思索の森と空の群青

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2017年 04月 27日

スポーツにおける着地とは「現実」との接点なのである——奥田英朗『延長戦に入りました』

 奥田英朗『延長戦に入りました』幻冬舎、2003年。45(1043)

 http://www.gentosha.co.jp/book/b3073.html|単行本は2002年に同舎


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 エッセイ集。なるほど、と思わせる視点と着眼点。わたしも忘我の境地に浸ることがなかなかできません。別のところに視線をちらっと注いでしまっていることが多いです。何となく、タイトルと表紙写真が合っている気がします。


14-5)たいていの場合、人は自らのエゴにすら気づいていない。自分の感情が何よりも優先するものだと信じている。〔略〕
 私はその昔、イベントの仕事で客の整理を数多くこなしてきたから実感できる。
「このロープから出て歩かないでくださーい」〔略〕
「あっ、そこのあなた。順番ですから、ロープの中に並んでください」〔略〕
「ちょっとそこのボク、入っちゃダメだって」〔略〕
「てめーら入るなっつーのがわからんのか!」
 とまあ、このように疲れてしまうのが集団エゴとの戦いなのである。こういうとき、私は金日成主席の気持ちが理解できる気がする。人民に自由を与えるとロクなことはないと全体思想に走ってしまいそうになる。 ※「客席の集団エゴと案内嬢のひとりごと」


26-7) ところで、こうしたところに目が行ってしまうのは、きっと私の覚醒した性格によるものだと思う。たとえディスコの喧騒の中でも、私は忘我の境地に浸ることができない。我を忘れて熱狂するということができない。頭の底は常に冷めているから「おろ? あそこに変わった人が」と妙なことに気づいてしまう。〔略〕
 もちろん、だからといってスポーツや音楽を楽しんでいないわけではないので誤解しないように。興奮も感動もする。ただ、みんなが100パーセントの意識を傾ける中でも、私はそれを90パーセントくらいにしておくから、残りの10パーセントで人とは別のものを見てしまうのである。 ※「日常の真実と私の目の行きどころ」


28) どうして延長戦まで死力を尽くして戦った両チームが、あんな単純なジャンケンのような方法〔=サッカーのPK戦〕で勝者と敗者を決めるのか、彼らには不思議でしょうがないのである。ここまでやったなら、あと30分でも1時間でもケリがつくまでゲームを続ければいいではないか、というのがアメリカ人の素朴な感想なのだ。
 言われてみればそうだ。たとえばベースボールにおいて、「延長12回を戦ったけど決着がつかなかったのでこれからホームラン競争をして勝敗を決めまーす」などということになったら、観客は黙ってはいないだろう。オールスター・ゲームの余興じゃあるまいし、なぁにがホームラン競争だ、ふざけるな、である。 ※「あいまいな日本と優勢勝ち」


38) つまり、図式としては「主張」→「逆らう者なし」→「そうか自分は正しい」→「信念」。 ※「格闘家の信念と小心者の世渡り」


172-4) さらにはバーを越えればいいという刹那的考え方も私の美学は受け入れることができない。背面跳びが生まれた背景には、はっきりと着地用クッションの存在がある。あれがなければ背中から着地しようなどと思いつく奴はいなかったはずである。〔略〕
 あの跳び方を見よ。着地のことなどまるで考えていないではないか。バーを越えたらこっちのもの。あとはクッションさんお願いね、という甘えた根性が滲み出ている。実用性ゼロ、なのだ。
 たとえばここに高さ2メートルの柵があったとしよう。その鉄線には高圧電流が流れている。触れたら一瞬のうちに死んでしまう。その柵の中に何人かが閉じ込められている。誰かこの柵を飛び越えて、助けを求めに行かなくてはならない。その中に二人のハイジャンプの選手がいた。一人は背面跳びで2メートル40の記録をもつ世界的アスリートで、もう一人はベリーロールで2メートル05の記録しかない平凡な選手である。柵の中に閉じ込められた人々がこの幸運に喜んだことは言うまでもない。2メートル40も跳べる人がいる。2メートルの柵など楽勝ではないか。さっそく飛び越えて助けを呼んでくれないか。ところが背面跳びの世界的アスリートは断るのである。
下はコンクリートじゃないですか。クッションがなければ跳べませんよ
 こんなひ弱な野郎が表彰台に並んでいいわけがない、と思いませんか?〔略〕スポーツにおける着地とは「現実」との接点なのである。どこまで凄いことをして無事に生還できるか、それが着地の意味するところなのである。つまり、トリプル・ルッツを決めて、なおかつ着地するからフィギュアの伊藤みどりはエライのである。ブブカはたいして役に立たない奴なのである。 ※「ハイジャンプと着地という現実」


196) 私は、今のプロレスは誰もが了解済みのフィクションの世界にはまり過ぎているのではないかと思う。あのミもフタもない明るさ、会場の温かさ、「お約束」の数々、あまりに予定調和で私はその輪に加わることができない。私が見た1966年の試合は、たとえ嘘でもノンフィクションと信じるに足る切迫感があった。 ※「ジャイアント馬場が本当に強かった1960年代」


@研究室


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by no828 | 2017-04-27 14:38 | 人+本=体 | Comments(0)
2017年 04月 26日

共同体に帰属することで、思考や他者に対しての想像力を停止してしまうことです。その危険さを僕は描いたつもりです——森達也『「A」』

 森達也『「A」——マスコミが報道しなかったオウムの素顔』角川書店(角川文庫)、2002年。44(1042)

 2000年に現代書館から刊行された『「A」撮影日記』に大幅な加筆修正

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 ドキュメンタリー映画「A」ができるまで。オウム真理教広報部長の荒木浩を追っていますが、それを介して森達也自身とこの共同体が、そしてこの共同体に安住する人びとが問い返されています。

 フィールドワークをしながら経験科学を主としていたときには、本書でドキュメンタリーのそれとして繰り返し言及されている「客観性」についてよく考えました。また、そのあと理論に軸足が移ったあとは、即断しない、というか、重要な事柄ほど即断できないのではないか、ということに気づくようになりました。考えるためには、そして考えさせるためには、ペースを乱すことは有効かもしれない、と思っています。

55) ……ずっと考えていた。撮影対象であるオウムについてではない。自分についてだ。「オウムとは何か?」という命題を抱えて撮影を始めた僕が、いつのまにか、「おまえは何だ?」「ここで何をしている?」「なぜここにいる?」と自分に問いかけ続けている。

78)昨日も地元のテレビ局の記者が、施設を管理する管財人の了解をもらったから取材を始めると撮影クルーを帯同してやってきて、これを阻止する荒木浩としばらく施設前でもめた。管財人が了解したのだからオウム側にこれを拒否する権利はないと主張し続けた記者の論旨は、譬えて言えば大家の了解をとったから店子の生活を無断で撮影できると主張しているに等しく、冷静に考えるまでもなく論理としては破綻している。ずっとガムを噛みながら荒木浩と話していたこの記者にだって、いくらなんでもその程度の常識は通常ならあるはずだ。また会話のときにはガムを吐き出すくらいの礼節は知っているはずだ。しかしオウムという単語が方程式に代入された瞬間、おそらくは彼の思考が停止した。

87)「僕にとってドキュメンタリーを作ることは、絶対的に主観的な行為です

89-90) ドキュメンタリーの仕事は、客観的な真実を事象から切り取ることではなく、主観的な真実を事象から抽出することだ。一頭の母ライオンがカモシカの子供を狩る場面を撮ったとする。出産直後の母ライオンの子育てにドキュメントの主軸を置くのなら、観る側は彼女の牙がカモシカの頚動脈に食い込んだ瞬間に快哉をさけぶだろう。カモシカの母と子の主軸を置くのなら、彼らが逃げ切った瞬間に安堵の溜息をもらすだろう。そういうものだ。映像で捉えられる真実とは、常に相対的だし座標軸の位置によって猫の目のように変わる。
 カメラが日常に介在するということは、対象に干渉することを意味する。微粒子は観測する行為そのもので大きな影響を受け、粒子としての本来の姿を決して現さないとする量子力学の基本原理と同じだ。自然なドキュメンタリーなど存在しない。撮る行為によって撮られる側は、時には触発されるし、時には規定される。そしてまた撮られる側の反応が、撮る行為に大きな影響を与える。
 その意味では撮影における客観性など存在しない。映像を作るという作業はすべて主観の産物のはずだ。雨乞いの儀式を仕込んだかどうかは表層的な問題でしかない。その状況で、自分が如何に自分の主観的な真実を信じることができるかどうかが問われなくてはならないのだ。もちろん自分と対象との相関的な座標を正確に表出することは必要だ。しかしその位置さえ明確に呈示すれば、後は観る側が判断するだけのことなのだ。バランスをとるのは表現する側ではない。観る側だ。

90)視聴率という大衆の剥きだしの嗜好に追随する現実を、公共性というレトリックに置換するために、「客観的な公正さ」という幻想を常に求められ、また同時にそれを自らの存在価値として、テレビは勘違いを続けてきた。僕も今まで勘違いを続けてきた。

112-3) 道を歩いていてふとレンタルビデオ屋を覗こうという気になるように、彼らはその人生のある瞬間、ふとオウムに足が向いたのだ。テレビの司会者は、「なぜ彼らがオウムに惹かれたのか、その理由は今もどうしてもわかりません」と眉間に皺を寄せるが、そんな理由は信者によって様々だし、解明する意味はない。〔略〕
 しかし、残された信者、逮捕された信者が、今もオウムにこだわり続ける理由は解かなくてはならない。理由はきっとあるはずだ。その思いは僕にこのドキュメンタリーを発想させた動機の一つだ。そして今、理由はおぼろげながら見え始めている。彼らが今もオウムに留まり続ける理由、そのメカニズムは、オウムの内ではなく、オウムの外、すなわち僕らの社会の中にある。

129-31)「……映像を貸してもらえない理由は何ですか?」
 形勢有利とばかり畳み込んだ僕の言葉に、数秒の沈黙の後、荒木浩はぽつりと言う。答えようとして、僕は一瞬言葉に詰まる。制作途中の映像素材を第三者に見せたり貸したりすることはできない。確かにこれは大原則だ。しかしその大原則の根拠を、今この瞬間明確に説明することができない自分に気がついた。
「……僕は、この作品でオウムの便宜を図る気もありませんし、警察に協力するつもりもありません。あくまでも中立な立場でこの作品を作るつもりです」
「それは充分にわかっています。味方をして欲しいと言ってるつもりはありません。事実を証明してくれと言ってるだけです。それは森さんたちの中立性を損なうことになりますか?」
「……きっと今、荒木さんたちに映像をお渡ししたら、この作品の生命はそこで間違いなく断たれると思うんですよ」
 絶句した僕に代わり、カメラを胸元に構えたまま、安岡がゆっくりと話しだす。普段は教鞭をとる彼の口調は、こんなときには実に説得力を発揮する。
「それでなくともこの作品は、社会から無条件に受け入れられる作品ではありません。たぶん発表のときには、僕らのスタンスは厳しく問われる事態になると思います。その制作過程で、理由はどうあれ、素材をオウム側に提出したという事実は、まさしく命取りになります。つまり、作品としての価値はそこでゼロになるということです。それがわかっていながら、今映像をお渡しすることは僕らには不可能です」〔略〕
 苦し紛れに「中立でありたい」と僕は荒木浩に口走った。公正中立に事実を客観視するなどという慣用句は、不祥事を起こしたマスメディアが無自覚に口走る陳腐なスローガンにすぎないと知りながら、だ。
 公正中立でものは作れない。
 断言できる。主観の選択が結実したものがドキュメンタリーなのだ。事実だけを描いた公正中立な映像作品など存在しない。
そもそも中間に立とうにも、オウムの座標がわからない限りは、両端から等距離の位置など測定できるはずがない。その覚悟はしていたつもりが、追いつめられると苦し紛れに、こんなにもあっさりと馬脚を顕していた。

172-3)「何かさあ、自分の言葉でものを考えられないメディアの構造って、オウムの構造に似ているよな
「メディアだけじゃなくて、社会全般じゃない? 本質的には変わらないよ」
「でも社会は人を殺してないぜ」
「いや、見方を変えれば同じだよ」
「私もそう思う。エイズに発症することを知ってて血友病の薬剤を認可していた厚生省と、地下鉄にサリンを撒いたオウムの信者たちと、その意識構造に本質的な差違はないと思う」
「極端すぎるぜ、それは」
「いや確かに本質は近いよ」

185)「質問というのは、答えを聞きたいからするものですよね。皆さんの質問が、本当に答えを求めているとは私には思えないんです

196)メディアは僕たち社会の剥きだしの欲望や衝動に、余計なことはあまり考えずに忠実に従属しているだけだ。

199) 結論だ。オウムはわからない。「信じる」行為を「信じない」人間に解析などできない。この一線を超えるためには自身も「信じる」行為に埋没するしかない。しかしその瞬間、僕は間違いなく「表現」を失うだろう。選択肢はない。オウムは既成の言語に頼る限り、どこまでいっても「わからない」存在なのだ。

200-1)公開に際して僕が決めた作品タイトルは「A」。オウムの頭文字のAでもあるし、麻原のAでもあるし、何よりも荒木浩のAでもある。しかし真意はそんな語呂合わせではない。要するに何だってよいのだという意思表示をしたかった。タイトルが内容を凝縮するものだという前提がもしあるのなら、そんな言語化はこの作品について言えば、無意味な作業なのだということを、そのタイトルで現したかった。無自覚な凝縮や象徴が如何に危険なことであり、この作品はその試みを徹底的に拒絶するということを宣言したかった。

216) 改めて言う。編集は事実を加工する作業なのだ。そもそもの素材は事実でも、カメラが任意のフレームで切り取ることで撮影者の主観の産物となった現実は、更に編集作業を経て、新たな作為を二重三重に刻印される。それがドキュメンタリーであり、映像表現の宿命でもある。

248-9)「これは本当にドキュメンタリーかい?〔略〕オウムの信者はもちろん、この作品に登場するメディアも、警察も、一般の市民も皆、リアルな存在にはどうしても見えない。まるであらかじめ台本を手渡されてロールプレイングをやっているとしか私には思えない。これが本当に実在する人たちなら、日本という国はそうとうに奇妙だと思う。要するにフェイクな国だ」〔略〕
「この作品に登場するオウムにも警察にもマスメディアにも、とにかくほとんどの日本人に共通するメンタリティがあります。共同体に帰属することで、思考や他者に対しての想像力を停止してしまうことです。その危険さを僕は描いたつもりです。組織への帰属意識や従属度は日本人に突出して強い傾向だと思うし、傍から見ればもしかしたらフェイクにしか見えないのかもしれないけれど、ドイツ人にはそんなメンタリティはないと本当に言いきれるのでしょうか?」

256-7) 「体験」を意味づけることを社会システム理論で「体験加工」という。体験加工の機能は、日常生活を支えるセマンティクス(意味論)への回収だ。その作業は通常、意識せずに行われる。その場合、体験と体験加工は分離できない。
 問題は、日常を支えるセマンティクスにうまく塡らない体験をしたときだ。体験をどう解釈するのかという行為が問題になる。体験と行為の違いは「訪れるもの」か「選ぶもの」かという違いである。 ※宮台真司「私たちが自滅しないための戦略」

258) 体験加工の保留は「A」にも見出される。オウムは敵だ・社会は味方だと体験加工(意味づけ)する前に、オウムも社会も、様々な方向からじっくり体験(見る・聞く)してみる。〔略〕
 森監督とお会いするたびに、一水会の元代表・鈴木邦男氏のことを思い出す。共通して脱力した人だ。世間では、パッパパッパと体験加工していける、即断即決型の人間が聡いと思われている。そうした視線からは、二人とも驚くほどスローに見える。
 だが鈴木邦男の著書『がんばれ! 新左翼3』の解説で詳述した通り、近代ではこうした「遅れ」こそが批評性の要になる。なぜなら「遅れ」のなさこそが、近代を構成する様々なフレームの尤もらしさを各所で支えるからだ。 ※宮台真司「私たちが自滅しないための戦略」

260) 体験(見える・聞こえる)を拙速に体験加工(意味づけ)するとき、私たちは既存のフレームに拘束され、思考停止した駒になる。かつてなら許されたこうした振舞いは、今や近代社会の存続可能性を脅かすものとなった。
 しかし、思考停止した駒になるのをやめようと体験加工を遅らせるならば、今までのマスコミ組織や社会の中で「使えない奴」との烙印を押される。逆にいえば従来の物差しでは「使えない奴」こそが、存続に関わる危機から社会を救う可能性があるのだ。 ※宮台真司「私たちが自滅しないための戦略」

@研究室

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by no828 | 2017-04-26 19:46 | 人+本=体 | Comments(0)
2017年 04月 25日

落語てえものを一ときも忘れたこたァない。ひとつことを一生懸命つとめていりゃァ、人間いつかは花ァ咲くもんだ——古今亭志ん生『びんぼう自慢』

 古今亭志ん生『びんぼう自慢』筑摩書房(ちくま文庫)、2005年。43(1041)

 1969年立風書房 → 1977年同書房「志ん生文庫」第6巻

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 著者は5代目古今亭志ん生(1890-1973)。関東大震災や敗戦にも触れられていました。

 院生時代、非常勤講師時代を思い出しながら読みました。あの頃は本当にお金がありませんでした。お金がないのに「道楽三昧」する感覚はよく理解できませんが、そう書いていて、研究もまた「道楽」と捉えることもできるかもしれない、と思い、やっぱり理解できるかも、と思い直しました。最初の引用文がとくに胸に沁みました。わたしもそう思い込むようにして、そう信じて、やってきました。2番目の引用にある表現がすっと入ってきます。

 とはいえ、苦労すればよい、という考え方にも馴染めないところがあります。

8)「オレだって、少しはマシなとこだってあるんだよ。いくら道楽三昧したり、底ぬけの貧乏したって、落語てえものを一ときも忘れたこたァない。ひとつことを一生懸命つとめていりゃァ、人間いつかは花ァ咲くもんだ

10)強情一筋の暮らし方

36) はじめに師匠が、
「お前は、メシ好きかい?」ときくから、
「めしィ食わなきゃ死んじまいます」と答えるてえと、
メシを食おうなんて了見じゃァ、とてもだめだぞ
 といわれた。その時分はよくわからなかったが、はなし家でノウノウと暮らせるなんぞと思ったら大間違いだ、食うことなんざあと回しにして、芸の苦労をしなくっちゃ、とてもいい芸人にゃァなれねえよ、てえことを教えてくれたんでしょうねえ。あとになってこの言葉ァ随分と身に滲みました。

257) 森繁君は、寄席には入らなかったが、映画やテレビであんなに売れたてえことは、やっぱりあたしの目に狂いはなかったんだなァと、ひそかに自慢に思ってますよ。あれだけの体(地位)になったって別に肩で風ェ切って歩くなんてえことをしないのは、やっぱり満州時代のあの下積み時代の苦労のたまものでしょうね。人間てえものは、いろいろと苦労した者〔もん〕のほうが、そうでないもの〔ママ〕よりなんたって味がありますよ。

279) 若いころの苦労てえなァ、やっぱりやるもんですよ。もっとも、あたしの場合は、苦労をひとより苦労にやりすぎちゃいましたけど……。

276) かかァのつくってくれた着物ォ着て、少しばかりのこっている髪の毛ェ、横になぜつけて、まだ満州のあかが、いくらかのこってる黒い顔で、高座から、
えー、只今、帰って参りました……
 と、しゃべったら、お客さんが手ェ叩いてくれました。あァ、生きていてよかったなあと、しみじみ思いましたねえ、あのときは……。

@研究室

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by no828 | 2017-04-25 16:44 | 人+本=体 | Comments(0)
2017年 04月 23日

私は決して書き逃げはしないし、私も共にここで生きていくのだ——渡辺一史『北の無人駅から』

 渡辺一史『北の無人駅から』北海道新聞社、2011年。42(1040)


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 北海道の無人駅を結節点とした人びと、風景、動物の歴史と物語。「地方」とは何なのか——本書にはそれを理解するための手がかりが豊富に含まれています。気づかされた点が多々ありました。

775-8)あとがき
 もっと「本当のこと」を書かなければならない——。この20年間で、私が見たこと、感じたこと、考えたことのすべてをこの本の中に封じ込めたい。この本の取材と執筆に取り組みながら、私が憑かれたように思い続けてきたのは、そのことだった。
 書きながら、考え、悩み続けていたことがもう一つあった。
 それは、「地方」を描くとは、「地方に生きる人たち」を描くとはどうあるべきなのか、ということだった。〔略〕
 結局のところ、私がとった方法は、長いスパンでその地域を見続けること、そして時間をかけて取材対象者とつきあっていくということでしかなかった。私は決して書き逃げはしないし、私も共にここで生きていくのだ、という絶えざる働きかけの中で、私がそう書かざるをえなかった理由を、私の人間性とともに、彼らに、そして読んでくれる人にも納得してもらうほかないのだろうと思っていた。〔略〕自分の定めた目標に対してウソはつかなった、ごまかさなかったという思いだけはある。とにかくこの8年、私は寝ても覚めてもこの本を完成させることだけを考え続けていた。この本一冊のために、一度もさわやかな朝食を口にしなかった。

106-7)「タンチョウと私の「ねじれ」」
 しかし、六花に泊まり、夜ごと話をしてみると、田中さんの言うことはいちいちもっともで、何よりその信念を曲げない姿勢に敬意を抱くようになった。
 ただ妥協を許さないそのやり方が、知らない人には偏屈だと思われがちなのだ。
「誤解が多くて大変でしょうね」私がいうと、
「いやもう、誤解どころか、ごかい、ろっかい、超高層ですよ」と笑った。「でも、私には私の基準っていうのがあって、それを手放したら、もう自分でなくなっちゃうからね
 それにしても、私はこの「茅沼ツル騒動」を思い出すたび、
《疑ひは人間にあり、天に偽りなきものを》
 という古い謡曲の一節を思い浮かべる。
 もめごとのタネは、つねに人間の側にあるのであって、タンチョウや自然の側にはない。タンチョウを狩猟の獲物にしたり、かと思えば一転、手厚い保護の対象にしたり、観光の客寄せに利用したり…と、ものごとを複雑にしているのは、いつも人間の方なのだ。

121-2)「タンチョウと私の「ねじれ」」
 タンチョウは、自分たちを追いつめた人間の手を借りて生き延びることになった。それが人工給餌である。皮肉といえば、あまりに皮肉な話なのだ。だから、「その哀しみを、もっと深く受け止めなければならない」と田中さんはいう。
人からエサをもらってる場面というのは、タンチョウにとって、じつは屈辱的な場面なんですよ。本来であれば、こうやってトウモロコシをあげてる間に、われわれはタンチョウが住める環境に戻して、返してあげなきゃいけない。なのに、人間はなにも進歩してない」
 それどころか、タンチョウへの給餌を、あたかも「人とタンチョウの共生」であるかのように美談として語ったりする。〔略〕
「歴史の哀しみを、もっと深く受け止めなければならない」〔略〕
せめて釧路湿原くらいは、もうすべてタンチョウに解放してあげたらいいんですよ。そして、人間は一切立ち入らない。タンチョウが野生を取り戻せるように、湿原をタンチョウに返してあげたらいいんですよ
 もし釧路湿原をタンチョウに丸ごと返すというのなら、自分も一切の給餌から手を引いて、この場から立ち去ってもいい、と田中さんはいう。〔略〕田中さんは「給餌」ではなく、「給仕」という言葉を使うべきだと主張する。タンチョウにとって、トウモロコシは「餌」ではなく「食べ物」だという信念があるからだ。
 タンチョウに“給仕”をしながら、田中さんは「アンタは食べる権利がある、私は持っていく義務があるんだ」と思っているという。

160)「タンチョウと私の「ねじれ」」
一番だいじなのは気持ちの問題。やさしいだけだと馬だって蹴ってきますし、噛んできます。マルチーズだって牙を剥いてきます。動物はつねに順位関係を見てますから。〔略〕『乗るぞ』オレがおまえの主人。『よろしくねー、重いけどごめんねー』っていうくらいなら乗らない方がいいですね。感謝してかわいがるのは降りたあとでいいんです。ムツゴロウさんみたいに『よーしゃ、しゃしゃしゃ』って」
 事実、降りたあとの馬への感謝とかわいがりようは堂に入ったものだった。この桑原さんの懐の深い包容力が、日々の動物たちとの暮らしを支えているのである。
 しかし、そうした気持ちのメリハリが、私を含めた現代人の最も苦手とするところではないか。

165)「タンチョウと私の「ねじれ」」
 桑原さんがシカを撃つのは、人間がオオカミを絶滅させてしまった以上、その代役を果たすのは人間の責任であるとの考えからだ。しかし、その際に重要なのが、すべてを人間の都合だけで考えるのではなく、生態系のピラミッド全体を見渡した自然保護だと説く。
「何よりも大切なのはバランスなんです。
 それぞれのメンバーが適正数そろって、初めて豊かな森、健康な森がつくられる。森が健康かどうかは、地球が健康かどうかのバロメーターだと思います。であるのなら、シカが増えすぎれば間引きする。また、数が減りすぎたら全力で保護する。全体をバランスよく見渡した上で物事を考えていく必要があると思います
 また、日本では、ハンティングという行為は自然保護から最も遠い行為と思われがちだが、本来、第一級のハンターは第一級のナチュラリストでなければならないと桑原さんはいう。

168)「タンチョウと私の「ねじれ」」
「シカがかわいそうとは思わないですか」
 私が単刀直入にそう訊ねると、桑原さんは思わず私の顔を見て、そして、ひと呼吸ついてからいった。
「思いますね。ものすごく残酷なことをする。一般的にいうと、かわいそうなことをするってことです。そこを曖昧にすべきではないですね。
 ぼくは、殺すことが全然『いいこと』だとは思わないし、ウマに乗って笹を踏み分けながら森の中へ入っていくと、シカのすぐ間近まで寄れるんですね。そんなとき、シカはすばらしくきれいな美しい動物だと思います。その美しいシカの命を、この手で奪うということです。だから、狩りをしながらも、つねに葛藤の連続ですね
 桑原さんの言いたいことはよくわかる。つまり、それが「肉を食う」ということの本質なのだろう。そして、殺すからこそ畏れの感情も抱くし、シカの血の一滴さえムダにしないという獲物に対する感謝や慈しみの感情も生まれる。
 逆に、普段から肉食しまくっているくせに、自分の手を血にまみれさせることがない現代では、狩猟を他人事のように「残酷だ」と感じてしまうのだろう

174)「タンチョウと私の「ねじれ」」
「だけど、人間が悪い、人間が自然をおかしくした、すべては人間のせいだって、よくいいますけど、じつはそう語ってるのも人間なわけですよね。
 あくまで人間を除外するわけにはいかない。人間としてどう自然の中で生きていくか。それはやっぱり人間が考えていくしかないんですよ。
 今まで、人間が自然に手を加えすぎておかしくしたんだから、これからはいっさい手を加えずに温かく見守りましょう。表現的にはすばらしいですね。温かく見守りましょう。
 でも、自然のバランスをこれだけ崩しておいて、あとのことは知らない、あとはいっさい手を加えずに見守りましょうでは、あまりに勝手すぎませんか。
 まずは、自然にさらに手を加えてでも、人間の英知によって崩れたバランスを取り戻す。それが人間の責任なんじゃないですか

417-8)風景を「さいはて」に見つけた
 もともとユースホステルという発想は、今から100年も前にドイツで生まれたものである。発端は、ドイツの小中学校の教師だったリヒアルト・シルマンという人が、子どもたちを長期の野外遠足に連れ出そうとしたことから始まった。
 20世紀初頭のヨーロッパは、とりわけ工業都市などの公害が発生し、煤煙や排気ガスなどで大気が汚染され、肺結核などの病気にかかる子どもが増加していた。そこで子どもたちを都市郊外へ連れ出し、豊かな自然の中で学ばせたいとシルマンは考えたのである。
 しかし当初、この考えは同僚教師や親の無理解、反対にあい、なかなかうまくいかなかった。何より問題だったのは、泊まるところが見つからなかったことで、農家と交渉して納屋に寝泊まりさせてもらうなど苦労を重ねていた。
 そんなあるとき、シルマンは神の啓示を受けたかのようなひらめきを得る。
夏季休暇などで使用されていない学校の教室を、子どもたちの宿泊施設として利用できないだろうか。そして、それをドイツじゅうの学校に呼びかけてネットワーク化できないか
 これがのちのユースホステル運動となって世界へ広がっていく発想のもととなった。
 シルマンがこの着想を得たのが1909(明治42)年8月26日で、この日は「ユースホステル誕生の日」(シルマンデー)として関係者の間でメモリアルデーとなっている。
 しかし、こうしたシルマンの発想もまた、当初は多くの人に迷惑がられ、反対にあったという。

420)風景を「さいはて」に見つけた
 本来、ユースホステルとは「サービス業」ではなく、「青少年育成」のための活動であり、むしろそこに営利目的の旅館やホテルとは違ったユースの独自性があったわけだ。禁酒や消灯時間はもちろん、中には食器洗いや部屋の清掃を義務づけているユースもあった。
 しかし、同時にそのことが、「ユースは安心して泊まれる健全な宿」という信頼感を利用者に抱かせ、とりわけ女性の旅行者にとってユースの存在は大きかっただろう。

423)風景を「さいはて」に見つけた
 とはいえ、利用者に迎合して変わっていけばそれでいいのか。設立当初の崇高な理念を手放して、単に気楽な「安宿」として活動を維持できればそれでいいのか。
 ここにユースホステルの抱える大きな悩みもある。
しかし、それは百年にわたるユースの長い歴史と伝統から必然的にもたらされた悩みであり、大切な悩みでもあると私は思う。関係者が悩みぬいて結論を出していくしかないのだろう。

607-8)「陸の孤島」に暮らすわけ
「国道が開通したら、《町ア忙しくなる、銭こは落ちる》っていうのは、実際はどうだったんですか」
 私が訊くと、「ゼニコかい? 落ちないさ」と飛内さんは無表情でいった。
だって、道路ができたらみんな素通りだも。昔は『陸の孤島』で秘境だったから、珍しく来てたのさ。逆に、今こう便利になったら、秘境でもなんでもない、ただの田舎だから
 飛内さんの率直な物言いに私は笑い声を立てたが、飛内さんはいたってまじめな表情だった。
「道路ができて、逆に悪くなった?」
 私がなおも訊ねると、今度は飛内さんが笑い声を立てた。
「悪くなったなんちゅうもんでないよ。道路できる前だら、あんた、雄冬丸に鈴なりになった観光客乗って来たんだから。して、ここ行き止まりだったから、来たらみんな泊まってくしょ。だから、民宿だとか商店だとか、そのへんの経済はよかったんだ」

704-5)村はみんなの「まぼろし」
都会なら、浮動票(特定の支持政党や候補者を決めていない人の票)や無党派層っていうのが必ずあるでしょ。それはね、誰に投票しようが生活に大差ないから。ところが、こういう田舎は、浮動票っちゅうのが一票もないです。都会と違って、選挙結果がすぐ形になってあらわれるから。役場に物言っても、すぐいろんなことの反映がくるし、そのへんが、もうモロに感じる部分。そして、その反動も大きいしね」

743)村はみんなの「まぼろし」
 神さんは、ことあるごとに「ケージ飼いのニワトリ」という言い方で、日本の地方行政のあり方を表現してきた。檻に入れられ、エサ箱に与えられるエサを食べることだけに慣らされたニワトリ。自分から檻の外に出ようとはせず、国にただ分け前を主張するだけのニワトリが、これまでの地方と地方の行政マン、そして、われわれ住民のあり方だったのではないか、と。
「自治って、自分たちで治めていくものだという、このことに、国民は気づいていなくて、生かされてる私たちになってるのよな。だから、上からカネが下りてこなくなったら、もうやっていけねえんだと。すぐそういう判断へ走るわけですよ

@研究室

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by no828 | 2017-04-23 15:11 | 日日 | Comments(0)
2017年 04月 22日

桜の木の下で雨が降りはじめた

 最近は昨年読んだ本についてのアップロードが続いています。まだ終わっていないという体たらくです。今回は近況について少し書きます。

 4月12〜13日とまだ雪残る標高1,400メートルでの1年生向けオリエンテーション合宿に参加し(小さい大学は全教員が参加するのです)、大学に帰ってきてからすぐに教○実習の説明会を開き、14日から本格的な講義がはじまり、という具合で新年度が本格的に稼働してから約1週間が経過しました。授○評価の責任者を引き続き務めることになり、業者や学内の各部局への連絡・依頼なども頻繁になってきました。

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 非常勤での講義も、前期の通常開設のものだと1大学・1看護学校で合計2科目受け持ちます。写真は2枚ともその大学の今週の風景です。講義が終わって外に出たら、雨が降りはじめたところでした。ちなみにその日は、M鷹駅からバスで向かいましたが、昨年度と乗り場のバス停の位置が変わっていました。昨年度までのバス停の系統に異なる番号が示されていたので、運転手の方に「○野は停まりますか」と訊いたところ、「停まりません。5番です」と言われました。大学に着いて、教員ラウンジへ行ってみるとドアを開錠するための暗証番号があやふやになっていることに気づきました。番号はよく覚えていないものの、数字などの配列盤を前にすると何となく指を動かす順番を思い出してきて、無事に1回で開けることができました。

 この大学は講義をはじめて4年目に入りました。まだ就職できなかった頃にお話をいただき、その後K府に行ってからもC央(本)線で通勤可能であるため、続けています。

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 昨年度の受講生に4年生がいました。単位のために取ることにした、ということでしたが、講義が進むにつれて毎回書かせているリフレクション・ペーパーにも熱が入っていくのがわかりました。後半になって話しかけてくれるようになり、講義について考えたことや自分の進路などについて語ってくれました。

 わたしの講義は、最後10分くらいでそのリフレクション・ペーパーを書かせ、5分経過した時点で“終わった者から静かに帰ってよい”ということにしています。最後の講義で、その学生は5分くらいで書き終わり、教室を出ていきました。しかし、全員が書き終わって教室から学生がいなくなるのを確認するとまた教室に入ってきて(つまり、外で待っていたということです)、この講義全体の感想や自分の置かれた状況などをまた話してくれました。そこで「4年間で1番おもしろい授業でした。先生の講演会とかあったら行きます」と興奮ぎみに言ってくれました。とてもうれしかった。平たく言ってしまえば、教員冥利に尽きるということですが、非常勤も含めてこれまでの教員としてのキャリアのなかで、教壇に立つとはどういうことか、いろいろと考え、消極的になったこともなかったわけではありません。教員であることに慣れないようにしているところもあります。しかし、それでも先の言葉はとてもうれしかった。

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 教室へ行ってみると、受講生数は昨年度の3〜4倍ほどでした。まだ履修登録の途中でしょうし、変動はあるかもしれません(たぶん減ります)が、これはもしかしたら昨年度の4年生が「この授業、後輩にすすめておきますから」と言っていた、その影響かもしれません。

 ちなみに、本務校では立場上、学生との接点はあまりありません。教○課程の学生のみ、と言ってよい状況です。それでも、1年生のときに講義をした学生がいま3年生になり、「先生、読書会をしてくれませんか」と言ってきたりもしています。これもとてもうれしいことです。ここにいる以上は、こうした限られた接点を深いものにしていきたいと思っています。ただ、上から降ってくる、横から流れてくる研究・教育と直接関わりのない事務的な業務よりも講義をしたいという自分の気持ちを大切にしようとしたとき、ではこれからどうするべきなのか——そうしたことも考えています。

 さて、今回書いたことは○○ルに○実した事柄に含まれるでしょうから、いまの趨勢だと顔本に書くものなのかもしれません。でも、まだしばらくはこちらに書き残していきたいと思います。

@研究室

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by no828 | 2017-04-22 16:43 | 日日 | Comments(0)
2017年 04月 22日

アジア諸国の経済成長が、日本の行く末にとっても看過できないものになりつつあった時代の入り口だったからこそ——速水健朗『1995年』

 速水健朗『1995年』筑摩書房(ちくま新書)、2013年。41(1039)


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 1995年はわたしも気になっています。はじめの引用には宇野常寛が挙がっています。速水が参照していた『ゼロ年代の想像力』はわたしも読みました。「エヴァンゲリオン」の倫理(とされるもの)にわたしの思考もかつてたどり着いたことがありますが、“社会にコミットしないという社会へのコミット”というものが今度は出てくるわけで、さて、どうするかとまた考えはじめたところがあります。

136) 評論家の宇野常寛は、〔『ゼロ年代の想像力』で〕〔略〕こう述べる。「寄る辺なき若者たちの「間違った父親」として機能したオウム真理教が信者たちをテロに牽引した」のと同じように「何かを選択すれば(社会的にコミットすれば)必ず誰かを傷つける」のが現代社会である。であれば、「何も選択しないで(社会にコミットしないで)引きこもる」ほかないというのが、この物語〔=「エヴァンゲリオン」〕の倫理であると。

22-3) この年の総選挙における敗北は、厳密には自民党の敗北ではなく、自民党の分裂による票の分断という色が強かった。武村正義や鳩山由紀夫といった、当時の若手自民党員たちが離党してつくった新党さきがけ、さらに羽田孜、小沢一郎らが結成した新生党、そして参議院議員から熊本県知事を経て衆議院議員に当選した細川護煕の日本新党といった新しい勢力が登場し、世間では新党ブームという言葉が生まれていた。
 これらの党が訴えていたのは、これまでの自民党とは違った政治信条などではなかった。政治の腐敗や古い体質を批判する、いわゆる「浄化」を訴えて彼らは登場してきた。こうした彼らの主張は、強い政治不信とともに「現状を変えたい」という当時の国民から支持を得ていった。
 興味深いのは、ここでの主導権争いの中心人物が小沢一郎だったことである。小沢は2012年に、小沢グループを率いて民主党を離党して新党を結成。その後の総選挙における「民主党から自民党への政権交代」という局面を生む重要な役割を果たした。18年前の政局でも、2012年の政局でも、同じく小沢一郎がキーマンとなったのだ。
 小沢らが自民党を飛び出したのは、自民党内の最大派閥であった竹下派の会長の座を巡る争いに敗れたからだ。1993年の新党ブームは、自民党の中の派閥争いの延長でしかなかった。その意味においては、55年体制は終わらなかったともいえる。ただし、この当時の下野以降、いまに到るまで自民党は単独で政権を担えなくなったのである。

26-7) 55年体制の社会党の政治目標とは、政権を担うことではなく、自民党の議席数を国会議員総数の3分の2に届かせないことだった。自民党の党結成以来の目標は「憲法改正」にあったが、その政敵である社会党の理念は「憲法9条の維持」である。つまり、憲法改正の発議のために必要な議席=3分の2の阻止が、そのまま社会党の政治目標だったのだ。

29)中選挙区制の中で3番目、4番目という枠を勝ち取ることで存在してきた社会党の居場所は、ひとつの選挙区から1人しか当選しない小選挙区制の中にはなかった

54) これは、戦後50年という節目に、日本の歴史認識を明確化する必要をもって発表されたものとされている。また、右派からは、左派議員だけで議決した弱腰の声明という批判も受けている。だがこの時点で「村山談話」を発表しなくてはならなかった理由を、経済の側面から考えてみることもできるだろう
 ↓
55) 日本の貿易は、1990年代を通してアメリカからアジア諸国へと比重を移しているのは疑いようのない事実である。戦後、政治的にも経済的にもアメリカだけを見てきた日本は、ここにきて転換を迫られた。アジア諸国の経済成長が、日本の行く末にとっても看過できないものになりつつあった時代の入り口だったからこそ、村山談話は存在意義が発生したのだ。

@研究室

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by no828 | 2017-04-22 15:39 | 人+本=体 | Comments(0)
2017年 04月 21日

本を読むことをやめる。部屋を暗くして、一日、ただ音楽を聴く。ライブ映像を見る。ビデオクリップを見る。誰にも会わない。聴く。聴く。聴く。観る。観る。世界を探す。まだ遠い——『桜庭一樹読書日記』

 桜庭一樹『桜庭一樹読書日記——少年になり、本を買うのだ。』東京創元社、2007年。40(1038)


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 文字どおり、読書日記。桜庭一樹がどのようにして物語を立ち上げていくのか——その習慣というか儀式というかがとても興味深かったです。

 ホストクラブ——わたしだとキャバクラ?——へ行かない理由には深く共感します。

104)六月某日
——世界をさがす。
 気持ちを切り替え、ねじり鉢巻で、再来月から某誌で一年間連載することになる、新作の“世界作り”に取りかかる。
 とっかかりに、音楽を選ぶことにする。この人たちだ、というロックバンドを選んで、〈新宿タカシマヤ〉の《HMV》でアルバムとDVDをばか買いする。七万円かかる(真顔でレジにいったが、ほんとうは気絶しそうだった)。ポイントカードが一回の買い物で満点になり、ポンッと二千五百円のキャッシュバックとなる。
 本を読むことをやめる。部屋を暗くして、一日、ただ音楽を聴く。ライブ映像を見る。ビデオクリップを見る。誰にも会わない。聴く。聴く。聴く。観る。観る。世界を探す。まだ遠い。どこか、に……ある……ガンダーラ……ぐらい遠い。不安だ。部屋でおとなしく音楽を聴く。

六月某日
 一日、音楽を聴いている。読書熱が、もともとなかったもののように、部屋から完全に消える。ふらりと外に出かけても、書店に寄らないようになる。
 みつけようとしているのはどうしようもない世界なので、どうしようもないことを一日、考えている。なにかとっかかりになることが浮かんだら、なんのことだかわからないながらも、メモを取ってみる。

126-7)七月某日
「もうひとつ約束してくれないか……他人から大事にされるようにすること、自分を粗末にさせたり搾取させたりしないこと。他人から搾取する権利なんて誰にもないんだから。繰り返しになってすまないけれど、前に言ったとき、あんたがいやがったものだから」
「……」
モリーナ、約束してくれ、他人にばかにされないようにすると」(プイグ『蜘蛛女のキス』)

228-9) 担当氏「桜庭さんってホストクラブ行かないんですか
 わたし「行かないですよ?
 担当氏「どうして
 わたし「初対面だから
と、担当氏がなぜか椅子から転げ落ちんばかりに驚いて、無言で両腕を振り回す。眼鏡もずれた。な、なんだ、とわたしも驚く。
 わたし「いったい、どうしたのさ?」
 担当氏「い、いや、なんでもないです。ただ、あまりに意外な変化球だったんで、びっくりしすぎただけです。大丈夫です」
 わたし「あぁ……。でも、ホストクラブで会う人って、初対面じゃないですか。わざわざ出かけていって、お金を払って、初対面の人とあたりさわりのない話題をする苦労の意味が、正直、一欠片もわかりません
 担当氏「確かに多くの場合、ホストは初対面の人です。キャバクラも同様だ。いや、言ってることはよくわかるんだけど、あんまり予想外だったんで……」

243)十二月某日
 重たい原稿は、書いたことでもっと重たくなって、それは、誰かに読まれることでようやく作家から離れる気がする。もしかしてわたしが今日も元気でいるのは、たとえば『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』とかを、今日も誰かがどこかで読んでくれているからかもしれない、と、ちょっとだけ思う。担当編集者は、最初の読者でもあって、作家にとってはマラソンのペースメーカーとか、命綱を握っている人とも似ている。この人を信じていないと、怖いところまで潜水できないように思う。……こういう仕事の仕方、編集者への頼り方はもしかしたら独特なのかもしれない。ほかの作家さんたちと話したことないけど……。文藝春秋には担当氏が三人いるので、三人で力いっぱい引き上げてくれる幻影を頼りに、よろよろとだが起き上がる。
 受話器を片手に、床にあぐらをかいて座る。具体的にどこをどう直す、といった打ち合わせを始めたら、ようやく重たさが取れてきた。誰かがあれを読んだ、という事実が自分を急速に救う。
しかし、作家から受け取っちゃったのか、担当氏の声が若干、暗いかもしれない。

@研究室

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by no828 | 2017-04-21 17:40 | 人+本=体 | Comments(0)
2017年 04月 20日

実感と、それを全部はずしたところと、その両方から攻めていかないと駄目だと思います——吉本隆明・大塚英志『だいたいで、いいじゃない。』

 吉本隆明・大塚英志『だいたいで、いいじゃない。』文藝春秋、2000年。40(1037)


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 吉本隆明と大塚英志の対談集。倫理をどう作りあげていくか、というところに少なくともひとつの焦点が当たっていたように思います。

(134)大塚 そういう弱いから殺しにかかってくる相手に対して、弱さを絶えず根拠にするっていうのが、すごく難しいわけです。ガンジーの無抵抗主義じゃないけど、つまり戦車の前に座ったときに、向こうにそこで戦車を進めるためらいがあればいいんだけれども、でもガンジーが座ってても、全然ためらわないで戦車でひき殺せちゃう。そういうディスコミュニケーションが、今あるんじゃないかと思います。逆に言えば、そこまでしないと強弱をはっきりさせられないぐらいに、強い側の言葉が追い詰められてるみたいなところがひとつある。

(136)大塚 弱い者の言葉っていうか、強者の言葉に対峙できるような弱者の側の新しいディスコースっていうか、そういうのを上手く作り出さないと駄目だと思うんです。

(22)大塚 彼らが〔『エヴァンゲリオン』で〕傷ついていくのは、もっぱら彼らの内面的な葛藤においてなんですね。つまり幼い頃に母親と複雑な関係があったり、父親との屈折した関係があって、そういうことで傷ついていくんであって、「戦争」をめぐって傷ついていくわけない。〔略〕あくまでも傷ついているのは敵との戦いにおいてではなくて、内面的なものでいわば自滅していくように傷ついていく。そういう意味で「敵」は不必要なんです。

(36-7)吉本 神戸の少年Aの首切り事件でもそうで、これを病的に犯罪として見るのも間違いだし、少年をカウンセリングと薬で治していくとか、医療少年院に入れるなんて考え方はまったく間違いじゃないか。こういうのは人間の子供の持っている本来的な性質、性格の中に全部入ってるんだというところで包括したいというのが、僕の願望の中にあるんです。
 僕らの年代でも、僕の昔の仲間で一九九二年に亡くなった作家の井上光晴なんて、戦争中は僕と同じで勤皇少年なんです。天皇は神聖にしてとか、天皇は生き神様だっていうのがいちばんの絶対感情とすれば、それは命と取り替えやすいというのが僕ら勤皇少年の特徴でね。それで敗戦となったら、すぐに共産党に転換できたんですよ。どうしてできたかっていうと、両方ともベースを言えば、農本的なんですよね。農村の貧農の層の困っているところを見て、見かねて俺はやるんだというのが戦争中までの右翼の性質なんです。農本的心性からいくと、そういう勤皇少年が翌日から日本共産党の主張に同化できたっていう根拠はたしかにあるんです。僕らはそこを理解することはできる。実感があるんです。

(49)吉本 僕がいちばん固執するのは、じゃあたとえば子供を殺された親が「もう俺は我慢がならねえから、殺したほうの子供を殺しちゃう」って言って、親がどっかで待ち伏せして、刺しちゃったとか、僕はそれについては肯定的なんですよ。

(74)大塚 自己啓発セミナーじゃだめなんですよ。自己啓発セミナーでいいというのは、物作る人間にとっては判断停止と同じだもの。

(98)吉本 消費っていうのは時間と空間をずらした生産なんだという概念をつくるわけです。

(223)大塚 さっきの大江〔健三郎〕さんのことで言えば、大江さんの言説に対しては正論で論破できる。でも正論で論破しきれない部分がいまの吉本さんにはある。佐川一政を糸口に、彼を差別する云々ではなく、正直なところ人を殺して食べちゃった人間が側にいたら嫌だなという実感、それはどんなにモラリストでも人権主義者でも持ってしまう。その上でなお、人を殺した人間といかに関わりうるか、あるいは関わりえないか、という倫理なり人権意識を作らなくてはいけない、ということですよね。
吉本 はい。
大塚 すごく大事なことを言っていただいたと思います。

(228)大塚 日常の実感からもう一度思想とか言葉を組み立て直す。そういうところにおられるような気がします。
吉本 そこらがすごく気になっているんでしょうね。実感をはずすと、元来人間には出来ないことを人に要求してしまうことがあるんじゃないか。実感と、それを全部はずしたところと、その両方から攻めていかないと駄目だと思います。
 文学書に凝った若い時代に親父から、最近のお前は覇気がなくなったなと言われたことがあって、確かにそうだなと思った経験があるんです。今度は、お前の言うことは段々曖昧になってきた、と言われると(笑)、そうかもしれないなという気がするんです。〔略〕
 だから、これは自分の場所、それもあり得る極端な場所というのを二つ選んでよく考えないと間違えることになるぞ、と思っています。

(239)吉本 頭でやっていると、人の本を読んでも多少の違いはあれ、結局は同じようなことを言っているなと思ってしまう。だけど僕らは、同じ事を言うためにだって違う表現は無限にあるんだと思っているわけです。だから僕らのほうがもつんです。

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(15)吉本 『エヴァンゲリオン』の場合ですと、戦闘あるいは戦争ということはもう昔の話、つまり古典的な話であって、倫理も肯定もへちまもない、大っぴらに描いている感じがするんですね。主人公たちのためらいとか弱さとかの中には、戦争、戦闘行為、あるいは殺し合いに対するいろんな思いがよく出ているんだけど、戦闘場面自体を持ってくるとそうじゃなくて、たいへん大っぴらに肯定的に描かれている。そこのところは『ガンダム』とちょっと違うのかなと思います。

(17)大塚 戦争をしないという価値観を選択した国が、でもエンターテインメントとして戦争を描いていくという矛盾が、たとえば映画の『ゴジラ』(一九五四年、本多猪四郎監督)でも、アニメの『宇宙戦艦ヤマト』(一九七七年よりシリーズ化、松本零士・舛田利雄ほか監督)の中にでも、分裂としてあらわれてくる。

(21)大塚 戦争への想像力が、是非という倫理的な方向にではなく、有事を前提にしてその細部を埋めていく方向に向かうというのは、この国の現時点での戦争観とおたく的想像力が妙に一致する点です。じゃあなんでそんなことになっちゃうのかというと、戦争への想像力が実は内側の方に一方的に作用しているんじゃないかという気がします。

(53)大塚 無倫理を肯定するのではなく無倫理を包括するような倫理を探すんだ、というところにきちんと視線を向けるんだということをはっきりさせておかないと、何故、人を殺しちゃいけないんだという若い子の問いを全面的に許容することになってしまいます。

(56)大塚 大日本産婆会というのが戦後GHQに解体させられて、病院で産みなさいということになって、それが実際に普及したのは昭和三十年代で、僕たちの母親っていうのは、育児書とかを読んで育児をした最初の母親たちなんですね。そういう意味で、宮崎勤も、僕も、宮台〔真司〕も、いわばそういう母親たちに育てられたんです。
 もう一方で宮崎勤がすごく興味深いのは、要するにあきる野市五日市の彼が生まれた地区に残っていた一種のフォークロアなんですけど、その地区は主に農業と林業をやっていた。夫婦共々働かなきゃいけないんで、子供の面倒を見るのには、子守に出すんです。そのときに、これは非常にデリケートな言い方になるんだけども、身体が不自由だったりとか、年をとってきたりとか、そういう人たちに子供の育児を任せるケースというのが多かったんですよ。実際宮崎勤は、そういう形態で育てられた最後の世代なんです。具体的に言えば、宮崎勤を幼児期に面倒見てた人というのは、情緒障害で、かつ身体が不自由な男性、宮崎家とは全然姻戚関係はないんだけどもそういう人を宮崎家は一時期居候させて、その人が宮崎勤のいわば母親代わりになっていた。

(57)大塚 宮崎勤を考えるうえで母親というモチーフは非常に重要で、たまに彼も、公判の中で生の言葉を語った感じがするときもあるんですけど、その一つは、たとえば女の子たちを殺す過程で、甘い感じがしたというんですね。これは芹沢俊介さんが非常にこだわっておられるところですけど、甘い感じがして、子供の頃に帰った気がしたんだけども、そのとき女の子が、たとえばあんたなんか嫌いとか、おそらくまあ宮崎がなにかの性的な振る舞いに出たのか、その理由を彼は語らないんだけれども、あるいはたんに機嫌が悪くなったのか、とにかく女の子がぐずり出すわけです。そうしたときに、彼は非常に拒まれた感じがして、その拒まれた感じが、彼の殺意に転化する、と。このプロセスは比較的彼は正直に語ったんじゃないのかなと思っているわけです。つまり母親から切断されたところで出てくる怒りみたいなことですよね。

(151)吉本 人間の脳よりも先に自然の歴史はあったんだというのを認めるのが「唯物論」だと、こう〔レーニンは〕言ってるわけですよね。

@研究室

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by no828 | 2017-04-20 18:21 | 人+本=体 | Comments(0)
2017年 04月 18日

人が語ろうとするのは、伝えたい何かがあるからであるよりも、言葉では伝えきれないことが、胸にあるのを感じているからだろう——若松英輔『悲しみの秘義』

 若松英輔『悲しみの秘義』ナナロク社、2015年。39(1036)


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 エッセイ集。その人のために悲しいと感じるそのときに、その悲しさをその人の優しさで上書きされる経験——そうした経験がもたらす優しさというものがあるとするなら、それはたぶんこの本のことなのだと思います。

 ちなみに、このなかの一節をその冒頭に引用することで書きはじめた論文があります。2番目の引用にはかつて感じていたことが重なり、その頃を思い出しました。

(26「底知れぬ「無知」」) 彼に徳に関する実感がないのではない。徳は存在すると彼も信じている。ある人物によってそれが体現されている光景にも接したことがある。だが、彼は、それが何であるかを決して断言しないのである。この著作だけではない。ソクラテスは生涯を通じて何ら結論を言い残さなかった。

(26「底知れぬ「無知」」)愛するとは、それが何であるかを断定しないまま、しかし、そこに語りえない意味を感じ続ける営みだとはいえないだろうか。誰かを愛し続けているとき、私たちはその人と生きることの、尽きることない意味を日々、発見しているのではないか。この人を愛している。でも、この人がどんな人か一言でいうことはできない、そう感じるのではないだろうか。
 同質のことは、仕事にもいえる。自分の仕事を愛する人は、その仕事にめぐり会えた幸福を語る一方で、自分がそれを極めることはないだろうことを予感している。仕事は解き明かすことのできない、人生からの意味深い問いかけに映っている。

(39「勇気とは何か」) 現代人は、情報を手に入れると安心する。分かったと思い込む。だが、情報に心を領された者は考えることを止めてしまう。考えるとは、情報の奥にあることを見極めようとする営みでもあるからだ。〔略〕
 考えるとは、安易な答えに甘んじることなく、揺れ動く心で、問いを生きてみることだ。真に考えるために人は、勇気を必要とする。考えることを奪われた人間はしばしば、内なる勇気を見失う。私たちは今、武力を誇示するような勇ましさとはまったく異なる、内に秘めた叡知の働きを呼び覚まさなくてはならない。

(65「別離ではない」) 苦難のなかで生き、語ることを奪われたまま死に、歴史の世界の住人となった人たちがいる。歴史家とは、そうした人々の沈黙の声に新たな生命の息吹を吹き込む役割を担う者の呼び名だと、彼〔=上原専禄〕は感じるようになった。

(86「信頼のまなざし」) 心を開くとは、他者に迎合することではない。そうしてしまうと相手だけでなく、自己からもどんどん遠ざかってしまう。むしろ、心を開くとは、自らの非力を受け入れ、露呈しつつ、しかし変貌を切望することではないだろうか。

(91-2「君ぞかなしき」)彼女は、遠く離れた夫にむかって、あなたの声を聞くことができずに逝こうとしている私よりも、私が逝ったあと、夜、独り寝るあなたの悲しみの方がよほど耐え難いだろう、というのである。

(94「模写などできない」重引)すぐに模写を始める前に、やることがあるでしょう。まずこの絵を見て、涙を流して、とても模写などできない、というのでなければ、芸術家とはいえない

(143「あとがき」) 想いを書くのではない。むしろ人は、書くことで自分が何を想っているのかを発見するのではないか。書くとは、単に自らの想いを文字に移し替える行為であるよりも、書かなければ知り得ない人生の意味に出会うことなのではないだろうか。そう感じるようになった。

(150「あとがき」)文章を書くことで、出会うべき言葉と遭遇する。

(4-5「はじめに」) 祈ることと、願うことは違う。願うとは、自らが欲することを何者かに訴えることだが、祈るとは、むしろ、その何者かの声を聞くことのように思われる。

(6「はじめに」) 人が語ろうとするのは、伝えたい何かがあるからであるよりも、言葉では伝えきれないことが、胸にあるのを感じているからだろう。

(32「眠れない夜の対話」) だが、詩は扉であって、真に向き合うべき相手は別にいる。それは自分だ。人は、さまざまなことに忙殺され、自らと向き合うのを忘れて日常を生きていることが少なくないからである。

(80-1「花の供養に」) 石牟礼は、きよ子を知らない。きよ子の両親にしか会っていない。石牟礼にとって書くとは、きよ子のような言葉を奪われた人々の口に、あるいは手になることだった。そうして生まれたのが『苦海浄土』だった。
 私たちには『苦海浄土』を書くことなど到底できない。しかし、読むことはできる。私たちは、この作品を読むことを通じてでも、きよ子と彼女の母親の悲願に応えることができる。
 読むことには、書くこととはまったく異なる意味がある。書かれた言葉はいつも、読まれることによってのみ、この世に生を受けるからだ。比喩ではない。読むことは言葉を生みだすことなのである。

(131「彼女」重引)愛し、そして喪ったということは、いちども愛したことがないよりも、よいことなのだ。(神谷美恵子訳)

(137「文学の経験」)多く読まれるということは必ずしも深く読まれることとは限らない。

(140「文学の経験」) 読者とは、書き手から押し付けられた言葉を受け止める存在ではない。書き手すら感じ得なかった真意を個々の言葉に、また物語の深層に発見していく存在である。こうした固有の役割が、読み手に託されていることを私たちは、書物を開くたびに、何度となく想い返してよい。

(143「あとがき」) 書物には、複数の生みの親がいる。書き手もその一人だが、編集、校正、営業、あるいは書店で働く人も、さらには読者もそこに名を連ねる。言葉は、書かれたときに完成するのではなく、読まれることによって、命を帯びるからである。

@研究室

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by no828 | 2017-04-18 18:23 | 人+本=体 | Comments(0)
2017年 04月 16日

はたしてわれわれは、カテゴリーにとらわれずに、柔軟な態度で生きてゆくことができるだろうか——鈴木裕之『恋する文化人類学者』

 鈴木裕之『恋する文化人類学者——結婚を通して異文化を理解する』世界思想社、2015年。38(1035)


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 エッセイかと思って購入。研究者がフィールドで現地の女性に恋をして、その体験を人類学した、という本。

(4)語り手が当事者であり文化人類学者でもあるということは、主観と客観が混じりあうということである。それが良いことか悪いことかはわからない。テーマと方法論を決めてシステマティックにおこなわれるフィールドワークに基づく報告ではないので、もしかしたら散漫な印象を与えるかもしれない。だがまるで火の粉が降りかかるように次から次へと目の前に立ち現れる「異文化」を受けとめてきた私の体験には、当事者ならではの実感がともなっているはずだ。

(4-5) 私がこの本を書く動機は、人類の多様性を尊重したいからである。私はさまざまに異なる人々がいっしょに生きることをすばらしいと思う。〔略〕さまざまな言葉が頭上を飛び交うなか、ときには片言の、あるいはペラペラの外国語で、ときには身ぶり手ぶりでコミュニケーションをとってゆく。そんなとき、私は心地よい興奮に包まれる。だがこれは異文化交流の第一段階にすぎない。問題はその先だ。異なる人々が実際に生活をともにし、その関係がある一定以上密になったとき、コミュニケーションは破綻を迎える。

(10-1)〔コート・ジヴォワール〕建国の父であるウフエ・ボワニ初代大統領が、かつての植民地宗主国フランスと仲よくしながら、政治的安定、経済的成長を実現する、という政策をすすめた結果、中心街であるプラトー地区には高層ビルが建ち並び、コート・ジヴォワール人にとって自慢の種となった。だがそれもしょせんは借りてきた箱であり、フランスの「ここを足場に、アフリカをその独立後も自分たちの裏庭として押さえつづけよう」という植民地主義的な下心を象徴しているにすぎない。高層ビル群のガラス張りの壁に反する陽光が、この国の大多数を占める庶民の心をあたためることはなかっただろう。

(20) そうだ、きっと人類は野蛮な状態から文明へと向かって進化しているに違いない。
 もっともはやく進化したのがわれわれヨーロッパ人。
 そして他の人々はいまだに進化の途上にある。
 その進化の程度の違いが、さまざまな文化の違いとして表れているのだ。
 だから進化の頂点に立つヨーロッパ人が、他の幼き人々を支配し、教化してやらねばならない。

 こうして世界各地からの断片的な情報を書斎で腰掛けながら比較検討していった知識人こそ、最初期の人類学者である(彼らは皮肉を込めて「肘掛け椅子の人類学者」と呼ばれている)。

(41)それ〔アイデンティティ〕は内的に自分自身としてのまとまりがあり、同時に自分の外側に位置する社会ともつながっている、という感覚である。

(44)民族とはなにか、という問題も、言葉で定義しきれるものではない。実際に民族と呼ばれる集団が存在し、民族紛争も世界のあちこちで起きているのだが、それら個別的な現象を一言でまとめあげようとすると、なにかが言い残されてしまう。こうした限界を承知しながらも、暫定的にではあるが、言葉を使って理解する作業をすすめなければならないのが学問の定めである。
 民族をあえて一言で定義するなら、それは「われわれ意識」をもち、身体的特徴を同じくし、共通の言語・文化・歴史意識を共有する集団、ということになろう。

(52-3)ユダヤ教は民族宗教なので、ユダヤ人はすべからくユダヤ教徒となる。〔略〕ところがイエスは、このようなカテゴリー優位の思考を許さなかった。大切なのは生まれや身分ではなく、その人の行為であり、その行為を裏付ける精神、つまり愛である。この場合の「愛」とは男女間の愛ではなく、神への愛、人類への愛、のことだ。この愛をもって人と接する者こそ、隣人に他ならない。追いはぎに襲われた「ユダヤ人」の隣人が、善き心をもった「サマリア人」であった、というたとえ話は、大切なのはカテゴリーではなく、精神と行為である、というイエスの考えを伝えているのだ。イエスの教えが既成のカテゴリーを乗りこえたとき、ユダヤ教という民族宗教から、キリスト教という普遍宗教が誕生したのである。
 イエスは言った。「いって、あなたも同じようにしなさい。」はたしてわれわれは、カテゴリーにとらわれずに、柔軟な態度で生きてゆくことができるだろうか。自分の属するカテゴリーを、つねに見つめなおす目をもつことができるだろうか。

(70-1)たしかに文字は情報を固定化するが、書かれた内容が真実かどうかを保証するものではない。そこには執筆者の視点、あるいはそのときの政治体制などが反映され、歴史は一定の価値観の上につくりあげられることになる。異なる視点から眺めたとき、歴史はつねに別の姿を現すものなのだ。複数のヴァージョンが同時に存在するというのは、歴史にとって健全な姿なのかもしれない。

(95-6)文化人類学は、西洋が近代化を果たしたのちに誕生した学問である。近代化とは、すなわち合理化。科学は呪術を追いだしてすべてを説明しつくそうとする。科学で説明できないことは非合理的というレッテルを貼られ、迷信、蒙昧などと蔑んだ名で呼ばれる。文化人類学は西洋的合理性の枠からはみでている民族の文化を扱い、そこに西洋のそれとは違ったかたちではあるが、一貫性をもった論理があることを指摘してきた。たしかにこれは、この学問のポジティヴな功績である。〔/〕だが、〔略〕本当に私の五感だけで、この世のすべてを感知できているのだろうか。もしかしたら、私の感覚が鈍っているだけで、それは「存在する」のかもしれない。哀れなのは、「非合理的」な観念をもっている彼らではなく、それを感じとる感覚を失ってしまった私なのかもしれない。文化人類学は現地の超自然的な観念をわれわれの論理的な思考で解釈し、秩序だった言葉で説明しようとするが、それで本当に対象を正しくとらえることができているのだろうか。

(106)われわれ人類学者にとってもっとも大切な道具は、ペンでも、ノートでも、カメラでもなく、この「分析枠組み」(あるいは分析概念)というものなのだ。

(108) かつて人類学者たちは、地方から都市部にやってきた人々は次第に「都市化」されてゆき、「都市民」になるであろうと考えた。その生活様式は都市的状況にあわせて近代化され、民族的なレベルを脱却して近代的な姿に変貌してゆく、というのだ。あるいは田舎に帰ったときは民族文化にしたがって行動し、都市に戻ると同時に都市文化に生活を規定される都市民に変身する、と。だがアフリカの諸都市で実際に起きたことは、このような一方向的な変化ではなく、より複雑なものであった。
 アフリカ都市には多かれ少なかれ西洋化された都市文化に染まった都市民がいると同時に、民族文化をより強調し、同郷者どうしのネットワークを強めながら自分たちの独自性を強調する人々が数多く存在する。アフリカの都市空間では、西洋化=都市化に向かうベクトルと民族化=伝統化に向かうベクトルが絡みあいながら、より複雑な現実が形づくられてゆくのだ。このような現代的な都市空間において生成される「民族性」「民族らしさ」を〈エスニシティ〉と呼ぶのである。

(110) 国家も国籍も、人類が誕生したあとに生まれたものである(あまりにも当然すぎる指摘か……)。個人がひとつの国家(あるいは民族)に一元的かつ永続的に帰属するなどというのは、たんなる思いこみなのかもしれない。それは近代における国民国家形成にともなう政治的要請によって流布された幻想なのかもしれない。人間の精神とは、本来もっと自由でファジーなのではないだろうか。

@研究室

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by no828 | 2017-04-16 15:59 | 人+本=体 | Comments(0)