思索の森と空の群青

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2016年 07月 31日

好きになってしまう気持ちをとおして「わかってしまう」——森村泰昌『踏みはずす美術史』

c0131823_16324963.jpg森村泰昌『踏みはずす美術史——私がモナ・リザになったわけ』講談社(講談社現代新書)、1998年。4(1001)


 版元


 “考える”美術からの脱却が説かれています。たとえば絵画を見るときに美術史的知識が必要だ、と言われたり思ったりするわけですが、そういう“考える”はひとまずは要らないと主張されています。この絵画はどのような人がどのようなところでどのような時代にどのようなことを考えながら描いたのか、といった事柄はまずはどけておく。どけておいて何をするかと言えば、“感じる”です。自分の身体にすでにある感覚を研ぎ澄ませ、というのがこの本の主張だと思います。


 さて私は「美術の極意・その壱」として、まず「見る」の裏に隠されていた言葉である「考える」を放棄したい。〔略〕
考えるな!
(18)

 感覚の互換性(19)

食べ物が美味しいと思ったとき、そのひとはその食べ物を生んだ文化が確実に好きになっている。なにが価値あるのか、なんでそれが存在するか、こういう問いにたいして、「考える」のではなく好きになってしまう気持ちをとおして「わかってしまう」。答えは体がちゃんと知っている。逆に言えば、食べ物がまずいと感じる状態のままでは、学者がいくら「考える」ことをしても、異文化の理解はありえないでしょう。〔/〕そこで「美術の極意・その弐」は次のようになる。
「見るな、食べろ!」
(22)

「美術の極意・その参」を、
「美術は見るものではなく、着るものである」
としてみます。
(23)

「美術とは着るものである」のですから、ともかく似あうとか似あわないとかに憂き身をやつしていればいい。肌にあうかあわないか、着心地はどうかと、触覚的感覚を全開にしておけば、「考える」ことを迂回しても美術とじゅうぶんつきあっていけるのです
 私は、世界各地で作られてきた無数の作者名もわからない染物や織物や編物と、マチスやピカソなどの巨匠と呼ばれる画家たちの仕事は、同列に並べてとらえるべきだと思います。あるいは、美術館で絵を見る気持ちと、デパートのバーゲン会場で走りまわる気持ちとは、なんら変わるところがないとも思います。
(26)

 社会がなりたつためにそのことが必要だとはわかっていても、なんだか割りきれなくて、決まったいつもの役割をふりあてられる自分から自由な別人になってみたいと、ときおりは誰でも思うのではないでしょうか。そしてその気分は、社会の約束ごとが信用できない状況になればなるほど大きくなっていく。そういう意味では、現代日本のコスプレ現象は、現代人の自然な感情の発露であり、私もまた、その気分のなかで作品作りをしているのだと思います(30)

 余談になりますが、ヴァザーリの文章〔ジョルジョ・ヴァザーリ『芸術家列伝』初版1550年〕では「レオナルド」となっています。レオナルド・ダ・ヴィンチのことを、略してよく「ダ・ヴィンチ」と呼ぶ人がある。これはやめたほうがいいと、むかし大学の美術史の先生に教わりました。レオナルド・ダ・ヴィンチを日本語に訳すと、「ヴィンチ村のレオナルドさん」という意味なんだそうです。ですから「ダ・ヴィンチ」では、単に「ヴィンチ村の……」と言ってるにすぎない。「レオナルド・ダ・ヴィンチ」とは、姓と名でできているのではなく、たとえて言うなら「タジンコ村・の・タゴサクさん」というようなものなんだそうです。(38)

 もし先生が適切な指導をしてくれ、私がデッサン上手になっていたとしたら、それなりに上手い画家となっていたかもしれないけれど、上手なだけに魅力に欠けたたんなるテクニシャンから脱却することができなかったかもしれない。幸か不幸か、私はよくない受験の先生(自分にとってという意味ですが)に出会ってしまい、すっかりヘタな絵しか描けなくなってしまった。しかしそのおかげで、私が言うところの「上手な絵を描く方法」の発見があり、あまりこれまでにみんながお目にかかったことのない作品を創造することのできる芸術家になれたのでした。
 悪い教育が芸術的創造につながっていったというのは皮肉な結果ですが、善き教育と芸術的創造はかならずしも正比例してこないもののようです。これが芸術の不思議でもあり、またおもしろいところでもあるといえるのでしょう。
(138)

フランス革命もロシア革命も、ほかのどんな革命も、根っこのところではおなじです。理論武装の内容が異なっていても、やっていることは、シワよせになっている自分たちの境遇に、集団の力学によってアイロンをかけなおすことです。
 すると今度は、以前にシワになっていなかったところにまたべつのシワができてしまう。革命軍は現に自分たちがやってきた経験をふりかえり、この新たなシワの逆襲や反乱の可能性を怖れ、放っておくこともアイロンでなんとか修正することもせず、切り裂いて、むりやり平坦に地ならししてしまうことすらあります。切り裂いたら球面だって平面になる。でもこの強引な手当てはたぶん永遠の傷口として残り、地球の命取りにならないともかぎらない。かんたんに言ってしまって恐縮ですが、こういうことの繰り返しによって、人類の歴史の主要な道筋は作られてきました。
(159-60)

 私には、いっぽうで個性、オリジナリティを強調する教育がなされ、そのいっぽうで、宗教や習慣の相違や、異なる政治思想を持つ国同士、人種問題などにたいして、ヒューマニズムをかかげた解決を望む姿勢がとられるというのは、矛盾しているのではないかと思えます。また、個性ある人間を作りだそうと提案しつつ、家族の崩壊を嘆くことにも、疑問を感じます。「違っていること」ではなく「似ていること」こそ、強調すべきなのではないでしょうか(232)

「日本のここが外国とは違うんだ」というようなお国自慢のアピールではなく、地球規模の共生の連鎖反応に一役買うことのできる日本、日本文化とはなになのかを考えてみるとき、美術の見方や美術史のありかたも、いままでとはだいぶようすが変わってくるはずです。(234)


@研究室
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by no828 | 2016-07-31 16:41 | 人+本=体 | Comments(0)
2016年 07月 30日

「わからなさ」へのこらえ性をなくしているのではないか——森毅『学校ファシズムを蹴っとばせ』

c0131823_13345043.jpg森毅『学校ファシズムを蹴っとばせ』講談社(講談社文庫)、1989年。3(1000)


 版元

 単行本は1981年に太郎次郎社


 数学者・森毅(もり・つよし、1928-2010)が処方する学校教育の解毒剤。教育エッセイ。

 共感するところが多くありました。実際にわたし自身が心がけていること、行なっていることがありました。大学教員になったから線を引いた文章もあります。


 軍隊は、外部の敵を必要とする。〔略〕敵をつくり、敵をたおすのが、軍隊である。〔略〕〔/〕しかし、サロンにあっては、敵とは、たおしてはならない、ゲームの相手である(20)

 先日の全国「ひと塾」のナイターで、若者たちにもっとも大きな共感を呼んだ戦争についての発言は、人のいい父が中国での戦争体験になにか空白をもっていて、酒のはずみでふともらしたことから、それがどうやら住民虐殺の体験だったらしい、ということを知ったという、若い女性のショックな話だった。人のいい父だって、状況によって「人ごろし」でありうる、そして、自分たちも「人ごろしの子ども」でありうる、いや、そればかりか、自分たち自身すらも、「人ごろし」となる可能性がある。そして、自分の歴史のなかに空白をもたねばならぬみじめさ、それは「戦争の悲惨」の美談よりも、はるかに大きいな共感を呼んだ(29)

 学校についても、教師も生徒も、目的へ向けての単純化が進行しているように思う。養護学校義務化にともなう障害児切りすてにしても、共通一次テストのコンピューター化にしても、そうした流れをぼくは感じる。「差別・選別ゆるすまじ」というのは、ぼくの柄でないのだが、ヤヤコシサを切りすてる空気がその背景にあることが、ぼくにはとても気にかかっている(32)

ともかく特権にせよ、ユトリを持てる人間は、特権に居直ってでも、ユトリを発揮したほうがいい、というのがぼくの説である。もちろん、特権は糾弾されて当然だし、そのユトリに後ろめたさを持つべきでもある。ぼくなど、大学の教師をしていて、勝手な発言をしていると、小学校の教師と違って大学の教師はええですなあと、イヤミを言われることがある。現在の社会で、大学の教師が小学校の教師より、ユトリを持ちやすい現実がある。小学校教師だって、勝手なことを言ったほうがよいとは思うが、そうなりにくい現実は否定できない。
 この点で、大学教師は糾弾されてよいし、少なくとも後ろめたさを持つべきだ。しかし、それでもなお、特権に居直ってでも、勝手な発言をしながら、ユトリを説きつづけたい。なぜなら、すべての人間はユトリを持つべきだし、少しでもユトリの持てる人間が遠慮していては、人類全体の総ユトリ量が減少するからである。それに、少しでも特権を持っている人間ができるだけズッコケていたほうが、人間社会は全体としてユトリが持てる
(40-1)

だいたい、おぼえたものは忘れるのが当然だし、どんどん新しいことをおぼえると、それと混ざりあってまちがうのも当然である。むしろ、忘れたときにどうするか、まちがうのをどう防ぐかのほうが、ずっと重要である(42)

人間は、たいていは、目のまえの目的に目をとられているものだ。その目的から目をそらしてみると、見えてくるものがある。自分の目のまえの目的から目をそらすこと、それがユトリというものだろう(46-7)

 ところが、最近ときどき感ずるのは、若者たちがどうも、「わからなさ」へのこらえ性をなくしているのではないか、ということである。人間というものは、「ようわからん」状態というのが、不安定でたよりないものであっても、そうした状態を持続しているうちに、じんわりと得られるものがあるようにできている(56)

 ファシズムとは、心理的には自分をだますことへの圧力が集団をさえ巻きこんでしまうことだ。それゆえにこそ「わからない」不安定に耐える力が、いま必要だ(58)

「これだけ努力したのだから認めてください」といった気分を、ぼくは好まない。せいいっぱいやったのです、失敗したからといって努力だけでも認めてくださいと、はじめから失敗したときの言いわけがきまっているみたいだ。それでぼくは、学生にたいして、そうしたことは無視することにしている。いまどうなのか、これからどうしようとしてるのか、それだけを聞きたい(62)

 このごろ、中学生あたりが自殺を考えることを、たいそうに言う人があるが、ぼくはごく普通のことと思う。べつに異常と考える必要はない。「生命の尊さ」などと言って、そうしたことを考えるのを抑圧しないほうがよい、と思う。むしろ、死や孤独を考えることをタブーにして、抑圧しているほうが危険ではないだろうか。自殺した中学生などのルポルタージュでは、自殺決行のまえごろには、ひどく孤独を求める傾向がある。人間には孤独もまた必要なもので、それが抑圧されているものだから、ある時期に孤独への欲求が噴出し、ついには最高の孤独としての死の決行にいたるのではないか。(103)

試験のために自分が勉強するのではなくて、自分が勉強するために試験がある、ぐらいに考えたほうがよい。もっと言えば、学校のために自分が勉強するのではなくて、自分が勉強するために学校がある、と考えたい。(119)

 この考え方だと試験や学校は前提にされます。それらの意味は別途考えられなければならないでしょう。

 おそらく、もっとも理想的な授業は、教室では少しモヤモヤとしながらも、そのモヤモヤをシックリさせたい誘惑を与え、ゆっくり考えてみたら自分でわかるようにまでする、そんな授業ではないだろうか。「わかる授業」よりよいのは、「わかりたくなる授業」、そして、「あと少しでわかるようになる授業」だろう。もっとも、そんなに紙一重で止めるようにうまくできん、と中学校の先生はぼやいていたが、それはそのとおりで、じつはぼくはうまくやる自信はない。ただ、「わかってしまう授業」よりは、「わかりかける授業」のほうがよい、と望んでいるだけだ。(120)

 本を読んでえられるものは、知識の獲得ではない〔※〕。むしろ知識を蓄えておくという用途は本のほうにあるのであって、必要な知識は自分の頭に移さなくたって、本を見れば出てくる。それよりだいじなことは、本を読むことによって、自分の心になにかが生まれることのほうである。本は著者のためにあるのではなく、読者のためにあるのだから、読者のほうで勝手に、自分の都合に合わせて利用すればよいのである。(130)
 〔※〕同語反復。 「本を読んでえられるものは、知識ではない」。

 もしもぼくが受験校の教師で、受験教育をするならば、まず、やろうと思っていることがある。クラス全員に答案を書かせて、それを全部プリントして全員にくばり、それについての批判と添削をさせることだ。どういうときに失敗するかとか、この答案とあの答案とでは、どこに差があるかとか、そうしたことを五十枚程度以上の現物を材料に学ぶというのは、まさに受験勉強だと思う。それほどでなくても、受験生同士で解答を見せあって、おたがいに相手の答案を批判しあう、なんてのは良質の受験勉強になる。人間は、他人と干渉しあい、反映しあうことで成長するのだから、他人というものは、なにより自分の成長に利用するためにある。(140)

 ほんとうに自分を大事にし、自分を成長させようと思っているものは、結果的には、他人を大事にすることになってしまうものだ、とぼくは信じている。だって、自分のために他人はあり、その他人を大事にしなければ自分のソンだもの。(142)

 おそらく、入試採点として可能なことはすべて試みたうえで、ぼくは自信をもって、「自分の採点には自信がない」と告白する。世に客観厳正な採点があるなどと信じているやからは、入試採点についての努力をしたことのない人間に相違ない。
 ぼくとしては、こうした人間のわざとしての、不十分さを備えた人間的な採点のほうが、たとえば、共通一次のようなコンピューター採点よりは、たとえそれが人間的な誤りをふくんでいてさえ、ずっとよいと思っている。少なくとも、採点者は受験生の痛みを知り、点のつけ方に悩む機会をもっている。コンピューター採点はそれを消去する。それはいわば、ボタン戦争の思想であって、戦争のボタンを押したのは、戦死者の痛みを知ることができない。
(169)

 じつは、「フマジメのすすめ」をしてはいるが、見方を変えれば、自分のあり方につねに批判的な目をもつことを要求していることでもある。マジメに没入してしまうなんて、怠惰ではないか。自分のあり方を見なおし、自分のあり方を選んでいくことは、マジメ一筋よりもたいへんなことだ。しかし、そちらのほうが楽しい。(186)


@研究室
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by no828 | 2016-07-30 13:52 | 人+本=体 | Comments(0)
2016年 07月 29日

6月は早々と過ぎ去りそこにはもう8月の気配

 6月の初旬と中旬とが切り替わりそうなとき、学会大会での発表のためにB琶湖畔へ行ってきました。その分野の大御所の先生方がずらりと並ぶなかで発表し、その後に近距離で、膝を突き合わせるようにして議論することができました。個人的にお話をしてくださった先生もいらっしゃいました。とても愉しかった、というのが率直な感想です。ご参加くださった先生方、K口さん、I上さんに感謝します。
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 6月下旬に差し掛かる日のY浜市S木町。言葉が胸に沁みました。わたしもまた言葉をこの奥底から掴み出さなければなりません。
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 別の日のJ保町。インドネシア映画を観ました。カンボジア映画の公開が今日までであったことをこの写真で確認しました。結局観に行けず。非常に残念。一昨年K村先生にカンボジアへ連れていっていただいたこともあり、彼の地のありようへの関心もさらに深まり、観に行こうと漠然と思っていました。そうした緩慢な思いの抱き方でも院生時代や非常勤講師時代には実行できていましたが、いまはもう無理なのだとわかりました。予定を具体的に立てないと、そして少し無理をしないと、もしかしたらもう何も叶わないのかもしれません。
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 同じ日のJ保町。すでにないこの空をいま間接的に見ながら時間の外在的で平滑な流れに抗したいと思っています。
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@研究室
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by no828 | 2016-07-29 21:22 | 日日 | Comments(0)