思索の森と空の群青

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2016年 06月 07日

過去は美化されやすい。現在が悪ければなおさら——寺尾紗穂『南洋と私』

c0131823_22423189.jpg寺尾紗穂『南洋と私』リトルモア、2015年。2(999)


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 ノンフィクション。本書の問題意識はきわめて明瞭です。「あとがき」にこうあります。「繰り返しになるが、この本を書こうと思った原点は「南洋は親日的」という言説に覚えた違和感にある」(261)。10年にわたって、サイパン島、さらに八丈や沖縄にも足を運んで証言を集めつづけたそうです。

 本の作り(装丁)も素敵です。脚注も大量にあってとても勉強になるのですが、“本文を読む”という観点からはやや読みにくいところがあります。脚注はページ末ではなく本文の最後に掲載したほうが読みやすかったかもしれません。

 最初の引用文では、日本がサイパン島で行なった教育について述べられています。島民の主体的な読み替えを強調することで、だからどのような教育をしてもよいのだとの主張を間接的に支えることにもなるのではないかと思いました。この文脈に限らず、受け手の主体性をどう捉えればよいか、という論点はわたしの課題でもあります。


 日本は、言ってしまえば島民を教化啓蒙すべき未開の人間として、公学校を設置、日本人学校とははっきりと分けて島民教育をした。しかし、教育を受けた側は、日本の教えを全く新しい規範として捉えたというよりは、自分たちの民族の教えの中にも見られる、その民族にふさわしい規範にも通ずるものとして日本の教育を捉えていたと言えるだろう。日本側の教育の背景には「怠惰、役に立たない」など一方的な島民観があり、それを日本式の道徳教育によって矯正しようとしていたのに対して、教育を受けた島民側はそれをより普遍的な次元へと引っ張り出し、自らの民族らしさにもひきつけて、理解していたわけだ。(112)

*82……八丈島島民にとって高校誘致は重要な問題だった。都立園芸高等学校八丈島分校の設置は、校舎、教員住宅、教材などを地元で負担する、という都側の示した条件のもと実現しているし、明治大学に高校設置を打診したのも島側からである。『八丈島誌』の記載からは、園芸高校のみならず、明治高校の学校経費も地元が負担していたことが窺え、島側の立場の弱さを感じる。東京都が園芸高校設置についても、島側にきつい条件を出しているのは、なんだか島嶼部の教育がおざなりにされているのを目の当たりにする思いだ。島には義務教育、中学校まで設置すれば十分という感覚が透けて見える(173)

 学校を作り、「土人」にも教育を施した。親日的と言われる「旧南洋群島」の人々の多くが日本統治を評価するのもこの点である。しかし、その親日的、という言葉に私はなんとなくひっかかるのだった。この言葉に言及する日本人の中には、あの戦争を肯定したり、日本の統治がどれだけ現地に恩恵を与えたかということを強調する人が少なからずいた。また、そんなことは意識せずに、自明のことのように、ブログに書く若いダイバーもいた。支配をした割に日本人が嫌な思いをせず過ごせる場所、といった感覚で書いている観光客もいた。そのどれも私にとってはひっかかった。南洋群島は親日的。それは本当だろうか。南洋群島は親日的。そう日本人が口にする時にすっぽり抜け落ちるものがあると思った。かつて「土人」であった人の言葉、あるいは言葉にできずに心に積もった澱のようなもの。(23-4)

「沖縄より福島の東北弁がおかしい感じだった。移民は百姓したが、ナスだって木みたいに大きくなってしまう」
 沖縄より福島の東北弁がおかしい、私はこの意味がよく分からずにいた。後日南洋に渡った沖縄人の回想録を読んでみると、南洋では標準語を使っていたと書かれていた。はっとした。小山さんがテニアンで沖縄人に出会った時、沖縄で方言札が使われてすでに四十年近くが経っていたのだ。福島やその他日本各地からの移民のほうがよほど方言だからで分かりにくかった、沖縄人は標準語を話していたというのはいやがうえにも、それを沖縄に強いた帝国と、否定された沖縄方言のことが思われて苦しい気分になる。いや、すでに身についた言語は便利な道具でしかないかもしれない。〔略〕そこに余計な感傷はいらないのかもしれない。ただ、羞恥心と一緒に母語をのどの奥におしこめねばならない、そんなやりかたで沖縄人の標準語が美しくなっていったことは、余りにグロテスクである。ただ、かなしい。
(34)

過去は美化されやすい。現在が悪ければなおさら。日本人は礼儀正しくて、日本時代は生活もしやすく、その結果、南洋群島は親日的。もちろんその通りかもしれない。けれど、もしも、と思ってしまう。もしもサイパンが日本の敗戦後そのまま独立してチャモロとカロリアンの国になってアメリカ統治を経験しなかったら、フランシスコさんはこれほどまでに日本の統治時代に未練を持っただろうか。(59)

「隊長はお前たち島民は怖がるな、アメリカは怖くない。アメリカが勝つ、と言った。それから日本の兵隊は、どうしても死ぬ、といってみんな死んだ」
 アメリカが勝つ、当時そんなことを公言すれば確かにスパイ扱いされただろう。しかしその隊長は分かっていた。アメリカが「怖くない」ことを知っていた。恐らく、「スパイ」の隊長は自分たちが降伏してもアメリカは「怖くない」ことを知っていた。それでも部下と共に自害した。島民には怖がるなと言って死んだ。すごいことだ。まともなのかまともでないのか分からない。
(62-3)

 研成たちのような子どもが六人いた。みんな家族からはぐれた子どもなのだろうか。これからマタンシャの米軍基地に斬り込み攻撃に行く。武器は手榴弾だけ。手榴弾の扱い方などを教え、歩き出した。百メートルぐらい歩いただろうか、若い日本兵将校・少尉に出会った。襟章ですぐ分かった。
「貴様等何処へ行く」
 難民を集めていた兵隊と問答が起こった。
戦争するのは兵隊だ。住民は兵隊じゃない。まして子どもは大事な国の宝だ、住民は戻れ、家族の許へ戻れ」〔略〕
 上運天さんを助けた日本兵は他にもいた。叔父三良が負傷した日本兵の手榴弾自決のとばっちりを受けて死んだ時、上運天さんは間一髪で近くの日本兵に突き飛ばされて一命を取り留めた。
此処は危険だ、砲弾も飛んでくる。負傷した兵隊が他にもいる、彼等は何時自決するかも分からん。君たちは子どもだ、兵隊じゃない、逃げうる限りは逃げるんだ。決して命を粗末にしてはならん
(224-6)

甚大な被害を島にもたらしたサイパン戦は、地元の人間が始めたものではないのだ。降りかかってきた悲運としか言いようがないが、悲運と片付けるにはあまりにむごい仕打ちであり、無駄な犠牲であっただろう。(122)

 日本では貧富の差が開いても仏教がその「調和者」となっていない、新しい時代に即した仏教の形が必要だ、そう考えた海旭〔かいぎょく。渡辺海旭。青柳貫孝に大きな影響を与えたとされる人物〕はそれを「新仏教」と呼んで、仏教界に社会事業や慈善事業への関わりを呼びかけたのだ。私は海旭の存在を知って心の昂りを抑えきれなかった。正直なところ現在の日本の寺には何も期待できないのではないか、と思っていた。だからこれだけ聡明な僧侶が大正時代、社会で活躍し社会の変革に携わっていた、ということがわけもなく嬉しかった。そして海旭のそうした特質が、ドイツ留学によってもたらされたものである、という点がとても面白いと思った。〔略〕海旭の場合ドイツで比較宗教学を学んで帰国したわけだが、その副産物として大正日本に社会主義的な社会改良への発想がもたらされ、「社会事業の先駆者」といわれる僧侶が誕生したのだ。(137-8)

「戦争の時、(島民に)サイパンの家出てけって、そんなことまでやったんだ、日本人は。〔略〕アメリカと日本が戦争して家壊したりしてわれわれを人形みたいに弄んだ。辛かったよ、涙が出るよ。本当に日本によく見てもらったけど、ほかの人々は可哀想だよ。勝手に日本とアメリカが入ってきてね。壊しておいて、知らないよ。それは日本の罪だ、それはアメリカの罪だ。犠牲になったのはわれわれ。辛いのよ(158)

「先生は厳しかった。俺も静かなほうだったが、二回くらい殴られたな。仕方ないな、三等国民だからな。とっても辛いことだよ。国籍がないのも辛いこと。余計なことだけど、もしあの時日本人がもっと開けていたら、将来のことを考えてやれば、南洋は日本のものになっていただろう。〔略〕われわれを日本人にしておけば、今頃南洋群島は日本の国だったろう。まあばかげた考えかもしれないが。日本はけちな国。特に日本人は白人は尊敬するが、そうでないのは尊敬しない。これは日本の失敗」(160)

 熱心なカトリックであるチャモロたちには、自らの心より恃む神という存在があった。絶対的な「神」を持たない日本人に、絶望と洗脳とを超えた選択をすることは難しかったに違いない。(229)
 サイパンで紡がれた人々の交流や、戦前や戦争にまつわる消えていく記憶を書き残したいと思っていた私にとって、青柳貫孝の人生は非常に面白いものだった。彼はもちろん歴史に名を残した、と言えるほどの有名人ではない。彼の師、渡辺海旭を知る人でもその弟子の貫孝の名を知る人は少ない。しかし、彼は内地人の島民に対する差別に憤り、自らは民族間の交流というものを常に考え、軽視されていたサトウキビ農民の子女のための教育を訴え、戦後は八丈島の困窮の中で雇用を生み出すべく引揚者と汗を流した。「王道楽土」「五族協和」という理想のもと建てられた満州国を含む「大東亜共栄圏」の一部だったサイパンに、このような生き方をした僧侶がいたことを忘れるべきではないと思う。
 貫孝の人生は「日本人は偉かった、南洋統治は成功だった」と喧伝する人々にとって美化される可能性も含んでいる。しかし、本書で読んでいただければ、日本という国、南洋庁という役所に不審を感じていたのは、人一倍民族の協和・差別の解消に心をくだき、自らの南洋寺を誰にでも開かれた楽土のような場所にしていた貫孝だったと分かるだろう。そもそも、真の交流・協和とは国家が提唱して普及するものではなく、人と人、一対一の小さな繫がりの中に灯るものだ。貫孝はそのことをよく知っていた。仏教者として、人間と人間の平等を信じた貫孝の怒りは、島民を見下す日本人や日本の南洋統治のやり方にも向けられた。貫孝が民族の共存を考えた日本人の一人であったことは確かだが、それは日本人に都合の良い、中途半端なものではなかった。当時の日本人や南洋庁に是正を求めた徹底した平等意識こそ稀有なもののように思う。戦中は多くの仏教者が、時勢になびいた。日本仏教の植民地における布教の最前線に貫孝のような人物がいたことに、私はいくらかほっとするのである。
(259-60)

死ぬ時は死ぬし、助かる時は助かる。それだけだ。重い怪我をして障害が残っても、心に傷を抱えたとしても、そこから歩き出すしかない。生きるのなら生きたいのなら、それしかない。以前はこういうものの見方というのは、本当の愛情の対象を持たないから成り立つもので、子どもでもできれば、死ぬことが怖くなるのだろうと思っていた。さて、二児の母となってみたが、あんまり考えは変わらなかった。(104)


@研究室
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by no828 | 2016-06-07 22:59 | 人+本=体 | Comments(0)
2016年 06月 04日

交通情報という、人の不幸を扱っているのに——室井昌也『交通情報の女たち』

c0131823_15504167.jpg室井昌也『交通情報の女たち』論創社、2014年。1(998)


 版元


 2016年の1冊目。ブログ開設後通算998冊目。

 主題設定と言いますか、着眼点がおもしろいとまずは思いました。本書は主に、交通情報を担う方へのインタビューから構成されています。お声はよく聞く方々ばかりでした。

 ラジオは——Tくばにいた頃はJ波やT○Sなどを——よく聞いていて、交通情報もよく耳にしていたので、気になって購入しました。K府に引っ越す際に、CDとMDとカセットテープとラジオの詰まった機種を廃棄しました。K府では、radik○が——プレミアムに入らないことには——まったく使えないことが判明し、p○dcastに頼っています。p○dcastでは音楽はもちろん交通情報も流れません。というわけで、先日USBメモリとSDカードによる録音機能付きのCD+ワイドFM対応ラジオを発注しました。K東のAM・FMの電波をどの程度受信できるのかわかりませんが、入ったらJ波やT○Sを流したいところです。「菊地成孔の粋な夜電波」——この番組では「交通情報の女たち」を招いたことがあります——などp○dcast配信されていない番組は録音したいです。

 と、読み終わってすぐの頃に書いていました。K東の電波はまったくと言ってよいほど入りません。盆地だからでしょうか。U野原やO月のほうは入るのかもしれません。残念。

 radik○プレミアムに加入するかどうか……。


阿南〔京子〕 やっぱり、基本を守ってその上で人の心に届くような方法ということです。その基本をやっているうちに、それがどこかで自分の個性に化けるときが来るのではないかということです。〔略〕〔/〕自分が毎回毎回向き合っていれば、できてくるものだと思うのです。基本をちゃんとやっていれば。でも、途中で変な癖が出たり、余計なことを思ったりすると駄目かも分からないですけど。(71)

阿南 交通情報という、人の不幸を扱っているのに「ほっとする」と言ってくださるのは、いいのか悪いのか、よく分からないのですけど。
——「交通情報は不幸を扱っている」というのは、最初から持たれた意識ですか。
阿南 そうですね。やっぱり事故、故障車、火災に、事件に、地震に、そういうものですから。だから、あまり人が喜ぶものではないです。最初からニュースだと思っていました。ニュースというか、報道だと思っていました。だから、私の場合は、ニュース性があって、そして、時にはお祭りや花火のような生活情報的なものも中に入れて、自分が行きたいところの情報だけではなくて、今、主体がどうなっているのかという俯瞰的な情報も入れなきゃと思っているのです。
(73)


@研究室
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by no828 | 2016-06-04 16:00 | 人+本=体 | Comments(0)
2016年 06月 03日

早々と登場した6月を追いかける

 共著第2弾(→ 版元)が4月末に刊行されました。5月初旬にはその献本作業など。出版社に依頼して直送していただいたものも含めると、わたしの名前での/を含めた献本数は約30冊となりました。
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 5月中旬、上記共著を発行してくださった出版社の方にご挨拶に伺ったあと、T京G芸大学で研究会。別の企てがはじまります。散歩できる広さがあるキャンパスはやはりよいものです。
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 単著を出すまでは編著はやらない、という格律を自分のなかに何となく掲げていましたが、単著を待つことなく共編著が進行中です。今年度後期がはじまる前に刊行へとこぎ着けたいところですが、見通しがやや甘いかもしれないと感じてもいます。
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 そうこうしているうちに6月突入。毎年6月がもっとも余裕のない1ヵ月ですが、今年は例年以上に隙間のない月です。ここ10年ほど毎年参加・発表してきた某学会大会には校務——某更新講習の講師——のために行けず、そのために昨年からメンバーに入れていただいていたラウンドテーブルにも加われません。大変残念です。その代わりというわけではありませんが、別の学会大会に参加し、少し発表することになりました。学内では、某授業評価の再設計や某教育実習の巡回指導など、学内の委員会の仕事がどんどんと押し寄せてきています。
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 振り回されずに自律的に研究・教育を行なう、そのためにどうするか、ということを考えながら進めていきたいです。

@研究室
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by no828 | 2016-06-03 21:52 | 日日 | Comments(2)