思索の森と空の群青

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2015年 10月 28日

肉体的な欠点がからかいの的になることはあっても、貧しさが槍玉にあがることは——森絵都『永遠の出口』

c0131823_17593561.jpg森絵都『永遠の出口』集英社(集英社文庫)、2006年。24(946)


 単行本は2003年に同社
 版元


 書き出しは、「私は、〈永遠〉という響きにめっぽう弱い子供だった」。わたしたちはこの世界のすべてを知ることはできない。そして、このわたしがこの世界のすべてなのではない。

 20ページの引用部分には「ああ」と思わされました。それはたぶん、「貧しさ」への想像力、あるいはそれを駆動させるためにも必要な知識・認識が、相対的に富めるほうの側にいる家庭の子どもに圧倒的に欠落していたからだと思います。「貧しさ」という言葉をそもそも知らず、仮にその字面、音韻、記号のみを知っていたとしても、何を「貧しさ」と呼べばよいのかがわからないのだと思います。本当に“それ”が何なのか、わからないのではないか。なぜなら、一般に「貧しさ」と呼ばれる事柄が自分の家庭という小さな世界にはないからです。“「貧しさ」を槍玉にあげてはならない”というルールを自覚的に持たなかった、というよりも、無自覚的にさえ持つことができず、だから正確には、誤解を怖れずに言うなら、“「貧しさ」を槍玉にあげることができなかった”のではないか——そう思います。

「可能性」や「選択肢」と呼ばれる事柄の本質について改めて考えるための契機がありました。


 永遠に。
 一生。
 死ぬまで。
 姉の口からそんな言葉が飛びだすたびに、私は歯を食いしばり、取り返しのつかないロスをしてしまったような焦燥と闘い、でも結局は敗れて、もはや永遠に出会うことのないレアもの切手やニセ黄門様や斉藤くんの歌声のために泣いた。すべてを見届け、大事に記憶して生きていきたいのに、この世界には私の目の届かないものたちが多すぎた。とりこぼした何かを嘆いているうちに、また新しい何かを見逃してしまう。
 裏を返せば、私がそれだけ世界を小さく見積っていた、ということだろう。
 年を経るにつれ、私はこの世が取り返しのつかないものやこぼれおちたものばかりであふれていることを知った。自分の目で見、手で触れ、心に残せるものなどごく限られた一部にすぎないのだ。
(永遠に〜できない)ものの多さに私があきれはて、くたびれて観念し、ついには姉に何を言われて動じなくなったのは、いつの頃だろう。
 いろいろなものをあきらめた末、ようやくたどりついた永遠の出口。
(11-2)

 当時の日本は今とはちがい、まだ貧富の差というものが子供の目にも露わに見え隠れしていた。それはクラスメイトたちの身なりにも、授業参観に訪れる母親たちのそれにも、時折持参するお弁当の中身にもうかがえた。けれど子供の世界には暗黙のルールがあり、肉体的な欠点がからかいの的になることはあっても、貧しさが槍玉にあがることはなかったように思う。(20)

「でも、最近思ったりするの。結局、本物の信頼関係ってそういうふうにしか結べないのかなって。毎日、無理してでも『おはよう』って言い続けるしかないのかなって(241)

「でもさ、だからって人間がちっぽけとか、俺、そんなふうには思わねーんだよな。宇宙が広ければ広いほど、人間ひとりあたまの持ちぶんも増えるっていうか、担当範囲が広がるっていうかさ。とりあえず今んとこ、人間以外の知的生物は発見されてないわけだし。よし、がんばろうぜって、燃えてくるぜ(310)

 この人に恋をしてよかったと、一年二ヶ月経って、ようやくそう思えた。(337)

 どんな未来でもありえたのだ、と今となっては思う。アイスバーの当たりはずれに一喜一憂し、自転車を主な移動手段にして、触れもせず恋にすべてを投げだすことのできたあの頃、私は未来をただ遠いものとして捉えていたけれど、それは果てしなく広いものでもあった。あっちへも行けたし、こっちへも行けた。誰もがものすごい量の燃料を蓄えていた。そしてそれをもてあましたり無駄遣いしたりしながら、徐々に探りあてたそれぞれの道のどこかに今、たどりついている(346-7)

 生きれば生きるほど人生は込み入って、子供の頃に描いた「大人」とは似ても似つかない自分が今も手探りをしているし、一寸先も見えない毎日の中ではのんきに〈永遠〉へ思いを馳せている暇もない。
 だけど、私は元気だ。まだ先へ進めるし、燃料も尽きていない。あいかわらずつまずいてばかりだけれど、そのつまずきを今は恐れずに笑える。
 生きれば生きるだけ、なにはさておき、人は図太くもなっていくのだろう。
(348)


@研究室
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by no828 | 2015-10-28 18:05 | 人+本=体 | Comments(0)
2015年 10月 16日

赤ちゃんが天からの預かり物なら、赤ちゃんを堕ろすのはいけないこと?——海堂尊『マドンナ・ヴェルデ』

c0131823_21132959.jpg海堂尊『マドンナ・ヴェルデ』新潮社(新潮文庫)、2013年。23(945)


 単行本は2010年に同社
 版元


 半分は講義のための勉強用。

 主題は代理母。『ジーン・ワルツ』の別の側面。自分の子どもを代わりに産んでくれと、産婦人科である娘から頼まれた母親の視点。母親の名前は山咲みどり、題名に含まれる「ヴェルデ」はイタリア語の「緑」。


ママだったら、他の夫婦の受精卵で子どもを産んだらイヤな気持ちになる?
 みどりはゆっくりと首を振る。
「そうとわかったら、いい気持ちはしないわね。でも実際に産んでみないとわからないわ」
(115)

 ——お腹の子どもが授かり物じゃなくて、預かり物だから。
 ふと浮かんだ言葉を気に入ったみどりは、口の中で繰り返す。
 預かり物。
 まさしく理恵から預かった大切な宝物だ。
(137)

こんなすばらしい料理に文句をつけられるのは真の天才か、道理がわからない子どものどちらか、ですね(140)

「でも代理母をやってみると、本当は自分の赤ちゃんも、天からの預かり物だったんじゃないのかな、という気もしてくるの」
「……天からの預かり物、ねえ」〔略〕
赤ちゃんが天からの預かり物なら、赤ちゃんを堕ろすのはいけないこと?」〔略〕
それは違う。赤ちゃんを堕ろすのは母親の選択よ。天からの預かり物は天に返してもいいの
「どうしてそんな風に言えるの?」
「母親ってそれくらい大変な仕事だから。仕事を引き受ける時、できるかどうか考えてから決めるでしょ。できない仕事はできない、と答えることは、いけないことじゃない。少なくとも、産んでから苛めたり捨てたりするよりは、よっぽど誠実よ
(196-7)

「だってあの先生が言ってたもん。理恵先生には敵わない、自分よりずっと偉いって。男の人がそんな風に余裕かますときって、たいていヤッた後なのよね(238)

 子どもたちに罪はありません。罪はおとなが、子どもに背負わせるもの。理恵ならば平然とその罪を背負い、また双子にも背負わせながら、育て上げていくことでしょう。けれどもその時には、私たちの双子からは、私たちが受け継いでほしいと願う大切な何かが、すっぽり欠落してしまうように思えてならないのです。(267)

産まれてしまった子どもは、われわれ人類の家族として、社会全体で抱き締めてあげれば済むことではないでしょうか。
 私の考え方は暴論でしょうか? 外部からはよく言われます。けれども現実を考えてみてください。もし私のような考え方が否定されたら、里親はいつまでも本当の親になれません。心優しい里親に慈しまれて育てられる子どもがいる一方で、実の子に対し鬼のような所行をする親がいる。社会全体で子どもを慈しみ育てるという観点から見れば、どちらの親が本当の親なのでしょう。
 そう考えれば結局、今回の理恵の行為は、行為自体は倫理的非難は受けるだろうけれど、本質的に問題はなく、大切なのはむしろ産まれたあとの子どもたちに、私たちがどのように応対していくか、ということの方なのだと思います。
(271)

 女性は好きな男の子どもを産みたいもの、とよく耳にするがそれは間違いだ、と初めて理解した。女性は単に自分の子どもを産みたいだけ。そして、どうせ産むのなら、せいぜい好きな男が相手であって欲しい、と願っているだけなのだ。(274)

「あたし決めたんだ。これからは何でもしっかり見てやろうって。よく見ないと理解できないし、理解できないと間違えちゃうんだよね(307)


@研究室
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by no828 | 2015-10-16 21:23 | 人+本=体 | Comments(0)
2015年 10月 15日

この鏡像の関係に割って入ることはできないのではないか——四方田犬彦『モロッコ流謫』

c0131823_21454034.jpg四方田犬彦『モロッコ流謫』筑摩書房(ちくま文庫)、2014年。22(944)


 単行本は2000年に新潮社
 版元 


 三島由紀夫(の弟)のこと、「オリエンタリズム」のことなど、おぉ、と思わせる部分がありました。あの本にはそういう背景があったのか、と知らされました。また、概念にも誕生の文脈があり、その文脈から形式的な本質のみを取り出し、別の場所へ適用することによって観察しうることが増加することもあるわけですが、しかし本書のある部分を読み、それがひどく滑稽なようにも思えました。

「私語めき」(169)と書いて「さざめき」と読ませるのかあ。

 サルトルの逸話も、おもしろかったです。


いまだ問われてもいない問いの解答」という表現は、実にいいえて見事であると思う。作家としてどころか、まだ作曲家としてもほとんど経歴のなかった当時の〔ポール・〕ボウルズは、それでもこの港町〔タンジェ〕を前にしたときに、何か強い直感を感じないわけにはいかなった。(38)

マグレブ世界を描こうとする作家たちは、ともすれば安手のオリエンタリズムの罠に陥ってしまい、自分の語りが拠って立つ場所に無自覚のままに終わる。ボウルズはいかなる場合にも自分に超越的な全能の視座を許そうとはしない。だが彼は例外なく、自分を世界の外側に置いて語ろうとしている。人物は内面によってではなく、つねに外側から、冷たい眼差しのもとに描写される。(46)

パリやボローニャでオリエントというとき、ヨーロッパ人が漠然と頭に描いているのは、けっして東京や北京ではなく、アレクサンドリアやチュニスといった地中海の南側にあるイスラム圏の文明のことである。
 ことはその南側の知識人にとっても同様であるらしい。以前チュニジア出身のラカン派の精神分析学者と話したことがあったが、彼は日本人がみずからをオリエントと呼ぶことに、正直いって驚きと当惑を感じてしまうといっていた。ではマグレブから見ると、日本は同じオリエントではないのかと尋ねると、日本はオクシデントを越えた、さらに向こう側だと、大きく手を振って答えてくれたことを思い出す。彼がいおうとしていたのは、日本がテクノロジーや経済においてオクシデントを凌駕する発展を示しているということではなく、地政学的に見て、この二つの言葉がどこまでも地中海を鏡面として対称的に成立しているという認識であったように思われる。オクシデントとオリエントは、互いに自己同一性を確認しあうために相手を必要としている、対になった存在であるかのようだ。「極東」の文明がいかに未知の魅惑を湛えていたとしても、この鏡像の関係に割って入ることはできないのではないかと、わたしは見ている
(186-7)

もっともかつての学問の都フェズが、カラウィーン学堂を根拠地として、反フランスの抵抗運動の中心となったことも記しておきたい。フランスがヨーロッパ式の教育制度のなかで育てあげた若いフェズの知的エリートたちは、両大戦間に祖国の独立と近代化を切望するまでになった。イスティクラルと呼ばれる独立運動の集団が一九四四年に結成され、アルジェリアやチュニジアの独立闘の影響もあって、戦後急速に発展しフランスを脅かす存在となった。(88-9)

 カラウィーン・モスクは礼拝の場であるとともに、イスラム神学を始めとする学問と教育の場として、長い間機能してきた。十世紀にはすでにコーランの訓読講義がなされていたというのだから、これはかつてわたしが身を寄せていたボローニャ大学よりも古い。ただ「ウニヴェルシタス」という名称が使われていないだけのことである。写本一万冊をもつ図書寮は、文字通りイスラム世界で最大の規模とされている。この場所からイベリア半島を通ってピレネー越しに、アリストテレスの論理学や古代の数学がヨーロッパ世界に伝えられたと考えると、ある感慨が起きてくる。(112)

〔『蜘蛛の家』では〕それどころか世界に生起するあらゆる事象はあらかじめコーランに記されていると頑強に信じ、フランス人であれ、イスティクラルであれ、すべて「政治〔ポリティック〕」なるものは人を騙す不正であり、虚偽であると、息子のアマールに教え聞かせている。(91)

観察できるものだけを純粋に外部から眺めるという審級〔スタンス〕を取っていた著者が、事物の内側を観想しようとして書かれた小説として、『蜘蛛の家』はボウルズの著作のなかで独自の位置を占めている。(103)

 イスファハンでも、イスタンブールでも、またパリでも、モスクは、たとえ異教徒であっても自由に入ることができた。だが、ここモロッコにかぎっては、信仰のないわたしは内部に入ることはできない。(111)

 ひとたび封印が破られてしまうと、平岡〔千之〕さんは兄の思い出を次々と語りはじめた。死の何年か前のことだったが、当時ビエンチャンの日本大使館にいた彼のもとに、パリの三島由紀夫から、日本に戻る前にそちらに立ち寄るという通知が来た。ラオス国王に、このたび日本の有名な小説家が参りますがと謁見を求めると、王からはひとこと、その者はプルーストを解するかというご下問があった。王は若き日にパリで学んだころ、『失われし時を求めて』の魅力に取りつかれ、故国に戻っても学友であった現総理大臣とプルーストの長編に登場する情景の話ばかりを、数十年間にわたってしてきたのである。彼はシャルリュス男爵が一番好きな人物であった。数日後に現われた三島由紀夫は、その意味で王の理想的な話し相手だった。機嫌をよくした王は、彼のために特別に、幼げな王子や王女たちにむかって『ラーマーヤーナ』の芝居を演じるように命じた。三島はたどたどしい科白回しで演じられる舞台にひどく感銘を受け、やがてその一切は、彼が帰国後に執筆した『暁の寺』にそっくり写しとられることになった。(142)

 のちに彼は、かつて数十年前に調査をした部族が新しい王を戴くというので、その儀式に「国賓」として招待され参列した。その場で彼は、自分が若き日に老いたる祈祷師から苦心して聞き出し、文字化した部族の創世神話が、きわめて単純化された形でしか、もはや新しい王とその側近に記憶されていないという事態に直面し、複雑な感情を抱くことになった。記憶の摩滅という残酷な事実を前に、人類学はどのように立ち振る舞えばよいのか。川田〔順造〕さんはそのために一冊の書物を書いた。(164-5)

 観光客に対する軽蔑とルサンチマンの念が、自称ガイドをして卑小な詐欺めいた行為を思いつかせたとしても、そこにはいかなる不思議もない。イスラムの道徳の根底にある喜捨の思想が、さらにそれを裏打ちしているように、わたしには思われる。富める者は貧しき者に与えることが義務であって、逆にその機会を与えてもらえたことを神に感謝するといった考えである。タンジェの青年たちはなるほど卑小なトリックを巧みに思いつくが、彼らはけっして卑屈ではない。当然の権利として観光客から小遣い銭を巻き上げ、彼らをからかうことに気晴らしを覚える。もしこの若者たちにモラルを欠いているところがあったとしたら、それは彼らがナザレ人を騙すという知恵を授けてくれたアッラーに感謝し、その運命を謙虚に受け入れることを忘れたときのことだ。(203)

生きるとは問いという問いを燃え上がらすことだ(224)

 あるときショックリーがたまたまサルトル『存在と無』の大冊を手にしていると、ジュネはそれを目敏く見つけていった。サルトルは友だちだが、本はややこしいね。だから俺は奴の家に本をもっていって、難しすぎるといったんだ。すると奴は本を摑むと、あちこちにメモと番号を書きこんでくれた。こことここだけを読んでおけば充分だよ、それでわかるはずだからというんだ。いやあ、助かったな。ああやって複雑に書いておくのは、その筋の専門家のためにだよと、奴はいっていたね。(233. 傍点省略)


@研究室
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by no828 | 2015-10-15 22:08 | 人+本=体 | Comments(0)
2015年 10月 13日

たがいに尊敬しあいなさい——ヴォネガット『死よりも悪い運命』

c0131823_19324478.jpgカート・ヴォネガット『死よりも悪い運命』浅倉久志訳、早川書房(ハヤカワ文庫SF)、2008年。21(943)


 原著刊行は1991年。原題は Fates Worse than Death

 版元

 
 自伝的エッセイ集。講演の原稿も含まれます。生まれ育った家庭のことが出てきます。ユーモアはここにあります。ただし、ヴォネガット自身の体験したドレスデンとの対比で広島が論じられるとき、そこには強い違和を感じざるをえません。もちろんヴォネガットはどんな戦争も肯定などしていないのですが……と書いて、こう書いたほうが厳密には正確だとしたら残念だと思いました。もちろんヴォネガットはどんな戦争も無条件には肯定などしていないのですが……。そうではないはずだと思いたい。

 エリ・ヴィーゼルの名前が32ページに。


鬱病でなければ、すぐれた純文学作家にはなれない。(32)

わたしはアルコール中毒者更生会の熱心な礼賛者です。そして、ギャンブル中毒者更生会、コカイン中毒者更生会、ショッピング中毒者更生会、大食中毒者更生会、などなどの礼賛者でもあります。これらの団体は、もと人類学部学生としてのわたしを満足させてくれます。これらの団体が、ビタミンCのように健康に不可欠ななにか、この特殊な文明のなかでおおぜいの人間が持てずにいるもの——つまり、拡大家族をアメリカ人に与えてくれるからです。(42)

 ポロックの作品は、絵画に無関心な人びとをさえ驚かせるはずだ。その理由は——仕事をするに当たって、自分の意志を無意識にゆだねたからである。ジークムント・フロイトの死から八年後の一九四七年に、ポロックはこう書いた——「自分の絵のなかにいるときのわたしは、自分のしていることの意識がない(57. 傍点省略)

 一九五四年度のノーベル賞を受賞したのち、七年間の文学的沈黙がつづきました。そのあと、ここからそう遠くない場所で、ヘミングウェイはもうひとつの芸術作品のつもりだったかもしれない、だが、最も恐ろしい作品を創作しました。猟銃による、みずから招いた死です。ヘミングウェイは、自分の生命を、すべての自作のなかで最も忘れられないものだと信じていたように見えます。とすれば、猟銃の暴発は一種の活字、ひとつのピリオド、“ジ・エンド”という単語だったのです。
 そこから連想されるのは、もうひとりのアメリカの天才、コダック・カメラとロール・フィルムの発明者で、イーストマン・コダック社の創立者だったジョージ・イーストマンです。彼は一九三二年に拳銃自殺をとげました。イーストマンは病気でもなく、悲嘆に暮れていたわけでもありません。遺書に記されていたのは、アーネスト・ヘミングウェイも晩年に感じていたにちがいないひとことでした——「わたしの仕事は終わった」。
 ご清聴ありがとうございました。
(97)

そのときのスピーチの枕には、キン・ハバードが卒業式のスピーチについて述べたコメントを使った。ハバードは、わたしの若いころ、インディアナポリスの新聞に毎日ひとつのジョークを書いていたユーモリストである。彼のコメントとは——どこの大学も、本当に重要なことをぎりぎり最後の卒業式までとっておかないで、四年間にばらまいて教えればいいのに。(123)

(そのほかのインディアナポリスの英雄といえば——のちに広島に投下された最初の原子爆弾をグアム島に運んだ、巡洋艦インディアナポリス号の勇敢な乗組員たちがいる。その後、インディアナポリス号は日本軍の特攻機に撃沈され、かなりの数の生存者が生きながら鮫の餌食になった。戦争とはそういうものだ。レーガンやブッシュが、彼らの親友や最大の選挙資金提供者の犯罪から国民の目をそらすために仕組んだ、小国への見世物的な攻撃と比べてみたまえ)。(145)

 広島の全面破壊は、人種差別的な残虐きわまる蛮行ですが、それでもいちおうの軍事的意味はありました。数年前、ウィリアム・スタイロンといっしょに東京に招かれたとき、彼はこういいました。「原子爆弾のおかげだ。あれがなければ、おれは死んでいたよ」原爆が投下されたとき、彼は海兵隊員として沖縄におり、日本本土への上陸作戦の準備中でした。もし上陸作戦が実施されていたら、アメリカ側と日本側の両方に、広島で焼きつくされたよりも多数の死者が出ただろうことはたしかです。
 ドレスデンの無差別爆撃は、まったく軍事的意味のない、感情まるだしの事件でした。
(151)

 わたしの兄が博士号を取得したのは、たしか一九三八年でした。もしそのあとで兄が職さがしにドイツへ渡っていれば、ヒトラーの夢の実現に力をかすことになったかもしれません。もしイタリアへ渡っていれば、ムッソリーニの夢の実現に力をかすことになったかもしれません。もし日本へ渡っていれば、トージョーの夢の実現に力をかすことになったかもしれません。もしソ連へ渡っていれば、スターリンの夢の実現に力をかすことになったかもしれません。だが、兄はペンシルヴェニア州バトラーのあるボトル・メーカーで働きました。あなたがどんなボスを選ぶか、だれの夢を実現させるのに力をかすか——それはあなただけでなく、人類にとって大きなちがいを生みだすのです。(183)

 わたしから見て、ヒポクラテスの誓いのなかで、いちばん編集を必要としないのは、このくだりです——「わたしの能力と判断力にしたがい、患者の利益のために養生法をほどこし、患者を苦しめたり、そのほか不正な目的でそれを用いたりはしません。たとえだれに求められても、人の命を絶つような薬を与えないし、またそのような薬を奨めたりもしません」〔略〕
 そのパラフレーズはこんなものになるかもしれません——「わたしの能力と判断力にしたがい、この惑星上のすべての生物の利益になるような養生法をほどこし、それらの生物を苦しめたり、そのほか不正な目的でそれを用いたりはしません。たとえだれに求められても、人の命を絶つような物質や機械を作らないし、またそのようなものを作れと奨めたりもしません
 これをMITを卒業するときにだれもが喜んで宣誓する誓いのたたき台にしてはどうでしょうか。
(186-7)

 かりに西欧文明がひとりの人間であるとしたら、早く彼をもよりの戦争準備中毒者更生会へ連れていったほうがいい。彼をみんなの前に立たせて、こういわせたほうがいい。「西欧文明といいます。わたしは戦争準備中毒者です。わたしは自分にとってたいせつなすべてのものを失いました。もっと早くここへ来るべきでした。わたしが最初にどん底に落ちたのは、第一次世界大戦でした」(209-10)

奴隷の自殺率は、奴隷の主人の自殺率よりも低かったのです。
 というわけで、アメリカ人もロシア人も、やむをえない場合、奴隷にされても耐えていけます——そして、まだ生命がどこまでもつづくことを望むのです。
 とすると、奴隷にされることは死よりも悪い運命なのでしょうか? なんといっても、人間はしぶとい生き物です
(223)

 ここで、われわれが“愛”という言葉を聞いたときに自動的に思い浮かべる感情のスペクトルをながめてみましょう。あなたは隣人を愛することができなくても、すくなくとも好きになることはできます。もし隣人を好きになれなくても、すくなくとも無視することはできます。もし隣人を無視できなければ、そこではじめて憎むしかないわけです。ちがいますか? ほかの可能性はすべて使いはたされたのですから。こう考えると、憎悪までの道のりは実に短いとはいえませんか? そして、すべては愛からはじまります。実に論理的な道すじです。〔略〕“愛”、それから“好き”、それから“無関心”、それから“憎しみ”です。
 以上が、この世界でキリスト教の支配地域になぜこれほど憎悪がはびこっているのかという、わたし流の説明でした。その地域の人びとは、愛することに全力をつくせと教えられました。そして、大部分の人がそれに失敗しました。失敗してなんのふしぎがあるでしょう? 愛することはおそろしくむずかしいのです。棒高跳びの選手や空中ブランコの演技者をめざしても、たいていの人が失敗するのとおなじことです。そして、毎日毎日、毎年毎年、愛することに失敗しつづけたとき、言葉の論理によって、それは憎まなくてはならないと、一見避けられない結論へ導かれるわけです。もちろん、憎悪のつぎの段階は、自己防衛の幻想による殺人です。
たがいに尊敬しあいなさい」——さて、これだったら、そこそこ精神的に健康な人ならほとんどだれでも、毎日毎日、毎年毎年やれることですし、そうすれば、あらゆる人間がはっきり利益を受けるわけです。“尊敬”には、それに代わる選択肢、非常に危険なものを含んだ選択肢がありません。尊敬は電気のスイッチのようなものです。オンかオフのどちらかです。しかも、ほかのだれかをもはや尊敬できなくなっても、その人物を殺す気にはなれません。その場合の反応は抑制がきいています。その相手に、猫がくわえてきたなにかのような気分を味わわせたいだけのことです。
 だれかに猫がくわえてきたなにかのような気分を味わわせることと、ハルマゲドンや第三次大戦を比べてみてください。
(253)

(世界で二番目におかしいクリーン・ジョークは、偉大なコメディアン、ロドニー・デンジャーフィールドからじかに聞いたものである。彼にはきれい好きでだれからも尊敬されている大叔父がいた。この老人は、毎日、七、八回、ときには十二回も風呂にはいったり、シャワーを浴びたりしていた。彼が死んだとき、その葬列は、墓地へ行く途中で洗車機のなかをくぐった)。(320)

 しかし、わたしから見ると、長年創作という仕事にたずさわってきた立場からいえるのだが、この本が証明していることはただふたつである。その一、世の中には、出版されて、われわれがそれを読む時間を見いだせる本以外にも、まだまだたくさんのりっぱな創作が残されていること。その二、創造的な人たちが一般人とちがった思考をするのは、彼らが実際に一般人から除け者にされたか、それとも、されたと思いこんでいるからであること(368-9)

 詩人のクリス・クリストファーソンの言葉を引用しよう——「自由の別名は、失うものがないことだ」。除け者にされた才能ある人間の強みは、この言葉に要約されている。失うものがない人びとは、自由な気分で自分の考えをつらぬける。まわりの連中の考えをまねても、なんの得にはならないからだ。絶望は独創の母(370)


@研究室
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by no828 | 2015-10-13 19:51 | 人+本=体 | Comments(0)
2015年 10月 09日

親は全く教育を受けていないのに、その子どもが高校まで出た——御手洗瑞子『ブータン、これでいいのだ』

c0131823_211695.jpg御手洗瑞子『ブータン、これでいいのだ』新潮社、2012年。20(942)


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 著者は、2010年9月より1年間、ブータン政府GNHコミッションの初代首相フェロー。「GNH」は Gross National Happiness 国民総幸福量。

 著者の価値観をもう少し知りたかった、という読後感があります。本書のタイトルが著者の姿勢だということはもちろんわかるのですが……。他者の価値観を尊重することと、自分の価値観を表出させることとは矛盾しない、と思います。


 ブータンでは若者の農村離れが続いています。自分の生まれ育った村を離れ、都市にやってくる。教育水準が急激に上がりつつあるブータンの地方では、親は全く〔学校〕教育を受けていないのに、その子どもが高校まで出た、というケースが多くあるようです。そんな子どもたちは「教育を受けていない親とは違って、自分は別の仕事ができるはず」と考え、村を離れて都市にやってくる。そうして、都市への人口集中が続いています。〔略〕
 仕事に就けないかもしれないのに、それでも都市にあこがれ、村を捨てて上京する若者たち。人口集中に伴ってコミュニティの感覚がうすれ、核家族化は進行する。こうした変化の中で、今後ブータンの家族のあり方も、それに基づく人のあり方も、大きく変わっていくのかもしれません。
(117)

 ブータンでは、基本的に教育は無償で提供されています。それでも、裕福な家庭の子どもは、小学校からインドの私立学校に入って寮生活をすることもあります。政府の官僚となると、ほとんどは大学か大学院のどちらかでインド留学経験があるようです。インドは、「一番身近な先進国」といった存在でもあるのです。(157)

英語教育が本格化したのは1960年代からですので、50代以上のブータン人の多くは英語があまり話せません。一方で、英語で教育を受けてきた今の若者たちは、ゾンカ語について、話せるものの読み書きは苦手な人が多いようです。ゾンカ語で話すとき敬語を自分に向けて使ってしまう、といった間違いをする若者も少なくなく、「若者のゾンカ語離れ」を嘆くブータンの人たちもいます。(23)

 大家さんにも相談したのですが、「あぁ、これは給湯器が壊れているから、どうしようもないねぇ。他の場所に引っ越すか、ここでこの給湯器と向き合うかだな」とのこと。「この給湯器を修理するか交換する、という選択肢はないんだ……」と思いつつ、引っ越しはなかなか面倒なので、この部屋でこの給湯器と向き合うことにしました。〔略〕ブータンでは、不便は「直す」というより「受け入れる」という姿勢なのかもしれません。(81-2)

 一方、女性はというと、特に若い女性は、これがびっくりするほど愛想がありません。もちろん仲間内ではとても温かいのですが、知らない人に対しては、ニコニコというよりはツンとしています。レストランでも銀行でも、女性の店員さんはだいたい無愛想です。接客中もまったく無表情です。
 これにも背景があります。ブータンでは、女性が知らない人にもニコニコしていると「軽い」と思われるそうです。〔略〕笑顔を向けるということは“誘って”いるようなものである、と。
(110)

「たまこ、ブータンの『MBA』って知ってる?」と聞かれました。「知らない」と答えると、「それならぜひ知っておいた方がいい。MBAというのはね、経営学修士号のことではなくて、『Married But Available(結婚しているけどお相手できます)』の意味だよ」のこと。(112)

 ブータン政府の歳入において自主財源からの収入は7割程度で、残り3割は、インドを始めとした他国からの援助に依存しています。
 しかし、ブータンのような、インド、中国という大国に挟まれた立地の小国にとっては、このように経済的に他国に依存することは、大きなリスクでもあります。外交上の自由が制限されることはもちろん、いつ引き揚げられるともしれない他国からの経済援助に依存することは、財政上も持続可能とは言い難いためです。このためブータンは、自国内の産業を育成し、経済的にも自立することを目指しています。
(130-1)

「いっそのこと開き直って、経済的に自立しない、寄附に頼って生きる国になる、というオプションはないのだろうか。世界のどこにもないユートピアをつくる。経済的には自立はできないので、珍しいものとして保全するために、寄付をしてください、というような……」
 ふだん物腰の柔らかい長官は、このときばかりは強い口調でキッパリと言いました。
「それはあり得ない。ブータンは、自分の足で立てるようにならなければいけないんだ。自分の子どもを育てることを想像してみるといい。本当に、その子に幸せな人生を送ってもらいたいと思ったら、将来自分で仕事をして生活していけるように育てようと思うだろう。国だって、同じなんだ。ブータンの国民の幸せのことを考えたら、ブータンが国として、自分の足で立てるようにすることを、僕たちは考えなくちゃいけないんだ」
 そして、小さな声で、こう付け加えました。
僕たちにとってはね、僕たちの国王が、学校を建ててください、病院を建ててください、お金をくださいと、ほかの国に頭を下げるのを見ているのだって、辛いんだ
(132-3)

 ブータンは、インド政府から多くの支援を受ける一方で、ブータン人が好まない仕事はインドからの非熟練労働者にさせている、という面があります。(155)

 ある日、その病院に、重症の患者さんが担ぎ込まれ、集中治療室(ICU)に搬送し手術をすることになりました。まず気道を確保する必要があり、挿管をしようとしたのですが、うまくいかない。3回目の挿管が失敗したところで、患者さんのご家族がいらっしゃる前で(ブータンではICU内にもご家族が入る)、担当医がこう言ったそうです。
もうやめようよ。どのみちこの人は、もうすぐ死ぬんだし
 諦めてしまった医師に対し、この日本人の看護師さんが「諦めずに、もう1回やりましょう!」といって挿管を試みてうまくいき、その後、手術も順調に進んで、結局この患者さんは回復されたそうです。
 彼女は、あの場面で医師からこの言葉を聴き、本当にショックだったと言います。また、自分がいないところでは、こうやって諦めることで失われた命も多いのだろうと想像すると、やりきれないと。
(184-5)

  ↓↓↓

 来世を信じるブータンの人たちにとって、現世における「死」の意味は、日本人が考えるものとは異なります。また、ブータンの人たちは「人間にはどうにもできない」と思っている範囲が広い。これらは、ブータンの人々の幸せ感を支えるものでもあります。
 でも同時に、こうしたことが、先のような発言を医師がする背景になっているのではないでしょうか。そうした価値観の違いを無視して、「そんなこと言うなんてあり得ない」と簡単には言えません。
 きっと先ほどの患者さんの件も、ブータン人の医療従事者であれば、多かれ少なかれ「仕方がなかった、彼はもう死ぬ運命だったんだ。来世でいい人生を生きてほしい」というように思ったのではないかと思います。
(186)

「幸せになろうと思ったらね、自分の幸せを願ってはいけないんだ。自分の幸せを探し出したら、どんどん、幸せから遠ざかってしまうよ」
 そして、こう続けました。
「これはとても大切なことなんだ。幸せを願うのであったら、自分の幸せではなく、周囲の人の幸せを願わなくてはいけない。家族だとか、友人だとか、自分の身近な大切な人たち。そして周りの人たちが幸せでいられるように、できるかぎりのことをするんだ。知ってるかい? 人のためになにか役に立つことをして、相手が幸せになるのを見ると、自分にもとても大きな満足感が返ってくるんだよ。それは、自分のためになにかしたときより、ずっと大きな満足感なんだ。幸せになりたかったら、まず、周りの人の幸せを願って、そのためになにかすることが大切なんだ。自分の幸せを探し出したら、幸せは、みつからないんだよ。ブータン人は、それをみんなよくわかっている」
(213)

 参照 たかのてるこ『ダライ・ラマに恋して』


@研究室
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by no828 | 2015-10-09 21:34 | 人+本=体 | Comments(0)
2015年 10月 08日

想像力が豊かな奴は生き残れねえよ——伊坂幸太郎『バイバイ、ブラックバード』

c0131823_21114863.jpg伊坂幸太郎『バイバイ、ブラックバード』双葉社(双葉文庫)、2013年。19(941)


 単行本は2010年に同社
 版元


 辞書を常時携行する巨大で凶暴な女がさまざまな女性に何股もかけていた男をバスに乗せる、という話。何か寓意がありそうだと思わせぶりな連作短篇。あるいは寓意なるものは引き出そうとするものではない、そんなに簡単に寓意を引き出せると思うなよ、というのが本書の寓意なのかもしれません。


「想像力が君にもあるのか」
「あるわけないだろ」彼女は日の落ちた歩道で立ち止まり、バッグから例の辞書を出すと、街路灯の下でめくり、「想像力」の項目が消えていることを示した。「想像力が豊かな奴は生き残れねえよ。やりきれないことが多すぎる世の中なんだから、何にも考えないほうがいいさ。たとえば、ほら、おまえ、〈あのバス〉のことをどれだけ分かってる?」
(58)

「あの映画の中で、ジェイソンに追われてる奴らが、『そういえば、別れた恋人の癌の検査結果はどうだったんだろ』なんて想像する余裕があると思うか? ねえだろ。他人の心配なんてのはな、平和な奴しかしてらんないんだよ(200)

「それとは別に、そういったわたしに対して、普通に接する奴もいるんだよ。時々な。でも、そういうのは、得てして、僕は、わたしは、あなたのような公害みたいな人とも自然に接することができるんですよ、というアピールがしたいだけでな。どっちもわたしにとっては、よくあるパターンなんだ」(239)

「わたしが思うにはな、おまえはたぶん、自分のことを過小評価しているんじゃねえか?」
「え」
「勘違いするな。わたしが、おまえを評価しているわけじゃねえぞ。ただ、おまえは自分には大した価値はないと感じている。だからな、たぶん、二股かけたところで、女はそれほどショックは受けない、と心のどこかで思っているんじゃねえか? 相手にとって、自分は重要な人間じゃねえと思ってるからだ
(296)

おまえは、誰かに声をかけて、助けたりしてな、で、自分の価値をどうにか維持してほっとしたいんだよ(298)


@研究室
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by no828 | 2015-10-08 21:20 | 人+本=体 | Comments(0)
2015年 10月 07日

「早く辞めて働けば良かったな」とは思わない——森博嗣『「やりがいのある仕事」という幻想』

c0131823_20112373.jpg森博嗣『「やりがいのある仕事」という幻想』朝日新聞出版(朝日新書)、2013年。18(940)


 版元


“働くこと”の相対化。“やりたいことを仕事にすること”の相対化。やりたいことがあり、しかしそれを仕事でやる必要はない。やりたいことは仕事を通して実現しなければならない、わけではない。


 これは理屈だ。「理屈ではわかっているけれど、実際はそうじゃない」という反論もあるだろう。しかし、まず自分自身がきちんとした理屈で考えるべきであって、自分の気持ちに対しては、自分の理屈を当てはめるのが、つまり「正しい」ということだと思う。(42)

 たとえそうであっても、もし経済的に許すならば、自分に投資する、すなわち学業に専念する(という振りをする)方を選ぶのが有利だ、と僕は考えている。
 これは、やはりこの「学業に身を置く時間」というものの重みが、一生つき纏うからである。人生のどこかで、ほんの少しかもしれないが、たしかに利いてくる。学生時代というものは、あとになって「もっと学んでおくべきだった」と振り返ることはあっても、「早く辞めて働けば良かったな」とは思わない。そういう存在なのである。
(81)


どうも大人は、「仕事は大変なんだ」と苦労を語りたがる。そうやって、大人という立場を守ろうとしているのだ。「お父さんは、こんなに大変なことをしているのだよ」と子供に言いたがる。実に情けないことだ、と僕は感じる。(13)

仕事というものは、今どんな服を着ているのか、というのと同じくらい、人間の本質ではない。(16)

仕事というのは、抽象的に表現すると、「したいという気持ちはそれほどないけれど、それをしないと困ったことになるからするもの」ということになる。(30-1)

先進国では少なくとも憲法というものができて、「人は皆平等である」と定められた。そもそもこのように憲法というものを持ち出さないと守れないほど難しい認識だった証拠でもある。(35)

 そもそも、就職しなければならない、というのも幻想だ。人は働くために生まれてきたのではない。どちらかというと、働かない方が良い状態だ。働かない方が楽しいし、疲れないし、健康的だ。あらゆる面において、働かない方が人間的だといえる。ただ、一点だけ、お金が稼げないという問題があるだけである。(51)

つまりは、自分がどれだけ納得できるか、自分で自分をどこまで幸せにできるか、ということが、その人の価値だ。その価値というのは、自分で評価すれば良い。(59)

大人になったのだから、自分のことは自分で褒めよう。自分で褒めるためには、何が自分にとって価値のあることなのかを、まず考えなくてはならないだろう。それが、流されないための唯一の方法だ。(74)

仕事の目的は金を稼ぐことである。〔略〕この社会で生きていくためには、呼吸をするように、〔略〕やはり「働くしかない」ということ。〔略〕生きていくには、「働くことが一番簡単な道」なのである。(63)

 人生の生きがいを仕事の中に見つける必要はどこにもない。もちろん、仕事に見つけることもできるかもしれない。それと同じように、仕事以外にも見つけられる。好きなことをどこかで見つければ良い。どうして仕事の中でそれを探そうとするのか、自問してみよう。(143)

ホッチキスの針を打てば、それでいくらもらえる、と計算できるのが仕事であって、そうなれば案外続けられるのではないかと考えた。「この仕事でお金をもらって、どんな楽しいことをしようか」と想像しながら、ホッチキスを打てる。わくわくできると思う。
 だから、仕事をしていて楽しいと感じるのは、「これでお金がもらえるんだ」と思い出したときだろう。
(147-8)

仕事のメリハリは、できればない方が良い、と僕は思う。その方が仕事も綺麗に仕上がるし、自分の健康にも良い。(148)

子供が無邪気に遊んでいたり、犬が走り回っている様子を見ると、心が温まる。しかし、子供も犬も、温かい態度を取っているわけではない。見ている者が、自分で自分の心を温めるのだ。したがって、僕が冷たいと感じる人は、自分の心が冷たいということに気づいただけである。(216)


@研究室
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by no828 | 2015-10-07 20:28 | 人+本=体 | Comments(0)
2015年 10月 06日

つまりそれは悲劇でもなければ喜劇でもなく、ただ破片の寄せ集めにすぎないのである——開高健『夜と陽炎』

c0131823_2013288.jpg開高健『夜と陽炎——耳の物語**』新潮社(新潮文庫)、1989年。17(939)


 版元 なし


『破れた繭』の続き。苦悩と再生。

 開高がアイヒマン裁判を傍聴していたという事実をはじめて知りました。本書では言及がありませんでしたが、ハンナ・アレントもそこにいました。


何よりかより、書きたい衝動が消えてしまい、何を、どう書いていいかもわからず、書けないことの煩悶や焦燥も感じない。もちろん作家になりたいという気持の起りようがなく、ウィスキーの宣伝文を書くだけが精いっぱいのところである。ほかには何の技も能もないので、これにしがみつくしかなく、一生酒浸りで終ってしまうことと、思いきめていた。毎夜、毎夜、本を読むことだけは中毒になったみたいで、手あたり次第にめちゃな乱読、雑読にふける。そして何を読んでも、すべては書かれつくしてしまった、あらゆる発想で書きたいように書かれてしまったと思うしかなかった。ごくたまに何か書いてみようかと思うことがあるが、書きだしの一語、一行はことごとくどこかで読んだ他人の文ばかりで、そのとめどなさに圧倒され、窒息してしまって、ペンをとりあげることすらできない。それまでとはちがった質の憂鬱と倦怠があらわれて澱みこみ、腐潮が体内につまって、顔をあげる気力もなかった。(15-6)

E・H・カー『マルクス』を読むと、剰余価値学説が科学的に完全に誤謬であるとの説が展開してあった。それはみごとな正々堂々の論破といってよいものであるが、この際重要なのはカーが自分をマルクス以上のマルキストだと規定しながらやっているという一点なのだ。マルクス以上のマルキストがマルキシズムが科学であるという核心の論拠を完膚なきまでに叩いているのだ。この一点に凡百のマルクス解釈に発見できない鋭さと魅力がある。傑出しているんだ。これにはつくづく教えられたな。おれ〔谷沢永一〕はもう読んだから近日中にとりにこい。あれはええ本や。書棚にのこしておきたい稀れな本の一冊やな。(??)

しかし、インスピレーションは九九パーセントのパースピレーション(発汗)だという名言があるのだから、地道でまっとうな経験と努力で養成するしかないのでもある。(38)

考える人には喜劇、感ずる人には悲劇というのがこの世なのだというマキシムをどこかで読まされたように思うが、立食パーティーでは瞬間があるだけで、考えこむこともできなければ感じこむこともできない。つまりそれは悲劇でもなければ喜劇でもなく、ただ破片の寄せ集めにすぎないのである。(59)

……いったい、ブルジョワって、何なんでしょうね。金をたくさん持つことですか。大きな家を持つことですか
 どうしてかわからないが、そんな質問をしてしまった。〔略〕
 しかし、意外なことに男はにこりともせず、真摯な顔つきでしばらく考えこんでいたが、やがて顔をあげて、迷い迷い、
静かに暮すことでしょうね
 と呟いた。
「静かに暮すことです。たぶんね。そのためには金がいる。大きな家もいる。電話や自動車があると静には暮せない。となると、現代の金持で電話や自動車のない人なんて、まず考えられないから、ブルジョワはいないということになる。ブルジョワの時代はとっくに終ったのかもしれない。ブルジョワという言葉があるだけなのかもしれません
(113-4)

 この翌年にひっそりかくれて暮していた旧ナチスの親衛隊大佐がイスラエルの工作員によって拉致されてイエルサレムへはこばれ、裁判にかけられるという事件が発生した。そこで出版社へ出かけて臨時特派員として買うつもりはないかと相談を持ちかけると、その場で身分証明書をつくってくれたので、羽田から出発した。〔略〕毎日、裁判所にかよって、イヤホンを耳につけて傍聴にふけったのであったが、まったく退屈であった。昔の写真で見る大佐は冷酷で傲慢で有頂天になっている美貌の青年だが、防弾ガラスにかこまれて佇立しているのは、禿頭にイヤホンをかけ、しじゅう顔面神経痛で頰や眼をひきつらせている、ときには端正、ときには臆病とも見える初老で長身の男であった。何を訊かれても彼は徹底的に命令でした、抵抗は不可能でした、歯車でありましたと返答するだけであり、そのしぶとさはなかなかのものと思えることがあった。これにたいして禿頭の検事は流亡二〇〇〇年のユダヤ人の執念をこめて彼が情熱や感傷のある“人間”であったこと、それによって数十万、数百万の全ヨーロッパのユダヤ人列車のプログラムを組みあげたのだという事実を立証しようとすることに没頭していた。〔略〕そして、声低く、そのコニャックはどんな味がしたかと、たずねた。大佐はうっかり日頃の用心を忘れ、長時間の大会議のあとでしたのでそのコニャックはうまかったですと、答えたのだった。とたんに検事は禿頭を赤くして、君は人間だったのだ、歯車ではなかったのだと、食いついた。(134-5)


 妻が叫ぶ。
女子供の面倒も見れない男がパチンコ玉みたいにころがり歩いてちらくら何やら書いて、それで世の中変るわけでもなし。戦争が終るわけでもなし。脳天気とはあんたのことや。ええ年ぶッこいて」
 娘が叫ぶ。
「そうだよ、そうだよ。たまに家にいるかと思ったら日中はグースカグースカ寝てばかりで、夜になったら起きてきて実存しやがって。それも大酒ばっか飲んで。家庭遺棄罪で訴えるわよ。そんな罪あるんじゃないの。あるわよ、きっと。どこかに
(143-4)

 市内でテロがあって米軍宿舎や右派新聞社やキャバレが爆破されると、厚皮動物のような膚になりかかった心を切実なナイフで一裂きされるようだが、これも度重なると交通事故の血とどこが違うのか、まぎらわしくなってくる。ナパーム弾と火焔放射器で村を焼かれた農民が市内へ避難してきてゴミ箱のかげで寝ている姿も、はじめは心痛んでならないのに、やがては眼に入らなくなってしまう。正午頃に中学校の校門のあたりを通りかかると色とりどりのアオザイを着た、顔の丸い、眼の大きい少女たちが小鳥のように甲ン高い声で笑ったりふざけたりしてあふれ出してくる。夜になってフランス料理店へいくとカーペットが敷きつめられ、テーブルには花が盛られ、みごとに爽やかなヴィシソワーズのスープがはこばれてくる。(154)

そのたびに反省して、おれはやっぱり外国人で第三者にすぎないのだなと、痛烈に思い知らされる。それが度重なると、いくらかふてぶてしくなり、よし、第三者にしか知覚できない現実に徹してやるぞ、第三者にしか見えない現実というものもあるのだからな、と思いきめることになる。たとえそれが左と右の現地人の当事者から嘲罵される程度のことにすぎなかったとしても、第三者の眼は眼であるだろう。〔略〕決定的に不満なのは左と右のどちらからもこの立場の証言の現実性なり正当性なりを立証しようとする証人が出ないことである。つまりは影の争闘の影の証人でしかあり得ないということにある。平穏無事ですごせるはずのトーキョーからやってきていったいこれは何という穴に陥ちこんだものだろう。(156)

バスは朝の六時からうごきはじめるけれど、その時刻では夜なかに活動していた軍隊がようやく引揚げにかかるので街道にVC(ヴェトコン)ゲリラが埋めた地雷が生きていることがしばしばあり、一番バスや二番バスがひっかかってよく吹飛ばされる。だから一番や二番は避けて三番ぐらいのバスに乗るのがいい。〔略〕村に入ったら子供の顔をよく見ろ。清潔で子供があまり笑っていない村はゲリラに浸透されていると知り、不潔でだらしないけれど子供がニコニコ笑っている村なら大丈夫だと知るべきである。しかし例外もたくさんあると心得ておかねばならない。誰とも政治や戦争の話をするな。とりわけ熱中してやるな。(166-7)

生の本質については科学者と宗教家がさまざまの意見を書いているが、亜熱帯のギラギラする日光のさなかでは、それは動きであると腹にしみて教えこまれる。動くこと、運動することが生の本質である。死体の眼が動かないからそれは死体なのだ。ただ瞳が動かないからそうなのではなく、無数の、一瞬もじっとしていない、透明な陽炎とでもいうべき動きを含んでいないからそうなのである。日光が一瞬もじっとしていないようにそれは不動であり得ない。こちらを瞶〔みつ〕めていながら何も見ていない眼だから死体はいつまでも異物である。異形である。(169)

「しかし、迫撃砲で赤ン坊が死ねば、親である兵士は士気〔モラル〕を失うのじゃありませんか。家族と兵をわけておいたほうが兵の士気は傷つかないのではありませんか?」
家族が陣地にいないと兵はもっと士気を失いますよ。そういうこともあるんです。これが私たちの生き方なんですよ
(191)

日本語で“秋水”と書けば、それは日本刀を意味するが、ある時期の中国では、それは女の美しい眼のことをさすのだと一語を知るだけでも救われるものをおぼえさせられた。アジアの女の鋭い、細い、澄みきった眼を表現するのに、ちょっとこれ以上のものはあるまいと思われるほどの名言であるかと感じられる。それをいささか延長すると、“秋のような眼をした水のような女”という表現がどこかにあったようだし、いますぐどこかにそう書きつけてもいいなと、感嘆しつつたわむれることができた。(212-3)

アンカレッジの放送局が流したものと思われるが、その低い、柔らかい、おだやかな呻唸は悲愴を含みつつも隠忍でよくおさえ、詠嘆しながらどこか晴朗であった。それまでの半年以上におよぶ抑鬱と、泥酔と、蟄居、妄想で荒みきっていた心に、曲は、澄みきった、冷めたい水のように沁みこみ、のびのびとひろがって、輝いた。悲痛な呻唸かと思いたいのにどこかけなげに捨棄したものがあり、孤独そのものなのに呪詛はなく、いいようのないいじらしさがある。茫然と心身をゆだねて氷雨にけむる原生林を見るともなく見やるうちに、涙がつぎからつぎへとこみあげ、嗚咽をこらえるのに苦しんだ。どこにこれだけのとあやしみたくなるくらい涙がとめどなく流れておさえようがない。まだ泣けることを教えられて狼狽をおぼえ、茫然としているうちに曲が終った。成熟した男の低い声が早口で作曲者の名と曲名をささやいた。作曲者の名は聞きもらしたが、“アダージォ・イン・ジー・マイナー”と曲名だけは聞きとれた。
 生きていたいと思った。
(218-9)


@研究室
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by no828 | 2015-10-06 20:37 | 人+本=体 | Comments(0)
2015年 10月 02日

何か書こうと思ってもペン先に一行ごとに他人の名言がひっかかり、一歩も出られなく——開高健『破れた繭』

c0131823_2133589.jpg開高健『破れた繭——耳の物語*』新潮社(新潮文庫)、1989年。16(938)


 版元 なし


 音の記憶、開高健の自伝(的小説)。書くことの苦しみ、先人の言葉から抜け出す苦しみを彼も感じていたのだという点がとても新鮮でした。開高健でもそのように苦しんだのだ、という安堵と、開高健だからこそそこから抜け出すことができたのだ、という諦念とが入り混じります。

 谷沢永一の博覧強記エピソードが143ページなどに出てきます。すごいです。


 一人は昔の香水瓶から過去をとりだした。もう一人はお茶碗からとりだした。ほかに、酒瓶からとりだしたものもいるし、タバコからとりだしたのもいる。阿片からとりだしたのもいる。何もかも、あらゆる文体と発想で描きつくされてしまい、後世になればなるだけ小説家は身動きできなくなる。考えあぐねて月と年とかさねるうちに、やっと、耳だけはのこされているのではあるまいかと思いあたり、耳から過去をとりだしてみようと思いたった。洗い忘れやすい、垢のつまった一つの耳から一つの半生をこれからとりだしてみようと思う。人生の有為転変に無関心になれるほどのものに全身を占められることになるか。それともやっぱり闇のなかでふるえながら眠りこける蛹のままで終ってしまうか。性器の記憶をたよりにして一人の男の半生なり一生なりを述べる作品があるのなら、耳についてのそれがあっていけない理由は何もないと、思われる。(8)

ふとんのなかには深くて柔らかくてひっそりした、このうえなく親しい闇があって、どんな苦痛も緩和できるのだが、誰にでもあっけなく剥がされてしまうので、はかない思いをさせられる。(24-5)

この友人は端正な美貌の秀才で、いい育ちの坊っちゃんなのに悪童ぶることに夢中になっていたが、ほんとは気の小さいガリ勉屋であった。悪童はほとんどみんながそうだったといってよかった。正体をさらけだしたくない羞恥心と不安のために仮面をかぶるまでのことである。おとなになってもついついそれをつづけている人がたくさんいる。人が少年時代からいかに変らないかはじつにおどろくばかりであるが、他人の眼を持たないかぎりこれは知覚されることがない。それもおどろいていいことである。男は一生かけて少年時代の掌の中をかけまわっているだけなのだろうか。(43)

 ずっと後年になってアラスカへ釣りにいったとき、巨大な野生のレインボー・トラウトを釣ったが、それを逃してやるときには、いきなり魚を水に投げてはいけないと教えられた。苦闘のあげくに岸へ寄せられた魚はくたくたに疲れているから、水へ投げられると窒息してしまう。両手を川につっこんで魚を支えてやり、魚が力を回復するまで、たとえ指が凍え、爪が白くなっても待ちつづけてやるのだ。ガイド役の若い魚類学者がそう説明しつつ、川に入り、魚を両手で支え、やがてゆらゆらと魚が泳いでいくのを見送りながら、
魚も水に溺れることがある
 と呟いた。
 たまたまひどい宿酔だったから、
人はウィスキーに溺れることがある
 いくらかまぜっかえし気味にそういったところ、青年は渦を巻いて流れていく蒼い、深い川を眺め、しばらくして、ひとりごとのように、
人は魂に溺れることがある
 と呟いた。
 Man can drown in soul.
(154-5)

自分で書くことは一行もできなかった。書きたい、書きたいとあせる心は沸騰しているのだが、内外のあの作家、この作品と、読めば読むだけ一作ごとにのめってしまい、圧倒されるばかりで、何か書こうと思ってもペン先に一行ごとに他人の名言がひっかかり、一歩も出られなくなるのだった。読めば読むだけいよいよひっこむよりほかないのに読まずにはいられず、ひとつひとつ感服のほかない。それでいて何やらもやもやと心にたぐまって昂じてくるものがあって、書きたいと念じずにはいられないのだが、原稿用紙を買ってきて机にひろげて、いざ、書こうとすると、一言も書けず、半句も書けない。わらわらと殺到してくるのはすでに読んだ内外の無数の作家、詩人、評論家、史家、随筆家、歌人、哲学者などの卓言、箴言、ときには山岳のような、ときには泡のような、それでいてそこから一歩もぬけでることができない言葉ばかりであった。(156)


@研究室
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by no828 | 2015-10-02 21:15 | 人+本=体 | Comments(0)
2015年 10月 01日

正しい言葉はなぜかいつも遅れてあとからやって——村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』

c0131823_19534954.jpg村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』文藝春秋、2013年。15(937)


 版元


 ある人の救済のために仲間から排除された人がその排除の事情を探ることで自分が救済されていく。

 巡礼。


 つくるが実際に自殺を試みなかったのはあるいは、死への想いがあまりにも純粋で強烈すぎて、それに見合う死の手段が、具体的な像を結べなかったからかもしれない。(3)

「とても簡単な話だよ。駅舎建築の第一人者として知られている教授がその大学にいたんだ。駅の建築は特殊なもので、普通の建築物とは成り立ちが違うから、普通の工科系大学に進んで建築やら土木を学んでも、あまり実際の役には立たない。スペシャリストについて専門的に勉強する必要がある」
限定された目的は人生を簡潔にする
(23)

「しかし自分の頭で自由にものを考えるというのは、簡単なことじゃないように僕には思える」
自由にものを考えるというのは、つまるところ自分の肉体を離れるということでもあります。自分の肉体という限定された檻を出て、鎖から解き放たれ、純粋に論理を飛翔させる。論理に自然な生命を与える。それが思考における自由の中核にあるものです」
(66)

「どんなことにも必ず枠というものがあります。思考についても同じです。枠をいちいち恐れることはないけど、枠を壊すことを恐れてもならない。人が自由になるためには、それが何より大事になります。枠に対する敬意と憎悪。人生における重要なものごとというのは常に二義的なものです。僕に言えるのはそれくらいです」(68)
 → 「二義的な」は「両義的な」?  この文脈では“相反する二種が共存する”といった意味で「二義的な」を使っていると思われます。しかし、「二義的な」の意味は、一義的には、“最も重要なわけではない”、“二番目に重要な”ではないでしょうか。「二義的な」には、“矛盾する二種の意味が同時に含まれる”という意味もあるのかもしれませんが、わたしはそのような意味で「二義的な」を使用したことはありません。という理由で、疑問符。

「自分で気に入っているものを人に勧めるのは、いいものだ。いくら口がうまくても、自分で納得のいかないものを人に売りつけることはできないよ(159)

本当に深く傷ついたときには、言葉なんて出てこないものだよ」とつくるは言った。(161)

「おれが会社勤めからもうひとつ学んだのは、世の中の大抵の人間は、他人からの命令を受け、それに従うことにとくに抵抗を感じていないということだ。むしろ人から命令されることに喜びさえ覚えている。むろん文句は言うが、それは本気じゃない。ただ習慣的にぶつぶつこぼしているだけだ。自分の頭でものを考えろ、責任を持って判断しろと言われると、彼らは混乱する」(186)

記憶は隠すことはできても、歴史を変えることはできない」とつくるは沙羅の言葉を思い出して、そのまま口にした。(193)

「つまり、ある意味ではあなたたちはそのサークルの完璧性の中に閉じ込められていた。そういう風に考えられない?」
 つくるはそれについて考えてみた。「ある意味ではそうだったかもしれない。でも僕らは喜んでその中に閉じ込められていた。そのことは今でも後悔していないよ」
「とても興味深い」と沙羅は言った。
(219)

「どんな言語で説明するのもむずかしすぎるというものごとが、私たちの人生にはあります」とオルガは言った。(260)

痛切な喪失を通り抜けない受容はない。それが真の調和の根底にあるものなのだ。(307)

「僕はこれまでずっと、自分のことを犠牲者だと考えてきた。わけもなく苛酷な目にあわされたと思い続けてきた。そのせいで心に深い傷を負い、その傷が僕の人生の本来の流れを損なってきたと。正直言って、君たち四人を恨んだこともあった。なぜ僕一人だけがこんなひどい目にあわなくちゃならないんだろうと。でも本当はそうじゃなかったのかもしれない。僕は犠牲者であるだけじゃなく、それと同時に自分でも知らないうちにまわりの人々を傷つけてきたのかもしれない。そしてまた返す刀で僕自身を傷つけてきたのかもしれない」(318)

正しい言葉はなぜかいつも遅れてあとからやってくる。(328)


@研究室
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by no828 | 2015-10-01 20:04 | 人+本=体 | Comments(0)