思索の森と空の群青

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2015年 09月 30日

いい写真を撮るためだったら命だって賭けます——一ノ瀬泰造『地雷を踏んだらサヨウナラ』

c0131823_19115394.jpg一ノ瀬泰造『地雷を踏んだらサヨウナラ』講談社(講談社文庫)、1985年。14(936)


 版元


 フリーの戦場カメラマンによるカンボジア(+バングラデシュ+ベトナム)従軍記。基本的に母親とのあいだでやりとりされた手紙が連ねられています。本書著者情報によると、「1947年、佐賀県武雄市生まれ。〔略〕1973年11月、アンコールワットへ単独潜行したまま消息を断ち、1982年、両親によってその死亡が確認された」。今年2〜3月にカンボジアへ行き、アンコールワットにも寄りました。この本に記された場所と同じとはにわかには理解しがたいものがあります。

 最後に引用した、母親から息子に宛てられた手紙の文章、引き裂かれた思いがとくに沁みました。


 新生バングラディッシュ〔ママ〕の中に、いわばパキスタンに対する人質となって、外部との連絡を閉ざされた少数民族・ビハリ族がおり、その生活の一部を撮りました。〔略〕バングラディッシュの独立いらい、各地に散ったビハリは、迫害、仕返しから少しでも身を守るため、仲間同士で集まり、それが一つの孤立した村となって、その中でベンガリーやインド兵を恐れながら、他国の同情と援助を期待して細々と生活している。(33)

 アンコールワットのある町、シアムリアップにホテルの一室を借りて毎日動き回っています。〔略〕軍に従うのは極力避けたかったけど、金も無い一匹のフリーランサーじゃ、どうも動きがとれないので、仕方なく従軍しました(48)

「あなたは、どうしてそんなに割の合わない仕事をするのですか? それで続きますか」
お金じゃありません。写真が好きなのです。私は本来、なまけ者で学ぶことも働くことも嫌いです。私の生き甲斐は写真です。いい写真を撮るためだったら命だって賭けます。そして、そんな時の私は、最高に幸せです。あなたは理解できないでしょうが、またもう少しかしこくなって割り切れば、お金だってもうちょっとは入りますが、残念ながら私にはその能力がありません」
「むずかしいけど、その気持ちは理解できそうです」
(58)

「ロックルーだって、先生なんかやらずに軍学校に入り、試験を受け、軍オフィスで働き、また試験を受けるために勉強を続けていたら、いまごろはキャプテンかコマンダになって、多勢の部下を持ち、お金もドカドカ入り、良い家に住み、車を乗り回せるだろうなー」
 と言うと、
教師になる人間と兵隊になる人間はまるで異質で世界が違う。教師は人間に教養を与え、世の文化を高めて平和を求める。しかし兵隊は……」
「そうだ! 兵隊は、世の中の教養も文化も破壊し、人を殺すことのみを考える」
 と私が代弁した。
私がいくら貧乏しても、強制されても、私は兵隊にだけはなれないし、なってはいけない。目的が、結果が……世界がまるっきり違うからな
(98)


 9・9 母から
 泰ちゃんが自由に戦場をかけ回り、世界の人々の心を搏つ立派な写真が出来ることを念ずる心と、一日も早く平和な日本に帰り、おだやかな日々を過ごしてくれることを祈る心とが交錯します。(171)


@研究室
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by no828 | 2015-09-30 19:22 | 人+本=体 | Comments(0)
2015年 09月 25日

「私にもそういう風景はある」「そいつを大事にした方がいい」——村上春樹『1Q84』

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村上春樹『1Q84』BOOK1-3、新潮社、2009-10年。13(935)

 版元 → BOOK1 BOOK2 BOOK3

 2つの想定に勝手に親近感を抱きました。1つは、青豆の父方の祖父は福島県の生まれで、「青豆」という名字はそこに実際にある、という想定で(BOOK1: 12-3)、もう1つは、天吾は筑波大学第一学群自然学類数学主専攻という「奇妙な名前のついた学科を卒業し」た、という想定です(BOOK1: 44)。わたしの名字はありきたりでも同じ県の出身で、第一学群ではないけれどもわたしも同じ大学の出身です。


○BOOK1
「現実はいつだってひとつしかありません」、書物の大事な一節にアンダーラインを引くように、運転手はゆっくりと繰り返した。(23)

「もちろん。それだけでは足りない。そこには『特別な何か』がなくてはならない。少なくとも、何かしら俺には読み切れないものが含まれていなくてはならない。俺はね、こと小説に関して言えば、自分に読み切れないものを何より評価するんだ。俺に読み切れるようなものには、とんと興味が持てない。当たり前だよな。きわめて単純なことだ」(40)

 職業的小説家になることを自分が本当に求めているのかどうか、それは本人にもわからない。小説を書く才能があるのかどうか、それもよくわからない。わかっているのは、自分は日々小説を書かずにはいられないという事実だけだった。文章を書くことは、彼にとって呼吸をするのと同じようなものだった。(44)

 次におこなうのは、その膨らんだ原稿から「なくてもいいところ」を省く作業だ。余分な贅肉を片端からふるい〔ママ〕落としていく。削る作業は付け加える作業よりはずっと簡単だ。その作業で文章量はおおよそ七割まで減った。一種の頭脳ゲームだ。増やせるだけ増やすための時間帯が設定され、その次に削れるだけ削るための時間帯が設定される。そのような作業を交互に執拗に続けているうちに、振幅はだんだん小さくなり、文章量は自然に落ち着くべきところに落ち着く。これ以上は増やせないし、これ以上は削れないという地点に到達する。エゴが削り取られ、余分な修飾が振い〔ママ〕落とされ、見え透いた論理が奥の部屋に引き下がる。(129)

「自分が排斥されている少数の側じゃなくて、排斥している多数の側に属していることで、みんな安心できるわけ。ああ、あっちにいるのが自分じゃなくてよかったって。どんな時代でもどんな社会でも、基本的に同じことだけど、たくさんの人の側についていると、面倒なことはあまり考えずにすむ」
少数の人の側に入ってしまうと、面倒なことばかり考えなくちゃならなくなる
「そういうことね」と憂鬱そうな声で彼女は言った。「でもそういう環境にいれば少なくとも、自分の頭が使えるようになるかもしれない
「自分の頭を使って面倒なことばかり考えるようになるかもしれない」
「それはひとつの問題よね」
「あまり深刻に考えないほうがいい」と天吾は言った。
(137)

 青豆は筋肉マッサージが得意だった。体育大学では誰よりもその分野での成績がよかった。彼女は人間の身体のあらゆる骨と、あらゆる筋肉の名前を頭に刻み込んでいた。ひとつひとつの筋肉の役割や性質、その鍛え方や維持法を心得ていた。肉体こそが人間にとっての神殿であり、たとえそこに何を祀るにせよ、それは少しでも強靭であり、美しく清潔であるべきだというのが青豆の揺るぎなき信念だった。(241-2)

「私の専門は文化人類学だ」と先生は言った。「学者であることは既にやめたが、精神は今でも身体に染み着いている。その学問の目的のひとつは、人々の抱く個別的なイメージを相対化し、そこに人間にとって普遍的な共通項を見いだし、もう一度それを個人にフィードバックすることだ。そうすることによって、人は自立しつつ何かに属するというポジションを獲得できるかもしれない。言っていることはわかるかな?」(267)

日曜日には子供は、子供たち同士で心ゆくまで遊ぶべきなのだ。人々を脅して集金をしたり、恐ろしい世界の終わりを宣伝してまわったりするべきではないのだ。そんなことは——もしそうする必要があるならということだが——大人たちがやればいい。(273)

「何故ならあなたは天使でもなく、神様でもないからです。あなたの行動が純粋な気持ちから出たことはよくわかっています。だからお金なんてもらいたくないという心情も理解できます。しかし混じりけのない純粋な気持ちというのは、それはそれで危険なものです。生身の人間がそんなものを抱えて生きていくのは、並大抵のことではありません。ですからあなたはその気持ちを、気球に碇をつけるみたいにしっかりと地面につなぎ止めておく必要があります。そのためのものです。正しいことであれば、その気持ちが純粋であれば何をしてもいいということにはなりません。わかりますか?」(330-1)

この現実の世界にはもうビッグ・ブラザーの出てくる幕はないんだよ。そのかわりに、このリトル・ピープルなるものが登場してきた。なかなか興味深い言葉の対比だと思わないか?」(422)

正しい歴史を奪うことは、人格の一部を奪うのと同じことなんだ。それは犯罪だ(459)

「ギリヤークというのは、ロシア人たちが植民してくるずっと前からサハリンに住んでいた先住民なんだ。もともとは南の方に住んでいたんだけど、北海道からやってきたアイヌ人に押し出されるようなかっこうで、中央部に住むようになった。アイヌ人も和人に押されて、北海道から移ってきたわけだけどね。チェーホフはサハリンのロシア化によって急速に失われていくギリヤーク人たちの生活文化を間近に観察し、少しでも正確に書き残そうと努めた」(463)

 疑問が多すぎる。「小説家とは問題を解決する人間ではない。問題を提起する人間である」と言ったのはたしかチェーホフだ。なかなかの名言だ、しかしチェーホフは作品に対してのみならず、自らの人生に対しても同じような態度で臨み続けた。そこには問題提起はあったが、解決はなかった。自分が不治の肺病を患っていると知りながら(医師だからわからないわけがない)、その事実を無視しようと努め、自分が死につつあることを実際に死の床につくまで信じなかった。激しく喀血しながら、若くして死んでいった。(472)

「覚えてない?」
あいつらはね、忘れることができる」とあゆみは言った。「でもこっちは忘れない
「もちろん」と青豆は言った。
「歴史上の大量虐殺と同じだよ」
「大量虐殺?」
やった方は適当な理屈をつけて行為を合理化できるし、忘れてもしまえる。見たくないものから目を背けることもできる。でもやられた方は忘れない。目も背けられない。記憶は親から子へと受け継がれる。世界というのはね、青豆さん、ひとつの記憶とその反対側の記憶との果てしない闘いなんだよ
(525. 傍点省略)


○BOOK2
さよならを言うのはあまり好きじゃない」とタマルは言った。「俺は両親にさよならを言う機会さえ持てなかった」(31)

「チェーホフがこう言っている」とタマルもゆっくり立ち上がりながら言った。「物語の中に拳銃が出てきたら、それは発射されなくてはならない、と」
「どういう意味?」
 タマルは青豆の正面に向き合うように立って言った。彼の方がほんの数センチだけ背が高かった。「物語の中に、必然性のない小道具は持ち出すなということだよ。もしそこに拳銃が出てくれば、それは話のどこかで発射される必要がある。無駄な装飾をそぎ落とした小説を書くことをチェーホフは好んだ」
(33)

「世間のたいがいの人々は、実証可能な真実など求めてはいない。真実というのおおかたの場合、あなたが言ったように、強い痛みを伴うものだ。そしてほとんどの人間は痛みを伴った真実なんぞ求めてはいない。人々が必要としているのは、自分の存在を少しでも意味深く感じさせてくれるような、美しく心地よいお話なんだ。だからこそ宗教が成立する(234)

天吾にとって性欲とは、基本的にはコミュニケーションの方法の延長線上にあるものだ。だからコミュニケーションの可能性のないところに性欲を求めるのは、彼にとって適切とは言いがたい行為だった。(296)

「ただね、そいつが脇目もふらずネズミを木の塊から『取り出している』光景は、俺の頭の中にまだとても鮮やかに残っていて、それは俺にとっての大事な風景のひとつになっている。それは俺に何かを教えてくれる。あるいは何かを教えようとしてくれる。人が生きていくためにはそういうものが必要なんだ。言葉ではうまく説明はつかないが意味を持つ風景。俺たちはその何かにうまく説明をつけるために生きているという節がある。俺はそう考える」
「それが私たちの生きるための根拠みたいになっているということ?」
「あるいは」
私にもそういう風景はある
そいつを大事にした方がいい
(371)


○BOOK3
「私は孤独じゃないと思う」と青豆は告げる。半ばタマルに向かって、半ば自分自身に向かって。「ひとりぼっちではあるけれど、孤独ではない(48)

そして他人が語ることに——それがたとえどんなことであれ——注意深く耳を澄ませるのを習慣とした。そこから何かを得ようと心がけた。その習慣はやがて彼にとって有益な道具になった。彼はその道具を使って貴重な事実を発見した。世の中の人間の大半は、自分の頭でものを考えることなんてできない——それが彼の発見した「貴重な事実」のひとつだった。そしてものを考えない人間に限って他人の話を聞かない(191)

 それを聞いて女教師は満足そうに微笑んだ。小さな瞳の中で何かが陽光を受け、遠くの山肌に見える氷河のようにきらりと光った。少年時代の天吾を思い出しているのだ、と牛河は思う。二十年も前のことなのに、彼女にはきっとつい昨日の出来事のように感じられるのだろう。
 津田沼駅に向かうバスを校門の近くで待ちながら、牛河は自分の小学校の教師たちのことを考えた。彼らは牛河を記憶しているだろうか? もし記憶していたとしても、彼のことを思い出す教師たちの瞳に親切な光が浮かんだりすることはまずあり得ない。
(209)

「しかしいったん自我がこの世界に生まれれば、それは倫理の担い手として生きる以外にない。よく覚えておいた方がいい」
「誰がそんなことを言ったの?」
「ヴィトゲンシュタイン」
(228)

「教えるのはきらいじゃない。場合によっては面白くさえある。でも長いあいだ人にものを教えていると、自分がだんだんあかの他人みたいに思えてくる(241)

人が一人死ぬというのは、どんな事情があるにせよ大変なことなんだよ。この世界に穴がひとつぽっかりと開いてしまうわけだから。それに対して私たちは正しく敬意を払わなくちゃならない。そうしないと穴はうまく塞がらなくなってしまう」
 天吾は肯いた。
「穴を開けっ放しにしてはおけない」と安達クミは言った。「その穴から誰かが落ちてしまうかもしれないから」
「でもある場合には、死んだ人はいくつかの秘密を抱えていってしまう」と天吾は言った。「そして穴が塞がれたとき、その秘密は秘密のままで終わってしまう」
「私は思うんだけど、それもまた必要なことなんだよ」
「どうして?」
「もし死んだ人がそれを持って行ったとしたら、その秘密はきっとあとには置いていくことのできない種類のものだったんだよ」
「どうしてあとに置いていけなかったんだろう?」
 安達クミは天吾の手を放し、彼の顔をまっすぐに見た。「たぶんそこには死んだ人にしか正確には理解できないものごとがあったんだよ。どれほど時間をかけて言葉を並べても説明しきれないことが。それは死んだ人が自分で抱えて持っていくしかないものごとだったんだ。大事な手荷物みたいにさ
(483-4)


 別様の世界を想像することの意味は何か。一様にあるこの世界はこのようになければならないわけではない、と思わせることか。別様の世界がつねに望ましい世界かどうかはわからないし、村上春樹の小説にもそのようには描かれていない。それはただ不思議な世界で、しかし不思議な世界だと認識しうるほどには普通の世界である。このようになければならないわけではない世界を少しよくするためには、この世界を丁寧に生きる以外にはないのかもしれない。

@研究室
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by no828 | 2015-09-25 20:06 | 人+本=体 | Comments(0)
2015年 09月 19日

長い学生生活でこれから戦い続けなければならないものは、間違いなく虚無だ——万城目学『鴨川ホルモー』

c0131823_1537694.jpg万城目学『鴨川ホルモー』角川書店(角川文庫)、2009年。12(934)


 単行本は2006年に産業編集センター

 版元


「ホルモー」は、人間(学生)がオニに鬼語で指令を与え、オニ同士が戦闘する競技(注)。人間が主でオニが従か。京都にある4大学——京都大学その他実名が出てきます——のサークルが対決します。時代は現代です。そして学生時代というのはこういうことでもあるのだということが改めてわかります。

 注:実在しない競技です。


「僕は——虚無だと思うんだ。僕たちがこの長い学生生活でこれから戦い続けなければならないものは、間違いなく虚無だ。いや、それは大学だけではなく、社会に出てからも、絶えず僕たちを苛むはずだ」(91)


善良な人間は、言葉を額面以上の重みで受け取ってもらえるから得である。(121)


@研究室
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by no828 | 2015-09-19 15:41 | 人+本=体 | Comments(0)
2015年 09月 18日

おまえが何も話さんものを、どうして、他人のうちが訊いてよかもんかね——山崎朋子『サンダカン八番娼館』

c0131823_20363662.jpg山崎朋子『サンダカン八番娼館』文藝春秋(文春文庫)、2008年。11(933)


 1975年刊文春文庫『サンダカン八番娼館』+1977年刊文春文庫『サンダカンの墓』

 版元


 この2〜3月にカンボジアへ行った際に携行した本のなかの1冊。「サンダカン」は現マレーシアの小都市の名前です。貧困のために長崎の天草・島原からそこへ売られ、売春婦として働かざるをえなかった“日本人”女性の生き方が追われています。一般に「からゆきさん」——「唐人行」「唐ん国行」——と呼ばれる女性についての、つまりは幕末から大正中期までのあいだ、シベリア、中国、東南アジア、インド、アフリカまで出かけて行って、「外国人に肉体を鬻いだ海外売春婦」(9)についての書物です。

 新装版は主題のみですが、旧版には副題があります——「底辺女性史序章」。著者の問題意識が込められています。

 良書。もっと早く読むべきでした。その人の記憶やその土地へ入り込んでいろいろ訊いたり調べたりすることの意味は何か、著者も自問自答しています。結果として、研究にも関係してくる本でした。また、「強いられた行為」という表現は語義矛盾になるかもしれませんが、その強いられた行為自体とその行為者本人とを否定せずに、その行為を現出させた条件(構造)のみを批判する、ということは可能なのか、それによって見落とされることは何か、その批判が翻って行為者本人を否定するように機能しないか、といったことも考えさせられました。


かつて天草や島原の村々から売られて行った海外売春婦たちが、階級性という二重の桎梏のもとに長く虐げられてきた日本女性の苦しみの集中的表現であり、言葉を換えれば、彼女らが日本における女性存在の〈原点〉をなしている(10)

〔従来の女性史は〕ブルジョアジーあるいは中間層から出たひと握りのエリート女性たちの思想と活動を、頂点と頂点とを結んでつくる折線グラフのようにつなぎ辿ったものである。こうした女性史から、労働者や農民として生き死にした無数の女性の生活と鬱屈の思いを読み取ることは、およそ不可能だと言わなくてはならないだろう。(11)

底辺の女性たちの実態に迫り、その悲しみや喜びの核心をつかんだ史書でなければ、本当の女性史と評価することはできないのだ。(11)

 ところが売春婦は、もともと人間の〈内面の自由〉に属しているはずのセックスを、金銭で売らなければならなかった存在である。(13)

〈からゆきさん〉たちが売られて行った外国は、ヨーロッパやアメリカではなくて、日本よりももっと文明が遅れ、それ故に西欧諸国の植民地とされてしまった東南アジアの国ぐにであり、そこでの客は、主として中国人やさまざまな種族の原住民であった。彼女らに限って当時の日本人一般をひたしていた民族的偏見から解放されていたということはないから、言葉は通ぜず、肌の色は黒く、立居振舞の洗練されていない原住民の男たちを客に迎えることにたいしては、おそらく非常な屈辱感を味わったにちがいない(14)

わたしは、女性史は女性のみに書くべき資格がある——などという偏見を持っている者ではもとよりなく、むしろ女性史の研究者や読者に男性が積極的に参加することを望んでいるのだが、しかし、売春婦および海外売春婦の研究だけは、女性の手によらなければあきらかにできないところがきわめて大きいと考えるのだ。(21)

 そげんかことして働かにゃならんじゃったもんだから、うちらは、学校というところにゃ一日も上がらんじゃった。兄〔あぼ〕さんも、姉〔あね〕さんも、うちも行っとらん。もっとも、学校さに行かんとは、何もうちらの家ばかりじゃなか。今とちごうてあの時分は、うちらの村じゃ、学校に上がらん子どみが仰山おって、ちっとも珍しかことではなかったもね。——ただ、学校さに上がらんおかげで、字ばひと字も読むことがでけん。おまえら若い者〔もん〕はよかね、ほんなこて。本でも新聞でもいくらでん読めるし、どこへでも手紙を書けるとじゃけんな。うちらは、明き盲〔あきめくら〕ちゅうもんじゃけん、外国に行っておったあいだも、病気もせんで元気でおるぞいという便りひとつ、自分ではよう書けはせん。国へ金ば送るときでも、いちいち他人さまに頼んで書いてもろうて、手紙が来れば来るで読んでもらわんばならん。おまえには分からんじゃろうが、そりゃ、ほんなこつ口惜しいことじゃぞ。(70)

 事が済んですぐに「プラン」〔現地語で「帰れ」〕言うても、怒る土人はひとりもおらんじゃった。土人はうちらを大切にしてくれての、手荒なことなど絶対にせん。うちが土人の言葉ば喋るちゅうことば聞いて、遠くから、わざわざ三番館のうちのとこさん通うて来る土人もおったと。みんな、良か者〔よかもん〕の気性ば持っとった。あれのほうも、あっさりしとって一番よか。——土人にくらべて二番目によかったのは、メリケンやイギリス人じゃ。〔略〕日本人はな、うちらにも内地が恋しいか気持のあるけん、誰もが喜んで客に取ったが、ばってん、客のなかで一番いやらしかったのと違うか。うちらの扱いが乱暴で、思いやりというもんが、これっぱかしも無かったもんな。(95. 傍点省略)

一番ひどかときは、ひと晩に三十人の客ば取ったと。〔略〕港町のサンダカンじゃけん、フィリッピン航路の船がよう入ってな、船の入るたんびに、うちらはひと睡りもでけんじゃった。月のもんのときも、親方はからだ遊ばせてはくれん。からだの奥にきつう紙ば詰めて、それで客を取った。(99)

 村の者〔もん〕のなかには、「おサキさん、もう遠か外国さにゃ行かんで、天草におりなっせ」と言う者もあったが、うちの気持良くおれる場所はどこにも有り申さん。サンダカンへ戻れば、おクニさんがおるし、朋輩のおフミさんもおシモさんもおるけん。うちのおるところはやっぱりサンダカンじゃ思うて、半年たつかたたんうちに南洋行きの船に乗ったと。(125)

お女郎商売やっとったうちのような者〔もん〕が、おっ母さんでございという顔でそばにおらんほうが、嫁との暮らしがうまく行くとじゃけん、うちは、ここへ帰って来て良かったと思うとる。勇治と嫁とのあいだには、孫がふたァりおって、顔見たいと思わん日はなかが、いつになったら望みが叶うもんかわからん。孫の顔も見られんでひとりでおるのは淋しいが、そのほうが勇治にも嫁にもよかとじゃけん、うちは誰にも何にも言わんでがまんしとると。そうして毎朝、お大師様とお天道様と仏様とに、勇治の一家じゅうが風邪もひかんで達者でありますように、自動車にひかれたり仕事場で事故に会わんようにと、うちは本気でお願いば申しとるとね。(138)

 幼女期をようやく終えたばかりのあんな小さな女の子が、からゆきさんの仕事の意味を知らずに外国へ売られて行くのと、その意味を知っていながら肉親のためにみずから進んで売られて行くのと、はたしてどちらが残酷であろうか。いずれも残酷と言ってしまえばたしかにそのとおりなのだが、しかし敢えて比較すれば、わたしには、後者のほうがはるかに苛酷であると思われてならないのである。(150)

 彼女にとってわたしという闖入者は、その貧しい生活を圧迫する迷惑な存在だったことは違いないが、反面また、孤独で単調なその生活になにがしかの変化をあたえたこともたしかであり、それは彼女の喜びでないことはなかったのだから、わたしは、もしかしたらおサキさんから引き止め〔ママ〕られるかもしれないと考えていた。それなのにおサキさんは、置いて来た子どもが気にかかると言うと、あっさりとわたしの帰京を許してくれたわけである。わずか十歳ほどで遠い南方につれて行かれ、故郷恋しい思いを十分に味わったことのある彼女だからこそ、この数週間母から離れて暮らしている美々の立場と、その美々にうしろ髪引かれるわたしの気持とを理解して、あえて引きと〔ママ〕めにかからなかったのであろうか。(236)

それでわたしは、「おかあさんに、ひとつだけ訊いておきたいんだけど——」と口を切って、どこの馬の骨ともわからない自分のような者を三週間も滞在させておくあいだ、なぜその身の上について訊かなかったのか、わたしがどんな身元の人間だか知りたいとは思わなかったのか——とたずねてみたのである。
 するとおサキさんは、こんどは別の猫を膝の上に抱き上げながら、「そらあ、訊いてみたかったとも、村の者〔もん〕は、ああじゃろ、こうじゃろと評判しとったが、そういう村の者より、うちが一番おまえのことを知りたかったじゃろ」と、やはり静かな口調で言った。そしてそのあとへ、「——けどな、おまえ、人にはその人その人の都合ちゅうもんがある。話して良かことなら、わざわざ訊かんでも自分から話しとるじゃろうし、当人が話さんのは、話せんわけがあるからじゃ。おまえが何も話さんものを、どうして、他人のうちが訊いてよかもんかね」と、これも穏やかな調子でつづけたのであった。
(239)

 からゆきさんという存在は純粋に個的なものではなくて社会的なものであり、その意味からして、からゆきさんの辿った生涯の軌跡がひとつあれば、それとほぼ同様の生涯を送ったからゆきさんが無数にいたものと思ってさしつかえない。とすれば、その境涯からの脱出に個人の能力の限りをつくしてなお且つ敗れた平田ユキというひとりのからゆきさんの背後にも、同様にたたかってしかも敗れた女性たちが無数にあったと見なくてはならぬのである——(331)


@研究室
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by no828 | 2015-09-18 20:59 | 人+本=体 | Comments(0)
2015年 09月 16日

ところが現実の病室で、現実の母は、たやすく死んだりしないのです——伊藤比呂美『とげ抜き』

c0131823_20275619.jpg伊藤比呂美『とげ抜き——新巣鴨地蔵縁起』講談社(講談社文庫)、2011年。10(932)


 単行本は2007年に同社

 版元
 

 伊藤比呂美を読むのははじめてです。日記というか、エッセイというか、詩というか。文体が独特です。

 水村美苗『母の遺産』とも重なるような内容が含まれていました。


 結論からいえば、紫雲はみえず、天の音楽も聞こえませんでした。そして、母はまだ死にません。もだえ苦しむ母を前に、医師たちの説明によれば、これは心不全、それによって肺に水がたまって、この呼吸の困難がひきおこされたものであると。
 この苦しみを取り除くことはできませんか、とわたしはききました。
 医師たちにはできないようでしたし、医師たちは考えてもいないようでした。まだそんな段階ではないともいわれました。
 でも苦しんでいます、とわたしはいいました。(どうせ死ぬなら)その苦しみを取り除いて(死なせて)やりたいと思うのです。
 ここにいる人は、と年上の男の医師がいいました。どの人もどの人も、みんな、痛い苦しい思いを抱えている、それがあたりまえなんです、病気というのが、もともとそういうものだからだ。
 でも、とわたしはいいかけてやめました。会話というものは、成り立たないときもあるのだと知りました。生かしたいという善意であります。科学の力であります。現実は、かけ離れておりました。わたしは読み過ぎておりました。往生する往生伝や心中する浄瑠璃を。平家物語やバガボンドやDEATH NOTEを。そこでは人がたやすく死にました。つぎつぎに死にました。どんな死も、ありました。ところが現実の病室で、現実の母は、たやすく死んだりしないのです。といいますか、死ねないのです。
(157-8)

 わたしは逡巡する、わたしの両親だけじゃなく、人はみな、老いるとふしあわせになっていくのかそうじゃないのかと、知り合いの両親は、父親は九十二母親は九十、健康で、二人で住んで、まだ父親は車を運転するそうだ、良いことだ、しかしあなたは思わないか、かれらの周囲で、人々はほとんど死に絶えたにちがいないのである、わたしは逡巡する、かれらは思うだろうか思わないだろうか、寂しいと、わたしの母は、手足が動かなくて、寝返りもうてず、排泄もできず、食事も摂れず、家には帰れず、本も読めず、犬にも、妹たちにも、友人たちにも、もう会えない、わたしは逡巡する、母は、死ぬことができないのか死にたくないのか、先日心不全を起こしたときも、彼女は助かろうとしたのである、夜間で医師がいないといわれたときには、それでも病院かと語気を荒げて看護師相手に押し問答したそうだ、そうまでして生きる価値はあるか。
 ない、と隣人がはっきりいいました。
 人はみな老いるとふしあわせとわたしは解す。
 そのとーり、と大きくうなずいた隣人はいいました、わたしは自殺を考える。
 どきりとしました。
(202-3)

 大学にいってる上の娘が、少しずつ傾いておりました。それは、刻々察知しておりました。
 最初はこの子の個性だろうと思っていました。
 しだいに個性じゃ片づけられなくなり、電話口で笑わなくなり、
 泣き声で電話をかけてくるようになり、ひんぱんにかけてくるようになり、
 食べられない、眠れない、勉強が頭に入らない、どうしたらいいかわからないと、
 愁訴が悲鳴になりました。
 心だから見えないものの、手ならちぎれて血が出てるし、胃なら穴があいて倒れてるわけで、
 親の出る幕でありました。

 その矢先、事件が起きました。
 ある日娘の目の前で、物理学の教授が、ぱたりと講義をやめて、いいました。
 わたしはもはや立っていられない。
 そして唖然としている二百人の学生を尻目に教室を出て行って(彼らの目の届かないところで)自殺しました。
 次の週は休講でした。
(243)

 死は、生の最期とばかり考えていて、誰にとってもはじめてだということに、なかなか気がつきませんでした。良い死に方を経験した人は誰も生きておりません。悪い死に方というものがあるとも思えません。前回は失敗したが今度こそ、とリベンジはありえないのでございます。(289)

 どこで線を引きますか、「おといれ」に行けなくなったとき? 意識がなくなったとき? あるいは食べられなくなったとき?
 意識がなくなって、「おといれ」に行けなくなったとき。
 でも時々、意識はあっても、「おといれ」行けないときってありますよね、そのときはどうします? 意識は今のままにある、あるけど、「おといれ」に行けない、自分でいえますよね、「もう死にたい」と。
 ええ、いいますよ。
 でも、今の法律では、お医者さんに死なせてもらうということはできませんよね。
 そうそう、尊厳死、そういう法律ができないかな、そういうことを思っている人たちで頼んで、尊厳死というのを認めてくれないかなと思ってます。
 でも、「おといれ」に行けない状態でも、頭がしっかりしたままで、あと三十年ぐらい生きることも可能ですよ、「おといれ」行けなくても。
 それはいや。
 じゃ、二十年、十年。
 苦痛ですね。
 そんな状態でもやっぱり生きていくでしょ。
 生きていたくなーい。
「おといれ」って、やっぱり大きいですかね。
 大きいですね、やっぱり。
(297-8)

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by no828 | 2015-09-16 20:37 | 人+本=体 | Comments(0)
2015年 09月 15日

私が誰かを搾取してしまう可能性はそこここに秘められている——上田紀行『ダライ・ラマとの対話』

c0131823_2010683.jpg上田紀行『ダライ・ラマとの対話』講談社(講談社文庫)、2010年。 9(931)


 単行本は2007年にNHK出版
 
 版元


 2006年12月に行なわれた、著者上田紀行とダライ・ラマ14世との対談の記録。「対談」と書くととても穏やか和やかな印象を持たれるかもしれません。であるなら、本書は「議論」の記録であって、思考の躍動感が伴っていたように思います。ちなみに、「ダライ・ラマ」とは「大海のように広大な徳を持つ」の意。

 先日、映画「ルンタ」を映画館で観たばかりです。中国政府に対し焼身という方法で抗議する人びとがいます。インドのダラムサラに住み、“チベット人”を支援し続ける“日本人”のドキュメンタリーです。チベットのドキュメンタリーには、本書で上田が言及している「ヒマラヤを越える子供たち」という映画もあるようですが、これはまだ観ていません。某熱帯密林では、中古品のみの取り扱いとなっています。

 参考:映画「ルンタ
    チベットNOW@ルンタ


ダライ・ラマ 私はヨーロッパ諸国のような社会民主主義こそが正しい方向なのではないかと考えています。〔略〕個人がお金を儲けて、利益を得る自由があるという意味では資本主義的ですが、それと同時に、社会保障、社会福祉に関するケアも十分にあるというような社会体制です。(35)

ダライ・ラマ 世界のどんなところでも、人間はほかの人々とともに生きていくほうがより容易に生きていけるという理由から、私たちは村をつくったり、町をつくったり、都市を形成することによって、一つのコミュニティのなかで、社会的な生活を営んでいるのです。(39)

ダライ・ラマ 未開発な地域においては、人間同士がお互いに協力することが必要になります。〔略〕より協力的になることを必要とされる社会に生きていればいるほど、私たちには、自分がその社会の一員であるという感覚がより強くなるのは必然的なことではないでしょうか。
 ところが、大都市に住んでいる人たちのことを考えてみると、各個人は、会社や工場なので働いていて、それぞれのサラリーを得ている。〔略〕自分自身がまったく独立採算を営むものとして完結しているような感覚を生じてしまうわけです。〔略〕そのような場合には、自分が社会に属している一人の人間であるというような感覚が薄れてしまっているのではないでしょうか。そして、自分は独立して仕事をし、自分で自分の口を養っているのだ、といった感覚が芽生えていきますと、間違った認識を持つようになってしまいます。自分はほかの人たちにはまったく依存する必要はなく、独立した存在であるというような、間違ったものの考え方に陥ってしまうわけです。
(40-2)

ダライ・ラマ 近代的な教育システムは、人間的なやさしさという、私たち人間にとって欠かすことのできない、一番大切なものを育むことに完全に失敗しています。そこで、近代的な教育システム全体を改めて考え直さなければならない時期にきているのではないか、と思うのです。(55-6)

上田 世界の仏教国といわれる国が、物質的にどこも貧しい国だということです。スリランカにせよ、タイにせよ、ミャンマーにせよ、南北問題の南と北という面から見れば、すべて南の国に属するわけです。日本は仏教国だといわれますが、なぜ日本がこんなに物質的に発展したかといえば、仏教国でなくなった、仏教の教えを重要視しなくなったからではないか、というふうにいってもいい部分もあるかと思います。(58-9)

ダライ・ラマ 私自身も搾取者です。つまり、私は高僧の立場、偉大なるラマの立場にあるのです。私が、自分自身を自己規制している限りはそういうことにはなりませんが、もしそうでなければ、私が誰かを搾取してしまう可能性はそこここに秘められているのです。(65)

上田 仏教者が、その怒っていること自体がよくないというふうにいってしまうとき、それは目の前にどんな不正があっても、社会制度のなかにどんな差別があっても、怒らず騒がず毎日ニコニコと生きましょう、といった恐ろしく社会性を欠いた独善主義に容易に転化してしまいます。そしてそういった態度によって、社会に存在する格差が温存されてしまったり、不正をなくしていこうという社会的な改革の芽を摘んでしまって、結局は何も起こらなくしてしまう。(73)

ダライ・ラマ 仏教では、そもそも一番初めの段階から、信仰と論理は両立していなければなりません。論理性を欠く信仰は単なる妄信となってしまいます。〔略〕信仰は単なる妄信的な信心ではなくて、自分が信心をするに値する適切な土台を釈尊の教えが持っているということについて、自分自身が確信することが必要なのです。(79-80)

ダライ・ラマ 小乗における仏教の教義は、ほかの命あるものを害さないということを教えていますが、大乗における教義においては、単に他者を害さないということだけではなく、他者を助けていく。利他を為そうということを強調して説いているのです。(89)

ダライ・ラマ 捨てるべき執着とは、偏見に基づいている欲望のことです。しかし偏見のない心が持つ価値ある欲望は、捨てるべき執着ではありません(100)

上田 自らの解脱を追究する小乗仏教の伝統を持つタイにおいても、まだ少数派ではありますが、僧侶たちのなかには、社会活動に携わる人が増えているといわれています。
ダライ・ラマ (驚いて)タイでですか? それは知りません。
上田 これは一九七〇年代以降のことだと思うのですが、社会的活動に積極的に関わろうという僧侶たちがタイでも出てきました。「開発僧」と呼ばれる僧侶たちですが、エイズの人たちのためのホスピスを建てて活動したりとか、人々を貧困から救うために相互扶助の運動を展開するとか、社会派の僧侶たちが出てきたのです。
(194)

ダライ・ラマ しかしその話には矛盾がありますね。さきほど、あなたは日本社会では個人のアイデンティティが失われてきた、という話をしていましたね。つまり自分というものはどんな他人によっても置き換えられてしまう存在で、日本では自分というものが見失われていると。しかしいま、日本人が非常に利己的になっていっているとおっしゃっている。それは不思議ですね。自分というものがない、つまりエゴを見失っている人たちが、どうしてエゴイスティックになれるのでしょうか? エゴがない人はエゴイスティックになれないでしょう?
上田 〔略〕他人の目を気にして自分の発言は抑制する。そしてきちんと公共の場で発言しない分、自己の責任も取らない。それはある種、未成熟なエゴともいえます〔略〕が、しかしそうした無責任なエゴがどんどんエゴイスティックになっている。〔略〕
 その背景にあるのは、私たち日本人が、私たち自身に対する自信とかプライドを欠いていることではないかと思います。つまり、無条件の私、あるいは、あるがままの私というものに対する自信を欠いているのです。〔略〕そうした自尊心とか自己信頼を欠いている人間というのは、まさに利己的(エゴイスティック)になっていかざるを得ません。というのは、無条件の自分に対しては自信がないわけですから、それでもかりそめの自信を高めるためには、自分の収入であったり、地位であったり、お金であったり、そうしたものを高めていかなければいけない。
(203-6)

ダライ・ラマ 仏教における帰依というのは、特に大乗における帰依が意味しているのは、自分自身がブッダのようなすばらしい存在になりたい、と強く願うことですから、そこには個人のプライドがたいへん強く存在しているわけなのであって、それは依存ではないのです。
 ところが、神の存在を受け入れている宗教においては、すべては神が創造し決定するわけですから、神が偉大で、自分自身には何の力もないといった認識を持ちがちになってしまいます。
(216)


@研究室
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by no828 | 2015-09-15 20:22 | 人+本=体 | Comments(0)
2015年 09月 14日

十年近くおせわになった三越の営業と抵触しないもの、ということでした——三浦綾子『夕あり朝あり』

c0131823_18442296.jpg三浦綾子『夕あり朝あり』新潮社(新潮文庫)、1990年。8(930)


 単行本は1987年に同社

 版元


 キリスト者であり、クリーニング会社「白洋舎」の創業者である、五十嵐健治(1877〜1972)の物語。五十嵐は、離縁された生母けいと生後8カ月のときに別れ、5歳で五十嵐幸七・ゆみ夫妻の養子となります。話は五十嵐の独り語りのようにして進みます。旭川の病める三浦綾子を見舞ったこともあったようです(三浦の別の著作でも五十嵐が登場していたように記憶しています。そして、当初三浦は五十嵐をよくは思っていなかったと書かれていたようにも記憶しています)。

 良書。


 私には、ゆみという母は、私を育てるために、神からこの世に遣わされた天女ではないかと思われるほどでした。ですから、私の出奔は、母の精神的な生命を絶ったようなものだったかも知れぬと、どんなに悔いたことでしょう。母は私を育て上げたが故に、若くして死んだような気がしてなりません。
 縁者の少ない母の葬儀には、集まる親戚こそ多くはありませんでしたが、名もない貧しい者の妻としては、多くの人が集まったようです。特に女たちが目を真っ赤に泣きはらしていたのを覚えています。そして、思いがけぬことに、まだ十二、三歳の子供たちが葬列に加わって、しゃくり上げていたのが、まなうらに焼きつけられています。
 母を焼く煙が、六月の空に立ち昇るのを、しゃがみこみたい思いで私は見つめていました。この時、私の胸に初めて、
「人間は誰もが必ず死ぬのだ」
 という、厳粛な事実が植えつけられたのでした。
(死んで人間はどこへ行くのか)
 そう考えるようになったのも、母が死んでからでした。
(49-50)

 不思議なもので、いや、当然かも知れませんが、買いに来るのはほとんど女か子供。しかもたいてい、みすぼらしい身なりの女や子供が多い。むろん男もやって来る、が、その男たちは店先で一杯きゅっと引っかけて帰って行く。これもまた決して金持の男は来ない。近頃はいざ知らず、昔の酒屋の客という者は、何か物悲しいものでしたなあ。小さな子供が、欠けた徳利などを持って来て、手に握って生あたたくなった銅貨を私に渡す。そんな時、妙に胸がちりちりして五勺の酒を六勺にしてやりたくなる。私にはそんな弱さがありましたなあ。(54)

思うのは出世した暁の自分の姿ばかり。いかに若いとは言え、いや恐ろしいものですなあ。金だけが幸せをもたらすものと、思いこんでいたのですからなあ。金を儲けることが、人間唯一の道だと思っていたのですから、お恥ずかしい次第です。まだ私には、人間の求むべきものが、少しも見えてはいなかった。(82)

「御主人、まことに申し訳ないが、どこか、この上田で奉公口を世話してもらえまいか」
「奉公口? おせわしないものでもないですが、この上田に住みつきなさるかね」
と問われた。
「いやいや、実は何と叱られても、仕方のないことだが、わたしは一銭も持たずに、昨夜泊めていただきました
「何!? 一銭も持たずに?」
 主人はさすがに驚いた顔をしたが、形相は変わらなかった。
「はい、それで、その宿賃を返すために、働き口をおせわしていただきたいのです」
 叱られるのを覚悟で、私は小さくなって言った。と、私の様子をじっと見ていた宿の主人が、こう言いましたな。
人間一銭も持たずに旅をするというのは、よほどの事情があってのことでしょう。夜の明けぬうちに逃げられてしまっても仕方のないところを、あんたは正直に詫びてくれた。わたしはあんたを信用します
 しかし何ですな。小さな宿屋をしているからと言って、人物が小さいとは限らぬものですな。また大きな会社を経営しているからと言って、大人物であるとも限らぬものですな。
(89)

 それと驚いたことには、食事が奉公人と全く同じだった。私の経験によりますと、主人の食事は、奉公人と全くちがう献立か、あるいは奉公人の膳より、一品や二品、魚だの煮物などが多くつけられるのが当り前。が、この家ではそうではなかった。そして主人夫妻は、食事の度に何やら祈るのですな。珍しいことなので、ある時私は、給仕をしながら耳を傾けた。
 祈りというのは、商売繁盛、家内安全を祈るものだと思っておりましたが、ちがいました。あの時まで私は、あんな祈りがこの世にあるとは夢にも思っておりませんでした。
 住吉屋の夫婦の祈りはこうでした。先ず貧しい者たちにも食事が与えられるように、と祈るのですな。〔略〕次いで主人が祈ったのは、「親のない子をお守りください」という祈りです。〔略〕
 が、内心私は、そんなに心にかかるなら、親のない子を引取るとか、貧しい者に何か恵むことをしたらよいではないか、などと思わぬでもなかったのです。
 ところが、この住吉屋に来て、半月も経った頃でしょうか、私は番頭さんに思わぬことを聞かされました。
「旦那さまはな、上毛孤児院を建てられて、何十人もの親なし子を、育てていられるのだよ」
 私は耳を疑いました。明治二十五、六年のあの頃、孤児院という名すら、ほとんど聞いたことはなかった。
(95-6)

「神さまが愛なる方だと、中島さんは言われますが、それならどうして人間が、罪を犯さぬようにお創りにならなかったのですか」
 中島氏は大きくうなずいて、
「健治君、神さまはね、人間をご自分に似せて創られたのだ。いいかね、神に似せて創られたのだから、正しい者に創られたわけだ。しかし神は人間を、自由意志を持つ者としてお創りになった。悪いことをしようとした時に、手足が動かなくなるようには創られなかった。つまり人間の人格を尊重して、自由を与えられたのだ。それとも健治君、人の悪口を言おうとする時、舌が動かなくなるように創って欲しかったとか、悪い所に行こうとする時、足が動かなくなるように創って欲しかったと思うかね。それとも、良いも悪いも、自分の分別で、自由に生きるほうがよかったと思うかね
 とこう反問されましたな。私は、はっとしました。自由な人間に創られたことの尊さに気がついたのです。
(182-3)

 私共キリスト信者は、祈る時、よく声に出して祈ります。むろん、黙祷をすることも少なくありませんが、あの口に出して祈るのがいいのですなあ。黙祷ですと、祈っているうちに、祈っているのか、思っているのか、わからなくなることがある。〔略〕しかし声に出して祈る時は、やはり神の前にひれ伏す心になりますわなあ。自分の祈った言葉に促されて、いよいよ祈りに身が入りますわなあ。しかも、自分の祈りを口に出す、その祈りを耳にする、そのことがまた祈りを自覚する。これが大事です。祈るということと、思うということとは、別ですな。
 祈りは神に捧げられるもの、清められた言葉でなければなりません。神への願いであり、神への問いかけであり、その問いかけに対する答を聴き取ろうとすることでもありますな。単なる思いは神ぬきでもできます。いかに誰かに同情していても、神ぬきで思っているだけでは……これは祈りとはちがいます。
 ええと、何をお話するつもりで、こんなことを申し上げたのでしょうか。そうそう、妻と共に、言葉に出して祈り合うようになってから、平安になったと申しましたな。
(273)

藤村常務は、
「ところで五十嵐君、三越をやめて何をするつもりなのだ」
と、心配そうに尋ねてくださった。実は私も、辞職願を出す前に、何を自分の一生の仕事としていくか、ずいぶんと考えていたのです。第一に考えたのは、日曜日の礼拝を守ることのできる職業ということでした。そして、キリストの御言葉を宣べ伝えることのできる時間を生み出せる仕事でした。
 次に条件としたのは、十年近くおせわになった三越の営業と抵触しないもの、ということでした。ま、私は、呉服について、特に高級呉服については、宮内省のご用を現実に承ってきた者ですから、人に負〔ひ〕けは取らなかった。だからと言って、呉服物を取扱おうとは、夢々思わなかった。三越の営業に、いささかでも敵対するようなことは、したくなかった。そして、でき得るならば、三越に生涯出入できるような仕事をしたかった。
 次に、みんながやりたいと思う仕事よりも、むしろ遠ざけるような仕事をしてみようと思った。人のやりたくない仕事だからと言って、その仕事がこの世に不要とは限らない。否、必要でも人がやりたくない仕事があるものです。
(279-80)

 藤村常務は、その紙片を持ったまま、二分、三分、五分と、黙りこんでおられました。が、やがて顔を上げられると、
「五十嵐君、わたしは今まで、いろいろな人の、自分の店を持ちたいという相談に、何度乗ったか知れない。しかし君のように、三越の営業に抵触しないこと、などという条件のもとに仕事を決めた人を見たことがない。誰でも、長年の経験を生かしたいのが人情というもの。中には三越時代に親しくなった問屋と相談して、さっさと店を持つ者もあるのに……」
 こう言われて、またしばらく沈黙された。が、再び顔を上げられて、
「ところで、五十嵐君、資本はどのぐらいあるのかね」
 と、お尋ねになった。資本を尋ねるというのは、これはもう他人事として扱ってはいない証拠です。私は胸にじーんとくるものを覚えながら、
「はい、お店にお預けしてあります保証金が三百円ほどございますので……」
 と申し上げた。と、藤村常務は言われた。
「……三百円ですか。わかりました。五十嵐君、わたしはキリスト教のことを詳しくは知らないが、今、この何箇条かを見ていて、おぼろげながら、何かわかってくるものがある。これからは、及ばずながら君の事業を応援させて欲しいと思うのだが、どうだろう
(283-4)

 親きょうだいに捨てられたこの〔ハンセン氏病の〕患者たちを、フランス人の院長〔ドルアール氏〕はその肩を抱き、笑顔で話しかけ、まことに春風駘蕩たるありさまです。この姿を見た時、私はこれが事業の根幹だと思った。この愛、この奉仕の精神こそが、白洋舎精神でなければならぬと思った。
 同じ頃、私はもう一人の感動すべき人物の話を聞いた。その人は、第二代目の衆議院議長片岡健吉氏です。氏は熱心なキリスト信者であった。彼は必ず祈りをもって議会にのぞんでいると言われていた。
 ある日曜日のこと、ある人が時間をうっかりまちがえて、一時間早く教会へ来た。ひっそりとした教会堂内には誰もいなかった。いや、いないと思ったが、下駄箱の傍にひざまずいて、草履の鼻緒を二足三足と、すげ替えている人がいる。誰かと思ったら、日本に誰一人知らぬ者のない片岡健吉氏であった。
 この話を聞いた私は、キリストの弟子であるとは、このように隠れた所で、愛の業をなすものだということを知った。フランス人ドルアール氏、そしてこの片岡健吉氏の姿は、白洋舎の土台であると、固く固く思ったわけです。
(391)

「先進国の、イギリス、フランス、アメリカなどの人に対しては、親切な日本人はいくらもいた。しかし、乗松〔雅休〕先生のように、貧しい朝鮮人を愛してくれた日本人を、かつて見たことがない」(404)

ぬいは、「レプタ」と書いた箱を置いておきましてな、収入の十分の一はこれに入れて置く。人様からお菓子をもらっても、おおよその金額を見積って、それが千円のものなら百円その箱に入れる。これをすべて教会に捧げた。(435)

 ところで、丈夫が中学を卒業し、大学に行きたいと言った時、私はクリーニング屋に大学は要らぬと言って、反対した。勉強するなら、アメリカのクリーニング学校に行けばよいと思った。それはですな、当時同信会の信者たちは、あまり息子たちを大学にやりたがらなかった。大学にやると信仰を失うことが多いと思っていたからです。ところがぬいは、「学資はすべて自分が出す」と言いましたな。
 こうして丈夫は、慶応大学を卒業することができた。お陰で他の五人の男の子たちも、慶応で学ぶことができた。しかもですな、のちに丈夫がアメリカに半年留学することになった時、またまたぬいは金を出してやったのですなあ。自分のためには、何一つ贅沢をしない女でしたが、子供のため、また人様のために、よく尽くした女でしたな。
(437)

信仰を持つと艱難がなくなるわけではなく、周囲の状況が少しも変らずとも、自分自身に艱難を乗り越える力が与えられる。(451)

私は明治の人間ですからな、若い人たちに何と言われようと、皇室に対する敬愛の念は決して人後に落ちない。〔略〕私がキリストを信じているということと、かしこき辺りを尊敬申し上げることには、何の矛盾もなかった。唯一の神を拝することと、何の矛盾もなかった。しかし、敬うことと、拝することとは全く別のことなのです。これをわかってもらわねばならないですなあ。(461)

「小説など書いては、信仰が失われるのではないかと、それを心配していました」
 明治生まれの先生にとっては、小説は人を堕落させるものと思っておられたようである。とにかくこの親身な言葉は、どんな祝辞よりもありがたく聞いた。のちに、私は「続氷点」を書いたが、そこにヒロイン陽子の祖父「茅ヶ崎のおじいさん」なる人物を登場させた。そのモデルとして頭に描いたのは、ほかならぬこの五十嵐健治先生であった。私は小説の中で、ヒロインの陽子に、「茅ヶ崎のおじいさん」から聞いた言葉として、「一生を終えてのちに残るのは、われわれが集めたものではなくて、われわれが与えたものである」というジェラール・シャンドリーの言葉を、手紙に書かせている。
 私は、このジェラール・シャンドリーの言葉こそ、五十嵐先生の生き方に似ていると思う。死刑囚のS兄や、貧しい療養者の私などと親しくしてくださった先生は、いつも財布が軽かった。送るところが余りに多かった。S兄とは互いに百通もの手紙をやり取りしていた。
(472-3. 「追記」)


@研究室
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by no828 | 2015-09-14 19:04 | 人+本=体 | Comments(0)
2015年 09月 10日

僕のささやかでシンプルな提案は、会場をアテネ一カ所に固定し——村上春樹『シドニー! ワラビー熱血篇』

c0131823_1833389.jpg村上春樹『シドニー! ワラビー熱血篇』文藝春秋(文春文庫)、2004年。7(929)


 単行本は2001年に同春秋
 版元


 この本を読んだのは今年のはじめですが、いまこうして振り返っていると、日本の現況と重なるところがあって、うなずきながら書き留めることになりました。


 そういうわけで、僕らはオリンピックで活躍する代理のアスリートを懸命に応援し、それによって闘争心を代理的に満足させるという、考えてみればかなりまわりくどいことをやっているわけだ。しかし原理的にはややこしい行為ではあっても、表現の方法はきわめて簡単である。大声で叫んで、旗を振りまわせばいいだけだ。(10)

 僕もちょっと信じられない。現代のマラソンというのは、ものすごいところまで来ているんだなと実感する。その昔は「四十二キロを人が走る」というだけで人は感動した。今では「こんなひどい季節に、こんなひどいコースを、人がこんなに速いスピードで四十二キロ走る」ということで、人は感動する。これはマラソン競技にとって正しい進化なのだろうか? 僕にはよくわからない。(16)

 彼女〔高橋尚子〕はリズムをつかんでいる。というか、リズムがすべてになっている。内在的なそのリズムの中に、自分自身を溶け込ませている。それより上には行かないし、下にも行かない。リズムを損なわないこと、彼女が考えているのはそれだけだ。背中を何かに軽く押されているみたいに、無駄のないフィームで走り続ける。(23)

 同時に、彼女の中で何かが溶け始める。静かに、しかし確実に溶け始める。彼女はやっと手を大きく上にあげる。もう一度あげる。まだ笑みはこぼれない。顔はこわばったままだ。でもフェンスに沿って走っているうちに、小さな目盛りひとつずつ気持ちがほぐれていく。客席のいちばん前にいた家族と手を取り合い、抱擁する。知っている人々の温もりを受けて、やっと自分というものが戻ってくる。表情がゆるみ、穏やかな笑みが湧き水のようにしみ出てくる。彼女は両手をあげる。そして何かを叫ぶ。それだけキャシー・フリードマンが深く悩み、傷つき、迷いさまよっていたのだということが、僕らにも理解できる。彼女は誰よりも重い荷物を背中に背負っていたのだ。
 このシーンを見るためだけでも、今夜ここに来た価値があったと思う。
胸が熱くなった。人の心の中で、固くこわばっていた何かが溶けていくのがどういうことなのか、それをまぢかに目撃することができた。今回のオリンピックの中でも、もっとも美しく、もっともチャーミングな瞬間だった。
(47)

 でもそれは筋が違うと僕は思う。タチアナ・グリゴリエワ(棒高跳びの選手)は自らの意志でオーストラリアに帰化したのだ。ところがキャシーが代表する人々は六万年も前からここにいた。あとから来たのはヨーロッパ人の方なのだ。自分たちの民族を表す旗を持ち出す権利は彼女にはあるはずだ。権利というものは、自分の手でつかみ取るしかない。誰も「はい、どうぞ」とは与えてくれない。アメリカのマリオン・ジョーンズだって、母親の母国であるベリーズの旗を、星条旗とともに持って走った。(53)

 僕のささやかでシンプルな提案は、競技種目を今の半分に減らし、会場をアテネ一カ所に固定してしまうことだ。サッカーとテニスと野球とバスケットボールは種目から外す。言い換えれば、プロのリーグやトーナメントが存在するものは、あえてオリンピックに入れる必要はないということだ。そうすれば大会運営の費用はもっと少なくてすむし、巨大なスポンサー料も必要なくなる。新しい会場の説明も必要ない。あの醜い誘致合戦もやらなくてすむ。アスリートはみんなアテネを目指すことになる。高校野球だって毎年甲子園でやっているけど、何か問題ありますか? ないじゃないですか。アテネはいいところですよ。マラソンだって、常にオリジナル・マラソン・コースでやれる。素晴らしいことじゃないですか。
 開催の季節はもちろん十月だ。ギリシャの十月は気候も素晴らしいし、観光のオフシーズンでもある。どうしてそれができないのか? すでにオリンピックが金権体質になってしまっているからだ。すべてが金まみれになっていて、それで潤っている人間が多くなりすぎた。もう後戻りができないのだ。
(60-1)

 ここに来てつくづく思ったんだけど、現代のオリンピック・ゲームを推進しているのは、国家主義と商業主義というふたつのエンジンです。この双子の兄弟の力なしには、現代の肥大化したオリンピックはどこにも行けません。(109)

 僕が読んだ本によれば、彼〔ピエール・ド・クーベルタン男爵〕は実際にはこう言ったそうだ。
人生において大事なことは、勝利ではなく、競うことである。人生に必須なのは、勝つことではなく、悔いなく戦ったということだ
(145)

 中には「ご苦労さん。ゆっくり休んで」なんて慰め言ってくれる人もいます。でもそれは違うんです。競技者にとって、憐れみの言葉はかけてほしくないものなんです。屈辱をばねにして、次のレースに対してモチベーションを高めていくのが、いちばん正しいことです。負けは負けだし、駄目なものは駄目なんです。ご苦労さんもゆっくり休んでも、ないんです。(190. 河野匡 大塚製薬陸上チーム監督インタヴュー)

 専属のコーチを持たないことによって生じる弊害については、有森自身も決して否定はしない。彼女は練習の日程を書いたノートをいつも大事に携えている。左側に日々の達成するべき目標が書き付けてあり、右側には実際に行なった練習が書き付けてある。それが、ロールシャッハ・テストの図形みたいに、左右対称にぴたりと合致することが理想だ。しかし場合によっては、彼女が理想を合わせる前に、理想の方が歩み寄ることもある。
いつもは左側の目標をボールペンで書くんです。でも今年は鉛筆で書きました。いつでも消せるように。つまり体調があまりよくなかったりすると、消しゴムで左側の数字をごしごしと消して、べつの数字を書き込むようになったわけです。そういうところが、一人でやっていると甘くなってしまう点かもしれません
 馬鹿やろう、何を気楽なことを言っているんだ、これだけは何があってもやらなくちゃいけないんだ、と大声で怒鳴りつけて、尻を叩いてくれる人が、今の彼女にはいない。〔略〕一人で日々黙々と、追い込んだ練習を続けていくのがどれくらいむずかしいことか、少しでも走ったことのある人にならおわかりいただけるはずだ。一緒に並んで走ってくれるパートナーさえ、彼女にはいない。
 もちろん他人に頼らずとも、一人で自分を冷酷に追い込める人間だって、世の中にはいるだろう。多くはないかもしれないけれど、少しくらいはいるはずだ。それでも、ひとつだけ基本的に言えることがある。「自分に言い訳をするのは、だいたいにおいて、他人に言い訳をするよりも簡単だ」ということだ。
(220-2)

指導者がいないことのいちばんつらい点は、自信をなくすことです」と彼女〔有森裕子〕は静かな声で言う。「自分が今どこにいるのか、それが正しい場所なのか、そうではないのか、判断をいつも自分で下さなくてはならないということです
 もちろん、ときとして、彼女は途方に暮れる。
(224)


 有森裕子に関する一連の引用は、わたしの大学院時代の——あるいは学類から、あるいは現在まで続くのかもしれない——研究にかかる心境と重なるところがあります。生意気な書き方をするなら、よくわかる。そして彼女とはレベルが違いすぎるけれども、わたしもまた走っていたのでした。

@研究室
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by no828 | 2015-09-10 18:46 | 人+本=体 | Comments(0)