思索の森と空の群青

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2015年 03月 26日

幸せだった出来事を、なくしたものとして惜しんじゃだめよ——松浦理英子『親指Pの修業時代』

c0131823_2054041.jpg松浦理英子『親指Pの修業時代』(上・下)、河出書房新社(河出文庫)、1995年。80(903)


 版元(上巻) 版元(下巻)
 単行本は1993年に同新社
 * 画像はここから拝借

 むむむ → 


 左足の親指が突然ペニスになった女性が主人公。いうまでもなく、題目のPはそのPです。

 付き合っていた彼、盲目のピアニスト、性の見世もの一座。最初と最後がメタ物語の様相。おもしろかったです。


 私は冷淡に生まれついた人間なのだろうか。人は私の示す好意に満足しない。私の心からの好意は通じず、人はもっともっとと要求する。正夫も、そしておそらく瑤子も。私はまた人の好意を身悶えするほど欲した経験がない。いつでも人が自発的に与えてくれるだけの好意で充分満たされる。人がなぜ私のようではないのかという点こそ疑問である。(上. 62)

君と結婚できると思ってた。
そうだったわね。
本当に結婚したかったんだ。
私もよ。
 答えると、胸が痛んだ。正夫とうまく行っていた時期の和やかな気分が束の間甦る。しかし、思い出すことはできても、二度と同じ気分で正夫とつき合えないのは考えてみるまでもない。手にした受話器が重かった。
(上. 123)

 愛し愛されているという思いが性感を昂める。誰でも知っていることなのだろうか。しかし、私はこの間まで知らなかった。知ったからにはもう、好きでもない男との性行為はどんなものか戯れに考えようという気もなくなる。淫乱な人々はきっと心がインポテンツなのだ。性感も貧しいに違いない。それとも、愛情ではなく、私には想像のつかないようなテーマを頭に置いて性行為に燃えるのだろうか。私は昂奮に任せてそんなことにまで思いをめぐらせた。(上. 177)

近代人の病ね。愛がなければセックスができないなんて、そんな不自然なことがある? 愛とセックスを結びつけて欲望を抑えつけるなんて、それこそ不健全じゃない?」
「抑えつけてなんかいませんよ。あなたに欲望を感じないんです。」
(上. 203)

「映子さんにあんなに愛されていても、背負っているものは軽くならないんでしょうか?」
「愛されるとよけい屈折する場合もある。人に好きだと言われても信じきれなくて、絶えず相手の気持ちを確かめずにいられないっていう経験はないかい?
(下. 10)

「女についてたって、ペニスは男の印じゃないの。」
「そんなことはないさ。俺なんか、ペニスは不完全だけど男だ。ペニスは印にならない。」
「あたしだって、ちょん切ってるけど男よ。」〔略〕
ペニスは男についてても女についててもいいものだ、とあたしは思うわよ。
「だったら、政美さんはどうして切っちゃったんだい?」保が問う。
「あたしはペニスのない女になりたかったの。でも、ペニスのある女がいたら素敵だと思う。好きになるんじゃないかしら」
(下. 88-9)

「あなたは保の恋人なんでしょう? 玩具じゃないんでしょう?」
「玩具になってもいいと思えるような相手を恋人って言うんじゃないの?」
(下. 100)

 だが、映子が同性であることにどれほどの意味があるだろうか。確かに、性染色体は同じXYで同じように女性器を備え、体つきも男と女ほどには違いがないだろう。しかし、そんな共通性は、映子と私が別個の肉体を持ち別々の感じかた、考えかたをし、独自に生きる全く異なった人間であるという事実の前では、ほんのささやかな共通性に見える。試みに、映子の乳房に掌を当ててみても、私自身の乳房とは量感も形も違うし、彼女が正夫や春志よりも私に似た人間とは感じられない。
 性別の組み合わせだけを問題にして同性愛、異性愛と区別を設けるのはおかしな話だ、かつての私はそこまで考えが至らなくて、何となく同性愛に拒否反応を示していただけなのだ、と納得すると、非常にさっぱりした気分になり、さらに愉しみを深めるために動き出した。映子の方は、同性愛についてどう考えているのかわからないが、初めからのびやかに動いた。私は皮膚に湧き立つ歓びに酔いつつ、こんな風に一つ一つの刺戟にいちいち鋭い快感を覚えるのも、もしかすると初めてなのではないか、と疑った。もちろん映子の技巧が原因ではない——。
(下. 121-2)

 実際に経験してみてイメージ通りでないことがあれば修正を加えたけれども、常に一般的な性行為のイメージを範として、現実の性行為を実践して来たように思う。こうするものだ、と思えるなら欲望とは関係なく行なった。いや、イメージに頼りっ放しだったから、そもそも自分の欲望を見定める必要がなかった。行為を受ける際も同様だった。こうされればこう感じるものだ、とイメージ通りに快楽を味わおうとしていたのではなかったか。
 イメージに頼る分、私は自分自身の感受性を開放していなかったのだ。
(下. 123)

 性行為はとても理知的なゲームだと思う。相手の快楽を推測しながら快楽の源を探り当てようとするのは、前にも感じた通りコンピューター・ゲームのプログラムを読み解く作業に通じるし、公平を旨とし、自分だけが愉しんでいないか、愉しませてもらった分愉しませているか、絶えず顧みていなければならない。欲望に引きずられていたのではとてもできないゲームで、さほどロマンティックなものでもなければ、好意を抱き合っている者同士でなし得る最も気持ちのよいことでもない、という気がする。(下. 153-4)

「第一に友達っていうのはどういうこと? 本来は恋人じゃないってこと?」
「性的なことをしなくなっても友達でいられるような間柄だということよ。」
(下. 188)

「金と人脈を手に入れると面白いぞ。他人を幸せにしてやるには誠意だけじゃ足りないんだ。不幸せな奴はいくつもの面から押し上げてやらなきゃいけないんだ。金と人脈があってこそ不幸せな奴の後ろ盾にもなれるんだ。誠意だけあったって、金もやれなきゃ役に立つ人物も紹介してやれないんじゃ何にもならないじゃないか。金と人脈を馬鹿にするなよ。俺も若い頃は馬鹿にしてたけど、それは物事の道理がわかってなかったからなんだ。今にして思えば、金も人脈もなかった頃俺が薄幸な女にしてやれたことと言ったら、セックスだけだったなあ。」(下. 218-9)

女と女の間からは何も生まれないと言うなら、男と女の間からだって子供以外にいったい何が生まれると言うのだろう。(下. 221)

「あんたは今映子と別れて辛いだろうけど、愛のあるセックスはできたんでしょう? その時は幸せだったんでしょう? 幸せだった出来事を、なくしたものとして惜しんじゃだめよ。獲得できたものとして楽しく思い出さなきゃ。(下. 261-2)

「人の人生に口を出すなら、自分の人生を犠牲にする覚悟でやれ。」
「それはつけ上がってるというものよ。」
(下. 287)

私がこの小説において読者に与えたかったのは、性器的な快楽ではなくて、非性器的な快楽なんです。あまり適切なことばではないかも知れないけれど、精神的な快楽を含めて、とりあえず私が非性器的な快楽としているもの。好きな人と抱き合ったり手を繋いだりじゃれ合ったり、あるいは接吻したり、必ずしも性行為に結びつかない、性器的な欲望に導かれて起こるわけではない、好きな人と軽くスキンシップすれば非常に気持ちがいいといような皮膚感覚的な快楽の方を読者に与えたい。〔略〕この小説は性器結合中心的性愛観に対する批判ですから、それに対しては皮膚感覚的な快楽を基本にするしかないんじゃないか、という風に思っているわけです。(下. 松浦理英子「親指ペニスとは何か」329)

 そして、この親指ペニスについては、男根的なペニスを書く気は、私には全くありませんでした。男根主義という見かたで、何かと昨今悪者にされがちなペニスを、本来無垢な器官として備わっていたはずの生まれたままの物に戻してやる、という気持ちがあったわけです。ですから、この小説の中では、親指ペニスは非常に受動的な物で、主人公が他人に対して使うようなことはほとんどないわけです。そして、ペニスであるかも知れないし、ペニスでないか知れない。こういう風に考えると、これは女性器のクリトリスを思わせるわけですね。実は、この親指ペニスは、作中にペニス、ペニスといっぱい出て来ますが、クリトリスのことでもあるわけです。今まで文学史の上で黙殺され続けて来たクリトリスを書くのは難しいんです。まともに書けないということについて、後で説明しますが、親指ペニスに仮託して、その中にクリトリスも含めて描いた、そういう側面もあります。(下. 松浦理英子「親指ペニスとは何か」331-2)


@研究室
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by no828 | 2015-03-26 20:25 | 人+本=体 | Comments(0)
2015年 03月 25日

彼は、「自分の恋の不可能」に欲情する男なのだ——橋本治『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』

c0131823_19375189.jpg橋本治『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』新潮社(新潮文庫)、2005年。79(902)


 版元 
 単行本は2002年にたぶん同社

 むむ → 


 橋本治先生の三島由紀夫読解。「あとがき」含め473ページ。思考の深さ鋭さ論理の展開が相変わらずすごい。そのような頭の回り方。そういう問題設定。橋本治先生の評論寄りのものはここには載せていませんが(なぜなら哲学書だと思うから)、本書はここに記録してきた三島由紀夫を論じたものなので、アップロードします。

 カバー・デザインもよいですね。三島由紀夫作品のデザインに似せていますが、メタです。本書の内容も、つまりは三島由紀夫のメタです。


 なにが三島由紀夫をスターにしたのか。その最大の理由は、三島由紀夫が生きていた時代の人間が、みんな文字を読んでいたということである。〔略〕
 三島由紀夫が生きている間、三島由紀夫の作品を読んで「つまらない」と言える人間はいなかっただろう。それは、「つまらない」ではなく、「分からない」の言い間違えでしかなかったはずだ。そして、三島由紀夫の作品を読んで、「分からない」と言うことも出来ない。それは、「私は俗物である」という白旗を掲げることでしかなかったはずだからである。「難しい」と言ったら、「君には無理だから読まなきゃいい」という言葉が、作者からではなく、友人から返って来る。「分からない」と言って、友人達の間でひそかに囁かれるのは、「あいつはやっぱりバカなんだ」である。〔略〕今の人間なら、三島由紀夫の知性に対して、「その頭のよさにはなんか意味があるんですか?」という疑問をたやすく発せられるだろう。その疑問が公然と登場しえてどうなったか? 日本人は、ただバカになっただけである。
(20-3)

『天人五衰』の最後まで読んで、「どうしてこれで三島由紀夫は死ななければならないのか?」が分からなかった。分からなかったがしかし、「こういうものを書くと死ななければならない人が三島由紀夫という作家なのだな」という思いだけは、なぜだか動かなかった。(29)

私は、「三島由紀夫にとって、『豊饒の海』を書き終えることと死ぬことはイコールだった」と信じている。そう信じる以上、私は『豊饒の海』という作品の中から——あるいは、『豊饒の海』へと続く作品群の中から、「三島由紀夫が死ななければならない理由」を探さなければならない。(33)

重要なことは、『豊饒の海』という長編小説が、「 “一人の三島由紀夫=松枝清顕”が死に、その転生した結果の別の人物(=他者)が、“もう一人の三島由紀夫=本田繁邦”の前に現れる」という構造になっていることである。〔略〕つまり、「他者」と出会いたがった『豊饒の海』とは、そのような「他者と関わりたがった小説」なのである。(58)

 逆に、男の主人公が女に惚れるような恋愛小説では、主人公の男を通じて、読者が恋愛の対象である女に接近して行く。恋愛というものは、「相手と一つになりたい」と思う衝動だから、女に恋する男は、女になりたいのである。そのため、恋愛小説の主人公となる男は、多くの場合、その男性性を希薄にする。〔略〕ところがしかし、『春の雪』の松枝清顕はそうではない。男である自分を、絶対に崩そうとはしない。絶対に女になろうとはしないし、自分の外側にいる女の影響下に入ることさえも肯んじない。〔略〕「もしかしたらこれは、男のための恋愛小説ではないのか?」と思ったのである。「男のための恋愛小説」——つまり、「男のままで読める恋愛小説」であり、「男であり続けたいと思う男のための恋愛小説」である。(88-9)

 男に恋情して、しかし、その男と直接に関わろうとはしない——その不能状況に気づいてさえいない。彼はただ、「愛する若者の死を目前にする」ということだけを望み、そのことに対して、優越した王者の気分を感じ取っている。問題は、そこなのである。(148)

 人が人を殺すということは、その「関係」を断ち切るということである。だから人は、「関係ない」と思ったその段階で、平気で相手を「殺す」という方向へ進みうる。(149)

「愛する者を人に殺させて恍惚とする」という妄想を抱いている段階で、彼は既に「権力者」である。彼はその地位を手放さない。(150)

『仮面の告白』における「同性愛の欲望」は、それが「芸術と関わるもの」であることによって、「現実と関わらずにすむ権利」を得ているからである。(153)

《紺の股引》の階層を「下層」と思う所に生まれ育った人間だから、その「貧しい生活」に適応出来ないのである。彼が自身の階層に止まってそれを眺めやる限り、労働者の階層である「汚穢屋」や「花電車の運転手」や「地下鉄の切符切り」の生活は、「悲劇的なもの」にならざるをえない。「悲劇性」は、彼がそこから拒まれていることによるのではなく、彼の馴染んだ生活がその階層を拒んでいることから生まれる。(159)

しかし、自分を助けに来たはずの若者の死を見て恍惚とする彼は、「自由になりたいとは思わない彼」なのである。自由になりたくない彼は、彼を助けに来た若者の死を見て、「ほーら、やっぱりだめだっただろう」と、自分の正しさに陶酔する。三島由紀夫の書く『仮面の告白』——そして『仮面の告白』を書く三島由紀夫のややこしさは、すべてこのことに由来する。(170)

自分を愛そうとする者に死を命じる」とは、いかなる種類の欲望なのか? それはすなわち、「自分の恋の不可能」に対する欲望である。なんということだろう、彼は、「自分の恋の不可能」に欲情する男なのだ。「自分の恋の不可能」を確信し、その確信が「正しさ」として顕現した時、彼は、自身の「正しさ」にのみ導かれて、彼自身の快感を達成することが出来る。(171)

タブーとは、「恋によって自分の絶対が脅かされること」——つまり、「恋そのもの」なのである。
 なんという近代的なタブーだろう。
自分の絶対を信じる近代的な知性は、その絶対を脅かす者を許さない。〔略〕三島由紀夫とこれを必要とする読者達は、「他者」を、「排除しなければならないもの」として位置付けてしまったのである。〔略〕三島由紀夫とその読者達は、「恋の力によって自分を揺るがそうとする他者の存在」を、タブーとしてしまったのである。
(172-3)

《理性の自負》こそが、彼の病巣なのだ。(174)

「 “自分の恋の不可能”を信じ、その“正しさ”に欲情する」ということには、別の役割もあるからである。
 それはつまり、近代自我が望んだ自己達成の道の「補強」である。「自分は他人に惹かれる、自分は欲望に足を取られる」は、その昔から精進の妨げだった。それをしていると、「自己達成」という精進の道への妨げになる。しかし、三島由紀夫は、その“妨げ”となるようなものを、完璧に否定してくれるのである。「 “自分は他人に惹かれる、自分は欲望に足を取られる”というのは、別に大した過ちではない。その上には、“他者を排除した自分に対する恍惚”という、もっと大きな欲望がある」——三島由紀夫はそのように「欲望」を肯定してくれているとも解せるからである。
(177-8. 傍点省略)

「自分は人を愛さず、他人にばかり自分を愛される」は、傲慢なる暴君の欲望である。しかし、この「他人を拒絶することによって究極の快感を得る」という天動説の持ち主は、「自分を他人に愛させる」もしないし、他に対して「我を愛せよ」という命令もしないのだ。〔略〕「自分の精進のためには、余分な他人に足を取られていてはいけない」と信じて、ひたすらに真面目な思索の道を歩んで、真面目な人間は、他に対して吝嗇になっている自身に気づかない。〔略〕彼はただ吝嗇なのである。「他人に自分を愛させることが出来ない」は、暴君になることが出来なくなった近代人に宿る、「他人を愛せない」の別の側面なのである。(179-80)

三島由紀夫にとって、他者とは、「望んで、しかし望みたくはないもの」であるという点において、同じだったのである。(199)

 果たして三島由紀夫にとって、「女」とはいかなるものだったのか? あまり問わずにいるのは、このことである。(260)

 自分が関わりを持つ立場にあるような「現実の女」に対する執着の薄さは、逆に「永遠の女性」に対する執着の強さを語る。だからこそ三島由紀夫は、その「原型」を探し、自分自身で再構築してみようとも思う。しかし、そのルーツ探しは失敗に終わり、「永遠の女性像の再構築」も失敗に終わる。(270)

 三島由紀夫の欲望はいつでもややこしいが、つまりは、「なりたいけどなりたくない」である。(302)

 思想家・三島由紀夫の目指すものは、つまるところ、「偉大なる明治の再興」である。「過去にあった明治という時代が偉大ではなかったのなら、その先、真に偉大な明治を目指せばいい。明治は、その模範となる程度の偉大さを持ち合わせていたはずだ」というのが、三島由紀夫の天皇制思慕の根本にあるものだとしか、私には思えない。しかも三島由紀夫は、それが妄想でしかないということも知っていたはずである。
「戦後」という時代の愚かしさを知って、それを否定するために「古きよき日本」を再現する——しかし、その営みも結局は「嘘」にしかならないということを、《美しい嘘の暮し》に疑義を唱える女の芝居——『恋の帆影』を書いた三島由紀夫なら、明確に知っていただろう。「知っていて、しかそれでもなおまた憧れはある」というのならいいが、その愚を知って、三島由紀夫は、その愚を自覚することを捨てたのである。おそらく、「忘れた」ではないだろう。「忘れた」なら愚かだが、「捨てた」なら、それは悲劇である。なぜ捨てたのか?——私が知りたいのは、ただそれだけである。
(388. 傍点省略)


@研究室
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by no828 | 2015-03-25 20:05 | 人+本=体 | Comments(0)
2015年 03月 24日

お医者さまは、悪い病気を治すのが仕事。正常分娩までやる必要はないでしょう——海堂尊『ジーン・ワルツ』

c0131823_19505440.jpg海堂尊『ジーン・ワルツ』新潮社(新潮文庫)、2010年。78(901)


 版元
 単行本は2008年に同社

 年度内終了は難しいかも → 


 初 海堂尊。映画、テレビでバーンと行ったものは敬遠します。

 体外受精、代理母出産。半分は生命倫理の勉強のため。主人公は大学医学部(産婦人科)の助教 曾根崎理恵。

『マドンナ・ヴェルデ』とセットで読むのがよさそうです。マドンナは未読です。

 新生児仮死の度合いを示すアプガー(APGAR)・スコア
 ↓
 A(Appearance):皮膚色
 P(Pulse):心拍数
 G(Grimace):刺激に対する反応
 A(Activity):筋緊張
 R(Respiration):呼吸


お医者さまは、悪い病気を治すのが仕事。正常分娩までやる必要はないでしょう。助産師で充分。お医者さまは異常分娩に対応してくだされば、それでいいんです(39)

「医療は学問ではなく、社会システムです。医学は単なる学問。医学という土台の上に、国民の意思で医療という家を建てるようなもの。そこでは医学の結果と正反対のことが行なわれることもあります。一番の違いは、医療は患者さんからお金をいただくことができる。だけど医学はお金を取れない。それどころか、お金を注ぎ込まなければ医学は進歩しません」(65)

「赤ちゃんは、産まれるとあっと言う間に世界を変えてしまう。産むかどうか迷った、ということは、産んで喜びを感じる準備ができている、ということなんですよ
 理恵はため息をつく。
「妙高さんは助産師たちだからそう思うのね。私の方は、こじれたお産を見過ぎてしまっているのかもしれない」
(77)

「〔略〕羊水検査は同時に胎児のリスクを伴います。甘利さんは、その後のことをお考えになっていますか?」
「後のこと?」
異常が見つかったときにはどうなさるか、ということです。それを決めてからでないと、そうした検査は害悪ですらあると思います
そうでしょうか。事前に異常がわかれば、心の準備ができるわ
 理恵は首を左右にふる。
事前準備だけが目的でしたら、羊水検査は必要ありません。異常児を堕胎したい、というのであれば行なう価値はありますけど
「まさか。そんなつもりでお尋ねしたのではありません」
(83)

「そもそも親は、どうやって自分の子どもを認識すると思う?」
 問い返された女子学生、鈴本は首をひねって、答える。
「自分と似ている、とか?」
「普通はそう考えるだろうね。だが、この場合は自己類似性は作用しないんだ。実は、共生している、という方が重要因子だ〔略〕男子学生諸君に忠告する。諸君は自分の子どもを育てる、のではない。男女関係が乱れた現代社会において、たとえそれが戸籍上の妻が正式に産んだ子であったとしても、男子にとってそれが本当に自分の子だという保証はない。だから、正しい意識の持ち方としては、自分の許に産まれた子どもを育てる、と考えることだ
(106-7)

「清川先生ともあろうお方が今さら何を。因果律とは、事象が露わになった時には、すべて終わっているものでしょう?(168)

「以前もお話ししましたが、甘利さんのお子さんは、おかあさんの助けがあるから生きられるんです。出産とは、赤ちゃんとおかあさんを切り離す作業です。甘利さんの赤ちゃんは母体から切り離された瞬間、自力では生き続けられない異常を持っているんです
それじゃあ、産まれた瞬間は生きているんですね
 理恵はうなずく。「そう、ですけど
 甘利みね子は眼をつむる。その手はゆっくりと膨らんだ腹部を撫でている。理恵はその姿を見つめる。
でしたら私、産みます
 みね子の答えに、理恵は驚いたように顔をあげる。
何ですって?
 力強くうなずくみね子は、自分に言い聞かせるように、もう一度、繰り返す。
産みます
(222)

 この最後の引用部分から、松永正訓『運命の子 トリソミー』の内容を濃厚に思い出しました。

@研究室
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by no828 | 2015-03-24 20:02 | 人+本=体 | Comments(0)
2015年 03月 23日

汚れているからではなく、そこにいる連中が真剣に生きていないからだ——村上龍『イン ザ・ミソスープ』

c0131823_1835383.jpg村上龍『イン ザ・ミソスープ』幻冬舎(幻冬舎文庫)、1998年。77(900)


 版元
 単行本は1997年に読売新聞社

 ブログ開設後通算900冊目。昨年のものが続きます。 → 


 ケンジは20歳になったばかりで、完璧とはいえないらしい英語を使って外国人観光客のとくに性風俗のアテンドを東京でしています。そこにフランクが来ます。表紙の男とイメージが重ならないわけではない。

 暴力。

 そして、“日本人”への危機感。ああこれか村上龍に通底するのはこれなのか、という読後感。

 181ページから189ページまで改行が1度もありません。この効果。

 かなりグロテスクな描写を含みますが、内容の詰められた小説だと思いました。


 告白するアメリカ人は、受け入れるという言葉を苦しそうに使う。我慢という言葉を使うものはいない。我慢という言葉はいろいろな意味で日本的だ。アメリカ人とそういう話をしたあと、寂しさの質が違うような気がして、おれは自分が日本人でよかったと思う。事実や状況を受け入れようという努力が必要な寂しさと、ただじっと我慢していればすむ寂しさは違う。おれはアメリカ人のような寂しさに耐える自信がない。(56)

いろいろなことが短い時間で起こって、考えを整理することができなかった。ソファの狭さも影響している。フランクの太腿に自分の太腿がぴったりとくっついているために、どこかへ逃げ出すことを最初からあきらめているところがある。肉体が窮屈だと、精神も窮屈になるのだ。(162)

 援助交際をする女子高生やお見合いパブで殺された女達とは違う。日本のほとんどの売春婦は、金のためではなく寂しさから逃れるためにからだを売っている。莫大な金を親戚中からかき集めて中国本土からやってきた女達をよく知っているおれからすると、それはものすごく不自然で異常なことだ。さらに異常なのは、そういう事態を誰も真剣に異常だと思っていないことで、たとえば援助交際を語る大人達は必ず他人のせいにする。自分達はそういうことと無関係だと思っている。フランクが交渉している中南米の女は、この寒さの中コートを着ていない。ストッキングも穿いていないし、下げているバッグは海水浴に持っていくようなビニール製のもので、まるでマッチ売りの少女のようにスカーフを被っている。彼女達は、自分や家族が最低限必要なものを手に入れるために、これしか売るものがないというものを売っている。悪いことなのだろうが、不自然でも異常でもない。(205)

ただ、外国人とつき合う仕事を二年近くやって、一つのことに気づいた。イヤなやつはイヤな形でコミュニケートしてくる。人間が壊れている、というとき、それはその人のコミュニケーションが壊れているのだ。その人間とのコミュニケーションを信じることができないときに、そいつを信じられないやつだと思う。あのお見合いパブには、嘘のコミュニケーションしかなかった。〔略〕たとえばチャイニーズクラブやコリアンクラブの女達だって、チップが欲しいから平気で嘘をつく。でも彼女達の大半は稼いだ金のほとんどを故国に送っていて、それは残された家族が生きのびるための資金だ。中南米の女達も、家族にたとえばテレビを買ってやるためにからだを売っている。彼女達は真剣だ。欲しいものがはっきりしているから、迷うことがないし、何となく寂しい、とは思わない。あのお見合いパブのような場所は子どもには見せられない。汚れているからではなく、そこにいる連中が真剣に生きていないからだ。どうでもいいことのために、みんなあそこにいた。これがなければ死んでしまう、というような目的を持ってあの店にいた人間は一人もいない。(213-4)

「彼女にとって初めての外国だった、外国なのだから、きっと神が違うのだろうと思った、カソリックの神は、風習も違い自然も違うので力を失うのかもしれない、そう彼女は考えたんだ」〔略〕
この国ではこの国の神について考える必要があるのではないかと彼女はそう思った、そしてそれは正しかった」〔略〕
「彼女はこの国の神について知ろうとしたが、そういうことを扱った書物でスペイン語に翻訳されているものはまったくなかったそうだ、彼女は英語がダメだからね、いろいろな客に聞いたが、そういうことを知っている日本人はまったくいなかったらしい、この国では誰も神について考えていないのだ、と彼女は思った、この国の人には辛いことがないのだろうか、神にすがる以外どうしようもないような苦しいことがないのだろうか、と彼女は思った
(230-2)

「人間は想像する、あらゆる動物のなかで、想像力、を持っているのは人間だけだ、他の大型獣に比べて圧倒的に非力な人間が生き延びていくためには、想像する力が必要だった、〔略〕子どもは残酷だとよく言われる、子どもは昆虫や小動物をよくいじめたり殺したりする、玩具を壊す子どももいる、それは興味本位でやっているのではなく、想像力の不安を現実の中にスルーさせて逃がすためだ、昆虫をいじめて殺すという自分の想像に耐えきれなくて、昆虫を殺しても自分や世界が崩壊するわけではないことを無意識に試しているんだ(262)

「どうしてそばを食べれば死なないと昔の日本人は思ったのかな?」
 フランクが真剣な顔でそう言って、死なないわけではない、とおれは訂正した。フランクが、理解できないという表情をし、おれは、変なことを言ったと気づいた。確かに、意味として、長く生きることと死なないことは同じことだ。ひょっとしたら、とおれは思った。この国では長く生きることと死なないことはニュアンスが違うのではないか。自分達を殺すために外部から誰かがやってくるというイメージを日本人は持ったことがないのではないか。
 フランクは、乾燥して膨れ、灰色の塊にいなったそばを箸で切断しようとしている。
(285)

あいつらは、生きようという意志を放棄しているわけではない、他の人間とのコミュニケーションを放棄しているんだ、貧しい国には、難民はいるが、ホームレスはいない、実はホームレスはもっとも楽に生きている、社会生活を拒否するのだったらどこか他の場所に行くべきだ、何らかのリスクを負うべきだ、少なくともぼくはそうしてきた、彼らは罪さえ犯せない、退化している、ぼくは、ああいう退化している人間達を殺してきたんだ」
 フランクはそういうことを、おれの英語に合わせてできるだけゆっくり話した。説得力はあったが、おれはどこか納得できなかった。
(290)


@研究室
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by no828 | 2015-03-23 18:47 | 人+本=体 | Comments(0)
2015年 03月 22日

空間的に結びつきのない人間が、時間的に持続するわけがない——三島由紀夫『沈める滝』

c0131823_17455316.jpg三島由紀夫『沈める滝』新潮社(新潮文庫)、1963年。76(899)


 版元
 単行本はたぶん1955年に中央公論社

 徐々に → 


 城所昇が愛を試す。ダム。越冬。人妻。


しかし集中ということは、夢中になるということじゃない。問題は持続だ……(12)

孤独というやつがいけない。空間的に結びつきのない人間が、時間的に持続するわけがない。俺は何に結びつくことができるだろう(13)

 昇は思想とは縁のない人間であった。足るを知るという世俗的な思想からも、おのれの物質的所有に罪悪感を抱かせるような思想からも、彼は純潔だった。ひどく飽き飽きしていたが、自分が何に飽き飽きしているか、つきとめてみることもしなかった。(17)

 女たちは誰も、永続と不変をのぞんだ。やたらと永持ちのするものに対する彼女らの説明のつかない愛着。昇がもし思想家だったら、永持ちのする思想をもっとも警戒したろう。(27)

手紙とか、電話とか、電報とか、会わないですむあらゆる手を使って、お互いに苦しめ合うようにしたらいい。本当に愛し合えたと思ったときに、又会えばいいんだ。そうしたらそのとき多分、僕は君を感動させることができると思うよ。僕はきっと近いうちに、東京の生活を切り上げて、山の中の現場へゆくだろう」と彼はさっきの決心をすぐ口にした。(45)

 昇は卒然として、そこにいる青年たちと自分とのちがいに気づいた。彼らはダムを理想や希望やさまざまな観念に転化しながら彼らの内部に抱いているのだが、昇のダムは外部にある。昇は自分の内部に決して理念を探そうとはしていなかった。外側に屹立している純粋に物質的なダム。みんなと一緒に、昇はしかし別なダムを作るだろう。(62)

「あんたの言うことをきいてると、薔薇を栽培する人間だって、薔薇の棘で誰か怪我をするということを、考えずには創れないみたいだな」と一人が言った。
「まあ、そうですな。創る喜びが単に人間的な喜びですんでいた時代は十九世紀の市民社会と共に終りを告げたんだよ。今じゃ割箸を作ったって、飯を喰うために使われるとは限りゃしない。アメリカへ輸出されて、何か化学兵器の実験に、不良導体のピンセットとして重宝されないとも限らない。〔略〕大体もう、人間の作った物というものが存在しないのでね。工人的良心の作った純粋な物というものはもうどこにもない。物が物でおわらず、必ず効用へ突走ってしまう。科学的産物も、芸術品も、すべて何らかの関係において存在するにすぎない。ましてダムのように、物即効用というようなものが、何に使われるかわかりはしない。あんた方がそれを作るのに、技術者的良心というやつを持つのはいい。しかし、ダムのもっている諸関係に目をつぶって一生けんめいになるなんて愚というもんですよ」
(97-8. 傍点省略)

恋愛にはもう安心ということは決してないんだ。それ以来僕は不安を享楽するようになった、とでも言うのかな」(127)

かれらにはいささか故意に、自分の作った固定観念に落ち込もうとする傾きがあった。時を経〔ふ〕るにつれて一人一人の顔は、全身これ耳、全身これ鼻、と謂った誇張を示して来る。実際は刺戟がなければ、欲望はめったに増大するものではないが、全く自家製の固定観念のおかげで、ある男は全身これ性慾、また、しじゅう御馳走の夢ばかり見ているあらゆる無邪気な青年は、全身これ食慾と謂った顔つきをしていた。
 昇は同宿の人たちの顔に、こうしたはっきりした類型が生れるのに興味をおぼえ、ひそかにこの生活を、「仮面劇」と呼んでいた。公衆を前にして自分の役を演ずることは容易ではないが、却って孤独のほうがわれわれを、われとわが役の意識せざる俳優にしてしまうのに力がある。
(139)

 祖父の遺言には多額の寄附行為もあり、名義書換のときに相続税もたっぷり取られて、今の昇の財産のなかで、勤めている電力会社の持株は、彼に大した発言権を与えるほどのものではなかったが、二十八歳の青年にとって、財産は徒らに大きかった。あんな越冬の労苦のあいだに、自然に三百万円が入って来ていたのだとすると、彼はあの労苦にすら、わざとらしさを感じて、われながらいやになった。何もしないでのらくらしていたほうが、すべての点で自然に叶っているのではなかったか?(201)

 ……ベッドの中で、顕子は何度もこう言った。
私、あなたのお好きなような恰好をして、お好きなような女になるわ。銀座の真中を裸かで歩けと仰言れば、そうするわ
 それから一日に十ぺん着換えてみせろと言えば、それもすると附加えた。しかし顕子は、女が「お好きなように」と言うときはすでに手遅れなのだということを知らなかった。
 顕子は明らかに不安にかられていた。
自分が昇を好きだというその理由は明白すぎるほど明白だが、今では昇が顕子を愛する確たる根拠がつかめなかった。この不安には答がなく、問いは谺になって帰った。彼女は昇のうちに彼の理想の形態を探していた。知りたいと熱望した。できればその理想がぶらさげているハンドバッグの色合までも。
(223-4)


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by no828 | 2015-03-22 17:55 | 人+本=体 | Comments(0)
2015年 03月 19日

なにもしていないように感じる程度にはたしかに辛いがこれがいま——川上未映子『ぜんぶの後に残るもの』

c0131823_2054855.jpg川上未映子『ぜんぶの後に残るもの』新潮社、2011年。75(898)


 版元 

 引きずり中 → 


 日記というかエッセイというか。(← どこかで書いたな。)

 3.11後のことが収められています。最初2つの引用部分、とくに2つ目の後半の部分に共感しました。


事態は全方位に一刻の猶予もないほどに逼迫していて、思考も手足も動かさずにはいられないのは重々わかるけれどしかしもう少しだけ、ことの推移を見守ること、判断を保留すること。なにもしていないように感じる程度にはたしかに辛いがこれがいま、個人に期待できる冷静さのひとつではなかろうか。(20)

小説は原理的に書くのも読むのも時間がかかるものだから、社会になにかとてつもなくおおきなことが起きてしまっても、即座に反応できるわけがないのもそのとおり。ただ、粛々と観察し、自分に紡げる物語や文章を作成してゆくしかないのも、それはほんとうのことなのだった。むしろ即座に反応してみせることのほうが、物語をつくるものとしての態度においては正しくないのではないか。ことのなりゆきをじっと息ひそめて見つめ抜き、そして、ひととおりのことがしずまったあとにそっとさしだせるなにかがあれば、さしだせるものをつくることができれば。そんな気持ちでこの数カ月を過ごした小説家も、少なくないと思うのだ。もちろんわたしもそのひとり。〔略〕
 けれども、なにかが違うと思ってしまう。今回の震災だけがとくべつではなく世界では常にそのような悲惨な出来事が勃発しているのに、しかし今回のことだけにこのように心動かされてしまう自分を恥じつつも「フィクションにかかわっている=小説を書く仕事に就いている」ことに、どこか甘えているところはないか。あとがきでこんな自意識について書いているのもしんどい話だけれども、でもやはり、なぜだかぬぐいきれない後ろめたさがべったりだ。
(188-9)


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「逃げる・逃げない問題」でいうと高橋源一郎さんが「逃げる」じゃなくて、「東京から『出る』、でいいんじゃないですか。ぼくは、東京から『逃げない』のではなく、ただ東京に『いる』だけです」とコメントしていたけれど、本当にその通りだと思う。個人がその考えと判断に基づいて行動することの自由がありそれを尊重しあうこと。改めて書くと馬鹿馬鹿しいほど自明なことも思えるけれど我々はまだ遠いところにいるなあ。(17)

 生活の力というのは強大だ。食べて動いて寝るというサイクルに支えられた日常は、それがどんな非常事態でもやがて丸呑みしてしまう。国や東電のおそらく目論見通りに、なし崩し的に日常がもどり始めているのが不気味だ。わたしはその渦中にいながら、どこからやってくるのかわからないまるで津波のように静かに圧倒的にすべてを塗りかえてしまう——いっぽうでは希望と呼ばれるであろうそんな力に、心の底から驚嘆している。(26)

どういった言葉も適切でない気がするから、ただ黙ってるしかないのだ。(32)

〔略〕みんなが等しくかけがえのない一回性を生きているからこそ、どうじにそれが等しく無価値にもなるのではなかったか。「わたし」というものはほとんど無限に存在している/してきた人間のなかの一例でしかないわけで、圧倒的なその感触を踏まえるところからしか、「わたし」の唯一性は立ちあがってこないのではないのだろうか。なんであれ、自分の行動を裏付けている動機を疑わなくなったら危険だよね。(35)

ノンアルコールビールを飲むことで、自分がお酒のどの部分が必要でどの部分が要らなかったのか、そういうことがはっきりとわかったような気がしたのである。〔略〕うまうまと飲みながら、そっか自分は酩酊したいわけではなかったのだな、ということがわかった。けれどもわたしはいったいなにを楽しんでいることになるのだろう? つまり、お酒が与えてくれる諸々からお酒の主成分であるアルコールを引くと、残る成分はいったいなにか? まさか雰囲気だけではあるまいよ。ちなみに好きな銘柄はサントリーの「オールフリー」。(54-5)

〔略〕セーラー服でもミニスカートでもなんでもいいけど、「デザインにはそれを着る肉体がすでに組み込まれている」せいではないかと思うのだった。つまりミニスカートはそれだけで存在するのではなく、むちむち&パーンと張りきった太股とともに存在するもので、そこを無視するから悲惨なことになるのではないかと愚考するのであった。見えないがしかしそこには付随するものが存在し、それが本質であるというような……この考え方はなかなかに好むところで、またけっこう腑に落ちもする。(103)

〔略〕「そうねえ。1年間、無事に生きられたことをおめでとう、でいいんじゃないの」。
 なんと……凡百の「おめでとう」がこれまでもこれからも一直線にただ無邪気に未来と希望に捧げられるのに対してこの「おめでとう」は過去への深い思いやりと諦めに満ち、なんともいえない切なさと後ろめたさに支えられていてこれこそが「おめでとう」の正体ではなかったかと思わせる。
(128-9)


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by no828 | 2015-03-19 20:13 | 人+本=体 | Comments(0)
2015年 03月 18日

悲しいという言葉と、悲しい気持ちが、むすびついたはじめてのときのことを——川上未映子『魔法飛行』

c0131823_18531163.jpg川上未映子『魔法飛行』中央公論新社、2012年。74(897)


 版元  ただし文庫版

 あと半分くらい? → 


 日記というかエッセイというか。レシピもあります。今度やってみよう。


 悲しいという言葉と、悲しい気持ちが、むすびついたはじめてのときのことを思いだそうとさっきから旋回しているのだけれど、この春じゃどうも見つからないみたい。(9)

しかし、書き物の仕事のように、思念と行動がもろに仕事に反映されてしまう、いわゆるオンとオフと呼ばれる境界のないこの文筆の仕事につくまえから、——この時間を売ってわたしはお金を稼いでいるのだとしか思えないような仕事をしていたときから、休みの日はじっと動かないでいるのがすきだった。(18)

問題はつねに「生」と「死」で、そこに「老い」の余地はなかった。しかしわたしにはいま「老い」がとても見えてしまう。関節に卵子に髪に歯に。胃に爪に脂肪に骨に睡眠に。昨日よりも今日、そしておそらくは今日よりも明日、死んでいっている自分の体の一部のことが、これが本当によくわかる。(77-8)

 ひとりぶんだと卵は一個。ふたりぶんなら卵二個です。それをがつがつ泡立てて、そこに粉チーズ(パルメザンね。うえによくふりかける白いやつ)をちょっと強気に適当に投入してさらに念入りにかきまぜる。ここで麺を茹ではじめる。それからベーコン。ベーコンをかりかりに焼くにはフライパンに油をひかず、ただベーコンが丸裸のままじりじりにちにち焦げてゆくのを見守るだけでよいのであって、油いらず。かりかりになったのを見届けて、そこに茹で汁をお玉に半分くらい入れて、そこにいい感じに茹であがったら麺を入れて、卵&チーズを入れてあわせる。卵のかたさはお好みで。火にかけすぎるとダマになってしまうから、さっとからめるくらいでいいみたい。(138)

 体にどこも悪いところはないけれど、祖母はいつ、ふと思いだすみたいにして亡くなったとしても不思議じゃない年齢で、祖母に育てられ祖母を大好きなわたしは、物心ついてから、この祖母もいつか死んでしまうときがくるのだと。そればかりをいつも考え、覚悟してきて、数えきれないほどの疑似をかさねてしてきた。この数年のあいだ、もしかしたら明後日、三年後、半年後、この週末、わからないけど、何よりも恐れていた「そのとき」が「このとき」になるのだ、恐れていたことはほんとうになってしまうのだと、そんなことを感じている。ただただ、感じている。(154)


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by no828 | 2015-03-18 18:58 | 人+本=体 | Comments(0)
2015年 03月 17日

実際に操作したのはシラクサの兵士たちだ。だから——小峰元『アルキメデスは手を汚さない』

c0131823_19253977.jpg小峰元『アルキメデスは手を汚さない』講談社(講談社文庫)、2006年。73(896)


「小峰元」は「こみね・はじめ」
 版元 
 単行本は1973年に同社

 じわり → 


「’70年代の学園を舞台に、若者の友情と反抗を描く伝説の青春ミステリー」と裏表紙にあって古書で購入。と書いていて、だんだんと内容を思い出してきました。


「俺はそれを考えているうちに、ふと思いついたんだ。ある事件が、なぜ起こったかと考えるから難かしくなる。なぜ起こらなければならなかったか、と考えると案外と解けるんじゃないかな、と。隆保がなぜ中毒したかと考えずに、反対に、なぜ中毒しなければならなかったか、というふうに」(270)

「殺されたほうも悪いんだし、彼は直接の犯人じゃないんですもの。彼の手は汚れてはいないんだわ
「そういう言い方には抵抗を覚えるね」
 と田中は冷たく切り返した。
「そんなアルキの会の会則みたいな、子供っぽい考えは、いいかげんに卒業しろよ。いいかい、アルキメデスが発明した殺人機械は、大勢のローマ兵を殺した。彼は殺人機械を発明しただけで、実際に操作したのはシラクサの兵士たちだ。だからアルキメデスの手は汚れていないと言えるだろうか。彼が名利を超越した学者だという伝説を、僕は信じないね。君の言うように“美と高貴の具わっている事柄にのみ自分の抱負を置く”人だったら、いくらヒエロン王に命じられたって殺人機械の設計はしなかっただろうからね。数学に夢中になっていてローマ兵に刺されたという話も、いかにも作りものめいて頂けないね。要するに、彼を神秘化するための、子供騙しのお伽噺なのさ」
「そんな言い方こそ……抵抗を感じるわ」
「そうかな。じゃ、こんな話はどうだろう」
(372-3)

 そして原爆投下の話が少し展開されます。科学者の責任の議論。関心があります。

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by no828 | 2015-03-17 19:30 | 人+本=体 | Comments(0)
2015年 03月 13日

不在が私を勇気づけているのであった。距離が私に「正常さ」の資格を与える——三島由紀夫『仮面の告白』

c0131823_17515245.jpg三島由紀夫『仮面の告白』新潮社(新潮文庫)、1950年。72(895)


 版元 
 単行本は1949年に河出書房

 ゆっくりとではあるけれども。 → 


 ようやく。 “糞尿汲取人”の原体験。女性には惹かれない男。けれども女性に惹かれる男を演じようとする男。そしてそれが無理だとわかる男。

 三島作品をさまざまに読み、だんだんと三島由紀夫のモチーフのようなものが掴めてきたように思います。


 ぐるりのひとびとは、しじゅう、自分が幸福なのだろうか、これでも陽気なのか、という疑問になやみつづけている。疑問という事実がもっともたしかなものであるように、これが幸福の、正当なあり方だ。(89)

 とこうするうちに、私は煙草をおぼえ酒をおぼえた。と謂って、煙草も真似事なら、酒も真似事だった。戦争がわれわれに妙に感傷的な成長の仕方を教えた。それは二十代で人生を断ち切って考えることだった。それから先は一切考えないことだった。人生というものがふしぎに身軽なものにわれわれには思われた。〔略〕幕の下りる時刻が程遠くないかぎり、私に見せるための私の仮面劇も、もっとせっせと演じられてよかった。しかし私の人生の旅は、明日こそ発とう、明日こそと思いながら、一日のばしにのばされて、数年間というもの、一向出立のけはいもなかった。この時代こそ私にとって唯一の愉楽の時代ではなかったろうか。(98)

「あのピアノ巧いのかい? ときどきつっかかるようだけど」
「妹なんだよ。さっき先生がかえったばかりで、おさらいをしているんだ」
 私たちは対話をやめてまた耳をすました。草野の入隊は間近であったので、おそらく彼の耳にひびいているものは、啻に隣室のピアノの音ではなく、やがて彼がそれから引き離される『日常的なもの』の、一種不出来なもどかしい美しさであった。
(107)

私は真正直に額面通りに純粋にそれ〔=プラトニックの観念〕を信じていたのである。ともすると私が信じていたのは、この対象ではなく、純粋さそのものではなかったろうか? 私が忠誠を誓ったのは純粋さにではなかったろうか?(110. 傍点省略)

 二三日して私は園子に貸す約束をした本を携えて草野家を訪れた。こんな場合、二十一歳の男の子が十九歳の少女のために選ぶ小説といえば、題名を並べなくても大抵見当がつく筈だ。自分が月並なことをやっているという嬉しさは、私にとっては格別のものだった。(134)

 一ト月たらずのあいだに、園子との手紙のやりとりは、多少特別なものになりつつあった。手紙のなかでは私は心おきなく大胆に振舞った。ある午前、解除のサイレンが鳴って工廠へかえったとき、机に届いていた園子の手紙を読みながら手がふるえた。私は軽い酩酊に身を委ねた。私は口のなかで何度もその手紙の一行をくりかえした。
『……お慕いしております。……』
 不在が私を勇気づけているのであった。距離が私に「正常さ」の資格を与えるのだった。いわば私は臨時雇の「正常さ」を身につけていた。時と所の隔たりは、人間の存在を抽象化してみせる。園子への心の一途な傾倒と、それとは何の関わりもない・常軌を逸した肉の欲情とは、この抽象化のおかげで、等質なものとして私の中に合体し、矛盾なく私という存在を、刻々の時のうちに定着させているのかもしれなかった。私は自在だった。日々の生活はいわん方なくたのしかった。S湾にやがては敵が上陸してこのあたりは席巻されるだろうという噂もあって、死の希みもまた、以前にまして私の身近に濃くなっていた。かかる状態にあって、私は正〔まさ〕しく、「人生に希望をもって」いた!
(150-1)

「だって空いたんだもん。よお、よお」
「きき分けもない!」
——母親がとうとう負けて弁当をとり出した。その中味の貧しさは、私たちが工場で喰べさせられている食事より一段とひどかった。沢庵を二切そえた藷〔いも〕だらけの飯を、看護婦はぱくぱくと喰べだした。人間が御飯をたべるという習慣がこれほど無意味に見えたことはなかったので、私は目をこすった。やがてこうした観方が、私が生きる欲望をすっかり失くしていることに由来しているのを私はつきとめた。
(172)

「主人はあたくしを愛してくれるし、あたくしも主人を愛しているのですもの。あたくしは本当に幸福で、これ以上希うことなんかないのですもの。でも、悪い考えかしら、ときどき、……こう、何と言ったらいいのかしら、別のあたくしが別の生き方をしようとしているのを想像してみることがあるのよ。そうすると、あたくしはわからなくなるの(197)

そもそも肉の慾望にまったく根ざさぬ恋などというものがありえようか? それは明々白々な背理ではなかろうか?
 しかしまた思うのである。人間の情熱があらゆる背理の上に立つ力をもつとすれば、情熱それ自身の背理の上にだって、立つ力がないとは言い切れまい、と。
(199)


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by no828 | 2015-03-13 18:00 | 人+本=体 | Comments(0)
2015年 03月 12日

「いい文学」と「つまらない文学」の区別はあっても——高橋源一郎『ジェイムス・ジョイスを読んだ猫』

c0131823_1984117.jpg高橋源一郎『ジェイムス・ジョイスを読んだ猫』講談社(講談社文庫)、1990年。71(894)


 版元
 単行本は1987年に同社

 少しずつ。 → 


 とにかく本を読む——厳密には、読もうとする——話。旅に行くにも本を持っていって本を読む——厳密には、読もうとする——話。
 著者はわたしの出講先の1つの大学の人でもあって、講義後の帰りのバスで一緒になったことがあります。話し掛けたりはしなかったけれど。


 かつて江藤淳が出版社の入社式に招かれてスピーチをした時、居並ぶ新人社員にむかって次のように語ったといわれている。
皆さんは編集者という職業に就かれるわけですが、そのための心がまえとして一つだけ覚えておいてもらいたいことがあります。それは作家というものはまず病人だと思っていてまちがいがないということです。もちろん頭か精神の病ですが(笑い)。相手が病人だと思って接すれば腹も立ちません。哀れな病人を、どうか看護してあげて下さい
 言われてみれば誠にその通りである。
(70)

 作品の解説を書く時、わたしはいつも困惑します。それは、その解説をだれにむかって書いていいのか、わたしにはよくわからないからです。(158)

ほんとうにこんなことは言うのも恥ずかしいが文学には「いい文学」と「つまらない文学」の区別はあっても、「児童文学」と「純文学」の区別など存在しないのである。(166)

ぼくの大好きな現代作家たちは皆、自分の小説のスタイルを変えていくことと、そのためにプロットという古典的な武器をもう一度洗練させて使うこと、この二つに大いに頭を悩ませている。(167)

「わたしだけはかの女が息をひきとる瞬間まで、一緒に暮らしました。みんなわたしたちから離れていってしまったのです」。レズビアンの愛人を看取ったひとりの女は、自らもAIDSの疑いありと検査された現在、こう語っている。AIDS患者に必要なのは愛という「助け〔エイド〕」なのだ。(225)

それにしても、オーストラリア英語じゃあ「Today」を「トゥ・ダイ」、つまり「TO-die」と発音するわけだけど、もちろんこれはオーストラリア人がペシミスティックなためじゃない。ロンドンの下町の訛がのこっているからなんだ。(231)


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by no828 | 2015-03-12 19:13 | 人+本=体 | Comments(0)