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思索の森と空の群青

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2018年 05月 01日

自分が本当に興味のもてることをこつこつと掘り下げることさ。自分の心のなかに自分のための大学を持つことだ——井上ひさし『偽原始人』

 井上ひさし『偽原始人』新潮社(新潮文庫)、1979年。66(1133)

 単行本は1976年に朝日新聞社

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 宿題を出さない担任の先生は好き、その先生を悪く言う親も塾も家庭教師も嫌いな小学生3人組の冒険。

 教育とは、学習とは、勉強とは、というメッセージはシンプルである。ただ、その先生が保護者からの“攻撃”によってどうなるか、という展開は、この現在において読むからこそ、かもしれないが、かなり深刻である。

 また、宿題を出す/出さないというのはこの現在においてもまだ論点のままである。教師の仕事は授業時間内に子どもの理解を深めたりその思考を刺激したりすることだ、とすれば、宿題を出すということは教師がそうしたことをできていないことの証左だ、とも言いうる。また、宿題を通して学校の外に——狭義の意味での、つまり学校的な——学習の機会を拡張すると、家庭の状況によってそれを活用できる子ども/できない子どもが生まれ、むしろ子どもの学習機会を不平等にする、という議論もある。

 擁護すべきは教育概念か学習概念か、ということも改めて考えさせられた。

30)「子どもに勉強してもらいたいのが親のねがい、その親のねがいを踏みにじるなんてひどい先生だわ。だいたい、宿題を出さないですますなんて、教師としてすこし怠慢じゃないかしら

80)「でもみなさんとウガンダの高原の少年と、どっちが人間として強いか、賢いか、を考えると、先生はわからなくなってしまう。だって、ウガンダの高原の少年たちは仲間と協力しあって、槍で野象や野牛をしとめることができるのよ。どこかの草原に、あなたたちとウガンダ高原の少年たちが、取りのこされるとするでしょ。そのときあなたたちの頭の中には中学受験用の知識しかつまっていない。ウガンダ高原の少年たちの頭の中には、仲間とどうすれば協力し合うことができるか、どうすれば生きて行くことができるか、という智恵がいっぱいつまっている。さあ、そうなるとどっちが強く、賢く生きつづけることができるか、それはもうはっきりしてるでしょ。それにウガンダの高原の少年たちは、ぎゃくに東京のような大都会ででも、なんとかやっていけると思うの。先生のいっていることはすこし極端かもしれないけど、とにかくぺらぺらした知識をいくらつめこんでも仕方がないんじゃないかしら。大切なのは真の知能。にせものの知能なんかどぶのなかにポイしちゃいなさいよ

96)「あなたはおかあさんのロボットでいいのよ。こんなことをいうと、あなた、おかあさんを憎らしいだなんて思うかもしれないけれど、大きくなったら、たぶんおかあさんに感謝するはずだわ。いまの世の中では、中学の、高校の、そして大学の入学試験に受かるかどうかで、人間の運不運が決ることが多いの。そういう世の中なのだから、ごちゃごちゃいってもはじまらない。それよりも早くロボットになった方が勝ち。わかるでしょ」

107-8)「日本の親たちのあいだには、どうやら学校信仰という新興宗教がはびこっているようだね〔中略〕わが子をまだ東大や有力国立大や有名私立大に入れていない親たちは、この『将来性』というお札、あるいはお守りを手に入れるために、有名高校や有力中学へ入れと子どもの尻を叩く。しかしだね、諸君、学校や企業に、はたして将来性などというものがあるだろうか。ありませんね。〔中略〕将来性のあるなしはいつにかかって本人次第なのさ。ひとりの人間が、自分の肌にぴったりとなじむ仕事を見つける、これこそ教育の仕事なのだが、そして、その見つけた仕事に全力を傾ける、そのときはじめて将来性というものが生れてくるんですよ。そこを日本のばか親たちはかんちがいしている。いい学校に入ればわが子の未来は前途洋々などと愚かなことを考えている。子どもは救われませんよ」

236)「世の中でいちばん大切なものは自分である。しかし、仲間のA君もB君もC君もそれぞれ『世の中でいちばん大切なものは自分である』と考えている。自分が大切だと思うこの気持をどうおさえれば、他人と上手に協力して行くことができるのか。自分を貫きながら他人と協調しあうこと、その智恵、それを遊びを通して体得するのが子どもの仕事でしょう。遊びという『聖なる仕事』をしながら、自分と他人のことを考えて行く、これは漢字を五千や一万暗記するよりはるかに尊い仕事ではないかと思うんです。子どもはそうやって人間になって行くんだ。ところが、受験勉強というのは他人のことを一切考えない。極論しますとね、人間になることを子どもに拒否させようというおそろしい仕事です

372)「ねえ、きみたち、キリストは東京大学を出ているかね。おしゃかさまは京都大学を受験しただろうか。またマホメットは早稲田大学の卒業証書を持っているか。あるいは聖徳太子のかぶっているのは慶応大学の制帽だろうか。そしてまた、織田信長は名古屋大学の同窓生だろうか。そんなことはない。これらの大人物たちは大学へは行かなかった。ただ、自分の心のなかにそれぞれの大学を持ち、自分の大学で懸命に学んだのだ。だからこそ、大きな仕事ができたのだよ〔中略〕そういうわけだから、受験勉強をするひまに、自分が本当に興味のもてることをこつこつと掘り下げることさ。自分の心のなかに自分のための大学を持つことだ

@S模原


# by no828 | 2018-05-01 22:17 | 人+本=体
2018年 04月 24日

柿緒が何を聞きたかったかが問題なんじゃない。柿緒に何を言うべきだったかが問題なんじゃない。僕が柿緒に何を言いたかったのかが問題なのだ——舞城王太郎『好き好き大好き超愛してる。』

 舞城王太郎『好き好き大好き超愛してる。』講談社、2004年。65(1132)


柿緒が何を聞きたかったかが問題なんじゃない。柿緒に何を言うべきだったかが問題なんじゃない。僕が柿緒に何を言いたかったのかが問題なのだ——舞城王太郎『好き好き大好き超愛してる。』_c0131823_22380912.jpg

 2篇収録。それぞれ異なる書体と用紙が使われている。凝った本作り。

 舞城王太郎はぶっとんでいる。それを正論として受け取ってよいのかそうではないのか、わからない。それもねらいかもしれない。

「祈り」とは何かと考えさせられた。教育は祈りなのか。この本からすれば、それは祈りだとは言い切れない。しかし、祈りではないとも言い切れない。祈りの文学、あるいは文学の祈り。よい本だと思う。

7-9)愛は祈りだ。僕は祈る。僕の好きな人たちに皆そろって幸せになってほしい。それぞれの願いを叶えてほしい。温かい場所で、あるいは涼しい場所で、とにかく心地よい場所で、それぞれの好きな人たちに囲まれて楽しく暮らしてほしい。最大の幸福が空から皆に降り注ぐといい。僕は世界中の全ての人たちが好きだ。名前を知ってる人、知らない人、これから知ることになる人、これからも知らずに終わる人、そういう人たちを皆愛している。なぜならうまくすれば僕とそういう人たちはとても仲良くなれるし、そういう可能性があるということで、僕にとっては皆を愛するに十分なのだ。世界の全ての人々、皆の持つ僕との違いなんてもちろん僕は構わない。人は皆違って当然だ。皆の欠点や失策や間違いについてすら僕は別にどうでもいい。何かの偶然で知り合いになれる、ひょっとしたら友達になれる、もしかすると、お互いにとても大事な存在になれる、そういう可能性があるということで、僕は僕以外の人全員のことが好きなのだ。一人一人、知り合えばさらに、個別に愛することができる。僕たちはたまたまお互いのことを知らないけれど、知り合ったら、うまくすれば、もしかすると、さらに深く強く愛し合えるのだ。僕はだから、皆のために祈る。祈りはそのまま、愛なのだ。
 祈りも願いも希望も、全てこれからについてこういうことが起こってほしいとおもうことであって、つまり未来への自分の望みを言葉にすることであって、それは反省やら後悔やらとはそもそも視線の方向が違うわけだけど、でも僕はあえて過去のことについても祈る。もう既に起こってしまったことについても、こうなってほしいと願い。希望を持つ。
 祈りは言葉でできている。言葉というものは全てをつくる。言葉はまさしく神で、奇跡を起こす。過去に起こり、全て終わったことについて、僕達が祈り、願い、希望を持つことも、言葉を用いるゆえに可能になる。過去について祈るとき、言葉は物語になる。
 人はいろいろな理由で物語を書く。いろいろなことがあって、いろいろなことを祈る。そして時に小説という形で祈る。この祈りこそが奇跡を起こし、過去について希望を煌めかせる。ひょっとしたら、その願いを実現させることだってできる。物語や小説の中でなら。

46)当たり前だけど、誰かを好きになるときには条件も留保も約束もなしにとことん好きになった方が気持ちいいのだ。

49-50)そうか、そういうふうに読めるのか、と思った。でもいやそんなふうなつもりで書いたんじゃない、と僕は断言できなかった。僕は自分の書いた小説について、どのような断言もできない。

51)「うん、まあそうだね」と僕は言いながら、あのとき賞太に言った台詞は僕の本心から出たものだったか、それとも賞太の聞きたい台詞を言ってやっただけなのかどちらだったのかを考えている。

52)無意識から出る言葉が必ずしも本音で、意識から出る言葉は必ず装飾されてるってわけじゃなくて、無意識は意識にも無意識にも両方に働きかけるんだろうし、だとすれば無意識によって無意識が装飾されてしまうことも多々あるだろう。人間の本音なんていくつもあるのだ。どれか一つじゃない。人間の無意識も複数あって、それがせめぎあってるに違いない。

53)「ごめんとか言ってほしいんじゃないの。なんですぐ謝んだよ。何も悪いことしてないっしょあんた」
「だって……」
俺がちょっと怒ったっぽいからだろ。だから俺の顔色見ながら謝られてもしょうがないし。それ反省生まねーじゃん、今度は俺怒らせないでおこうってだけでしょ、そっから出てくるの、そんなのいらねーって」〔中略〕
分かってるよ。だから怒んないでよ。怒られると、怖くてうまく考えられなくなるんだもん

37-43)祈ることに何の意味があるんだろう?僕達は祈ることで救われてたりするんだろうか?気が楽になったりしてるんだろうか?何かを解決したり、発見できたり、その手触りを感じられたりするんだろうか?まさか。祈るという一瞬の行為に僕達は救いも不安の解消も、問題の解決も、何も期待などできない。祈りはあくまでも膝をついたり手を合わせたり頭をうつむかせたりして願いを言う、思う、その刹那だけに始まって終わる。それ以上何もしないし何も思わない。ただひたすらに欲しいものを欲しいと言うことが祈りだ。欲しいものが与えられたらこうするこうしない、与えられなかったらこうするこうしないという考えはない。柿緒の父親は四月から七月まで毎晩近くの神社に通ってお百度参りをしたけれど、そのとき柿緒の父親はただひたすら娘の身体を侵食する癌がどこかに行って欲しいと願っただけで、境内の砂利を毎晩百粒移動させたことがその役に立つはずだなどと考えていたわけではないだろう。「願掛け」は人の祈りに対する集中力を持続させることに役立ち、祈りの時間を延長させる。それだけだ。お百度参りに頑張ったから、その引き換えに神様仏様とどうこうってことじゃない。祈ることとは何かを欲しい欲しいと言うことだけど、でも同時に無欲な行為だ。だから祈りが届かなくても、誰も悔しがらない。願いが叶わなくても、誰もクソ祈っただけ無駄だとは思わない。柿緒の父親も柿緒がとうとう最期の一息をついたとき、悲しみこそすれ、自分の祈りが何の効果もなかったことなど微塵も顧みなかった。誰でも知ってるのだ。祈りには何の効果もない。祈りとは、ただ、何かを求めていると、それをくれるわけではない誰かに、あるいは誰でもないものに、訴えかける行為なのだ。欲しいという気持ちを、くれる相手じゃない者に向かって言葉にすることに、どんな意味があるんだろう?気持ちを言葉にすることには絶対的に揺るがない、永劫の価値でもあるんだろうか?〔中略〕くそ、僕はバカだ。僕は他の人がうっかり言い忘れそうな言葉はちゃんと柿緒に言っておいたつもりだったけど、ただ一言、言い忘れてしまった。〔中略〕たった一言、「死なないでくれ」と言うのを忘れた。ああ!クソ!僕は本当にバカだ!〔中略〕僕は本当に柿緒に死なないでくれと泣いてすがりたかったんだ。病気のまんまでもいい、辛い思いが続いてもいい、痛くて苦しくて泣いたり喚いたりひど有り様でも何でもいいから、そんなの我慢して生き続けてほしいと、自分勝手なことを頼みたかったんだ。でも柿緒にそんなこと言っても、癌を抱えてどうしようもないだろうと、僕は遠慮してしまった。アホですよ。ホント。〔中略〕柿緒が何を聞きたかったかが問題なんじゃない。柿緒に何を言うべきだったかが問題なんじゃない。僕が柿緒に何を言いたかったのかが問題なのだ。〔中略〕僕は本当に、柿緒にすがりついて、「死なないで欲しい」「死なれると困る」と、無駄でも言うべきだったのだ。無駄と知りながらも言うべき言葉は祈りだ。〔中略〕僕は僕の言いたい言葉を言うべきだったのだ。「まだ早すぎるよちくしょう!もっと一緒にいろよこんにゃろう!死んじゃ駄目だろこの大バカ大バカ!」僕は柿緒のことが大好きだった。愛していた。でも大好きだ、愛しているということよりも、最期には、死んでほしくないということを伝えたかった。死んで欲しくない、死なれるのは嫌だという言葉の中に、大好きだ、愛してるという気持ちは十分に入ってる。ワーンと泣いて嫌だ嫌だと駄々をこねるみっともない姿の中に、僕の愛情はこめられたはずだ。

@S模原


# by no828 | 2018-04-24 22:47 | 人+本=体
2018年 04月 23日

礼になるものを渡したい、と言ったら、報酬を受け取るようなことは、していないと断られた——三上延『ビブリア古書堂の事件手帖6』

 三上延『ビブリア古書堂の事件手帖6——栞子さんと巡るさだめ』KADOKAWA(メディアワークス文庫)、2014年。64(1131)


礼になるものを渡したい、と言ったら、報酬を受け取るようなことは、していないと断られた——三上延『ビブリア古書堂の事件手帖6』_c0131823_22411959.jpg

 古書ミステリ。シリーズ6作目。

 わたしはどうも、何年に出たどの出版社のどういう版の、という話には関心があまりないようです。

214-5)「君は四十七年前の謎を、解いてくれた……なにか、報酬を渡したいのだが
いえ、それは、結構です〔中略〕報酬をいただくようなことはしていませんし……あ、でも、もしご蔵書をお売りになる際には、是非当店をご用命下さい」〔中略〕
「四十七年前、篠川聖司くんも、同じことを言った」
「え……祖父がですか?」〔中略〕
「そう。事情は、明かしてもらえなかったが……わたしがなによりも、大事にしている一冊を、取り戻してくれた。礼になるものを渡したい、と言ったら、報酬を受け取るようなことは、していないと断られた。自分も今回の結果に、満足していないからと……『ただ、今後古書をお売りになる際は、ぜひ当店に』、だそうだ」〔中略〕
「だから、わたしはその場で、彼に古書を売った……砂子屋書房版の『晩年』の初版……わたしの持っていた中で最も状態のいい、アンカットを」


@S模原


# by no828 | 2018-04-23 22:47 | 人+本=体