思索の森と空の群青

onmymind.exblog.jp
ブログトップ
2017年 08月 03日

祈りは、自分以外の誰かのためでなくてはならない——加賀乙彦『海霧』

 加賀乙彦『海霧』新潮社(新潮文庫)、1992年。68(1066)

 版元サイトなし|単行本は1990年に潮出版社

c0131823_17402190.jpeg

 心理療法士の牧子が北海道に渡り、開放的な精神病院に勤め、堂福院長の考え方に触れ、漁師の青年・洋々に恋をするものの……という物語。

 個人、共同体、社会。島国根性=全体主義?

18) 「百人も二百人もの患者を一箇所に集める病院というのは、患者の集団管理を容易にするために発想された施設だが、精神障害者のように各自が微妙な悩みをもつ患者に対しては、適当とは思えないんです。だから、ぼくは普通の人々が生活するのに近い環境を用意した。一軒に、多くて二十人、できれば数人が家族のように暮すのが理想でね」

23)死こそは私自身に属する慰めだと思った。

38-9) 堂福院長の考え方を私も段々理解してきたが、その中心となるのは、精神病者を社会に連れ戻そうという思想だった。〔略〕精神病者は社会を乱す危険な存在だから、精神病院に隔離収容せねばならぬというのが、どこの近代国家も考えたことだった。〔略〕病院の規模が大きくなれば、どうしても患者の治療は大ざっぱとなり、画一的となる。そして、そもそも大病院設立の目的が隔離・島流しにあったのだから、患者の入院期間は増大する傾向が生じる。〔略〕
 そうではなく、精神病者は治療し、軽快した患者はすみやかに社会に復帰させるべきだというのが、近来のまっとうな考え方である。大病院のかわりに小病院を、集中病棟のかわりに分散病棟を、監禁のかわりに開放を、隔離のかわりに社会復帰をというのが堂福院長の考えなので、堂福病院はその方針にしたがって建てられたのだ。
 しかし、精神病者を社会に連れ戻そうとする彼のやり方は、地元の人々とさまざまな衝突を引きおこした。

50)イトウという、このあたりの湿原に住む怪魚だ。ひどく敏感で獰猛で素早く、釣人の足音を遠くから聞き分けて逃げてしまうので、釣るのは至難のわざだ、しかしそれだけに釣人が追いもとめて釣るので、今では本当に数が少なくなったという。
「わたしね、イトウを見たことがある」
「へえ、どこで」と洋々は驚いた。
「水族館で。池袋にサンシャイン60という高層ビルがあって、水族館がある。珍しい魚が集められていてね、アマゾンのピラニアもいたわ。イトウも数匹いるの」
東京って何でも集めるところだなあ

68-9) 「さっきの松浦さんの症状もそうですけど、精神の病というのは、その人の置かれた状況を極端に示していますね。松浦さんが被害妄想の穴の底に落ちてしまうのも、出海さんがすごく攻撃的な躁状態へと飛びあがるのも、わたしには分るような気がするんです。この町の人は多かれ少なかれ松浦さんや出海さんのような状況に置かれています。すると……そこがわたしの疑問なんですけど、病気を治すより先に、社会を治さねばならないんじゃないかと思えるんです。はっきり言って、病気なんか治す必要はないと……
「おいおい」と堂福院長は手で制した。「そこまで行ってしまうと危険だよ。医療というのは仏典にある毒矢の比喩みたいなものだ」

79) 「面白い小説ってのは、どこか恐い所があるよ。毒があるだべさ。つまらねえ小説ってのは、なあも恐い所がねえで。人間が人間の善意を信ずるなんてえ甘いもんだな。この区別は、純文学だろうが推理小説だろうが変らねえ」

97-8) 長い長い旅のすえ、やっと故郷に帰ってきた鮭たちを待っていたのが、この棍棒による処刑である。長靴にゴムズボン、ゴム手袋の男たちの腕前はたしかで、いとも簡単に鮭は撲殺される。夢中でもがく魚が一瞬のうちに死体と変るさまは、明るい美しい日の光のなかで、何か場違いな殺戮として迫ってきた。〔略〕雌も雄も、このとき生を終えて、愛の成就をことほぎながら死をむかえる。自分の生命と活力と生涯の帰結を、ただ授精の刹那の快楽にささげる。しかし、実際には愛ははばまれ、雌雄の仲は割かれ、人間の手による授精のみがおこなわれる。人間たちはやがて稚魚を川に放ち、稚魚たちは故郷を目指す長い長い旅に出るのだ。それは、ただただ人間によって捕獲され撲殺されるための旅立ちである。

122-3) 「馬というのは子馬の時〔ママ〕から、はっきり性格も能力もきまっていて、将来使いものになるかどうか見分けられるんです。人間も同じでしょうな」
 横山医師が肯定した。
「五歳の子供の心理テストを、十歳、十五歳のそれと比較した研究があるんですが、人間の性格も知的能力も、すでに五歳のとき〔ママ〕に定まっているという結果です。むろん、その折おりの教育や訓練の成果で性格や能力はぶれていくが、持って生れた素質を本質的には変えられんのです〔略〕好き嫌いが定まるのは三歳ぐらいまでだと、フロイトが言っています。ぼくは二、三歳のとき親父におぶさって北アルプスを縦走したんだそうで、山登りの趣味はそのときに植えつけられたらしいんです」

152-3) 「事実というものは、ややこしく、こんがらがっていて、単純に二つの派の“対立”という具合に単純化できない。それを勇猛果敢に単純化したのが、出海さんや松浦さんの精神の病さ。あらゆる精神の病は現実の極端な単純化の上に成り立っている。だから激しく鋭く、おのれを亡ぼし、他人を亡ぼす。精神の病だけじゃない。戦争だって革命だって、またわれわれの喧嘩だってそうだろう。ただ、正常だと自認する人々はそういう極端化を心中では思っても、あからさまに口には出さず、内に認めている。つまり彼らは狡猾なのさ。ところが精神を病む人々は、本音を隠すことができず外に出してしまう。彼らは正直なのさ
 ▶︎ 単純化しないと動けない、単純化しないから動けない

157) 「狂ってる世の中では、狂っている人が正常なのに、あえて狂いを治す——つまり正常者という名の異常者を作り出さねばならない

182)「そうだ、あの町にもキリスト教の教会がある。カトリックでね、外人の牧師がいる」
カトリックなら神父というのよ。町に教会があるなんて知らなかったわ
「おれみたいな地元の人間でも知らなかったんだ。この前、牧子さんが聖書を読むと分っているから、注意して見たら、わが町にもちゃんと教会があった。なんと、町の入り口でね、しょっ中その前を通ってたんだ。無関心てのは、何も見ないってことだ

189)精神の病という、心に巣くった癌のようなものを、温かい人間の感情で解きほぐし、消失させていく作業だ。外科医がメスで切断するのに対し、心理療法士は、辛抱強い話し掛けと付き合いでそれを取り除こうとする。

201)魚をとるなら心をきれいにして魚をとれ。きれいな漁師になれ。だけど、そうするのは疲れることだ。

235-7) 「真面目ってどういう意味です
「あなたは意味を知りたがるね。物事をいい加減にすませないっていう意味だ。悩むときは、とことん悩むし、一度行動をおこせばとことん突き進む〔略〕そのため不必要な周囲と軋轢をおこす〔→ 不必要な軋轢を周囲とおこす〕。大体世の中は、不真面目な人たちで成り立っている。他人には本音を言わない。それが処世の術だ。ところが、洋々青年は、まっしぐらに本音で進む。〔略〕」
でも、あの人は無口です
嘘が言えないから無口なんだ。嘘、お世辞、おべっか、へつらい、おだて、そういう詐術ができないので黙っている。ぺらぺら喋りまくる世馴れた人間てのは、そういう詐術にたけてるだけだ」〔略〕
「さっきの真面目の意味だがね。キリストも真面目な人だったね
「……そう言えますね」
この世から弾き出された余所者だ。しかしこの世を動かすのは、結局は余所者なんだよ
「余所者ですか」私はぎくりとして、院長の淋しげな表情を見た。

278-9)焦ってはいけないと自分に言い聞かせ、自分の祈りを反省してみた。自分のためにのみ祈ったのでは神は応答してこない。祈りは、自分以外の誰かのためでなくてはならない。ところで、洋々のために祈るというのは、幾分かは自分のためでもある。むしろ、彼を手に入れたいために祈っていたのではないか。私は祭壇を見上げた。

@研究室

[PR]

# by no828 | 2017-08-03 17:55 | 人+本=体 | Comments(0)
2017年 08月 02日

ドアがちゃんと開いていて「ここに一列に並んでください」って看板があるところに並ぶだけが、就活じゃない——スプツニ子!『はみだす力』

 スプツニ子!『はみだす力』宝島社、2013年。67(1065)


 
 学校を含め“あたりまえ”に居心地の悪さを感じるすべての人(とくに若者)へ。自分から動かないと何も変わらない、ということを強く意識させられる本です。そして、意識しただけではダメだよ、動けよ、とも本書からは言われるでしょう。

25) 「正しいこと」を先生から教えてもらう日本の学校と、「何が正しいか」を考えるアメリカンスクール

26) あんまり私がいじめられるので、ある日、先生はホームルームでこう言った。
彼女をいじめるのはやめましょう。彼女は日本人なんですから!
 それを聞いた七歳の私は、耳をうたがった。日本人だからいじめちゃいけないってことは、私がもし外国人だったら、いじめていいってことなのか!?

41)自分が今やっていることが本当の充実か、それを続けることで将来自分が後悔することにならないかをちゃんと考えて、毎日を過ごしたほうがいいんじゃないかと思う。〔略〕たとえまわりに「変なやつ!」と思われても、自分なりの楽しみ方を見つければ、どんな環境もそれなりにサバイバルできたりするのだ! ※強調省略

47) 「私、なんでこんなに学校とうまくいかないんだろう……。遅刻しちゃうし、宿題もできないし、怒られてばっかりだし、苦しい」
 悩む私に、ユリはさらっとこう言った。
でも、学校だけが世界じゃないよね
 驚いた。
 あたりまえのことなのに、私はそれに気づいていなかった。 ※強調省略

59-60) 「私たちが今勉強しているのは、大人になった時に、新しいことを発見できるようになる準備だと思います
 これは両親の教えだった。父や母は、こう言っていた。
人類には、みんなで作り上げる学問という山がある。一人の力では、いくら新しいことを見つけても、山の高さには積み上がらない。これまでの歴史で新しいことを見つけてくれた人たちがいるから、その山はあるんだよ
 新しいことを見つけて、人類みんなで作る学問の山がもっと高くなるように、少しでも貢献することが父や母の望みであり、存在する意義だと教えてくれたのだ。

68-9) 特にバイオテクノロジーは生殖や生命にかかわる分野なのに、そもそもサイエンスにたずさわる女性が少ないことに危機感を抱いていた。
 治らない病気が治るようになっている時代に、女性が生理なんて野蛮なものにまだ悩まされているのも、理系女性が足りないせいかもしれない。一カ月に一回、おなかが痛くて血が出ることに、耐えるしかないなんて!〔略〕
 サイエンスにかかわる分野に女性が少ないと、女性の問題がうまく解決されないこともあるんじゃないかと考えるようになった。

71) 大学一年が終わる夏休み、私もやってみることにした。その時に思ったのが、インターンやアルバイトスタッフを募集していない会社にこそ応募しようということ。
 向こうのニーズがあるところより、何もないところに自分から声をかけたほうが、チャンスはあるんじゃないか。募集しているとライバルがいるけれど、募集がなければ競争相手はゼロ。会社側にとっても思いがけないアプローチだから、「あれ? この子いいじゃん、とってみようか!」とおもしろがってくれるかも、と考えたのだ。
 最近いろんな大学生に就活の相談をされるけど、この話をすると「え、募集してないのに応募するんですか!」とびっくりされる。私はその反応に、逆にびっくりしてしまう!(笑)
 ドアがちゃんと開いていて「ここに一列に並んでください」って看板があるところに並ぶだけが、就活じゃないと思う。気になる仕事や会社があれば、募集してなくても書類を送り、自分からドアをノックしたっていんじゃないだろうか?〔略〕自分が本当に興味があり、きっとその会社の役に立てると思うなら、遠慮することはない。断られたら別のドアをまたノックするだけ。失うものは何もない。 ※強調省略

92) 「観測されないものは存在しないも同じ」という、量子力学の3値論理の考え方がある。この論理は、仕事とか恋愛とか、結構いろんな場面で応用できると思う。

112-3) やがて私はDVDに収録した作品を、YouTubeに投稿しはじめた。
無料でウェブにあげたりしたら、よけいに売れなくなるよ!」とまわりの人たちに反対されたけど、私の考えは逆だった。
どうせ売れないなら、無料だって人に見られたほうがいい!
 だって観察されないものは、存在しないも同じだから。

@研究室

[PR]

# by no828 | 2017-08-02 17:16 | 人+本=体 | Comments(0)
2017年 07月 31日

日時が経つにしたがって、自分というものと犯罪とが切り離されて感じられてくるんだよ。判決を下したら、すぐさま刑の執行をすべきなんだよ——加賀乙彦『死刑囚の記録』

 加賀乙彦『死刑囚の記録』中央公論社(中公新書)、1980年。66(1064)


c0131823_17335524.jpg

 著者は、東京拘置所の精神科医務官として勤務し、死刑囚と面接してきた経験があります。本書は、小説『宣告』は事実に即しすぎた、との評価への応答である——と「あとがき」にあります。『フランドルの冬』の内容とも接するところがあります。

44)無期受刑者として無反則で一所懸命つとめれば、十年後には仮釈放の申請ができる、十年先の希望にむかって全力をつくすというのが彼が明るい口調で、きっぱりと述べたことだった。死刑と無期刑との差が、いかにへだたっているかを私は実感した。

50) 死刑囚においては、無罪を主張することが、私よりまぬがれる唯一の方法であり、この点彼らが、日頃の願望として、もし無罪であればと念じていることは確かである。その願望の上に、無罪妄想から完全な虚言まで、さまざまな主張がおこなわれると見られる。
 この場合、ゼロ番囚や死刑確定者が、おしなべて独居房に拘禁されていることに注目したい。他人より隔離され、毎日一人で壁と鉄格子を眺めて暮すうちに、個人の思惟は同じところをぐるぐると回り、一つの方向への思いが肥大してくるのである。一般の囚人でも拘禁反応をおこす者は独居房に多いので、独居房は妄想の培養基といえる。

95-7) 「つまり、判決を受けた瞬間はよ、犯行のことが頭にあるだろう。判決を受ける覚悟もして出ていくんだし、お前の犯罪はこうだと判決理由でながながと言われりゃ、おれはひどいことをしたんだ、申し訳ないという気持になるだよね。ところがさ、日時が経つにしたがって、自分というものと犯罪とが切り離されて感じられてくるんだよ。つまり、犯行は、だんだん遠い昔のことになってしまい、果して自分がやったものなのかどうか、実感をともなってこなくなるだね。そうすると、判決の結果だけ、自分が死刑囚であるという重っ苦しい現実だけがよ、自分にのしかかって来るだろう。自分はあれだけのことをやったんだから、こうなるのが当然なんだと、いくら考えても納得がいかなくなる。犯罪がぼんやりしているうえに、自分は殺されるためにだけに、オマンマ食って生かされてるのが、不思議な感じがしてくるだよ
「なるほど。きみ、率直に聞くけど、死ぬのは恐い」〔略〕
「恐いね。死ぬのは、殺されるのは、本当に恐いよ。おれは人を殺した経験があるから、人が死ぬのは、どんなに痛くて苦しいもんか知っているからね。絞首台にしゃっ首をつるされるとき、痛かないなんて言うけどね、誰も生きかえった者がいねえんだから真相はわかりゃしねえさ。痛いのは、いやだね、恐いね」〔略〕
先生、死刑の判決を下したら、すぐさま刑の執行をすべきなんだよ。それが一番人道的なんだよ。ところが、日本じゃ、死刑確定者を、だらだら生かしといて、ある日、法務大臣の命令で突然処刑するとくるんだろう。法務大臣はどんなにえらいか知らねえが人間じゃないか。たった一人の人間の決定で、ひとりの人間が殺されるのはおかしい。残虐じゃないか。とくによ、殺される者が犯罪のことなんか忘れた頃に、バタンコをやる。まるで理由のない殺人じゃねえか」 ※傍点省略

149)問題は、このような嘘を、嘘をついた本人がいつのまにか本当のことと信じてしまうことである。嘘か真かの区別が、本人にも曖昧になってしまうような現象を精神医学では空想虚言(Pseudologia phantastica)とか空話症(mythomania)とよぶ。空想虚言者または空話症者は、人をだます詐欺師であるとともに、自分もだまされる空想家であって、彼の行為には金銭を欺しとる詐欺犯罪と他愛のないいたずらとが混合している。

217) 無期囚たちがおちいっていたのは、長いあいだ刑務所にいた人に、おしなべてみられる“刑務所ぼけ”(prisonization)といわれる状態であった。刑務所ぼけは、感情の麻痺と退行の二つにわけて考察しうる。囚人たちは、厳格で単調な刑務所での生活になれきり、人間としての自由な精神の動きを失ってしまう。この外部と隔絶した施設内では、いつも同じ人間、同じ場所、同じ規則の反復にかこまれているから、囚人たちの感情の起伏はせまく、何ごとに対しても無感動になる。ふつうの人間であったら耐えられぬような単調な生活に彼らが飽きないのは、実はこの感情麻痺があるからだといえる。

221) 未来につらなる刑務所の生活は、来る日も来る日も寸分たがわぬ、単調なくりかえしにすぎない。そこでは一切の自由は失われた灰色の時間が、ゆっくりと流れるだけである。人間らしい自由を望んだり、自発性をもって行動すること、まして創造的な生活をおくることは許されない。もっとも楽なのは、刑務所のうすめられた時間を受けいれ、それに飽きないように自分自身を変えていくことである。彼らがおちいっている刑務所ぼけの状態こそ、うすめられた時間への適応を示すものである。 ▶︎ 適応的(順応的)選好形成

223-4)二種類の時間恐怖ノイローゼ〔略〕ひとつは時間の喪失をおそれる恐怖症患者である。日々の仕事があまりにも多すぎ、過去も未来も現在に迫りかかっているように感じられ、閉ざされた時間に追いまわされている人である。これは、せまい空間に閉じこめられるのをおそれている閉所恐怖に似ていて、“時間の閉所恐怖”である。この反対に、無意味に続く時間や、暇な時をおそれ、いつも時間がすきすきでいるように感じられ、何とかそこから逃げだしたいと思っている人がいる。怠惰に日々を送りながら、ちょっとした気晴しで、急に生きいきとしたり、退屈のあまり何かに熱中しようとしたりする。これは“時間の広場恐怖”とも言うべき状態である。死刑囚と無期囚の時間が、これら二種類の時間恐怖に似ていることは明らかである。

229) 死刑囚を描いた小説『宣告』(新潮社刊、一九七九年)を書きおえてから、あのような仮構の形ではなくて、現在の日本で、死刑囚がどのような生活をおくっているかという事実を報告しておく義務をおぼえた。私が見たありのままの死刑囚たちをドキュメントとして報告し、人びとに知ってもらうことは、死刑の問題を考える資料としても役立つだろうと思った。さらに『宣告』に対して事実に密着しすぎ、実在の人物をなぞったという評価が一部にあったことへの反論として、あえて私の経験した事実とはこのようなものであったと示したくも思った。 ※「7版あとがき」

230-1)私自身の結論だけは、はっきり書いておきたい。それは死刑が残虐な刑罰であり、このような刑罰は廃止すべきだということである。〔略〕
 死刑が残虐な刑罰ではないという従来の意見は、絞首の瞬間に受刑者がうける肉体的精神的苦痛が大きくはないという事実を論拠にしている。〔略〕
 しかし、私が本書でのべたように死刑の苦痛の最たるものは、刑執行前に独房のなかで感じるものなのである。死刑囚の過半数が、動物の状態に自分を退行させる拘禁ノイローゼにかかっている。彼らは拘禁ノイローゼになってやっと耐えるほどのひどい恐怖と精神の苦痛を強いられている。これが、残虐な刑罰でなくて何であろう。

232) 死刑存置論者のもう一つの大きな主張は、死刑のもつ威嚇力を重くみることになる。死刑の廃止は、殺人犯への威嚇力をなくして、殺人が野放図におきるようになるだろうという。しかし、この論旨は、どれだけ実際の殺人犯の調査にもとづいておこなわれているのだろうか。私は百四十五名の殺人犯について、犯行前あるいは犯行中に、自分の殺人が死刑となると考えたかどうかを質問してみた。犯行前に死刑を念頭に浮べた者はただの一人もいなかった。犯行中に四名が、死刑のことを思った。殺人行為による興奮がさめたあとでは二十九名が、自分の犯罪が死刑になると思った。つまり、死刑には威嚇力がほとんどなく、逃走を助長しただけだったのである。殺人の防止には、刑罰を重くするだけでは駄目なことは、私が多くの殺人犯に会ってみた結果、知りえた事実である。

@研究室

[PR]

# by no828 | 2017-07-31 17:42 | 人+本=体 | Comments(0)