思索の森と空の群青

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2016年 01月 31日

1月のカプチーノ

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 1月が終わります。

 T塚の非常勤講師先は4日(月)から講義が再開されました。本務校も4日からでしたが、月曜に講義のないわたしは8日(金)開始。

 翌週11日(月・祝)は祝日講義日の多い非常勤講師先も休み。2年生が成人式に出席するためでしょう。15日(金)はセ○ター試験準備のため、全学終日休講。わたしも準備作業に参加しました。16日(土)は終日セ○ター試験の監督業務。11月に本学の推薦・編入学試験の監督を経験しましたが、セ○ター試験は初。これまで非常勤講師、非常勤研究員という立場であったため、会議はもちろん入試業務もありませんでした。セ○ター試験の業務にあたっては、本当に事細かく定められたマニュアルの理解が大変でしたが、実際に一通り経験することでわかった点もありました。そもそも、という部分で考えるところもありましたが、無事に終了できてよかったと安堵もしています。学部学科の異なる初顔合わせの先生方とも一緒に業務にあたり、“困難”をともに乗り越えるという側面もあるため、間柄が一時的に深まるような感触もありました。

 18日(月)は、前日からの大雪のため、本学は全学終日休講。非常勤講師先は通常どおり講義。19日(火)であったか、朝、宿舎の水が出ず。おそらくは水道管の凍結。

 25日(月)の週は、本務校・非常勤講師先ともに試験を実施したり、某書評の校正に取り組んで印刷会社に郵送で戻したり、T木の非常勤講師先で集中講義をしたり、某原稿の最終稿を筆頭編者へ送信したりしました。それから1月29日(金)が今年度の研究費の申請手続きの期限であったため、必要な本(教育資料)と文房具をシステム上で申請したりもしました。本学は教員(研究者)自身で業者に見積を依頼したり発注したりすることができず、定価(概々算)での申請となってしまいます。おそらく本は5%引きになるはずですので、最終的な価格との差額分がもったいない(必要な本はまだある)という感覚が残ります。また、研究費の申請締切が早すぎるという印象を持ちましたが、比較できるほど他大学の事情を知りません。とりあえず、研究は1月で終わるわけではない、とは言えると思います。また、少なくとも前職の非常勤研究員で会計業務をしていたときは、教員(研究者)自身による見積依頼と発注が可能で、しかも3月最後の平日までに納品されるのなら3月中の発注も可能でした。とはいえ、本学には本学の事情があり、はじめての個人研究費は、概々算で3ケタの金額——最終的には3,000円くらいになると予想される——を残して終了となりました。

@研究室
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by no828 | 2016-01-31 16:42 | 日日 | Comments(0)
2016年 01月 31日

援助の目的なしに災害の場所を訪れることは誰もしないはずなのだ——グリーン『コンゴ・ヴェトナム日記』

c0131823_15382890.jpgグレアム・グリーン『グレアム・グリーン全集 17 コンゴ・ヴェトナム日記』田中西二郎訳、早川書房、1982年。39(961)


 原著:Graham Greene, 1961, In Search of a Character

 版元

 2015年に残してきた本


 初 グレアム・グリーン。『燃えつきた人間』が有名なようですが、未読です。いわゆる開発途上国についての文学などを探し読むなかで本書を手に取りました。「序文」ののち、「コンゴ日記——主人公捜索」、「西アフリカ輸送船記」、「インドシナ日記抄」、「ヴェトナム通信」と並んでいます。

 ヒンドゥー教についての文章や文中で紹介された彼の地の格言にはその場所性を強く感じます。 

 ことに印象に残ったのは「暴力の窃視者」という表現でした。


 この二つの日記はともに公表するために書かれたものではないが、ある小説家がとり集める素材はどういう種類のものであるかを示すものとして、いくらかの興味はあるかと思う。作家は作品中に保存するものよりも多くのものを捨棄しながら人生を進んでゆくのだが、彼がノートに記す事柄は、それが発生した瞬間には彼はそれを創作的な興味のあるものと考えているのである。(「序文」5)

老店主は車をそのままそこに置いて、警察の来るのを待った。新任の若い署長にとっては、これは最初の事件だった。「あなたは何をしたんです?」と署長が言った。「これはわたしが何をしたかという事件ではなくて、わたしがこれから何をするかという事件なのですよ」と老人が言って、ピストルで自分の頭を撃ち抜いた。(「コンゴ日記——主人公捜索」14)

 この土地の部族の格言の一つ——「蚊は痩せた男でも容赦しない(「コンゴ日記——主人公捜索」16)

 いざ出発という瞬間に、この土地の郵便で、また一人のこの土地の文士からの手紙が彼の自費出版した本をいっしょにとどけられた。なぜこうも多くの人がものを書くという夢想に悩まされるのだろう? 金がほしいからか? わたしにはそうは思えぬ。自分のほんとうにえらんだのではない生活を自分がしていると思ったときに天職を得たいという渇望がわくのだろうか? これと同様に、ある人々が宗教的信仰をも体験するよりは渇望するというがむしゃらな衝動に駆られるのも同じ気持だろうか?(「コンゴ日記——主人公捜索」33-4)

 アンリ神父の話。アフリカ人の物質主義にはおもしろい学校の逸話がある。教師が生徒に地球儀をみせ、そこにある陸地と国々について話していた。やがて彼は悧口な質問をしなさいと言った。男の子がすぐに手を挙げた。「その地球儀はいくらしましたか?」「もっと頭のいい質問をしてもらいたいものだね」他の生徒が手を挙げた。「そのなかには何が入っていますか?」(「コンゴ日記——主人公捜索」45)

 ヒンズー教は熱帯の宗教である。熱帯諸国にしか起こらない無差別殺戮への一つの反動である。ヨーロッパで殺す一匹の虫に対応して、熱帯地方では人は少くとも百匹を殺さねばならぬ。人は考えずに殺している——自分の膝のナプキンや、自分の書物のページに汚点がつくだけである。(「コンゴ日記——主人公捜索」63-4)

われら、人生の大いなる荒海にうかびただよう者、ここでも過誤はかならず償いを求められるのです。さればこの哀しい物語からわれらは学ばねばなりません、
ためらう者は敗る」——この訓えを。
(「西アフリカ輸送船記」92)

 死の支配する地域に一介の非戦闘員旅行者として自分がいる場合、わたしはいつも一種の罪の意識をもつ。援助の目的なしに災害の場所を訪れることは誰もしないはずなのだ——二年前、ファト・ズィエム攻撃の最中にわたしが感じたように、暴力の窃視者のように感じるものだ。(「インドシナ日記抄」112)

 サイゴンで戦争というものを徹底的に意識している人間は医師たちだけであって、かれらはフランス人の大多数がともすれば忘れがちな事実を自覚していた。その一人はわたしに語った——「ぼくがある陸軍病院に医師として入るまで、十人のうち九人までの負傷者はヴェトナム人だということを知りませんでした(「ヴェトナム通信」134)

 カトリック教徒、特にフランスのカトリック教徒は、かれらの支援のため懇篤な醵金をした。この援助はおそらくアメリカからの援助よりも一般に受けがよかった。フランスは報酬を求めなかったからである。贈物にいつまでも贈与者の名を刻印してあるのでは、そう大してありがたいと思うのは困難だ。これは貧乏人がふだん受けている種類の、出すぎない、わだかまりのない慈善行為とは違うのである。天幕も、鶏籠も、配給品の包みもみな“アメリカ援助物資”というバッジのついた物ばかりで、それらは一種の支払いを要求している——冷戦での協力をである。
 このことが、一つのアメリカからの贈物の不手際さ以上に、避難民たちをいらだたせている。
(「ヴェトナム通信」156-7)

 ハノイには、もちろん、悲哀と凋落の色があった。それは上流の市民が一人のこらずいなくなった都市にはまぬかれがたいことだ。たんに気晴らしのくつろぎの場所がないだけでもわたしなどは悲哀を感じる——映画は宣伝映画しかなく、残っているレストランは値段がばか高くて話にならず、街の人通りを眺めて時間つぶしをするキャフェもない。しかし農民はキャフェやレストラン、フランス映画やアメリカ映画のないことを悲しまない——かれらはそういうものを持ったことがないから。たぶん長々しい強制的な講演や政治集会、体育訓練の時間などですら、かれらがこれまで知っているものよりはマシな娯楽なのかも知れないのである。
 われわれは個人に対する脅威ということを喋々するけれども、無名の農夫はこれまで一度でも個人らしい取扱いを受けたことはなかった。
(「ヴェトナム通信」164-5)


@研究室
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by no828 | 2016-01-31 15:48 | 人+本=体 | Comments(0)
2016年 01月 21日

善意はあるのに、充分なことができたためしが——マーサー『シェイクスピア&カンパニー書店の優しき日々』

c0131823_17305260.jpgジェレミー・マーサー『シェイクスピア&カンパニー書店の優しき日々』市川恵里訳、河出書房新社、2010年。38(960)


 原著:Jeremy Mercer, 2005, Time was Soft there: A Paris Sojourn at Shakespeare & Co.

 版元

 2015年に残してきた本


 フランスはパリ、セーヌ川左岸にある本屋。経済的に貧しい作家にただで寝床を提供する本屋。筆者はこの本屋に住みつくことになったカナダの元新聞記者。

 シェイクスピア・アンド・カンパニー書店をはじめたのはシルヴィア・ビーチ。1919年のデュピュイトラン通り。1922年にオデオン通りに移転。ジェイムス・ジョイスの『ユリシーズ』。1941年ナチスによるパリ占領で閉店。1944年アーネスト・ヘミングウェイを含む米軍部隊がこの書店を解放。しかしビーチは引退を選択。1951年、アメリカ人のジョージ・ホイットマンが2代目シェイクスピア・アンド・カンパニー書店を開店。本書の舞台はこの2代目のほう。

 当時、著者は20代後半、ジョージは86歳。


ドアの枠の上に「見知らぬ人に冷たくするな 変装した天使かもしれないから」と書いてある。(23)

「本を出したことがあるの?」
 僕はうなずいた。
「自費出版?」
 自費出版専門の出版社を利用するのは金でセックスを買うようなものだが、ある意味ではそれ以上に恥ずべきことだ。娼婦を訪れるのは少なくとも私的な行為だが、金を払って自分の本を出すのは、せっぱつまった創作欲を公然と人目にさらすことだ。不安にさいなまれていたにもかかわらず、僕は侮辱されたように感じた。
(46)

何より悲しいのは、ほとんどの万引き犯は盗んだ本を読まないことだ」とジョージはこぼす。「すぐ金に換えるために、別の店に行って売るだけだ
 人によっては人間不信におちいるところだが、ジョージは動じなかった。何年か前、百ドルのトラベラーズ・チェックを送ってきたアメリカ人男性に希望を感じたという。二十年前にパリに留学していたとき、シェイクスピア・アンド・カンパニーから盗んだ本の代金を送ってきたのだった。
「そのショーの本を取ったのはそんなに悪いやつじゃなさそうだな。少なくとも頼んできたんだから。『与えられるものは与え、必要なものは取れ』——僕はいつもみんなにそう言ってきたんだ」
(114)

「みんな自分は働きすぎだ、でも、もっと稼がなきゃと言う」ジョージは僕に言った。「そんなことして何になる。できるだけ少ない金で暮らして、家族といっしょに過ごしたり、トルストイを読んだり、本屋をやったりすればいいじゃないか。ばかな話だ」(133)

 結局、驚くにはあたらないだろうが、カール〔・ホイットマン。ジョージの弟〕は中道を選んだ。学者兼活動家になったのである。修士号を取得したとき、彼はナッシュヴィルのフィスク大学で最初の白人学生だった。ここは一八六六年に奴隷解放の教育のために創設された大学である。まずフィスク大学の教授となり、その後フロリダA&M大学に移ると、学内の組合に関わるようになり、中米からの避難民のために働いた。ラテンアメリカの抑圧、貧困と闘うキリスト教団体「平和のための証人」でボランティア活動を始めたのも、この時期である。この団体の活動には特に熱心に取り組み、ついには幹部まで務めた。(145)

 フェルナンダは短編を一本買うと言ってきかず、僕はタイプライターの前で書く態勢をとった。何を書いたか記録するためにあらかじめ買っておいたカーボン紙を機械に挟もうとして指が青く汚れた。何も出てこなかったらどうしようという恐怖にとらわれたが、ふとノートルダムに目をやると、フェルナンダが僕のために祈ってくれたことを思い出した。僕は、目の手術のあと、ノートルダムの中で待つ男の話を書いた。その日は医者から包帯を取ってもいいと言われていた日で、男はまず一番にノートルダムの美しさを目にしたかったのだ。フェルナンダはその話を読むと、長いあいだ僕を抱きしめた。
 僕は店に越してきてから初めて、シェイクスピア・アンド・カンパニーの外にも人生があることを思い出した。
(171)

 シェイクスピア・アンド・カンパニーで過ごした日々は、僕にとってこの上なくソフトな、優しい日々だった。(199)

若き社会学者は次のような一文で始まる自伝を提出した。「僕の父が十二歳のとき、祖父は聖書を贈ったが、僕が十二歳のとき、父からもらったのは『共産党宣言』だった(199)

記者として警察とつきあうなかで、酒は警察の人間がもっとも嫌う興奮剤であること、警官は例外なく、わめきたてる酔っぱらいよりも気まぐれなマリファナ常用者を相手にするのを好むことを知った(213)

 ジョージが初めて共産主義に接近したのは、大恐慌がもたらした惨状をまのあたりにしてからだった。もっといい方法があるはずだと彼は思った。世界の富が一握りの人間の手に集中しないような仕組み、人々が経済システムの単なる歯車として働いて物を買い、物を買って働かされるのではない仕組みがあってしかるべきだと考えた。(247)

貧しい人々を見ろ、シングルマザーを、囚人たちを見ろ。文明を測る基準はそこにある(247)

 彼はまず、真の共産主義がこの世で実現したことは一度もないということを説明した。スターリンは凶暴なペテン師だったし、かつては美しかったカストロの理想主義も、彼の権力欲によって堕落してしまった。必要なのは、より多くの政府がマルクス主義と社会主義を試してみること、金と資源が新しい複数刃の電気カミソリの設計だの、さらに強力な大量破壊兵器の製造だのに注ぎこまれるのではなく、教育と家族のために使われるシステムを試すことだ。だが現代の指導者でそれだけの勇気をもった人間はほとんどいない。グローバルな経済共同体がその国の国家債務の金利を引き上げ、経済に大打撃を与えて国を崩壊させてしまうからだ。(248)

 僕らは三週間にわらってだらだらとスペインを一周した。バレンシアを抜けグラナダを通ってマドリードに行き、そこからまた海岸に戻った。最後の日に静かな洞窟を見つけ、泳ぎに行った。僕は水面すれすれに飛んでいた一匹の蜂が海に呑みこまれるのを見た。そこまで泳いでいき、水から救い出そうとしたが、刺されるのが怖かった。二回、空中にはじき飛ばしてみたが、また水中に戻ってしまった。それでもまだ手のひらですくう気になれず、黄色と黒の蜂の体が目の前で波間に沈んでいくのを見つめていた。いつもこうだ、岸に戻りながらそう思った。いつだって善意はあるのに、充分なことができたためしがない。(277)

 ある日の午後、ジョージは僕にトルストイがたったひとりで死んだ話をした。列車の車両に閉じこもり、プラットフォームで泣く妻が別れを告げに入るのも許さなかった。それからジョージはマルクスの葬式の話を持ち出した。
何人ぐらい参列したと思う?
 二、三百人じゃないかと言うと、彼は悲しげにかぶりを振った。
 七人。
「どういうことなのか僕にもわからない」ジョージはため息をついた。「だれも答えを知らない。知っているふりをするやつは嫌いだ。人生なんて分子のダンスの結果にすぎないのさ」
(285)

「ずっとそういう場所にしたかったんだよ。ノートルダムを見るとね、この店はあの教会の別館なんだって気が時々するんだ。あちら側にうまく適応できない人間のための場所なんだよ(295)


@研究室
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by no828 | 2016-01-21 17:45 | 人+本=体 | Comments(0)
2016年 01月 19日

動乱とは世界のありのままの姿が、あまりに正確に現象することに——日野啓三『地下へ/サイゴンの老人』

c0131823_19503384.jpg日野啓三『地下へ/サイゴンの老人——ベトナム全短篇集』講談社(講談社文芸文庫)、2013年。37(959)


 版元

 2015年に残してきた本


 初 日野啓三(1929-2002)。東京生まれの日野ですが、5歳から16歳までを植民地朝鮮で過ごします。また、元新聞記者で戦時ベトナムでの特派員経験があります。本書にはその際の経験に基づいて書かれた文章が集められています。


人間とは——と頁の端にふと書きこまれたらしいそのボールペンの文字は読みとれた——人間の条件を絶えず逃れようとする忌まわしい傾向性だ(「向う側」24)

 ——いいかね。大切なのはこの不可解な事件に何らかの形をつけることだ。ただ急にいなくなっただけでは困るんだよ。保険の問題だってある。戦地保険は掛け金がひどく高いんだ。
 ——わかります。
 ——形のないことはナッシングだ。何らかの形がついて初めてそれはサムシングになる。そうだという決定的な証拠はないとしても、そうではないという決定的な反証もない限り、われわれは比較的に整ったひとつの形式を、この事件につける責任と義務がある。社会というものは、そういう風にして成り立ち、かつ動いてゆくものなのだ。
(「向う側」31-2)

 地下三メートルの土の中に閉じこめられてひとり横になっている教授の姿がまた思い浮かんできた。死体は焼く方がいいと私は思った。心臓と呼吸がとまっただけの生前のままの姿で、土の中に横たわっていると考えるのは、親しかった者たちには、むしろ苦痛なことだ。ひと思いに焼いてしまえば、きっぱり片がつくが、あのままでは何か決まりがつかない。本当に死んだという気になれない。
 それに一ヵ月たち、二ヵ月たって、そろそろ眼が溶けたかな、もう鼻のくさった頃だ、いまごろ胸を虫たちが食い荒しているにちがいない——などと想像しなければならないということは、耐えがたいことだ。
(「地下へ」84)

夢をもつから傷つくんではなくて、傷ついてきたから夢をもつんじゃないか(「サイゴンの老人」235)

 私のフランス語は全くいい加減なものだが、元植民者〔コロン、とルビ〕相手だと意外に気おくれもなく口にできる。私も少年時代、朝鮮で育った元コロンだと言ってから、相手も急に親しみを増す。(「林でない林」244)

 特派員などというのは所詮、傍観者でなければ覗き屋にすぎないとはいつも思いながら、テロ、戦争孤児、難民、戦争未亡人の娼婦、夜明け前の公開銃殺、ナパームで燃える村、国道わきの戦死体、戦死者の遺体処理場、焼身自殺、汚職、クーデターごっこ……の湧き返り静まり返るなかを、駆けまわっているうちに(それも乾季の猛暑のなかで)、こんなことがぎりぎりの剥き出しの現実だとしたら、現実なんて何だ、と歯ぎしりするむなしさだけが、内側から自分を浸蝕してゆく。
 戦争だから、とは必ずしも思わない。平和なはずの東京でだって、おれはいま生きている、と鮮烈な現実感を、掌のなかに静かに握りしめる手応えとして感じてきただろうか。
(「林でない林」253)

 かさねていうが、私の心の底をゆり動かしたのは人間が人間を殺すということ自体ではない。恭しくほとんど神聖なといえるまでの仕方で人間を殺すことによって、何かが厳粛に支えられ組織され聖化されさえしたということだ。あるいはそういう人間の死によって基礎づけられ聖化されているそのもの、一定の社会的・道徳的秩序を集約する力としての権力、その権力によってこの星空の虚空の中を支えられてきた意味ありげな連続の形式——つまり歴史。
 石に歴史はない。獣にも歴史はない。人間だけが歴史をもっているということのために支払ってきた、そして現に支払いつつあるものは何であろうか。それは人間の血であり恐怖である。人柱の上に塔が建てられたように、人間の血を支点として歴史は支えられていることを、私は見た。
(「悪夢の彼方」285)

 だが〈解放〉という言葉が与えるまぶしいような健全な明るさは、この場合ほとんど無縁だ。枠を失った感覚がじかに受感するものは、空漠として濃密な虚無感と、茫々と無形の奇怪な観念にすぎない。枠がないという意味で私の想念は自由を得るが、支えと方向と限界がないという意味で、その自由はそのまま不安定そのものでもあった。(「悪夢の彼方」291)

 逃げたいという衝動が強く私を捉えた。
 どこへ? 少なくともここから。ここではないどこかへ。
 東京へか? 決してそうではなかった。東京もまたこの世界のもうひとつの行きどまりでしかない。昨日、東京の友人がよこした手紙の一節——「退屈してます。せめてもの楽しみはベトナム戦争のできるだけ残酷なテレビニュースを見ることです
 ここでも東京でもないどこか。どこでもないどこかへ。
(「悪夢の彼方」295-6. 傍点省略)

狂気とは世界のあるがままの姿を、あまりに正確に映す意識のことにちがいない。不正確になればなるほど、人は正気になる」
 と、そういう夜更けに書きつけたにちがいない言葉が、持って帰ったノートの端に書きつけてある。
 動乱とは世界のありのままの姿が、あまりに正確に現象することにちがいない。
(「悪夢の彼方」298)

 動乱という台風の目の中で、私は動乱を突きぬけた世界をかいま見たように思う。
 私が動乱にひかれるのは、動乱でゆるんだこの世界の裂け目から〈向う側〉が見えるためだった。〔略〕
 動乱は手段だった。窓だった。そして動乱を越えた向う側にのぞきみたものは、動乱でも平和でもない別の世界だった。悪夢よりも悪夢的なために、現実よりも現実的な世界だった。
 そこから改めて、この世界をいわば裏側から眺め返す視点を私は予感した。
 恐らくそれが、私がサイゴンで得た最も貴重で呪われた体験だ。
(「悪夢の彼方」302-3)

 国道わきの兵士の死体のかたわらでは、灰色の乾いた肌の水牛が悠々と草を食べていて、その眼は優しく無関心だった。
 サイゴン中央広場の一角の歩道は、処刑の柱を立てるために敷石を掘り起こしたあとがそのままになっていて、三十センチ四方ぐらいの凹みには、黄色くなった紙屑、ビールびんのふた、ちぎれた樹の葉、それにサトウキビの嚙みかすが、汚れ放題になってたまっていた。私はある夜、恐らく二階のバーのバルコニーからの帰り、その歩道の一角に行って、ライターをつけて凹みをのぞきこんだことがある。そして白っぽく乾ききってほこりをかぶったサトウキビの嚙みかすをつまみあげたときほど、この世界の正体をみたと感じたことはない。
(「悪夢の彼方」304-5)

基本的なものの時代が再び始まったようだ」とファシスト空軍の爆撃下に燃えるマドリードの街を眺めながら、『希望』の一人物は静かにいった——「理性は改めて基礎づけられねばならぬ
 サイゴンの広場の隅の石のベンチに腰をおろして私はしばしばひとり呟いたものだ——世界は改めて基礎づけらればならず、そのためにはまず根本的に眺め直し感じ直さねばならないだろうと。
(「悪夢の彼方」307)

 日野啓三も、直接的には、この公開処刑を目撃することによって、新聞記者、そして観念的な文芸評論を書いていた自分の道先を変えたと思われる。彼の自伝的小説『台風の眼』(講談社文芸文庫)のなかには、一人のベトナム青年の死刑を目撃することによって、精神的なショックを受けた主人公が、これはもはや報道文や評論的な文章では書くことが出来ないとして、小説を書こう、“小さな説”としての小説を書こうと決意をする場面が描かれている。(川村湊「ベトナムから遠く、遠く、離れて——解説」322)


@研究室
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by no828 | 2016-01-19 20:12 | 人+本=体 | Comments(0)
2016年 01月 12日

11月中旬のワイン

 11月中旬の日曜日、学類時代の友人DとMがK府に遊びに来てくれました。昨年の6月くらい、都内で続けている非常勤講師の仕事の折、D(+妻M+娘E)宅へお邪魔したことがありました。ちなみに、妻Mも学類時代の友人です。手料理をありがとう。おいしかったです。

 そのあとT主催でS橋にて“サラリーマン”限定の同期会が開かれ、その際、MもD宅に近いところに住んでいることがわかり、それなら次回はぜひ一緒に、ということになり、7月であったかD宅に改めて集合となりました。そのときに、暑さが落ち着いたらK府へという話にもなり、それが11月に本当に実現しました。

 9時30分K府駅集合。駅近くのワイナリーへまずは行き、そのあと昼食。わたし自身初のほうとう。平打ち麺、かぼちゃ、味噌。あと(写真はないけれども)鳥もつ煮。これも初。
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 Z光寺駅。管轄がK府駅と異なります。K府はH日本、Z光寺はT海。
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 お寺自体は駅からが遠い(ということを現地で知りました)。この長い直線の先に……
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 Z光寺。
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 そのあとK沼ぶどう郷へ移動。2つ目のワイナリー。ちょうどよい電車がなく、ひとつ手前のE山駅までしか行かない行く鈍行に乗り、そこからタクシー。
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 景色のよいワイナリーでした。ワインを買って外で味わうことができました。3種味比べなど。
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 夕陽が30代半ばに差し掛かった背中を照らし出します。
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 ワイナリーで呼んだタクシーがなかなか来ずに焦りましたが、何とかK沼ぶどう郷駅へ到着。わたしも翌日がY浜市で講義のため、ついでにと一緒に上京。わたしの今後のことについていろいろと相談なども。
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 2人ともありがとう。今度はお誘い合わせのうえ、果物の季節にお越しください。お酒を飲まないなら、今度はMの大きめの車か、こちらでレンタカーを使ってもよいかもしれないね。

@研究室
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by no828 | 2016-01-12 20:18 | 日日 | Comments(0)
2016年 01月 10日

「世界は行き詰まっていない」と考えることによってしか生まれない——橋本治『負けない力』

c0131823_1662693.jpg橋本治『負けない力』大和書房、2015年。36(958)


 版元


 橋本治先生の「知性」についての本。タイトルにもある「負けない力」とは知性のことです。そして知性とは、相手の知性を認める力のことです。答えを外部に求めない姿勢を維持し続けるための持久力でもあるでしょう。

 橋本治先生は一貫して“自分の頭で考えろ”とおっしゃっています。わたしの思考回路は橋本治先生に開けてもらったようなところがあります。もう15年くらい前のことになりますが、橋本治先生の本をはじめて買ったときの風景をわたしはまだ覚えています。


 おまけに、「負けない力」という言葉にネガティヴなニュアンスも隠されています。なぜかと言えば、「負けそうな状況」がなければ、この「負けない力」は威力の発揮しようがないからです。重要なのは、そんなめんどくさい状況に巻き込まれないことで、そう思う人が多くなってしまえば、「負けない力」なんかはなんの意味も持ちません(3)

知性というのは、「なんの役にも立たない」と思われているものの中から、「自分にとって必要なもの」を探し当てる能力でもあります。(4)

でも、どういうわけか日本人は、「どうして我々は負けてしまうのだろう?」を考えないのです。考えるのは、「もう一度勝とう」ばかりです。〔略〕どうして日本は、いいところまで行って負けてしまうのでしょうか? それは日本が「ここら辺でやめておこう」という考え方をしないからです。(26)

「答は自分の中にある」と思えるのが知性です。「答は自分の中にあるんだから、自分で答を引き出さなければならない」と思うのが知性です。(41)

でも私は「もし穴に落ちたら?」と言っているのです。それに対する答が「私は穴に落ちない」だったら、その人は「自分が穴に落ちることもありうる」ということを想像出来ない、イマジネーションに欠ける人になります。(43)

 ボディコンもキャリアウーマンファッションもブランド物も、すべては「思想的なファッション」で、その背後には、それを選ぶ人達の「私は自己を主張したい」という気持があります。めんどくさい言い方をすれば、それは「私が私であることの自己証明」です。
 この自己証明は「自分の外部にあるものを選び取ることによって可能になる」というもので、最早「自分」というものは「自分の内部にあるもの」ではなくて、「自分の外部にあるものを選び取ることによって表明されるもの」です。だから、この自己証明は金がかかります。
(67-8)

「自分」があって、それを「個性的に表現する」ではなくて、「“自分”があろうとなかろうと、これを着れば個性的であれるはずだ」というのは、本末が転倒した「個性」のあり方です。(74)

 めんどくさい自己主張をする他人と付き合うのがいやになった男は、可愛くて自己主張もせず、存在するだけで「癒してくれる」になってしまうアイドルにはまります。女だって、めんどくさいことを抜きにしてただ可愛くなっているだけでキャーキャー——というかギャーギャー言われるアイドルになりたいと思います。(75)

 イギリスに留学した夏目漱石は、大日本帝国から期待された英文学者でもあったのですが、「英語や英文学を学ぶことが、日本人である自分にとってなんの意味があるのだろう?」と思うところまで行ってしまった人です。(105)

 知識を身につける目的がなにかと言えば、それは自分を育てることです。〔略〕「自分には必要だ」と思える知識は、「身に沁みる」という形で体感的に判断出来るものです。(106-7)

「私の言ったことでなにか分からないことがあるか? なにか説明不足のことはあったか?」と言う方は言っているのに、「質問というのは、言われたことを理解した人間がするものだ」と思い込んでいるから手が挙がらないのですが、「言われたことを理解した人間がなにかを言う」は、「質問をする」ではなくて、「意見を言う」です。「意見を言う」と「質問する」は違うのです。(113)

 質問というのは、相手の言うことをよく聞いていなければ出来ません。〔略〕
「どこがどう分からないの〔か〕はよく分からないけど、なんかよく分からない」と思ったら、「自分はなにに引っかかってるのか?」を考えればよいのです。「なにが分からないのか」はモヤモヤとしていることなので、すぐには正体を現しません。だからまず「なにか引っかかるものがある」と考えるのです。それを可能にするものをむずかしい言葉で言うと、「理解力」と「判断力」になります。
「自分はなにかに引っかかってる」と思ったら、「それはどこだ?」と考えて、頭の中を反芻したり、目の前に置かれているペーパーの文章を目で追います。
(114-5)

「“分からない”と言ったらバカだと思われるかもしれない」という危惧はあるにしろ、「とりあえず、相手に対して自分はバカだ」という負け方をしてしまった方が、トクではあろうと思います。少なくとも、「自分はバカかもしれないと思って腰を低くしてるのに、その相手を本気でバカにしているこの人は、たいした人じゃないな」ということだけは分かります。
 お忘れかもしれませんが、知性は「負けない力」です。「負けない力」を本気で発動させるためには、「負ける」ということを経験した方がいいのです。負けることをバカにする人に、ろくな知性は宿りません。
(121)

「権威」であるような「拠りどころ」がなくなったら、「自分のことや自分達のことは、自分や自分達で考えてなんとかする」しかありません。その「どうしたらいいんだろう?」を考えるのが、「知性」なのです。(130)

「根拠」というのは、自分の内部に作り上げるものです。「自分がある」というのは、自分の内部に「根拠」を持つことで、「根拠」というのは、自分の外側に当たり前の顔をして落っこっているものではありません。(132)

 私がなんの根拠もなく「知性とは負けない力である」と言ったのは、「知性ってなんだろう?」と考えて、「それを調べてみよう」とは思わなかったからです。〔略〕
 どこかで誰かえらい人が「知性とはカクカクシカジカのものである」と言っていたとしても、それは「この人はそう言ってるんだな」というだけの話です。それをそのまま引用してしまうと、「だからなんなんだ?」というその先のことまで、それを言った人の言葉を引用しなければならなくなります。それは「知性ってなんなのか?」ということを考えることではなく、「知性に関してなにかを言っている他人の言葉を説明する」にしかなりません。
(134)

 権威主義者は、「根拠を一から作り上げて行く」という行為そのものを理解しません。だから、そういう人が「一から根拠を作り上げて行く」なんてものに出合うと、「そんな話は聞いたことがない」とか「見たことがない」と言って拒絶します。〔略〕
「自分で考える」ということは、「自分で根拠から作り上げる」ということで、それがその先に於いて「他人の合意」を得るかどうかは分かりません。でも、「他人の合意」に出会えるところまで行かないと、「自分の作り上げた根拠」は、ただの「自分勝手な理屈」です。
「自分で作り上げる根拠」には、「これは正しい」ということをなんらかの形で証明することが必要です。でも、そんな「証明」なんかは出来ません。だから「これは正しい!」なんてことを大声で言わない方がいいのです。それが「自分の作り上げた根拠」と「自分勝手な理屈」の別れ目です。
 誤解があるかもしれませんが、「根拠」というものは一番初めにあるものではありません。一つ一つ積み上げて行って、最後になってようやく「根拠」になるようなものなのです。
(136-7)

「他人の考え方」というのは、覚えるものではなくて、学ぶものです。「そういう考え方もあるんだ」と思って参考にして、自分の硬直してしまった「それまでの考え方」を修正して、自分の「考える範囲」を広げるためにあるのが「他人の考え方を学ぶ」で、つまりは、自分を成長させることなのです。(150. 傍点省略)

「他人の考え方を知る」というのは、大袈裟に言えば、それだけで「自分の考え方」を揺るがせてしまいます。それで人は、あまり「他人の考え方」を知りたいとは思いません。「うっかりそんなことをして、へんに自分の考え方が揺さぶられるのはいやだ」と思っているのが普通で、そういう人達が知りたいのは、「自分の考え方を肯定してくれる、自分と同じような他人の考え方」だけです。
 だから、私の書くこの本は、とても分かりにくいのです。どうしてかと言えば、私はこの本の中で、読者の考え方を揺さぶるようなことばかりを書こうとしているからです。
(150-1)

普通の勉強なら、生徒に疑問を持たせて自分の頭でものを考えられるような方向に持って行きます——それが「教育」というものの本来であるはずです(153)

 日本人にとって、「正解」というのは「自分の外」にあるものですから、必要なのは、「自分で考えて答を出そうとする」ではなくて、「どこかにあるはずの正解を当てに行く」です。
 日本人の「考える」は、「なにが正解となるのか?」を考えることではなくて、「どこかにあるはずの正解はどれなのか?」と探すことで、それが「見つからない」と思ったら、すぐに「分からない」で降参です。
(170-1)

 どこかに「正解」があるのだったら、それを探そうとするのには意味があります。でももう「正解」がなかったら、それをしても意味はありません(183)

「他人の知性」が認められない人に知性はないのです。〔略〕知性というのはまず、「自分の頭がいいかどうかは分からないが、あの人は頭がいい」というジャッジをする能力です。(192)

あなたが「成績が悪くて勉強の出来ない子」の発言に驚いたのは事実です。それはつまり、あなたにその子のしたような発言が思いつけなかったということですから、あなたに「そういう知性」はなかったのです。(195)

「ものを考える」ということは「悲観的になる」ということでもあって、悲観的になることに慣れて耐性を作っておかないと「心が折れる」などということが起こって、「考える」ということがよく出来ません。〔略〕
 よく「楽観的に考える」なんてことを言いますが、これはおおよそのところで嘘です。「楽観的である」というのは、「めんどくさいことをなにも考えない」ということ
(223)

「考える」ということは、ある意味で「地獄の底まで降りて行く覚悟をする」ということです。でも、降りて行って「そのまま」だったらどうにもなりません。それはただ「地獄に落ちた」だけなので、そんなことをするのなら、そこへ降りて行く前に「戻って来る」を考えなければなりません。
 つまり、「ものを考える」ということは、「悲観的であるような方向に落ちて行きながら、最後の最後に方向を“楽観的”の方向にグイッと変えるのが必要だ」ということです。
(224)

私がなにを言っても、あなたは「なにがなんだか分からない」のままかもしれません。どうしてそうなるのかと言えば、それはあなたが「なにをしたらいいのか分からない」と思っているからです。だったら、そのままにしていればいいのです。あなたの前に「なにかへんだな」と思えることがまだ現れてはいなくて、なんの問題もないだけなのです。だったら当面「それでいい」です。「自分の問題」が見えて来ないのに、「自分をなんとかしたい」と考えるのはへんですから。(248)

「行き詰まった世界」をなんとかするための方向は、「世界は行き詰まっていない」と考えることによってしか生まれないでしょう。そのために重要なことは、「なぜ自分は“世界が行き詰まっている”と思っているのだろう?」と考えることです。人はあまり「自分の責任」を考えませんが、もしかしたら「自分がそう思うことによって事態を悪化させている」ということだってあるのかもしれません。
「自分のせいじゃないけど、でも少しは自分のせいかもしれない」と思わないと、行き詰まったままの「世界」は行き詰まったままだろうと、私は思っているのです。
(254)


@研究室
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by no828 | 2016-01-10 16:31 | 人+本=体 | Comments(0)
2016年 01月 08日

10月末の祝福

 昨年10月末のK口さん(新郎)の結婚式・披露宴の様子です。6月にU都宮大学であった学会大会で結婚のことを告げられ、半分冗談で「呼んでくださいね」と言ったら本当にお招きをいただきました。申し訳ない気持ちと嬉しい気持ちとが入り混じりましたが、出席させていただく旨、お返事をしました。K口さんとは大学(学類)も大学院も重なっておらず、学会大会を通じて親しくなりました。わたしから声を掛けていくということは——K口さんに限らず——当然ほぼなく、K口さんが声を掛けてくださったのがはじまりです。

 式・披露宴の場所はO阪駅近くのホテル、時間は土曜日午後。日帰りとなりました。本当は披露宴後に宿泊したかったのです。しかし、府内はもちろん、K都やK戸なども探しましたが、予約満杯で無理でした。行きは——前回のO阪ご招待とは異なり——K府からM延線の特急でS岡、そこから新幹線。帰りは20時くらいにO阪を出て、S横浜経由のY浜線、H王子発の特急は最終となりました。

 式場のホテルで某出版企画を一緒に進めているO巣さんと雑談。それからK田先生(W稲田大学のほう)、K日部先生などとご挨拶をしているところにK田先生(T波大学のほう)が登場され、「あら、あなたも」と声を掛けられました。わたしも内心「あら、K田先生も」と思っていました。「……のほう」という表記を失礼と感じつつも、そのままにします。

 以下、写真です。時系列に並んでいます。

 当日朝のK府駅。
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 O阪駅着。
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 キリスト教式。入場時のK口さんはおそらく極度の緊張のために歩き方に戯画的なまでの異変が生じていました。笑いが起こるほどでした。動画を撮影しておくべきであったかもしれません。あまり緊張されない印象を持っていたので驚きましたが、式に真摯に臨む姿勢の裏返しであろうとも思いました。
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 眺めるにとどまりましたが、庭が素敵なところでした。庭を横目に、某出版企画の件、O原さんとご相談。
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 披露宴のテーブル、隣はO巣さん。その他のみなさんはK口さんの学部時代のご友人。みなさんよい方で愉しい時間となりました。余興を担当されたご友人は緊張のためか、何度も席を外されていました。ほかのご友人に「大丈夫なのでしょうか」とお訊きしたところ、「大丈夫です。これまでも本番では何とかしてきましたので」ということで、本番は本当にお上手な弾き語りでした。
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 某出版企画の件、別テーブルのI上さんにご挨拶。はじめてお目に掛かりました。
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 おふたりの様子。ご新婦は元J○Lの方で、余興でその方面のご友人がお家芸を披露されていました。司会の方から、お家芸=余興を撮影した画像や動画をウェブに載せないようにお願いしますとの注意が予め入りました。その旨の注意があったことをウェブには載せておきましょう。
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 帰りのS大阪駅。
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 ほのぼのとした気持ちで披露宴会場をあとにしました。新郎が甥っ子ふたりと一緒に一時退席をする際、その甥っ子たちはすごく嫌がっていました。正直、心配になりました。しかし宴の最後、スクリーンに映し出された当日の様子のなかに、おそらくはその一時退席の直後に会場の外で撮られたであろうK口さんと甥っ子ふたりの笑顔の写真がありました。それが大変強く印象に残っています。K口さんの素の部分に触れられたような気がしました。

 ご新婦とはその後、K口さんとの研究会の懇親会でご一緒する機会がありました。Tくばに関する情報などがご入用の際はぜひご連絡ください。

 K口さん、改めて、おめでとうございました。昨年はK口さんとの研究上のつながりが増し、それが研究の外にも広がった年でした。とても嬉しく感じています。大学も大学院も異なるのに研究の話が深くできるというのはとてもありがたいことだとも感じています。引き続き、よろしくお願いします。

@研究室
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by no828 | 2016-01-08 20:30 | 友人 | Comments(0)
2016年 01月 07日

2015年に残してきた本

 2015年に“研究に直接関わらない”という観点から読んだ本の残りを——自分の整理のために——挙げておきます。昨年中に記録を終えられませんでした。


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 以下、書誌情報の後ろにある2種の数字は、前が2015年に読んだ本の数、後の()内がブログ開設後に読んだ本の数、を意味します。例年、“研究に関わらない本を1年で100冊読む”ということを目標としています。2015年は残念ながら75冊にとどまりました。通算では997冊。もう少しで1,000冊になります。

 目下、著者名と題名のみのものが多いですが、情報を随時補充していきます。

 ・ 橋本治『負けない力』大和書房、2015年。36(958)
 ・ 日野啓三『地下へ/サイゴンの老人——ベトナム全短篇集』講談社(講談社文芸文庫)、2013年。37(959)
 ・ ジェレミー・マーサー『シェイクスピア&カンパニー書店の優しき日々』 市川恵里訳、河出書房新社、2010年。38(960)
 ・ グレアム・グリーン『グレアム・グリーン全集 17 コンゴ・ヴェトナム日記』田中西二郎訳、早川書房、1982年。39(961)
 ・ 星野博美『銭湯の女神』文藝春秋、2001年。40(962)
 ・ 橋爪大三郎・大澤真幸『ふしぎなキリスト教』講談社(講談社現代新書)、2011年。41(963)
 ・ 中脇初枝『世界の果てのこどもたち』講談社、2015年。42(964)
 ・ 須賀しのぶ『革命前夜』文藝春秋、2015年。43(965)
 ・ ジャン・コクトー『ぼく自身あるいは困難な存在』秋山和夫訳、筑摩書房(ちくま学芸文庫)、1996年。44(966)
 ・ 吉本ばなな『TUGUMI』中央公論新社(中公文庫)、1992年。45(967)
 ・ 川上未映子『すべて真夜中の恋人たち』講談社、2011年。46(968)
 ・ オリバー・サックス『妻を帽子とまちがえた男』高見幸郎・金沢泰子訳、晶文社、1992年。47(969)
 ・ 平野啓一郎『「生命力」の行方——変わりゆく世界と分人主義』講談社、2014年。48(970)
 ・ 伊坂幸太郎『マリアビートル』角川書店、2010年。49(971)
 ・ 高橋源一郎『「悪」と戦う』河出書房新社、2010年。50(972)
 ・ フョードル・ドストエフスキー『罪と罰』(上・下)、工藤精一郎訳、新潮社(新潮文庫)、1987年。51(973)
 ・ 平野啓一郎『かたちだけの愛』中央公論新社、2010年。52(974)
 ・ 平野啓一郎『決壊』(上・下)、新潮社、2008年。53(975)
 ・ 内澤旬子『捨てる女』本の雑誌社、2013年。54(976)
 ・ 三浦綾子『愛の鬼才——西村久蔵の歩んだ道』新潮社(新潮文庫)、1986年。55(977)
 ・ 隆慶一郎『影武者徳川家康』(上・中・下)、新潮社(新潮文庫)、1993年。56(978)
 ・ アーネスト・ヘミングウェイ『武器よさらば』大久保康雄訳、新潮社(新潮文庫)、1955年。57(979)
 ・ 堀井憲一郎『若者殺しの時代』講談社(講談社新書)、2006年。58(980)
 ・ 星野博美『愚か者、中国をゆく』光文社(光文社新書)、2008年。59(981)
 ・ 立松和平『光の雨』新潮社(新潮文庫)、2001年。60(982)
 ・ 坂口恭平『独立国家のつくりかた』講談社(講談社現代新書)、2012年。61(983)
 ・ ユン・チアン『ワイルド・スワン』(上・中・下)、土屋京子訳、講談社(講談社文庫)、1998年。62(984)
 ・ 村上春樹・柴田元幸『翻訳夜話』文藝春秋(文春新書)、2000年。63(985)
 ・ 樋口毅宏『タモリ論』新潮社(新潮新書)、2013年。64(986)
 ・ 森巣博『日本を滅ぼす〈世間の良識〉』講談社(講談社現代新書)、2011年。65(987)
 ・ 石井光太『世界の美しさをひとつでも多く見つけたい』ポプラ社(ポプラ新書)、2013年。66(988)
 ・ 橋本治『いつまでも若いと思うなよ』新潮社(新潮新書)、2015年。67(989)
 ・ 寺尾紗穂『原発労働者』講談社(講談社現代新書)、2015年。68(990)
 ・ 多田富雄『ビルマの鳥の木』新潮社(新潮文庫)、1998年。69(991)
 ・ 島田裕巳『創価学会』新潮社(新潮新書)、2004年。70(992)
 ・ 星野智幸『呪文』河出書房新社、2015年。71(993)
 ・ 大塚英志『木島日記』角川書店(角川文庫)、2003年。72(994)
 ・ 水田洋『読書術』講談社(講談社現代新書)、1982年。73(995)
 ・ 橋本治『バカになったか、日本人』集英社、2014年。74(996)
 ・ 小泉今日子『小泉今日子書評集』中央公論新社、2015年。75(997)

 以上。

@研究室
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by no828 | 2016-01-07 15:50 | 人+本=体 | Comments(0)
2016年 01月 06日

9カ月あるいは12カ月

 あけましておめでとうございます。
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 と書きつつ、実は格別におめでたいという感覚もありません。具体的な日常は別段の変化もなく、継続しています。常勤の職を得てからはじめての年越しではあり、それゆえに何かしらの感慨を抱くかもしれないと思ったこともありましたが、とくにありませんでした。

 大学へ就職し9カ月が過ぎ、慣れたところがあり、慣れないところがあり、わからないことがあります。まったく役割のない委員会の会議に出席する意味は何か、というのは検討するに値する原理的な問いでも何でもなく、無為な時間との付き合い方を学習する以外にありません。もちろん、会議自体を有効とするための委員数の充足率という観点からも、出席する意味はあります。

 就職してから気づいた——あるいは残念な——こともあります。わたしのポスト(某センター所属の教職課程担当)は教授会などの会議に出なくてよい(出られない)、制度上は学部学科教員を兼任してはいるもののゼミは持たなくてよい(持てない)、などです。大学への就職を希望してきた大きな理由のひとつに“ゼミが持てる”ということがありました。それができないのは非常に残念です。前職(非常勤研究員)でお世話になった先生に、「だから自主ゼミを非公式に開講しようと思っているのです」とお話をしたところ、「まずはそれはせずに慣れたほうがよい」と言われ、目下そのようにしています。なかなか就職できずにいたわたしを拾ってくれたこの大学には恩義を深く感じていて、それをお返しすることが先ではありますが、会議——もちろんそこではわたしが担う仕事について決められたりもするわけですが——に出ていない(出られない)時間を活用して研究を深め、ゼミの持てる大学へ移りたいとの気持ちが増大する9ヵ月でもありました。大学側もそういう企図のもとにわたしを採用したのだと思うようにしています。

 その点で、学外のしかも同世代の研究者たちとの交流を2つ、深められたのは昨年嬉しかったことのひとつです。研究の中身でつながることができるのはとても刺激的ですし、心地よい疲労感を味わいました。従来“研究はまずはひとりでするもの、ひとりで研究できないのに共同で研究できるわけがない”と思ってひとりでやってきました。ひとりでやってきた人が集まることのおもしろさを感じた1年でもありました。この成果は今年2冊の本となる予定です(一方はそろそろ初校、他方はまだ入稿の手前にあります)。

 年末年始は福島の実家へ帰省し、弟の娘(2カ月くらい)を抱っこしたりしていました。年末少し研究室で仕事を進めてからの帰省を予定していましたが、大学は12月29日(火)から警備員さえ不在の完全閉鎖となっていました。そうなる予感は少しだけあったものの、完全閉鎖期間の設けられた夏期はその旨の連絡があり、冬期はなく、だから開いてはいるだろうという予測のほうを信じました。そのため、“また研究室でやろう”と研究室にパソコンその他研究に関わるものはいつものように置いておいたわけですが、いざ大学へ来てみると清々しく空疎な空間がそこには出現していました。パソコンその他を研究室から持ち出せない——あきらめて宿舎へ戻り、“もう帰省する以外にない”と実家へ連絡しました。むろんセ○ムへ連絡し、門を解錠してもらうこともできたのでしょうが、落胆のうちから気持ちを持ちなおすことをあきらめました。職員証を新たにしてそれをかざせば中に入れるなど、少なくとも教職員はいつでも学内——わたしの場合は少なくとも研究室——を使えるようにならないものかと思います。

 大学は年中開放されているもの、活用できるものとわたしは捉えていましたが、そうではないところ——本学!——もあるようです。少なくとも、完全閉鎖するなら——確認しなかったわたしにも非があるのかもしれませんが——事務局はその旨をとくに新任教員には連絡すべきであったでしょう。土日祝日は大学を自由に使えないということも、昨年気づいた——とても残念な——ことです。ここは大学であって県庁の出張所ではない、というのは事実認識としては間違っているようですが、価値判断としては譲ってはいけないところだと思います。

 以上、まとまりのない文章を連ねました。年末に書くような内容になってしまいました。まだアップロードできていない昨年の出来事——K口さんの結婚式やワイナリー巡りなど——や読書の記録があります。随時、前向きな気持ちで載せていきたいと思っています。今年もよろしくお願いします。

@研究室
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by no828 | 2016-01-06 18:09 | 日日 | Comments(0)