思索の森と空の群青

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2016年 11月 30日

わかるより、わからない方がまし——森博嗣『人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか』

 森博嗣『人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか』新潮社(新潮新書)、2013年。12(1009)


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 エッセイ。タイトルを一見して“何だそれ”、“手抜きか”と思いました。しかし、本書の主な内容が“抽象的に考えるとはどういうことか”のため、こんな抽象的なタイトルでよいのかもしれません。以前、「多様な視点から」がサブタイトルの某フォーラムに参加したことがあったことを思い出しました。今回と同様の感想を持ちました——“何も言っていないに等しいではないか”、と。しかし、少なくとも本書は何かを確実に言っています。

抽象的に考えるというのは、簡単にいえば、ものごとの本質を摑むことで、見かけのものに惑わされることなく、大事なことはどこにあるのかを探すような思考になる。(8)

 僕には一つアイデアがある。お互いの国で、その島が相手の国の領土だと主張する学者(専門家)を探す。少なくとも、その学者は、自国の国益を棚上げしているだけでも、普通の人より客観的だろう。〔略〕そういう学者を出し合って、会議をさせるのである。それぞれが、「この島は、貴方の国の領土です」という議論を戦わせることになる。それを公開して、両方の国のみんなで見ると良いだろう。(10-1)

 現実に見えるものの多くは、誰かによって見せられているものであって、その人にとって都合の良いように加工されているため、そのまま受け取ってしまうと、結果として自分の考えに合わない方へ流され、渦の中へ吸い込まれていくことになる。別の言葉でいえば、知らず知らず、他者に「支配」されてしまうのである。(52)

なんでもみんなで多数決を取る、というのは考えもので、それぞれその専門家が考える方が間違いがない。原発反対の人が多いから原発は廃止すべきだ、という数の理論は成り立たない。それが成り立つなら、税金は安い方が良いということになるし、領土は、人口の多い国のものになるだろう。(57)

 重要なのは、決めつけないこと。これは、「型」を決めてしまって、そのあとは考えない、では駄目だという意味だ。抽象的に、ぼんやりと捉えることで、決めつけない、限定しない、という基本的な姿勢を忘れないように。(65)

 これは、「視点」といったものでも同じで、客観的な視点を持つためには、まず主観的な自分の視点がどういうものかを把握する必要がある抽象的なものを捉えるためには、排除すべき具体性を知っていなければならない。いずれも、囚われないためには、囚われているものを、あるいは囚われている状況を、しっかりと見極める必要があるからだ。(69)

 具体的な指示は、そのとおり従えば文句は言われないので、なにも考えることなく、ただそのまま実行すれば良い。これは人間ではなく、ロボットだってできることだ。しかし、指示が抽象的になるほど、どう行動すればその指示に合致するのかを考える必要があるし、また、何故そんな指示が出たのか、さらに上のレベルの理由や精神まで想像することにもなる。お客を丁寧に扱わなくてはならない、その理由は何か、という具合にである。そこまで理解しないと、自分のしていることの意味がわからない。非常に人間らしい、有能さを期待される。(76)

 オリンピックの百メートル走の記録は、スタートの合図を聞いてから反応するまでの時間が含まれている。つまり、百メートルを最も速く走るだけの競技ではない。自由にスタートさせ、スタートしたときからゴールするまでのタイムを測れば、本来の「最も速く走る人」になるのではないか。〔略〕
 同様に、走り幅跳びは、跳んだ(踏切り)位置から測れば良いし、高飛びも、バーの位置に拘らず、最も高かった地点で測ってあげれば良いと思う。(113)

 人の評価を気にする人は、ただ人と同じ気持ちを共有したい、という感情で作品に触れているだけだ。それは、みんなが笑っているから私も笑う、というロボットのような動作であって、人間の感性のすることではない。
 芸術の本質とは、貴方の目の前にある作品と貴方の関係なのである。(122)

「わからないよりはまし」ではなく、「わかるより、わからない方がまし」なのである。抽象的にものを見ることができない人が、言葉に頼る。わからないままにしておけないのは、それだけ思考能力が衰え、単純化しないと頭に入らない、という不安があるためだろう。これは、「わかってしまえば、もう考えなくても良い」という、思考停止の安定状態を本能的に求めているわけで、「お前はもう死んでいる」と言われそうな状態に近い。(123)

 これに似ている仕事として、僕が一つだけ思いつくのは、芸術家である。これは、ある意味で研究者ととてもよく似ている。科学を扱うか芸術を扱うか、論理を使うか感性を使うか、という違いはあるものの、結局は自分の「発想」が頼りとなるし、効率とか、人間関係といった現実的なものにあまり囚われない、基本的に無縁の作業として成立する職業だ。(135)

研究というのは、〔略〕考えて考えて、思いついて、そして、それを確かめる、もし確かめられなかったら、また考えて考えて、思いつく、という繰返しである。運良く上手く事が運んだときには、論文を書く作業も仕事のうちである。時間的には、考えている時間か、確かめている時間が最も長いけれど、しかし、なくてはならないのは、やはり思いつくことすべては、発想に起点がある。それは、時間にすれば、ほんの一瞬のことだ。(137)

具体的な(肉体の)生活は、質素で無変化であってもかまわない。むしろ、その方が健康を維持しやすい。健康は、思考を支えるためにある、と僕は思っている。(160)

自力で頭脳の世話をしなければ、新しい発想、優れたアイデアが生まれる土壌は育たないし、また維持もできない。(181)

のんびりとリラックスしているときにアイデアが浮かぶよりも、忙しくて必死になって考えているときの方が、断然発想することが多い。(184)

 慌ててどちらかに決める必要などない。ぼんやりとしたままの状態で良いではないか。〇か一かを決めないといけない、と考えるのは、「もう考えたくない」という生理的な欲求によるものだと思われる。(195)

できるだけ「正しい」ものに近づきたいと願うのならば、とにかく、状況が許すかぎり保留して、自分に猶予を与えるべきだ。〔/〕一般的に言えることは、遅い判断の方が正しさに近い、ということだ。頭に血が上った状態で採決を取りたい、と考える人たちは、大衆が感情的で判断を誤ることをチャンスだと考えているのだろう。(196)

「遅い判断」がより正しいのなら、われわれは問題を先送りしなければならない、のかもしれません。大陸の某政治家もそんなことを領土問題の文脈で言っていた気がします。投票による多数決がもたらすのは全面的な解決ではなく別の問題です。「専門家」の役割とは何なのか、改めて考えています。

@研究室

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by no828 | 2016-11-30 22:39 | 人+本=体 | Comments(0)
2016年 11月 29日

本の本質は、古びないことにある——三島邦弘『計画と無計画のあいだ』

 三島邦弘『計画と無計画のあいだ——「自由が丘のほがらかな出版社」の話』河出書房新社、2011年。11(1008)


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 著者がミシマ社という出版社を創業するまで、そして創業してから。著者の持っていた熱が、こぼれ落ちることなく、温度を下げることなく、読者にも伝わってくる本です。

 商品としての本、ではなく、本としての本、について改めて考えるきっかけをもらいました。

 かつてぼくがひたすら苦しかったのは、「これまで」のやり方から一歩も抜け出さないでいる(あるいは抜け出そうと真剣には思っていない)世界に身を置いていたから。それが、「これから」のやり方、未来を築いていこう(と、少なくとも自分が信じている)やり方をとったとたん、元気になった。行き場のない憤りや鬱屈したディレンマといったものから完全に解放された。
 結局は、力の向け方の問題だったのかな、といまは実感として思う。その力が過去に向いているのか、それとも未来に向かっているか、の。
 そう。つまりは、力を未来へ向けてやるだけで、自分のなかの世界の扉はパッと開くものなのだ。そうなると必然、思考も伸びやかになる。あえて悪くいえば、大胆になる。(10)

 ——多くの人たちは、いまの日本はグローバリズムという新しい時代のルールに乗り遅れたという。だから、日本経済は失墜したという。
 だけどだけど。
 本当にそうなのだろうか?
 新しいルールに乗らないことには、本当に生きていけないのだろうか。
 乗る、のではなく、自分たちで、その次の時代のルールをつくっていくことはできないのだろうか。そのために、一度、原点に帰ってみる、という選択肢はダメなのだろうか。
——
 どうしてこんなことを言うかといえば、なにも大胆になったからばかりではない。世界の流れに乗り遅れるという発想そのものから一度離れないことには、個人と世界とのつながりも回復しないのではないか、と常々どこかしらで感じているからだ。(11)

 身をさらして発言したことが受け入れられないときはもう身を引くしかない。なぜなら、身をさらして生きている人であれば、どんな組織にいようが、必ず、言葉をもって生きているものだから。言葉をもって生きているということは、その人自身、少なからず身をさらして生きてきた結果といえよう。そういう人は、身をさらして若者が発した言葉を無下にすることはない。
 ぼくがグズだったのは、「通じない」とわかっているのに、それを他者のせいにしていたことだ。通じないとわかっているなら、自分が動けばいいだけのことだ。一度リスクをとったくらいで十分なリスクをとった気になっていた時点で、ぼく自身が批判している人たちと同じだった。つまり、保身の人間にほかならなかった。
 保身から発する言葉が、人を動かすことはけっしてない。(40-1)

 ——「出版社をつくる」ことは、イコール「場をつくる」こと。そして場をつくるということは、人が集まるということと同義。たとえどんなに小さなスペースであっても、人に来てもらえる場を持たなければいけない。
 書き手の方、印刷所の方、デザイナーさん、アルバイトさん、学生さん、ふとたずねて来た人、よくわからない人……。老いも若きも男も女も、いつもごちゃごちゃ。
 そういうカオス的空間こそ、出版社の「原風景」。「ごちゃごちゃ」から、真に「面白い」本も生まれるというものだ。(53)

 そもそも出版社をつくる以上、
 100年はつづけなければだめだという思いは最初からありました。
 というのも、本は、何十年後、何百年後に読んでも
 新鮮であるべき、だから。

 編集者になるずっと前から思っていることです。
 本の本質は、古びないことにある。
 とすれば、それを発刊する出版社は、
 ずっとその本を発刊しつづけることに意義がある。(187)

オオモトである企画段階で「熱」があるのは、ある意味当たり前、大前提だ。
 問題はその先にある。
 なぜだか、当初の熱が熱量そのままに読者の元へ届くことが難しい。
 読者へ届くまでのさまざまな段階で、その熱がこぼれ落ちてしまいがちなのだ。(193)

 いま一度、先の問いに立ち返りたい。
 一見するとバラバラなミシマ社本に共通点があるというが、それは何か?
 答えはすでに述べた通り。ミシマ社本の共通点とは、すべてが「本」ということにほかならない。さらにいえば、「面白い」と信じ込んでつくりきった本たちばかりなのだ。(208)

 本来、仮に読者ターゲットというものを設定するとすれば、これしかないと思う。
 読者ターゲット:老若男女みな
 そういう思いから、ミシマ社では読者対象は設定していない。マーケティングのやり方を否定するわけではないが、あまりにもそれ一辺倒になっている現況で失われていっているものを、少しでも掬いたいと思っている。
 本質的に面白いものは、世代や性別や時代を超える。
 愚直なまでに、そう信じたいのだ。
(212)

@研究室

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by no828 | 2016-11-29 18:36 | 人+本=体 | Comments(0)
2016年 11月 28日

October 29, 2016

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@研究室

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by no828 | 2016-11-28 18:50 | 日日 | Comments(0)