思索の森と空の群青

onmymind.exblog.jp
ブログトップ

<   2015年 12月 ( 3 )   > この月の画像一覧


2015年 12月 19日

そういう生き方や幸福があってほしい、それが可能な社会で——大野明子『「出生前診断」を迷うあなたへ』

c0131823_14461324.jpg大野明子『「出生前診断」を迷うあなたへ——子どもを選ばないことを選ぶ』講談社(講談社+α文庫)、2013年。35(957)


 単行本は2003年に『子どもを選ばないことを選ぶ』としてメディカ出版

 版元


 丈夫で健康な赤ちゃんしか生きられない、というのが自然法則であり、人間が自然法則に抗って生きてきたのだとするなら、そしてそれを「人間性」と名づけるなら、病や障害を抱えた赤ちゃんでも生きられるようにする、というのが人間性ということになります。出生前診断が自然法則をなぞるようにのみ使用されるなら、その限りにおいて出生前診断は人間的ではありません。

 また、ほかの動物に比して脆弱な人間がここまで生き残れたのが人間の多様性によるのだとしたら、人間の類的要請として、さまざまな人間が生きられるようにせよ、ということにもなるでしょう。それは「弱肉強食」ではなく「適者生存」の意味に改めて思いを致すということでもあります。

 本書の著者は産科医。本書には、臨床遺伝医——というのをはじめて聞きました——の長谷川知子との対談やダウン症の子を持った親たちとの座談会も含まれています。著者の立場は次の引用文に明確に表われています。


出生前診断の本質は、障害のある子どもを人工妊娠中絶が可能な妊娠週数で見つけだし、排除することです。(46)


-----

自然のプロセスでは生まれることのなかったいのちが生まれる時代。正常ではない赤ちゃんは増えます。それに呼応するかのように、まるでいのちの「検品」のようなこの検査が広がることは、必然にも思えるのです。〔略〕「選ばないことを選ぶ」ことは勇気のいる選択かもしれませんが、ありのままに生きるということに通じるように思います。そういう生き方や幸福があってほしい、それが可能な社会であってほしいと思います。(7)

私は訴訟を怖れたのです。私たちの小さな産院が出生前診断を積極的にすすめない姿勢をとるとしましょう。そして、先天的な障害のある子どもが生まれたとしましょう。その場合に、出生前にその発見ができなかったことを、こちらの過失とする訴訟に巻き込まれる可能性があります。発見していれば、人工妊娠中絶をしたのに、それができないで赤ちゃんが生まれてしまったことを医療側の過失に帰するという訴訟です。
 そんなひどい訴訟があるかとお思いになるかたもあると思いますが、そういった訴訟は、すでにアメリカでは完全に現実となり、医療側が敗訴します。つまり、三五歳以上でダウン症の赤ちゃんを出産する可能性が高い、といってもそれは約三〇〇分の一の確率ですが、そういう妊婦さんに対し「羊水検査をすれば、赤ちゃんにダウン症があるかどうかわかりますよ」というインフォームド・コンセントをしないまま、生まれた赤ちゃんにダウン症があれば、医療側の過失とされるのです。
(25-6)

妊娠や出産に伴うリスクは、流産、早産、子宮内感染症など実に多種多様であって、ダウン症のある子どもが生まれる可能性は、その中で大きな比重を占めません。そのことにのみ長時間を割くことは、全体の中で著しくバランスを欠きます。(28-9)

 後日、Mさんが言われました。「先生が動揺しているのがつらかった」と。そうなのです。私は完全に動揺していて、それを隠すことができませんでした。(38)

彼女の成長を見守る時間の中で、私が理解しえた、私にとって最も重要な真実は、彼女自身にはなんの問題もないということでした。もし、彼女のことを問題だという人がいるならば、あるいは社会が彼女を問題だとして排斥するのならば、その人や、その社会こそが問題を抱えて深く病んでいるのに違いありません(47)

二一番目の染色体には、人間関係調整遺伝子があるのではないかしら」と長谷川知子さんはおっしゃいます。ダウン症の子どもたちが、まわりの人たちと人間関係を築く能力に長けていることと、ダウン症の子どもたちには二一番染色体が正常型と比べて一本多いことを結びつけ、長谷川さんはこのように表現されているのです。(49-50)

長谷川 出生前診断とは、生まれる前に親が「もう、うちの子じゃないよ」と言うことと同じです。つまり、胎児への虐待とも言えます。
 小児虐待においては、親がそうせざるをえない状況を改善することが必要です。胎児虐待も同じでしょう。
現代社会では、どうしても親が育てられないというやむをえない状況は、多くはないと思います。皆、子どものために出生前診断を受けると言いますが、本当に子どものためなのでしょうか。むしろ親の自分がつらいからです。
(79)

大野 生まれてくるのが無理なときは、自然流産になりますね。
長谷川 そうです。ですから、出生前診断は、すでに淘汰を越え、生きられるとお墨付きをもらった子を捨てることになります
大野 あるいは、中絶していなければ、その後、流産や早産となり、生きられなかったかもしれません。それは自然淘汰です。
(80)

長谷川 「こんなことを話すと、どんな恐ろしい人間かと思われるかもしれないけれど、この子がいなければよかったと思ったことがある」と話されるかたもあります。でも、それが口に出せれば、そこから問題解決の扉が開かれるのです。(84)

長谷川 患者さんは、専門家が思いつきでものを言っているなどとは考えませんから、意味のないことは聞かれないと思うのがふつうです。専門家の言葉が持つ重みを、日本の医師はあまりわかっていないように思います。(94)

長谷川 ノーマライゼーションの意味するところは、ふつうに近づけることではなく、ふつうに生活できるようにすることです。ふつうに近づけるという発想は、障害のある人を見下しているところがあります。
 ノーマライゼーションという言葉を最初に使ったのは、一九五〇年代の初め、デンマークの行政職の役人であったバンク=ミケルセン(Bank-Mikkelsen)です。彼は親の会の求めにより、障害者施設の悲惨さを憂える要請書を行政に提出し、この言葉はその見出しとして使われました。ミケルセン自身も、障害者を健常者に近づけることとはまったく違うと述べています
(108-9)

世の中は障害者と障害者になる可能性のある人しかいないと言うこともできます。(129)

高松 不安は、自分たちが死んだあと、花子がどうなってしまうかということです。私たちの願いは、私たちがいなくても、花子が楽しいと思えるようなお友だちができ、少しでも社会に貢献する仕事ができたらということです。〔略〕花子の生まれてきた意味が単に悲しいことだけだという、そんな結末だけで彼ら〔=「花子を産んでくれたお母さんや、おじいちゃん、おばあちゃんたち」〕の中に終わらせてしまいたくないというのが、一方的ではあるかもしれませんが、私の願いであり、夢です。(166-7)

高松 ももこが生まれたとき、「この子は将来、花子のことを守っていかなきゃいけない」と言われたことがありました。親に責任はあっても、きょうだいにはないと思い、悩みました。けれど、親があれこれ思うより、妹たちは自然に花子に愛情を持ち、困ったときには助け合う、自然にそういう気持ちが育っていると、本当に嬉しかったです。(169)

高松 そもそも、真理に到達したいという宗教的とも言える理由から研究を志しました。医学も自然科学の一分野ですから、確実なもの、つまり、真理に到達したかった。〔略. しかし〕絶対的なことはどこにもないということを強く認識し、基礎医学を去ることにしたのです。そういう僕自身の医師としての過程がありました。
 ですから、わが子の誕生に際しても、子どもを作るということは健康な子どもが生まれるとは限らないと、強く意識していたのです。妊娠して出産するということは、ある程度の確率で病気の子どもが生まれてくるということです。これは、医学の教科書にも書いてあるし、あたりまえのことです。
(186-7) ▶ 研究という部分で共感しながら読みました。「絶対的なことはどこにもない」なら、「絶対的なことはどこにもないということ」もまた真理ではありません。わたしが——あるいは、まだ——研究に身を置いているのはそのためです。

高松 「人によかれと思うことを一生懸命やることが医療だ」と医療行為を表現した人があります。僕はこの「よかれと思う」という言葉が好きです。自分では、目の前の患者のためになると信じて医療を行う。そういう気持ちでやれている限りはいいのです。けれど、それが信じられないなら、医師としてこの仕事をするのは止めるべきだと思います。
 僕の場合、自分の親や娘にも、こういう薬を出すだろうなという気持ちでやっているだけで、医療がいいことをやっているという確信というか、事実はないと思っています。
だから、受ける側の立場から言えば「こんあことをやってもらってよかったなあ」と思えれば、それはよい医療行為だし、「こんなことはやってほしくなかったなあ」と思うなら、それは迷惑な医療だろうと考えます。
(190)

 自己決定を支援する、あるいは自立を支援するなどと一口に言いますが、それが容易でないことも少なくありません。どんなに話を聞いても、相手の立場になって一緒に考えても、お腹の子どもに思いをはせても、つまりどんなにじたばたしても、私は子ども本人でも親でもなく、結果を背負うわけでもなく、責任のとりようがないことも、自明です。けれど、いのちを前に、非力な自分を知りつつも、逃げることなどできないこともあります。自己決定を支援するつもりで意識的にしたことより、ただ無意識に相手のありように添うことのほうが、結果として目的に近づけることもあります。
 科学的であることより、哲学的であったり、宗教的であったり、あるいは、無心であることが大切かもしれないと考えます。そして、いのちの源に思いは戻り、無常感と非力感と同時に、大きな喜びや、感動、そして感謝で、気持ちがふるえます。
(205)

 そもそも、イギリスでは食物中の葉酸が少ないためか、日本の一〇〇倍くらいの頻度で二分脊椎症〔脊髄破裂〕の子どもが生まれていました。一九七〇年代初頭、小児科医ジョン・ローバーは、重症度によって治療するかどうかを決める「ローバーの基準」つまり、場合によっては治療をせず死を待つ意見を提出しました。これに対し、同僚である小児外科医ロバート・B・ザカリーは、生まれたいのちはあくまでも治療し助けるべきだと反論し、論争になりました。〔略〕
 今日のイギリスでは、母体血清マーカー試験は非常に普及しており、そのため、二分脊椎症の子どもがほとんど生まれなくなってしまいました。そこで、ローバーとザカリーの論争は自然に終止符を打つことになったのです。しかし、稀に患児が生まれたとき、手術のできる技術を持った医師もいなくなってしまいました。
(217-8)


 参照
 ・スパラコ『誰も知らないわたしたちのこと』
 ・松永正訓『運命の子 トリソミー』
 ・川上未映子『きみは赤ちゃん』

@研究室
[PR]

by no828 | 2015-12-19 15:12 | 人+本=体 | Comments(0)
2015年 12月 08日

英文学のほうは、かつて味わったことのない煩わしさと不穏さをもたらした——ウィリアムズ『ストーナー』

c0131823_19572148.jpgジョン・ウィリアムズ『ストーナー』東江一紀訳、作品社、2014年。34(956)


 原題も Stoner 、刊行は1965年 | 版元


 農家の息子ウィリアム・ストーナーが大学の英文学教師になって暮らしていく物語。静かに美しく、同じくらい静かに悲しい物語。誰もがそこに自分を認めてしまうに違いない物語。舞台は20世紀前半のアメリカ。とても、とてもよい本です。

 自分の幸せにつながると思って手を伸ばしたそれが不幸をもたらすことがある。持続する不幸のなかに瞬間的に出現する幸せの萌芽もまたその不幸によって摘み取られることがある。

 献辞はしかし、刹那的でありたしかに破壊されたと思われた幸せが実はしっかりと継続していたことを知らせています。時間も空間も超え、それをいつか手に取るべき人が手に取ってくれるであろうことを黙して祈るその態度が沁みました。あるいはそれ以外に伝える術がないということも含めて。


「わしは人に言うほどの教育を受けてない」自分の手を見ながら言う。「小学校を出るとすぐ、農場で働き始めた。わしの若いころは、教育なんて大事じゃなかった。だが、今はどうかな。毎年毎年、土地は乾いて、鍬が入りにくくなってきてる。もう、わしの子ども時代みたいな肥えた土じゃない。農事顧問殿の話では、郡には新しい考え、郡なりのやりかたというものがあって、それを大学で教えるということらしい。いいことかもしれん。わしもときどき、畑仕事をしながら、考えることがある」息をついて、十本の指に力を込め、固く握り合わせた両手をテーブルに下ろした。「わしが考えるのは——」その両手をにらみつけて、首を左右に振る。「おまえはこの秋、大学に入れ。母さんとふたり、なんとかやっていく
 父がこれほど長く弁舌を振るうのを、ウィリアムは今まで聞いたことがなかった。その秋、彼はコロンビアへ行き、農学部の新入生としてミズーリ大学に入学した。
(6-7)

土壌化学には広い意味で興味を引かれた。生まれてこのかた慣れ親しんできた茶色の土くれが、見た目以上の何ものかであるとは今まで考えたこともなく、身につきつつあるこの知識は、父の農場へ帰ったときにきっと役立つだろうと、胸にぼんやり将来を描き始めた。しかし、英文学のほうは、かつて味わったことのない煩わしさと不穏さをもたらした。(11)

知の真実とは、語りえぬ知識ではなく、ひとたび手にすれば自分を変えてしまう知識、それゆえ誰もその存在を見誤る心配のない知識のことだった。(131)

その未来の中で変化していく自分を思い描いてみたが、じつは未来そのものが、変化の客体というよりその手立てなのだと思えた。(28-9)

学究の徒は、生涯を賭けて築こうとしてきたものを壊す任を負わされるべきではない(41)

「そう、きみは覚えているはずだ。あの授業を引き継いでもらえないだろうか? たいした贈り物というわけではないが、きみが学生として出発した地点から、正規の教師としての第一歩を踏み出すのもおもしろかろうと思ってね(49)

 そうやって書斎の改造に取り組み、それが少しずつ形になっていくにつれて、もう何年も前から、自分の中の自分でも知らない一郭に、ひとつの心象風景が恥ずべき秘密のごとくしまい込まれていたことに気づいた。表向き、それはひとつの場所の風景だが、じつは自分自身の風景だった。つまり、ストーナーは書斎を整えながら、そうすることで自分自身の輪郭を定めようとしていたのだ。本箱用の古い板材に紙やすりをかけると、表面の粗い凹凸が消え、付着物の灰色の薄片が剝がれて、本来の木の面が現われ、やがて豊かで細やかな肌理が浮かび上がる。同じように、家具を修理し、それを部屋に配置することで、少しずつ自分自身の形が明らかになり、自分自身が一種の秩序を獲得して、自分自身であることが可能になってくる。(117-8)

 グレースは近所の子どもたちと遊ぶこともあったが、たいていは父親のいる広い書斎に坐って、父親が答案の採点をしたり、本を読んだり、書き物をしたりするのを眺めていた。グレースのほうから話しかけて、穏やかで真剣な言葉が行き交うひとときには、ストーナーは予見もしなかったその細やかさに打たれた。グレースは黄色い用箋につたなく魅力的な絵を描いて、すまし顔でそれを父親に献上したり、一年生の教科書の文を父親に読み聞かせたりした。夜になって、ストーナーは娘を寝かしつけ、書斎に戻ると、娘の不在をさびしく思うと同時に、上階で娘が安全に眠っていることに心を慰められた。ほとんど意識しない形で、ストーナーは娘の教育を始めており、目の前で成長していくグレースの姿を、知性の働きで内側から輝き始めたその顔を、驚嘆の念と愛情をもって見守っていた。(129)

 自分がよい教師でなかったことを認める気持ちの素地はあった。頼りない講義ぶりで新入生に英語を教え始めた当初からずっと、課題に対して自分が感じていることと教室で講ずることのあいだに大きな溝があるという意識は持っていた。時間と経験がその溝を埋めてくれることを願ったが、そうはならなかった。深い思い入れがあるほど、授業でしゃべるとその思いが大きく裏切られた。生き生きした知識も、言葉にするとしおれて聞こえた。熱い感動が、口から出るときには冷たい響きしか持たなかった。そして、おのれの無能さに対する認識は心を深く傷つけ、その感覚が常習化するとともに、猫背と同様、属性のひとつにまでなった。(130)

 数秒のうちに、仕事に沈潜した。前の晩、講座に関わる当面の雑務はかたづいていた。答案の採点は終わり、向こう一週間ぶんの授業の準備もすんだ。今夜はまるまる、そしてこのあと幾晩かは、存分に著述に打ち込むことができる。新しい本で自分が何をしたいのか、具体的にはまだ定まっていなかった。漠然と、時間軸と視野の両面で、一作目の自分の考察を押し広げるものになればいいと願っていた。英国ルネッサンス期のことを調べ、古典及び中世ラテン文化の影響に関する研究成果をその領域に結びつけたかった。今は研究の計画を立てる段階であり、この段階がいちばん楽しかった。何本もある探究の道筋を一本に絞り込み、いくつかの有望な戦略を切り捨て、未踏の可能性がはらむ謎や不確定要素を分析し、選択の結果を予測し……。次々行く手に見えてくる未来図に心が浮き立ち、ストーナーはじっとしていられなくなった。机の前から立ち上がり、少しあたりを歩き回って、じれったい興奮の口調で娘に話しかけると、グレースが本から顔を上げ、答えを返した。(139-40)

ところが、行きたいと願っていた方向へ、気持ちは導かれなかった。意識は頻繁に目の前のページから離れてさまよい、気がつくと、ぼんやり前方の虚空をにらんでいることが多かった。そのたびに、頭から知識がすべて抜け落ち、意志の力は涸れてしまったように思えた。自分が一種の植物状態になった気がして、何か——痛みでもいい——に身を貫かれること、その何かが生気をよみがえらせてくれることを願うばかりだった。〔略〕自分の人生は生きるに値するものだろうか、値したことがあっただろうか、と自問した。(210-1)


 人生四十三年目にして、ウィリアム・ストーナーは、世の人がずっと若いときに学ぶことを学びつつあった。恋し初めた相手は恋し遂げた相手とは違う人間であること。そして、恋は終着点ではなく、ひとりの人間が別の人間を知ろうとするその道筋であることを。(228-9)

 一度だけ、ストーナーはキャサリン・ドリスコルの消息に触れた。一九四九年の早春、東部の大きい大学の出版局から、刊行案内が届き、そこにキャサリンの著書の刊行日と短い著者紹介が載っていたのだ。キャサリンはマサチューセッツの評判の高い学芸大学で教えていて、未婚だった。ストーナーはすぐに一冊注文した。それを手にしたとき、十本の指が活気づいて震え、なかなか本を開くことができなかった。数ページをめくると、“W・Sに捧ぐ”という献辞があった。
 視界がぼやけてきて、ストーナーは長いことじっと坐っていた。それから、首を振り、本をふたたび手にして、休みなく最後まで読み切った。
 それは、ストーナーがそうなると思っていたとおりの優れた著書だった。文章に気品があり、燃え立つ情感が知性の冷ややかさと明晰さという外皮をまとっていた。ストーナーが本の中に見たのは、キャサリン自身だった。
(294)


 そして、ストーナーは教師であることを求め、その願いをかなえたものの、人生のあらかた、自分が凡庸な教師だったことに思い至って、それはまた、前々からわかっていたことでもあるような気がした。高潔にして、一点の曇りもない純粋な生き方を夢見ていたが、得られたのは妥協と雑多な些事に煩わされる日常だけだった。知恵を授かりながら、長い年月の果てに、それはすっかり涸れてしまった。ほかには、とストーナーは自問した。ほかに何があった?
 自分は何を期待していたのだろう?
(324)


@研究室
[PR]

by no828 | 2015-12-08 20:12 | 人+本=体 | Comments(0)
2015年 12月 04日

大森さんをコテンコテンにやっつけ、大森さんはとてもうれしそうだった——中島義道『哲学者とは何か』

c0131823_20375541.jpg中島義道『哲学者とは何か』筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2000年。33(955)


 版元 | 単行本は1997年に洋泉社


 中島義道の哲学について、哲学者について。“日本人”が日本でカントを研究するのはマダガスカル人がマダガスカルで芭蕉を研究するようなものだ、といった趣旨の文章があります。概念の生まれた文脈を理解しなければならないが、しかし本当に理解できるのか、という根本的な問いかけがあります。ただし、その答えが「できない」というわけでもない。「我々がカントを学ぶということは、マダガスカルで芭蕉を学ぶようなものです。風土も何も違うところで俳句を学ぶということの苦しみを味わうべきですね」(150)。

 著者とその師である大森荘蔵(1921-97)との関係性が描かれています。羨ましく感じました。大森との出来事は胸に沁みるものがありました。

 また——中島の語る、ではありますが——大森荘蔵の哲学への姿勢には“見習いたい”と生意気ながらも素直に思わせるものがありました。大森の理論を継ぐ者はいないし、いてはいけないのかもしれませんが、大森の姿勢は引き継がれてよいし、実際中島らに引き継がれているのではないかと思います。そして、姿勢が引き継がれていれば、ほかには何も要らないのではないかと思いました。「大森先生を囲む会」は厳しい議論を行なう場であったことがうかがわれますが、とても温かなものでもあったのではないかと想像します。

 師との関係という点に、わたしは引き寄せられるところがあります。


 私が哲学の核心部分と信ずるのは、固有のテーマをひたすら言葉(のみ)を信頼して厳密に粘り強くコレデモかコレデモかと議論してゆく能力である。いや、そうした態度である。(28)

肥大化した自我同士がお互い呑み込まれないように必死に抵抗している情況から他者問題は生いたち、各人が自分のみを正しいとする閉塞情況を突破するために生まれたのが討議倫理なのだ。(33)

カントは「神は存在するか?」「魂は不滅であるか?」「われわれは自由であるか?」というような「われわれに課せられているが答えられない問い」を最高の問いとみなした。(科学的な問いのように)容易に答えの方向がわかるような問いは一ランク下の問いであり、問う衝動すら起きない問いは深刻な問いではない。われわれに重くのしかかる問いとは、問い続けることはやめられず、しかも答えが見通せない問いである。では、こうした問いにわれわれはいかに対処すべきか。各人が実際に生きて納得する回答をつかむほかないのである。各人の人生と別のところに答えがころがっているわけではない。他人に聞いても、本を読んでも、最終的には各人が納得するほかない。各人が(たぶん)たった一度の人生を生きてみて、そこから学びとるほかはない。(47)

ただその下手人自身が最も残酷な方法で死刑に処せられるばかりではなく、その家族全員が殺され、彼と同じ町内に住んでいた隣人はすべて牢獄に入れられる。というのは、そのような罪悪は一朝一夕に起こりうるものではなくて、次第次第にのみ起こりうるのであり、したがって、隣人はこのことを前もって予知して当局に告訴しようとすればできたはずだ、と信じられているからである。(117)

 哲学は学問であると同時に、その人を語るものでなければ魅力的じゃないと思うんです。これは大森先生から学んだことで、私の哲学観です。魅力的な哲学があるとすれば、かならずその人というのが出ています。それをほとんどの日本の哲学者は意図的に消してきた。(151)

「なんで先生の理論を誰も継がないのでしょう」と私は〔大森先生に〕聞いてみたことがある。ただちに「私の理論を継ぐ人がいたら軽蔑します」という答えが返ってきた。(159)

「何かほかのことができる人は哲学などしないほうがいい。哲学は病気でありさえすればいい」とは大森さんの持論であった。だから、哲学を「研究しよう」という態度をとても嫌がった。レポートの課題を伝えるときはいつも「調べ物はしないでください」と断り、そしてなるべく簡単なものを求めた。私があるとき一〇三枚のレポートを一カ月かかってセッセと書いたところ、ただちに「それを三枚くらいにまとめてくれませんか」と言われた。〔略〕
 とはいえ、大森さんは大変厳しい教師であった。哲学に対する態度が生ぬるいこと、思考が杜撰であることをひどく嫌った。そして、虚飾や傲慢や権威を蛇蠍のように嫌った。〔略〕大森さんは死ぬまで一介の「哲学徒」であり続けたし、そうありたかったのだと私は思っている。つねづね「日暮れて道遠しです」と繰り返していた。「学生が教師に対してできるのは軽蔑することだけ。そして、教師にできるのはそうした学生を軽蔑することだけです」とも言っていた。たしかに、私たち弟子はさまざまな思惑で大森さんを精一杯軽蔑していた。そして、大森さんから精一杯軽蔑されていた。みんな哲学なんぞにはまりこんだバカばかりなのであった。そんなことは、もうわかりきっているのだ。
 私たち弟子はその後執念深く哲学を続けた。そして、一〇年ほど前に駒場のOB会のような「大森先生を囲む会」が発足した。大森さんが書いたものについて容赦のない論議をする場であった。私たちは大森さんをコテンコテンにやっつけ、大森さんはとてもうれしそうだった。かつて「君」と呼んでいた私たちを「さん」と呼びかえてくれた。だが、一年半前ごろから大森さんは動けなくなった。「大森先生を囲む会」も自然消滅というかたちになった。大森さんが苦心惨憺して築き上げた「立ち現れ一元論」や「重ね描き論」や「風情論」など、弟子の誰一人受け継いでいない。みな、師などいないかのように好き放題なことをしている。「ああ、それでいいのだよ」と大森さんがささやく声が聞こえる。
 最後に個人的なことをひとつ。一〇年前のある日、もう生きていけないほどうちのめされて、大森さんに電話した。「黙って話を聞いてください。でないと、もう駄目になるかもしれない!」「では、すぐに来なさい」。深夜であった。雨がザーザー降っていた。帰りがけに、玄関の私の後ろ向きの肩に向かって「話してよかったでしょう」と言ってくれた。
 大森さんはいい人であった。
(160-1)

大森 そこがですね、最近少し考え直しているんです。(247)

大森 私はまったくその疑問にずっと苦しめられておりまして、答えはまだわかりません。(253)

だが、彼らの口から「ニーチェ以降の状況」や「脱構築」あるいは「ロゴス中心主義批判」などの言葉が出てくるたびに、私はふたたび大層不思議な気分に陥った。以上の概念はいずれも、このニホンコクの生活現場とは無縁なことだからである。そもそもニホンコクと欧米とが「モダン」を共有したという想定自体に疑問符を付けねばなるまい。すべての議論はそこから開始すべきであろう。(14)

 もし、N教授の言うとおり、これがニホンコクの哲学研究者たちの実態であるとすれば、この国に哲学者はいないと言わざるをえない。哲学者とは、生活現場から遊離せずにみずからの実感にもとづき——ニーチェの言うように——みずからの「血の言葉」(肉体の言葉)を駆使するものであるから。あるいは、——ソクラテスのように——たとえ一冊の著書も書かなくとも、その「血の言葉」を実践する者であるから。(17)

あるものが気分や感情のようなものをもっているとは、それが相手によって態度を変えることを含意します。ですから、好きな人には即座に懇切丁寧に答え、どうでもいい人にはそっけなく、嫌いな人にはわざと違った回答を与えるというように、操作する各人に対して微妙に態度を変えるコンピュータがあれば、それは、ほとんど〈こころ〉をもっていると言えるでしょう。(70)

彼〔=カント〕は、他者との生き生きとした関係を完璧に削ぎ落とした生活を孤独と感じないほどに孤独な人間であった。臨終の言葉は「よろしい(Es ist gut)」であったという。(127)

中島 過去に起こったさまざまな写真はありますが、未来を撮った写真はないですね(221)

中島 私が無くなることが、いちばん外側で私の未来をつくっているわけです。(272)


@研究室
[PR]

by no828 | 2015-12-04 21:08 | 人+本=体 | Comments(0)