。「結局」のようなニュアンスがあります。

 自分にはロマン主義的要素が(強く)含まれていると思いました。ロマン主義の問題点もあるとは思い、それがどういう問題点であるかも(少なくとも部分的には)理解・自覚しているつもりではあります。

 学問に関する記述もあり、興味深く読みました。ユーモアのある文章です。


「それに何だか虚しくなって仕舞ってね」
「何が虚しいのだろうか」
「君は先だっての日露の戦争でどれだけの人が死んだか知って居るかい」と虎君は意想外の事を云う。
「何人位だろう」
日本人の死者が二十万、露西亜が三十万さ。計五十万の人間が戦場の露と消えた計算になる。然し本当に夫程の数の人間が死ぬ必要があったのだろうか
戦争なんだから仕方がないのだろう
そう云ってよいのだろうか。戦争は国家がするものだ。果して国家にはそれ程の犠牲を人に強いる権利があるのだろうか
(111)

「私の知って居る或る男抔は、子供の時分に父親を殺したならず者を探し廻って居る裡に白頭白髯の老人になって仕舞った。そうして愈死の床に就て、神父が呼ばれて見ると、何と此神父こそが憎むべき仇だったのさ。互いに人生の巡り合わせに感嘆して、神父の方も既に身寄りのない爺さんだったから、是非殺して貰いたいと願ったら、男は貴公の御蔭で人生を充実させて貰って有り難かったと涙を浮かべて感謝したそうだ」(274)

と云うのも吾輩は勇気と同時に謙譲の美徳を備えた君子的猫である。従ってわざと勇気を誇示して世間にひけらかす抔は遠慮が勝って出来にくい面がある。ロシュフコーとか云う仏蘭西の著述家も、真の勇気は目撃者のいない場合に示されると云って居る。とすれば諸猫が吾輩の行動を見守る現今の状況は吾輩が勇気を発揮すべき所ではない。勇気を発揮したいのは山々なれど、見え透いた真似をするのは吾輩の自恃が許さぬ。考えれば君子とは不自由なものだ。(300-1)

 凡そ浪漫的なる事とは遠くから憧れる所に其本質はある。絶対に手の届き得ぬ存在へ憧憬の視線を投げ、決定的に失われし者を空想の裡に取り戻す所に浪漫はある。幻と知りながら其幻を愛し切る精神こそが正しく浪漫的と呼ばれるにふさわしい。とすれば吾輩の為すべきは、三毛子なる美の理念を脳裏に思い描き、以て清澄なるエーテルの大気中に其理念と一体と化す事である。美しい花を愛でるのではなく、花の美しさを身を焦がす迄に愛し尽くすこそが吾輩に残された事業である。そう云えば昔、ノバーリスと云う独逸の詩人が婚約者の墓前で吾輩と似たような心境になったと聞いた事があるが、誰も考える事は一緒と見える。そうである。吾輩には三毛子の面影がある。決して滅びる事も傷つく事もなく、変らぬ輝きを放ち続ける三毛子のイメジがある。此貴重な宝を生涯に亘って愛し抜こう。左様に決意して見れば、失意の暗黒に一条の光が差し込んだ様な気がして、吾輩はほんの僅か丈元気を回復した。(336-7)

「まして国家転覆を企む様な気力も無い。だいいち国家を転覆したところで住んでいる人間は同じなのだからね。相変わらず馬鹿を相手にしなければならない。教育したって人間の本性はそうそう〔*〕変るもんじゃない。新島や福沢はしきりに教育を云うが、僕は啓蒙家になる程親切でも暇でもないからね。それで別個に国を作ろうと思った次第さ(350)
* 2度目の「そう」は原文では「く」を縦に延ばしたようなあれ

「君は本当の事と云う概念を如何なる意味で用いて居るのかね」と再び将軍が教師然とした調子で云う。「確認して置くが、儂が先刻より述べて居るのは飽くまで仮説である。そも推理競争と云う趣向は、各々の仮説の優劣を競うのではないのかね。科学的仮説の優劣とは『本当の事』抔とは関係ない。現象をどれだけ広範囲に、論理の矛盾なく説明出来るのか、其有効性を以て測られるとは科学論のいろはである。従って儂は自分の推理が本当の事だ抔とは全然主張しない。只現象の説明能力に於て優れて居るのを誇る許りだ。本当の事を仮に真理ととるならば、慥かに真理は一個だろうが、究極の真理を知り得るのは神丈だ。有限性に止まる人間や猫に許された事は、仮説に仮説を重ねて唯一の真理に接近して行く無限の運動丈なのだ。其意味では神ならぬ身である我々にとっては、真理は常に複数あると知るべきだ」(419-20)

「そんな事じゃ済まないさ。犠牲、犠牲と君は平気で云うが、そんなに簡単なものじゃない。まず第一からが、実際死ぬのは革命を志す者丈じゃないのだからね(466)

「つまり君の発明が悪用されたりする事が心配になる事はないのだろうか」
「悪用と云うと」
例えば君の発明が戦争に応用されて、何千、何万の人間を一遍に殺したら寐覚めが悪いんじゃないかね
そんな事を気にしていては科学の進歩発展は到底望めやしませんや
(534)

「いいですか、先生。私が思うに、美学を含め人文の学問とは人間の幸福について考える学問だと思われます。先程科学の応用の話が出ましたが、科学を如何に人間の幸せに使うか探究するのが、是からの人文学の主な課題になる筈です。である以上自然科学の進展に歩調を合わせて諸学問にも進歩して貰う必要があります
「そう云うがね、残念乍ら美学を含めた人文学はちっとも進歩しない所に特徴があるのだ。考えてもみたまえ。ソクラチスの時代に較べて我々は少しでも進歩があるかね。あるいは仏陀や基督より偉い人物が其後出ただろうか。ニーチェも云う様に、希臘の哲学から較べたら現代の哲学は寧ろ後退している位だ。だいたい学問の対象たる人間が古来から変って居らんのだから、人間に関する学問が進歩しないのは理の当然だ」
(536)


@研究室
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by no828 | 2015-02-14 19:06 | 人+本=体 | Comments(0)
2015年 02月 13日

自分たちが物を知らない、ということを疑う人がどんどんいなくなってしまった——養老孟司『バカの壁』

c0131823_18193836.jpg養老孟司『バカの壁』新潮社(新潮新書)、2003年。60(883)


 版元
 先は長いです。→ 


 いまさら——と言っても昨年ですが、と言っても十分遅いですが——読みました。売れた本はすぐには読まない、という態度に出てしまいます。2003年4月10日発行、わたしの手元にあるのは「2003年7月5日 13刷」です。売れた本です。

 期せずして教育に関する記述を、具体的には“反面教師”に関わる講義内容を豊かにするような記述を、読むことができました。“反面教師”について言及する講義は、経験的に、比較的に、学生の反応が強いです(あとは「愛」について)。


 バカの壁というのは、ある種、一元論に起因するという面があるわけです。バカにとっては、壁の内側だけが世界で、向こう側が見えない。向こう側が存在しているということすらわかっていなかったりする。
 本書で度々、「人は変わる」ということを強調してきたのも、一元論を否定したいという意図からでした。今の一元論の根本には、「自分は変わらない」という根拠の無い思い込みがある。
(194)


 この「共同体」をどの範囲に想定するか。
 何か借りがあれば恩義を返す。そこには明らかに意味がある。教育ということの根本もそこにあって、人間は育てることで、自分を育ててくれた共同体に真っ当な人間を送り出す、ということです。そしてそれは、基本的には無償の行為なのです。(112)

 反面教師になってもいい、嫌われてもいい、という信念が先生にない。なぜそうなったのか。今の教育というのは、子供そのものを考えているのではなくて、先生方は教頭の顔を見たり、校長の顔を見たり、PTAの顔を見たり、教育委員会の顔を見たり、果ては文部科学省の顔を見ている。子供に顔が向いていないということでしょう。
 よく言われることですが、サラリーマンになってしまっているわけです。サラリーマンというのは、給料の出所に忠実な人であって、仕事に忠実なのではない。職人というのは、仕事に忠実じゃないと食えない。自分の作る作品に対して責任を持たなくてはいけない。
 ところが、教育の結果の生徒は作品であるという意識が無くなった。
(160)

 そもそも教育というのは本来、自分自身が生きていることに夢を持っている教師じゃないと出来ないはずです。突き詰めて言えば、「おまえたち、俺を見習え」という話なのですから。要するに、自分を真似ろと言っているわけです。それでは自分を真似ろというほど立派に生きている教師がどれだけいるのか。結局のところ、たかだか教師になる方法を教えられるだけじゃないのか。
 そういう意味で、教育というのはなかなか矛盾した行為なのです。だから、俺を見習えというのが無理なら、せめて、好きなことのある教師で、それが子供に伝わる、という風にはあるべきです。
(164)

学問というのは、生きているもの、万物流転するものをいかに情報という変わらないものに換えるかという作業です。それが本当の学問です。(164)


結局われわれは、自分の脳に入ることしか理解できない。つまり学問が最終的に突き当たる壁は、自分の脳だ(4)

そうした複数の解を認める社会が私が考える住みよい社会です。(5)

 ところが、現代においては、そこまで自分たちが物を知らない、ということを疑う人がどんどんいなくなってしまった。〔略〕
 しかし、テレビや新聞を通して一定の情報を得ただけの私たちにはわかりようもないことが沢山あるはずです。その場にいた人の感覚、恐怖だって、テレビ経由のそれとはまったく違う。にもかかわらず、ニュースを見ただけで、あの日に起きた出来事について何事かがわかったかのような気でいる。そこに怖さがあるのです。
(19-20)

 進化論を例にとれば、「自然選択説」の危ういところも、反証が出来ないところです。「生き残った者が適者だ」と言っても、反証のしようがない。「選択されなかった種」は既に存在していないのですから。(26)

 要するに「求められる個性」を発揮しろという矛盾した要求が出されているのです。組織が期待するパターンの「個性」しか必要無いというのは随分おかしな話です。(46)

 繰り返しますが、本来、意識というのは共通性を徹底的に追求するものなのです。その共通性を徹底的に確保するために、言語の論理と文化、伝統がある。(48)

 先日、講演に行った際の話です。控室にいらっしゃった中年の男性が、「私は、君子豹変というのは悪口だと思っていました」と言っていた。もちろん、実際にはそうではありません。
君子豹変」とは「君子は過ちだと知れば、すぐに改め、善に移る」という意味です。では何故彼はそう勘違いしたか。「人間は変わらない」というのが、その人にとっての前提だからです。
 いきなり豹変するなんてとんでもない、と考えたわけです。現代人としては当然の捉え方かもしれません。
(57)

 知るということは、自分がガラッと変わることです。したがって、世界がまったく変わってしまう。見え方が変わってしまう。(60)

 そもそも文明の発達というのは、この首から下の運動を抑圧することでもある。つまり、足で歩く代わりに自動車が出てくるというのは、首から下の運動を抑えることなのです。(100)

 また、日本は葬儀の際、もともと土葬だったのが戦後、高度成長期に一斉に火葬に変わりました。江戸時代は火事が起きるというので火葬は禁止だった。(101)

 そうした著書や講演のなかで、彼〔V・E・フランクル〕は、一貫して「人生の意味」について論じていました。そして、「意味は外部にある」と言っている。「自己実現」などといいますが、自分が何かを実現する場は外部にしか存在しない。より噛み砕いていえば、人生の意味は自分だけで完結するものではなく、常に周囲の人、社会との関係から生まれる、ということです。とすれば、日常生活において、意味を見出せる場はまさに共同体でしかない。(109-10)

 では、利口、バカを何で測るかといえば、結局、これは社会的適応性でしか測れない。例えば、言語能力の高さといったことです。(126)

 私が教養学部の学生のときに赤線が廃止になった。廃止になったその日に、今日で赤線が終わってしまう、というのが教室の話題になっていた。要するに、どういうものであるかというのを自分で体験してみようというのがあった。
 良し悪しはともなく、そうした類の好奇心は当然あったのです。〔略〕己の日常とは別の世界を見て自分で何か考える。こういう姿勢が当たり前だったように思います。
(169)


@研究室
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by no828 | 2015-02-13 18:33 | 人+本=体 | Comments(0)
2015年 02月 12日

この世の出来事はすべて繫がっていて、どこかで苦を引き起こす——鯨統一郎『タイムスリップ釈迦如来』

c0131823_18415620.jpg鯨統一郎『タイムスリップ釈迦如来』講談社(講談社文庫)、2008年。59(882)


 版元 
 単行本は2005年に同社

 先はなかなかに長いです。→ 


 今度は、「ダイビング更生施設」の先生・吉野と一緒に、紀元前インドにタイムスリップした女子高生の麓麗(ふもと・うらら)。現代に戻るためにゴータマ・シッダルタと「仏教」を作り上げていきます。

 後半、ゴータマ・シッダルタ一派はソクラテスと議論します(え?)。ソクラテス解釈がこれでよいのか、読み手であるわたしが試されているような感覚になりました。輪廻転生? もちろん、仏教解釈も同様に問われている感覚にはなったのですが、その感覚はソクラテスに顕著でした。自分が強く意識している事柄ほど、問いとして、あるいは逆に答えとして、引き受けることになるようです。

 仏教に関する記述は、読了して現在レビュー待ち状態にある上田紀行『ダライ・ラマとの対話』(講談社(講談社文庫)、2010年)の内容を“想起”させました。


 健全な躰に健全な魂が宿る。よく言われることだ。しかしこの言葉の真の意味はむしろ逆で、躰の頑丈な人間は粗野な性格の者が多いから、健全な躰を持った者は健全な魂を持つように努めなさいという戒めの言葉だという説が五木寛之の『青春の門』筑豊篇に書かれていたことをダイバダッタは思いだしていた。(135)

ワタシたちはバラモン教から自由になったのです。仏教においては人は生まれによって差別されません。人はその行為によって差別されるべきです(144)

 もしかしたら老子というのは世間を欺く仮の名で、本来の意味は聾子ではないのか。孔子が老子のことを「龍のような人だ」と言ったのも「聾の人」と言ったのが誤って伝えられたのかもしれない。(216)

 仏教もソクラテス哲学も“よりよく生きる”ことを追求するという点では同じなのだ。
 だが……
 決定的な違いもある。
 仏教は輪廻転生からの脱却を命題としているが、ソクラテスは輪廻転生を永遠の前提としている点である。
(222-3)

〔ソクラテスは〕死刑判決を受けてしまうのだが、彼は気にしなかった。それはソクラテスにとって現世の自分の肉体は魂の仮の宿、という思いがあったからに他ならない。ソクラテスにとっては現世よりも来世(死後の世界)の方が大事だったのである。
 魂は永遠に輪廻し続けるもの、というソクラテスの思想は、輪廻からの脱却を目的とする仏教思想とは真正面から対立する。“この世はすべて苦である”という仏教の立場からは、輪廻し続けることは悪なのである。苦しみが長引くだけなのだから。
“輪廻=悪”という思想はバラモン教への反発から生まれたものだろう。
(241)

 ソクラテスが並はずれて健康なことはよく知られている。夏も冬も同じ一枚の衣服で通し、そのお陰かどうか、七十歳の時に子供を作ってもいる。もともと“ソクラテス”という名前は“健康な力”という意味だ。(236)

 ソクラテスが登場する以前の哲学は、自然(地、水、火、風など)が主な研究対象となっていた。そしてタレスは唱えた万物の根元は水であるという結論に人々は満足していた。
 ところが、ソクラテスが登場してからは哲学の研究対象は人間に移った。そこでソクラテスはアナクサゴラスという哲学者の示唆を受けたりなどして“万物の原因は精神である”という結論を得るのである。
(250)

心がなければ世界も存在しません。また、世界がなければ心は存在しません。故にこの二つは同時に生まれたのです
「それはいつの事だ」
「たった今です」
 シャーリーの答えにダイバダッタが驚いた。世界が生まれたのは遥か昔、ビッグ・バンの瞬間だと思っていたからだ。
世界がいつ生まれたのか。あなたがその疑問を持った瞬間、心が生まれ、世界が生まれたのです
(255)

「別の言い方をすれば、今は忘れているものを思い起こさせるのじゃ」
 ソクラテスはニヤリと笑った。
「前世の記憶をじゃよ」
 ついにソクラテスは核心に触れてきた。
産婆術の本当の意味はそこにある。人は新たに記憶を始めるのではなく、魂は永遠に生き続けてきた筈じゃから、魂の中にしまいこまれて忘れているものがある。それを想起させるのが産婆術じゃ
「人は輪廻の鎖を断ち切らなければなりません」
 シャーリーが反論する。
「なぜじゃ」
「この世は苦だからです」
(257)

 想起説。少なくとも教育に関わっての想起説は、輪廻転生からではなく、神から説明されていたように記憶しています。

「悟りとは何じゃ」
「執着を捨てることです」
生への執着を捨てれば死んでしまうわな
 ソクラテスの言葉にダイバダッタは焦った。今まで考えもしなかった、あまりにも根本的な仏教の弱点に思えたからだ。だがシャーリーは慌てていなかった。
死への執着を捨てれば生きてゆけます
(258-9)

世間のものはすべて縁起しています。だからこの世は苦なのです。あなたが鶏肉を食べれば鶏にとってはこの世の地獄です。あなたが結婚して独立すればあなたの親は寂しさを味わうでしょう。このようにこの世の出来事はすべて繫がっていて、どこかで苦を引き起こすのです
 ソクラテスは反応しない。
「この世の苦から逃れるにはすべての執着を捨て去る以外に道はないではありませんか」
(260-1)

 仏教とリスク社会論の共通認識?

@研究室
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by no828 | 2015-02-12 19:02 | 人+本=体 | Comments(0)
2015年 02月 11日

「助けてほしい」 なぜ、私にそう言ってこなかったのか——藤原章生『世界はフラットにもの悲しくて』

c0131823_1831225.jpg藤原章生『世界はフラットにもの悲しくて——特派員ノート1992-2014』テン・ブックス、2014年。58(881)


 版元


 著者は『絵はがきにされた少年』を書いた人です。わたしはこの本から衝撃と思考の契機を得ました。ちなみに、著者は毎日新聞社編集委員でもあります。

 副題の「ノート」に表現されているように、本書は文章が連ねられています。が、わたしは本書から詩的な印象を受けました。1つひとつの言葉に意味が濃密に詰め込まれ、行間の広い、想像力を喚起する、そんな文章が綴られています。目に入射してくるインクの染みをただ受け付けるのではなく、自ら読まなければなりません。

 わたしは、著者と同じように、同じくらい、言葉や書くことを身体の、意識の、その内奥から捉えられているでしょうか。

 しかし、政治的であること、理想を語ること、個別具体的なことを一緒くたにして語ること、の3つはすぐには等号では結ばれないように思います。著者の言う意味での「政治的」ではなく理想を語ることもできるのではないか、語らなければならないときもあるのではないか、とわたしは考えています。また、著者の強調点は、3番目の“個別具体的なことを一緒くたにして語ること”にあると思われます。それは、すぐ下の引用からもわかりますし、『絵はがきにされた少年』からもわかります。わたしはこの点を肝に銘じながら、それでもなお一般論のレベルで語りうること、語らなければならないことは語っておきたいと思います。


 私の言う「フラット」はネット環境が国境を壊す、というより、自分の頭の中にあったさまざまな境界、カテゴリー、自分の中にある無数の「世界」という枠が消えることを指す。
 対象をアフリカ、中南米、欧州、東京、福島と大きな枠でとらえようとするとときに大きな間違いを犯す。枠には常に先入観がつきまとう。
 枠の中には、数十年で生を閉じる幾多の個人が、特段その枠とは関係なく、個別にひしめいている。そんな砂粒のようにもの悲しい、小さな生を、その人の国籍や地位、所属、経歴にとらわれず私は見たかった。でも、何でも安易に理解したい、飲み下してさっぱりしたいがため、つい枠の方ばかりを見てしまう。大枠と個。二つの見方はその度合いを変えながら常にせめぎ合っている。
「世界はフラットに……」という言葉が浮かんだのは、個をとらえることに前以上に重みを感じる自分がいたからだろう。福島の人もローマの人も、リビアの人も、同じ地平で日々を生き、そこに特段の境目はない。
そんなことを改めて思ったからだ。
(7-8)

 タンザニアの都市住民の貧しさを描き出す映画『ダーウィンの悪夢』を見たとき、私は、「アフリカの同じような光景を何度も目にしながら、自分はこれほど悲惨な現実を描いてきただろうか」と反省した。そして、カメラではなくビデオを手に現場に行った方が、より現実を伝えられると思ったりもした。
 しかし、どうだろう。井伏鱒二のレベルにいかなくとも、もしかしたらこれから先、自分にも言葉がわき上がることがあるかもしれない。
(16-7)

 様々な人と出会い、わかったのは、ある人と友人になるかどうかは、その人物が背負っている人種や国籍、文化といった属性とは一切関係ないということ。そんなものは出身県か同窓の学校くらいの意味しかない。(127)

 些細なことからも何かを学ぼうとする姿勢が、自然に備わっている。
「年を取ると、若いときの感度はもうないよ」
 彼らの口から、そんな言葉は決して聞かれない。
(134)

 五人に一人の成人がエイズという環境では、それは結核みたいなものだ。タンタの家には少年たちがよく出入りしていた。タンタは暮らしていくため、体を売るなんてことしていたのだろうか。
 タンタはどんな風に逝ったのか。あのトタン屋根の家で母と娘に見守られ、静かに死んだのか。金があれば、エイズはかなり延命できる。おそらく薬も変えずに黙って逝ったのだ。
「助けてほしい」
 なぜ、私にそう言ってこなかったのか。住所も連絡先も知っていたのに。どうして、その一言が言えなかったのか。でも、言えるはずがない。それが言えないのがタンタなんだ。
(180)

人が物を書くのは、書けという内なる声に急かされる例が多い。書くことで自分を満たす。人に読んでもらうのは、あくまでも結果であり、本来の動機は別のところにある。
 一篇の詩を考えてみたらわかりやすい。突き詰めれば、それは自己表現であり、時間や環境、マーケットに左右されるものではない。
(186)

 自由な時間や評価への渇望が書かせるのではない。人が物を書く動機は、もっと別のところにある。(190)

 政治的なことがあまり好きではない。〔略〕政治的とは、つまり、もっともらしいことを人前でひけらかすことだ。理想を語る、あるいは絵に描いた餅、観念論とも言う。〔略〕
 例えば、こんな発言をよく聞く。
「私たちはアフリカを救わなくてはならない」
 これはとても政治的な言葉だ。なぜって、「アフリカ」という言葉があまりに漠然としているのに、一括りにしてわかった風な気分にさせるからだ。〔略〕なぜ、アフリカだけ、一括りにされるのか。
 それは、五十ヵ国もの国々、幾百、幾千の言語、民族という豊饒さを抱きながら、アフリカという地が、他の大陸の人々にとってさほど重要でないからだ。
 だから、「アフリカを……」という言い方には、注意した方がいい。そこには無知と思い込みがある。それでいて、何だか耳に心地よく、優等生の発言のように聞こえる。それが政治的、ということだ。
(260-3)

 以前、新聞社の宴席で聞いた言葉をよく思い出す。中東や欧米で特派員をつとめた人が途上国へ向かう記者へのはなむけにこう言った。
「特派員として出るなら第三世界がいい。紛争地や戦場の取材がどれだけ大変か、経験しなければ絶対にわからないから」
 言葉はじかに響いた。そして、私が見たものを彼も見たと瞬時にわかった。でも、本当に体験しなければわからないのか。極論を言えば、殺人者のことは人を殺さなければわからない、子を殺された親の感情は自分の子が殺されるまではわからないのか。
 ベトナム戦争で瀕死の体験をした作家、開高健は講演でこんな風に語った。

 戦場の感覚をどうしたら伝えられるか。ギリギリまでは言葉にできても、怒りや恐怖がないまぜとなった極限状態の自分にどうしても近づけない。それを書き切れないからこそ、戦場報道は繰り返され、戦争も繰り返される。もし戦場を書き切れば、ジャーナリズムも戦争もなくなる。
(300-1)

 いまなら断言できる。私はあらゆる暴力に反対なのだ。空爆であれ、メキシコの農民蜂起であれ、若者の反乱であれ、暴力は暴力だ。それで何かが達成されても、その過程で犬死にした軍人や警察官の方に私の心は傾く。サッカー選手は「サムライ」と呼ぶのも好きではない。侍は人を殺す。武道は自衛であっても、それは暴力を正当化する。(303)


@研究室
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by no828 | 2015-02-11 18:49 | 人+本=体 | Comments(0)
2015年 02月 09日

今は結構な値段するけど、そのうちまた値崩れして安くなるんじゃないの——奥泉光『モーダルな事象』

c0131823_19561420.jpg奥泉光『モーダルな事象——桑潟幸一助教授のスタイリッシュな生活』文藝春秋(文春文庫)、2008年。57(880)


 単行本は2005年に同春秋
 版元 


 クワコーこと桑潟幸一の“レータン”こと大阪は敷島学園麓華女子短期大学助教授時代のお話。わたしは桑潟幸一が千葉のたらちね国際大学へ移ったあとの時代から読みはじめたことになります。つまり、『桑潟幸一准教授のスタイリッシュな生活』、そして『黄色い水着の謎——桑潟幸一准教授のスタイリッシュな生活2』を先に読んだということです。「助教授」から「准教授」へと制度変更も反映されています。

 本書は、『日本近代文学者総覧』という(たぶん)学会の編纂する事典の項目執筆をすることになったクワコーが「溝口俊平」という当時はマイナーな人物を担当することになる、というところから展開していきます。

 169ページに「いとうけいこう×奥泉光「文学漫談」」というのが挿入されています。同様のパロディが217ページにもあります。「川崎氏は原稿を持って母校の遠畿大学まで行き、恩師である文芸評論家の鍋直美氏と、その同僚でやはり批評家の鮭秀実氏に意見を聞いたところ〔後略〕」という文章です。ははは。

 それから328ページ。「大岡昇平の『武蔵野夫人』」という部分がありますが、大岡昇平の「平」が平凡社の「平」、つまり「丷」が「八」になっているのですが、大岡昇平の「平」の正式な表記は「八」であったのでしょうか。


「もっとも地球では、いまのところ人間しかいない。あの頃は人間の命の値段は安かった。兵隊なんてただ同然。そういう人間はいまでも世界にはあるだろう? 日本じゃ今は結構な値段するけど、そのうちまた値崩れして安くなるんじゃないの(253)


@研究室
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by no828 | 2015-02-09 20:07 | 人+本=体 | Comments(0)