2018年 05月 15日
大塚英志『大学論——いかに教え、いかに学ぶか』講談社(講談社現代新書)、2010年。78(1145) 教育の、大学の、教員の、そして本務校の入試の、それぞれのあり方について考えさせられた。215ページにとてもよい話が書かれている。初読で目頭が熱くなった。ここにアップロードするために再読した。やはりぐっときた。 64ページ、大塚がその件について発言していたことは知っていた。その裏でなされた大塚の判断を——大塚がはじめて書いたというのだから当然なのだが——はじめて知った。厳しすぎる、あるいは誠実すぎるようにも感じるその判断の吐露の前でわたしは動けない。 16-7)「いかに描くか」を教え「何を描くか」を教えないのは別に彼らの自主性や個性を尊重しているからではない。「いかに描くか」を身につけなくては「何を描くか」など見つけようがないからだ。〔中略〕「描きたいもの」あるいはもっと明確にいえば彼らが物書きとして「描くべきもの」は彼らの内にいまだ埋まっている。それを掘り起こすこと、そして掘り起こしたそれを制御し、「表現」としてアウトプットすること、その二つを行うためには「方法」が必要だというのがぼくの考えだ。〔中略〕「方法」のみを教えることが「描くべきもの」を逆に導き出すことが表現にはあるのだとぼくは思う。 ※傍点省略 18)ぼくは以前、金原ひとみが話題となった時、彼女の小説をそれよりずっと前、同人誌で目にしていたことのある老批評家が、こういう自傷行為をカミングアウトするような表現をせざるを得ない幼さや危うさを抱えたままの作家を不用意にビジネスにしてしまう文壇の現状を小さなコラムで諌めていたことを読み、深く感銘したことがある。確かに表現の世界ではこの「不安定さ」こそが「売り」になることが少なからずある。しかし、それは不幸なことだし、「不安定さ」を「売り」にした結果、自らを壊していった作家やまんが家をぼくはたくさん知っている。それは「見せ物」としてはおもしろいかもしれないが、「ものを描く」こととは自らを壊すことだという見解には同意はできない。だからといってぼくはビジネスライクに割り切って描け、といっているわけでもない。「描く」ためには自分の内側にあるそれを掘り起こし、時には暴走させることさえ必要だが、一方で、それを最終的に「表現」として出力させるためにきちんと制御できなくてはいけない。「方法」はそのためにこそ必要なのである。 ※傍点省略 40)大切なのは神の宿る「細部」と神の宿っていない「細部」があって、ぼくがアカデミズムの論文や、あるいはサブカルチャー系の評論のいくつかをひどくつまらなく思うのは、「神」の宿っていない「細部」についていくら語ったところで、それはただの蘊蓄にしかならないからだ。 53)「抑え難いもの」が書くことでより「抑え難いもの」として明確な形をとることがありうる。そこで初めて、「いかに書くか」が問題となる。つまり「小説の書き方」とは、「作家になる術」としてではなく、人が抑え難いものをどう形にしていって飼い馴らすか、という技術として、まずあるべきではないのかとぼくは考える。 55)ぼくは「近代」なんて少しも終っていないじゃない、と思うのはポストモダンを口走る人々ほど「私」や「私語り」というモダンの流儀に固執しているからだ。 57)ぼくは古典的な物語論を「書くこと」の教育に結びつけようとするのは、人の内にある厄介なものを飼い馴らす術として「物語」があると考えるからである。 61-2)彼ら彼女たち〔=学生たち〕が抱えているのもつまりは「私」とは何か、という時代に一貫してある、ありふれた、そして根源的な問いだ。彼らはこの国の近代小説をつくった明治の作家と同じ問いの中で迷い、そして「私小説」ではなく、「近代文学」のもう一つのオプションとして一編の「まんが」を産み出す、と言ったら流石に言い過ぎかもしれないが。 64)初めて書くことだが、ぼくたち夫婦には子供がいない。そういう人生を選択した理由の一つは、あの夏の日にある。宮崎勤の事件について流されるように発言し、国選弁護人とともに一審に関わるようになるなかで、この後、自分が子供を持つ人生を送ることは少なくともあの小さな四人の子供に対してだけは筋が通らない気がしたのだ。だからあの日、ぼくの家の電話が鳴らなければもしかするとぼくは彼ら彼女らの親だったのかも知れない、とロボットアニメのヒロインと同じ名前の女子学生が研究室の前の廊下で無邪気に友人たちと笑いころげる姿を見て思う。実際、彼ら彼女らは、例えば萩尾望都の『11月のギムナジウム』を授業でぼくが扱い、家に帰って学生がその話をしようものなら、母親が萩尾望都全集をいそいそと差し出す、そんなパパとママの娘や息子だ。親たちの年齢を聞いてもぼくと同世代である。ぼくが彼らの「親」ではなく「先生」になったのはつまりはあの二〇年前の夏の日が分岐点だったということになる。 80)「つくることをつくる」の中には「お金をつくる」ことも含まれている。そのことに気づくか否かがプロとアマの一番、本質的な分岐点だ。 105-6)三浦の本〔=三浦展『下流大学が日本を滅ぼす!』〕にせよ、週刊誌の類で目にする議論にせよ、大学生の質の低下を嘆く大学の教員の質をもっと問題にすべきだ。少し前なら旧制高校や岩波的教養を基準に「今の学生はバカだ」と主張したがったのに対し(それもつまらない基準だけど)、現在ではそもそもが六〇代の教授はいわゆる全共闘世代で学生時代の大学は休講だらけで、しかし議論と政治は大好きなまま学者となり、その下の五〇代前後は「おたく」や「新人類」で学問とおたく的ウンチクを混同し、それ以下の研究者はそれが大学の教員だ、と思っている、という教員の質の低下の負の連鎖をなんとかしろよ、と思う。ぼくのようなアマチュアが教員になるのは世も末だが、でも、三浦の議論やそれに乗る人々は自分たちの「バカ」さ加減をかえりみることはないのだろうか。 125-6)そもそも徹底した人嫌いのぼくが本当にかろうじて社会で生きてこれたのは、フィールドワークで初対面の人にアポなしで話を聞く、という民俗調査の経験があるからこそで、それがなければ多分、大学を出てどこかの時点で引きこもっていた、と思う。ぼくは今でも人に会うのも関わるのも本当に嫌いだが、「人に会う」というモードがぼくの中で民俗調査の時に否応なくつくられたのでどうにか社会で生きていける。「他者に対して開かれる」などと批評用語でいえばもっともらしいことを民俗調査では地をはうように繰り返し身につけなくてはいけないのだ。 126-7)民俗学が半端な形で直接、行政と結びついて「役に立つ」ことにぼくは批判的だ。別の場所でも書いたことだが民俗学は十五年戦争下にナチスドイツの民俗学を模倣して国策科学として学問化した歴史をもつ。戦後は柳田民俗学から分離した岡正雄の民族学が一転してGHQの占領政策を支えた。また脱線するけど岡や江上波夫たちが有名な「騎馬民族説」をとなえた座談会が発表された民族学会の機関誌『民族学研究』の発行元はGHQの下部組織、CIE(民間情報教育局)である。現在の民俗学と行政の接点はせいぜい観光イベントのアドバイザー的ポジションぐらいだ。石原慎太郎に主導された都立系大学の改革は人文科学系の学問を政策科学化できるか否かを基準に切り捨てていったが、だからといって政策に「役に立つ」という考え方を「一般教養」系の学問が付け焼刃で迂闊に持つとかえって厄介だ。 159)対立した学生同士の間に別の学生が入り、話し合う、ということが何度かあったようだ。いっしょにものをつくるなんて「仲良く楽しく」というわけにはいかない。仲良くなくても楽しくなくても、だからこそ一つの仕事を「気持ち」を乗り越えてやっていくことが必要なのだ。教授会でも先生たちは表向きの対立を皆避けたがる。問題が問題としてどうしようもないところにくるまで放置する。きちんと対立した上で問題点を明確にし、よりいいカリキュラムをつくる、という当たり前のことを「先生」でもできない人が多い。しかし、学生は、自力で問題を乗り越えようとしている。 173-4)一つの言語から常に他の言語に「翻訳される」ことを前提として書く時、〔中略〕常に「普遍的であること」を自身に強いている、というようなことを柄谷〔行人〕は話したのだが、翻訳可能性を実際に生きることでより新しく普遍的な何かが生まれる、という考え方はぼくにはとても納得がいった。 198)特に高校で始まりつつある「まんがやアニメを教える試み」がぼくにとって興味深い。そこで始まっているのはまんが家を養成するために「まんがの作り方」を教える教育ではなく、「まんがのつくり方」を教えることで何が教えられるのか、という試みだからだ。 ※傍点省略 204)「まんがの教え方」を考えることでもう少し広いもの、文科省が思いつきで現場に強要し、そして放り出した「総合学習」などというものの本当は向かうべきだった先の一つはこのあたりにあるのかも知れない、とふと思いもする。だからそういう場所にやはり身を置きたい、と思う。そして何年か先、ぼくの教え子たちがまんが家とは違う人生を選んだとしても、こういう場所に「先生」としていてくれるといいな、と思う。 206-7)AOというとレベルの低い学生が入ってくる諸悪の根源のように言われていて、AOを廃止することが一流の私学の証みたいな空気があり、関西圏でも、とうとうどこどこの大学がAOを始めた、みたいな言い方で、さも苦渋の選択をしたように語られる。けれどぼくにとって、AOは多分、「まんがを教える大学」にとってはベストの入試だと思う。というより、AOはちゃんとやればいい入試になる、とずっと思っていた。〔中略〕短い面接ではうまく話せない子たちの「ことばになりかけの手前のもの」に耳を傾けることもできる。 215)まず、一時間、机の上にずらり並べた絵本をみんなで見ようね、と受験生に言う。その姿を観察する。雑談に流れてしまってもいいと思ったから私語はOKと伝えた。しかし、誰もしゃべらない。黙々と他の受験生の作品の頁をめくる。頁をめくる手がとまり見入ったり、あるいは蒼ざめて打ちひしがれている子が幾人も眼に入る。ぼくたちはうなずく。うん、ちゃんと他人の作品を見てへこめるって大事だよね、と思う。そういう子がいつかしっかりと物を描けるようになる。そして最後に着席させ、一人一人、自分の作品の最後の頁を開き(そこには主人公のアップの絵が必ずあることになっている)、それをみんなに見せて自己紹介をさせる。それぞれが、あ、あれ描いたのはあの子なんだ、と確かめる。作品を覚え、そしてその人に至る、というのはぼくたちの世界の正しい「他者」との出会い方だ。 219)今回の「伝説」を一つ紹介すれば、落書きノートの中にうっかり中川翔子のグラビアの切り抜きを大量に挟んだままにしていた女子がいたことだ。それまでは面接でしどろもどろだったのに「ショコタン好きなん?」と多田由美さんが聞くと(という会話そのものがまんが業界的にシュールなんだけれど)、水を得た魚という例えが本当にぴったりのように嬉々として話し出す。よく聞いていると中川翔子の脚が他のアイドルよりちょっと短くてその股関節が好きだということをいっしょうけんめいに説明しようとしている。それで面接はA評価である。何故かというと、まんが家で絵の上手くなる子は必ずアイドルの話をすると頭の骨の形が、とか、鎖骨がね、という話をするからだ。そういうふうに人のカタチにちゃんと「萌え」て、それを表現したいと思う子は「こっちサイド」の人間である。まあ、ぼくは彼女が入学してきたら「中川翔子の話がウケて合格した奴」というキャラだてにしておもしろがって、学生たちはまた先生は思いつきで入試をやっていると呆れるのだろうが、半分は嘘ではない。もう一人、「犬まんが」について滔々と語りつづけた男子もいて、なんとかいう種類の犬はまだまんがの主人公になったことはない、ということでそれを描きたい、と語った。ピンポイントすぎる、とは全然思わない。描くことにまず小さなピンポイントがあればそこから世界は広がっていく。合格。 ※傍点省略 220-1)結局、まんが以外の別の表現の方に向いているかもしれないね、という子を幾人か不合格にしたけれど、今回に限っては事務方の示した数字よりやや多めの合格者を出してしまったのは水増しでもなんでもなく、この子をこう育てたらこうなるよね、というイメージが一人一人に湧いてきてしまったからに他ならない。もちろん毎年、なるべくそういう「自分の学生」としてのイメージがつくれる子を合格させてきたけれど今回は特にそれが鮮明だった。受験生が帰った後、受験生たちの世話をしていた助手が、「楽しかった」と口々に言いながら帰っていきましたよ、と報告してくる。 235)千葉〔徳爾〕は柳田〔國男〕の学問や知識ではなく、書庫に引き籠もり、そこから自身の学問を立ち上げていった過程を追体験しようとしている。柳田も、そうしむけている印象がある。だから「疑問とはどう起こすべきか」というノウハウを柳田は説かない。それを自分がどうやって手に入れたかだけを語る。 247)誰もが書き、そしてそれを世界に発信できる。そういう時代が、ようやく今、ここにある。やってきたのは散々にいわれたポストモダンではなくて「書くこと」「発信すること」が徹底した機会均等化された「近代」の理念が実現した時代だ。結局、WEBが最後にもたらしたものは「近代」だ。それはこのところぼくがずっと言っていることだ。 248)結果として「まんがを教える大学」で「先生」をやることになったが、そこでぼくがやったことは「まんが家になる勉強」だと学生たちを言いくるめながら、その勉強をもう少し深く掘り下げて普遍的なものの尻尾ぐらいにさわるところまでいけないか、とあれやこれやと実践してみることだ。別に学生たちのモチベーションは「まんが家になること」であって構わないし、そういう期待にはちゃんと応えることはできたと思う。 249)いつかどこかで役に立つ。何故、それでいけないのか。何故、教える側がそう自信を持って言ってはいけないのか、と思う。大学でこの四年間、ぼくが行ったことは若い時からずっとものを書きながら考えてきたことを「教える」という目的の中で再構築する、ということだ。それは自分の思考を「批評」ではなく「方法」として徹底してつくりかえることであった。だから「学問として」ではなく「方法として」ということがぼくの選択だ。 @S模原
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by no828
| 2018-05-15 22:57
| 人+本=体
2018年 05月 14日
星野博美『のりたまと煙突』文藝春秋(文春文庫)、2009年。77(1144) 単行本は2006年に文藝春秋 よいエッセイ。新しいものの見方が示されている。角田光代の解説にも力が入っている。 206-7ページを読んでわたしは絶句した。「え」という言葉さえも出てこなかった。発言は体験に裏づけられなければならないとは思わない。だが、事実が淡々と記されることによってのみ生まれる強度があることも認めなければならない。 12)移動する者にはする理由が、移動しない者にはしない理由がある。人は故郷を選ぶことができない。しかしなぜそこが故郷なのかを考えると、違う時間軸が立ち上がってくる。 46-7)言語が自由な母国に戻り、たった二時間情報の洪水にさらされただけで、私は不機嫌になり、ハッピーでなくなった。旅先で比較的ハッピーでいられたのは、つまるところ私が当地の言語を持たないがゆえに情報の洗礼を受けず、いまそこにあるはずの緊迫から、無知のバリアで守られていたということなのだろう。私が、あるいは少なくない旅行者が、旅先で無責任にハッピーでいられるのは、当地の情報からあらかじめ除外されているからだろう。極論をいってしまえば、情報によって憂鬱になる人間がハッピーでいたいと思うなら、旅をし続けるしかないのかもしれない。でも、そんなハッピーに、どれほどの意味があるのだろう? 私は自分の場所でハッピーになりたい。どうしたらそうなれるのか、庭で日向ぼっこをしながら今日も考えている。 48-9)同時多発テロを考える時に欠かせない伏線は一九九一年の湾岸戦争だが、私はこの戦争の映像を一度もリアルタイムで見たことがない(と平気な顔で書いたところで、恐ろしくなってくる。戦争は、少なくともアメリカが関わる戦争に関しては、リアルタイムで世界中に放映されると無意識のうちに思っているのだ)。〔中略〕この一件以来私の中に、同時に映像を見て衝撃を受けていないから、自分にはこの戦争を語る資格がないのではないか、という奇妙な負い目が生まれるようになった。この湾岸戦争コンプレックスはいまだに尾を引いている。〔中略〕なぜ湾岸戦争を語れない自分が、9・11については偉そうに語ろうとするのだろう? 私はどちらの現場にも立ち会ってはいない。個人的に、両事件のたった一つの違いは、中継映像を見たか否か、それだけだ。つまり世界を揺るがす事件のランキングを中継映像の有無で決めているということになる。だとしたら、「映像を見て衝撃を受けた」というだけの理由で、9・11を語る資格があると思いこんでいる自分のほうが、よほど危ういのではないだろうか。私はいつだって、真実を知らない。いまの私には、同時多発テロが世界や自分に与えたインパクトについて意気揚々と語ろうとする自分よりも、湾岸戦争コンプレックスから抜けられず、おどおどしている自分のほうが、少しは信用に値するような気がしている。 52-3)ファミリーレストランで繰り広げられる不思議な言語世界。日本語の不得手な人間だったらパニックになってしまうだろう。会話というのは、相手の質問が理解できてこそ成り立つものだ。しかしファミリーレストランで問われる質問は、意味がわからない。というより、意味がない。こちらは全部「はい」といっていればいい。考える必要などない。〔中略〕彼らの言葉は、へりくだり、サービスを尽くしているように見えるが、実はそうではない。これはコーヒーですよ、これで揃いましたね、これは千円ですね、これだけいちいち念を押してあなたは「はい」と答えたのだから、当方にはまったく責任はありませんよ、という、誘導尋問形式の責任転嫁ではないかと思うのだ。意味のないことをいい続け、相手をうんざりさせて思考停止状態にし、「はい」をいわせるためだけに膨大な質問を用意しているのではないだろうか? そしてさらに不思議なのは、必要ない時はこんなに話しかけてくるくせに、いざコーヒーをお代わりしようとすると、視界から誰もいなくなってしまうことだ。 66)必死で目をそらそうとしていたが、南米にいる間じゅう、不安でたまらなかった。それなのにイグアスの滝を見に行き、自然の造形物のあまりの存在感に圧倒され、輪をかけて情緒が不安定になっていた。そしてつい国境を渡ってしまい、たまたま入ったレストランで美味しいビーフステーキが出された。救われたと感じた。その店に辿り着き、ビーフステーキを食べるまでには、私だけの物語があったのだ。もしその時現金で勘定を済ませていたら、私がそこでビーフステーキを食べたことを知っているのは、世界じゅうでただ一人、給仕してくれたあの中年ウェイターだけだったはずだ。ところがカードで支払ったことで、私がそこにいたという情報は確実に記録されることになった。500円で、自分の大切な思い出を売り渡してしまったような気がした。「お金で買えない価値がある。買えるものは、マスターカードで」カード会社の宣伝コピーが頭の中でこだまする。500円で、買ったのではない。500円で、私は売ったのだ。 90)現在見ている風景とは一体何ものなのだろう。それは嘘ではないのだが、丸々真実でもない。あるものは見え、ないものは見えない。まったく当然のことなのだが、そこに大きな落とし穴がある。そこにないものは、なかなか見えないのだ。〔中略〕このところ、東京大空襲を忘れるな、広島、長崎の悲劇を忘れるな、という声をメディアを通してよく耳にする。それはもっともだと思いつつ、「忘れるなといわれてもなあ」というのが私の正直な思いだ。「忘れるな」という言い方は、記憶を共有している人にしか通用しない。知らなければ、忘れることもできない。知らない人間には、「忘れるな」の前に「知る」という段階があり、痕跡や証拠、証言が必要だ。さらに覚えておくためには、感情の揺れが決め手になる。しかしスクラップ・アンド・ビルドが繰り返される現実の中で痕跡は消され続け、私たちは過去を知る手かがりを次々と失っている。ないものは、なかなか見えない。 92-3)軍需工場、空爆、占領、米軍住宅、親米大学……その遍歴を考えていると、心がイラクへ飛んだ。イラクでもこれから半世紀がたったら、そこに米軍住宅があったことを誰も覚えていないような芝生の公園ができ、無数の家族たちが幸せそうに花見をしたりするのだろうか。開校にアメリカが深く関わったことを知らない学生たちが、ベースボールをしたりフリスビーを飛ばしたりして楽しいキャンパスライフを送ったりするのだろうか。それとも、それほど忘れっぽいのは私たちだけだろうか。すべてを忘れて、私たちは幸せに近づいたのだろうか。 99)「かぐや姫」や「桃太郎」に出てくる老夫婦には子供がいなかった。双方とも「子供が欲しい」という思いが出発点となった物語だ。子供がいなかったのだから、当然孫もいなかったはずだが、互いを「おじいさん」「おばあさん」と呼びあうのは不自然ではないだろうか? 次世代のいない老夫婦が互いを呼ぶ呼び方、歳と共に変化するとは思えないのだが。 156)小学生の時、塾で月野さんという女の子に出会った時、「私は月野になりたかった」といった。すると驚いたことに彼女は「私は星野になりたかった」といった。彼女は、月の野原に星がないことがずっと不満だったのだそうだ。高校三年生の時、今度は日野さんという男の人と知り合った。彼は寺山修司が率いていた天井桟敷の元劇団員だった。日野さんは、「俺は星野か月野になりたかった。日野は一番ロマンがない」といっていた。こういう姓を持った人は同じようなことを考えているものらしい。 206-7)私が片思いをしていたKは〔中略〕その翌年の夏休み、アメリカに短期留学をした。〔中略〕彼はお盆に合わせて帰国し、成田に着くとそのまま羽田に向かい、キャンセル待ちをして大阪行きの日航機JL123便に乗った。その飛行機は、群馬県の御巣鷹山に墜落した。一九八五年八月十二日のことだ。私は彼が予備校時代によく来ていた赤いセーターと、遺品の中から見つかったペンケースと血で染まったアドレス帳を形見に分けてもらった。そのアドレス帳の中に、私の名前はなかった。高校生の頃、「一生結婚しない」宣言をしていたHは、Mと同じスキーサークルで知り合った後輩と結婚し、二人の息子に恵まれた。そして三人目の子がお腹にいた二〇〇一年九月十一日、ニューヨークの世界貿易センターで夫をなくした。いまは私たち五人が最後に顔を合わせた家で、三人の子育てに奔走している。 344)猫に死後の世界があるとしたら、それは猫だけの世界なのだろうか? それともまた人間と一緒なのだろうか? 猫にしてみれば、あの世に行ってもまた人間と一緒では、いつまでも人間からちょっかいを出され続けて、安寧など得られないかもしれない。人間が動物を擬人化し、時に家族や友人といった人間関係以上の強い感情を寄せるようになると、その人間の死生観も微妙に変化し始める。既存の宗教は、ここまで人間が動物を擬人化するスピードが速いことを想定した宗教的根拠を用意していないのだから、私自身、しろやたまがどこへ行ったのかをイメージできず、困ってしまった。 362)片付けをしていてもう一つ興味深かったのは、人間というのは、自分のものは何が何でも残したがるが、人のものは捨てたがる、という点だった。相手が目を離した隙に、勝手に捨てるという姑息な手段さえ用いて、人のものが捨てたい。その様子はまるで、厳重な重量制限のある最後の救命ボートに乗りこむ人たちのようだった。 365)自分は最後に、どんな記憶を覚えていたいのだろう? 富める者も貧しい者も、健やかな者も病める者も、幸福な者も不幸な者も、大勢の人に囲まれた者も孤独な者も、墓場に持っていけるのは思い出だけだ。とかく不平等がはびこる現世で、そのことだけが人間に与えられた、唯一無二の平等なのかもしれない。だから、いつか消えゆく日まで、思い出をたくさん作って生きてゆきたい。それだけが、誰にも奪うことのできない、自分だけの宝物なのだから。 367-72)読みながら強く思うのは、生きることは失うことと同義だ、ということだ。日々を過ごしているだけで私たちは何かを失う。失わない人生はあり得ないのだ。〔中略〕作者は「生きることは失うこと」と言い切ることをおそれない。失うことをかなしんでいないということではない、失うことと向き合おうとしているように、私には思える。だから、本書には至るところに「死」が描かれている。〔中略〕けれど、喪失の連続を実感させる本書は、読み手をかなしい気持ちにはさせない。ああ、失うことしかないのだと、絶望的な気持ちに追いこむことはしない。それはおそらく、作者が、失うことがマイナスで得ることはプラスだという単純な思考を持っていないからだ。失うことは、マイナスでもプラスでもなく、何かを持っていたという証である。いとおしむべきたいせつな何かを、確実に私たちは持っていた。その何かは、私とともに在ることによって、私自身を変容させた。失うことでいくら泣いたっていい、自分を責めたっていい、でも自身の内の変容は、他者(ときに動物、ときに光景)とかかわったことによって生じた変容は、消えることがない。そのことを私たちは知らなければならない。その「持っていた」証拠、自身の変容こそが、あとがきで作者のいう「宝物」なのではないか。私たちが平等に持ち得る、もっともすばらしいもの。〔中略〕時代に安易に取りこまれることを断固拒否し、自身の足で歩き自身の手で触れ、自身の目で見、その方向を指さしてくれる同世代の作家がいることを、私は本当にうれしく思う。彼女が指さす先には、いつだって私の気づかなかった、見ようとしなかった「今」がある。 ※角田光代「解説——彼女が指さす先」 @S模原
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by no828
| 2018-05-14 23:21
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2018年 05月 13日
門井慶喜『東京帝大叡古教授』小学館(小学館文庫)、2016年。76(1143) 単行本は2015年に小学館 日本に大学が東京と京都の2つの帝大しかない時代のミステリ。主人公は宇野辺叡古(うのべ・えいこ)というウンベルト・エーコに似た名前の教授。語り手は阿蘇藤太(あそ・とうた)という偽名の学生で、彼が何者なのか、のちに何者になるのかが結末で明かされる。 26)「それなら、本名は隠すがよかろう〔中略〕将来この大学に入学したとき『ああ、あの高梨教授が死ぬ現場にいた』などとささやかれるのは万事よろしくない。つくべき運も離れよう。いまは仮面をつけておけ」 69)「高梨君とは敵味方の仲だったが、それとこれとは話がべつだ。もっと長生きさせてやりたかった。おそろしいのは無知の善意だな。悪意よりもおそろしい」 160)「文学に熱中しろとは言わんが、藤太、政治にしか興味のない政治家、法律にしか関心のない法律家にだけはなるな。人の世を沙漠にするのは、そういう連中だ」 174)「未知の街を歩くことは、未知の自分を見つけることだ」 176)恋愛とは、発言不可能の一形態なのだ。 435)「人はなぜ、学問をするのか〔中略〕お前が私に聞いたことだぞ。藤太」 448)「芸術は万人の理解を欲しない」 453)「人の話を聞くときは、ただ聞く羊になるな。発言の機をむさぼる狼であれ」 @S模原
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by no828
| 2018-05-13 23:31
| 人+本=体
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アバウト
自省のために。他者の言葉に出会うから自分の言葉を生み出せる。他者の言葉に浸かりすぎて自分の言葉が絞り出せなくなることもある。自分の言葉と向き合うからその言葉は磨かれる。よろしくお願いします。 by no828 カレンダー
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