思索の森と空の群青

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2017年 07月 04日

何かを断定するのには覚悟が必要で、その覚悟を持たないで軽々しく物事を決めつけている人が多いんじゃないかな——伊坂幸太郎『3652』

 伊坂幸太郎『3652——伊坂幸太郎エッセイ集』新潮社、2010年。62(1060)

 ※タイトルの「3652」は「さん・ろく・ご・に」|http://www.shinchosha.co.jp/book/459605/

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 2000年から2010年までに著者が書いたエッセイをまとめたもの。エッセイが得意ではない、小説家は小説を書くのが仕事だし、自分の日常は平凡で書き留めるべき事柄にあふれているわけではないし——と、「あとがき」に書かれています。

31) 『A2』(森達也・安岡卓治著・現代書館)を読み終える。オウム信者を追ったドユメンタリー映画「A」の続編「A2」。その撮影内容やエピソードが書かれている。とても面白い。オウム信者と住民との対立がクローズアップされていて、もちろんそれはそれで興味深いのだけど、もっと普遍的なことを教えてもらった気分になる。正義感や、押しつけがましい問題提起とは無関係だ。「何かを断定するのには覚悟が必要で、その覚悟を持たないで軽々しく物事を決めつけている人が多いんじゃないかな」そう言われている気持ちになった。

35) 専門用語というものが苦手だ、という人がいます。僕がそうです。自分の知らない言葉を、平然と使われてしまうと、爪弾きにあったような気分になりますし、理由もなく劣等感すら覚えてしまうのです。みんなが知っている言葉を使ってくれればいいのに、と思ったりするのですが、よく考えてみると、この「みんな」が曲者なのかもしれません。

42)「狩猟民の世界では動物と人間の関係は食うか食われるかであり、それが農耕文化になると、人間は動物を殺して食ってもいいが、動物は人間を殺してはいけないという関係を作り出した」 ※重引

117) 結局、「魔王」も「呼吸」も政治に関係するお話になりました。
 社会や政治に関心を持たず、距離を置き、自分の周辺だけが愉快であればそれでいい、という人々や、そういった感覚の小説に違和感を覚える僕としては(僕自身の作風が、そうだと認識されているのは覚悟した上で)、政治に接続したお話を書いたことは納得できる作業でした。

122) 正直なところ僕は、「少年には未来があるから、罰を与えることよりも、矯正を考えるべきなのだ」という考え方にはどうも違和感があって、むしろ、「少年だって大人と一緒に厳しく罰しないと駄目なんじゃないの」と考えるタイプなのですが、ただ、家裁の調査官の本を読んだり、M君の話を聞いていると、「正解なんて、ないのかもしれないなあ」と感じるところもあり、「答えが出ないものは、小説にするべきなんだ」と常々、思っている僕としては、そこで、調査官の話を書くことに決めたのでした。

124) 表面的な事実だけを見て、「理解できない」物には蓋をしてしまい、「若者は異常になってきている」と決め付けるのは、このカミュの時代から現在まで、変わっていないということかもしれません。

186) 「そうです、ネズミの話です。船が沈みそうなとき、ネズミは事前にそれを察知して、逃げ出すというじゃないですか。作家はそれと同じで、事前に世の中の危険を察知して、警鐘を鳴らす役割なんですよ
作家は逃げ足が速い、という話ですか
「違います」と記者は即座に言った。「作家はネズミのように危険を察知して、しかも、船からは逃げず踏ん張るべきなんです

@研究室

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# by no828 | 2017-07-04 18:31 | 人+本=体 | Comments(0)
2017年 07月 02日

無自覚な悪が跋扈するこの世界に、善であろう、正しくあろうとする者が生きてゆく意味はあるか——宮部みゆき『ソロモンの偽証』

 宮部みゆき『ソロモンの偽証』新潮社(新潮文庫)、2014年。61(1059) 

 単行本は2012年に同社

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 ひとりの生徒の死の真相を生徒たち自身で明らかにするために学校内裁判を開く、という物語。個々の生徒がどういう生徒なのかということに加え、学校のなかの友人関係の機微や生徒の家庭環境の複雑さの描写が物語に厚みをもたらしています。自分の中学時代を対比させながら、教師の立場を想像しながら、学校とは何なのかを考えながら、読みました。

 ※引用冒頭の数字は「巻・ページ数)」

1・38)本人が勉強したいってんならいざ知らず、学校なんざ行かなくてもこいつらには生計の道があるんだから、嫌がるもんを無理に机に縛りつけることはねえ、そうだろ、先生?
 実はこの考え方は、自営業者や町工場の多いこの下町では、それほど珍妙なものではない。倅や娘が家業を継いでくれることを望む親は、よほど飛び抜けた能力があるならばともかく、ごく普通のデキである自分の子供が、東大に行って官僚になろうかというような子供と同じだけの学力と勉強の量を要求される今の学校システムに、ほとんど本能的な嫌悪感を抱いている。

1・41) 健一にはいろいろな可能性があると、向坂の小母さんは言った。だけど本当にそうだろうか? 自分には可能性なんかあるんだろうか? ただ家業がない、親から引き継ぐ店や職業がないだけではなくて、可能性もないのじゃないのか。

1・92) 涼子の目は乾いていた。級友の死にショックは受けたけれど、涙は出なかった。泣かないあたしは心が冷たいのだろうかと、心の隅で考えた。そもそも、柏木卓也の死を悼むよりも、そんな自分の心の動きの方を気にしてしまうというのは、冷血人間の印だろうか。

1・97) 人が死ぬということへの不満?
 それは、とても抽象的なもの。
 柏木卓也とは、その程度の距離感だった。そして涼子は、多感な年頃らしい一時的な強い感傷に浸るよりも、その感傷の生まれ出る原因を冷静に見極める理性の方を優先する少女に育っているのだった

1・123) “死”には衝撃を受けた。それが身近で、ましてや学校内で起こったことには。でも、それは、柏木卓也という級友が死んだからじゃない。だいたい“級友”って何だろう? ただクラスが同じだったというだけでは、友達とは呼べないんじゃないのか。

1・361-2) 「非行少年たちって、何かとても大きな事件を起こしてしまったり、関わってしまったときに、大人のようには、それを隠しておけないことが多いんです。罪の意識に苛まれて、という場合もありますし、その逆で、自分のやったことを吹聴したいという誘惑に勝てない、ということもあります。あるいは、自分のやったことを正当化して、それを誰かに追認してもらいたいという気持ちもあるみたいに思えるんです。一人で抱えていられないんですね。心の容量が、大人より少ないと言えばいいでしょうか。だから、どんな関わり方であれ、彼らが柏木君の死にタッチするところがあったなら、どうやったってそれが表情や態度に出てきたと思うんです。繰り返しますが、それで心を傷めているのではなく、それを“手柄”に——俺って凄いことやっちゃったぜ、と思っている場合だとしても、ですよ」

1・429-30) 幼さは、若さは、すべて同じ弱点を持っている。待てないという弱点を。事を起こせば、すぐに結果を見たがる。人生とは要するに待つことの連続なのだという教訓は、平均寿命の半分以上を生きてみなければ体感できないものなのだ。そして、うんざりすることではあるけれど、その教訓は真実なのだと悟るには、たぶん、残りの人生すべてを費やすまでかかるのだ。 ※傍点省略

2・16) 自己中心的だということは共通しているが、この年頃の子供はみんなそうだ。そうでなかったらかえっておかしいくらいだ。十代前半から半ばまでの年頃は、徹底して自己チュウであって、自己チュウであることを隠すだけの用心深さと狡さを持ってはいない。だからこそ、手痛い経験を積んで自己チュウの限界を知り、社会と折り合いをつける方法を学んでゆくことのできる時期なのである。
 ただ問題は、世界の中心にいる自分自身の、そのまた中心にあるものが何か、ということだろうと、礼子は思う。

2・344) 誰か一人の言うこと、やることに振り回されてはいけない。一度学んだはずのそのことを、松子はすっかり忘れていた。どうしてなのか自分でも不思議だ。樹理のやろうとしていることは正しいのだから、疑う余地なんかないと思い込んでしまっていたのか。
 本当に正しいのかどうか、問い返してみることを忘れていた。

2・350) 彼には——そう、「知性」があった。中学生にはまだ分不相応かもしれないその言葉でしか表現できない。それが柏木卓也の芯にはあった。

2・439) 章子はあははと笑い、顔から暗い陰りが消えた。「涼ちゃんは大丈夫よ。とりあえず、今の成績で行けるかぎりのいい学校へ行きなよ。いいところへ行っておけば、大学の選択肢も増えるんだもの
「いい加減だよねぇ」

3・221) 「誰々がそう思ってるとか、推測してるとか、そのように思うのが妥当だとか、それは“事実”じゃないだろ? おまえは“知ってる”んじゃない。“そう思ってる”だけだ。たとえそう推測してるのが先生たちだって、推測はあくまで推測だよな?」

3・223) 「それで負けるんなら、いいんじゃねえの。こっちが負けることで真実にたどりつくってのも、アリでしょ
 藤野涼子は、佐々木吾郎を小さく見積もりすぎていた。吾郎はただ如才ない、付き合いがいいだけの男子じゃなかった。
 負けることで真実にたどりつくこともできる。そうだ、吾郎の言うとおりだ。あたしが求めているのは真実なのだ。勝ち負けじゃない。

3・322-3) 「死んでからわかったって」
「え?」
「浅井さんていう女子が、いい子だったってこと。今、そう言ったよね」
 何となく気圧されて、健一は返事ができなかった。
死んじゃってから、まわりの人間が何をわかったって、意味ないよ。そう思わない?
 答えを求められている。黙ってやり過ごすことはできなさそうだった。
わからないよりは、わかった方がいいと思うけど……
まわりの自己満足のためにはね

4・79) 一美はワープロのタイピングが正確で、早い。文章のまとめも上手だ。いわゆる作文上手ではないが、聞き書きをまとめるという機能的な作業に優れている。これも普通の国語の授業では見えにくい能力だろう。 ※「早い」は「速い」?

4・288) 〈笑み〉の反対語は何だろうと、健一は考えていた。愛の反対語が憎しみではないのと同じように、これもまた〈悲しみ〉ではないような気がした。〈怒り〉でもない。健一にはわからなかった。わからないその感情が表情になって、柏木則之の顔の上に浮いている。

5・24-5) そして恵子は、能動的であれ受動的であれ大出俊次という暗い惑星から自由になったことで、自分の生活を見直し、建て直すことができるほどの自己コントロール能力を備えた少女ではない。時代が女の子たちの早熟を促し、早く大人びることに高い価値があると唆すことの大きな弊害は、人生の早い段階から異性に依存せずには自我を保つことができない女性たちが増えることだ。恵子はその典型だった。だから俊次と離れても素行不良はそのままで、ただ単に〈群れる不良〉から〈つまはじきの不良〉に変わっただけの感がある。

5・169) 「ほかにも、卓也君は学校に対する不満を述べましたか?」
「申しました。生徒の個性や個々の能力差を考えず、一律に同じことをさせ、同じ結果を求めるとか
 証人はまた法廷の雰囲気を気にしたが、そこで吹っ切ったように言葉を続けた。
先生方は頼りないとも申しました。優しい先生は、ただ人が好いだけで無能だ。一方で、教育者としての自覚も才覚もなく、自己顕示欲や他人に対する支配欲を満足させるためだけに教職に就いたような人もいる。暴力志向の強い先生もいる。学校内では生徒は弱者で、先生は圧倒的な権力者だけれども、その権力を正しく理解して、正しく使おうとしていない。自分の気分で生徒をふりまわすような先生に、どうして従わなければならないのかわからない
 一気にそれだけ言って、さらに足した。
学校という体制は社会の“必要悪”なのに、城東三中の先生方には、それがわからない。学校は神聖な場所だぐらいに思っている。単に、権力者である自分たちにとって都合のいい、住み心地のいい場所であるだけなのに、と

5・255) 「親も、どうしても上の子に我慢させて、下の子の方に甘くなっちゃうからねえ」
 我が家でもそうかなと、藤野は思う。三人姉妹の長女である涼子は、妹たちのために我慢することが多い。藤野も妻も、それを当然だと思っている。お姉ちゃんなんだから、と。
男の子は難しいわよ。女の子は口が達者だし、髪の毛引っ張り合って喧嘩するから、まだわかりやすいの
男の子は胸に溜め込むからね

5・378-9) 「現行の評価システムには反対なんです。美術史や音楽史なら、常識的な範囲で教えて、テストして評価の対象にしてもいいでしょう。でも実作となると話は別です。芸術的センスは、たとえ教育者といえども軽々に計っていいものではありません」〔略〕
成長期の子供の場合、美術や音楽に対するセンスをけなされたり、教室という公の場でマイナスの評価をされたりすることは、大きな打撃になります。そこで恥ずかしい思いをして、クサって興味を失くしてしまえば、もしかしたらその後の彼や彼女の人生を明るく彩ってくれるかもしれないものを、早い段階で切り捨ててしまうことにつながりかねないからです
 なるほど、と弁護人は合いの手を入れた。
「ですから義務教育の現場では、生徒たちに創作という行動に触れる機会を与え、自分のなかに眠っているセンスや個性を発見するきっかけを作れば、それでいいと思います。芸術とは、多くの人びとにとっては人生を豊かに楽しくするものであって、厳しい評価や教育を必要とするのは、そこから先へ進もうとするごく限られた人びと——それを生涯の仕事にしようと決心した人びとだけです

5・390-2) 「柏木君が大出君たちにあんな問いを投げたのは、言ってみれば、魔女だ異端者だと責められ迫害される者が、迫害する者たちに向かって、“何故そんなことをするのか”と問いかけたのと同じです。“それが悪であることを、あなた方は認識しているのか”と。もっと言うならば、その問いは、このように無自覚な悪が跋扈するこの世界に、善であろう、正しくあろうとする者が生きてゆく意味はあるか、生きる意義を見出せるのかという問いにも繋がります」
 井上判事は、語る証人を凝視している。
「彼はそういうことを、この学校、現代社会と教育体制のなかで、ずっと考えていたのでしょう。教師からは管理教育というひとつの物差しで測られ、選別され、生徒同士のあいだでは、容姿や身体的能力や人付き合いの上手下手でまた選り分けられ、排除されたり攻撃されたりする。そこには確かに“悪”がありますが、誰もそれを“悪”と名指ししない。誰も敢えて、“何故そんなことをするのか”と反問しない。そのことに柏木君は、いわば愛想が尽きたのです」
 もちろん、生真面目に過ぎます——と、証人は続けた。
「でも、十三、四歳でそこまで考え詰めてしまう幼い哲学者のような少年や少女は、稀にではありますが、いるのです。柏木君はその一人でした。彼の父上のおっしゃるとおりです。だから僕は、柏木君は、少なくともこの学校という世界には、彼が生きてゆく意味、存在してゆく意義は見出せないと判断して、不登校になったのだと思いました。大出君たちとの衝突は、最後の駄目押しみたいなものです」

6・317) 「僕の両親は不幸な人生の終わり方をしましたけど、いつも不幸だったわけじゃありません。父も素面のときは真面目で優しい人で、母とも仲がよかった。弱い人だったけど、悪い人ではなかったと思うんです

@F沢

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# by no828 | 2017-07-02 12:15 | 人+本=体 | Comments(0)
2017年 06月 16日

試したり、駆け引きをしたりせずに、いつも持ち駒をぜんぶ使って好きと言いたい——小山田咲子『えいやっ!と飛び出すあの一瞬を愛してる』

 小山田咲子『えいやっ!と飛び出すあの一瞬を愛してる』海鳥社、2007年。60(1058)


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 1981年に生まれ、2005年アルゼンチンでの交通事故で亡くなった著者のブログの文章(日記)が収められた本。著者と同郷の友人にすすめられて購入して、なぜかすぐに読みはじめられず、ようやく昨年読み終えた本。直接会って話をしてみたかったなと、それが叶わぬことであるだけに余計に、強く深く思いました。

76-7) 「教育」という言葉に対してはいろいろな感じ方があると思う。「教育」が人と人とのコミュニケーションの一部であり、知識の伝達手段である以上、そこには常に力と矛盾が生じる。「教育」が人の価値観の形成に多大な影響を及ぼすことは疑い得ない事実であり、それは家庭教育しかり、広い意味での地域教育もまたしかりだけど、例えば日本の戦前・戦中の教育を鑑みればわかるように、「洗脳」ともいうべき行為を成すこともできるわけで、特に自分の判断基準を持たない不特定多数の子どもに対して与えられる「学校教育」というものの持つ力の大きさを考えると、その強さとともに恐ろしさを感じずにはいられない。ある体制によって作られた「学校教育」を受けた人間が、他文化の中に入っていって軽々しく「教育」の形を作ろうとすることは当然価値観強要の危険性を孕む。
 しかし、新しいことを学びたいという欲求、知的好奇心というものは誰しもが生まれながらに持っているもので、それは食欲や性欲と同じように、本能的なものだと思う。何を守り、何を捨てるべきかという価値判断の基準は時代とともに変化していくものだろうが、世界がこんなにも小さくなってしまった今、「搾取しないための教育」、「搾取されないための教育」の存在はもはや不可欠であろうし、「教育」を受けた人間には新たに自分の受けた「教育」の正しさを問う能力が求められる。すべての人が自分の生まれたコミュニティの外側を知らずに生きていけた時代でないことの悲しさだなあと思う。正しさってなんだろう。
 私は知識も浅薄だし自分と自分の周りが健康で幸せならとりあえず今日は嬉しい、という心の狭い子どもだけど……それでも焼け跡の青空教室で黒板に向かう、ジャカルタの路上で土に文字を刻む、村にたった1冊の絵本を取り合って読む子どもたちの目の輝きはほんものだし、それが政治や戦争やその他彼ら自身に責任のない様々な事柄によって奪われることは間違いであると、それだけはわかる。広い世界を見れば見るほど、もっとわかってくることなのだろう。道は必要なのだけれど。

15-6) こんなに真剣に物事を考えたり、表現にあがいてる同年代の人たちに出会う機会のあることをうれしく思う。
 東京に来るまでは知らなかった、私を取り囲む景色の外側にも世界のあることを。見るべきものを、行くべき場所が限り無くあることも。
 私はなんにも知らなすぎて、それはもう悲しくなるくらいだけど、ばかになることも真面目に語ることも恐れない人たちを見ていると、勇気が出る。

17) 離れて感じる故郷というのは不思議なものだ。特に筑豊はやや特殊で重たい歴史を背負った町なので、そこで過ごした日々を思い出すことには懐かしさとともに少しの後ろめたさと痛みをともなう。平和で、退屈で、皆が何となくやけになっていて、捨ててきたつもりはないのになんとなく戻れない気がする、私の町。


19) 恋愛はとにかくサシの勝負だから、他のどんな人間関係とも違う。だからこそいつも真剣に向き合いたいし、刺激を受け会える関係でいたいと思う。試したり、駆け引きをしたりせずに、いつも持ち駒をぜんぶ使って好きと言いたい。そのために落ち込んだり迷ったりしてもだ。みっともなくなるくらい夢中になれないなら、恋愛なんて無意味だ。ちゃんとしようとしてよけいみっともなくなってしまうのが、最高に素敵だと思う。

61)何より大切なのは、子ども時代に、見えないなにかを素直に受け入れる、想像力を働かせながら無条件の善意の存在を感じることができるという体験そのものだと思う。遠くから自分を見ている、謎に満ちた、優しい存在。

96) 私たちは殺し、殺され、悲しみの歴史を繰り返さないと誓った。今またアメリカの違法な殺戮を容認することは、過去の戦争で払った犠牲と平和への歩みを続ける人々全てを冒瀆し、地球上のあらゆる文化と生命の尊厳を踏みにじる行為だ。
 多くの命が失われ、この戦争が過去のものとして語られる時、小さな子どもになぜ止められなかったのかと聞かれて私たちは何と答えればよいのだろうか。
 私たちが殺すのだ。

109) やりたいのにやれないというのは言い訳、というより、やりたい気持ちが足りないかあるいは自分が完全に向かい合える環境を作れてないだけの話なのだろう。人が本当に何かをやろうと決めた時にはそれを邪魔するような強大な壁って実はあんまりなくて、環境はむしろびっくりするような偶然を用意して背中を押してくれることも多い。

121) 他人と協力して、効率や生産性から遠く離れた作業に没頭することが大っぴらに許された時間を持てることが、学校という場所の財産かもしれない。個人的には非常に苦痛だったが。たかがなになに委員を決めるのに、何時間も話し合ったりとか。そいで誰かが泣いたりする。そういう毎日、予測不可能な出来事が次々起こって、ものごとが要領悪く進んでいく、それも全て人が育っていく過程でしか起こり得ないことで同じ場所には二度と戻れない、とわかっていたら、もっと明るく楽しめたのかもしれない。いや、でも渦中にいる時はそんなのわからないから貴重なんだな。きっと。
 教師としてあの場所に戻るって、どうなんだろう……。今日の運動会を見てて、教職が好きで続けてる人って、単に人間が育つとこを見るのが好きなだけなんだろうなあ基本的には、と思ったのだった。

149)自分の周りのほんの小さな世界に考えが閉じこもる私が、どのくらい力になれるか分からないけど、せめて目をそらしたり無自覚になることだけは避けたい。できることから少しずつでも、協力をしたい。

203) 殺してはいけない、殺されてはいけない。奪っても、奪われてもいけない。子どもでも解るこの原則に立ち返れば、誰が愚かなのかは、自ずと明らかになるはずだと思うのだけれども。


125-6) 商店街を歩いていて、前を行く父娘の会話を聞くともなく聞いていた。
 小学1年生くらいの娘は、キックボードに乗っていて、のんびり歩く父親を追い越したりジグザグで後ろに回ったりしながら、しきりに、今通っているらしいスイミングスクールの話をしていた。
「ゆきちゃんとかまりちゃんより上手になったよ。でも○○はね(自分のこと)クロールよりも背泳ぎが好き
 さらりと応えたお父さんのひとことがとても良かった。
ゆっくり泳ぐのが好きなんだね
 女の子はうんとうなずき、ついーとボードを蹴って前に行ってしまった。
 大人は子どものことを、たいていの場合子どもだと思っているから、きちんと肯定したり確認したりするやりとりを怠ってしまうことが多いと思う。特に親の場合、自分の子どものことは自分が一番わかっていると無意識のうちに思い込んで、彼(彼女)の性格とか嗜好について、改めて考える機会を持ちにくくなるんじゃないだろうか。反抗されたり家出されたりするまで。
 女の子のお父さんは、この何気ないひとことで、娘を誉めたわけでも彼女に同意したわけでもないけど、「ゆっくり泳ぐのが好き」な彼女を今知って、そして「ゆっくり泳ぐのが好き」な彼女のことをとても好きであると、きちんと娘に伝えていたと思う。
 ただ肯定する、愛情深さ。

 親子関係に限らず、友人でも、恋愛でも、相手の言葉に対して批判したり賛同したりするのは容易いが、相手の真意を汲み取った上で、的外れな決め付けじゃないと肯定と受け入れの言葉を発するのって、意外に難しかったりする。
 つまり、「それは違う」とか「私もそれ好き」は簡単だけど、「あなたは〜なのね」って言葉は、相手を理解していることに自信があり且つ素直にならなければ言えない言葉だということだ。
 でも、新しく知ったあなたをまた新しく好きになる、という事態はとても素敵だし、そのたび気持ちをきちんと言葉にしたいものだなあ、と思ったのだった。

205) 自分が痛みを知るまで他者の痛みを知れないというのは悲しいことだと思う。でも私自身はどうかというと更にずっと愚かで、苦しみの真ん中にいて他の人の痛みに思いを巡らす自信がない。痛くなければないで、ともすれば人の痛みは見ないふりができる。思考って簡単に停止する。働かせられるかぎりの想像力を駆使して、人間的であることの意味を問い続けないといけないのだなあと思う。

273) 人、の他には、音と灯りと物が多すぎる。禅僧みたいに削ぎ落としまくって生活ができるとは思わないけど、ちょうどいい数のなかで暮らしたい。何年くらいかかるだろうか。どういう準備がいるんだろ。どこまで行ったら充分で、どうなったら限界なのか、よくわからん。
 好きなものはたくさんあるけど、大切にしてるものは、そういくつもは、ない。自分の内側だけのことだったらいいのに、と思う。自分が切れないものについては、少なくともそれが何なのかは、よく知っている。

@研究室

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# by no828 | 2017-06-16 19:24 | 人+本=体 | Comments(0)