思索の森と空の群青

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2016年 02月 18日

最も素朴で基本的な質問が一番重要である——橋爪大三郎・大澤真幸『ふしぎなキリスト教』

c0131823_1852156.jpg橋爪大三郎・大澤真幸『ふしぎなキリスト教』講談社(講談社現代新書)、2011年。41(963)


 版元

 2015年に残してきた本


 キリスト教をめぐる橋爪大三郎と大澤真幸との対話。大澤が質問者、橋爪が回答者という立ち位置で進んでいきます。一神教と多神教の違いについて、偶像崇拝の禁止について、宗教と科学の関係について、などなど自分に既有の知識を別の言葉で再確認する意味でも大変勉強になりました。


キリスト教に限らず、どんな知的主題に関しても言えることだが、ある意味で最も素朴で基本的な質問が一番重要である。そういう質問は、初学者にとっての最初の疑問であると同時に最後まで残る一番しぶとい重要な謎である(大澤. 6)

大澤 〔偶像崇拝の禁止では〕神に関しては、その存在を確認するうえでのあらゆる方法が禁じられている。預言者でさえも、たとえばモーセでさえも神をまともに見ていない。そうすると、ふつうの意味では存在から最も遠く隔たっているものが最も存在している、という逆説になってしまうのです。〔略〕偶像崇拝の禁止というのは、存在の否定が存在の極大値だよ、という感受性に規定されている。これは、やはり非常に理解し難い。(84-5)

橋爪 偶像崇拝がいけないのは、偶像だからではない。偶像をつくったのが人間だからです。人間が自分自身をあがめているというところが、偶像崇拝の最もいけない点です。
 余談ですが、偶像崇拝がいけないという論理が、マルクス主義にもあるでしょう? 資本主義がいけないのは、疎外→物象化→物神化というプロセスによって、人間の労働がほんとうの価値の実体なのに、それが商品になり貨幣になり資本になり、物神崇拝されるに至って、自分がつくりだしたものをそれと知らずにあがめている転倒した世界だからです。この論理は、ユダヤ教、キリスト教の発想とそっくりだ。
(88-9. 傍点省略)

橋爪 科学をつくった人びとだからこそ、奇蹟を信じることができるんです。科学を信じるから奇蹟を信じる。これが、一神教的に正しい。(117)

橋爪 科学と宗教が対立する、と考えることのほうがナンセンスです。
 科学はもともと、神の計画を明らかにしようと、自然の解明に取り組んだ結果うまれたもの。宗教の副産物です。でもその結果、聖書に書いてあることと違った結論になった。そこで多数派の人びとは、「科学を尊重し、科学に矛盾しない限りで、聖書を正しいと考える」ことにした。こうすれば、科学も宗教も、矛盾なく信じることができます。地動説や進化論やビッグバンセオリーは、こうしてキリスト教文明の一部に組み込まれた。
 これに対して、
〔略〕福音派は多数派の裏返しに、「聖書を尊重し、聖書に矛盾しない限りで、科学の結論を正しいと考える」ことにした
(122-3)

橋爪 愛は、規準がないから、どうすれば愛したことになるのか、これで十分ということがない。律法としては、空っぽです。(197)

橋爪 自然法は、神の法のうち、人間の理性によって発見できる部分です。立法者は神で、人間はそれを発見するだけ。〔略〕自然とは、「神がつくったそのまま」という意味。(281. 傍点省略)

大澤 しかし、繰り返しますが、神の存在は自明であり、前提なわけですよ。中世の神学者・哲学者に「神の存在を信じているか」とたずねれば、「当たり前だ」と答えるはずです。それならば、なぜ証明しなければならないのか。証明するということは、不確かだからですよね。存在証明という営み自体が、冒瀆的なことにも思えるのですが……。(285)

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橋爪 人間そのものが間違った存在であることを、原罪という。〔略〕生まれてしまってごめんなさい〔略〕原罪は、行為に先立つ、存在の性質なんです(48-9)

橋爪 一神教は、たった一人しかいない神(God)を規準(ものさし)にして、その神の視点から、この世界を視るということなんです。〔略〕
 多神教は、神から視るなんてことはどうでもいい。あくまでも人間中心なんです。人間中心か、神中心か。これが、一神教かどうかの決定的な分かれ目になります。
(55)

大澤 グノーシス主義は、神が〔善・悪と〕二重になってしまうのですから、一神教からはどう見たって異端ですが、こういう理論が、相当な説得力をもって浸透したという事実は、やはり、神が、悪や不完全性がはびこるこの世界を創造したと考えることに、いかに抵抗感があったかを示しているように思います。(81-2)

橋爪 なぜGodは、じかに自分の言葉を伝えないで、預言者を通して伝えるのだろうか(113)

橋爪 エッセネ派は、福音書にちっとも出てこないんです。エッセネ派は、裁きの日は近いと考えて、人里離れた山の中にこもり、独身主義で祈りの生活を送る、みたいな人びとなんですね。独身主義で祈りの生活を送っていたら、五十年もすればその集団は消滅してしまうわけで、だからいなくなってしまったグループなんです。(172)

橋爪 終末は、どういうものか。「その日」には、〔略〕この世界が直接ヤハウェの管理下に入るわけです。国際社会の政治力学が変化し、ユダヤ民族の国際的地位が向上して、エルサレムを中心とするユダヤ国家が覇権を取り戻す。〔略〕
 そうすると「その日」は、いい日なのです。そして、突然やってきます。神の意思が直接働くのですが、その意思は「ユダヤ民族を救う」という意思です。ユダヤ民族が、集団として救済される。その救済は、この地上で、現実に救われることである。こういうものなのです。日本語の「世直し」みたいなものに近い。
 イエスのいう「神の国」は、これを裏返したものです。
 似ているところもあります。突然やってくるところ。世界が正しくつくり直されるところ。神が直接に介入するところ。これまでの地上の秩序(政治とか富とか)が無効になってしまうところ。
 違うのは、これが「地上のもの」でないと言われている点。
(177-8)

橋爪 神が誰を救うかは、神自身が理解していればよく、それを人間に説明する責任もないし義務もないし。(185)

橋爪 だからこれも愛ですよ。関係のないところに関係を作ろうとしているんだから(198)

橋爪 イエス・キリストについての「解釈」が、聖霊(つまり神)の権威によって、聖書に組み込まれているところが、新約聖書の特徴です。そもそも聖書が、解釈なんです。こういう現象は旧約聖書やクルアーンにはない。(248)

大澤 どうしてきわめて首尾一貫性が高く、合理的な宗教であるイスラム教が、しかも中世までは断然優位に立っていたイスラム教が、近代化の過程では、結局、キリスト教に主導権を奪われてしまったのか。
橋爪 〔略〕最も根本的なところで、いちばん大事な点を取り出すとすれば、それはキリスト教徒が、自由に法律をつくれる点だと思う。〔略〕
 キリスト教徒がなぜ自由に法律をつくれるかというと、キリスト教会がそもそも法律をつくらないから。〔略〕社会が近代化できるかどうかの大きなカギは、自由に新しい法律をつくれるか、です。キリスト教社会はこれができた
(275-6)

橋爪 宗教改革の主題をひとことで言うなら、神からのものと人間のものを分けること。それによって、神と人間との関係を正しくすること、です。(290)

橋爪 ではなぜ、利子を取ってはいけないのか。利子それ自体がいけないのではなくて、利子を取ると同胞を苦しめることになるから。借金を申し込むのは、多くの場合、困窮した人です。困窮した同胞に借金を頼まれたら、利子を取って追い打ちをかけてはいけない。利子なしで貸してあげなさい、という規定なのです。(305)


@研究室
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by no828 | 2016-02-18 19:19 | 人+本=体 | Comments(0)
2016年 02月 16日

その間、父だけが一度も青竹を踏まなかった——星野博美『銭湯の女神』

c0131823_2094136.jpg星野博美『銭湯の女神』文藝春秋、2001年。40(962)


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 2015年に残してきた本


 エッセイ集。『転がる香港に苔は生えない』以来気になる書き手です。本書は古本屋へ行ったときにたまたま見つけました。

 100円ショップの件、歴史教科書の件、鈍感の件、想像力の件などがとくに印象に残っています。おそらくは最後の想像力が、これらの主題すべてを束ねているのだと思います。


 いつまでここにいるかわからない。いつまでこの生活が続くかわからない。
 どう否定しようとしても、頭のどこかにそんな意識がある。
(14)

どんなに気に入った宿でも一泊ごとの前払いで、翌朝一泊ずつ延長するという方法を今でもとっている。これは中国を旅していた時に生じた習慣だ。旅には何が起こるかわからない。今ここを出たいと思った時、損害を最小限に抑えるための、いわばリスク分散自衛手段だった。すでに何泊分か支払っていたら、そういう時に決断が鈍る。旅の中で決断が鈍ったら最後、身の安全は保証できない。(15)

 こちらにも言い分がある。私個人は遅寝遅起き生活を改善すれば済む話かもしれないが、印刷所に勤める二〇三号室の男性には夜勤のシフトがあり、夕方アパートを出て午前十一時頃戻ってくる。最近二〇一号室に入った男性は、仕事は知らないが、朝四時半に仕事を終えて帰ってくる。
 社会にはそういう人たちがたくさん住んでいる。みんながみんな結婚して家庭を持ち、だんなさんがパジャマ姿で新聞を取り、スーツに着替えて会社へ行き、そのあと奥さんがゴミを出す、という生活をしているわけではない。
 奥さん、あなたがスーパーで買うおかずを、夜を徹してトラックで運んでいる人たちがいて、だんなさん、あなたが出社前に読む新聞を印刷して運んでいる人たちがいる。あなたの生活の快適さを保証するために、あなたが眠っている間に働いている人たちが社会にはたくさんいるのだ。〔略〕
 しかしあなたは自分の家の前にそういう人間たちが住んでいることを薄気味悪いと感じ、自分のリズムに合わせた一方的なルールを強要し、それが守れないと二等市民のような目つきで見る。
 社会の成員全員がゴミのルールを守れるような生活をしていたら、あなたの生活は成り立たないというのに。なぜあなたにはそういう想像力が働かないのだろう。
(29-30)

日本人が本気でパンクをするつもりなら、反抗する対象はエリザベス女王や「ゴッド・セイブ・ザ・クイーン」ではなく、自分たちの体制の象徴である天皇や君が代でなくてはならないはずだ。日本でロックをしている人のほとんどはそこらへんの筋が通っていなかったし、また私もそこまでする勇気がなかった。だから当時、天皇制を批判した歌を歌って発禁処分を受けたパンクバンド、アナーキーは正しかったと思う。(34-5)

何十万って金を使って外国に来られる人間は、パンクじゃない」と、本場のパンクからすれ違いざまに中指を立てられ、ツバを吐きかけられた時、あなたはきっと何かを学ぶだろう。(36)

 一〇〇円ショップはいうなれば、あらかじめ邪険にされる運命を負わされた悲しい商品の墓場である。私が店内で感じる後ろめたさは、恐らく墓場を歩いているような悲しみなのだと思う。〔略〕
 先日、一〇〇円ショップでプラスチック製の健康青竹を勝った。〔略〕どうせ一〇〇円で買えるのだからと二本買ったのである。
 その一本を実家に持ち帰った。家族はすっかりそれが気に入り、かわるがわる踏みつけては「あー、気持ちいい」と脳天気に笑っていた。父だけが一人、青竹を手にとり、何か感慨深そうに眺めていた。
「これ、型を作るのは大変なんだ」と父がつぶやいた。
「これが一〇〇円だったら、型を作った奴には一体いくら入るんだろう?」
〔略〕
 うちは小さな町工場だった。幼い私の遊び場は工場〔こうば〕だった。〔略〕
 業種は、町工場界隈の語彙でいうところの「鋳物屋」。様々な工業部品の鋳型を作ったり、あるいは旋盤やフライスでネジを加工する仕事を請け負っていた。工場は、子供にとってはおもちゃ箱のようなものだった。〔略〕
 父の目には、世の中のすべての物体が鋳型という視点で映っているらしい。居間でお茶を飲んでいる時、父はよくクッキーの缶を開けてプラスチックの箱を中から取り出しては、一人でプラスチック容器をひっくり返したり、容器の裏の突起に見入っている。〔略〕
 一人プラスチック容器をしみじみ見つめるそんな父を、私は羨ましいと思う時がある。〔略〕父は鋳物というドアから、社会の仕組みを見ている。鋳型から生まれた物すべてに愛着を持っている。そんな揺るぎないドアを持っていることが、私には羨ましい。
 円高が進んで日本の人件費はあっという間に高騰し、工場の多くは労働力の安い海外へ移転、日本の製造業の屋台骨を支えていた町工場は壊滅的な打撃を受けた。〔略〕
 大量生産、価格破壊、合理化、リストラ、コスト削減、大資本による吸収合併、資本の寡占……
 そういった言葉に私が本能的に抵抗を感じるのは、単純に個人的理由によっている。
 よりよいものをより安く、より早く消費者の皆様のお手元へ——
 社会がそういう方向を目指せば、誰が泣くのかが本能的にわかっているから、その矢印を簡単に容認することができない。〔略〕
 その健康青竹がどこで作られたのかはわからない。〔略〕そこには設計から鋳型作り、プラスチックを流し込む作業があり、検品、配送、納品、仕入れ、販売と、様々な人間が関わっていて、その一人一人に家族があったりなかったりする。その値段が、最終的に一〇〇円なのである。
 店の棚に並ぶ何千、何万という、一〇〇円ごときで買える取るに足らない商品から、それを作った人たちの悲鳴が聞こえてくるようだ。
 一〇〇円の健康青竹を踏むことは、幼い頃の自分自身の記憶を踏みにじることだった。
 青竹を踏み飽きた家族は、テレビを見始めていた。
 その間、父だけが一度も青竹を踏まなかった。
(38-42)

 欲しい物が高いところからぶら下がっている。人間は二つの方法を考える。その物があるところまで階段を一つずつ上っていくという方法と、なんとかそれを早く手に入れようと、自分のいる所まで引きずり下ろすという方法。
 前者の方法を可能にするのは、時間。後者の方法を可能にするのは、金。
 下品とは、どれだけのプロセスを省いて物を手に入れるか、つまり時間を金で買うということなのだろう。
(237)

 香港が、健康保険や年金を重視しない、自分の面倒は自分で見ろ、老後は自分で食え、という社会であるのは、単純にいえばここが植民地だったからだ。慈善事業をするために植民地を経営する国家などない。どんなきれいごとをいっても、植民地の目的は搾取以外にはない。なぜ香港の人々があれほど食や健康に留意しているのか、私はこの時初めて実感した。
 マットレスの上でのたうち回りながら、私は香港という街を呪っていた。呪われよ、植民地社会。私が死んだら、イギリスのせいだ。
(85-6)

「韓国は遅れています。一部の金持ちが自分の好きなことに金を使い、金を分配しません。大部分の人は貧乏です。富が平等に分配されない国は、後進国です(94)

 ある日本人の友人は香港人男性と結婚し、夫の兄一家と一緒に団地に住んでいた。兄夫婦には十歳の娘と七歳の息子がいた。女の子のほうは絵が得意で、おえかき帳に絵を描くのが好きだった。ある日、娘がいつものように絵を描いているのを見た母親が怒り狂い、おえかき帳をビリビリに破き、クレヨンを窓から投げ捨てた(誇張ではなく、本当に窓から投げ捨てた)。
 母親に叱られて泣く姪をなだめていた私の友人に、兄嫁はこういった。
芸術に興味を持つなんてロクなもんじゃない。食えなくなるんだよ。芽は小さいうちに摘みとっておいたほうがいいんだ。なに、道具がなければすぐに忘れるさ
 そういわれた友人は、「これが香港式生き残るための教育方法なんだ」と実感したという。〔略〕
 香港で母親からおえかき帳を破り捨てられた少女の話を聞いた時、私は苛酷な香港とう街を呪った。しかしその少女が幸せなのか不幸なのか、私にはよくわからない。
 その少女が、母親の過激な芸術撲滅行動に刺激を受け、自分の中の芸術的衝動を確認することができたなら、彼女は母親に感謝すべきである。
(94-5)

 私たちは最近、「自由」という語彙を使い過ぎている。
私が何をしようと私の自由
 相手に「自由」といわれたら、我々はとりあえず何もいえなくなるという程度の民主主義教育は受けている。しかしこの場合の「自由」は「勝手」という意味である。
私が何をしようと私の勝手
 これは英語でいえば「none of your business」、中国語でいうところの「不関你的事」であり、つまり「あんたには関係ない」というコミュニケーション拒否の意思表示である。「自由」という便利な言葉で、実は他人の干渉を拒否しているだけだ。〔略〕「自由」という耳に心地好い言葉で意味を曖昧にし、自由の恐ろしさや重さや孤独を意識する機会もないまま、口を開けば自由自由と繰り返す不自由な人間たちをつくっていく。〔略〕
 A子やB子が身のほどに合わないブランド品を買おうが買うまいが、そのためにどんなことをしていようが、実際私には関係ない。彼女たちがどんな人生を送ろうと、どんな虚空を心に抱えていようと、それこそ、あなたが何をしようがあなたの勝手だ。
 ただ、彼女たちの周囲にいる人間たちまでが、恐らく私と同じような態度を取っていることが、彼女たちの不幸だと思う。
(116-7)

前を向いている時、後ろで何が起きているかを私は知らない。気になって後ろを向く。するとその間に前で何かが起こるのではないかと気になり、前を向き直す。今度はこの数秒間窓の外を見ていなかったことを不安に感じ、窓を向く。気を取り直してしばらく窓の外を眺める。すると今度は、たった今過ぎ去った風景に数秒後、何が起こるかを自分は見届けることができないのだと知り、動揺する。
 私は世界のどこを見ればいいのだ?
 この問題をつきつめて考えたら気が狂う、と思った。すべてを見たいと思えば、肉眼では確認できないほど超高速のコマとなって永遠に回り続け、世界中のあらゆる場所に同時多発的に存在しなければならない。

 つまりそんな芸当は、人間にはできない。あらゆる場所に同時に存在し、どんな些細な悪事も良事も見逃さない、どこにでもいるからこそ、多分心の中にしか存在しない、神にしかできない。
 世界の何も見ていない。自分が現在見ている、目の前に広がる世界は、ただの偶然の産物に過ぎない。
(157)

フリーランスとは、精神の自由ではなく、他者の資本から自由である立場と考えてみたらどうだろう。(185)

 明るすぎる。私たちは明るすぎる。あやしい光がどこにもない。
 私には、ベルリンのセックスショップや、上海街や湄洲の売春宿のいかがわしい灯りが、皮肉にもとても健康的に思えた。
 あやしい光があれば、境界がわかる。境界線を越える時、覚悟を意識できる。
 私たちにはそんな灯台がない。だから境界がわからない。覚悟がいらない。だから簡単に境界線を踏み越えてしまう。
(207)

「さあ、それでは授業を始めますが、今日は最初の授業なので、歴史に対する私の考えをまず皆さんにお話ししたいと思います。教科書は机の中にしまってください」〔略〕
「私は中学の教師ですから、皆さんに試験を出し、点数をつけなければなりません。だから教科書を使って教えます。でも私が本当に教えたいのはそういうことではありません」
 教室は静まりかえっていた。
教科書をうのみにしないでください。そして、歴史をうのみにしないでください」〔略〕
「いいですか。世界の何千年の歴史が、このたった一冊の教科書の中に入っているんです。これで何がわかりますか?
 ある場所で何かが起こる。それを誰かが記録する。そして大勢の人間が集まって会議をし、これは教科書に入れよう、これは削除しようと話し合う。自分たちに都合のいいことを入れたり、都合の悪いことを消したりするわけです。そうしてできたものが教科書です。皆さんには、そのことをいつも覚えていてほしい。
 特に太字を覚えることには何の意味もありません。なぜそんなことが起きたのか、ここで書かれていないことは何なのか、それを考えてください。それこそ歴史を考えるということです。それでは授業を始めましょう」
 先生はくすっと笑った。
「教科書でも開きましょうか」
 これが大人の教育なんだ。幼い私はそう漠然と思った。
(219-20)

 教科書には、「いい」教科書も「悪い」教科書もない。「悪い」教科書は怖いが、もし世の中に「いい」教科書があるとすれば、それはある意味ではもっと怖い。(221)

 結局、通勤生活に終止符を打つと同時に私はウォークマンを捨てた。脳に近いところから入ってくる世界に乗り移られ、何の根拠もなく異様に強気になることが怖いと思ったからだ。しかも世界と自分を遮断すると、周りの人間や風景にまったく興味が持てなくなる。これは、世界なんてクソくらえで見たくもない、と思っている時には便利な道具だが、世界を見たいと思った時には障害となる道具であることを、本能のどこかで感じたからだった。(248)

 人とうまくつきあえないことや感情を言語化できないことは罪ではない。それは人の個性である。しかし鈍感であることは罪だ。鈍感な人たちが敏感な人たちを傷つけ、追いつめるからだ。鈍感な人が増えることは、その社会の致命傷といってもいい。(254)

 私たちに今必要なのは、これまでに自分がどんなプロセスをはしょって楽をしてきたのか、何との衝突を回避してきたのか、どこで手抜きを覚えたのかを、一つ一つ検証する作業だと思う。あらかじめ省かれたプロセスの中で育った世代に、それはできない。これだけは上の世代がやり、何らかの形で下の世代に伝えていくしかない。
 それをせずに若者を糾弾するのは、大人の怠慢でしかない。

 膨大な時間とエネルギーがかかるだろう。そのためにどんな方法が有効なのか、今の私にはわからない。ただ一つだけはっきりしているのは、必要なのは対話であって、憎悪ではないということ。今多くの人たちがやっている世代間憎悪の押し売りは、人間と関わるのはやはり面倒でうざったい、とあらためて相手に植えつけているだけだ。若い人たちも、大人はくだらない、親も教師も信じられないというのだったら、ケータイでメールを打つ手を一時休めて、一人でもいいから信じられる大人を探す努力をしてほしい。一人でいい。一人でも信じられる人がいたら、人間は生きていける。
 私は対話の可能性を信じている。誰が何といおうと、信じたい。
〔略〕何事も議論されないままに、気分だけで大多数が一つの方向に傾いてしまう空気、これもまた、長い時間をかける忍耐力のない人間たちが必ずや進む道である。考えない人たちにとって、ファシズムは一番楽なのだから。
(254-5)

 世界が想像するのをやめようとしている。
 他の人と同じ地球を共有していることを、想像するのをやめようとしている。
 自分だけでなく、遠くで暮らす他の人にも幸せで安全な暮らしを送る権利があるということを、想像するのをやめようとしている。
 想像をやめる時、人間は他者の存在を見失う。

 私は想像したい。
 テロで愛する人を失った人の気持ちを想像したい。
 命を賭けてビルに突撃した人の気持ちを想像したい。
 空爆の恐怖に怯える人の気持ちを想像したい。
 想像する力を、私は武器にしたい。
(260-1)


@研究室
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by no828 | 2016-02-16 20:32 | 人+本=体 | Comments(0)