思索の森と空の群青

onmymind.exblog.jp
ブログトップ
2017年 08月 02日

ドアがちゃんと開いていて「ここに一列に並んでください」って看板があるところに並ぶだけが、就活じゃない——スプツニ子!『はみだす力』

 スプツニ子!『はみだす力』宝島社、2013年。67(1065)


 
 学校を含め“あたりまえ”に居心地の悪さを感じるすべての人(とくに若者)へ。自分から動かないと何も変わらない、ということを強く意識させられる本です。そして、意識しただけではダメだよ、動けよ、とも本書からは言われるでしょう。

25) 「正しいこと」を先生から教えてもらう日本の学校と、「何が正しいか」を考えるアメリカンスクール

26) あんまり私がいじめられるので、ある日、先生はホームルームでこう言った。
彼女をいじめるのはやめましょう。彼女は日本人なんですから!
 それを聞いた七歳の私は、耳をうたがった。日本人だからいじめちゃいけないってことは、私がもし外国人だったら、いじめていいってことなのか!?

41)自分が今やっていることが本当の充実か、それを続けることで将来自分が後悔することにならないかをちゃんと考えて、毎日を過ごしたほうがいいんじゃないかと思う。〔略〕たとえまわりに「変なやつ!」と思われても、自分なりの楽しみ方を見つければ、どんな環境もそれなりにサバイバルできたりするのだ! ※強調省略

47) 「私、なんでこんなに学校とうまくいかないんだろう……。遅刻しちゃうし、宿題もできないし、怒られてばっかりだし、苦しい」
 悩む私に、ユリはさらっとこう言った。
でも、学校だけが世界じゃないよね
 驚いた。
 あたりまえのことなのに、私はそれに気づいていなかった。 ※強調省略

59-60) 「私たちが今勉強しているのは、大人になった時に、新しいことを発見できるようになる準備だと思います
 これは両親の教えだった。父や母は、こう言っていた。
人類には、みんなで作り上げる学問という山がある。一人の力では、いくら新しいことを見つけても、山の高さには積み上がらない。これまでの歴史で新しいことを見つけてくれた人たちがいるから、その山はあるんだよ
 新しいことを見つけて、人類みんなで作る学問の山がもっと高くなるように、少しでも貢献することが父や母の望みであり、存在する意義だと教えてくれたのだ。

68-9) 特にバイオテクノロジーは生殖や生命にかかわる分野なのに、そもそもサイエンスにたずさわる女性が少ないことに危機感を抱いていた。
 治らない病気が治るようになっている時代に、女性が生理なんて野蛮なものにまだ悩まされているのも、理系女性が足りないせいかもしれない。一カ月に一回、おなかが痛くて血が出ることに、耐えるしかないなんて!〔略〕
 サイエンスにかかわる分野に女性が少ないと、女性の問題がうまく解決されないこともあるんじゃないかと考えるようになった。

71) 大学一年が終わる夏休み、私もやってみることにした。その時に思ったのが、インターンやアルバイトスタッフを募集していない会社にこそ応募しようということ。
 向こうのニーズがあるところより、何もないところに自分から声をかけたほうが、チャンスはあるんじゃないか。募集しているとライバルがいるけれど、募集がなければ競争相手はゼロ。会社側にとっても思いがけないアプローチだから、「あれ? この子いいじゃん、とってみようか!」とおもしろがってくれるかも、と考えたのだ。
 最近いろんな大学生に就活の相談をされるけど、この話をすると「え、募集してないのに応募するんですか!」とびっくりされる。私はその反応に、逆にびっくりしてしまう!(笑)
 ドアがちゃんと開いていて「ここに一列に並んでください」って看板があるところに並ぶだけが、就活じゃないと思う。気になる仕事や会社があれば、募集してなくても書類を送り、自分からドアをノックしたっていんじゃないだろうか?〔略〕自分が本当に興味があり、きっとその会社の役に立てると思うなら、遠慮することはない。断られたら別のドアをまたノックするだけ。失うものは何もない。 ※強調省略

92) 「観測されないものは存在しないも同じ」という、量子力学の3値論理の考え方がある。この論理は、仕事とか恋愛とか、結構いろんな場面で応用できると思う。

112-3) やがて私はDVDに収録した作品を、YouTubeに投稿しはじめた。
無料でウェブにあげたりしたら、よけいに売れなくなるよ!」とまわりの人たちに反対されたけど、私の考えは逆だった。
どうせ売れないなら、無料だって人に見られたほうがいい!
 だって観察されないものは、存在しないも同じだから。

@研究室

[PR]

# by no828 | 2017-08-02 17:16 | 人+本=体 | Comments(0)
2017年 07月 31日

日時が経つにしたがって、自分というものと犯罪とが切り離されて感じられてくるんだよ。判決を下したら、すぐさま刑の執行をすべきなんだよ——加賀乙彦『死刑囚の記録』

 加賀乙彦『死刑囚の記録』中央公論社(中公新書)、1980年。66(1064)


c0131823_17335524.jpg

 著者は、東京拘置所の精神科医務官として勤務し、死刑囚と面接してきた経験があります。本書は、小説『宣告』は事実に即しすぎた、との評価への応答である——と「あとがき」にあります。『フランドルの冬』の内容とも接するところがあります。

44)無期受刑者として無反則で一所懸命つとめれば、十年後には仮釈放の申請ができる、十年先の希望にむかって全力をつくすというのが彼が明るい口調で、きっぱりと述べたことだった。死刑と無期刑との差が、いかにへだたっているかを私は実感した。

50) 死刑囚においては、無罪を主張することが、私よりまぬがれる唯一の方法であり、この点彼らが、日頃の願望として、もし無罪であればと念じていることは確かである。その願望の上に、無罪妄想から完全な虚言まで、さまざまな主張がおこなわれると見られる。
 この場合、ゼロ番囚や死刑確定者が、おしなべて独居房に拘禁されていることに注目したい。他人より隔離され、毎日一人で壁と鉄格子を眺めて暮すうちに、個人の思惟は同じところをぐるぐると回り、一つの方向への思いが肥大してくるのである。一般の囚人でも拘禁反応をおこす者は独居房に多いので、独居房は妄想の培養基といえる。

95-7) 「つまり、判決を受けた瞬間はよ、犯行のことが頭にあるだろう。判決を受ける覚悟もして出ていくんだし、お前の犯罪はこうだと判決理由でながながと言われりゃ、おれはひどいことをしたんだ、申し訳ないという気持になるだよね。ところがさ、日時が経つにしたがって、自分というものと犯罪とが切り離されて感じられてくるんだよ。つまり、犯行は、だんだん遠い昔のことになってしまい、果して自分がやったものなのかどうか、実感をともなってこなくなるだね。そうすると、判決の結果だけ、自分が死刑囚であるという重っ苦しい現実だけがよ、自分にのしかかって来るだろう。自分はあれだけのことをやったんだから、こうなるのが当然なんだと、いくら考えても納得がいかなくなる。犯罪がぼんやりしているうえに、自分は殺されるためにだけに、オマンマ食って生かされてるのが、不思議な感じがしてくるだよ
「なるほど。きみ、率直に聞くけど、死ぬのは恐い」〔略〕
「恐いね。死ぬのは、殺されるのは、本当に恐いよ。おれは人を殺した経験があるから、人が死ぬのは、どんなに痛くて苦しいもんか知っているからね。絞首台にしゃっ首をつるされるとき、痛かないなんて言うけどね、誰も生きかえった者がいねえんだから真相はわかりゃしねえさ。痛いのは、いやだね、恐いね」〔略〕
先生、死刑の判決を下したら、すぐさま刑の執行をすべきなんだよ。それが一番人道的なんだよ。ところが、日本じゃ、死刑確定者を、だらだら生かしといて、ある日、法務大臣の命令で突然処刑するとくるんだろう。法務大臣はどんなにえらいか知らねえが人間じゃないか。たった一人の人間の決定で、ひとりの人間が殺されるのはおかしい。残虐じゃないか。とくによ、殺される者が犯罪のことなんか忘れた頃に、バタンコをやる。まるで理由のない殺人じゃねえか」 ※傍点省略

149)問題は、このような嘘を、嘘をついた本人がいつのまにか本当のことと信じてしまうことである。嘘か真かの区別が、本人にも曖昧になってしまうような現象を精神医学では空想虚言(Pseudologia phantastica)とか空話症(mythomania)とよぶ。空想虚言者または空話症者は、人をだます詐欺師であるとともに、自分もだまされる空想家であって、彼の行為には金銭を欺しとる詐欺犯罪と他愛のないいたずらとが混合している。

217) 無期囚たちがおちいっていたのは、長いあいだ刑務所にいた人に、おしなべてみられる“刑務所ぼけ”(prisonization)といわれる状態であった。刑務所ぼけは、感情の麻痺と退行の二つにわけて考察しうる。囚人たちは、厳格で単調な刑務所での生活になれきり、人間としての自由な精神の動きを失ってしまう。この外部と隔絶した施設内では、いつも同じ人間、同じ場所、同じ規則の反復にかこまれているから、囚人たちの感情の起伏はせまく、何ごとに対しても無感動になる。ふつうの人間であったら耐えられぬような単調な生活に彼らが飽きないのは、実はこの感情麻痺があるからだといえる。

221) 未来につらなる刑務所の生活は、来る日も来る日も寸分たがわぬ、単調なくりかえしにすぎない。そこでは一切の自由は失われた灰色の時間が、ゆっくりと流れるだけである。人間らしい自由を望んだり、自発性をもって行動すること、まして創造的な生活をおくることは許されない。もっとも楽なのは、刑務所のうすめられた時間を受けいれ、それに飽きないように自分自身を変えていくことである。彼らがおちいっている刑務所ぼけの状態こそ、うすめられた時間への適応を示すものである。 ▶︎ 適応的(順応的)選好形成

223-4)二種類の時間恐怖ノイローゼ〔略〕ひとつは時間の喪失をおそれる恐怖症患者である。日々の仕事があまりにも多すぎ、過去も未来も現在に迫りかかっているように感じられ、閉ざされた時間に追いまわされている人である。これは、せまい空間に閉じこめられるのをおそれている閉所恐怖に似ていて、“時間の閉所恐怖”である。この反対に、無意味に続く時間や、暇な時をおそれ、いつも時間がすきすきでいるように感じられ、何とかそこから逃げだしたいと思っている人がいる。怠惰に日々を送りながら、ちょっとした気晴しで、急に生きいきとしたり、退屈のあまり何かに熱中しようとしたりする。これは“時間の広場恐怖”とも言うべき状態である。死刑囚と無期囚の時間が、これら二種類の時間恐怖に似ていることは明らかである。

229) 死刑囚を描いた小説『宣告』(新潮社刊、一九七九年)を書きおえてから、あのような仮構の形ではなくて、現在の日本で、死刑囚がどのような生活をおくっているかという事実を報告しておく義務をおぼえた。私が見たありのままの死刑囚たちをドキュメントとして報告し、人びとに知ってもらうことは、死刑の問題を考える資料としても役立つだろうと思った。さらに『宣告』に対して事実に密着しすぎ、実在の人物をなぞったという評価が一部にあったことへの反論として、あえて私の経験した事実とはこのようなものであったと示したくも思った。 ※「7版あとがき」

230-1)私自身の結論だけは、はっきり書いておきたい。それは死刑が残虐な刑罰であり、このような刑罰は廃止すべきだということである。〔略〕
 死刑が残虐な刑罰ではないという従来の意見は、絞首の瞬間に受刑者がうける肉体的精神的苦痛が大きくはないという事実を論拠にしている。〔略〕
 しかし、私が本書でのべたように死刑の苦痛の最たるものは、刑執行前に独房のなかで感じるものなのである。死刑囚の過半数が、動物の状態に自分を退行させる拘禁ノイローゼにかかっている。彼らは拘禁ノイローゼになってやっと耐えるほどのひどい恐怖と精神の苦痛を強いられている。これが、残虐な刑罰でなくて何であろう。

232) 死刑存置論者のもう一つの大きな主張は、死刑のもつ威嚇力を重くみることになる。死刑の廃止は、殺人犯への威嚇力をなくして、殺人が野放図におきるようになるだろうという。しかし、この論旨は、どれだけ実際の殺人犯の調査にもとづいておこなわれているのだろうか。私は百四十五名の殺人犯について、犯行前あるいは犯行中に、自分の殺人が死刑となると考えたかどうかを質問してみた。犯行前に死刑を念頭に浮べた者はただの一人もいなかった。犯行中に四名が、死刑のことを思った。殺人行為による興奮がさめたあとでは二十九名が、自分の犯罪が死刑になると思った。つまり、死刑には威嚇力がほとんどなく、逃走を助長しただけだったのである。殺人の防止には、刑罰を重くするだけでは駄目なことは、私が多くの殺人犯に会ってみた結果、知りえた事実である。

@研究室

[PR]

# by no828 | 2017-07-31 17:42 | 人+本=体 | Comments(0)
2017年 07月 26日

危険なのはあくまで軽率な思いこみや先入見なのであって、意見そのものではない——森本哲郎『「私」のいる文章』

 森本哲郎『「私」のいる文章』新潮社(新潮文庫)、1988年。65(1063)

 版元ウェブサイトなし|単行本は1979年にダイヤモンド社

c0131823_14382547.jpg

 27年間、新聞記者として「私」のいない——「私」を抑制した——客観的文章を書き続けた著者は、それに我慢できなくなりました。しかし、「私」を全面展開できる文章を書こうとした途端、その難しさに直面します。

 引用にもある「思ったとおりに書け」という作文指導は何も指導していないに等しいでしょう。わたしもそうした指導を受けました。困惑したことを記憶しています。

16)ぼくのいう「私」のいる文章というのは、〔略〕「私は……と思う」という形の文章、すなわち「私」が考えたり、感じたりしたことをつづった文章のことであって、その考えや感情がどれほど自分にとって明晰であり、どれほどそれを明晰に叙述しえたと思っても、あいまいさを拭い去ることはできないのだ。

17) 文章を書くという作業は、何かについて書くことである。「私」のいる文章とは、「私」について書くことだ。そこでぼくは、新聞記者の習性によって、まず「私」を取材しようと思った。自分を取材して書けばいいと思った。ところが自分自身を取材するのは、たとえば殺人事件について、あるいは火事について、あるいはだれか自分以外の人物について取材することよりも、はるかにむずかしいということに気がついたのだ。

18-9) ぼくは小学生のころ、作文の時間に先生に教わった。「思ったとおりに書け」と。なるほど、作文とは、「思ったことを書く」ことである。けれど、この教え方には問題がある。自分が何を思っているのか、それがだいたい、はっきりしていないからである。自分の思っていることが、つねに自分にはっきりしているなら世話はない。だから、「私」のいる文章を書くためにいちばんかんじんなことは、何を、いつ、どこで、どのように思うのか、ということなのである。いや、それだけでは足りない。さらに、なぜ、そう思うのか、を加えねばなるまい。 ※傍点省略

27)人間は生きるために環境に適応しなければならないのだが、ひとたび環境に適応してしまうと、こんどは環境にすっかり慣れてしまったということが、逆に生きるという実感を失わせてしまう。〔略〕都会というのは、人間を自然から守る装置が幾重にも張りめぐらされている場所のことである。〔略〕自然に対する抵抗感、すなわち適応への努力〔略〕がなくなれば、人間は何かべつのものをそれに代えなければならない。そうしないと、〔略〕〈退屈のあまり〉病気になったり、以上な行動をはじめたりして、あげくの果て、死んでしまいかねないからだ。都会の刺激というのは、その代替物なのである。〔略〕文化とか、人間がつくり出すさまざまな情報といったものは、人間が生きるため、抵抗するための擬似自然なのである。 ※傍点省略

41) 「取材」とは、この世の出来事を自分なりに知ろうとすることである。 ※傍点省略

54)ぼくらはこうした〔価値判断をめぐる〕議論によって、ふだん自分が抱いている価値観の根拠をあらためて反省させられる、そういう意味を持っているのである。相手に向かって自分の価値判断を説くときには、その根拠を明示しなければ相手は納得しない。「彼女はすてきだ」という場合には、そのすてきな理由を挙げなければなるまい。こうして、一見、無意味に思える第三の議論は、ぼくらに価値判断の根拠を反省させるという収穫をもたらす。そして同時に、相手の価値観についての新たな発見と認識を与えてくれる。

79) 取材とは、既成のイメージがべつの新しいイメージに生まれかわる、その道行きのことなのである。

80-1) アメリカのジャーナリスト、ジョン・ガンサー『アフリカの内幕』を書いたのち、アフリカを再訪したときのことだ。彼はアフリカのある国の青年にこう詰問された。
あなたは私たちの国にたった三日間滞在しただけで、よくまあ、われわれの国について報告が書けるものですね
 すると、ガンサーはこう答えた。
そうです。それだから書けるのです。もし私があなたの国に三日ではなく、三年間滞在していたら、私は絶対に記事は書けなかったでしょう」〔略〕
 なぜなのか?
 端的にいうと、ものを書くということは、あきらめるということだからだ。何をあきらめるのか? それ以上知ろうとすることをあきらめるのである。何かについて知ろうとすれば、きりがない。〔略〕だから、どこかであきらめなければならぬ。あきらめて、その時点で、自分なりの結論を下さなければならない。それが、ものを書く、ということなのである。 ※傍点省略

105)ガンサーは後進のジャーナリストに対して、ただひとこと、「書きとめておけ」と説いている。〔略〕その場合、どんな紙を使うにしろ、けっして紙の裏表にメモを取ってはならない、ともいっている。なぜなら、そのメモをあとで整理する場合、どうしようもなくなるからだ。そうしたメモ、数千枚の小さな紙切れを、彼はあとでテーブルの上にひろげて入念に分類する。それを一冊、また一冊とノートに貼ってゆく。

142-3)ジャーナリズムは、まさにそのような「べき」から自由であってこそ、ジャーナリズムたりうるのであり、ジャーナリストは、「ねばならぬ」から離れているからこそ、ジャーナリストたりうるのだと思う。それが言論の自由の本来の意味なのではなかろうか。〔略〕一元的な「べき」のジャーナリズムしか存在しないところに、真のジャーナリズムは成立しない、と私は考える。

146-7) 私は、ジャーナリズムとは、「偏向」の異名だと思っている。偏向していないジャーナリズムなど、ありえない。いや、偏向するからこそ、ジャーナリズムは成立するのである。理由はきわめてかんたんなことで、言論の世界に「絶対的基準」なぞ存在しえないからである。〔略〕事実は無数にある。その無数の事実のなかから、どのような事実を事実としてとり出すか、という段階で、客観的という言葉は意味を失ってしまうのである。なぜなら、その選択はすでに客観的ではありえないからだ。

161)意見というものが、事実の報道をいかにゆがめるものであるか、その例はたくさんあるだろう。だが、危険なのはあくまで軽率な思いこみや先入見なのであって、意見そのものではない。ところが、新聞人は誤った意見を避けようとするあまり、しまいには意見そのものまでを回避するような習慣を身につけてしまったように思う。

165)ジャーナリストの本質とは、たとえ彼がどのように狭い専門領域を受け持つにせよ、つねに批判者であるということである。批判者であることによって、彼は特殊な専門分野を、一般の言論の広場へと解放する。批判者であることによって、彼は取材を担当する個別の分野に普遍の問題を発見する。現代における新聞記者は、現代への質問者なのだ。 ※傍点省略

189)新聞が世論を導くような、また、人びとが新聞の社説をよりどころとするような、さらにいうなら、人びとが新聞にあまりに多くを期待し、そして、新聞がやたらに権威や力を持つような、そういう社会は、まだまだ未成熟な社会だと、ぼくは思う。 ※傍点省略

@研究室

[PR]

# by no828 | 2017-07-26 14:46 | 人+本=体 | Comments(0)