思索の森と空の群青

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2016年 03月 29日

西村先生は、言って見れば大根のような方でした。大根はどこを切っても大根です——三浦綾子『愛の鬼才』

c0131823_18263893.jpg三浦綾子『愛の鬼才——西村久蔵の歩んだ道』新潮社(新潮文庫)、1986年。55(977)


 版元 → 情報なし
 単行本は1983年
 ※ 2015年9月に小学館文庫からも出たようです → 版元

 2015年に残してきた本


 西村久蔵(1898-1953)はキリスト者で、北海道の人。私立札幌商業学校でも教鞭を取ったり(1923-1936)、道議会議員になったり、事業を興したり、キリスト村を作ったり、といった人です。ちなみに、札幌商業は現在の北海学園札幌高等学校。

 さらにちなみに、久蔵の父である伸夫は19歳のときに北海道へ渡り、南部与七——養父は源蔵——の四女カクと結婚しましたが、この源蔵の三男が忠平といって、1932年のロス五輪の陸上競技三段跳び15m72の世界新記録を樹立して優勝した、あの南部忠平です。

 西村が死んで20年後に開催された記念会では式典のあとに「語る会」が開催されました。集まった遺族、教え子、社員などが次々にスピーチをしたこの会では、「絶句する人、涙にむせぶ人が幾人もいて、あたかもついこの間死んだ人の思い出を語っているかのような錯覚を感じさせた」(9)と著者は書いています。著者のスピーチは最初の引用文のようなものでした。西村は、平野啓一郎の分人主義とは対極にある生き方をした人のようです。あるいはそれは、時代背景の違いというのはもちろんあるにしても、分人主義がキリスト者には到底受け入れられないものであることを示唆しているのかもしれない、とも思います。


「愛とは過去にならないものだと思います。妙な言い方ですけれど、私たちの西村先生は、言って見れば大根のような方でした。大根はどこを切っても大根です。ま、人参も牛蒡も同じことですけれど……とにかく先生の生涯のどこを切っても同じ顔が現われるのです。私たちはともすれば、時と所によって異なった顔を見せるのですけれど、先生はそういう方ではなかった(9-10)

「しかしね、堀田〔=著者の旧姓〕さん、あなたは太陽の光を受けるのに、こちらの角度から受けようか、あちらの角度から受けようかと、毎日しゃちこ張って生きているのですか
 と、〔西村は〕尋ねた。私はその笑顔を、この言葉に、自分の愚かさをはっきりと知った。受けるということがどんなことか、私はそれまで知らなかったのだ。生れてからその時まで、私は父母兄弟を始め、多くの人から数々の好意や親切を受けて来た。それはあたかも、太陽の光をふんだんに受けるのに似ていた。だが、療養生活が長びくにつれ、私は受ける一方の生活の中で心が歪んできていたのである。私は太陽の光をおおらかな気持で受けるように、多くの人の慰めや励ましを、おおらかに受けるべきであったのである。人の愛を受けるのに必要なのは、素直な感謝の心であった。そのことを私は忘れて、初対面の先生に、見舞の品を非礼にも突き返したのである。
(18)

 以降、久蔵の生い立ちから時間的に展開していきます。受洗した久蔵が祖父真明と会う場面が第四章で描かれています。キリスト教をまったく認めてこなかった真明とのやりとり、また、久蔵の説明を聞いたあとの真明の対応は——引用はありませんが——「本物」という言葉にふさわしいものだと思いました。また、213-5ページのニコライ・ザハロフについての場面は、本当に悲しい気持ちで読みました。

死は年の順に来るものだと、久蔵はなんとなく思っていた。今生きているすべての大人が死なない限り、子供の自分たちは死なないもののように思っていた。ところが、家族の中で最も年の行かない高松が死んだ。何者かにさらわれるように死んだ。何者かがまさに襲いかかるように高松を奪って行った。
 この高松の死が、久蔵を読書する人間に変えた。〔略〕小説でも講談でも何でもよかった。そこには教科書にない人間の世界があった。死があり、別れがあり、恋があり、友情があった。それらを読むことによって、久蔵は高松がどこに行ったのかを知ろうと思った。
(48)

たいていの失敗は取り返しがつく。しかしなあ久蔵、高松を死なせたのは取り返しがつかねぇ。命だけは……命だけは……
 不意に伸夫の顔が歪んだ。久蔵はその時の父の言葉を生涯忘れることができなかった。
(53)

「西村、罪が何か知っているか?」
「いや……あまり……」
「じゃ、性欲は罪だと思うか
 久蔵は思わず動悸した。
罪のような気がする
じゃ、食欲は罪か。まさか罪とは言うまい。食欲も性欲も罪じゃないよ、西村。腹が減ることは罪じゃないんだ。女にかつえる〔餓える/飢える〕ことは罪じゃないんだ
「…………」
「ただし、腹が減ったからといって、人の物を盗んだり、人を殺してまで金を奪ったりすれば別だがね。女にかつえたからといって、女を襲ったり、主〔ぬし〕ある女に手を出したりしては罪だがね。一人楽しむことぐらい、寛大なる神は許してくれるだろう」
 進藤が声を上げて笑った。
(66-7)

 一年間の志願兵生活において、久蔵が寸暇を見つけて学んだのは、軍人への道ではなく、経済学への道であった。とはいえ久蔵は、軍隊生活を愛した。それは一般社会人のように、駆引の要らぬ社会であったからだ。軍人は純真で清潔だと若い久蔵は信じていた。久蔵にとって軍隊は、嘘を言わずに生きていける世界であった。自分の命を投げ出してまで君国に報ずるというのは、これこそ絶対利他の生活だと思った。確かに、軍隊生活を愛することが、即軍国主義を愛することではなかった。(120-1)

 不良行為があって、他の学校を退学させられた生徒が、北海中学に入学して来た。まじめな生徒たちは憤って、「他の学校で退学になるような者を入学させるとは何事か、北海中学の名に関わるではないか」と騒いだ。戸津〔高知〕校長は生徒たちの前に、
諸君、教育というものは、そんなものだろうか。追い出された生徒は一体どこへ行くのか。私は、教育というものは、悪い者をこそあたたかく迎えて、よい者になるように育て、よい者はますますよくなるように育てるものだと信じている。学力のない者には学力をつけ、学力のある者には、よりその学力を伸ばしてやる。これが私の教育だ
 と、諄々と諭した。生徒たちは黙して、誰一人まともに戸津校長の顔を見ることができなかったという。
(122-3)

「諸君、人間にとって一番大事なのは知識ではない。いかに生き、いかに死ぬかが確立されていなければ、学問は空なるものに過ぎない。だから私は、明日から一時間早く学校に来て、聖書について君たちに語ろうと思う。生きるとは何か、死ぬとは何かについて語ろうと思う。そのことに耳を傾けたいと思う者は、明日から一時間早く登校してほしい。その一時間が、やがては君たちの生涯の宝となるはずだ。しかし、志のある者だけでいい。聞きたくないのに、無理に来なくてもいい。このことは戸津校長にも許しを得ている。〔略〕」〔略〕
 戸津校長は、この久蔵の申し入れを聞いた時、
西村君、私が校長である限り、君は君の思ったとおりにやりたまえ。君の自由を阻む者があれば、私が説得しよう。誰にも気がねなく、存分にやりたまえ。吾々私学に携わる者の、それは特権なのだから
 と言ってくれたのだった。こうして久蔵のバイブル教室が始まったのである。
(130-1)

わたしはね、実に恥ずかしい人間だった。女の体を想い浮べては、汚い想いに捉われる恥ずかしい人間だった。小狡いことを考えて、要領よく立ち廻る軽蔑すべき人間だった。いや、今だって、時にはそんな自分がひょいひょいと顔を出す。わたしはね、本当は君たちに兄貴と言われるような人間ではないんだ。君たちの純真な視線に会うと、その純真さが限りなく尊く思われてね」(136)

「私は今、北京の清水安三先生のもとに身を寄せている」
 清水安三とは、桜美林の学園を創設し、現在(一九八三年)も高齢九十二歳の身をもって、桜美林大学学長を勤めておられる清水安三氏のことである。当時清水安三氏は、北京に崇貞学園を創設して、中国人の子供たちをこよなく愛し、朝陽門外の聖人と呼ばれ、中国人に敬愛されていた稀に見る教育者であった。現在も朝陽中学という学校が北京にあり、生徒数三千もの大きな学校になっているという。このキリスト信者である清水安三氏のもとに岡〔仮名〕がやって来たのは、血の出るような真剣な祈りの結果であった。
西村、君は軍隊に籍があったばかりに、殺戮の戦場に立たねばならん。私はその友人として、君の罪の償いのために、中華の人々に奉仕するべくやって来た
 この言葉に久蔵は、脳天を打ち割られたような思いがした。
(248)

 敗戦後日が経つにつれ、久蔵の信仰はいまだかつてない深まりを見せた。すべての人々が闇物資によって生きる時、久蔵は統制品外の南瓜や馬鈴薯によって飢えをしのいでいた。しかもこんな中で、誰であろうと、一宿一飯を乞う者をすべて受け入れた。
「この小さき者になしたるは、即ちわれになしたるなり」
 とのキリストの言葉に従ってなした。伝道もした。だが、久蔵の心は言いようもない悔恨に眠れぬ夜さえあった。それは、ラジオの放送により、新聞の記事により、雑誌の記録により、しだいに「聖戦」なるものの実態があらわにされていったからである。
なぜ私は、命をかけてでもあの戦争に反対しなかったのか
 くり返しくり返し、久蔵はこの問いを以て自分を責めた。北支にあって、久蔵は自分の可能な限りに中国人を愛したつもりであった。つとめて軍刀を外して、丸腰のまま群衆の中に入って行った。また中国の子供たちには、出張のたびに土産に菓子を買って帰った。中国人街、露店街の雑踏の中を、中国人の一人のように歩きもした。ほとんど中国人ばかりが観客という大入り満員の芝居を見、それと知った中国人たちが幾人も握手に来た。
 だがそれが一体何であったというのか。所詮は他人の家に泥棒でずかずかと入ったも同様の行為ではなかったか。いや、そこで日本軍は何百万もの中国の人々を殺戮したのだ。もしこの日本に、他国の人間が武装して攻め入ったとしたら、どれほどの親切を受けても、それを親切と感ずることができるだろうか。
 第一、聖書には「殺すなかれ」と書いてある。戦争とは殺すことである。殺すことが悪であると知っていながら、なぜ自分は戦争をよしとしたのか。なぜ軍役を拒否しなかったのか。
(315-6)


@研究室
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by no828 | 2016-03-29 18:41 | 人+本=体 | Comments(0)
2015年 09月 14日

十年近くおせわになった三越の営業と抵触しないもの、ということでした——三浦綾子『夕あり朝あり』

c0131823_18442296.jpg三浦綾子『夕あり朝あり』新潮社(新潮文庫)、1990年。8(930)


 単行本は1987年に同社

 版元


 キリスト者であり、クリーニング会社「白洋舎」の創業者である、五十嵐健治(1877〜1972)の物語。五十嵐は、離縁された生母けいと生後8カ月のときに別れ、5歳で五十嵐幸七・ゆみ夫妻の養子となります。話は五十嵐の独り語りのようにして進みます。旭川の病める三浦綾子を見舞ったこともあったようです(三浦の別の著作でも五十嵐が登場していたように記憶しています。そして、当初三浦は五十嵐をよくは思っていなかったと書かれていたようにも記憶しています)。

 良書。


 私には、ゆみという母は、私を育てるために、神からこの世に遣わされた天女ではないかと思われるほどでした。ですから、私の出奔は、母の精神的な生命を絶ったようなものだったかも知れぬと、どんなに悔いたことでしょう。母は私を育て上げたが故に、若くして死んだような気がしてなりません。
 縁者の少ない母の葬儀には、集まる親戚こそ多くはありませんでしたが、名もない貧しい者の妻としては、多くの人が集まったようです。特に女たちが目を真っ赤に泣きはらしていたのを覚えています。そして、思いがけぬことに、まだ十二、三歳の子供たちが葬列に加わって、しゃくり上げていたのが、まなうらに焼きつけられています。
 母を焼く煙が、六月の空に立ち昇るのを、しゃがみこみたい思いで私は見つめていました。この時、私の胸に初めて、
「人間は誰もが必ず死ぬのだ」
 という、厳粛な事実が植えつけられたのでした。
(死んで人間はどこへ行くのか)
 そう考えるようになったのも、母が死んでからでした。
(49-50)

 不思議なもので、いや、当然かも知れませんが、買いに来るのはほとんど女か子供。しかもたいてい、みすぼらしい身なりの女や子供が多い。むろん男もやって来る、が、その男たちは店先で一杯きゅっと引っかけて帰って行く。これもまた決して金持の男は来ない。近頃はいざ知らず、昔の酒屋の客という者は、何か物悲しいものでしたなあ。小さな子供が、欠けた徳利などを持って来て、手に握って生あたたくなった銅貨を私に渡す。そんな時、妙に胸がちりちりして五勺の酒を六勺にしてやりたくなる。私にはそんな弱さがありましたなあ。(54)

思うのは出世した暁の自分の姿ばかり。いかに若いとは言え、いや恐ろしいものですなあ。金だけが幸せをもたらすものと、思いこんでいたのですからなあ。金を儲けることが、人間唯一の道だと思っていたのですから、お恥ずかしい次第です。まだ私には、人間の求むべきものが、少しも見えてはいなかった。(82)

「御主人、まことに申し訳ないが、どこか、この上田で奉公口を世話してもらえまいか」
「奉公口? おせわしないものでもないですが、この上田に住みつきなさるかね」
と問われた。
「いやいや、実は何と叱られても、仕方のないことだが、わたしは一銭も持たずに、昨夜泊めていただきました
「何!? 一銭も持たずに?」
 主人はさすがに驚いた顔をしたが、形相は変わらなかった。
「はい、それで、その宿賃を返すために、働き口をおせわしていただきたいのです」
 叱られるのを覚悟で、私は小さくなって言った。と、私の様子をじっと見ていた宿の主人が、こう言いましたな。
人間一銭も持たずに旅をするというのは、よほどの事情があってのことでしょう。夜の明けぬうちに逃げられてしまっても仕方のないところを、あんたは正直に詫びてくれた。わたしはあんたを信用します
 しかし何ですな。小さな宿屋をしているからと言って、人物が小さいとは限らぬものですな。また大きな会社を経営しているからと言って、大人物であるとも限らぬものですな。
(89)

 それと驚いたことには、食事が奉公人と全く同じだった。私の経験によりますと、主人の食事は、奉公人と全くちがう献立か、あるいは奉公人の膳より、一品や二品、魚だの煮物などが多くつけられるのが当り前。が、この家ではそうではなかった。そして主人夫妻は、食事の度に何やら祈るのですな。珍しいことなので、ある時私は、給仕をしながら耳を傾けた。
 祈りというのは、商売繁盛、家内安全を祈るものだと思っておりましたが、ちがいました。あの時まで私は、あんな祈りがこの世にあるとは夢にも思っておりませんでした。
 住吉屋の夫婦の祈りはこうでした。先ず貧しい者たちにも食事が与えられるように、と祈るのですな。〔略〕次いで主人が祈ったのは、「親のない子をお守りください」という祈りです。〔略〕
 が、内心私は、そんなに心にかかるなら、親のない子を引取るとか、貧しい者に何か恵むことをしたらよいではないか、などと思わぬでもなかったのです。
 ところが、この住吉屋に来て、半月も経った頃でしょうか、私は番頭さんに思わぬことを聞かされました。
「旦那さまはな、上毛孤児院を建てられて、何十人もの親なし子を、育てていられるのだよ」
 私は耳を疑いました。明治二十五、六年のあの頃、孤児院という名すら、ほとんど聞いたことはなかった。
(95-6)

「神さまが愛なる方だと、中島さんは言われますが、それならどうして人間が、罪を犯さぬようにお創りにならなかったのですか」
 中島氏は大きくうなずいて、
「健治君、神さまはね、人間をご自分に似せて創られたのだ。いいかね、神に似せて創られたのだから、正しい者に創られたわけだ。しかし神は人間を、自由意志を持つ者としてお創りになった。悪いことをしようとした時に、手足が動かなくなるようには創られなかった。つまり人間の人格を尊重して、自由を与えられたのだ。それとも健治君、人の悪口を言おうとする時、舌が動かなくなるように創って欲しかったとか、悪い所に行こうとする時、足が動かなくなるように創って欲しかったと思うかね。それとも、良いも悪いも、自分の分別で、自由に生きるほうがよかったと思うかね
 とこう反問されましたな。私は、はっとしました。自由な人間に創られたことの尊さに気がついたのです。
(182-3)

 私共キリスト信者は、祈る時、よく声に出して祈ります。むろん、黙祷をすることも少なくありませんが、あの口に出して祈るのがいいのですなあ。黙祷ですと、祈っているうちに、祈っているのか、思っているのか、わからなくなることがある。〔略〕しかし声に出して祈る時は、やはり神の前にひれ伏す心になりますわなあ。自分の祈った言葉に促されて、いよいよ祈りに身が入りますわなあ。しかも、自分の祈りを口に出す、その祈りを耳にする、そのことがまた祈りを自覚する。これが大事です。祈るということと、思うということとは、別ですな。
 祈りは神に捧げられるもの、清められた言葉でなければなりません。神への願いであり、神への問いかけであり、その問いかけに対する答を聴き取ろうとすることでもありますな。単なる思いは神ぬきでもできます。いかに誰かに同情していても、神ぬきで思っているだけでは……これは祈りとはちがいます。
 ええと、何をお話するつもりで、こんなことを申し上げたのでしょうか。そうそう、妻と共に、言葉に出して祈り合うようになってから、平安になったと申しましたな。
(273)

藤村常務は、
「ところで五十嵐君、三越をやめて何をするつもりなのだ」
と、心配そうに尋ねてくださった。実は私も、辞職願を出す前に、何を自分の一生の仕事としていくか、ずいぶんと考えていたのです。第一に考えたのは、日曜日の礼拝を守ることのできる職業ということでした。そして、キリストの御言葉を宣べ伝えることのできる時間を生み出せる仕事でした。
 次に条件としたのは、十年近くおせわになった三越の営業と抵触しないもの、ということでした。ま、私は、呉服について、特に高級呉服については、宮内省のご用を現実に承ってきた者ですから、人に負〔ひ〕けは取らなかった。だからと言って、呉服物を取扱おうとは、夢々思わなかった。三越の営業に、いささかでも敵対するようなことは、したくなかった。そして、でき得るならば、三越に生涯出入できるような仕事をしたかった。
 次に、みんながやりたいと思う仕事よりも、むしろ遠ざけるような仕事をしてみようと思った。人のやりたくない仕事だからと言って、その仕事がこの世に不要とは限らない。否、必要でも人がやりたくない仕事があるものです。
(279-80)

 藤村常務は、その紙片を持ったまま、二分、三分、五分と、黙りこんでおられました。が、やがて顔を上げられると、
「五十嵐君、わたしは今まで、いろいろな人の、自分の店を持ちたいという相談に、何度乗ったか知れない。しかし君のように、三越の営業に抵触しないこと、などという条件のもとに仕事を決めた人を見たことがない。誰でも、長年の経験を生かしたいのが人情というもの。中には三越時代に親しくなった問屋と相談して、さっさと店を持つ者もあるのに……」
 こう言われて、またしばらく沈黙された。が、再び顔を上げられて、
「ところで、五十嵐君、資本はどのぐらいあるのかね」
 と、お尋ねになった。資本を尋ねるというのは、これはもう他人事として扱ってはいない証拠です。私は胸にじーんとくるものを覚えながら、
「はい、お店にお預けしてあります保証金が三百円ほどございますので……」
 と申し上げた。と、藤村常務は言われた。
「……三百円ですか。わかりました。五十嵐君、わたしはキリスト教のことを詳しくは知らないが、今、この何箇条かを見ていて、おぼろげながら、何かわかってくるものがある。これからは、及ばずながら君の事業を応援させて欲しいと思うのだが、どうだろう
(283-4)

 親きょうだいに捨てられたこの〔ハンセン氏病の〕患者たちを、フランス人の院長〔ドルアール氏〕はその肩を抱き、笑顔で話しかけ、まことに春風駘蕩たるありさまです。この姿を見た時、私はこれが事業の根幹だと思った。この愛、この奉仕の精神こそが、白洋舎精神でなければならぬと思った。
 同じ頃、私はもう一人の感動すべき人物の話を聞いた。その人は、第二代目の衆議院議長片岡健吉氏です。氏は熱心なキリスト信者であった。彼は必ず祈りをもって議会にのぞんでいると言われていた。
 ある日曜日のこと、ある人が時間をうっかりまちがえて、一時間早く教会へ来た。ひっそりとした教会堂内には誰もいなかった。いや、いないと思ったが、下駄箱の傍にひざまずいて、草履の鼻緒を二足三足と、すげ替えている人がいる。誰かと思ったら、日本に誰一人知らぬ者のない片岡健吉氏であった。
 この話を聞いた私は、キリストの弟子であるとは、このように隠れた所で、愛の業をなすものだということを知った。フランス人ドルアール氏、そしてこの片岡健吉氏の姿は、白洋舎の土台であると、固く固く思ったわけです。
(391)

「先進国の、イギリス、フランス、アメリカなどの人に対しては、親切な日本人はいくらもいた。しかし、乗松〔雅休〕先生のように、貧しい朝鮮人を愛してくれた日本人を、かつて見たことがない」(404)

ぬいは、「レプタ」と書いた箱を置いておきましてな、収入の十分の一はこれに入れて置く。人様からお菓子をもらっても、おおよその金額を見積って、それが千円のものなら百円その箱に入れる。これをすべて教会に捧げた。(435)

 ところで、丈夫が中学を卒業し、大学に行きたいと言った時、私はクリーニング屋に大学は要らぬと言って、反対した。勉強するなら、アメリカのクリーニング学校に行けばよいと思った。それはですな、当時同信会の信者たちは、あまり息子たちを大学にやりたがらなかった。大学にやると信仰を失うことが多いと思っていたからです。ところがぬいは、「学資はすべて自分が出す」と言いましたな。
 こうして丈夫は、慶応大学を卒業することができた。お陰で他の五人の男の子たちも、慶応で学ぶことができた。しかもですな、のちに丈夫がアメリカに半年留学することになった時、またまたぬいは金を出してやったのですなあ。自分のためには、何一つ贅沢をしない女でしたが、子供のため、また人様のために、よく尽くした女でしたな。
(437)

信仰を持つと艱難がなくなるわけではなく、周囲の状況が少しも変らずとも、自分自身に艱難を乗り越える力が与えられる。(451)

私は明治の人間ですからな、若い人たちに何と言われようと、皇室に対する敬愛の念は決して人後に落ちない。〔略〕私がキリストを信じているということと、かしこき辺りを尊敬申し上げることには、何の矛盾もなかった。唯一の神を拝することと、何の矛盾もなかった。しかし、敬うことと、拝することとは全く別のことなのです。これをわかってもらわねばならないですなあ。(461)

「小説など書いては、信仰が失われるのではないかと、それを心配していました」
 明治生まれの先生にとっては、小説は人を堕落させるものと思っておられたようである。とにかくこの親身な言葉は、どんな祝辞よりもありがたく聞いた。のちに、私は「続氷点」を書いたが、そこにヒロイン陽子の祖父「茅ヶ崎のおじいさん」なる人物を登場させた。そのモデルとして頭に描いたのは、ほかならぬこの五十嵐健治先生であった。私は小説の中で、ヒロインの陽子に、「茅ヶ崎のおじいさん」から聞いた言葉として、「一生を終えてのちに残るのは、われわれが集めたものではなくて、われわれが与えたものである」というジェラール・シャンドリーの言葉を、手紙に書かせている。
 私は、このジェラール・シャンドリーの言葉こそ、五十嵐先生の生き方に似ていると思う。死刑囚のS兄や、貧しい療養者の私などと親しくしてくださった先生は、いつも財布が軽かった。送るところが余りに多かった。S兄とは互いに百通もの手紙をやり取りしていた。
(472-3. 「追記」)


@研究室
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by no828 | 2015-09-14 19:04 | 人+本=体 | Comments(0)
2015年 06月 19日

ほうたいを巻いてやれないのなら、他人の傷にふれてはならない——三浦綾子『続 氷点』

c0131823_2016373.jpgc0131823_20162488.jpg三浦綾子『続 氷点』上下、角川書店(角川文庫)、1982年。89(912)


 版元(上) 版元(下)

 あと10点 → 


『氷点』の続編。自殺を図った陽子は一命を取り留め、自分が殺人者の娘ではないことがわかり、しかしそれですべてが落着するわけでもなく、という展開。自分の本当の親、血のつながった兄弟、血のつながらない兄、兄の親友、さまざまな関係。


 そうだろうか、と陽子はタオルの襟布の端を折りたたんだり、ひらいたりしていた。陽子は、自分が不貞の中に生れたことが辛かった。自分が生れた時、父も母も、狼狽、困惑しただけであろう。できることなら、闇からやみに葬りたかったにちがいない。自分が胎内にあった間じゅう、自分の母親が何を考えていたか、陽子にはわかるような気がした。親にさえ喜ばれずに生れた子が、この自分であり、生んですぐに捨てられたのがこの自分なのだと、陽子はくり返して思って来たのだった。
 いっそのこと、殺人犯の佐石の子として生れて来たほうが、よかったとさえ、陽子は思った。佐石夫婦に、喜びを持って迎えられた命のほうがましだった。少なくとも、裏切りの中に生れなかっただけでも、しあわせのような気がする。〔略〕
(たとえ、生れてすぐ捨てられても、生んでもらっただけで、感謝しなければならないのであろうか)
(上. 43)

「だけどね、旦那。ゆるすって、人間にできることかしら?(上. 54)

想像力のないものは、愛がない
といった誰かの言葉を啓造は思い出しながら、ため息をつき、自分に送られた浴衣を手に取った。
(上. 84)

「ねえ、院長先生、もしわたしが村井と別れなかったら、うちの娘たちは、父親の姿に完全に幻滅を感ずると思いますわ。この間、何かで読みましたけど、やくざな親なら、いないほうがいいんですって。かえって、死んでいる場合のほうが、子供は強くまじめに育つんですってよ。死んだ親は美化されるからでしょうか(177)

「わたし、すごくまちがっていたのね。外に現れた行為だけが、自分の姿だと思っていたのよ。わたしは確かに、人を悪くいうことは嫌いだったわ。あたたかい言葉で、人に接しようと思ってきたわ。でもね、人間って、じっと身動きもしないで山の中にいたとしても、本当にどうしようもない、いやなものを持っているとわかったわ(上. 213)

とにかく人とかかわることがこわいのよ。どんなふうにつきあっても、結局は傷つけてしまうような気がするんですもの。だから縁の深い人ほどこわいの。おにいさんなんか、一番こわいわ」〔略〕
「わたしね、おにいさん。だから軽々しくは動きたくないの。どんなことにも。小樽のひとにも」
(上. 219)

「一番大事な命を与えてくれたのは、何といっても親なんだからね」
「おにいさん。陽子はね、命よりも大事なものが、人間にはあると思うの」
 静かだが、力のこもった声だった。
「わたし、生んでもらったのか、生む意志がないのに生れたのか、それは知らないけど、とにかくこの世に生れたわ。でも、こんな生れ方って、肯定はできないわ
(上. 221)

「ね、おにいさん。わたしたちは若いのよ。若い者は潔癖な怒りを知らなければ、いけないと思うの(上. 222)

「ね、陽子さん、わたしね、幸福が人間の内面の問題だとしたら、どんな事情の中にある人にも、幸福の可能性はあると思うの(上. 262)

「……しかしね陽子、おじいさんの育て方が、まちがっていたことはたしかだよ。夏枝は母親を早くになくしたものだからね。まあひとことでいうと、甘やかしたんだよ。恥ずかしい話だが、おじいさんは夏枝を叱れなくてね。何でもよしよしといって育てたんだ。注意すべき時にも注意せず、したいままにさせておく、これもひとつの捨子だね。手をかけないのと同じだよ
 何もかも、夏枝の父が知っているのを、陽子は感じた。
一人の人間を、いい加減に育てることほど、はた迷惑な話はないんだね
(上. 330)

一生を終えてのちに残るのは、われわれが集めたものではなくて、われわれが与えたものである
 ジェラール・シャンドリという人のいったこの言葉が、なぜかしきりに頭に浮かぶと、おじいさんはおっしゃるのです。
(上. 333)

母の日っていうのは、必要なのかね。プレゼントしてもらえる母親には楽しいだろうけれど、何もしてもらえない親には、淋しい日じゃないのかね」〔略〕
「老人の日に父の日、母の日に子供の日か。なんだ、一通りそろってるじゃないか」
と、いうことは、老人も親も子供も、みんな大事にされていないということだな
(下. 49)

「そうだ、お手玉もしましたよ。赤や青の小布をはいでなあ。みんな、中にあずきを入れてなあ。だけども、うちは貧乏してたからね、豆のような小さな石をたくさん拾って、中に入れてね。うん、痛いお手玉でなあ。友だちは、だあれも、わたしのお手玉にさわらなかった。でも、せっちゃんね、あのひとだけは、時々わたしのお手玉で遊んだね(下. 64)

「どうして若い人のほうが早く死ぬんかねえ。うちの息子も戦争で死んだ。シンガポールで死んだってね、役場からもらった遺骨の箱に、紙きれが一枚入っていたんですよ。わたしも、息子の死んだところまで、一度行ってみたかったけどね。いつのまにか、八十を過ぎてしまって、もう行けなくなりましたよ」〔略〕
何しに生きてきたのかねえ。貧乏して、亭主に道楽されて、息子に死なれてなあ。それでもやはり、死にたくはないわね
(下. 65)

真に美しいといいきれるものは、ないのかも知れない(下. 132)

父母はわたしをもらう時、わたしの身の上を一切知った上で、こういったそうです。
子供にめぐまれない親と、親にめぐまれない子供です。似合の親子ではありませんか」って。
(下. 155)

 父はうちの薬局に、こんな言葉を色紙に書いて飾っております。
「ほうたいを巻いてやれないのなら、他人の傷にふれてはならない」
 わたしの好きな言葉でもあります。
(下. 167)

「あのね、いつか何かの小説で〈自ら復讐すな。復讐するは我にあり、我これを報いん〉という言葉を読んだのよ。その言葉にぎくりとしてね。何かよくわからないけれど、その言葉は心理だと直感したのよ。それからは、ふしぎにすっと気持が軽くなっちゃった。何しろ、わたしが復讐するよりも、もっと厳正な復讐があるにちがいないと思ってね。そしてね、真に裁き得るものだけが、真にゆるし得るし、真に復讐し得るのだとも、思うようになったのよ(下. 197)


@研究室
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by no828 | 2015-06-19 20:28 | 人+本=体 | Comments(0)
2015年 06月 18日

この罪ある自分であるという事実に耐えて生きて行く時にこそ、ほんとうの——三浦綾子『氷点』

c0131823_21405350.jpgc0131823_2141582.jpg三浦綾子『氷点』上下、角川書店(角川文庫)、1982年。88(911)

 
 1964年12月9日〜1965年11月14日「朝日新聞」朝刊連載小説
 版元(上) 版元(下)
 カバーデザインは読んだものとは違います。

 あと11点 → 


 有名な小説。ようやく読みました。妻のせいで娘が殺されたと思う夫は養女をもらう際に娘を殺した犯人の娘を引き取り妻に育てさせることを思い立つ、というふうに物語は立ち上がります。

「憎悪」という感情の一端を理解することができます。また、相手を苦しめるためにどうするか、という観点からの種々の行為は、相手を苦しめることには成功するかもしれませんが、結局自分をも苦しめることになるのだということが書かれています。自分を苦しめることになるから相手を苦しめるようなこともやめよう、という考え方はしかし自分本意であって、相手を本当に思ってのことではありません。相手を本当に思うとは一体どういうことなのでしょう。自他の関係が問われます。叶わぬ恋こそが愛、といったようなこともそこから導き出せるかもしれませんし、出せないかもしれません。

 続きが読みたい、終わらないでほしい、と思っていたら『続 氷点』がありました。


「そうだねえ。敵というのは、一番仲よくしなければならない相手のことだよ(上. 21)

 和田刑事の語ったようなことも、新聞に書かれてあった。
「通り魔のようなものだった!」
 啓造はつぶやいた。
(もし、ルリ子が一分あとに家を出ていたならば、犯人の佐石と顔をあわすことはなかったろうに)
 ルリ子の不運というよりほかはなかった。
(いや、佐石にとっても、やはり不運といえるかもしれない。ルリ子に会わなければ、彼も殺人を犯さなかったわけだからな)
 そう思うと、啓造は「偶然」というものの持つおそろしさに、身ぶるいした
(上. 58-9)

「わざわざ遠い所へやることはないよ。神楽小学校でいいじゃないか」
「いいえ。付属は父兄も教育に熱心で、子供たちの成績もいいんですって」
「成績のわるい子がいたら困るのかね」
「だって、教育は環境が大切ですわ。父兄がそろって熱心で、お友だちの成績もそろっていたら、よい環境じゃございません?」
 夏枝は陽子のこととなると、いつも急にはきはきと意見をのべる。
「そうかねえ」
啓造は気のりのしない返事をした。
「そうですわ。あんまり貧しい家の子も行っていませんし……」
「そうか。ではやはりこっちの学校に、わたしは入れるよ」
 啓造はさえぎるようにいった。
「まあ、どうしてわかって下さいませんの」
「わたしはね。貧しい家の子や、成績のわるい子のいる学校の方が好きなんだ。今の日本にはいろいろな子がいるんだ。どんな子供とでも友達になるということが大事なんだ」
「…………」
「能力のない子は励ましてやればいいんだ。貧しい家の子というのは、金持の子よりは大てい自立心があるよ。それにみならうことだな。体の弱い子にはやさしくしてやる。それでいいじゃないか」
「…………」
「どんな人間でも拒まずに、一人一人を大事にするというのが教育の根本だよ。人間を大事にしないのは諸悪のもとだと、だれかがいっていたがね。いろいろな子がいる学校でいいじゃないか。大学だっていわゆる名門ほど、エリート意識が強くて、他の人間をバカにするんじゃないのかね」
(上. 197-8)

「百円落さないと、わかんないけれど、ずっとせんに十円おとしたの」
「その時どう思った?」
だれかが拾って喜ぶだろうと思ったわ
「だれかが拾って喜んだら、つまらない?」
だれかが喜んだらうれしいわ。乞食が拾えばいいなと思ったの
「だってさ。落したら損だぞ。うれしくないよ、ぼくは」
「徹くん。十円落したら、本当に十円をなくしたのだから損したわけよ。その上、損した損したと思ったら、なお損じゃない」
「あ、そうか」
(上. 306)

 あの胃けいれんの女に、自分自身の救命具をやった宣教師のことを、啓造はベッドの上でも幾度も思い出したことだった。啓造には決してできないことをやったあの宣教師は生きていてほしかった。あの宣教師の生命を受けついで生きることは、啓造には不可能に思われた。(上. 367)

愛するというのは……一体どうすればいいんだ?
 啓造は、みるともなしに折り紙をしている陽子の手もとを、ぼんやりみていた。
(愛するというのは、ただかわいがることではない。好きというのともちがう)
(下. 17)

自分が悪くなったのを人のせいにするなんていやだったの。自分が悪くなるのは自分のせいよ。それは環境ということもたしかに大事だけれど、根本的にいえば、自分に責任があると思うの。
 陽子ね。石にかじりついてでもひねくれるものかというきかなさがあるの。〔略〕わたしは川じゃない。人間なんだ。たとえ廃液のようなきたないものをかけられたって、わたしはわたし本来の姿を失わないって、そう思ってたの。こんなの、やはり素直じゃないわね、おにいさん」
(下. 199)

 名あてのない遺書には、
「結局人間は死ぬものなのだ。正木次郎をどうしても必要だといってくれる世界はどこにもないのに、うろうろ生きていくのは恥辱だ
 と書いてあった。
 啓造の話を、陽子は幾度もうなずきながらきいていた。
(結局は、その人もかけがえのない存在になりたかったのだわ。もし、その人をだれかが真剣に愛していてくれたなら、その人は死んだろうか)
(下. 205)

「ここがアイヌの墓地だよ。旭川に住んでいる以上、一度は陽子にも見せたかったのだがね」〔略〕
「まあ」
 一歩、墓地の中に足を踏み入れた陽子は、思わず、声をあげた。
 墓地とはいっても、和人のそれのように『何々家』と境をしたものではなく、エンジュの木で造った墓標がつつましくひっそりと、並んでいるだけであった。それはいかにも死者がねむっている静かなかんじだった。死んでまで、貧富の差がはっきりしている和人の墓地のような傲岸な墓はない。
(下. 208)

(死は解決だろうか——)〔略〕
(死は解決ではなく、問題提起といえるかも知れない。特に自殺はそういうことになる)〔略〕
(命をかけて問題提起をしたところで、周囲の人々も、社会もそれに答えることは少ないのだ)
(下. 210-1)

(今の陽子に対するこの愛情は、時が与えたものではないか。すると、それはおれの人格とは何のかかわりもなしに与えられたものなのだ
 時が解決するものは、本当の解決にはならないと啓造は思った。
(下. 214)

 けれども、いま陽子は思います。一途に精いっぱい生きて来た陽子の心にも、氷点があったのだということを。
 私の心は凍えてしまいました。陽子の氷点は、「お前は罪人の子だ」というところにあったのです。私はもう、人の前に顔を上げることができません。どんな小さな子供の前にも。この罪ある自分であるという事実に耐えて生きて行く時にこそ、ほんとうの生き方がわかるのだという気も致します。
 私には、それができませんでした。
(343)


@研究室
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by no828 | 2015-06-18 21:53 | 人+本=体 | Comments(0)
2015年 06月 17日

おれは自分の日常がすなわち遺言であるような、そんなたしかな生き方をすることが——三浦綾子『塩狩峠』

c0131823_1910277.jpg三浦綾子『塩狩峠』新潮社(新潮文庫)、1973年。87(910)


 単行本は1968年に同社
 版元

 峠は越えているのですが…… → 


 鉄道職員 水野信夫は結納のために札幌へ向かう。途中、塩狩峠にて列車が暴走し、水野は自らの身を挺して列車を止めて、そして死ぬ。結納を前にした、決意の死である。

 というのがあらすじで、この物語にはモデルがいます。長野政雄という人物です。水野のように死んでしまった長野はしかし、乗客のために命を投げ出したわけではないという説もあるようです。本書はあくまで物語です。

 水野の生い立ち、家庭の事情に、教育について考える契機を見出すことができます。この物語にもキリスト教が登場します。


「いいか。人間はみんな同じなのだ。町人が士族よりいやしいわけではない。いや、むしろ、どんな理由があろうと人を殺したりした士族の方が恥ずかしい人間なのかも知れぬ(18)

(もし自分だったら……)
 読書は、人と自分の身をおきかえることを、信夫に教えた。
(99)

「人間はいつ死ぬものか自分の死期を予知することはできない。ここにあらためて言い残すほどのことはわたしにはない。わたしの意志はすべて菊が承知している。日常の生活において、菊に言ったこと、信夫、待子に言ったこと、そして父が為したこと、すべてこれ遺言と思ってもらいたい。
 わたしは、そのようなつもりで、日々を生きて来たつもりである。
とは言え、わたしの死に会って心乱れている時には、この書も何かの力になることと思う」
(142)

(おれは自分の日常がすなわち遺言であるような、そんなたしかな生き方をすることができるだろうか)
 信夫は、父の死を悲しむよりも、むしろ父の死に心打たれていたのである。
(145)

「そうか、吉川君でも死ぬのが恐ろしいのか」
 信夫はホッとしたように吉川をみた。二人は顔を見合わせて笑った。
「吉川君と話していると気が楽になるなあ」
「そうか。しかしそれは楽な気がするだけだよ。ほんとうに気が楽になったのとはちがうよ
「そうだろうか」
「そうさ。ただこうして話し合っただけで、死などという問題が解決されるわけはないじゃないか。やはり何のために自分は生きてるのだろうかと思うと、何のためにも生きていない気がして淋しくなるだろう。生きている意味がわからなきゃ、死ぬ意味もわかりはしない。たとえわかったところで、安心して死ねるというわけでもないさ」
(207-8)

 そう思いながらも、あのふじ子が死を目の前にして、
「確かに死はすべての終わりではない」
 と、信ずることができたなら、それはどんなに大きな力になることだろうかと信夫は思った。そして自分では信じていないその言葉を、ふじ子に告げてやりたいような気がしてならなかった
(だがはたして、その言葉が人間にとって、ほんとうに生きる力となるだろうか。生きる力はいったい何なのだろう)
(221-2)

「みなさん、愛とは、自分の最も大事なものを人にやってしまうことであります。最も大事なものとは何でありますか。それは命ではありませんか。このイエス・キリストは、自分の命を吾々に下さったのであります。彼は決して罪を犯したまわなかった。〔略〕何ひとつ悪いことをしなかったイエス・キリストは、この世のすべての罪を背負って、十字架にかけられたのであります。〔略〕悪くない者が、悪い者の罪を背負う。悪い者が悪くないと言って逃げる」(271)

先日、ふじ子がこんなことを言った。
「お先祖様を大事にするということは、お仏壇の前で手を合わせることだけではないと思うの。お先祖様がみて喜んでくださるような毎日を送ることができたら、それがほんとうのお先祖様への供養だと思うの
 この言葉が、信夫の心の中にあった。
(274)


*「いざり」(25)……「躄」。足が不自由で立てない人。膝や尻を地面に着けたまま進むこと。
 「万年青(おもと)」(64)……園芸植物の一種。

@研究室
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by no828 | 2015-06-17 19:18 | 人+本=体 | Comments(0)
2015年 05月 22日

生徒たちはわたしを先生と呼んだ。何が先生なものか!——三浦綾子『生きること思うこと』

c0131823_1852261.jpg三浦綾子『生きること思うこと——わたしの信仰雑話』新潮社(新潮文庫)、1983年。85(908)


 単行本は1972年に主婦の友社
 版元 なし

 続くこと終わらないこと → 


 副題からわかるとおり、エッセイ集。教育に関する言及があるのではないか、という期待から読みました。ありました。読んだのはもちろん、「信仰」とは何なのか、という点への関心からでもあります。「自由」の意味も考えさせられました。選択肢がないことが自由なのかもしれません(前にもそんなことを書いたことがあるような気もします)。


 わたしは満十七にならぬうちに、小学校の教師になった。検定試験を受けたのだから、教授法も、児童心理学も一通り知っているはずであった。だが女学校四年を出ただけで、教生もしたことがなかったのだから、子供の扱い方など、皆目見当もつかない。授業の仕方もわからない。受け持たれた生徒こそ、とんだ迷惑である。〔略〕
 ところで、わたしは女学校時代、音楽は乙だった。今でもわたしは、自分を音痴だと思っている。音痴の教師が、オルガンを弾かずに生徒たちに歌をうたわせた。これはゆゆしき罪である。むしろ音楽など教えないほうがよかった。それでもわたしは、月給三十五円なりをもらっており、生徒たちはわたしを先生と呼んだ。何が先生なものか!
(111)

こわしたら弁償すればいいものではない。こわされたガラスと、弁償したガラスは決して同じものではない。そのガラスは君がこわさなければ、今後百年たっても、こわれずに済んだかも知れない。物といえども、その一つ一つに命があるのだ
 といった。そして、明日までに粘土で花びん〔ママ〕をつくるようにと宿題を出した。少年は一心こめて花びんをつくり、それを教育者のもとに持って行った。教育者はいった。
「君、この花瓶〔ママ〕をこわせるかね」
 少年は、
「いいえ」
 と答えた。
「では、わたしがこわしてもいいかね
いやです
どうして。これより立派な花瓶を弁償して上げるよ
(259)

-----

 しかしわたしは、これら一連の愚かしい取り越し苦労の中に、人間のすべての苦労が、結局は、これに似たものではないかという一つの教訓を感ずるのである。
いまより後のことは神の領分だ
 と言った人がいる。しかし人間はなんと神を無視していることだろう。神を信じていると言いながら、わたし自身、けっこう自分の知恵に依り頼んでいる。
(15)

 宗教を持たないわたしにとっては、神もまた、宗教もまた、人間がよりよく生きるための人間の知恵、「自分の知恵」なのではないかと思われます。

「いいえ、いいんです。わたしさえじっとがまんをしていれば」
 と、いうべきことも率直にいわず、いつも悲しげに生きるタイプ、これもまた一つの加害者タイプといえるのではないだろうか。
(28)

 わたしは、天性、無頓着なので、人に着る物をあげることも、平気だったが、これは、言って見れば、石ころをあげるのと同じ気持ちである。三浦も着る物を人にあげるが、彼の場合は大事にしている物をあげるのである。彼のほうが、真の意味で、着る物に対して、自由と言えるような気がする。
 着る物を大事にしながらも、それに執着しないということは、その人の全生活にかかわる問題であろう。〔略〕衣、食、住の現実的な目に見える生活の中で、勤勉に注意深く生きながらも、それらにけっして執着することなく、神のためには「すぐ網を捨ててイエスに従った」キリストの弟子のごとく、全生活を神にささげ得るという、自由な従順な生き方こそ、真にたいせつなのである。
(37-8)

 もしほんとうにすべての人の恩を覚えているとしたら、わたしは三百六十五日、一日二十四時間を使って、お礼回りに歩いても回りきれないはずなのだ。そんな、ごく当然なことにも気づかずに、自分がさも恩を知っているようなつもりで暮らしてきたのだ。
恩返しをしたと思うことが恩を忘れたことである
 というようなことを、パスカルは言っている。
(84)

〔略〕家を持っていない修道女がうらやましかった。この人たちは、与えられた仕事だけをしていればいい。うらやましいとさえ、わたしは思ったのだ。それは、修道女の生活は「この世からの逃避である」という誤解にもとづいたためであった。
 ある時わたしは婦長に、はなはだぶしつけな、そして幼稚な質問をした。
「婦長さんは、この病院から月給をいただいているのですか」
 彼女はさわやかに笑って、月給は出ているが、全部修道院にそっくりそのまま納められるのだと言った。
「じゃ、お小遣いは持っていないんですか」
 わたしは驚いて聞いた。彼女は、金の必要はないと言った。〔略〕
スーツを着たいと思いませんか
持っていたら、さぞ不自由でしょう
 この答えにわたしは驚嘆し、己れを恥じた。
男性に心ひかれませんか
神が一番すばらしいと知ったら、人間はやはり最もすばらしいものに心ひかれるのが、自然ではないですか
(92-3)

 いつか川谷牧師が、説教のなかでこういわれたことがある。
人と人との関わりは、弱い者が強い者に相談をする、頼む、依頼する、という形で出発することが多い
(153)

 わたしは自分が、何をこの人生において望んでいるか、もっときびしく自分に問いなおしてみる必要があると思った。もし自分の望んでいることが低ければ、人への親切も、低い次元でしか、なすことができない。〔略〕
 わたしたちは、しばしば与えるべき時にこれを惜しみ、与えてはならぬ時に、自分をよいと思われたくて与えてしまう。与えるにも、与えないにも、自己本位にしかあり得ないとは何と情けないことであろう。なぜそうなのであろう。それはやはり、自分自身のしてほしいと望むことの低さにあるにちがいない。
(158)

 K子は、級友のうちで一番成績が悪かった。字を一番憶えていなかった。しかし、どの級友よりも彼女は数多く、わたしに見舞状をくれた。自分の知っている限りの字を、かき集めるようにして書いた手紙をくれた。
 彼女は、字を沢山は知らなかった。だが、
人は何のために字を学ぶか
 ということだけは、知っていたと、わたしは思った。〔略〕
信者は何のために聖書を学ぶか
 という問に、全生活で答えられるものを、自分は本当に持っているかと、K子によって考えさせられるのである。
(272)


 大事にしながらもそれに執着しないとは、一体どういうことなのか、まだよくわかりません。これは、信仰がないとなしえないことなのでしょうか。その境地を想像してみたいです(まずは)。

@研究室
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by no828 | 2015-05-22 18:20 | 人+本=体 | Comments(0)
2015年 05月 13日

教育ということが、どんなものであるかを知っていたならば、わたしは決して教師に——三浦綾子『道ありき』

c0131823_1830731.jpg三浦綾子『道ありき——青春編』新潮社(新潮文庫)、1980年。83(906)


 版元
 単行本は1969年に主婦の友社

 本ありき → 


 三浦綾子の日日。“教育+キリスト教”という加算というか“教育×キリスト教”という乗算というかに引き寄せられるところがあります。

 上4つの引用は、講義でも復唱したい文章です。


 わたしは生徒一人一人について、毎日日記を書いた。つまり、生徒の数だけ日記帳を持っていたことになる。生徒の帰ったガランとした教室で、山と積み重ねた日記帳の一冊一冊にわたしは日記を書きつづっていた。(8)

 自分は真剣なつもりで教育をしていたが、しかし、本当のところ、まだ教育とは何かということを、よくわかってはいなかったのではないかと思う。もし、教育ということが、どんなものであるかを知っていたならば、わたしは決して教師にはならなかったにちがいない。(13)

 昭和二十一年三月、すなわち敗戦の翌年、わたしはついに満七年の教員生活に別れを告げた。自分自身の教えることに確信を持てずに、教壇に立つことはできなかったからである。そしてまた、あるいは間違ったことを教えたかもしれないという思いは、絶えずわたしを苦しめたからであった。(20)

 そんなことを考えているうちに、わたしは、わたしの七年の年月よりも、わたしに教えられた生徒たちの年月を思った。その当時、受け持っていた生徒は四年間教えてきた生徒たちであった。人の一生のうちの四年間というのは、決して短い年月ではない。彼らにとって、それは、もはや取り返すことのできない貴重な四年間なのだ。その年月を、わたしは教壇の上から、大きな顔をして、間違ったことを教えて来たのではないか。(19)

 -----

 少なくとも人間である以上、理想というものを持っているべきではないか。理想を持てば、必然的に現実の自分の姿と照らし合わせて、悩むのが当然だとわたしは思っていた。わたしの悩みは、何とかして、信ずべきものを持ちたいということの反語ではなかったろうか。(27-8)

 わたしはその時、彼のわたしへのが、全身を刺しつらぬくのを感じた。そしてその愛が、単なる男と女の愛ではないのを感じた。彼が求めているのは、わたしが強く生きることであって、わたしが彼のものとなることではなかった。(80)

 その戦争が終って、キリスト教が盛んになった。戦争中は教会に集まる信者も疎らだったのに、敗戦になってキリスト教会に人が溢れたことに、わたしは軽薄なものを感じていた。
(戦争が終ってどれほどもたたないのに、そんなに簡単に再び何かを信ずることができるものだろうか)
(97)

伝道の書と言い、釈迦と言い、そのそもそもの初めには虚無があったということに、わたしは宗教というものに共通するひとつの姿を見た。(102)

 世の男女の交際は、こんな〔読書の感想を書き合うという〕「宿題」を出すようなことはしないだろうと思いながらも、わたし自身も楽しかった。リルケの言葉に、
学びたいと思っている少女と、教えたいと願っている青年の一対ほど美しい組合せはない
 とかいうのがあったような気がする。わたしたちは、ほんとうにそんな一対になりたいと思っていたのだ。
(128)

 わたしのしあわせは、前川正という人間が存在するということにあった。それならば、やがて彼に去り、あるいは死別するかもしれない時がきた時、今立っている幸福の基盤は、あっけなく失われてしまうことになるではないかと、わたしは思った。わたしがこの人生において、ほんとうにつかみたいと願っている幸福とは、そのような失われやすいものであってはならなかった。その点わたしは、極めてエゴイストであった。束の間のしあわせでは不安なのだ。ほんとうの、永遠につながる幸福が欲しいのだ。(143)

聖書にも、
「いっさい、誓ってはならない」
 と書いてある。彼は、人間の心の移ろいやすさを知っていた。そしてまた人間というものは、明日のわからないものであることを知っていた。だから普通の人なら、
「あしたお赤飯を持ってきてあげますからね」
 と言うはずのところを、彼は、
「約束はしませんよ」
 と、念を押して帰って行ったのだ。にもかかわらず彼は来た。吹き降りの激しい中を、友を待たせて、彼は往復五kmの道をやってきてくれたのだ。何という深く、真実な愛であろう。真に真実な人間は、約束を軽々しくしないことを、わたしはハッキリと知らされたのである。
(165)

しかも、この少女の、教師としての彼に対する信頼を、余りにも軽々しく受けとってしまったのだ。信頼されているということが、どんなに恐ろしいことかを、この教師は知らなかったのだ。(170)

「綾ちゃんは、もうぼくなどを頼りにして生きてはいけないという時にきているのですよ。人間は、人間を頼りにして生きている限り、ほんとうの生き方をできませんからね。神に頼ることに決心するのですね
 彼はそう言ったのである。
 親が子を愛することも、男が女を愛することも、相手を精神的に自立せしめるということが、ほんとうの愛なのかもしれない。「あなたなしでは生きることができない」などと言ううちは、まだ真の愛のきびしさを知らないということになるのだろうか。
(194)

罪の意識のないのが、最大の罪ではないだろうか
 と、思った。そしてその時、イエス・キリストの十字架の意義が、わたしなりにわかったような気がした。
(213)

信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである
 という聖書の言葉を、ある日彼は色紙に書いて持って来てくれた。そして自分で額に入れ、わたしを励ましてくれた。しかも会う度に、
「必ずなおりますよ」
 そう元気づけてくれるのだった。
(342-3)



@研究室
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by no828 | 2015-05-13 18:44 | 人+本=体 | Comments(0)
2014年 11月 27日

あなたがたは聖書を持っています。だから自分で自分を治めなさい——三浦綾子『われ弱ければ』

c0131823_17362447.jpg三浦綾子『われ弱ければ——矢嶋楫子伝』小学館、1989年。33(856)


版元  * ただし、文庫


 矢嶋楫子(やじま かじこ 1833-1925)は、女子学院の初代院長であり、日本キリスト教婦人矯風会の創立者です。恥ずかしながら本書を読むまでその存在を知りませんでした。
 また、「女子学院」という名前は知っていたものの、どういう学校かは知らずにいました。いまでも都内近郊の私立学校はよくわかりません。

 本書は、その副題からも推察できるとおり、伝記です。矢嶋の生い立ちから女子学院に務めるようになって死ぬところまでが書かれています。

 良書です。教員を目指す人には読むことを強く勧めます。三浦綾子なら『銃口』も併せて勧めます。


 私は子供が好きで好きでたまらないというだけで、小学校教師になった。もし体力があるなら、今でも幼稚園や保育園の先生をしたいと思うほど、子供に対する思いは熱い。だが矢島楫子を調べていて、やみくもに子供が好きなだけで教師になってはならなかったと、つくづくと思った。むろん、やみくもに子供がかわいいというそんな感情は、教師にとって実に重要な部分ではあるが、「人間とは何か」をとらえることのできない教師であってはならないと、矢島楫子は気づかせてくれた。
 人間というものがいかなるものかわからずに、どうしてなにかを教えることができるだろう。第一、教えるということが、いったいどんなものであるかさえ、明確に知ることはむずかしいのだ。幼い子供を教えていても、その人間としての一生を洞察することが肝要なのだ。教師や母親は、いわゆる優しければよい、というぐらいのことでは、人間を育てることはできない。
 イギリス人の作家サマセット・モームは、
〈情愛深い母親をもった以上に、子供に悪い結果をもたらす不幸はない〉
 という鋭い警句を発している。この警句を理解できない母親や教師がいたとしたら、それは子供にのみならず、母親や教師にとっても、確かに大きな不幸であろう。愛は単なる情愛ではない。「愛は意志である」という言葉がある。矢島楫子こそはその意志的な愛をもった闊達な教育者であった。(6-7)

 この矢島楫子について、女子学院に学んだ九布白落実〔くぶしろ おちみ〕は、次のような一文を書いている。
〈当時、校長の矢嶋先生は口癖のように言われた。
あなたがたは聖書を持っています。だから自分で自分を治めなさい
 そして校内には規則というものはなかった。しかし私が入学して卒業するまでの七ヶ年に、校風を乱して処分された者はただ一人しかいなかった。それも生徒間で処罰して〔ママ〕後に教師にせまって処分したものであった〉
(7)

「校長先生、わたし、学校を……やめなければ……」
 しのぶは涙に言葉がつまった。楫子は父親の手紙をじっと読んでいたが、顔を上げてしのぶを見た。元来、楫子はあまり笑顔の多いほうではなかった。が、この時の楫子は、いまだかつて見せたことのない優しい笑顔をしのぶに向けて言った。
「あなた、お勉強はつづけたいのね」
 しのぶは大きくうなずいた。楫子はまた言った。
石川さん、ではやめなくてもよろしい。これからはね、お金が入っていてもいなくてもかまいませんから、袋だけは持っていらっしゃい。お父さんにはね、またお金が送られるようになった時に送ってくださいと、手紙を書いてあげなさい
(9)

 だが、もの言わぬ子供は、意外とものに感じやすい子供でもあるのだ。褒められてすごくうれしいと思う、なにかもらってほんとうにありがたいと思う。が、その思いは、なぜかぱっと顔には出ず、心の底の深い渕に、いったん沈めてしまう。傷ついた場合も同じである。疎外された淋しさも悲しさも、やはり渕の底に沈めてしまう。こうして悲しみも喜びも、じっくりと一人で味わうということがある。そんななかで耐えることを学んだり、人の心を凝視するという自分だけの世界が生まれ育ったりしていく。
 ふつう、いつもにこにこしていれば、誰もが心をひらいて愛してくれるのだろうが……。しかしここで、人は一つ見落としていることがある。口に出して言う者より、口に出さぬ感謝のほうが、時に深いこともあることを。声を上げて泣くことより、じっと耐えている悲しみのほうが深いかもしれぬということを。
(14)

「みなさんはこの話をなんとお聞きになりましたか。わたくしは、罪ある者には人を罰する資格がないと、学びました。罪のない者が人間のなかにいるはずはありません。残念ながらわれわれは、毎日神に背を向けながら歩みつづける罪人である。ただの一人として、罪を犯さずに生き得る人間はおりません。外の行いはともあれ、心のなかは情欲と放縦に満ちております。欺瞞と傲慢、怠惰と不従順に満ちております。かかる人間に、どうして人を審〔さば〕く資格がありましょうや。人を審き得るのは、実に神のみであります。
 ゆえにみなさん! われわれは人を審く時、それは神を審きの座より引きずりおろして、おのれがその座についているのであります。その罪深さをわたくしは深く思うのであります。
〔略〕最後にイエスは女に言い給うた。
われも汝を罰せじ、行け、この後ふたたび罪を犯すな
と。この言葉をわたくしたちの心に刻みつけようではありませんか」
 教会を出た楫子は、不思議な喜びに満たされていた。
(118-9)

「わたしは、罪の問題は、神の力に、神の愛にすがるより、しかたのないことだと思います。わたしたちの罪を代わりに負ってくださったキリストの十字架を、しっかりと見上げる以外に、守られる道はないと思います。わたしは生徒たちに、『あなたがたは聖書を持っています。だから自分で自分を治めなさい』と、口を開くたびに申しているわけです」
 教師たちは顔を見合わせた。
「考えてもごらんなさい。わたしたち人間は、規則があるから人を殺さないのですか。法律があるから泥棒をしないのですか。他に律せられれば罪を犯さないのですか。これは、人間として上等の生き方とは言えません。たとい法律になんと定められていようと。もし人間として、してはならぬことは絶対にしない。つまり善悪の判断は法律がするのではなく、わたしたちの良心がするべきではないでしょうか。神の愛に感じて、してはならないことはしない。またすべきことは断固としてする。そうした人間になるよう、わたしたちの学校は教育したいのです。聖書のない学校ではまた別でしょうが。校則は、学校にいる間、あるいは生徒たちを守るかもしれません。しかし生徒たちが大人になって、家庭の主婦になった時、一人で物事の判断もつけられぬ人間になっては困るのです。わたしは、一人で自由に外出もできないような人間に育てたくはありません。イエスさまが校長先生なら、校則をお作りになるでしょうかね
(159-60)

(貧富の差がただちに人間の運命に関わる……)
 それはこの矯風会の仕事に手を染めてから、幾度となく思わせられたことであった。遊郭に売られる女たちにも、貧しさがつきまとった。今見た幼い子守にも親の貧しさがつきまとっている。なんの不自由もなく学校に通って、勉強している生徒たちとは別世界に住んでいるのだ。
(人間はみな等しく神の子だ)
 つくづくと楫子はそう思った。だがその等しく神の子であるはずの子守たちの姿は、決して等しくはない。
(そうだ、あの子たちにも学ばせる機会を与えねばならない)
 子守は幼い命の守り手なのだ。尊い仕事なのだ。まずその自覚を与えたいと思う。子守には子守の、さまざまな心得があるはずだ。おむつの取り換え方、鼻のかませ方、汚物の扱い方、あいさつのしかた、簡単な看護法、読み書き算盤、話し方等、初歩的なものでも教えてやりたいと、切実に思った。
(178-9)

「矢嶋先生、教育というのは学問だけではありません。人間にとって何が大事かということを生活で覚える、これがミッションスクールの教育だと思います。人間は一人残らず同じ立場にあること、人間は神に仕立て上げられてはならないこと、それが大事だと思います」(192)


参考 文部省訓令第12号(明治32(1899)年8月3日)(宗教教育禁止令)
 一般ノ教育ヲシテ宗教外ニ特立セシムルノ件
 一般ノ教育ヲシテ宗教外に特立セシムルハ学政上最必要トス依テ官立公立学校及学科課程ニ関シ法令ノ規定アル学校ニ於テハ課程外タリトモ宗教上ノ教育ヲ施シ又ハ宗教上ノ儀式ヲ行フコトヲ許ササルヘシ

@研究室
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by no828 | 2014-11-27 17:50 | 人+本=体 | Comments(0)
2014年 07月 27日

たった一人で、校舎の陰でにぎり飯を淋しく食べている生徒のいることを——三浦綾子『銃口』

c0131823_20144277.jpgc0131823_20152656.jpg三浦綾子『銃口 上・下』角川書店(角川文庫)、2009年。2(825)


版元 → 上 
     下 
単行本は1994年に小学館


 昭和10年代から20年へかけての北海道が主な舞台です。小学生の北森竜太は坂部久哉先生と出会い、自分も教師を志すようになり、実際に教師になります。しかし、戦争へと突入するなかで言論統制が敷かれ、「綴り方」授業も封殺されていきます。北森も勾留され、退職させられ、そして召集されます。

 教師を目指す人には本書はよいかと思われます。短大の講義(教職課程)でも紹介しました。教育をあきらめきれない自分に改めて気付かされました。それから、一角の人物との出会いの大切さにも改めて気付かされました。子どもにとってのその一角の人物には、教師が含まれうるのです。

 いろいろと思考が促されました。以下、引用多めです。


「みんな、この坂部先生が怒る時はな、たとえばここに足の悪い友だちがいるとする。その友だちの歩き真似をして、からかったり、いじめたりした時は、猛烈に怒る。体が弱くて体操ができない子や、どうしても勉強ができない子を見くだしたりした時は、絶対許さない。また、家が貧乏で、大変な友だちをいじめたりしてみろ、先生はぶんなぐるぞ。只ではおかん」
 坂部先生は本当に恐ろしい顔をした。
「ま、そんな生徒は、この組にはいないと思うが、念のために言っておく。宿題を忘れるより、零点を取るより、ずっと悪いのは弱い者いじめだ。よく覚えておけ。先生も気をつける
 みんなは大きくうなずいた。〔略〕
 四年生の第一日はこうして始まった。
 この坂部先生との出会いが、竜太の一生を大きく左右することになろうとは、むろん竜太は知る筈もなかった。
(上.38-9)

(坂部先生って、すごい!)
 どうしてこんなにあたたかいのか、竜太は泣きたくなっていた。竜太には不思議だった。芳子はついこの間転校して来たばかりなのだ。それなのに坂部先生は、芳子が五時前に起きること、ご飯を炊いたり、病気の父親の面倒を見たりして、それから納豆を売りに出ること、それをちゃんと知っているのだ。
(上.51)

「な、みんな、学校に遅れるということでさえ、一概にいいとか悪いとか簡単には決められない。遅れて悪いのは、途中で道草したり、わざと朝寝坊したりした時だな。芳子が時々遅れるのは父さんの病気が治るまでだ。みんなわかったな」
「はーい」
 竜太はやはり学校の先生になろうと思った。
(上.52-3)

番頭の良吉が、店が終って、銚子を傾けながら、
あの納豆売りの芳子ちゃんね、貧乏人の娘だが、頭はいいね。賢い子だね
 とほめた。竜太は何となくうれしかった。ところが父の政太郎が言った。
お前たち、今の番頭さんの言ったこと、何とも思わなかったかい
 いつもの声だった。が、どこか強い声だった。みんなは顔を見合わせた。〔略〕
「いいか、番頭さんはこう言ったんだよ。あの芳子ちゃん、家は貧乏だが頭はいいねとね。どっかおかしいと思わないかい。人はこういうかい? あいつは金持の家の息子だが頭がいいねとね
「ああそうか」
 竜太はやっと得心した。「あいつは金持だが頭はいい」とは人々は言わない。が、「あいつは貧乏な家の子だが頭はいい」というかも知れない。自分だってそう思ってきた。「あいつは貧乏だが勉強はできる」。それが普通の考え方だった。貧乏と、頭はいいという言葉はつながらなくて、貧乏と頭の悪いことが、密接な関係のように思ってしまう。一体どうしてだろうと、竜太は思った。貧乏人は何もかも劣っていると、勝手に思いこんでいる。だから、「あの子は貧乏だが頭はいい」という言葉が、少しも気にならなかったのだ。
(上.66-7)

先生はな、竜太、自分の生徒たち五十人に、教科書を教えていればいいなんて、思えなくなっているんだ。芳子が納豆を売っていた時、先生は辛かったぞ。先生は何のために生徒を教えるか。自分の足でひとり立ちして、がっちりと歩いて行ける人間を育てるんだって、そうは思うけど、丸沢のように、突然おやじが逃げて行ったとか、いろいろ生徒たちが辛い目に遇うのを見ると……考えるんだよ先生も
 坂部先生はまた竜太の傍の椅子に坐って、
「竜太、竜太にはこの社会全体を幸せにする道を選んで欲しいんだな。何も金持にならんでもいい。有名にならんでもいい。誠実に、一人の男になって、社会に影響を及ぼして欲しいんだ。教師の道より、もっとお前に合う道がお前にあるかも知れない」
 竜太は坂部先生を見た。先生は自分を信頼して、対等に話してくれているのがよくわかった。
「まあ、将来の道を決めるのに、六年生では少し早いかも知れん。今は一応中学に進んで、二、三年勉強してみて、それでもなお教師の道を選びたいのなら、そこで師範の二部に入っても遅くはない」
 坂部先生は、竜太が教師になるより、もっとちがう道を選んで欲しいと思っているようであった。
(上.83-4)

「な、みんな、人はいろいろなものを拝んでいる。人間として何を拝むべきか、これは大変な問題だ。しかしな、人が信じているものをやめれとか、信じたくないものを無理に信じれとは、決して言ってはならんのだ(上.99)

好きな人の思い出を、忘れられないままに結婚してもいいのかしら?
そうだなあ……美千代、ぼくたちは人間なんだよ。誰だって、過去に愛した人の思い出が、全くないとは言えないじゃないか。そんなことは飲みこんで、みんな結婚してるんじゃないか。結婚ってねえ、どこか、裏切りを伴っているところがあると、先生は思うんだよ。誰にでもねえ」
(上.196-7)

「日本はどこにいくんかなあ。矢内原教授は、北森先生、講演会でね、『日本は理想を失った。こういう日本は一度葬って下さい。再び新しい国として生まれ変わってくるために』と言ったんだとさ。こりゃあ愛国心だよね。戦争をおっぱじめるだけが、愛国心じゃないんだ。みんなそれぞれの考え方の中で、国を思ってるんだよ。燃えるような思いでね。自分の生まれ育った国を、愛さない人間がいるもんか。おれは泣きたくなるよ」(上.336)

校長は勤めて二年目に、運動会のお弁当は、全校生徒一人残らずおにぎりと決めたんですって。そしてそのおにぎりを、みんな教室に集まって食べることにしたんですって
「どうしてだろう」
 竜太は、もしかしたら校長が全校生徒の綴り方をいちいち念を入れて読むことと、何か関わりがあるのかと感じながら言った。
「それはね、さっきも言ったように、その校長は全校生徒の名前を全部覚えていた、しかも一人一人の家の経済状態も、ずいぶんと詳しく知っていた」
「なるほど」
「その時の職員会議では、先生たちは大反対をしたんですって。生徒の年に一度の楽しみを奪うのですかって」
「したら?」
校長が、君たち寿司の用意をするために、前の日に質屋に金を借りに行く親たちのいることを知ってるかって、教師たちに言ったんですって
 竜太は黙ってうなずいた。竜太の家は質屋だ。そういえば、運動会の頃になると、羽織などを風呂敷に包んで、おどおどと金を借りに来る貧しい家の者たちのことを、父の政太郎から聞いたことがある。政太郎は、
「可哀相になあ。明日の運動会の用意だな」
 と言っていたこともある。質屋の息子の自分が忘れていたことを、その校長は決して忘れてはいなかった。芳子が言葉をつづけた。
「そしてねえ竜太さん、校長はこうも言ったんですって。弁当の時間になって、生徒たちが喜んで親と一緒にお寿司をつまんでいる時、たった一人で、校舎の陰でにぎり飯を淋しく食べている生徒のいることを、君たちは知っているのか。たった一人の生徒にでも、そんな淋しい思いをさせてはならない。たった一人の親でも、悲しませてはならない。それがおれの教育だって、校長は泣いたんですって……
 芳子の声もうるんだ。子供の運動会だからといっても、日雇で一日何がしかの金で働いている親は、その仕事を休むことができないのだ。校長の涙に誰一人反対意見を述べる者はなかったという。以来数年、啓成小学校では、一番貧しい子供に合わせてものごとを考える傾向にあるということだった。
(上.359-61)

「しかし歴史というのは、教師たちがしっかりと踏まえていて、また変るかも知れない歴史教育というものを、それぞれの腹の中で、しっかりとつかんでおく必要があると、わたしは思う。生徒たちが大きくなった時、自分が小さい時に何を習ったか、はっきりと覚えておいて欲しいとわたしは思うんです」(上.404)

 木下先生が言った。
「今日のわたしの話は以上で終りますが、わたしの授業は平凡です。只、わたしは一人一人の生徒が、なんとか力をつけてくれるようにという思いだけは持っているんです。その思いが授業に表れているかどうか、大事なのはそのことです。教師が生徒をかわいく思っているか、生徒が先生に心をひらいてなついているか、結局教育はそういうことではないでしょうか。生徒はみんな、誰かが腹を痛めて生んだ子です。こんなにかわいい子はいないと思って、育てている子です。その親の心になって育てることはできなくても、その親の気持を察する教師になりたいのです」
(上.406)

「竜太さん、わたし今度、一年生を受持つのよ」
 弾んだ声だった。芳子は小さい子が好きだ。芳子は言った。
小さい子供って、まだ言葉の数をたくさんは知らないでしょう? 自分の気持を表現することが、上手じゃないでしょう? だから、すぐに泣いたり怒ったりすることがあるけど、教師はちゃんと察してやらなければならないと思うの
 弾んだ声のままに芳子は言っていた。
(芳子さんも、大したもんだ。木下先生と同じように、察する、という言葉を使っている)
(上.407-8)

「曹長殿、戦陣訓には……」
「ああ、生きて虜囚の辱めを受けず、と書いてあるな。それは、捕虜にならずに死ねということだが、そう簡単には死ねまいな
 竜太はまじまじと山田曹長を見つめた。曹長は言葉を継いで、
「それにな、おれは捕虜になることをそれほど恥ずかしいことだとは思わない。戦うだけ戦って、生き残ったから捕えられただけだ」
「恥ずかしくないのでありますか」
「北森上等兵、おれはね、恥ということは、捕虜になることなどではないと思う。人間として自分に不誠実なこと、人に不誠実なこと、自分を裏切ること、人を裏切ること、強欲であること、特に自分を何か偉い者のように思うこと、まあそんなことぐらいかな
(下.247)

「そうだ。北森の言うとおりだ。人間恩返しをしたと思ったら、途端に恩を忘れたことになる」
「あ、その言葉、自分の父も時々言う言葉です。恩を返したと思うことが最大の忘恩だと、父はよく言うんです」
(下.351)

「曹長殿、一発で何万人も殺す兵器など、どんな人間が考え出したのでしょうか」
「うん……どんなに科学が発達しても、それが大量殺人のために利用されるとはな。殺す数が多ければ多いほど、人間の堕落だな
 広島出身の山田曹長の言葉だけに、身に沁みた。
(下.357)

「ところで『愛』とは何でしょうか。愛は人間を幸せにする意志とも言われています。しかし私たち人間は、本来極めて小さな愛しか持っていない者であると言えないでしょうか。では、先程の誓約は何のためでしょう。人間はたやすくは愛し得ない者であるとの自覚を促すものである、と言えるのであります」(下.378)

 雷鳴はいつしか止み、雨の音も絶えた。竜太は横尾校長の言葉を今また思い返していた。竜太には更に人に言えない一つの痛みがあった。それは、山田曹長と下関駅の待合室で握り飯を食べていた時のことだった。二人の男の子が、いかにも物欲しげに、竜太たちの握り飯を見つめていた。それに気づいた山田曹長は、直ちに一つを分け与えたが、竜太はためらった。自分の都合を先に考えたのだ。惜しむ心が働いたのだ。ばかりか、握り飯を与えられた子が、「妹もいる」と言った時、本当に妹がいるのかという疑念がかすめた。嫌悪に似た感情が湧いた。山田曹長のように、妹思いのいい兄だとほめ、その妹に半分分けることを教えるなど、竜太にはできなかった。
 このことを竜太は今日まで、幾度も思い出してきた。竜太は自分を、もっとあたたかい人間だと思ってきた。少なくとも、子供に握り飯を分けてやるのをためらうようなことが、自分にあろうなどとは想像したこともなかった。
(もしあの子たちが自分の教え子なら……)
 思って竜太は愕然としたのだった。自分の教え子に対する優しさは、恵まれた環境にあっての優しさだ。竜太はそこに気づいた。坂部先生ならどうするか。竜太は自分を恥じた。その竜太の気持を知る筈もなく、竜太の教壇復帰を人々は願っていた。竜太は、自分には生徒を教える資格がないと、次第に本気で思うようになった。
(下.381)


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by no828 | 2014-07-27 20:20 | 人+本=体 | Comments(0)