思索の森と空の群青

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2017年 04月 21日

本を読むことをやめる。部屋を暗くして、一日、ただ音楽を聴く。ライブ映像を見る。ビデオクリップを見る。誰にも会わない。聴く。聴く。聴く。観る。観る。世界を探す。まだ遠い——『桜庭一樹読書日記』

 桜庭一樹『桜庭一樹読書日記——少年になり、本を買うのだ。』東京創元社、2007年。40(1038)


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 文字どおり、読書日記。桜庭一樹がどのようにして物語を立ち上げていくのか——その習慣というか儀式というかがとても興味深かったです。

 ホストクラブ——わたしだとキャバクラ?——へ行かない理由には深く共感します。

104)六月某日
——世界をさがす。
 気持ちを切り替え、ねじり鉢巻で、再来月から某誌で一年間連載することになる、新作の“世界作り”に取りかかる。
 とっかかりに、音楽を選ぶことにする。この人たちだ、というロックバンドを選んで、〈新宿タカシマヤ〉の《HMV》でアルバムとDVDをばか買いする。七万円かかる(真顔でレジにいったが、ほんとうは気絶しそうだった)。ポイントカードが一回の買い物で満点になり、ポンッと二千五百円のキャッシュバックとなる。
 本を読むことをやめる。部屋を暗くして、一日、ただ音楽を聴く。ライブ映像を見る。ビデオクリップを見る。誰にも会わない。聴く。聴く。聴く。観る。観る。世界を探す。まだ遠い。どこか、に……ある……ガンダーラ……ぐらい遠い。不安だ。部屋でおとなしく音楽を聴く。

六月某日
 一日、音楽を聴いている。読書熱が、もともとなかったもののように、部屋から完全に消える。ふらりと外に出かけても、書店に寄らないようになる。
 みつけようとしているのはどうしようもない世界なので、どうしようもないことを一日、考えている。なにかとっかかりになることが浮かんだら、なんのことだかわからないながらも、メモを取ってみる。

126-7)七月某日
「もうひとつ約束してくれないか……他人から大事にされるようにすること、自分を粗末にさせたり搾取させたりしないこと。他人から搾取する権利なんて誰にもないんだから。繰り返しになってすまないけれど、前に言ったとき、あんたがいやがったものだから」
「……」
モリーナ、約束してくれ、他人にばかにされないようにすると」(プイグ『蜘蛛女のキス』)

228-9) 担当氏「桜庭さんってホストクラブ行かないんですか
 わたし「行かないですよ?
 担当氏「どうして
 わたし「初対面だから
と、担当氏がなぜか椅子から転げ落ちんばかりに驚いて、無言で両腕を振り回す。眼鏡もずれた。な、なんだ、とわたしも驚く。
 わたし「いったい、どうしたのさ?」
 担当氏「い、いや、なんでもないです。ただ、あまりに意外な変化球だったんで、びっくりしすぎただけです。大丈夫です」
 わたし「あぁ……。でも、ホストクラブで会う人って、初対面じゃないですか。わざわざ出かけていって、お金を払って、初対面の人とあたりさわりのない話題をする苦労の意味が、正直、一欠片もわかりません
 担当氏「確かに多くの場合、ホストは初対面の人です。キャバクラも同様だ。いや、言ってることはよくわかるんだけど、あんまり予想外だったんで……」

243)十二月某日
 重たい原稿は、書いたことでもっと重たくなって、それは、誰かに読まれることでようやく作家から離れる気がする。もしかしてわたしが今日も元気でいるのは、たとえば『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』とかを、今日も誰かがどこかで読んでくれているからかもしれない、と、ちょっとだけ思う。担当編集者は、最初の読者でもあって、作家にとってはマラソンのペースメーカーとか、命綱を握っている人とも似ている。この人を信じていないと、怖いところまで潜水できないように思う。……こういう仕事の仕方、編集者への頼り方はもしかしたら独特なのかもしれない。ほかの作家さんたちと話したことないけど……。文藝春秋には担当氏が三人いるので、三人で力いっぱい引き上げてくれる幻影を頼りに、よろよろとだが起き上がる。
 受話器を片手に、床にあぐらをかいて座る。具体的にどこをどう直す、といった打ち合わせを始めたら、ようやく重たさが取れてきた。誰かがあれを読んだ、という事実が自分を急速に救う。
しかし、作家から受け取っちゃったのか、担当氏の声が若干、暗いかもしれない。

@研究室

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# by no828 | 2017-04-21 17:40 | 人+本=体 | Comments(0)
2017年 04月 20日

実感と、それを全部はずしたところと、その両方から攻めていかないと駄目だと思います——吉本隆明・大塚英志『だいたいで、いいじゃない。』

 吉本隆明・大塚英志『だいたいで、いいじゃない。』文藝春秋、2000年。40(1037)


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 吉本隆明と大塚英志の対談集。倫理をどう作りあげていくか、というところに少なくともひとつの焦点が当たっていたように思います。

(134)大塚 そういう弱いから殺しにかかってくる相手に対して、弱さを絶えず根拠にするっていうのが、すごく難しいわけです。ガンジーの無抵抗主義じゃないけど、つまり戦車の前に座ったときに、向こうにそこで戦車を進めるためらいがあればいいんだけれども、でもガンジーが座ってても、全然ためらわないで戦車でひき殺せちゃう。そういうディスコミュニケーションが、今あるんじゃないかと思います。逆に言えば、そこまでしないと強弱をはっきりさせられないぐらいに、強い側の言葉が追い詰められてるみたいなところがひとつある。

(136)大塚 弱い者の言葉っていうか、強者の言葉に対峙できるような弱者の側の新しいディスコースっていうか、そういうのを上手く作り出さないと駄目だと思うんです。

(22)大塚 彼らが〔『エヴァンゲリオン』で〕傷ついていくのは、もっぱら彼らの内面的な葛藤においてなんですね。つまり幼い頃に母親と複雑な関係があったり、父親との屈折した関係があって、そういうことで傷ついていくんであって、「戦争」をめぐって傷ついていくわけない。〔略〕あくまでも傷ついているのは敵との戦いにおいてではなくて、内面的なものでいわば自滅していくように傷ついていく。そういう意味で「敵」は不必要なんです。

(36-7)吉本 神戸の少年Aの首切り事件でもそうで、これを病的に犯罪として見るのも間違いだし、少年をカウンセリングと薬で治していくとか、医療少年院に入れるなんて考え方はまったく間違いじゃないか。こういうのは人間の子供の持っている本来的な性質、性格の中に全部入ってるんだというところで包括したいというのが、僕の願望の中にあるんです。
 僕らの年代でも、僕の昔の仲間で一九九二年に亡くなった作家の井上光晴なんて、戦争中は僕と同じで勤皇少年なんです。天皇は神聖にしてとか、天皇は生き神様だっていうのがいちばんの絶対感情とすれば、それは命と取り替えやすいというのが僕ら勤皇少年の特徴でね。それで敗戦となったら、すぐに共産党に転換できたんですよ。どうしてできたかっていうと、両方ともベースを言えば、農本的なんですよね。農村の貧農の層の困っているところを見て、見かねて俺はやるんだというのが戦争中までの右翼の性質なんです。農本的心性からいくと、そういう勤皇少年が翌日から日本共産党の主張に同化できたっていう根拠はたしかにあるんです。僕らはそこを理解することはできる。実感があるんです。

(49)吉本 僕がいちばん固執するのは、じゃあたとえば子供を殺された親が「もう俺は我慢がならねえから、殺したほうの子供を殺しちゃう」って言って、親がどっかで待ち伏せして、刺しちゃったとか、僕はそれについては肯定的なんですよ。

(74)大塚 自己啓発セミナーじゃだめなんですよ。自己啓発セミナーでいいというのは、物作る人間にとっては判断停止と同じだもの。

(98)吉本 消費っていうのは時間と空間をずらした生産なんだという概念をつくるわけです。

(223)大塚 さっきの大江〔健三郎〕さんのことで言えば、大江さんの言説に対しては正論で論破できる。でも正論で論破しきれない部分がいまの吉本さんにはある。佐川一政を糸口に、彼を差別する云々ではなく、正直なところ人を殺して食べちゃった人間が側にいたら嫌だなという実感、それはどんなにモラリストでも人権主義者でも持ってしまう。その上でなお、人を殺した人間といかに関わりうるか、あるいは関わりえないか、という倫理なり人権意識を作らなくてはいけない、ということですよね。
吉本 はい。
大塚 すごく大事なことを言っていただいたと思います。

(228)大塚 日常の実感からもう一度思想とか言葉を組み立て直す。そういうところにおられるような気がします。
吉本 そこらがすごく気になっているんでしょうね。実感をはずすと、元来人間には出来ないことを人に要求してしまうことがあるんじゃないか。実感と、それを全部はずしたところと、その両方から攻めていかないと駄目だと思います。
 文学書に凝った若い時代に親父から、最近のお前は覇気がなくなったなと言われたことがあって、確かにそうだなと思った経験があるんです。今度は、お前の言うことは段々曖昧になってきた、と言われると(笑)、そうかもしれないなという気がするんです。〔略〕
 だから、これは自分の場所、それもあり得る極端な場所というのを二つ選んでよく考えないと間違えることになるぞ、と思っています。

(239)吉本 頭でやっていると、人の本を読んでも多少の違いはあれ、結局は同じようなことを言っているなと思ってしまう。だけど僕らは、同じ事を言うためにだって違う表現は無限にあるんだと思っているわけです。だから僕らのほうがもつんです。

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(15)吉本 『エヴァンゲリオン』の場合ですと、戦闘あるいは戦争ということはもう昔の話、つまり古典的な話であって、倫理も肯定もへちまもない、大っぴらに描いている感じがするんですね。主人公たちのためらいとか弱さとかの中には、戦争、戦闘行為、あるいは殺し合いに対するいろんな思いがよく出ているんだけど、戦闘場面自体を持ってくるとそうじゃなくて、たいへん大っぴらに肯定的に描かれている。そこのところは『ガンダム』とちょっと違うのかなと思います。

(17)大塚 戦争をしないという価値観を選択した国が、でもエンターテインメントとして戦争を描いていくという矛盾が、たとえば映画の『ゴジラ』(一九五四年、本多猪四郎監督)でも、アニメの『宇宙戦艦ヤマト』(一九七七年よりシリーズ化、松本零士・舛田利雄ほか監督)の中にでも、分裂としてあらわれてくる。

(21)大塚 戦争への想像力が、是非という倫理的な方向にではなく、有事を前提にしてその細部を埋めていく方向に向かうというのは、この国の現時点での戦争観とおたく的想像力が妙に一致する点です。じゃあなんでそんなことになっちゃうのかというと、戦争への想像力が実は内側の方に一方的に作用しているんじゃないかという気がします。

(53)大塚 無倫理を肯定するのではなく無倫理を包括するような倫理を探すんだ、というところにきちんと視線を向けるんだということをはっきりさせておかないと、何故、人を殺しちゃいけないんだという若い子の問いを全面的に許容することになってしまいます。

(56)大塚 大日本産婆会というのが戦後GHQに解体させられて、病院で産みなさいということになって、それが実際に普及したのは昭和三十年代で、僕たちの母親っていうのは、育児書とかを読んで育児をした最初の母親たちなんですね。そういう意味で、宮崎勤も、僕も、宮台〔真司〕も、いわばそういう母親たちに育てられたんです。
 もう一方で宮崎勤がすごく興味深いのは、要するにあきる野市五日市の彼が生まれた地区に残っていた一種のフォークロアなんですけど、その地区は主に農業と林業をやっていた。夫婦共々働かなきゃいけないんで、子供の面倒を見るのには、子守に出すんです。そのときに、これは非常にデリケートな言い方になるんだけども、身体が不自由だったりとか、年をとってきたりとか、そういう人たちに子供の育児を任せるケースというのが多かったんですよ。実際宮崎勤は、そういう形態で育てられた最後の世代なんです。具体的に言えば、宮崎勤を幼児期に面倒見てた人というのは、情緒障害で、かつ身体が不自由な男性、宮崎家とは全然姻戚関係はないんだけどもそういう人を宮崎家は一時期居候させて、その人が宮崎勤のいわば母親代わりになっていた。

(57)大塚 宮崎勤を考えるうえで母親というモチーフは非常に重要で、たまに彼も、公判の中で生の言葉を語った感じがするときもあるんですけど、その一つは、たとえば女の子たちを殺す過程で、甘い感じがしたというんですね。これは芹沢俊介さんが非常にこだわっておられるところですけど、甘い感じがして、子供の頃に帰った気がしたんだけども、そのとき女の子が、たとえばあんたなんか嫌いとか、おそらくまあ宮崎がなにかの性的な振る舞いに出たのか、その理由を彼は語らないんだけれども、あるいはたんに機嫌が悪くなったのか、とにかく女の子がぐずり出すわけです。そうしたときに、彼は非常に拒まれた感じがして、その拒まれた感じが、彼の殺意に転化する、と。このプロセスは比較的彼は正直に語ったんじゃないのかなと思っているわけです。つまり母親から切断されたところで出てくる怒りみたいなことですよね。

(151)吉本 人間の脳よりも先に自然の歴史はあったんだというのを認めるのが「唯物論」だと、こう〔レーニンは〕言ってるわけですよね。

@研究室

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# by no828 | 2017-04-20 18:21 | 人+本=体 | Comments(0)
2017年 04月 18日

人が語ろうとするのは、伝えたい何かがあるからであるよりも、言葉では伝えきれないことが、胸にあるのを感じているからだろう——若松英輔『悲しみの秘義』

 若松英輔『悲しみの秘義』ナナロク社、2015年。39(1036)


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 エッセイ集。その人のために悲しいと感じるそのときに、その悲しさをその人の優しさで上書きされる経験——そうした経験がもたらす優しさというものがあるとするなら、それはたぶんこの本のことなのだと思います。

 ちなみに、このなかの一節をその冒頭に引用することで書きはじめた論文があります。2番目の引用にはかつて感じていたことが重なり、その頃を思い出しました。

(26「底知れぬ「無知」」) 彼に徳に関する実感がないのではない。徳は存在すると彼も信じている。ある人物によってそれが体現されている光景にも接したことがある。だが、彼は、それが何であるかを決して断言しないのである。この著作だけではない。ソクラテスは生涯を通じて何ら結論を言い残さなかった。

(26「底知れぬ「無知」」)愛するとは、それが何であるかを断定しないまま、しかし、そこに語りえない意味を感じ続ける営みだとはいえないだろうか。誰かを愛し続けているとき、私たちはその人と生きることの、尽きることない意味を日々、発見しているのではないか。この人を愛している。でも、この人がどんな人か一言でいうことはできない、そう感じるのではないだろうか。
 同質のことは、仕事にもいえる。自分の仕事を愛する人は、その仕事にめぐり会えた幸福を語る一方で、自分がそれを極めることはないだろうことを予感している。仕事は解き明かすことのできない、人生からの意味深い問いかけに映っている。

(39「勇気とは何か」) 現代人は、情報を手に入れると安心する。分かったと思い込む。だが、情報に心を領された者は考えることを止めてしまう。考えるとは、情報の奥にあることを見極めようとする営みでもあるからだ。〔略〕
 考えるとは、安易な答えに甘んじることなく、揺れ動く心で、問いを生きてみることだ。真に考えるために人は、勇気を必要とする。考えることを奪われた人間はしばしば、内なる勇気を見失う。私たちは今、武力を誇示するような勇ましさとはまったく異なる、内に秘めた叡知の働きを呼び覚まさなくてはならない。

(65「別離ではない」) 苦難のなかで生き、語ることを奪われたまま死に、歴史の世界の住人となった人たちがいる。歴史家とは、そうした人々の沈黙の声に新たな生命の息吹を吹き込む役割を担う者の呼び名だと、彼〔=上原専禄〕は感じるようになった。

(86「信頼のまなざし」) 心を開くとは、他者に迎合することではない。そうしてしまうと相手だけでなく、自己からもどんどん遠ざかってしまう。むしろ、心を開くとは、自らの非力を受け入れ、露呈しつつ、しかし変貌を切望することではないだろうか。

(91-2「君ぞかなしき」)彼女は、遠く離れた夫にむかって、あなたの声を聞くことができずに逝こうとしている私よりも、私が逝ったあと、夜、独り寝るあなたの悲しみの方がよほど耐え難いだろう、というのである。

(94「模写などできない」重引)すぐに模写を始める前に、やることがあるでしょう。まずこの絵を見て、涙を流して、とても模写などできない、というのでなければ、芸術家とはいえない

(143「あとがき」) 想いを書くのではない。むしろ人は、書くことで自分が何を想っているのかを発見するのではないか。書くとは、単に自らの想いを文字に移し替える行為であるよりも、書かなければ知り得ない人生の意味に出会うことなのではないだろうか。そう感じるようになった。

(150「あとがき」)文章を書くことで、出会うべき言葉と遭遇する。

(4-5「はじめに」) 祈ることと、願うことは違う。願うとは、自らが欲することを何者かに訴えることだが、祈るとは、むしろ、その何者かの声を聞くことのように思われる。

(6「はじめに」) 人が語ろうとするのは、伝えたい何かがあるからであるよりも、言葉では伝えきれないことが、胸にあるのを感じているからだろう。

(32「眠れない夜の対話」) だが、詩は扉であって、真に向き合うべき相手は別にいる。それは自分だ。人は、さまざまなことに忙殺され、自らと向き合うのを忘れて日常を生きていることが少なくないからである。

(80-1「花の供養に」) 石牟礼は、きよ子を知らない。きよ子の両親にしか会っていない。石牟礼にとって書くとは、きよ子のような言葉を奪われた人々の口に、あるいは手になることだった。そうして生まれたのが『苦海浄土』だった。
 私たちには『苦海浄土』を書くことなど到底できない。しかし、読むことはできる。私たちは、この作品を読むことを通じてでも、きよ子と彼女の母親の悲願に応えることができる。
 読むことには、書くこととはまったく異なる意味がある。書かれた言葉はいつも、読まれることによってのみ、この世に生を受けるからだ。比喩ではない。読むことは言葉を生みだすことなのである。

(131「彼女」重引)愛し、そして喪ったということは、いちども愛したことがないよりも、よいことなのだ。(神谷美恵子訳)

(137「文学の経験」)多く読まれるということは必ずしも深く読まれることとは限らない。

(140「文学の経験」) 読者とは、書き手から押し付けられた言葉を受け止める存在ではない。書き手すら感じ得なかった真意を個々の言葉に、また物語の深層に発見していく存在である。こうした固有の役割が、読み手に託されていることを私たちは、書物を開くたびに、何度となく想い返してよい。

(143「あとがき」) 書物には、複数の生みの親がいる。書き手もその一人だが、編集、校正、営業、あるいは書店で働く人も、さらには読者もそこに名を連ねる。言葉は、書かれたときに完成するのではなく、読まれることによって、命を帯びるからである。

@研究室

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# by no828 | 2017-04-18 18:23 | 人+本=体 | Comments(0)