思索の森と空の群青

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2015年 04月 30日

自分で作ったはずもない言葉と一緒になって作ってる——川上未映子『人生が用意するもの』

c0131823_20273496.jpg川上未映子『人生が用意するもの』新潮社、2012年。81(904)


 版元

 まだ全部用意できていない → 


 3.11後のエッセイ。共感する箇所多々。最近のアップロードの並びでいうと、三島由紀夫と川上未映子に同意するところが比較的多くあり、これは何。

ラズノグラーシエ」(以下ラズ)という概念があるそうで、これはバフチンと山城むつみがドストエフスキー(以下ドス)を解読するときの開鍵概念として使用しているそうで、この意味は「たとえば。謙遜でも遠慮でもなく、本当に思ってることとして「俺、頭わるいんだよ」と発言してみたとしよう。でもそれを聞いた相手から「そうだね。君、頭悪いよね」と言われたら、認めてないわけじゃないのに、こう「うっ」となる感じありませんか。おなじ言葉・内容であっても、自分が言うのと他人が言うのではなにかが決定的にズレてしまうのである。この「ズレ=異和=うっ」こそが「ラズ」であり、この運動のちからこそがドスの作品を貫く秘密であるとそういうわけであるのだった」(170-1)。ということを踏まえて、以下の引用の一部はお読みください。

 しかしその前に、もっとも共感した部分の長めの引用からはじめたい。これは人にとって重要な体験であるように思われるし、少なくともわたし——と川上——にとっては重要な体験でありました。わたしのこの体験は割と遅かったわけですが——つまりは本人が考えながら悩みながら、それが深く、あるいは暗くなってもなお止められずに、あきらめられずに考え悩み、それを何とか表現しえたとき、「それでいい」といってくれる人がいるかどうか——この体験があるかどうか、それが、おそらくは自己肯定という点で、大きな意義があるのだとわたしは思います。自分で自分を肯定するのはけっこうしんどいとわたしは思うし、肯定しきれないのではないかとも思います。他者による肯定が自己肯定をもたらす——といったことも以下の引用のなかには含まれていたりもします。しかし、先に記したような他者を肯定すべきポイントを見抜き、そこで肯定することのできる人というのは、そんなに多くないのではないかとも思います。子どもにとって外部性の高い職業的教師は、それを見抜かなければならないと思います。外部であることの意義は、あるいはここに(も)あるのかもしれない。


 小学5年のある日、作文を書くように言われ、これまではなんとなく今日のできごととかほわわんとしたようなことを書いていたのだけれど、そのときよほど切羽詰まったものがあったのか「自分だけじゃなくて、まわりのみんながいつか死んでしまうのがこわい。いなくなるのがこわい。こんな考えかたはずるいかもしれないけれど、そのことを思うと、わたしはお母さんよりも先に、誰よりも先に、死んでしまいたいと思う。でも、よく、わかりません」というようなことを書いた。こういうことを親とか大人にきいたり言ったりするといつだって「その辺、走ってこい」と一蹴されて終わりだったから今回もいやな顔をして怒られるのかと思ったら、当時の担任の——大竹欽一先生はわたしの名前を厳しい顔で呼んで立たせ、それから大きな拍手をしてくれたのだ。そして「その考えと気持ちをずっと忘れないでいてください。素晴らしい作文でした」と言ってくれたのだった。
 そのときはわたしは非常に驚き、そうか、こういうことを書いてもいいんだ、人に話してもいいんだ、こういうことをもっと考えてもいいんだと胸を膨らみ興奮し、本当に本当にうれしかったのを覚えている。大竹先生の言葉はあれからずっとわたしのなかのどこかに残っていて、こうして人様に向けて文章を書くことを日々の生業としている「いま」に、確かにしっかりと繫がっている。

 あれは家族以外の、少し離れた人からはじめて受け取った肯定で、それは語彙が少ないぶんだけ言いようのない不安と恐怖にまわりを囲まれていた当時のわたしをいったいどれほど勇気づけてくれたことだろう。
(195-6)

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〔略〕震災をめぐる報道でクローズアップされるのは、家族や夫婦といった社会的に認められた関係にある人々ばかりだったと哲学者の中島義道さんがある雑誌でお書きになっていたのを読んだ。〔略〕中島さんが言うように「行方不明の恋人を探す」場面や「避難場所で暮らす同性愛者たち」といった——通常のルールから外れていると社会が見なす人々が公に登場するのをみる機会はたしかになかった。(42)

「安全」を繰りかえすテレビの報道を見ながら、わたしは被災地にいらっしゃるお年寄りや赤ちゃんを抱えたお母さんのことを思う。テレビで安全と言われつづける限り、それを信じないわけにはいかない人たちだ。避難しなくていいと言われればそこに留まるほかない人たち、想像の選択肢がない人たちだ。それが正しかった場合はいいけれど、もしもそうでなかった場合は? 犠牲になるのはいつも、人を信じて疑うことをしない人たちなのだ。(69-70)

 → 教育

 もうそろそろ、危険派と安全派のトップ8みないた人が一堂に会して、攻撃しあうのではなく本当のことだけを突き詰める方針で5時間くらいテレビでガチンコ討論してくれたりしないかな(日本はまだテレビの国だから)。〔略〕いつの日にかこの時期のことを振り返って「あなた水も牛乳も飲んだ派? あれなんだったんだろうねーー」なんて成長した子どもたちが冗談を言って笑ってくれるようになるといいんだけど。ほんとに。(78-9)

しかしやっぱり早いとこ原発を停止する方向で固めてもらって、経済学者たちには原発が無い状態を始点として日本が経済を維持できるような理論を立ち上げて実践していただけたらと、お茶の間発想で申し訳ないけど切に願う。(87)

 だとしたら小説を書く行為は孤独な作業かと思えばまさかそうではあるまいよ。自分で作ったはずもない言葉と一緒になって作ってる。言葉があるということはわたしにとって諸悪の根源でありながらやっぱり諸善の根源でもあるのだと——つまり全部なのだと思ってまた胸が熱くなる。春だもの。(141)

 しかしラズを乗り越えるっていったって、やっぱり独自にやり遂げられるものではなくて、やっぱり他者の価値基準によるのだよね。先述したわたしの「目が離れている」の克服だって、それがいつの間にか市民権を得た——つまり「離れ目、イイ!」という価値観が広く共有されたからに他ならないし。自己肯定はどこまでも他者の承認と評価を根拠にしてしまうものなのだろうか。(172)

 できることなら意表を突きたいし、突かれたい。(182)

思えば人類の歴史を推進してきた巨大なエンジンのひとつは、この訳のわからなさに対しての抗いでできあがっている。宗教も科学も戦争も愛も哲学も、けっきょくは生を維持すること=死への恐怖、そしてその解明と克服とを原動力にして日々育っている最中なのだ。(214)


@研究室
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by no828 | 2015-04-30 20:38 | 人+本=体 | Comments(0)
2015年 04月 29日

曇天の空に桜は映えないし、日常の到来はもう少し先だ

 1ヵ月ほど空いてしまいました。4月から環境が変わりました。非常勤から常勤に(ようやく)なりました。本務校ができました。TくばからK府へと拠点が移り、落ち着かない日が続いていました。と、過去形で書きましたが、いまも落ち着いてはいません。本務校が“日常”という感覚にまだならずにいます。総計としてまだ1ヵ月、講義開始からは2週間しか経過していません。講義はまだ2回が終了したところです(今週3回目)。本務校が日常になっていない事情は、これに加えて2つあります。

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 1つ目は、非常勤講師の継続です。非常勤講師の役目を3月ですべては終えられず、4月以降も引き受けています。これは、わたしの、というより、4月からの本務校の事情に拠るところ大であって非常勤講師先に何か問題があったわけではありません。本務校勤務日(平日)に4コマ、勤務外(休日)に1コマ、T京とT木へ教えに行っています。本務校の担当講義数よりも非常勤のコマ数が多いという本末転倒ぶりです。T京はN野、M鷹、T摩と西寄りで、遠くはありますが、助かっています。T木は、遠いです(本当に遠い)。今年度前期はひとまず引き受けますが(先方に不義理をするわけにはいかない)、できれば前期終了とともにわたしの役目も終えたいと考えています。あるいは集中講義に変更していただくつもりです。本務校の職務に悪影響が早くも出ている、というわけではまったくありませんが、研究時間の確保を含め本務校で/に力を注ぎたいと考えます。同業同世代からは、週に1日は非常勤を引き受けてもよいのではないか(気分転換にもなるから)といわれていますし、たしかにK府は気分転換が必要な土地柄ではあるなあと思ったりもしていますが、非常勤週5コマの現状というのは本務校で気分転換するといったことになりかねません。

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 2つ目は、引越の未済です。これは、わたしの、というより、4月からの本務校の〔以下省略〕でありますが、引越が終わっていません。とりあえず住民票と身体と自転車その他手荷物だけでK府に来て、状態がよいとは決して、絶対、口が裂けてもいえない官舎にとりあえず入りました。TくばのアパートにもT波の研究室にも荷物が残っています。何ということでしょう。こちらの研究室には棚はあるのに肝腎の本がほとんどまったくありません。論稿も講義構想もすべてわたしの頭のなかに入っているもので勝負せざるをえない状況で、勝負を挑まれている感覚、負けるわけにはいかないという姿勢にはなります。研究室にはプリンタもなく、本務校の非常勤講師控室でハンドアウトをプリントアウトせざるをえないという、客体状況がまだまだ続いています。コーヒーメーカーも向こうに置いたままですので、毎朝コンビニなどで“挽きたて”のコーヒーを買って、カップホルダーをもらって袋に入れて、自転車で大学に来ています。結構面倒です(蓋をしても少しこぼれるし)。Tくば/T波で使用していたものをこちらでも向こうで使用していたように使用しはじめられたら、ここが日常だという感覚が強まっていくような気がしています。

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 元気にはやっています。同僚の教職員の方々や学生、とくに教職課程(中・高・養)の学生と愉しくやっていきたいと思っています。

@研究室(K府のね)
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by no828 | 2015-04-29 19:14 | 日日 | Comments(0)