思索の森と空の群青

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2016年 04月 09日

彼らが生きていた時と同じように——石井光太『世界の美しさをひとつでも多く見つけたい』

c0131823_15533582.jpg石井光太『世界の美しさをひとつでも多く見つけたい』ポプラ社(ポプラ新書)、2013年。66(988)

 
 版元

 2015年に残してきた本(残り9冊)


『絶対貧困』などの著作が生み出された背景、そしてそれを生み出した筆者自身の生い立ちを含めたこれまでの物語。著者の姿を見せるかどうか——つまり、作り手の姿を現さずに作品のみを提示し続けるのか、それとも作り手も姿を現して作品の文脈を含めて提示するのか。それぞれに理由はあります。ただ、少なくとも一般的に、そして印象としては、後者へ行くことへの抵抗が作り手自身にあるように感じられます。しかし、差し出された作り手の姿に読み手が感受するということは大いにあるでしょう。本書は作者自身の姿を見せています。作者が自分を語っています。なぜルポルタージュという方法なのか、どうして社会から逸脱した存在に着目するのか、そういったことが率直に書かれています。読むべき時機というものを強いて私的に限定するなら——著者は自著を12歳のときに読んでほしいと本書内で書いていますが——高校か大学入学直後でしょう。学生に読ませたいと思いました。


 ——世界がひっくり返るほどの感動をしたからこそ、なんとしてでも人にそれを伝えたい。(10)

 自分自身がもっとも心を突き動かされたことを人に伝え、人もまた同じように感銘を受けてさらに別の人へと広げていく。そのくり返しが世界をどんどん豊かにする。(13)

 では、なぜ過酷で壮絶だったりする現場に赴くのか。
 それは過酷な現場であればあるほど、「人間の美しさ」が見やすいからです。
〔略〕
 私は先ほど「人生観が一変するような感動を見つけ出したい」というようなことを書きました。過酷な現場へ向かうのは、まさにそのためなのです。厳しい状況の方が人間の美しさがより輝いて見えるのであれば、必然的に向かう先もそこになります。つまり過酷な現場を見たいから行くのではなく、より多くの人間の輝きを発見できるからこそ赴くのです
(22-3)

 私は〔大学に〕入学してすぐに三つのことを自分自身に課しました。
 ・一日三冊本を読む。
 ・週に一本、短編小説かシナリオを筆写する。
 ・月に百枚程度の試作を書き上げる。
(67)

 日本の豊かな生活は、あの〔アフガニスタンの〕難民たちの犠牲の上に成り立っているのか。あの難民たちに対して何もすることができず、逃げ出した自分はなんなのか。彼らは私に何を求めていたのか……。
 これまで私は日本の豊かな生活を毛嫌いし、貧しい国へ行って人間が生きている本当の姿を目にして文章を書きたいと思っていました。しかし、実際に現地へ足を運んでみると、難民キャンプもそこに澄んでいる人々も想像をはるかに上回るほどの貧しさに苦しみあえいでいました。彼らは手を出し、血眼になって全身でこう訴えているようでした。
「これが生きるということなのだ。これが人間なのだ!」
 私は初めて世界の現実と向き合ったことで、改めて自分の人生がどれだけ恵まれていたか、そして自分がどれだけ無知で、気が弱く、無力なのかを思い知らされました。
(76-7)

「途上国の地面に這いつくばる人たちが全身から発する生命力がなんなのか追い求めて活字にしてみたい。いや、しなければならない。これは自分がなんとしてでもやるべきことなのだ」〔略〕
 それからは、とにかく勉強をしつづけました。すればするほどわからないことが増えていきますが、それでも勉強をしていくしかありませんでした。
(80-1)

 大学卒業後にアフガニスタン難民キャンプで自分が感じたことを実行する。
 私はそれだけを心に誓いながら大学を卒業しました。卒業式は行きませんでした。卒業証書ももらっていません。その時間も本を読み、筆写をし、試作をしていたかったからです。
(83-4)

「病院へは行っていない。お父さんの声を消したくないから」
 どういうことなのか。〔幻聴に苦しめられる〕彼女は次のように説明しました。
「虐待が嫌な記憶であることはたしか。だけど、彼は私にとってたった一人のお父さんでもあるの。本当はもっと話したかったし、写真も撮っておきたかった。でも死んじゃったからそれはかなわない。だから、せめて声だけでも聞けるようにしておきたい
(98)

私はインタビューの最後にかならず「あなたの夢は何ですか」と尋ねていたのですが、全員が決まって同じ答えを返してきたのです。〔略〕
物乞いで稼いだお金をお寺に寄付したい」〔略〕「お寺に寄付をすれば、功徳をつんで、来世ハンセン病じゃない人間に生まれ変わることができるでしょ。だから、お金を貯めてお寺に寄付をしたいの」〔略〕
 私はこれを聞いて、人間が貧困と差別にさらされて生きるとはどういうことかということを強烈に突きつけられた気がしました。人間は絶望だけでは生きていけません。何かしらの光を見出さなければ前に歩んでいけない。しかし、どうしても世の中にそれを見つけられない人たちは、来生という「幻」に希望を託すしかないのです
(113-4)

 トイさんはこういっていました。
貧しい家庭では、障害児が生まれてバラバラになってしまうことがあります。貧しい家庭はとてももろいのです。だからこそ、私のように近くにいる人間が一人ひとりしっかりと支えてあげなくてはならないのです。それが私が人としてやらなければならないことなのです」
(119)

 私は他者を見つめる際に大切なのは、相手がどんな小さな神様を抱いているかを知ることだと思います。その人にとっての希望だとか幸せだとかいったものは「小さな神様」に集約されます。それを発見することが、その人の価値観に寄り添って物事を考えることにつながる。(185)

倒壊した建物の下には、人間の遺体が動物や魚のそれとともに無造作に横たわっている。津波という感情のないものだからこそ、容赦のない破壊が万物に対して行われていたのです。
 私はヘドロの臭いの漂う風景の中で、愕然としました。光がどこにもないのです。あらゆるものがヘドロの色に染まってしまって闇に閉ざされているのです。
 ——書くことができない。
 初めてそう思いました。
(208)

 千葉〔淳〕さんは毎朝五時半に赴くと、並べられた遺体に一体ずつ声をかけて回りました。「寒かったろ、今日こそお父さんとお母さんが迎えに来てくれるからね」とか「もうすぐ火葬の順番が回ってくるよ。そしたら天国に行くんだよ」と言うのです。
 遺体に声をかけるのは、遺体を「もの」でなく、「人間」として扱うためでした。体育館には百体以上の遺体がほとんど無造作に並べられており、身元が不明のものについては番号がふってあるだけ。職員も遺族も番号で呼ぶしかありません。
 しかし、千葉さんはそれを少しでも人間らしく扱ってあげたいと思っていた。人間としての尊厳を守るのが自分の役割だ、と。だから、彼らが生きていた時と同じように、やさしく言葉をかけ、髪をとかし、硬直している体をさすってあげたりしていたのです。〔略〕
 ある日、生まれたばかりの赤ちゃんが遺体として運ばれてきました。母親とともに家にいた時に津波が襲いかかってきて流されてしまったのです。母親は奇跡的に助かったのですが、赤ちゃんは流されて死んでしまった。
「あなたを救ってあげられなくてごめんなさい」と何度もくり返しました。悔やんでも悔やみきれなかったのでしょう。
 千葉さんはそんなお母さんを目にすると、そっと傍に寄っていきました。そして赤ちゃんの遺体に対してこう語りかけたのです。
「坊やは、ママのことを恨んでなんかいないよな。ママは必死で守ろうとしたんだよ。自分を犠牲にしてでも助けたいと思ったんだけど、どうしてもダメだった。良い子だからわかるよね。こんなやさしいママに恵まれて良かったな。また生まれ変わってママに会いに来るんだぞ」
(227-9)


@研究室
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by no828 | 2016-04-09 16:07 | 人+本=体 | Comments(0)
2016年 04月 08日

「社会」にはそれを成立させるための論理がある。ところが——森巣博『日本を滅ぼす〈世間の良識〉』

c0131823_21115464.jpg森巣博『日本を滅ぼす〈世間の良識〉』講談社(講談社現代新書)、2011年。65(987)


 版元

 2015年に残してきた本(残り10冊)


 とても歯切れのよい本です。原発事故以外についての主張には頷けるところが多いのですが、原発事故についてはいまもまだ福島にいる家族・親族を思い出し、そんなにはっきりと言わないでくれ、と思ってしまいました。科学的な事実と感情とのあいだを、わたしはまだ揺れています。

 著者のことは、『無境界の人』、『無境界家族』以来、着目しています。


 わたしはこれまで繰り返し、
無知というのは知識がないことではない。疑問を発せられない状態を指す
 とするフランツ・ファノンの言葉を引用してきた。
(3)

 ——利潤の私益化・費用の社会化
 これこそ新自由主義思想のキモだ、とわたしは考えた。
 それまで「社会資本」として国民の共有財産だったものが、「民営化」の掛け声で一部の人たちのみの私有とされる。鉄道にせよ電話回線にせよ、あれ、元はといえば税金でつくられたものなんですが。
 電力についても、ほとんど同じ論理が適用される。
(5)

 日本は、まるでファシズムに支配された社会のようだった。おっと、この言い方は正しくないな。書き直そう。日本は、社会が消滅して、世間が席捲した状態だった。
「社会」にはそれを成立させるための論理がある。ところが、「世間」に論理は不要だ。「世間」は、基本として論理ではなくて情動で機能する。
(17)

 福島第一原発事故が起こって、大丈夫、心配ない、安全です。
 そういうデマを大手メディアで大々的に流し、東北と関東の人をしっかりと被曝させた政府・東電・原子力安全・保安院関係者は「親日」だったのか? わたしにはどうしても、そうは思えない。連中は「反日」じゃなかったかもしれないが、すくなくとも「反日本人」いや「反東北・関東人」「反福島人」であったことは確実だろう。
(37-8)

 知らなければ、個人にとってその事実は存在しないのと同じである。こういったメディアが「教えない」方式を、「無知の技術」と呼ぶそうだ。メディアがなにをどう報道したかはもちろん重要だが、なにを報道しなかったかも、やはり同程度に重要なのである。(56)

 ついでですが、「口封じ」拘禁三百二十五日の三井環が、巨額裏ガネづくりの張本人、と告発していた元大阪高等検察庁検事長の逢坂貞夫が、二〇〇九年六月二十六日に開催された西松建設第72回定期株主総会で、社外取締役に選出されてましたな。(63)

 費用は全額、官房機密費から出ている。つまり、あなたのお金、わたしのお金で、政治部記者たちに、喰わせ、飲ませ、女を抱かせた。朝日ニュースターの番組では、「どこの社がそういう接待を受けたのか、その社名を挙げることはしないけれど」としながらも、接待を社則として断ったのは「朝日新聞の記者だけだった」と平野〔貞夫・元参議院議員〕は証言している。(66-7)

 ジャーナリズムは「国民の知る権利」を代行する。
 それゆえ、特権が与えられている。
(79)

 酒井法子の逮捕容疑は、0・008gの覚せい剤所持だった。一回分の通常の使用量である0・03gをはるかに下回る超微量の所持であることだし、また尿検査では陰性だったので、普通なら不起訴処分とされるケースだそうだ(毛髪検査では陽性反応を示したとされる)。
 ところが、政治家だとか「識者」だとかが、不起訴処分にすることへ「疑問の声」を投げかけた。なんでも、
 ——スポーツ選手や芸能人のドラッグ使用は、社会に与える影響が大きい。
 からだそうだ。こいつら、アホか。
「社会に与える影響が大きい」のは、永田町と霞が関の癒着でおこなう「税金の循環」のシステムであり、社会的階層の固定化であり、権力者たちにマスメディアが質問をしないことであり、またジャーナリズムが大本営発表を書き写すことであり、検察による政治介入etc. etc. なのである。スポーツ選手や芸能人のドラッグ使用ではないんじゃねーの。
(88-9)

二〇〇三年七月に、赤坂の賃貸マンションの最上階の部屋で小学生女児四人が監禁されていた「プチエンジェル事件」というのが発覚した。〔略〕〔/〕自殺した(とされる)吉里弘太郎容疑者は、おそらく懺悔と告発の意味をこめたのだろう、二〇〇〇人を超える「顧客名簿」をテーブルの上に残していたそうだ。その「顧客名簿」には、政治家・官僚・財界人の名がぞろぞろと記載されている、と初期段階で捜査担当者がリークした。〔/〕ところが、リークはそこでぴたりと止まる。〔/〕被疑者死亡で送検され、いつの間にか、この事件は忘れられた。(98-9)

 相撲取りが大麻使用で逮捕された。だから角界の綱紀粛正のために、全力士の尿検査を要求する。
 のりピーなどの芸能人が覚せい剤使用で逮捕された。しかし芸能界の綱紀粛正のために、全芸能人のションベン検査は決して要求しない。
 なぜなのか? 実際にそんな検査をしたら、ほとんどの芸能番組がテレビから消えてしまうからだそうだ。

「紅白歌合戦の放送時間が三分の一以下になる」
 博打仲間の業界人が、わたしに教えてくれた。
 紅白歌合戦の放送時間が三分の一以下に減るのであれば、
「公衆の要望を満たすとともに文化水準の向上に寄与する」
 と定めた放送法第81条の精神と合致し、それはそれでたいへんめでたいことだ、とわたしなど考えたのだが、いかがか?
(116)

 その冒頭の第1章「弁護士の使命及び職務」第1条1項には、
 ——弁護士は、基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とする。
 と明記されている。
 したがって「人権派」でない弁護士は、すみやかに弁護士バッジを返納すべきだろう、とチュウサン階級に属するわたしなど素朴に考えるのだが、いかがか。
(148)

歯舞・色丹・国後・択捉の四島を、その先住民族に返還し、アイヌモシリに主権国をつくろうという視点が、なぜ主流メディアの「北方領土」議論では、まったく登場しないのであろうか。(156)


@研究室
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by no828 | 2016-04-08 21:31 | 人+本=体 | Comments(0)
2016年 04月 07日

もう忘れました——樋口毅宏『タモリ論』

c0131823_19131977.jpg樋口毅宏『タモリ論』新潮社(新潮新書)、2013年。64(986)


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 2015年に残してきた本(残り11冊)


 古本屋にて何となく手に取りました。

 ビートたけし、明石家さんまについてもそれぞれ1章を割いて論じています。しかしそれは、タモリのタモリ性をより鮮やかに浮上させるための補助線です。


「いいとも!」が始まってまだ一年ぐらいのことでしょうか。番組開始から続いている「テレフォンショッキング」のコーナーに、突如男が乱入して、タモリの横に座りました。凶器も所持していたはずです。しかしタモリは慌てず騒がず、「何、言いたいことがある?」と返し、やりとりをしている間に男はスタッフに取り押さえられました。観覧していた客は目の前の光景が信じられず、しばらくざわついていましたが、タモリはケラケラと笑っていました。忘れがたい光景です。
 二〇〇八年には自分を世に送り出してくれた赤塚不二夫への名弔辞で、株を上げたタモリですが、彼にとって人を泣かすことなんて造作もない。物書きの端くれとして言わせてもらいますが、お涙頂戴ほどこの世で簡単な、そして低俗なやり口はない。「貧乏・動物・子供・不治の病」を出し入れすればいいのだから。ただ僕もタモリも(一緒にしてごめんなさい)自分の美意識が許さないだけ。人を笑わせることのほうがどれだけ難しいか。
 しかしタモリは「笑い」という難題を、表面上は容易く見せつつ敢行する。なぜか。それが、タモリがタモリたる所以なんです。
(11-2)

〔樋口の著作の参考文献一覧に〕頻出する作品として、マンガ『人間交差点』(原作・矢島正雄/作画・弘兼憲史)があります。作中に忘れられないフレーズがあります。
海について知るものは賢者だが、海について語るものは馬鹿だ
 真理です。〔略〕
笑いについて知るものは賢者だが、笑いについて語るものは馬鹿だ
 これが、僕がこれまでお笑いについて一切書いてこなかった理由です。
(19-20)

 パクリの条件〔略〕
 ① カミングアウト(奥付表記は絶対。ダマでやっちゃダメ)
 ② 愛と感謝があること
 ③ センスがあること
 ④ 元ネタを超えていること(またはその意志)
 ⑤ 新しい解釈を与えていること
 ⑥ 元ネタを再評価させたいという気持ち
(106-7)

 タランティーノもそうだと思うのですが、「自分が作った作品」より、「自分を作ってくれた作品」のほうが何百倍も素晴らしいから、そっちに触れてほしいという気持ちがあるのです。(108-9)

 タモリが赤塚不二夫の弔辞を吹聴することがないのと同様、さんまも不幸で人の涙を搾り取ることを良しとしません。
 なぜか? それが彼らの美学だから。
 お涙頂戴ほどこの世で簡単な、そして低俗なやり口はないと知っているから。
 さんまは芸人として駆け出しだった頃を除けば、インタビューどころか、楽屋などの舞台裏でカメラを回すことも許していません。「陰」は見せたくない、「陽」の顔しか見せたくないから。そのアティチュードはまるで往年の大スターのようです。
(138-9)

 そう、あれは德光和夫がテレフォンのゲストに出たときのこと。
「いつもタモリさんがお聞きになっているので、きょうは私がお聞きしようと思うのですけど……。赤塚さんのお葬式に弔辞を読まれましたけど、あれが白紙だったのではないかという声があるんですけど、実際のところはどうだったのでしょう?
 タモリは少し間を置いてからこう答えました。
もう忘れました
 タモさんカッコいいと、心からそう思えました。
(185)

 興味深かったのは、徳さんの次の発言でした。
 今でこそ「いいとも!」は放送から三十年になる。しかし始まった直後は、タモリさんがお昼の番組の司会をやるというのは、エガちゃん(江頭2:50)がやるようなものだったと。
 観客から、えーっの声が飛ぶ。
(186)


@研究室
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by no828 | 2016-04-07 19:20 | 人+本=体 | Comments(0)
2016年 04月 06日

空に浮かんだ星みたいなもの。ギャップがあること自体が救いなんです——村上春樹・柴田元幸『翻訳夜話』

c0131823_21465891.jpg村上春樹・柴田元幸『翻訳夜話』文藝春秋(文春新書)、2000年。63(985)

 
 版元

 2015年に残してきた本(残り12冊)


 翻訳についての村上・柴田の対談、それに翻訳学校の生徒や翻訳家を交えた座談会(質疑応答)に加えて、村上・柴田のポール・オースターの訳し比べ、村上・柴田のレイモンド・カーヴァーの訳し比べも収められています(もちろん原文も)。オースターは柴田が、カーヴァーは村上が訳すことが多かったわけで、この“取り替え”はおもしろい試みだと思いました。

 1番はじめの引用文にあるようなことを2人の先生に以前言われたことがあり、自分の文章はそういうところがあるのかな、と気になりはじめ、しかしそれがよいことなのかそうでないのかよくわからなかったところがありました。本書を読み、少し自信になりました。


村上 良い文章というのは、人を感心させる文章ではなくて、人の襟首をつかんで物理的に中に引きずり込めるような文章だと僕は思っています。暴力的になる必要はないんですけど。(46)

村上 文章っていうのは人を次に進めなくちゃいけないから、前のめりにならなくちゃいけないんですよ。どうしたら前のめりになるかというと、やっぱりリズムがなくちゃいけない。音楽と同じなんです。(66)

村上 だって、天才だもの、あの人たちは。天才というのは別モノなんです。空に浮かんだ星みたいなものです。ギャップがあること自体が逆に救いなんです。(238)


-----

机の左手に気に入った英語のテキストがあって、それを右手にある白紙に日本語の文章として立ち上げていくときに感じる喜びは、ほかの行為では得ることのできない特別な種類のものである。(村上.4)

村上 小説を書くというのは、簡単に言ってしまうなら、自我という装置を動かして物語を作っていく作業です。自我というか、エゴというか、我というか。我を追求していくというのは非常に危険な領域に、ある意味では踏み込んでいくことです。ある場合にはバランスを失うぎりぎりのところまで行かなくてはならないし、外の世界との接触が絶たれていく場合も多いんです。それくらいの危機をはらんだ作業であるということができる。出来上がったものが立派であるかどうかは、また別の問題として。(16)

柴田 自作が翻訳される場合に、翻訳家なり訳文に何を求められるかをお聞かせ願えますか。
村上 ひとくちでいえば愛情ですね。偏見のある愛情ですね。偏見があればあるほどいいと。
(17)

村上 一語一句テキストのままにやるのが僕のやり方です。そうしないと僕にとっては翻訳をする意味がないから。自分のものを作りたいのであれば、最初から自分のものを書きます。(20)

村上 やはりセンスですね。〔略〕自分にセンスがない人は、自分にセンスがないという事実を認めるセンスがないということです。あともうひとつ僕が言いたいのは、非常に不思議なことで、僕もまだ自分のなかでよく説明できないんですけど、「自分がかけがえのある人間かどうか」という命題があるわけです。〔略〕僕が翻訳をやっているときは、自分がかけがえがないと感じるのね、不思議に。(25-6)

村上 実際の場所に行ってみるというのはけっこう大事なことです。〔略〕一般論として言いまして、著者に会うのは非常にいいことですよね。ぜひお勧めします。(31)

柴田 村上さんは人前でご自分でお話をなさるより、人の話を聞くほうが好きだということをおっしゃっていましたけど、翻訳をするということと、話を聞くということと、けっこうつながるんじゃないですか
村上 うん、ほとんど同じですね。小説を書いていると自分のなかの声というのをある程度どんどん外に出していかなくちゃいけないわけですね。ところが翻訳だと、ほかの人の声のなかにスーッと静かに入っていけるところがあるんです。だからやっぱり、翻訳に向く人と向かない人がいるんですよね。じっと人のヴォイスに耳を澄ませて、それは静かな声なんだけど聞き取れるというか、聞き取ろうという気持ちのある人、聞き取る忍耐力のある人が、翻訳という作業に向いているんだと思います。
(38-9)

村上 柴田さんと話しているといつも、「ああ、この人は根っから翻訳が好きなんだなあ」という感じがひしひしと伝わってきて、楽しいんです。翻訳なんて手間のかかる地味な仕事だから、ほんとに好きじゃないとできないです。好きだというのは努力が苦にならないということでもあるから。(51)

柴田 語学力というのは他人がチェックできて、人が直せることだけれど、作品に対する愛情とかそういうものは、他人には代わりができないものだから、そっちのほうが大事だろうというふうに思いました。(57)

村上 もっと極端に言えば、翻訳とはエゴみたいなのを捨てることだと、僕は思うんです。うまくエゴが捨てられると、忠実でありながら、しかも官僚的にはならない自然な翻訳が結果的にできるはずだと思います。
柴田 同感ですね。
(63)

村上 なぜ翻訳をやりたいかというと、それは、自分の体がそういう作業を自然に求めているからです。なぜ求めるんだろうというと、それは正確に答えるのが難しい問題になってくるんだけどたぶん、僕は文章というものがすごく好きだから、優れた文章に浸かりたいんだということになると思います。〔略〕
 ものを書く読むということについて言えば、実際に足を入れてみないとわからないことって、たくさんあります。自分で実際に物理的に手を動かして書いてみないと理解できないことって、あるんですよね。目で追って頭で考えていても、どうしても理解できない何かがときとしてある。
(110-1)

見るのが速すぎる。ゆっくり見ないと意味はつかめないよ
 もちろん彼の言うことは正しかった。時間をかけて見なければ、何ごとによらず本当に見たことにはならない。
(村上・オースター.150)

まんまと罠にはまった私が、彼の話を信じた——大切なのはそのことだけだ。誰か一人でも信じる人間がいるかぎり、本当でない物語などありはしないのだ。(柴田・オースター.177)

村上 下手な文章読むと、絶対に駄目ですよね。
柴田 やっぱりよくないですかね。
村上 よくないですね。だから、僕はなるべく雑誌って読まないです。
柴田 なるほど。僕がテレビの言葉を入れたくないのと同じ。
(234-5)


@研究室
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by no828 | 2016-04-06 21:50 | 人+本=体 | Comments(0)
2016年 04月 05日

犠牲者が笑顔を作っているときこそまさに抑圧が頂点に達しているのだ——チアン『ワイルド・スワン』

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ユン・チアン『ワイルド・スワン』(上・中・下)、土屋京子訳、講談社(講談社文庫)、1998年。62(984)


 版元 

 原著:Chang, Yung, 1991, Wild Swans〔漢字だと、鴻〕
 単行本は1993年

 2015年に残してきた本(あと13冊)


 中国で生まれた著者の祖母、母、父、そして著者本人のまさに生の物語。それは同時に、満州国時代から文化大革命へという時間的な幅の広さを、そして後半になって加わる地理的な広さをも伴って描かれる、人びとの生活レベルの中国近現代史でもあります。「中国共産党」——それは「共産主義」と同義ではない——が人びとのあいだでどのように受容されていったのか、また、その仕方が変化していったのかがよくわかります。

 著者はイギリスに留学し、彼の地でこの本を書きました。

 もっと早く読めばよかったです。

 引用文のなかに「彝族」が出てきます。四川省にある彼/彼女らの学校へ——さまざまな方のお世話になり——行ったことがあります。そのことを思い出しました。あのときの子どもたちは、いま、どうしているでしょうか。


〔著者の祖母と母が日本の支配下にあった満州国で暮らした1931〜1945年は〕とほうもなく残酷な時代であり、それだけになお、崇高な人間性が強い光を放った時代でもありました。〔略〕『鴻〔ワイルド・スワン〕』は、極限状況のなかで人間は何をするか、何ができるかを書いた本です。とくに、あのような時代にあっても崇高な人間性を保って生きた勇気ある人々に敬意をこめて、私はこの本を書きました(上. 「日本のみなさんへ」5)

 教育は、満州国の従順な臣民をつくるための手段だった。〔略〕
 教師たちは、満州国こそ地上の楽園であると教えた。だが、この国が楽園と呼べるとしたら、それは日本人のためだけに存在する——母のように幼い者さえ、そう感じていた。日本人の子供たちは、中国人とはちがう学校に通った。日本人の学校は設備が立派で、暖房もよくきき、床も窓ガラスもぴかぴかに磨いてあった。中国人の学校は、荒れはてた寺か、だれかが寄付した倒壊寸前の家だった。暖房はない。冬になると、寒さをまぎらすために、授業の最中にクラス全員で近所をひとまわり走ったり、部屋の中で足ぶみしたりしなくてはならなかった。
 教師はほとんどが日本人だった。教え方も日本式で、教師は平気で生徒を殴った。〔略〕
 中国人の子供が町で日本人とすれちがう時は、たとえ相手の日本人が自分より年下でも、頭を下げて道をゆずらなければならなかった。日本人の子供たちは、よく中国人の子供をつかまえては理由もなしに殴った。先生とすれちがうときも、うやうやしくお辞儀をしなくてはならない。
(上. 93-4)

 教育の一環として、母たち女学生は日本軍の戦況を収めたニュース映画を見せられた。日本の軍人は、自分たちの残虐行為を恥じるどころか、逆にそれを誇示して少女たちの心に恐怖をうえつけようとした。ニュース映画には、日本兵が人間をまっぷたつに切り捨てるシーンや、囚人を杭に縛りつけて野犬に食いちぎらせるシーンが映っていた。犬のえじきにされる囚人が恐怖に目を見開いた表情を、カメラは長々と大映しにして見せた。十一歳と十二歳の女学生たちが目をつぶらないように、叫び声を止めようとして口にハンカチを押しこまないように、映画のあいだじゅう日本人が見張っていた。母は、その後何年も悪夢にうなされたという。(上. 105)

〔1947年冬から48年にかけて経済事情が悪くなる時期に〕ひとつだけ、羽振りのいい商売があった。少女を売春宿や金持ちの奴隷兼女中に売りとばす仲介業である。町のあちこちに、食べ物と交換で子供を売る乞食の姿が目立った。母も、やせ衰えた身にボロをまとい絶望のあまり放心したような表情の女乞食が、校門を出たところで何日も凍土の上にしゃがみこんでいるのを見た。女乞食の横には、貧苦のはてに表情も動かさなくなった女の子が立っていた。女の子の着物の後ろ襟に棒がつっ立ててあり、下手な字で「十歳女児、十公斤大米」(米十キロで、娘売ります)と書いてあった。
 学校の教師も、生活に困窮していた。教師が俸給の値上げを要求すると、政府は授業料を値上げした。しかし、これでは何の解決にもならない。父兄のほうも、これ以上の授業料は払えなかったからだ。母の学校で教えていた先生のなかには、食中毒で死んだ人もいた。道に落ちていた肉を拾って食べたのである。肉が腐っているのはわかっていたが、あまり腹がへっていたので、いちかばちかで口に放り込んだのだ。
(上. 154-5)

 人民の生活のあらゆる局面に対する干渉こそ、いわゆる「思想改造」の真髄である。毛沢東は外面的な紀律に加えて、思想のうえでも、事の大小にかかわらず党に完全に服従することを求めていた。「革命参加者」は毎週のように「思想審査」の集会に参加し、全員が自分の誤った思想を自己批判すると同時に他人からの批判を受けなくてはならない。こうした集会は往々にして狭量で独善的な人間の独壇場となり、彼らの嫉妬や欲求不満を晴らす場になった。農民出身の者たちは、集会に名を借りて「ブルジョワ的」な家庭の出身者を攻撃した。(上. 271)

 一九五六年春、毛沢東は百花斉放(「百種類の花が咲くようにしてやりなさい」)政策を打ち出した。この政策は、芸術や文学や科学の分野でより自由な活動を認めようという主旨だった。戦後の復興期以降の産業発展をめざすために国家として知識人の力を動員する必要がある、という党の考えにもとづく政策だ。〔略〕
 百花斉放政策のもとで、約一年のあいだ、社会はリラックスした雰囲気だった。やがて一九五七年春になって、党は知識人に対して、上から下まであらゆるレベルの党員批判をおこなうよう要請した。これは自由化をさらに押し進めようという姿勢なのだ、と母は受けとった。この方針を打ち出した毛沢東の講話がだんだん下へ伝達されて母のレベルまで伝わった日、母は感激のあまり一晩じゅう眠れなかった。これでいよいよ中国もほんとうに近代的で民主的な政府をいただくことになる。みずからを活性化するために批判を歓迎するりっぱな政府をいただくことになる。母は、共産党員であることを誇らしく思った。
 党に対する批判を求めた毛沢東の講話が母たちのレベルまで伝わったとき、同じ時期に毛が発言したもうひとつの内容は知らされなかった。それは「引蛇出洞」(ヘビをねぐらからおびき出す)、すなわち毛沢東と毛沢東の政策に反対する連中をあばく、という意図の発言であった。〔略〕のちに毛沢東は、共産党批判を勧めたのは罠であり、自分に対立する可能性のある人間を一人のこらずいぶり出すために、そろそろ百花斉放を終わりにしようと言う他の指導者の声をおさえて意図的に延長したのだ、という意味のことを〔1956年に民衆の暴動/革命——いわゆるハンガリー動乱——によって共産党政権が一時的に覆った〕ハンガリーの指導者たちに語っている。
(中. 48-50)

 ことばというものが、意味を持たなくなっていった。ことばは現実から乖離し、裏付けを失い、本心とは似ても似つかぬものになっていった。だれも人のことばを本気で信じなくなったから、うそ偽りを語っても良心が痛まなくなった。(中. 73)

 ある日、一九六〇年のこと、宜賓で俊英伯母のとなりに住んでいた一家の三歳になる女の子が行方不明になった。それから二、三週間して、行方不明の女の子の母親は、娘に着せていたのとそっくり同じ洋服を着た女の子が道で遊んでいるのを見かけた。母親は近寄って、洋服を仔細に調べた。自分が縫いつけてやった目印がついていた。母親は警察に通報した。警察が捜査してみると、その洋服を着ていた女の子の両親は干し肉を売っていることがわかった。彼らはあちこちで幼児をさらってきて殺し、その肉をウサギの肉と偽って法外な値段で売りさばいていたのだ。犯人夫婦は処刑され事件は口止めされたが、当時こうした犯罪が横行していたことは、だれもが知っていた。〔略〕ある日、ひとりの農夫が彼の執務室〔人民公社〕へ走りこんできて床に身を投げ出し、私は恐ろしい罪を犯しました、どうか罰してください、と泣きわめいた。よく話を聞いてみると、この農夫は自分の赤ん坊を殺して食べたというのであった。あまりのひもじさに思わず包丁を手にしていた、自分で自分がどうにもならなかった、と農夫は泣きながら話した。話を聞く父の同僚も涙で頰をぬらしながら、この農夫を逮捕するよう命じた。後日、農夫は子殺しへの見せしめとして銃殺された。(中. 89-90)

自分があの少年たちより上等な人間だなどと、けっして思ってはいけない。おまえは、ただ幸運に恵まれただけのことだ。なぜ共産主義が必要か、わかるか? みんなが私たちのようないい家に、いや、もっとずっといい家に住めるようになるためなのだよ」。
 こういう話をあまり再々聞かされて育ったものだから、私は自分の恵まれた環境をうしろめたく感じたほどであった。同じアパートに住む子供のなかには、バルコニーに出て線香売りの売り声を真似てからかう者もいた。そんなとき、私は自分のほうが恥ずかしくなった。父の車に乗せてもらって出かけるとき運転手が警笛を鳴らしながら歩行者の群れを追いちらしたりすると、申しわけないような気もちになった。歩いている人たちの視線を浴びると、私はいたたまれなくて座席に沈むように首をすくめた。
(中. 128-9)

話を聞かせてくれた人たちのなかに、彝族〔イぞく〕出身の人がいた。彝族のあいだには、一九五〇年代末まで奴隷制度が残っていた。その人は、自分も奴隷だったと言って、主人にめちゃくちゃに殴られた傷跡を見せた。老人たちが辛酸に満ちた過去の話をするたびに、講堂を埋めつくした生徒たちのあいだにすすり泣きが広がった。「憶苦思甜」〔苦しみを思い出し、幸せを考える〕の時間に話を聞くたびに、私は国民党の時代に生きた人々の不幸を思って胸をつまらせ、毛主席に深く傾倒していった。(中. 136-7)

 自己審問と自己批判は、毛沢東の中国を象徴する習慣だった。自分の心をさぐり、誤りを正して、もっと良い人間に生まれ変わるのだ、と私たちは教えられた。だがほんとうのところは、自分の考えを一切持たない人間を作るのが目的だったのである。(中. 159)

毛主席のいない世界で、いつの日にか毛主席の姿をあおぎ見る希望さえ持たずに生きていかなければならない資本主義世界の子供たちは、なんと気のどくなことだろう」。不幸な資本主義世界の子供たちのために何かしてあげたい、あの子供たちを苦難の人生から救ってあげたい、と思った。(中. 162)

『人民日報』は、学校の試験は「生徒を敵人のようにあつかい」(毛沢東のことば)、「ブルジョワ知識分子」(これも毛のことば。教師の大多数をさす)の悪だくみの一環であるから粉砕しなければならない、と呼びかけた。(中. 177)

 本は、旧文化破壊の最大の標的になった。最近数ヵ月以内に書かれた本以外は、ページごとに毛沢東のことばが出てこないというだけの理由で、「毒草」と呼ばれた。マルクス主義の古典と、スターリン、毛沢東、それに江青が私的な復讐の道具として利用していた魯迅の本を除いて、全国各地で本という本が焼き捨てられ、中国は貴重な文献をほとんど失った。かろうじて蛮行をくぐりぬけた本も、のちになって薪のかわりにストーブにくべられてしまった。(中. 199-200)

毛沢東の生家は、博物館兼神社のようになっていた。けっこう広くて立派な家で、悪辣な地主に搾取される貧農のあばら家を思い描いていた私の想像とは、かけ離れていた。毛の生母の大きな写真が飾ってあり、その下に「毛沢東の母親はたいへん親切な人で、家がわりあい裕福だったので、貧しい人々によく食物を分けてやった」と説明書きがあった。そうか! われわれの偉大な指導者の両親は、富農だったのか! 富農は、階級の敵だ。どうして毛主席の両親だけは、階級の敵なのに、憎まれるどころか英雄にまつり上げられているんだろう? ——頭に浮かんできた疑問があまりに恐ろしいものだったので、私は急いでその疑問をおさえつけた。(中. 246-7)

私のむかしの同級生でちょっとかわいい顔をした十五歳の女の子が、北京で出会った紅衛兵の男子学生と旅行に出て道中で関係を持ち、妊娠して帰ってきた、という話を成都にもどってから聞いた。その子は父親にさんざん打擲され、となり近所から白い目で見られ、仲間うちで噂話のたねにされて、とうとう首をくくって死んだ。「恥ずかしくて生きていけない」という遺書が残っていたという。こういう封建的な恥の意識に疑問の声を上げた者は、ひとりもいなかった。古いものを打ちこわすのが文化大革命ならば、古い恥の観念も標的にすればよさそうなものだが、毛沢東は一度もこういうことをとり上げなかった。(中. 249)

「走資派」とは、党内の高い地位にあって資本主義的政策を追求する役人、ということになっている。しかし現実には、政策を選ぶ自由など、役人にはなかった。(中. 259)

毛は「労働をつうじて思想を改造しなければならない」と提唱したが、労働と思想改造のあいだにどういう関係があるのかは説明しなかった。もちろん、だれも追究しようとはしなかった。そんな疑問は、心に抱くだけでも大逆に値する罪だ。(下. 48)

私は毛沢東に与えられた人生を拒絶していたのであった。(下. 63)

文化大革命以来、私は人間を思想信条ではなく、残虐なことや意地悪なことができるかどうかで区別するようになっていた。(下. 77)

 大多数の農民は、学校を再開してほしいとも思っていなかった。「学校へ行って、どうするだね? 金払って長いこと勉強したって、どうせ汗して働く百姓じゃないかね。本が読めたところで、コメ一粒よけいにもらえるわけじゃなし。金と時間の無駄だよ。さっさと工分かせいだほうが利口だ」。学校へ行ったところで将来の暮らしが良くなる可能性はないという現実、農民として生まれたら一生農民として生きるしかないという現実が、教育への意欲を失わせていた。子供たちは就学年齢に達しても学校へ行かず、家で仕事の手伝いをしたり弟や妹の面倒を見たりしていた。そして、十二、三歳になると野良に出た。女の子の場合は、学校などまるっきり無駄というのが農民の常識だった。「嫁にくれてやれば他人のもんだ。学校なんか、地べたに水ぶちまけるようなものさ」。(下. 126)

 教育と縁のない農民は、息がつまりそうな偏狭な世界に生きていた。話題といえば、日常生活の些細なことばかりだ。ある農婦は、義理の妹が朝飯を作るのに「毛毛紫」を十束も使った、自分だったら九束でできるのに(燃料も生産隊の共同管理だった)、と午前中いっぱい文句を言いつづけた。またある農婦は、姑がごはんにサツマイモをたくさん混ぜすぎる、と何時間もぐちった。視野が狭いのは彼ら自身の罪ではないとわかっていても、そういう会話につきあうのは耐えがたい苦痛だった。(下. 127-8)

一九六五年六月二十六日、毛沢東はその後の医療・教育行政の指針となる発言をした。「書読得越多越蠢」(書物というものは、読めば読むほど愚かになる)。私は、一切何の訓練もなしに医者になった。(下. 140)

大切な人のために貴重な食べ物をがまんして貯めておく——愛情と思いやりの気もちを、むかしから中国の人たちはこうやって表現してきた(下. 154)

私は大学の受験勉強に没頭した。ただし、どの大学を受けることになるのか、見当もつかなかった。受験生には大学を選ぶ権利がないのだ。毛沢東は、「教育を革命的に変えなくてはいけない」と言った。この発言には、大学の専攻科目が個人の希望とは無関係に割り当てられる、ということも含まれていた。個人の希望を云々するのは個人主義であり、資本主義的罪悪なのだ。(下. 190-1)

不平不満がひとことも出ないときこそ抑圧がいちばんひどいのだということが、どうしてこの外国人にはわからないのだろう? 犠牲者が笑顔を作っているときこそまさに抑圧が頂点に達しているのだということが、どうしてわからないのか。(下. 226)

 教授に借りた辞書をたよりに、〔略〕アメリカ合衆国の独立宣言は、全文を暗記した。「われわれは、自明の真理として、すべての人は平等に造られ、……一定の奪い難い権利を付与され、その中に生命・自由および幸福の追求の含まれることを信ずる」(高木八尺訳)という一節に、感動で胸がいっぱいになった。その概念は、それまで中国に生きてきて一度も知ることのなかった新世界の扉を開いて見せてくれた。私は感動に涙ぐみながらこうした文章をノートに写しとり、肌身離さず持ち歩いた。(下. 229-30)

中国が失ったものは、もっと根深い。中国人は美しいものをすべてたたきこわしてしまっただけでなく、美しいものを愛でる心も、美しいものを作る技術も失ってしまったのである。あちこちズタズタに荒らされながらいまだに見る者の目を奪う自然の景観をべつにすれば、中国はほんとうに醜い国になってしまった。(下. 246-7)

 毛沢東が死んでから、いろいろなことを考えた。〔略〕毛沢東思想の中心にあったのは、はてしない闘争を必要とする(あるいは希求する)論理だったと思う。人と人との闘争こそが歴史を前進させる力であり、歴史を創造するにはたえず大量の「階級敵人」を製造しつづけなければならない——毛沢東思想の根幹はこれだったと思う。これだけ多くの人を苦しめ死に至らしめた思想家が、ほかにいただろうか。私は、中国の民衆が味わってきた恐怖と苦痛の深さを思った。あれは、何のためだったのか。〔略〕毛沢東は、人民がたがいに憎みあうようしむけることによって国を統治した。〔略〕
 毛沢東主義のもうひとつの特徴は、無知の礼賛だ。〔略〕毛沢東は正規の学校教育を憎み、教育を受けた人間を憎んでいた。〔略〕毛沢東は残忍な社会を作りあげただけでなく、輝かしい過去の文化遺産まで否定し破壊して、醜いだけの中国を残していったのである。
(下. 268-9)


@研究室
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by no828 | 2016-04-05 20:34 | 人+本=体 | Comments(0)
2016年 04月 04日

何を断定するのか、それがその人間の責任なんだ——坂口恭平『独立国家のつくりかた』

c0131823_19524939.jpg坂口恭平『独立国家のつくりかた』講談社(講談社現代新書)、2012年。61(983)


 版元

 2015年に残してきた本(あと14冊)


 この世界の表面を1枚捲ってみろ、自分の頭で考えろ、というメッセージ。空間(土地)、公私、経済、……。

「自律」という言葉が頭を過りました。また、このようにある社会のなかで自分がやらなければならないことを見つけ、実行することの大切さが説かれています。ただ、それはこの社会のありよう自体を変えようとするよりも、このような社会を前提とし、それと一線を画しつつ、各々がその“隙間”を探して工夫して生きよ、というように読めました。そこではこの社会——を構成する強者・多数派の考え方——自体は温存され、だから本書の主張は社会の側の論理とは干渉し合わないのかもしれません。それでよいか、とわたしは思い、考えを進めようと思いました。

 といったことから題名をすんなり受容することはできませんでした。独立した個人のつくりかた、ならわかります。「自律」は「自閉」に行きかねません。

 しかし、まずは独立した個人であれ、という主張なら、それには共感します。


 僕はいつも、頭で考えない。生理的な反応をもとに思考していく。「生理的に」というのはその後もずっと気になっていて、それは普段は除け者にされている感覚なんだけど、とても重要なキーワードだと思う。「生理的に」というのは、学校や企業などの常識を重んじている社会とは別のレイヤーにある気がする。かつ「生理的に」というのはとても普通の感覚にも感じられる。
 僕は、生理的に駄目だと思った時に、「考える」ことを始めるのではないかと思っている。論理的に捉えられても生理的に受け付けないもの。これが僕にとっての考えるきっかけだ。〔略〕生理的におかしいと感じたものに関しては、とにかくゆっくりと、怒らずに、感情的にならずに、とりあえず答えが出なくても考えてみることにした。
(66-7)

 彼にとって、公園は居間とトイレと水場を兼ねたもの。図書館は本棚であり、スーパーは冷蔵庫みたいなもの。そして家が寝室。
 それを僕は「一つ屋根の下の都市」と名付けた。家だけが居住空間なのではなく、彼が毎日を過ごす都市空間のすべてが、彼の頭の中でだけは大きな家なのだと。
(25)

僕たちはあらゆる材料は商品になっていると思いこんでいる。しかし、彼らは僕たちが気付いていないところに、いつでも収穫できる「自然」が存在していることを見つけたのだ。それが都市のゴミだった。(26)

政治や行政というのは命を助けてくれる機関ではない。まあ、そんなことはわかりきっていることだ。(42)

匿名化したシステムの内側にいるかぎり、考える必要がないのだ。
考える」とは何か。
 これはつまり「どう生きのびるか」の対策を練るということである。「生きるとはどういうことか」を内省し、外部の環境を把握し、考察することである。匿名化したシステムではこの「考える」という行為が削除される。考えなくても生きていけると思わせておいて、実は考えを削除されている。
 路上生活者たちは単純に「生きるとは何か」について考えた。それは今では哲学と呼ばれているようなことかもしれない。しかし、彼らは匿名化し、安定したシステムの上にはいないので、抽象的な「生きるとは?」という問い以外に、具体的な「どうやって生きのびるか」という野生の思考も求められた。
(43)

 僕たちが「考える」ことを拒否するから、政治や行政は暴走するのである。故障するのである。それに気付いても止めることができず「命」を疎かにするのである。それじゃあ、僕たちも路上生活者にならって、自分たちの「思考」を開拓してみようではないか。(48-9)

どん底に落ちたら……底を掘れ!(57)

 つまり、人は「試す」ということをしない。すぐに思いこむ。〔略〕
 なぜ人は試さないのだろう。〔略〕
 試せば試すほど、人間はどんどん智慧を身につけていく。そして恐怖心が和らいでいき、どんな困難な状態であろうと淡々と生きていくことができるようになる。
 なぜなら試すことで「知った」からである。

 自らの生活に必要な「量」を。不安ではなく恐怖の実体を。つまり、生きるとは何かを。
(55-6)

人間が動物のようになったら、無茶苦茶な世の中になるという。本当にそうなのか?
 それならば動物はなぜ無茶苦茶にならないんだ。なぜ殺し合わないのだ。僕にはその違いがわからない。
(62)

 もちろん土地を使う時にはお金を払えばいい。でもそのお金は誰かが所有するのではなくて、ちゃんと公共のお金として貯められなくてはならない。誰かが持っていくなんて、普通に考えるとおかしい。でもこの世は普通ではない。狂っているのだ。
 それじゃあ、いま僕たちが払っている家賃ってなんだろう? どうして、毎日必死に好きでもない労働をしている東京のサラリーマンの月給が18万円で、ワンルームの家賃が8万円とかするのか。おかしいと思うが、誰も文句を言わずに払っている。土地を持っている人間が持っていない人間から金を取るなんて絶対におかしいはずだ。
(63)

「社会を変える」という作用は、他者に迎合した状況では不可能である。(129)

いつでも自分は一流だと思ってろ(144)

 やりたいことは無視して、自分がやらないと誰がやる、ということをやらないといけない。〔略〕
 僕はそれだけだ。好きでやっているとか、そんな動機じゃない。もっと切実な動機でやっている。こんな大人たちに任せてしまっては大変なことになると思った。使命と言っては大げさかもしれないけれど、これは自分がやらなければならないと心に決めたのだ。〔略〕
 だからやりたいことじゃない。若い人にはまずそこをわかってほしい。そこを見誤ると大変なことになる。〔略〕
 自己実現をするのではなく、社会実現に向かっていく。
 それをまず決めるんだ。
(162-3)

 大事なことは、何かに疑問を持ったかということだ。それがあれば生きのびられる。
 今まで生きてきて、一度も疑問を持ったことがなければ、今すぐ企業に走ったほうがいい。誰かに指示されて生きていこう。そういう人は原発なんて気にしないでいいと思う。でも、何か「疑問」を持ったらチャンスだ。そこから「問い」にまで持っていく。
「疑問」を「問い」にする。この過程を僕は完全に独自な「創造」と呼んでいる。綺麗な色の絵とか、美しい旋律とか、創造というのはそんなものではない。あなたがこの世界のどこをおかしいと思えたかである。
(164)

 そして、こうやって思考した後に、必ず必要なものがある。それは「答え」である。よく考えることが重要で、答えがすべてじゃないとしばしば言われる。僕はあれは全部間違いだと思っている。絶対に答えを出さないといけない。断定しないといけない。口から初めて出てきた「責任」のある「断定」。これが答えだ。
 僕は断定する。よく断定する。それは違うとよく人は言う。いやいや、それが問題じゃないのだ。何を断定するのか、それがその人間の責任なんだ。その断定が、思考なんだ。それが個人で生きることの責任なんだ。
 今の社会は、この断定を恐れる。それは無責任だということ。今は無責任社会なのだ。
(170)


@研究室
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by no828 | 2016-04-04 20:15 | 人+本=体 | Comments(0)
2016年 04月 03日

ぼくらが破壊したのは、たくさんの未来だよ——立松和平『光の雨』

c0131823_1661324.jpg立松和平『光の雨』新潮社(新潮文庫)、2001年。60(982)


 版元 情報なし | 単行本は1998年に同社

 2015年に残してきた本(あと15冊)


 小説。本文607ページ。連合赤軍の一連の事件の当事者が、現在の予備校生ふたりを相手に過去を回想するように話しながら展開していきます。以前に観た、若松孝二監督作品『実録・連合赤軍』(→ )を思い出しました。当時の時代状況、そして当時の学生の心境に関心があります。むろんそれは、本書で言うところの「玉井潔」の行為をわたしが支持することを意味しません。そもそも支持または不支持の態度決定のために必要となる理解ですら、できているとも思えません。玉井らの行為を支えた論理構成がわたしには——あるいはまだ——呑み込ません。「総括する」ということが盛んに言われたようですが、何がどうなったら総括できたことになるのか、幹部を含めわかっていたとは思えません。それは「思想的に」、「自己批判」といった言い方も同様です。


 本書が曰く付きであることは知っていましたが、それでも読みました。「曰く付き」の内容については、黒古一夫の「解説」に以下のように書かれています。

 この作品は、当初文芸誌「すばる」に九三年八月号から連載という形で書き始められたが、三回一〇月号まで進んだところで連合赤軍で死刑確定判決を受けた坂口弘から弁護士を通じて、自分の手記『あさま山荘1972』(上下巻 九三年 彩流社刊)と類似の箇所が多々ある、「盗用」ではないかとの抗議を受け、社会問題となり、中断のやむなきに至ったという経緯がある。本文庫に収録された作品は、この時のものと全く異なる方法と内容で、「新潮」の九八年三月号、四月号、五月号に短期集中連載され、九八年七月に単行本化されたものを底本としている。(612)

 なお、筆者自身の注記としても、創作にあたって坂口の著作を参照した旨が示されています。

「もう一度いおう。銃は敵と殲滅戦を戦う時に物理的に必要であるばかりでなく、同志相互には主体形成の契機として作用するんだ。であればこそ、銃を獲得したならば、どれほど時間がなくてもメンバー全員が革命戦士として完成しなければ革命戦は戦えない。その方法論としては、まず自分の過去と現在を総括することだ。昨日より一段と高い主体へと、毎日昇っていくのだよ。自分一人でできなければ、同志に援助してもらえばいい。真の同志なら暴力を使ってでも、総括をやり切らせる義務があるんじゃないか」(15)

 どんなに苦しかろうと自殺は許されないのだと、玉井は自分自身にいい聞かせて生きてきた。若くして死んでいった友人たちをこの世にとどめておくために、玉井は命の雫の最後の一滴が燃えて消えてしまうまで、生きていかねばならないのだ。〔略〕緑の硬そうな葉に落ちる金色の陽光を見ているうちに、また玉井は自分が死んだら友人たちの記憶が消えると思うのであった。苦しみは自分が冥界までも持っていくにせよ、友人たちの記憶はなんとしても地上に残しておかねばならないのだ。玉井潔の最後の闘いは、それではないか。(28-30)

今ぼくが生きている理由は、この物語があるからなのだよ。(43)

 革命をしたかった。ぼく個人ばかりでなく、全体が幸福になる世の中をつくりたかった。各人の持っている能力は百パーセント発揮でき、富の分配はあくまで公平で、職業の違いはあっても上下関係はない。人と人の間に争いはないから、戦争など存在しえない。国家もなくなっている。勤勉な人たちの労働によって蓄積された富により、人間性あふれる芸術をいつも楽しむことができる。生産も消費も適度に抑制されているから、貪るということがない。(41)
 
革命をしなければならないまず第一の理由は、今の社会体制では人格が無視されるからである。(55-6)

街頭闘争には、学生ばかりでなく何万人という群集が集まるのが常であった。学生が警官に殴られそうになると、群集が学生をかばって警官隊を押し返すことさえあった。新東京国際空港建設に反対していた農民の組織が、既成の政党を離れて学生組織と共闘を組むようになった。今だからいうのだが、このまま運動が拡大していけば、革命という文字が現実のものとして見えてくるかもしれない。そう考えたことがあると、告白しておこう。大衆運動は高揚していた。(46)

人は食べなければ生きていけないのが悲しい。(109)

みんな簡単に革命という言葉を使うのだが、その内実はよくわからない。共同幻想に捕われた人間たちの中で、本来の自分がなんであったかよくわからないにせよ、ここにいればますます自分が自分でなくなっていく気がする。(190)

「銃とはなんであるか、お前は思想的にとらえ直す必要があるんじゃないか」〔略〕
「自己批判します。銃を思想的にとらえ直します」
(196)

永久革命とは、永遠に苦悩することのはずである。(206)

 一方的に上杉和枝は演説をするばかりだった。これは討論ではない。何故山から降りようとするのかと、今村道子は尋ねて欲しかった。そこから討論がはじまり、矛盾点が洗い出され、問題点が露わになる。批判は指導部に向けられるかもしれないし、あるいは路線に向けられるかもしれない。批判されたのが個人ならば、個人が自己批判しなければならない。権力の弾圧は苛烈なのだが、銃が神のごとく扱われ、銃を守るだけで精一杯なのが現実である。ここから自由で柔軟な革命運動が生まれるだろうか。(208-9)

テロは瞬間なんだよ。テロリストは一瞬だけ存在する。破壊された後の世界がどう構築されようとされまいと、関係ないよ。世界の諸関係を一瞬だけ照らしだすのが、テロリストの仕事さ。そのかわり彼はその後の死をやすやすと引き受けるんだよ」
そんなの、無意味な死よ
死そのものは、どんな状況の死であっても、無意味だろう。つまらんものだと思うよ」
(225)

本当のことをいおう。倉重鉄太郎の提案によって同志を殴りながら、山を降りれば敵はいくらでもいるのに同志に何故こんなことをするのかわからなかったし、もっといえば自分が殴られる側にまわるのが恐かったんだ。心の中やこれまでの行動を微分していけば、もちろんぼくにも反革命的要素はいくらでもあるんだ。どうして他人を責められる。(382-3)

ぼくらが破壊したのは、たくさんの未来だよ(519)

「倉重鉄太郎よ、君の理論からは絶望の呻き声も聞こえないし、あんなにたくさん流れた血のにおいもしてこない。死においては、一人一人は名前を呼ばれなければならないとぼくは思うのだよ(524)

総括をし切った人間は誰もいなかったなあ。玉井潔、もちろん君もまったく同様だ。総括し切ったという具体的で確かな基準などあるはずもなかった。上杉和枝と私の判断が恣意的に流れていた」(528)

高次の理論に人間がついていけない。同志といってもこんなにも弱い連中なのかと悲しい認識をし、私は現実にみあった理論の修正が求められているなと薄々感じてはいた。しかし、駄目なのは人間のほうだから、人間のほうで理論に合わせようと努力するのは当然なのだ。それが論理の一貫性ということだ。(536)


@研究室
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by no828 | 2016-04-03 16:23 | 人+本=体 | Comments(0)
2016年 04月 02日

人民の群れを「理解不能」と判断して目を背けるのか、それとも——星野博美『愚か者、中国をゆく』

c0131823_16183470.jpg星野博美『愚か者、中国をゆく』光文社(光文社新書)、2008年。59(981)


 版元

 2015年に残してきた本 (あと16冊)


 古本屋で見つけた本。ただ、見つけてすぐに手に取ったわけではありません。率直に言って、背表紙のタイトルのとくに「愚か者」に忌避感を抱きました。著者が自らを卑下した著者=愚か者という設定だと捉えました。言葉遣いが安直との印象を受けたわけです。しかし、それでもこの著者の書くことは気になり、手に取り、少しのあいだ放置してから読みはじめ、“ああ、だからこのタイトルなのか”とわかる場面に出くわしました。そのあとはこのタイトル以外はありえないとさえ思えます。内容展開の時系列は崩れるものの、ページをめくってまずは目の行く「はじめに」にこのタイトルの意味を説明する件を挿入してもよかったかもしれません。

 1986〜87年、著者は香港へ留学し、アメリカ人のマイケルと一緒に中国を陸路で旅します。そして一見すると——中国で生活をしていない人から見ると——不合理極まりない鉄道切符の販売方法についても書かれています。わたしも大学4年のときに友人2人と一緒に中国を鉄道で巡りました。北京、大同、西安、成都、西昌、上海。座席が一緒になった現地の大学生にいろいろと助けてもらったことを懐かしく、また、ありがたく思い出します。わたしも切符を買うときにかなり並び、そして並ぶ膨大な数の人とその荷物を見ました。

 章の扉には『毛主席語録』からの引用があります。掴まれる感覚、引き込まれる感覚がありますが、“本書を読む”と“本書をまとめる”とのあいだにユン・チアン『ワイルド・スワン』を読んだため、なかなか素直に受け取ることもできません。

 留学記としても読めるので、その方面に関心のある方もぜひ。


 わくわくしながら地図を眺めているうち、だんだん落ちこんで途方に暮れる。どのページにも、丸をつけた町以外に何百という町があり、そこに何千、何万という人が暮らしているのに、それらのほとんどに私は行ったことがないし、人々に会ったこともない。(4)

 中国に関する報道や批評などを目にした時に外部の人間がイメージする中国という国と、人民の実生活には大きな隔たりがある、というのが、二〇年近く、なんとなく中国と関わり続けてきた私の実感だ。それらを「情報」と呼ぶなら、情報によって喚起されるイメージを鵜呑みにすると中国はどんどん見えなくなるぞ、という一種の警戒感のようなものは、たびたび中国を旅行していたこの時期に培ったと思っている。この、「人がいっていることは信じない、自分が見聞きした中国だけを信じる」という感覚こそ、大きくいえばわたしの中国観ということになる(もしそれが思いっきりブレているとしたら、ごめんなさいというしかない)。(12)


 旅の途中、著者とマイケルとの関係がぎくしゃくしたりもします。ふたりで旅をしているのに読書をするマイケルに憤る著者。マイケルには、“白人”であることが珍しがられ、頻繁に——うとうとしていても肩を叩かれて——話しかけられて疲れる、眠れないという——本人の言葉なら「動物園の動物」(176)——状態も続いていました。

 彼がぶ厚いペーパーバックを立てて表紙を見せる。ドストエフスキーの「Idiot」と書いてあった。私はそれを「愚か者」と頭の中で日本語に訳してしまい、聞き覚えのないタイトルだったので、つい「新作?」と聞き返してしまった。
「新作のわけないだろ? 何十年も前に死んでるんだから」
「それはわかってるけど、聞いたことのないタイトルだったから」
「彼の代表作の一つだよ」
 沈黙が流れる。〔略〕気まずい沈黙はどんどん長引いてゆく。これはまずい、と焦れば焦るほど頭の収拾がつかなくなり、何か短い言葉で会話をつなぐしかない、と思って、またついいってしまう。
「おもしろい?」
 彼はびっくりしたように顔を上げた。しまった、と思ったがあとの祭り。ドストエフスキーを夢中で読んでいる人間に、「新作?」と聞いたあとで「おもしろい?」と尋ねる、これはもうタイトルそのものの「愚か者」でしかなかった。
「これは、おもしろいとか、そういう類の作品じゃないからね」
 彼は精一杯の優しさをこめてそういった。
(177-8)

 私たちはホームに点在する木のベンチに腰かけた。そして私はいつの間にかぐうぐう眠ってしまった。香港を出てからわずか二週間あまりで、平気でベンチで眠れるようになるとは驚きだった。人間、疲れて思考が停止すると案外大胆になるものだ。大胆さが無謀を呼ぶのではない。思考停止が無謀さを呼ぶのだ。
 マイケルは相変わらず本を読んでいたみたいだったが。
(221)

 中国の子供は、いまもまだ、当たり前のように牛乳を飲めるわけではない。小力〔シャオリー〕も小芳〔シャオファン〕も、牛乳の味を知らない。そう思った途端、涙があふれてきた。
 異なる文化を背負った世界じゅうの地域に唯一平等なのは、現在という時間だ。どこの経済が送れどこが進んでいる、どこは平和でどこは戦争で国土が荒廃している、などの違いはあるけれど、現在が現在であることだけは共通している。しかし同じ時代を生きているのは事実なのだが、なんというか、属している時代が違うということを、この時私は初めて実感した。〔略〕
 自分にとってのいまの時代は、目の前にいる人にとってはどんな時代なのか。それを想像するところから、異文化を理解する一歩は始まるのだろう。
(250-1)

 吐魯番〔トルファン〕での観光は、結果的にはそれほど楽しいものにはならなかった。というのも、そこにあるべき文化財の数々が姿を消していたからだ。ベゼクリク干仏洞では、本来そこに文化財があるべきところに白黒写真が飾られ、こう書かれていた。
これはイギリスによって略奪されました
ドイツによって略奪されました
 そんな既述のオンパレード。敦煌の莫高窟も同じで、特に学術的価値の高い文化財の多くが姿を消していた。欧米列強の暴挙に腹を立てていたところ、「日本によって略奪されました」という文字が目に飛びこみ、奈落の底に突き落とされる。
 そうだよ、欧米列強が中国で行った略奪の数々を、日本が真似していないわけはないのだ。やれ探検隊だ、考古学者だ、宗教家だ、文化人類学者だ、地質学者だ、などといくらきれいごとをいったところで、持ち去ったことには変わりはない。
(256)

 しかし中国という、これまで閉じられていた大国が外に向けて扉を開いた時、バックパッカーとして真っ先にかけつけたのは、かつての侵略者である西欧列強、アンド日本の若者たちなのである
 いくら旅行者が、自分にはそんなつもりはない、といったところで、その事実に変わりはない。自由旅行と帝国主義は紙一重。バックパッカーはさしずめ、平和的な帝国主義者なのである。
 そんなことを考え始めたら、とてもじゃないが観光も楽しめなくなった。
(260-1)

なぜ人民はこれほど駅で長い時間を過ごすのか? なぜ人民は駅に集まるのか?」〔略〕「列車の出発時間の少し前に来ればいいものを、なぜ人民は好き好んでこんなに長時間を駅で過ごすのか?」〔略〕
 それが帰路で、漠然とだがわかり始めた。
 誤解なきよう強調しておきたいが、それは私に「人民の気持ちがわかった」ということでは断じてない。高度経済成長期の日本に生をうけ、生まれて初めて長距離列車に乗ったのが大阪万博へ向かう新幹線の指定席だった私に、広州駅や鄭州駅で眠らざるをえない人民の気持ちなど、絶対にわからない。それが「わかった」とでもいおうものなら、傲慢もはなはだしい。
 ただその意味を理解しようと、彼らの心情を想像することはできる。旅の間じゅうずっと想像し続けた。この、人民の群れを「理解不能」と判断して目を背けるのか、それとも理解しようと想像するかで、大袈裟かもしれないが、中国の見え方がまったく異なってくるような気がしたのだ
。〔略〕
 しかし人は努力をする動物である。人民は唯一自分に残された選択肢に対し、最大限の努力をする。その最後の選択肢こそ、私たちが放棄した時間と忍耐なのである。
 ある人は希望する切符が取れるまで何日間でも並ぶという「努力」をし、またある人は何日並んでも買うことができず、できる限り早くから並んで少しでもよい席を確保しようと「努力」する。各自の努力の結果が、「駅で無為に過ごしているように見える膨大な数の人々」なのではないか。
 いま目の前に疲れきって呆然としている人たちは、「それぞれの理由で自分なりの努力をしている人々」なのである。
(272-5)

「まったく、トンネルを通ればいいじゃないか」
 そしてたったいま自分の口をついて出たセリフに驚愕した。
 山の向こうの世界へ行きたい時、山を登って下りるのは当たり前のことだ。ところが自分はそれを無駄な時間と不愉快に感じ、「トンネルを掘れ」と要求しているのだった。とんでもなく傲慢な世界観だ。
 何時間もかけて山越えをしなければならない世界ではなく、山をいくつ越えたかにさえ気づかないトンネルの世界のほうが異常なのだ。そんな簡単なことにも、中国でバスに乗るまでは気づかなかった。
(298)

 中国では「混んでいること」こそが安心材料で、「すいていること」はハイリスクなのだ。(302)

 現在中国に流れる時間のスピードをさらに加速させているものの正体は、飢餓感と危機感だと私は思っている。あまりに平等な社会では、ほとんどのものは手に入らない。そういう状況では、人は特権を渇望するようになる。その特権に対する飢餓感が、長い時間をかけて体内で肥大化した状態で、中国の人々は資本主義の波に飲みこまれてしまったのである。その飢餓感を満たそうと人々が金に飛びついたとしても、その気持ちを私は簡単に否定する気にはなれない。
 特権が金を生み、金が特権を生む。そのことは、「どこかへ行くとか何かを買うといった程度のことについては特権がなくても別段不便を感じない社会」に生まれた時から暮らしている人間には、けっしてわかるものではない。もちろん、私にもわからない。ただ、その心情を必死に想像したいと思うだけである。
(329-30)

 私は現在のアメリカという国に対して大きな不満を持っているが、彼〔マイケル〕と出会えたことで、国と人は別ものであると自信を持っていうことができる。中国にしても然りだ。国と人を同一視するべからず。それこそ、「あの旅」が教えてくれたことだと思う。(334)

 本書はマイケルに捧げられています。

@研究室
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by no828 | 2016-04-02 16:29 | 人+本=体 | Comments(0)
2016年 04月 01日

いまの社会の要請に応えないことが逃げることだ——堀井憲一郎『若者殺しの時代』

c0131823_17321643.jpg堀井憲一郎『若者殺しの時代』講談社(講談社新書)、2006年。58(980)


 版元

 2015年に残してきた本 (あと17冊)


 社会・経済・世間などによって「若者」が括り出される1980年代について、そしてその後の1990年代と2000年代について、議論が展開されています。“若者よ、大人に巻き込まれすぎるな、逃げろ”というのが本書のメッセージです。結末に示される逃げるための具体的な方法をわたしはすぐには呑み込めませんが、メッセージの基幹は“自分の生き方をしなさい、自分と“社会”なるものとの距離をきちんと見極めなさい”ということなのだと受け止めました。

 まさにいま「若者」である学生が読んだらどういう感想を抱くか、という点に関心を持ちました。


 いったい、境目はどこにあったのか。
 それは「若者」という世代がきちんと限定され、みんなが明確に意識し、そこをターゲットにいろんなものが動きだしてから、ですね。
 すごく明確になったポイントは昭和の終わりごろにあるとおもう。
 1980年代だ。
(6)

「クリスマスに、若者に売れば、もうかる」とおとなたちが気づいたのは80年代に入ってからである。手編みのセーターを作らせている場合ではない、と気づいた連中がいたのだ。そういう連中に見つかって、若者は逃げられなくなってしまった。
 でもそういう連中を自分たちのまわりに引き込んだのは、若者だった。「革命を夢見る美しい世界」から「画期的に楽しそうな世界」に方向を変えて歩み出し、結局僕たちは「楽しそうな世界地獄」へと自分を追い込んでしまったのだ。
(42)

自分たちでまだ稼いでない連中に、次々とものを売りつけるシステムを作り上げ、すべての若い人をそのシステムに取り込み、おとなたちがその余剰で食べてるという社会は、どう考えてもまともな社会ではないのだ。まともではない社会は、どこかにしわ寄せがくる。それが21世紀の日本の若者だ。(46)

 クリスマスが恋人たちのものになったのは1983年からだ。
 そしてそれは同時に、若者から金をまきあげようと、日本の社会が動きだす時期でもある。「若者」というカテゴリーを社会が認め、そこに資本を投じ、その資本を回収するために「若者はこうするべきだ」という情報を流し、若い人の行動を誘導しはじめる時期なのである。
若い人たちにとって、大きな曲がり角が1983年にあった。女子が先に曲がった。それを追いかけて、僕たち男子も曲がっていった。いまおもうと、曲がるべきではなかった気もするが、当時はどうしようもなかったのだ。
(48)

 そもそもスカートめくりがエッチだったのだ。スカートめくりからセックスまではかなり距離がある。ただ性行為を幼児的言葉で表現してみただけなのだ。冗談で使っていたら、それが広まってしまったのである。あまりいい言葉を広めたという気がしない。セックスのことをエッチと言い換えてから、何かがおかしくなっているとおもう。性行為はやはりおとなの行為なのだから、幼児的表現を使うべきではなく、おとなの言葉を使うべきだったのだ。(72)

「女性に嫌われないための表現」がとても大事な時代になっていったのだ。〔略〕80年代全体を覆った新しい思想である。
女子に嫌われないように行動しよう
(72)

 女の子の好きなものが、世界を動かし始めたのだ。男の子はそれについていくしかない。80年代の12月の日本で、もっとも多く電飾を光らせていたのが東京ディズニーランドで、女の子はみんなそこへ行きたがったのだ。それで、やらせてくれるのなら、男の子はどこまでもついていく。1968年には学生運動をしているほうがやらせてくれそうだったから革命的理論を口にしていた。1987年にはロマンチックな世界だとやらせてくれそうだから、ディズニーランドへ行ったまでだ。どちらも目的は同じである。通る道がちがうだけだ。
 80年代を通して女の子はお姫さまになっていく。
(82)

90年代は女の性商品がオープンになり、若い男は性に対して二極化してゆく。二極化というのは、「『ただでできる男』と『ただでできない男』の差が、とても大きく広がっていく」ってことである。(83)

 壁一面にビデオテープが並んでいたのだ。〔略〕しかも部屋の中にはおたく系のマンガ雑誌、ロリコン雑誌、エロ雑誌も積み重ねられていた。警察の捜索以前に、マスコミが家族の了解を得て、映し出したのだ。テレビクルーが、わかりやすい映像にするため、ロリコン雑誌を手前に積み重ね直した、と言われている。
 日本史上、かつてない犯罪に対して、マスコミは「異常な収集者がおこなった異様な犯罪」とラベルを貼ったのである。そのまま「おたく系ビデオとおたく系漫画を収集して、部屋にこもってる男は、とても危ない」と話は飛躍していく。
(121)

 単位を取る。
 僕たちはそう言っていた。1979年に30単位取ったときも、1980年に16単位しか取れなかったときも、僕はそう言っていた。
 最近の学生は「取る」とは言わない。「来る」と言う。
 学生バイトが僕に向かって言ったときに気づいた。
「ホリイさん、よかったです。フル単、来ました」〔略〕
 僕が気づいたのは2000年の春だ。
 いつのまにか「単位」は「来る」ものになっていたのだ。いつからそうなったのか。歴代のアルバイトにさかのぼって、聞いてみた。
 1997年からだった。〔略〕
 世界の把握がバーチャルである。現実感が薄い。自分で出席しレポートを書いて単位を得たのに、与えられたもののようにとらえてる。
 でも当事者にすると「与えられた」と考えるほうが楽なのだ。獲得したとおもうと面倒が多い。世界は自分のおもいで動いてくれない。だから自分のまわりの世界を、ちょっと非現実的にとらえておいたほうが、自分を守りやすい。バーチャルが楽なのだ。
 だから努力してがんばっても、単位は「来る」のである。
(177-9)

 カラダを使って、あとは勘と度胸で乗り切ってくれ。
 いまの若者は、とりあえず大きなタームの尻っぺたにいる、ということを感じていればいい。
 すきあらば、逃げろ。一緒に沈むな。
 うまく、逃げてくれ。
(194)

 外へ逃げると捕まるなら、だったらおもいきって逆に逃げるってのはどうだろう。
 内側へ逃げるのだ。
 それが“日本古来の文化”を身につける、ということなんだけど。
〔略〕
 文化を徹底してカラダで身につけること。それが、逃げるひとつの道である。
 いまの社会の要請に応えないことが逃げることだ。逃げるったって、空間的にはどこに逃げても同じである。気持ちとして、不思議な社会の歪んだ要請には応えなくていいということだ。
(196-7)


@研究室
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by no828 | 2016-04-01 17:46 | 人+本=体 | Comments(0)