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思索の森と空の群青

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2018年 05月 04日

たった今の僕だって、無意識の内に僕自身に騙されているかも知れないじゃないか——舞城王太郎『山ん中の獅見朋成雄』

 舞城王太郎『山ん中の獅見朋成雄』講談社(講談社文庫)、2007年。69(1136)

 2003年同社単行本、2005年同社ノベルス

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「獅見朋成雄」は「しみとも・なるお」。どのような内容の本かを説明しようとして、たしかに“山ん中の獅見朋成雄の話だな”と思った。

 33-6ページの引用部分は、先日の佐々木中『砕かれた大地に、ひとつの場処を』の41ページや152ページの部分と重なる。

9-10)鬣がある分、僕は自分が人間であることを人一倍強く主張しなくてはならない、という気分だったのだ。しかし方程式を解き英作文を演習し品詞を判別しながら僕は、人間的であるということはどういうことなのかを考えていて、こう思った。「数学」や「英語」や「国語」を勉強するのは人間だけとは限らない。例えば馬にだって馬なりの「数学」「英語」「国語」があるかも知れない。〔中略〕「ヒヒーンブルブルガフウ」にだって文法や方言が混じっているのかも知れないし、そういうのを親が子に、仲間が仲間に教えあっていれば馬だってちゃんと勉強していることになる。じゃあ中学校の勉強をやってるだけじゃ、僕が馬じゃなくて人間だ、ということにはならない。では何が僕を「人間」として定義してくれるのだろう?「哲学」も「宗教」も馬のものがあるかも知れない。「心理学」や「政治」「経済」「法律」だって馬は持っていそうだ。〔中略〕という訳で……という文脈が正確かどうかは判らないが、何となくそんな感じで、僕は書をやるようになった。馬が歌を唄ったり一句詠んだり詩を口ずさんだりは、していないとも限らないだろうけど、それを文字にして残していたりはすまい、というのが僕の最初の発想だったと思う。

33-6)「極意も教えていらんて。極意も、ちゃんと俺が自分で見つける」「……偉いなあナルちゃん。ほんならまあ……好きにしなせ」「おう」「ナルちゃんの好きにするんやないんやで。墨と筆の好きにするんやで」「うん?」「形は墨と筆が決めてくれるわ」「ううん?
「それが書の極意」。〔中略〕墨と筆の好きにする?じゃあ墨のついた筆を握る僕はどこで何をしていればいいの?〔中略〕筆を持ってるだけでは書にならない。筆を動かすには僕が要る。でもモヒ寛は、墨と筆の好きにするようにと言った。もし僕の好きにではなくて墨と筆に書を任せるようにしろという意味なら墨と筆には意志はあるのか?〔中略〕考えすぎるなということだろうか?でも墨を磨って筆を持って、しきんと静まり返ったあの瞬間に、何も考えず、何も求めないのは無理だろう。書くべき書と書きたい書があって、筆を手にしてそれを考えないのは不可能じゃないか?〔中略〕十四歳の思春期真っ盛りの人間には無理だーアイデンティティも確立されていないのに滅私ができるかよーというところで結論を出そうかな、という感じのそのとき、背後でガサリ、と落ち葉が鳴った。

170-1)墨を磨るために僕が求める「しゅりんこき しゅりんこき」という音が出てこない。色々試してみる。でも手つきを変えても墨を変えても硯を変えてもあの「しゅりんこき しゅりんこき」が出てこない。鬣を失って、僕は墨まで無くしてしまったんだろうか?僕は少し慌てる。すると僕の様子に気づいたモヒ寛が言う。「ナルちゃん、前に気に入ってたもんにこだわる必要はねえんやぞ。目の前にあるもんでやってみれや」僕はうつむいたまま固まる。僕はもう変わってしまったのだ。あのトンネルをくぐる前の僕にはもうなれないし、あの頃の僕ももう戻ってこないんだ。僕は諦めなくてはならない。目の前にある僕で何とかしなければいけない。新しい僕のままで何とかやっていかなくてはならない。そんなこと知っていたし、そうするつもりだったし、新しい僕を受け入れていたつもりだったし、前の僕なんてどうでもよいつもりだったのに、墨を握った瞬間、僕はあっという間に昔の僕を取り戻そうとしていた。昔の僕になろうとしていた。昔の僕に返ったつもりになっていた。僕は僕自身を騙そうとしていたのだ。そして僕は、無意識のままでそれができるのだ。〔中略〕僕は僕の知らないうちに僕を騙せる。だとしたらたった今の僕だって、無意識の内に僕自身に騙されているかも知れないじゃないか。

@S模原


# by no828 | 2018-05-04 23:09 | 人+本=体
2018年 05月 04日

その恐怖こそがその子の怖がるお化けを作り出してもうてるかもしれんのやで?——舞城王太郎『NECK』

 舞城王太郎『NECK』講談社(講談社文庫)、2010年。68(1135)


その恐怖こそがその子の怖がるお化けを作り出してもうてるかもしれんのやで?——舞城王太郎『NECK』_c0131823_00482399.jpg

 首にまつわる4つのぶっとんだ物語。「恐怖」とは何か、考えさせられた。   

20-1)友達とは何かについては知ってる。出会って付き合ってる場、クラスメイトなら学校、バイト先の子ならバイトの現場、そういう場所を離れてプライベートの時間に連絡を取り合ったり遊んだりすれば、その子が友達なのだ。〔中略〕自分の気持ちはともかく、相手の気持ちだって関係なく、休日に一緒に遊びに出かけたり、夜メールしたり電話したりする相手は友達なのだ。〔中略〕友達だという認識は、何らかの場に縛られてこの付き合いはあるわけじゃないんだなと気付くことから始まる。私の携帯には誰からも連絡がない。〔中略〕休みに出てくことを私が面倒がるせいで……や、そんなことあからさまには言わないし振る舞ってないつもりだけど、結局お誘いは途絶える。これまでは百花ちゃんはそういうキャラなんだねくらいに理解されてると思っていたが、これは関係が冷え、隔たりが大きくなってきているのだ。さてじゃあ誰と友達になろうかな、なんて学校の子やバイトの知り合いなどを携帯のアドレス帳から吟味してると一体私は何様なのか、友達を選ぶなんてどういう権利があるのか、そもそもこれは友達になるという過程において不自然な在り方なんじゃないか、さらにそもそも友達になるという目的自体人との対し方として決定的に間違ってるんじゃないか……英文科の子たちが英語を学ぶために外国人の友達が欲しいなどと言ってるのを聞いて鼻白んでいたのになどと迷うけど、そういう理想論的な考え方を自分自身に振りかざして都合良く諦めようとするのを思いとどまる。友達が休みに会うことから始まるなら、ばったり会うことを期待するだけが本道ではない。誘い出していいのだ。ならば友達を自ら作ろうとすることも間違いじゃない。

519-21)首藤「……何でこんな一生懸命、怖い思いしないといけないんですか」
杉奈の声「実験やがの。お化けを作るのが恐怖だって証明するための」
首藤「そんなの証明してどうするんですか」
杉奈の声「ほやかって、世界中にいる子供が、皆ベッドの下とかクローゼットの中とか布団とかバスクリンとか怖がってるかもしれんが。そんでその恐怖こそがその子の怖がるお化けを作り出してもうてるかもしれんのやで?そういうのを止めてやりたいがの」
首藤「………」
越前の声「お、立派やんか」〔中略〕
越前「布団とか入浴剤を怖がる子供がどれだけいるかと思うけど、確かにな。つまり、お化けが恐かったらお化けのことなんて想像するなってことやな」〔中略〕
杉奈「ほうや。怖いことさえ考えんかったらお化けは生まれんのやし、お化けがいんかったら怖がる必要もないがの

544)杉奈「……ユカリちゃん、悪いお化けじゃなかったんやねえ」
首藤「……あの人、たぶんずっと杉奈さんの周りにいたから、怖がらせようと思ったらいつでもできただろうけど」
杉奈「私を護っててくれたんやねえ」
越前「怖いときに想像することやでな、悪いものを想像するばっかりでないのも当然か。怖いから、自分を護ってくれるものを求めてたってことかなあ……

@S模原


# by no828 | 2018-05-04 00:53 | 人+本=体
2018年 05月 02日

誰の手下にもならず誰も配下にしない戦いと抵抗と孤独の生——佐々木中『砕かれた大地に、ひとつの場処を』

 佐々木中『砕かれた大地に、ひとつの場処を——アナレクタ3』河出書房新社、2011年。67(1134)


誰の手下にもならず誰も配下にしない戦いと抵抗と孤独の生——佐々木中『砕かれた大地に、ひとつの場処を』_c0131823_23105274.jpg

 対談集。飛躍の話、論文の書き方の話、写真にできないこと=写真にしかできないこと、ハイデガーの根拠律、などなどばしばし響く。  
 
18)誰の手下にもならず誰も配下にしない戦いと抵抗と孤独の生

21-2)磯﨑〔憲一郎〕 よく言うんだけど、今その人が不幸せであるということがすなわちその人が不幸せだということを必ずしも意味しない。「終わりよければすべてよし」みたいな考え方があるじゃない? 終わりというのは今ということだけど、それにすごく違和感があるわけ。それと同じように、自分が不幸であることが世界全体の不幸を意味しないということ。そういう違和感がすごくあるんだよね。どうですか?
佐々木 ニーチェは「私と世界」という表現を揶揄して、この「と」というのはもう噴飯ものだ、大笑いだと言ったんですね。つまり「私」は世界の膨大な生成の一部にすぎない。同等であるはずがない。だから、「と」なんて接続詞を使っても、あたかも同等のものであるかのようにこの二つをつなげることなんて出来ないわけです。

28)佐々木 「自分がかけがえのない一人であるということ」、つまりonly-one-nessに執着しすぎている人は精神的に病んでいると言いうる。しかし、「多数のなかの一人にすぎないということ」〔one-of-them-ness〕に振れ過ぎて生きている人も病んではいるのです。

191)ご自身も阪神大震災の被災者である中井久夫さんが、only oneであるという自覚とone of themであるという自覚のバランスこそが精神の健康において重要なのだと仰っています。「かけがえのない一」であるとともに、「多くのなかの一にすぎない」ということです。

41)佐々木 書いて書いて書きまくって、書かされまくって、それを抜けた瞬間に、その作品に突き放されるということがやはりある。作者であることを罷免され、解任される瞬間が訪れるわけです。自分の書いたものを見返して「一体誰が書いたんだ、これは」と目を剥く、という瞬間がないと藝術作品ではない。実は論文だって同じなんです。「たしかに俺はいろいろ読んできたし勉強もしてきたが、こんなものが俺に書けるわけがない。こんなものは俺のなかにある訳がないし、そもそも考えていなかった」と言わざるを得なくなる。自分ではない、自分を越えているものが出てきて、不意に書いたものが異物になる。だから「僕は直したいけど小説が拒む」ということになるわけですね。〔中略〕
磯﨑 そのとき〔横尾忠則と羽生善治と磯﨑が〕言っていたのは、絵にしても将棋にしても小説にしても、自分があらかじめ持っているものが出てる間はまだ大したことはない。そこは共通しているんですよ。やっぱりその局面や流れの中で「なんで自分はこんなものを描いたんだろう」とか「なんでこんな手を指したんだろう」というのが出てきたときこそが凄いという意味では共通していましたね。だから他動性というか受身なんですよね。〔中略〕
佐々木 〔中略〕基本的にあらかじめ設計図やプログラムを緻密に決めておいて、自分ではない人が書いたとしか思えない一行が不意に出現するとか、絶対に自分が弾けるはずのないフレーズが弾けたとか、そういう偶然性や飛躍を排除することが完成度が高い創作をすることだと思われている。でもそれは不正確な認識です。ジャズが一番わかりやすいんだけど、鍛錬の末に突如そういう飛躍の瞬間がないと藝術とは呼べない。鍛錬を重ねてきたのに、ここぞという時にそれを全部吹っ飛ばして次の一手を指せる、書ける人というのはやっぱり強いんです。 ※傍点省略

46)「現実がこうである以上、こうするしかない」という言説は、結局、人を苦しめ搾取や暴力を生み出すだけです。人間は「なぜ」と問う生物です。「どうやって」だけでは人間ではない。二大政党制がいい——なぜ? 沖縄には米軍基地が必要だ——なぜ? この「なぜ」という真摯な問いが今何よりも欠けています。政治の核心は「論証」です。「なぜ」に応えて理由や根拠を示すことです。それを見失えば政治は死ぬ。しかし今の政治家はこれを忘れ果てて、我々も「なぜ」という声をあげることがやましいことであるかのように思い込まされています。

57)佐々木 そもそもこの世界がセックスに過剰な意味を見出すようになったのはたかだか十八世紀末からにすぎない。〔中略〕帽子の選択と性の選択、後者にだけ過剰に意味づけを行い、そしてその人の「本質」とする。これがある種の近代の病だとフーコーが言っている。実はいがみ合っていると思われていたラカンも同じことを言っているんですね。

63)佐々木 近代という時代は一人で、可能なら一冊に「世界」を封じ込めたいという奇妙な欲望に取り憑かれた時代なんですね。ヘーゲルからマラルメから……ずっとね。

67-8)円城〔塔〕 論文の書き方って定まるのが遅いんですよね。僕は物理系や数学系しかわからないけれど、数学の論文の書き方は二十世紀初頭くらいにがらっと変わっちゃって、それまでは思いついた順に書けばよかったんです。「こう思った」「こう思った」「こう思った」「こんなふうになりました」「終わり」とできたんです。
佐々木 ファンキーですね。
円城 二十世紀半ばくらいから、一旦全部自分で考え終えてから、それを全部要素に分解して、前提があり推論があり、結論へ辿り着くというように書くという流儀が主流になるんですね。読んでる方にすると順番が逆に見える。何故それを証明しようと思ったかとかが見えにくくなる。必要最低限の要素だけから始まって、気持ちとかはなしに最後に結論に辿り着く。そうなると註の発生はその頃かなと思うんです。発想の順に書いていければそんな註は要らないですからね。俺はこの定理を証明する、何故なら俺は真理と知っているから、という思い込みからの始まりはなくなって、シンプルに、前提を置いたらほらできた、終わり、となる。

80)佐々木 文字や言葉に関するある種の異物感みたいなものが大事なんです。するする書けば書けてしまうのではなくて、自分が書いているはずの文章それ自体に生々しく痛痒い異物感を感じるというのが、実は文章を書く上でものすごく大事だし、翻訳ではそれを沁みるように感じざるを得ない。それが書くことへの取っ掛かりになっているんじゃないかと思います。

113-4)安藤〔礼二〕 おそらく、書けない、もしくは書かない期間というのが必要だと思うのです。書物とは、そうした時間の経過がなければ、決してかたちにならない。
佐々木 作家の保坂和志さんがこう仰っていて。早くデビューした作家は本当に苦労するんだ、絶対にスランプが来て書けなくなるんだから、と。これは本人から聞いたんじゃないけど、すごく若くしてデビューして賞も貰った人が苦慮しているのを、どうやら彼はずっと心配して遠くから見ていたことがあるらしい。逆に、デビューが遅かった人というのは、それはそれで苦労は苦労だけど、ある意味「デビュー以前」が「スランプ」なんだ、と。もう一回目の重いスランプを抜け出ているんだ、と。面白い話だな、と思います。

118-21)法がない社会というのは存在しません。そして、法は「してはいけないこと」を定めます。しかし、「何をして生きていけばいいか」は教えてくれない。そこまで立ち入ったら、法は法でなくなります。もちろん、最終的には法がその「法ではないもの」、たとえば道徳とか倫理とかと呼ばれるものと本当に区別がつくのか、つくとしたらどう区別がつくのかについては、さまざまな議論がある。〔中略〕一体どう生きたらいいのか、というのは、誰も教えてくれません。逆に言えば、「どう生きたらいいのか」ということを教えてくれるのは「説教」のたぐいで、どちらにしろ胡散臭さは免れない。しかし、その「どう生きたらいいのか」を引き受ける何かが、キリスト教では魂の導きを行う「司牧」と呼ばれる何かだったんですね。フーコーは「統治性」という言葉を使って、この「司牧権力」の後継こそが一六世紀に出現した「統治性」だと言いました。〔中略〕他人の魂を導く、ということがどういうことを孕んでいるか。ここに精神分析の眼目があります。〔中略〕ある意味で精神分析は〔『カラマーゾフの兄弟』の〕大審問官の学であると言える。どういうことか。つまり、「司牧」の、「羊飼いの権力」の後継として、人の世の汚辱を背負う学であるということです。告白というものの厭らしさ、ということを今言いました。しかし、実はこれは「告白される立場」「告解される立場」から考えると非常な苦難だということがわかります。〔中略〕皆さんは「神は汝を赦されるであろう」と言うしかない。それしか許されていない。「この野郎、地獄に落ちろ」と思っても、最終的にはそれは言ってはいけない。いかに自分が戦場で老人や子供を次々と殺してきたか、女性を慰みものにしてきたかを延々と喋られて、ぶん殴ってやりたいと思っても宥さなくてはならないのですよ。悪夢でしょう。醒めない悪夢のようなものです。そしてその男は大変すっきりした顔をして帰っていく。〔中略〕しかも、この告白された内容は誰にも言ってはいけない。自分の上司である司教とか大司教とかにも話してはならない。確かローマ教皇の直接命令が下ってもその秘密は絶対に誰にも言ってはいけないのではなかったか。全部この汚濁を飲み込んで墓まで持っていかなくてはならないわけですね。この辺は、近代の心理カウンセリングは甘いです。〔中略〕キリスト教徒の僧侶たちは長きにわたって耐えてきたわけですよ。連中は。こう考えるとそうそう馬鹿にしていいものではない。また、そんなに悪虐非道な奴を赦さなければならないとしたら、一体どうやって赦せばいいのかということになります。これはあらゆる宗教の大問題です。

132)佐々木 僕は前々から「宗教」という言葉でものを考えるのはやめようと言っているんです。宗教であるか宗教でないかは一切問題ではない。そもそもブッダもムハンマドもイエス・キリストも宗教という言葉の語源である「レリーギオ」(religio)〔と〕いうラテン語を知らない。知りようがない。だから、彼らは自分たちがやったことを宗教だなんて思っていたわけがないんです。

144-5)安藤 まったく新しいものなんて決して存在しないわけですよ。だから、古いテクストを、もっと自分なりの仕方で読み直さなければならない。もう一つ。『夜戦と永遠』と『切りとれ、あの祈る手を』の最も重要なポイントは何かというと、それは「解釈」という概念を、これ以上はない新鮮さで提出したことに尽きると思います。解釈は単に意味を復元するのではなくて、古いものから新しいものを生み出す。それこそが「解釈」なんですね。解釈という行為が、何かを書いたり、新たなものを生み出す際の基本だと思います。そうした解釈の積み重なりを書物というかたちでわれわれは考えている。だから書物って絶対に古びないと思うのね。テクストを読み込むこと、そして書き直すこと、それが続く限り、つまり政治や経済などが学問としては滅びても、宗教や文学は滅びない。宗教や文学の何が滅びないかというと、読み、そして理解して、解釈して、新たなもの〔を〕書き写す。そういった一連の行為です。解釈の循環は絶対に滅びない。解釈が滅びない限り、書物というものも決して滅びない。そうしたヴィジョンを述べることは反時代的でも何でもない。未来に向けての大きな提言だと思います。
佐々木 まさに「未来の文献学者」を名乗ったフリードリヒ・ニーチェが言う如く、「この時代に逆らって、来たるべき時代のために」ですね。未来を生み出そうと思ったら、「この時代に逆らう」「文献学者」たらねばならないのだから、反動的で古色蒼然と誹謗されることを恐れてはならない。

152)佐藤〔江梨子〕 文体ってどうやって作られていくものなんですか。
佐々木 自分をそのまま出してもいいものにはならないんだよね。藝事は何でもそうだけど、鍛錬を反復して自分を殺すところまで行って初めて出てくる自分が本物の自分。自分を手放す瞬間、自分がなくなる瞬間まで行かないと、その人固有のものは出てこない。そこまで行っていない本ってつまんない。より深く手放したほうが、より深く自分を取り出せる。

168)佐々木 写真の限界、写真にはできないことをあらわにしているのに、その限界をあらわにすることによって、写真にしか絶対にできないことをあらわしている。これは凄いことだと思うんです。

188-9)円城〔塔〕さんが「今陰謀があるとしたら、分かっているものを隠す陰謀ではなく、分かっていないものを把握していると言い張る種類のものであるはず」と、極めて明敏に語っているんですね。とても感銘を受けました。なぜか。東電だろうと政府だろうと、事態の全貌を把握しているつもりで、実は誰も判っている人など居ないのではないか、実際に事態の全体像を把握している人間などいないのではないか、ということがまず一つあります。しかし、それ以上のことがある。つまり、こうした原発事故の状況や情報を「隠蔽」したり「秘匿」したりする人は、そうすることによって「自分が一体何をやっているのか」が判っていないのです。一番大事なことが判っていない、把握できていない。自分だけが判っていて、パニックなり何なりを防ぐために情報を止める、と。しかし、その判断の根拠は一体何でしょう。自分が一体何をやっていて、どういう帰結を招くのか、どのような禍根を未来の人類に残すのか、彼は本当に「判っている」のでしょうか。判っていない。判っていないのに判っている、すべて把握していると思い込んでいるからこそ、そんな真似ができるわけです。こういうときに警戒しなければいけないのは「俺は何でもわかってる」と騒ぐ人です。

195)すべてのものには根拠がある、はず、です。しかしハイデガーはきわめて明快に、「すべてのものには根拠があり、原因があり、理由があるはずだ」という命題自体には根拠はない、と言うんですね。根拠があるはずだという根拠律自体には根拠はない、と ※傍点省略

215)新しい道徳を打ち立てるためには、道徳には根拠がないということをまず直視しなくてはならない。〔坂口安吾は〕それを指して堕落と言っている。

242)われわれは恥辱を感じなくなっている。麻痺してしまっている。それはこういう意味です。男女平等なく、民衆の統治もなく、完全な言論の自由もない。そういう国なんだ、ここは。これは純然たる恥辱であり、われわれは恥辱の情動こそを鍛えなくてはならない。

@S模原


# by no828 | 2018-05-02 23:37 | 人+本=体