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2014年 08月 10日

親に媚びてるってなら、そりゃ親でいて欲しいからじゃねーの?——京極夏彦『死ねばいいのに』

c0131823_20451351.jpg京極夏彦『死ねばいいのに』講談社、2010年。5(828)

版元 → 

 1920年代の日本の話ではありません。舞台は現代日本。“死んだ”アサミがどんな人間であったかをその女と親しかったと思われる人物たちに訊いてまわるケンヤの物語。真っ直ぐな——あるいは真っ当な——ケンヤによるその人物たちの“憑き物落とし”の物語と言ってもよいかもしれません。本書を“憑き物落とし”かもしれないと認識するわたしのような読者にとってみれば、本書は読者の“憑き物落とし”をする物語とも言えるかもしれません。

 ちなみに、この物語にアサミ本人は出てきません。有吉佐和子『悪女について』、あるいは最近なら朝井リョウ『桐島、部活やめるってよ』。

 いわゆる「ニーバーの祈り」にも似た文章が出てきます。その部分も以下の引用に含まれます。


「死者に鞭打つみたいな感じになるじゃないよ」
「あ、それ」
 ケンヤはコーヒーカップに視線を落としたまま言った。
「それって——俺いつも思うンすけど、意味ないっすよね。死んだって悪いのは悪い訳でしょう。罪を憎んで人を憎まずとか言うじゃないすか。なら、人の方が死んじまったって罪は罪なんだし、何か良くねえことしたんなら、そのこと言うのに生き死に関係ねーと思うけど
「まあそうだけど。死んじゃったら弁解とか出来ないじゃない。だからじゃないの。例えば私が嘘言ったって判らない訳だから。不公平でしょ。そういうことよ」
「死んじゃったからって嘘言っちゃうんすか」
「馬鹿ね。嘘じゃなくても勘違いとか思い込みとかあるじゃない。だからよ。私の見聞きしたところの話なんだから、本人にしてみれば違うってこともあるでしょ
(二人目.108)

「少なくともオレらは。ニートとかも言わねえし。だいいちそういうのって、あんまし考えるのが得意じゃねーオヤジどもが勝手に枠に嵌めて呼んでるだけじゃね。だって、普通っすよ、みんな。学校行ったり行かなかったり、働いたり働かなかったり、それぐらいの違いしかねーから。あんまり変わりないっすよ。どーでもいいってか。でも、その」
 ケンヤは俺を観る。
「佐久間さん達は、何というか」
「ふん。それ言うならこっちだって変わらねえよ。ちゃんと経済活動して社会参加してるんだ。やり方は多少違うかもしれねえが、何もしねえお前らよりマシだろ」
 解りませんとケンヤは言った。
 迎合しねえな。
(三人目.143)

「あの子は——そういう子よ。他人行儀というか、甘えないというか――だから、他人には控え目でイイ子に見えるのよ」
「他人じゃなく親っしょ」
「他人よ。何度も言うけど、どれもあたしの亭主なの。あの子にしてみれば他人よ。だから——」
 色目を使ったのかと思ってしまう。
「——ただウケるって話じゃないの、親爺に」
「あのさ、それ解るわ」
 ケンヤはそう言った。
「何が解る訳よ」
そういう、親爺に媚びるつーか、そうすることで生き残ろうとしてたんじゃね? だってアサミにしてみりゃすげー負い目じゃん。自分の所為であんたが苦労してるのは判ってる訳っしょ。自分のために結婚してさ、自分のために離婚とかなると、やってられねーじゃん。だから、新しい旦那に好かれようと努力したんじゃねーの?
何よ。色目使って誑し込んだってこと?
 ケンヤは黙った。
「何よ」
「あんたさあ」
 何だ。
 何だよこいつのこの眼。
子供が親に媚びるのと、色目使うのと一緒かよ。誑し込んでるのあんたじゃん。あんたにしてみりゃ金蔓か、何か知らねーけどもさ、アサミにしてみれば新しいお父さんじゃねえの? お父さんに嫌われたくないと思う子供が、色気出す訳か? それ狂ってね?
「狂ってる?」
「そうじゃん。あのさ、小学生とか中学生だぜ。お子様まっしぐらだぜ」
「でも、最後は」
「高校にもなれば男欲しけりゃてめえで探すって。何で母親のお下がりに色目使わなきゃなんねーの? 親に媚びてるってなら、そりゃ親でいて欲しいからじゃねーの?
(四人目.250-1)

 ——死ねばいいのに

「何だって?」
「だってどうにも出来ねえなら我慢するか、我慢出来ねえなら死ぬっきゃねーじゃん」
「何だって?」
だからさ。あんたらさ、あんただけじゃねーけど、どうしてそんなに簡単なことが解んねー訳? どうにも出来ねーどうにも出来ねーって。そんなことそうある訳ねーって。必ずどうにかなるのに、どうにもしないだけだって
 しない?
厭なら辞めりゃいいじゃん。辞めたくねーなら変えりゃいいじゃん。変わらねーなら妥協しろよ。妥協したくねーなら戦えよ。何だって出来るじゃん。何もしたくねーなら引き蘢もってたっていいじゃん
(五人目.330.傍点省略)

「あのさ、アサミはさ、俺に死にたいって——そう言ったんだよな。別にそれ程不幸でもねーし、切羽詰まってる訳でもねーし、哀しくも辛くもねーけども、それでも、死にたいってさ。アサミ、何にも望んでなかったっすよ。大して愚痴も言わなかったんすよ。俺が聞いた限り、ここ何箇月かに会った連中の誰より不幸すよ、アサミ。それなのに、文句は言わねーの。でも、ただ死にたいって
「死に——たい?」
だから俺は、アサミのことが知りたくなった。でも他の連中はさ、みんなぐずぐず不平ばっか言って、自分が世界一不幸だみてえなことばっか言って、それでもみんな死ぬとは言わねーの。そんな我慢出来ねえ程不幸なら、死ねばいいじゃんて思うって
(331)

「なら——もう少し反省の態度を示すとか、贖罪の証しを見せるとかだな」
アサミに対して、って話すよね
「え?」
それと、アサミの関係者に対してって話じゃないすか。アサミが死んで哀しむ人達に対しては、謝りてーし償いたいすよ。哀しませたの俺だし。でも、五條さん、アサミと関係ないっすよね? アサミ死んで、哀しいとか思ってる訳じゃないすよね。そうなら俺の弁護なんかしねーっしょ」
「いや、哀しいとか哀しくないとか、そういう問題じゃなくて」
「だからそういう問題じゃない訳すよね? なら五條さん相手に下向いてみせる意味ないように思うんすけど。俺、五條さんに何か謝らなきゃいけねーことしたっすすか? なら言ってください。俺、迂闊な男なんで、気づかないこと多いんすよ。迷惑とか、かけてねーっすよね? まあ、こうやって弁護してくれてるのも仕事っつー理解でいい訳ですよね。なら、これも迷惑かけてるってことじゃないすよね?」
「迷惑ということはないが」
 近いものはある。
 国の依頼だからといって差をつけるつもりはないのだが——このままだと迷惑に近い。
「なら、どうして五條さんの前でしおらしくしてなきゃいけねーのか、俺には解らねーんすよ。人殺したら関係ねー人にも謝らなくちゃいけないんすか? 誰も観てねーとこで殊勝な態度取ったり、関係ない人の前で落ち込んでるようなポーズ取ることが、何か意味あることなんすかね
(六人目.346)


@研究室
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by no828 | 2014-08-10 21:00 | 人+本=体 | Comments(0)
2014年 08月 02日

生死の枠組みを取り払ってしまうとただの「ラブストーリー」ですもんね——京極夏彦『対談集 妖怪大談義』

c0131823_2021097.jpg京極夏彦『対談集 妖怪大談義』角川書店(角川文庫)、2008年。3(826)


版元 →  ただし、右掲カバーデザインはわたしが読んだものとは違います。
単行本は2005年に同書店


 題名のとおり、京極夏彦とその筋の方々との妖怪についての対談が収められています。対談の相手は以下のとおりです。

 水木しげる
 養老孟司
 中沢新一
 夢枕獏
 アダム・カバット
 宮部みゆき
 山田野理夫
 大塚英志
 手塚眞
 高田衛
 保阪正康
 唐沢なをき
 小松和彦
 西山克
 尾上菊之助
 水木しげる、荒俣宏

 民俗学や歴史学やノンフィクションへの言及があり、以下の引用もその部分が多くを占めています。引用も多めです。京極本人は自分を“学者”だとは規定していませんが、今回の本でもほかの本でも、“学問とは何か”、“科学とは何か”を考えさせる発言・文章が綴られることが多いです。「学問」や「科学」の要件には関心があります。


京極 妖怪探訪の大冒険はまだまだ続く予定ですね?
水木 本当は、文化人類学がやるべき仕事なんです。
京極 学問は体系から逸れたもんは中々扱わないです。そのほうが無難ですから。しかし何もかも綺麗に嵌るもんではないし、お化けなんてものは大抵型破りなモノですからねえ。
水木 学者のフィールドワークというのは、自分自身が面白がるというよりは、何らかの研究成果を得ようとしてするわけです。その点、水木さんは純粋な面白詩人ですから。
京極 それは先生の作品を読めば分かります。お好きな題材だと俄然筆が乗っている(笑)。先生の場合、創作の動機は……。
水木 自分を喜ばせるため。自分が面白いからです。読者は水木さんの次なんです(笑)。
(15)

宮部 この間の首相の「神の国」発言ですけど、日本は八百万の神の国、神々の国ですと言っておけば、かえってよかったと思うんですよ。
京極 やはり某氏の発言で「国体」という言葉も問題になりましたでしょ。国体というのは辞書にも「天皇を中心にした国のあり方」と出てるわけで、この場合いいわけは利かないんですけどね。これは明石散人〔あかし・さんじん〕さんがお書きになっていて、僕もなるほどと思ったことなんですが、国体というのは本来、主権者たる国民が所有するもので、政府が関与すべきものではないというんですね。国体と政府の一致こそ全体主義なんであって、明治期のように政府が国体に干渉しだすと結局国を滅ぼすことになると、こういう主旨で。
 神の国にしても、日本という国家は大昔から神国思想で、それ自体は問題ではないという。まあ、それはそうですよね。どの国にも建国神話があるし、国民が国家の正統性を求めるのは当然で、そういう意味ではどこの国もそれぞれ神の国なんですね。ただ、国家と政府は違う。ところが明治政府は政府理念に神国思想を持ち込んでしまった。そこがいかんのだと明石さんはおっしゃる。おかげで「国体」も「神の国」も、結局本来的な意味では使えない言葉になっちゃったわけです。
(128-9)

京極 本来差別的な意味はない言葉でも、できるだけ使わないほうがいい言葉、配慮が必要な言葉はありますよね。〔略〕僕は昭和二十年代が舞台の小説を書いているんですが、ラーメンは「支那そば」とするほうが考証的には正しいんですね。でも中華そばにした。それは変だと指摘する人もいるんだけど、考証的に正しければいいというものではないです。言葉狩り云々という人もいるけれど、言い換えができるなら、どんどん言い換えたほうがいいと思うんです。
宮部 私もそう思っています。ここはどうしても、これを使わなければならない、嫌な思いをする人がいることも含めて、ここはその嫌な思いの痛みを描かねばならないのだから、使うべきだ、という判断を迫られるケース以外はね。
京極 そうですね。〔略〕
 まあ、完璧に配慮して書くとなると一行も書けなくなっちゃうんですが、一人でも読んで不快だという申し入れがあったのなら対応するべきなんじゃないかと思うんです。団体からの申し入れだと対応するけど、一人だとしないというのは変でしょう。こういうのは数の論理で割り切れる問題じゃないですよね。傷つく気持ちは一人でも百人でも一緒ですよ。政治的な問題というより、むしろ優しさとか思いやりの問題であるような気がするんですが。
宮部 人としてね。
(130-1)

京極 その昔、山田〔野理夫〕先生が、怪談は美しくなければいけない、とお書きになっておられたのに、感銘を受けました。本がボロボロになるほど読み込みましたから。僕も、怪談めいたものを書いていますが、難しい。ただ怖がらせるだけではなく、やっぱり、美しさのようなものがないと怪談にならないんですね。今、ホラーっていう括り方がありますでしょ。ホラーと怪談とを分けるとすると、いろいろな考え方はあるんでしょうが、ひとつは美学があるかないかだと僕は思うんですよね。(178)

山田 僕、やっぱり日本の怪談はすばらしいと思うんだ。その筆頭が、上田秋成。日本の怪談文学賞をあげるとするなら彼だな。
京極 『雨月物語』
山田 それから滝沢馬琴。上田秋成は指が二本ないですな。
京極 ええ。
山田 馬琴なんてのは……。
京極 目を患ってますよね。
山田 ま、もっとたくさん例があげられますが。小泉八雲も片目でね。それから、水木君。あの人も片腕ないんだよな。
京極 そうですね。
山田 人間、そういうふうだと、怪談に興味もつのかなあ。
京極 ああ。なんかわかる気がしますね。何らかの欠損がある場合、その部分を埋めようとする気持ちが出てきますからね。想像で埋めていかなきゃいけないわけですから。
(188)

大塚 結局、柳田が何をやってるのかは同時代の人々は意味分かんなかったと思いますよ。花袋なんかは自分らの自然主義小説への嫌味で『遠野物語』を書いてきやがったとか分かってたと思いますけど。僕が面白いと思うのは柳田の近代国家にどこかで同一化できなかった部分。民俗学とは要するに、近代国家ができあがっていく中で、国民とか伝統っていう概念をつくることに荷担していく学問で、柳田の山人論だって植民地政策論なんです。そういうことをやっといて「平地人を戦慄せしめよ」とか『遠野物語』の序文で書いちゃうところが矛盾しているんだけど本人は気付かない。
京極 その分裂加減は実に面白いと思いますね。フロイトなどもそうですけど、あの手のものを立ち上げる人には、そういう人が多いでしょ。例えば柳田國男と国家の問題みたいなテーマに真正面から取り組んで論じる人は多いですが、読んでみるとどれもちょっとずれてる気がするんです。この男は、そんなんじゃないと思えちゃう。それに結局、彼は民俗学に関しては最後まできちんとした論文は書かなかった人じゃないですか。整然としているクセに結論も出さないし。
大塚 農政学の論文とか読むとちゃんとした論文も書けるはずなんですけどね。わざとああいうもの書いている。実は論理的な文章なんですけどね。
(199)

京極 たぶん国家とかイデオロギーとかいう前に、彼〔柳田〕が夢想していた理想的なあり方というのに沿って、民俗現象の中から都合のいいところをチョイスしていったという感はあるんですよね。それがいかんというわけではなくて、民俗学ってそういうものなのかもしれないなと思うんだけど。
大塚 だから民俗学の本質はインチキ古代史、偽史だって思わないと。これは僕が大学を離れてものを書き始めた時に、柳田の弟子でもあった僕の先生の千葉徳爾先生に言われたことで、突然、ハガキが来て、民俗学は偽史だから、君はそっちのほうを少し研究しろって。目からウロコが落ちましたね。
京極 すごい。民俗学は偽史である。それは、もやもやしている部分をすかっと言いあてている衝撃的名言かもしらん(笑)。
(200-1)

大塚 『後狩詞記〔のちのかりことばのき〕』とか『遠野物語』とかを書いていた頃の初期の柳田にとって「山人」とか「山婆」は妖怪ではなく先住民の末裔であり、つまり山人実在説ですよね。村井紀なんかが指摘してますけど「山人」ってつまりは明治国家が初めて植民地にした台湾の山岳系民俗がイメージされてる。山人論が植民地政策論であるっていうのはそういう部分をいうのですが、「山人」はその意味でリアルなんですよね、明治国家の官僚としての柳田には。(203)

京極 さっき、柳田は美文家だという話になりましたが、実は僕、ある時点から民俗学は文学だという割り切り方をしていたようにも思うんです。結局、歴史学と違って、こうでなければいけないとかこれが真実ということはないわけですから。宮田(登)先生のご本なんか読んでいると、すごくわかり易いし、面白い学問だなあと思うんだけれど、一方で、何でもありなところに落ち着いたりもする。さらに文学的素養がある学者のほうが俄然おもしろい。折口(信夫)にしても柳田にしても、そこが評価されたというところもあると思う。小松〔和彦〕さんにしても、僕は最初あの文体にひかれたんですよね。(207)

京極 保阪さんにはタイトルもズバリ『死なう団事件』という著作がありますね。
保阪 僕の処女作です。
京極 これは「事実」の見方に対する面白いケースだと思うんです。僕は歴史学者ではないし、ノンフィクション作家でもないわけですが、歴史を研究している人たちとお付き合いしていますと、どうも「事実」と「記述」ということに対する見方というか、スタンスが全然違っていることに気づかせるんですよ。
保阪 といいますと?
京極 こういった言い方をすると変なんですけれども、僕は民俗学のほうにシンパシーを持ってずっと育ったんです。文献学者の方々はどうしてもテキストを重視しますでしょう。さらに歴史学者になると、テキストを重視するだけでなく、テキストから汲める事実だけを重んじますよね。民俗学の場合はそうではない。生きている人から話を聞き、現在あるものを見て、そこからさらに先を考える。それをして「民俗の古層を探る」なんて言うわけですが。
(297)

京極 そうすると、保阪さんが「最後の関係者」になってしまったということになるわけですよね。当事者のひとりになってしまう。「客観性」を目指すノンフィクションでも、探っていくうちに保阪さんも関係者になってしまう。関わることによって事実が変わっていくということですよね。僕なんかは好んでそういう題材を扱うわけですけれども、すごく生々しい事例を聞いたような気がする。
保阪 僕は「死なう団」で最初にそういう経験をしましたでしょう。そうすると、変な表現だけれども怖いものがなくなったんです。ノンフィクションで僕が書いて人が死ぬこともありうる。はじめはものすごく悩んで悩んだけれども、途中から、「あ、それは逆に僕にもありうることだ。僕もいずれそういうことで死ぬのかもしれない。人間がつくってきた歴史なんてそんなもんだ」って割り切りました。
(303)

保阪 恐怖を目に見えるようにするのは大変な知恵ですね。
京極 発明ですね。例えば秋田の「なまはげ」。あれは言ってみれば教育的な指導なわけです。「悪い子はいないか」と子供を威して教育的に指導する。あれはみんな鬼だと思ってますでしょう。でもいわゆる鬼じゃないんですよ。外から訪れる異人、要するに人間以外のモノでありゃいい。人間以外のモノが外部から倫理を説きにくるという。そのほうがお父っつぁんに怒られるより怖いわけですよ。そういう仕組みがつくられている。
(318)

西山 歴史学というのは、リアリティにむかう学問だと思うんです。僕らが学校で教わったのは実証的に事実を明らかにすること。確実な史料を集めて、それを批判的に読み込んで、その背後にある歴史的事実を一つでも二つでもつかみ出して来い、それが歴史学の王道なのだというふうに教わってきたんです。でも、事実って何よって言いたい時がある。二十一世紀を生きる僕たちが振り返ってみる事実よりも、前近代の「いま」を生きる人々にとってのリアリティって何だろうって。
京極 なるほど。
西山 以前、僕は地獄絵の絵解きの研究をやっていたんです。地獄は想像の世界だから事実としてあるわけではない。でも前近代人にとっては、地獄は生々しい現実としてあるわけです。室町時代の日記に疫病の流行った村で火事があったと書いてある。住民たちが、地獄から死者を迎えにきた火車の火だったんだろう、と解釈を加えてるんですね。現代を生きる僕たちが、いやそりゃただの火事だよ、と言ったって何の意味もない。問題なのは中世人のリアリティ。歴史家にとって大切なのは、当時を生きた人々の五感を、あるいは第六感をもふくめて、明らかにしてゆくことじゃないでしょうか。
京極 リアリティの在り方が異なっているだけで、リアルであることに今も昔も変わりはないでしょうし。
(398-9)

京極 いや、日本の幽霊話の基本は、怨恨や憎悪じゃなく、ほんとうは情念、執着なんですよ。ウラメシヤは、単なる憎悪とはちょっと違う。祟られて死んだ被害者が化けて出て来ないのは、執着がないからですよ。「なんでアタシが死ななきゃいけないの?」という気持ちだけじゃ化けて出られない。最初のお話にもありましたが、これ、生死の枠組みを取り払ってしまうとただの「ラブストーリー」ですもんね。幽霊話を生者と死者との交流譚として位置づけてみると、日本の怪談は根本的にラブストーリーが骨子にある場合が多い。有名な幽霊のほとんどが女性だというのも、そのへんに理由があるのかもしれない。(429)


@研究室
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by no828 | 2014-08-02 20:23 | 人+本=体 | Comments(2)
2013年 03月 20日

構造自体はそう代わり映えしていないのでございますな——京極夏彦『豆腐小僧双六道中ふりだし』

c0131823_1765660.jpg京極夏彦『文庫版 豆腐小僧双六道中ふりだし』角川書店(角川文庫)、2010年。27(682)

単行本は2003年に講談社。

版元 → 


 映画になったようです。が、もちろん観ていません。

 言語、認識、存在。改めて書いておきますが、科学とは何か、に関心のある人は、京極夏彦はおもしろく読めると思います。わたしもはじめはとっつきにくかったのですが、読んでみたらとてもおもしろかったのでした。

そもそも妖怪と申します言葉は、単に怪しいというだけの意味しかない言葉だった訳でございますな。(7)

「いいか、俺はな、家がぎいぎい鳴るてェ現象そのものなんだよ。家がぎいぎいガタガタ鳴るのはいつだって俺の所為だ。つまり俺は、家鳴り現象の説明としてこの世に居るんだ。だから鳴屋なんて名前なんだよ。けどよ、お前の方は何の説明もしてねェだろ」(47)

 そもそも人に見られるためだけに、人に見られている間だけ、束の間の夢幻のように存在を許されるのが妖怪の本分でございます。その妖怪が、誰にも見られていない状態——つまり一人きりの状態で、現世にとどまっていることと申しますのは、これ、稀有なことなのだと御諒解ください。
 ならば妖怪は元来寂しがり屋なのかもしれませんな。
(85)

「で、でも、そうだ、お化けは誰かが覚えていてくれれば、また復活するんだとか。で、では人は——」
〔略〕
そりゃあ人間も同じだ。誰かが覚えている限り、なくなりはしない。だが残るのは人そのものじゃなくて観念だからな
「かんねん?」
「こいつは死ねばただのゴミ。こいつ自身はもう二度と蘇らん。こいつの自我はなくなっちまう。でも、こいつのことを覚えてる連中が居る限り、こいつは記号として有効なのじゃ」
(122.傍点省略)

 しかしこの禅問答——公案と申しますものは、考えてしまってはいけないものなのでございます。答えはございません。下手に論理的に考えたり致しますとドツボに嵌ってしまいます。
 小賢しい考えを巡らせたり致しますと却ってパラドックスに陥ってしまったりする訳でございます。それもまた当然のことでございます。公案と申しますものは、逆説的状況に直面することで、飛躍的に論理を超克することを求める修行なのでございますな。ですからぐちゃぐちゃ考えてはいけませんな。瞬発力勝負でございます。かといって、ウケ狙いというのも、これはいけません。
(201)

言葉は本質ではない。従ってありとあらゆる諸相で発展進化しよる。例えば坊主は鮎の事を剃刀と呼ぶ。魚の鮎と剃刀はまるで別物、無関係じゃが、言葉の上では同じものになってしまう。かみそりの四文字の上で区別はない。使う者が使う環境に応じて区別しておるというだけだ」(206.傍点省略)

多様な解釈、多様な文化——その多様さが豊かさに繫がるのだ。何を誰が見ても同じように考えるような世の中は、恐ろしいとは思わぬか?
「よく解りません」
「正直だな。良いか小僧。この世の中に絶対に正しいことなどあり得ないのだ。しかし——例えば解釈が一通りしかなかったなら、それが正しいと思うてしまうであろう?」
「はあ」
「みんながそう思うておる。異を唱える者も居らん。当然のようにそう思うわなあ。それで今度は、その解釈が間違っておる——ということになればどうじゃ」
(279)

「いかんわ。過激な理想論者に武力を持たせると人命を疎かにし始めることがあるからな(419)

 しかし、よくよく考えてみますってェと、迷信に科学が、身分やら階級やらに貧富の差やら学歴やらが取って代わりましただけのことでもございまして、構造自体はそう代わり映えしていないのでございますな。結局、説明の体系やら解釈やらは大きく変わりましたものの、差別意識だの何だのというものはそのままの形で温存されておりましょう。(520)

 この「構造」は、わたしの思考上にもよく出現します。結局何も変わっていないのでは、ということです。


@研究室
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by no828 | 2013-03-20 18:07 | 人+本=体 | Comments(0)
2012年 11月 28日

非常識な出来事の原因は非常識であるべきだな——京極夏彦『どすこい。』

c0131823_17405730.jpg京極夏彦『どすこい。』集英社(集英社文庫)、2004年。168(628)

単行本は『どすこい(仮)』として2000年に同社より、また、新書版が『どすこい(安)』として2002年に刊行。

版元 → 


 余裕はあまりないのですが……どすこい。

 京極夏彦はこういう作品も書くんですね。寝っころがって読むのにも余りあるほどの(考え尽くされた)無意味な作品です。次の作品が前の作品をメタ的に位置付けていくような構造で短篇が連作されています。

一同は、緊張感も焦燥感も同時に喪失した。そうなると人間は自堕落になる。(233)

「そうだなあ。非常識な出来事の原因は非常識であるべきだな(510)

 百鬼夜行シリーズであれば、「非常識な出来事の原因は常識であるべきだな」になると思いました。

 O先生は完全な覆面作家で、性別を除けば一切の私的情報を公表していない。著作に著者近影すら載せないという徹底ぶりである。読者との接点をテキストだけに絞り込むという考え方は大いに賛同できるし、常常見習いたいと思っている。(422)

 これは京極夏彦自身の考え方では必ずしもないようです。→ 

 誤植(と思われる箇所)
 誤 自身(300ページ、7行目・8行目)
 正 自信

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by no828 | 2012-11-28 17:56 | 人+本=体 | Comments(2)
2012年 08月 02日

生きた躰そのものが魂で御座居ます。生き残った者の心中にこそ冥府はある——京極夏彦『巷説百物語』

c0131823_1526217.jpg
119(579)京極夏彦『巷説百物語』角川書店(角川文庫)、2003年。

版元 → 

単行本は1999年に同書店より刊行。


 久しぶりの京極夏彦でした。悪者を退治する“悪者”のお話です。あるいは、人間の認識を操作するお話です。

「——殿方相手にして生意気なこと言うようで御座ンすがね、あやかしなンてのは、有りはせぬかと疑う時には必ず顕れるし、ないと思えば決して出ますまい。恐いと思えば古傘だって舌出して手招きしましょうし、枯れ木に掛けた古草鞋だって傘の裡を覗きましょう。世に奇ッ怪と称えるもンは、全て人が自ら呼び寄せるもンなんで御座ンすから、自ら祓い落とせるものでも御座ンしょうよ——(81)

 人殺しに才能のあるなしなどがあるものか。
 あるとすれば——それは技術ではあるまい。
(126)

「俺達ァお上の犬でもねェ。義賊でもねェ。人を裁くとか、悪を討つとかいう大義名分たァ縁がねェ。悪党だから死んでもいいなンていううざってェ小理屈も俺達にゃァ関係ねェ——」
 そこで又一は言葉を切った。
「——裁くだなんて烏滸がましくて、笑っちまうじゃねえか。そうでやしょう先生——」
(131)

知ってしまって生きちゃいられねェやな
 又一は一層昏い眼をした。
「この世は悲しいぜ、玉泉坊。その婆ァだけじゃねえぜ。おまえも奴〔やつがれ〕も、人間は皆一緒だ。自分を騙し、世間を騙してようやっと生きてるのよ。それでなくっちゃ生きられねェのよ、汚くて臭ェ己の本性を知り乍ら、騙して賺〔すか〕して生きているのよ。だからよ——」
 俺達の人生は夢みてェなものじゃあねえか。
 又一はそう言った。
無理に揺さぶって、水かけて頰叩いて、目ェ醒まさせたっていいこたァねえ。この世はみんな嘘ッ八だ。その嘘を真実〔まこと〕と思い込むからどこかで壊れるのよ。かといって、目ェ醒まして本物の真実見ちまえば、辛くッて生きちゃ行けねェ。人は弱いぜ。だからよ、嘘を嘘と承知で生きる、それしか道はねえんだよ。煙に巻いて霞に眩まして、幻見せてよ、それで物事ァ丸く収まるンだ。そうじゃあねェか——
(464)

生きた躰そのものが魂で御座居ます。生き残った者の心中にこそ——冥府はあるので御座居ます。だから——死したるものは速やかに、あなたの心の中にお送りせねばならぬのです。そうでなくては生きている者の方の示しがつかぬ。千引の石とは、この現世〔うつしよ〕と、あなたの心の間に置かれている岩。それを勝手に取り払っては——あなたが立ち行かなくなるだけに御座居ますぞ。あなたの一方的な妄執で黄泉津比良坂を通されたのでは——女達も堪りませぬぞ」
「い、言うことが、わ、解らぬ」
死者は己の中にあり、現世には決して戻りませぬ。だからこそ、屍体はモノと心得るが礼儀に御座居ましょう」
(498.傍点省略)


@研究室
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by no828 | 2012-08-02 17:00 | 人+本=体 | Comments(0)
2012年 01月 28日

素でいいだろうが素で。面被らなきゃいけない理由なんて何もないぞ——京極夏彦『百器徒然袋——風』

c0131823_17223270.png
14(484)京極夏彦『文庫版 百器徒然袋——風』講談社(講談社文庫)、2007年。

版元 → 


 百鬼夜行(京極堂)シリーズのサイド・ストーリーです。百鬼夜行シリーズ自体は最新刊まで読んでいるはずで、このサイド・ストーリーもこれが最新刊です。「最新刊」とはいえ、いずれも古本で入手しましたが。

 本書は、『文庫版 百器徒然袋——雨』(→ )同様、薔薇十字探偵 榎木津礼二郎がメインであり、その「慨然」と「然疑」と「疑惑」のお話です。

 ↓ 文庫の表紙デザインにも関係する部分。「ない」にばかり思いを致していると、「ある」さえ忘れてしまう。


 徳とは、生まれつき、と云う意味ですと、中禅寺は続けた。
「だから徳は福や富のように、授かったり、遣り取り出来るものではない。生れつき〔ママ〕備わっているのが徳です」
 そうなのか。
「ですから徳を授かると云うのなら、それは生まれた時に授かったのだと云うことになるんです。人は生来、色色な徳を持って生まれて来るのですね。ただ——」
 これは満点と云うことではないんですと中禅寺は云った。
「生来欠けている徳もあるだろうし、持って生まれても、持っていることを忘れてしまっては徳も徳にならない」
 中禅寺は招き猫を撫でた。
五徳猫と題した化け猫の絵があります。その名前を聞く限り、徳のある、立派な良い猫であるかのような印象を持つ訳ですが、しかし、こいつはどうにもショボ暮れている。五徳猫と云うのは尾の裂けた所謂化け猫なんですが、頭に囲炉裏なんかに置いてある五徳を被っていて、火吹き竹でふうふうと炭を熾しているんですね。この化け猫は、どうやら何かを忘れているんだと、絵の作者の鳥山石燕は記している」
 何を忘れているのですか——と美津子が尋いた。
「ええ。秦王破陣楽〔じんのうはじんらく〕という舞楽があります。唐の太宗の七つの武徳を称える楽曲で、一名を七徳の舞と云う。信濃前司行長と云う学識ある人物が、この楽曲のうち二つを忘れ、以降五徳の冠者〔かじゃ〕と呼ばれたと、『徒然草』に出ています。石燕はその故事を引く。いいですか、五徳と云うのは、それだけならば誉め言葉です。徳は五つもある。七徳あるのが前提となるからこそ、二つ足りぬと云う貶し言葉になるのです。足りぬ徳に思いを遣る者は、即ち持っている徳をも忘れている——ことになる

□(258-9)

 ↓ 思い切るのはあまり得意ではないので、こう言われると少し安心します。もちろん、思い切れることと思い切れないこととがあり、思い切れることとはつまりわたしにとってその程度のことであり、思い切れないこととはつまりわたしにとって大切なことであるということです。


 思い切りと云うのは中中つかぬものなのです、と今川は云った。
「執着や思い入れと云うのは、合理的な感情ではないのです。使えるとか使えないとか、役に立つとか立たないとか、そうした理屈で片付くものなら、最初から取って置いたりはしないのです」

□(558)

 ↓ これはおもしろいと思いました。「呪い」と「祝い」、どちらも仕組みは同じ。これで「希望」と「絶望」ないし「希望」と「不安」という関係を思い出しました。いずれも、“将来に対する漠然とした気持ち”であることに変わりはないのです。


 でも——と今川は云う。
「でも畏怖心は発生した訳です。先程申し上げたように、その文言を書いた人と僕やあなたは何の関わりもないのです。こちらに呪われる謂れはないのです。それなのに、その箱書きや箱の佇まいは、あなた達お二人の心胆を寒からしめただけでなく、こうしてあなたが僕の処へ出向いて来ると云う行動までも生じせしめたのです。つまりあなたはその箱に操られてしまった——と云うことになるのではありませんか
それが——呪い?
「僕はそう思うのです。物理的な力などを用いることなく、場所を隔て、時間さえ隔てていても、第三者に作用を及ぼせるモノやコトのことを、呪いやら、祝いやらと呼ぶのだと思うのです

□(577)

 ↓ 榎木津。神?


「馬鹿だ。長さんだか留さんだか知らないが、何だって探偵がそんなことしなきゃいけないんだこの大馬鹿。いいか善く聞けこの大馬鹿者。この世界に於ける探偵と云うのは、世界の本質を非経験的に知り得る特権的な超越者なのであって、姑息にこそこそ覗き見し回るコソ泥野郎なんかとは天と地、土星と土瓶程に開きがあるものだろうがッ。思い上がりも甚だしいぞ」
□(656)

 ↓ と、榎木津は言う。


どこに行くんだって誰に会うんだって、素でいいだろうが素で。面被らなきゃいけない理由なんて何もないぞ。それなのにお前達はすぐに面を被るじゃないか。何か恥ずかしいのか? そう云う恥ずかしいことばかりしてるから恥の塊になってしまったんだな!
□(659)

 ↓ しかし、中禅寺は次のように言う。
 

「信念を持って臨めば疑いは晴れると、そう仰るんですか?」
「違う違う。信念なんてものはね、益田君。どんな局面に於ても何一つ役には立たんよ。害にはなるが役には立たない。僕が云っているのはそう云う意味ではないのだ」
「どう云う意味ですか」
〔略〕
「〔略〕主体である君が認識している君と云うものと、君以外が認識している君と云うものは必ずしも同一ではないし、本人だからと云って自己認識が完全に出来ている訳でもない。僕等の知っている君を君は知らないし、君が考えている君の姿がそのまま僕等に伝わっていることもない。僕等が知っているのは環境が要請する益田龍一像と君自身が想定した理想的益田龍一像とが一致したところに妥協的に形成される〈益田龍一〉と云う仮面でしかない訳だからね
「仮面——ですかぁ?」
「仮面さ。その仮面は、もしかしたら仮面を被っている俳優の素顔を模したものなのかもしれないし、或は別人に成り済ますための別人の面なのかもしれない。演出のため誇張や装飾が施されているかもしれない。しかしどれだけ素顔を精巧に模した仮面であったとしても面は面、それは素顔とは違うものだろうし、なにがしかの演出がされていたのだとしても、演出する者の計算通りに観客に作用しているとは限らない。俳優自身が仮面こそ素顔と思い込んでいることもある。そうなら仮面の下に抑圧されている俳優の素顔は俳優自身にも知り得ない、ということになるし、そうしたケエスは殊更多い。どうであれ観客としての僕等が知り得るのはマスダリュウイチと云う仮面を被って演じられる仮面俳優〔キャラクター〕の舞台演技でしかない訳だ。それこそが君の個性なのだ。個性と云うのは個人が作り上げるものではなく、社会の中で不可抗力的に出来上がってしまう仮面のことなのだよ

□(687-9)

 理解はできる。しかし納得はと言うと、うーん……。研究上でも他者から与えられた像をうまく使え、とO本先生には言われたことがありますが、難しいです。ことに自分にとって大切なこととなると、なかなかそのように割り切ることができないです。でも、そういうことも覚えていかないとそもそも研究では生きていけないような気も、少しだけしています。

 榎木津は群を抜いた特異な能力というか体質を授かっているがために、素で行けるのかもしれません。言い方を換えれば、そうした能力ないし体質を有していない、あるいは開発しきれていない者は、面を被るしかないのかもしれません。


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by no828 | 2012-01-28 18:38 | 人+本=体 | Comments(0)
2012年 01月 24日

俺は学者でも学生でもなく、単なる職人だったのである——京極夏彦『今昔続百鬼——雲』

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12(482)京極夏彦『文庫版 今昔続百鬼——雲 多々良先生行状記』講談社(講談社文庫)、2006年。

版元 → 




 百鬼夜行シリーズのサイド・ストーリー。本文749ページ。

 “在野の研究者”というあり方を、改めて考えた。個人的には、ゼミがしたいし(不特定多数向けの授業はいまいちだが)、図書館も近くにあるとよいし、大学という雰囲気も好きだし、といったことから大学に勤めたいが、それが無理ならば、研究・教育以外のことで生計を立てつつ、“個人的に”研究を続けたいと思っていて、だから以下のような文章を読むと、少し背中を押された気持ちになる。(あるいはスペシフィックな)「同好の士」を見つけることは、まだできていないのだが。


 俺は出来る範囲で関係資料を読み、話を聞き回った。民俗学と云う学問に就いては善く知らなかったから、集めた知識をどう体系化したものかは全く判らなかったのだが、兎に角熱心だった。
 しかし——。
 俺は学者でも学生でもなく、単なる職人だったのである。
 赤貧のうえに物好きな、見習の左官に過ぎなかったのだ。
 どれだけ熱心であろうとも、左官の小僧の独学なんぞと云うものはそもそも大したものではない。
 日銭稼ぎに明け暮れて、三度の飯を喰うだけでそれはもう大変だと云うような状況下に於て、仕事をし乍ら片手間に出来る研究など高が知れていると云うものである。右手〔めて〕に鏝〔こて〕、左手〔ゆんで〕に資料などと云う器用な真似は出来ないし、況〔まして〕や、過酷な肉体労働を終えた後に夜を徹して読書する——などと云う離れ業は、幾ら若くたって不可能なのである。
 知的好奇心は空腹にも睡魔にも勝てやしない。どんなに情熱を傾けていようとも、腹が空けば凹むし疲れれば矢ッ張り寝る。知識で胃袋は膨れないし、気力で体力は補えない。嗚呼面白いためになると心底感じていようとも、瞼は下がって来るものなのだ。
 俺は、幾度も書物の頁を涎で汚した。

 〔略〕
 独りだったら疾〔と〕うに止めていただろう。
 ところが——。
 欲すれば叶うと云うか念ずれば通ずと云うか、良くしたもので、俺はそのうち何人かの同好の士と知り合うこととなったのだった。

□(16-7)

 ↓ その学問がどういう背景を持っているのかを知っておく、というのはその学問の徒だと自覚する人はとくに必要、というか不可欠。


 すると、例えば未開の地と云う発想からして差別的だと云うことになる。文明に晒されていないとか文化がないとか、これまた勝手なことを平気で口にしているが、どんな土地にだって文化はある。未だ開かれぬ土地とは云い替えれば侵略者たる余所者が入り込んでいない地域と云うことでしかないのだ。
 博物学と云う学問は植民地政策や植民地思想と裏腹な関係にあると云うことである。それはつまり、近代を主体として全近代を見ると云う構図抜きには語り得ないものだ、と云うことである。

□(513)

 やがて。
 陳列対象たる前近代の象徴は過去から辺境へと移行したのだ。現在と過去と云う垂直軸から都市と辺境と云う水平軸に矛先を変えた訳である。どこそこの山奥ではこんな野蛮な因習が残っています、あそこの村ではこんな下等な妄信を守っています——。

□(514-5)

 ↓ 個人的な“好き”が公共的に・状況的にどういう意味を持つのか、あるいはどういう機能を果たしてしまうのか、ということを考えたほうがよいと、個人的には思う。好きだからしているのだ、他意なく単に好きだからしているのだ、という態度ならば問題はない、というわけではない、とわたしは思う、とくに他者を巻き込む場合においては。


 俺は慥〔たし〕かに、行く先先、見慣れぬ田舎の景色に、土着の習俗因習に、余所者として好奇の視線を向け捲っている。でもそれは好きだからなのだ。
 俺は慥かに旅人で、その土地の者にとっては異人である。でも俺の抱く興味は都会に住む近代的人間が山村に残る前近代に向ける博物学的興味と同等ではない。先述の通り、偏見が全くないとは云わないが、それでも違うと思う。
 ただ好きなのだ、
 物凄く。

□(519.傍点省略)


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by no828 | 2012-01-24 16:20 | 人+本=体 | Comments(0)
2012年 01月 02日

絶対的判断基準は個人の中にしかないのだ——京極夏彦『百器徒然袋——雨』

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1(471)京極夏彦『文庫版 百器徒然袋——雨』講談社(講談社文庫)、2005年。

※ 本作品は1999年に講談社ノベルスとして刊行。

版元 → 



 引き続き、箱根駅伝を radiko で聞きながら。今年1冊目です。(ブログ開設からだと471冊目です。書誌情報冒頭の数字はこの冊数を意味します。)

 百鬼夜行(京極堂)シリーズのサイド・ストーリー、「僕」の視点から描かれた薔薇十字探偵 榎木津礼二郎の「憂鬱」と「鬱憤」と「憤慨」です。 


「いいか良く聞け。僕が許すものが善で、僕が許さないものが悪だ。他に基準はない!」
「そんな無茶な」
「何が無茶なものか。公の基準など洟をかむ目安にもならんぞ。みんなの意見を平等に聞いていたら寝てるしかないし、ただ寝てるだけで不満爆発だ。絶対的判断基準は個人の中にしかないのだ。だから一番偉い僕の基準こそこの世界の基準に相応しい。探偵は神であり神は絶対であって一切相対化されない!」
 榎木津は机を叩いた。

□(102)

 このように榎木津は目茶苦茶ですが、「真理」も含まれている気がします。


一般大衆などと云うモノはこの世には存在しないんです。この世界には、ただ大勢の個人が居るだけだ。個人は、個人としての責任を果たしたくない時に、大衆と云う覆面を被るのです。責任の所在を不明にし、不特定多数に転嫁する卑怯な行為ですよ。例えば、個人で発言すれば袋叩きになるような暴論でも匿名性と云う隠れ蓑に身を隠した途端一般論に化けてしまうことがあるでしょう。あれは固有名詞を隠蔽することで個人が大衆に化けている訳です。そうすることで何の議論もされないまま、お粗末な駄弁が恰も民意を得た正論であるかのような錯覚を与える訳ですね。君は一般大衆を演じるなどと云うが、そうしたものの云い方はその手の愚劣な連中のやり口となんら変わりのないものです。演じているのは君個人なんです。君がぶよぶよ膨らんで大衆になる訳じゃないでしょう」
□(38)



「久我さんにしても久我社長にしても、厭なものは厭だときちんと拒否していたならこんなことは起きなかったのです。色々と事情はあるにしろ、彼等の判断がこの状況を呼び寄せたことは事実です。〔略〕久我さんは、苦悶し乍らも我慢してしまったんです」
「ああ」
「連中は、彼の苦悶が手に取るように解ったんですよ。だから久我さんが厭だと云い出すまで苛めてやろうと、そう思ったのでしょうね。ところが久我さんは必死で耐えた。だから苛めがどんどんエスカレイトして行って、結局行き着くところまで行ってしまったと云うことなんだと思います。ですから姪御さんは——久我さんの忍耐強さ——と云うか、腑甲斐無さのとばっちりを受けた、と云うことになる」

□(244)

 「忍耐強さ」は「腑甲斐無さ」でもあるのか……。


モノの値段と云うものはモノ自体の絶対普遍的価値ではないのです。モノを取り巻く社会と、モノに接する人間が決めるお約束なのです。もしモノだけを比べてしまったら、後は使い易さとか好みとか、そうした曖昧で恣意的な判断基準しか持てなくなるのです
□(361)

「——価値は作るもんだ。乗せて塗ったくってくっつけるものだ。モノ自体に価値がある訳じゃない。モノはモノだよ」
□(446)

「意味のないものに意味を与える、そして意味と意味とを連鎖させてありもしない価値を生み出す——これが呪いです」
□(471)

 このあたりは最近よく考える。冒頭の榎木津も言うように「価値」は個人的なものだとすると、その個人的な「価値」を「絶対普遍的価値」として主張することの意味というか意義というかは何なのか。なぜそうしなければいけないのか。個人が個々に「価値」を唱えるのでよいではないか。個別価値が唱えられることの問題は何なのか。この問題をメタに行き、すべての「価値」を平等に制約を加えることにより解決しようとしたのがリベラリズムではある。


「この十五年の間、彼女が十分に苦しんだことは間違いないでしょう。と云うのは——裁かれてしまった方がずっと楽なものなのです」
□(509)

 「罪」の意識とは何なのか。これは生まれてからずっと、“してはいけないこと”として植え付けられていくものなのかなぁ。


「中禅寺さんの話だとね、薬石と云うのは禅寺で云う夕食のことらしいんだがな。その昔、禅僧は一日一食だったんだそうだな。夕食はなかった。それでね、冬なんか寒いし、まあ腹も減るわな。そんな時に温めた石を懐に入れて、飢えや寒さを凌いだんだそうだ。この石は飢えや寒さを凌ぐ薬だ——と云うので、薬石と呼んだのだそうだよ。これが懐石料理の語源だそうでね
□(730)

 そうだったのか。「懐石料理」だと“高い”というイメージだが、原意はそうではなかった。


@研究室
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by no828 | 2012-01-02 13:53 | 人+本=体 | Comments(0)
2011年 12月 30日

鬼と云うのは、人間が実行可能なのに中中出来ないことをするんですよ——京極夏彦『百鬼夜行——陰』

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148(470)京極夏彦『文庫版 百鬼夜行——陰』講談社(講談社文庫)、2004年。

※ 本作品は1999年に講談社ノベルスとして刊行。

版元 → 




 今年ラストの本になると思います。京極夏彦の百鬼夜行(京極堂)シリーズのサイド・ストーリーです。


 実力とは己の力ではない。己の背後の力である。岩川にはそれが備わったのだ。
□(415)


「つまり——神通力を持つ者だから教主なのではなく、教主が行うからこそ神通力になると、こう云うことだ。解るか。行っていること自体は何等特別なことではない」
□(461)


 ――視線。
 視線とは何だ。平野は考える。
 人と云うのは、どれ程の意志を以て能動的に世界を視ているのだろう。
 世界がただ在って、それがただ見えているだけであるならば、それは果たして意志を以て世界を視ていると云えるのだろうか。
 視ないと云うのは能動である。
 眼を閉じるのは、己の意志だ。

 だが視るとなると、これは怪しい。自分の意志で決定出来るのは視る方向ぐらいのものである。視覚は、向いた方向にある対象を厭でも全て捉えてしまう。選択の余地がないのならば、眼は単に世界を受け入れているだけだ。ならば視るではなく、寧ろ見えると呼ぶが正しかろう。

□(136.傍点省略)


「良いか、儂はそっぽを向いておったが、あんたが目を閉じている間、あんたにとって儂はあんたの方を向いていたのだ。あんたが目を閉じている間に儂が去れば、儂はずっとあんたを視ていたことにもなろう」
「しかしそれは事実と違いましょう」
「なんの違うことがあろうか。それがあんたにとっての真実だ。世界は観るものに依って決まるのだ」
「観ることが世界を変え得るのですか」
 依然平野には考えが及ばない。
観る者なくして世界はないわい。視線は発する者には在らず。受くる者にこそ在る。物理摂理には関係ない。あんたの思うのとはまるで逆だな」

□(156.傍点省略)


疾しい気持ちがない子供などいませんよ御主人。子供と云うのは、悪いことをしてはいけないと云うことは知っていますよ、叱られますからね。でも何が悪い事なのか、全て判断出来る知識や経験はない訳でしょう。だから子供は皆、知らず知らずのうちに悪い事をしてしまっているのではないかと、不安に思っている——そう云うものじゃないですか
□(200)


鬼と云うのは、人間が実行可能なのに中中出来ないことをするんですよ。それが出来る状態を鬼と呼ぶんですか〔ら〕。だから幽霊でも、ただ怨めしや、と云うだけの奴はただの幽霊で、それ以上のことをすると鬼になる。それは——」
「生きていても——同じことですか」
「そう。生きていても同じことです」
 そう云う状態を解り易く表現するのに角が便利なんですねえきっと——と、薫紫亭は続けた。
「盗賊悪等の類も鬼と呼ばれますでしょう。まあ残虐な行為、法を犯す戒律を破る、これはまあ一般にしてはいけない、中中出来ないことですから」
 ただ不可能〔な〕行為ではないでしょう、やれば出来ます——と薫紫亭は云った。
 ——出来ることなのに、
 ——人に出来ないこと。

□(215)


「解ったか。一応——俺は貴様の上官だからな。命令は聞け。生きろ
 ただ、涙が出た。嬉しいとか悲しいとか悔しいとか云う涙ではなかった。

□(228)


「嘘を吐いてはいけない。それが嘘でなかったとしても、手を出す訳でも口を出す訳でもない、ただ観ているのだから同じことでしょう。あなたは一度も救いの手を差し延べなかった。あなたはいつも他人の顔であの悲惨な光景を愉しんでいた。他人の不幸は己の幸福ですよ。あなたの顔は満ち足りていた」
□(240)


「人ってなぁそんな単純なものじゃないだろう。ひとつの理由がひとつの結果を生む訳じゃあない。理由は幾つもあるし結果も幾つもあらあ。だから、まあ思い込みみてェなものは誰でもあるんだろうが、大方のことは偶偶そうなっちまったってのが正しいンじゃないかい
□(273)


 勿論純子は戦前の教育が正しいなどと思っている訳ではない。あらゆる意味でそれは間違っていたのだ。皇国だの軍国だのと云う戯言は論外なのだが、仮令そうでなかったとしても、偏ったイデオロギーを無批判に押しつけることはどんな場合でも宜しくはなかろう。それは所謂洗脳である。そこまでは誰でも指摘する。しかし、例えばそれが政治的な意味合いを持たぬ思想であったとしても、或は何のポリシーをも持たぬ腑抜けたものであったとしても、生徒側に思索や選択の余地を与えない教育なのであれば、所詮は同じことなのだと純子は思う。平和的であろうと民主的であろうと——如何であれ、いずれ偏ったイデオロギーには違いないのだ。
□(319)


 本を読み、具体的なことばに触発されてきました。引用は思考の契機となってきました。しかし、引用することにより思考が限界付けられてきた側面もあるように感じています。もちろんわたしは引用すること自体に意味があるとは考えています。「読む」と「書く」とは違い、引用ではあれ「書く」という行為を通じて得られるものは少なくない。ただ、他者のことばを写すことは自己のことばを結果的に抑え込むことにもなりかねないとも思うようになりました。“引用して考える”と“最初から自分で考える”とは、前者のほうが節約的であり、後者には時間と労力と安定とが不可欠である。そういうことでわたしは前者を採用してきたわけではない——と言い切ることは、しかし正直難しい。「自己のことば」というものがあるのかどうか、それも疑問ではありますが、引用したいと感じた・思ったところを自分で論じなおすくらいの勢いで書くことが必要なのかもしれません。課題にします。

翌31日追記:やはりこの本が最後になります。今年読んだ非学術書(とわたしが勝手にカテゴライズした本(の大体全部))は148冊、ブログ開設以来の冊数は470冊となりました。ほとんど古本、全部購入、売却なし、なので、蔵書もそのぶん増えたことになります。アパートの本は1,000冊を超えたと思いますが、書物を前後2列に配した書架にはまだ余裕があります。)


@研究室
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by no828 | 2011-12-30 20:00 | 人+本=体 | Comments(0)
2011年 03月 05日

自分の目で現実を見て自分の足でその場所に立つしかないんだ——京極夏彦『陰摩羅鬼の瑕』

c0131823_1532788.gif18(340)京極夏彦『陰摩羅鬼の瑕』講談社(講談社文庫)、2006年。

版元


 百鬼夜行シリーズ第8弾。タイトルの読み方は、「おんもらきのきず」。本文1203ページ(!)。

 読みはじめてすぐに、この本のモチーフはドイツの哲学者マルティン・ハイデガーにあると思った。実際、読みすすめていくとハイデガーの名前そのものが出てきたり、解説が西洋哲学研究者でハイデガーについても書いている哲学者の木田元であったりして、やはりこの本の仕掛け作りにはハイデガーが絡んでいることがわかった。

 生と死、存在と非存在、亡くなると無くなる、……。この、ずれ。伯爵の論理は明晰、論旨も明解、しかし論理を構成する要素の意味が一般とはずれているのだ!

 ということの確信が中盤以降強くなり、結末も想像できた。どうかそれとは別の結末を、と願いながら読みすすめたが、裏切られることはなかった。


「死ぬと云うのは、場所との交渉関係が断たれると云うことでしょう。つまり此処から無くなると云うことです。何故なら——そう、先程私が申し上げた通りです。今、此処に在ることが生なのですから」
「だから非存在こそが死だと?」
「そうでしょう。違いますか先生」
 と、伯爵は問うた。
 いや。
 違う。
 伯爵は。
 間違っている。

□(34 原文傍点省略 以下同様)


 そもそも、世界的な文豪が執筆した名文であろうとも、無名の子供が書き殴った悪戯書きであろうとも、文意が汲める体裁になっている限り、そのもの自体の価値に変わりはない筈である。作品と、作者の社会的地位やら思想的背景やら、況〔まし〕てや人格性癖などは一切関係がない。誰がどのような意図の下に記したものであろうとテクストは常にニュートラルなものなのだ。
 作者の格が作品の質を決める訳ではない。作品の価値が作者の格を定めるのだ。
 そして——。
 その作品の価値を決められるのは、それを読んだ者だけなのである。
作品の価値は作者が決めるものでも世間が決めるものでもない。

□(45)

 読み手が決める、というのはそのとおり。

 私の理解する哲学という方法的態度は、過去のテクストを利用・転用し、自らの主張を補強することがある。しかしそれは、哲学史・思想史の方から見ると、単なる曲解・誤読にすぎないということにもなる。

 この引用文で言われているのは、前者の態度に近い。

 しかし、実際の学問の世界では、自らの主張に箔を付けるために大御所を引用したりその文献を注に挿入したりすることが多い。


「さっきも云った、亂歩さんが僕の小説を評した文章でね、亂歩さんは、探偵小説が殺人を扱うのは、探偵小説が単なるパズル小説ではない証しだ——と云うようなことを書いておられた。謎と推理のみに固執するなら何も人殺しを扱うことはないと、亂歩さんは云う。まあ、蓋し慧眼だと思うけれども」
 そうなのか——と、私は感心した。
〔略〕
「ああ、亂歩説ではね、要するに探偵小説の魅力の半ば以上が、世人が、経験することを極度に怖れながらも意識下に於ては却ってその経験を欲している所為ではないかと」

□(195-6)


「人殺しが一番怖いものが何だか——お前さん判るかい」
 木場は訝しげな顔をした。
「殺人者が一番怖がるのは、警察でも裁判所でもない。死体だよ」

□(296)

 そうではないのが今回の事件。


「願いが叶うか叶わないかは祈った者の努力次第なのです! 神様は願いを叶えてくれるのではなく、願いを聞いてくれるのです。何と有り難い!」
□(351)

 これは榎木津。

 神様は背中を押してくれるだけだとわたしも思う。


「〔略〕探偵としての榎木津さんを——大変失礼な話だが、見縊っておったようだ。所詮名家の御曹司が道楽でなさっていることと——」
「大変失礼ですね」
 道楽を嘗めていると榎木津は威張った。
道楽とは道を楽しむと書くのです。世の中には道は渋い顔をしていないと歩けないと思っている愚か者が多いが、それは大いなる間違いです
 道を楽しんで歩くことが出来ない無能な者どもが云い訳がましくそう云うことを云うのですと、無頼探偵は明朗快活に云った。

□(386)

 道楽で何が悪いか、ということか。これは、本文にも書かれてあったが、努力や我慢でもって道を究めようとする、つまりは渋い顔で歩んでいこうとする人たちを怒らせるには十分な考えだ。そういう人たちには、道楽は手を抜いているように見えるからであり、道楽でもうまく行っている人たちには(自分たちにはない)才能があるからだ、と捉えられることになる。

 わたしは努力や我慢の方の人間だが、しかし愉快に生きていきたいとは思う。


「そうでもありません。研究者と云うのは信奉者ではない訳ですから。対象と距離を置かなければ研究は立ち行かないのです。儒学的な思想には長い歴史がありますからね、本場である大陸でも大いなる変遷を繰り返している訳だし、様様な学派教派がある。朱子学だ陽明学だ、どれか一つに与していたのでは研究など出来ません。本邦でも同様です。山鹿素行と荻生徂徠では違う。戦前の、所謂忠君愛国の教えと云うのも、謂わばそのヴァリエーションの一つに過ぎない訳で、研究者であればそれだけを礼賛するような態度を執ることは出来ない訳です」
□(442)

 教育学では、研究者=信奉者のパターンがきわめて多いのではないか。とくに教科教育学の方では、自分の信奉するある人(思想家でも実践家でも)ある思想から、「教育」に活かせそうな考え方を抽出し、それを基盤に教育内容や教育方法を作り上げ、それを用いて実際に教育を行ない、“ほら、これはよい教育でしょう!”と言う。

 わたしはこういうことをする人たちを研究者だとは見なさない。研究者は自分の行なっている研究に対する疑義を常に持っていないといけないとわたしは考える。科学者は科学を信奉してはいけないと言ってもよい。もし信じるのであれば、それは研究行為ではなく宗教行為である。

 こういう話を学内や学会で展開しても大体において理解されないのが哀しい。というか、展開する機会自体があまりない。こういう話をしてもオーケーなのは、というか、聞いてくださるのは、H田先生やO本先生、外部ではM山先生など、実に限られている。


修行は大変な程面白いでしょう。辛い程愉しい
「うん?」
 そんな逆説的な物云いもあるのだ。大変な程面白い、辛い程愉しい——そう考えられたなら世の中には厭なことなどなくなってしまう。私は熟熟〔つくづく〕感心する。
「俺は勉強しなかったからなあ。学問ってのは苦手だったよ。だから学士様ってのは偉いと思うね。色色憶えて賢くなるのは若いうちだ。ものは知ってるに越したことはない」
 今更遅いがなあ、と云った。
いや、伊庭さん、学問つうのはものを憶えることじゃないんですよ。考える力を付けることです。物知りと学者は違いますね。学者には物知りが多いですが。判らんことを筋道立てて考えて、その考えが正しいのかどうか検証する。その過程で知識が必要になる。だから調べる。結果的に物知りになるんでしょうな
「ほう。じゃあ何だ、俺達が証拠固めに地味な聴き込みするのと変わらないなぁ」
「変わりませんね。地味です」
 学問も事件捜査も変わらないのか。
 そう云った。
 柴は、それはそうでしょうと云った。

□(454)

 大事なことが書かれている。学問とは考えることだ。論文とは考えた軌跡と結果を書くものだ。しかし、それらのことを理解していない人がわたしの周りの院生を含む研究者には多い。学問は教育事情を紹介することではない。論文はカタログではない。


 そうだねえ、と中禅寺は曖昧な返事をした。
「まあ方便と云えば方便でもあったのだろうが——ただ林羅山と云う人は、天才ではなかったかもしれないが飛び抜けた秀才ではあったし、努力家でもあった訳で、策士でもあったと思う。僕は嫌いじゃあないんだ。惺窩〔せいか 藤原惺窩〕に入門する時に提出した読書目録には四百四十冊もの書物が記されていたと云うし、一家を成してからも年間七百冊もの書物に目を通していたそうじゃないか。大体、明暦の大火で蔵ごと蔵書が燃えてしまって、それで落胆して死んじゃった訳だろう
 他人事じゃないなと云って中禅寺は笑った。

□(472)

 読む読む読む。勉強勉強勉強。


「教育勅語は近代化を急ぐあまりに西洋文化の模倣ばかりし、自国の文化を軽視するような世の中の風潮を懸念して作成された——と謂われています。要するに自由民権運動を煙たく感じた藩閥政府が、保守的な思想を正当化しようとした訳ですが——保守的と云ってもですね、これはまあどの辺が保守なのかと云うのが難しいところだった訳で」
「どう難しい?」
「ですから、徳川〔とくせん〕時代に逆戻りと云うのも困る訳でしょう」
「ああ、そうか」
「明治政府自体が革新ではあった訳だから。将軍を天子様に、武士を政治家に置き替えたのじゃいけない。いけないけれど、天子様を頂点に頂く国家の体制を天下に知らしめる必要はある。そんな訳で作る側としても一枚岩と云う訳には行かなかったんです」

□(497-8)

 あぁ、たしかに。


「彼は『存在と時間』にいたく感心したんだそうでね。僕は『ヒューマニズムについての書簡』なんかの方が好みなのだが」
「哲学に好みって何ですよ」
 柴は笑ったが中禅寺は真顔で、
僕の目の前に置かれた書物は僕にとって凡て等価なのだ。言葉と文字になってしまえば後は好き嫌い以外に価値基準はないよ
 と云った。

□(507)

 哲学も思想も、根本的には、好み、ということになるとわたしも思う。


 死は、存在者が絶対に体験出来ない唯一のコトなのである。存在者にとって死は、常に未来にしかない。それは予兆として認識する以外に、知りようのないものなのだ。
 鬼神が不可知なるモノであるのと同様、死は不可知なるコトである。
 死と対になる概念は生とされる。
 しかし私はそうは思わない。生は多くの下位概念を含む。しかし死はそうではない。
 死は厳然として且つ孤高である。私は、時こそが死と対になる概念として相応しいと考えている。
 私達は時間に関して何も知らないし、何も語り得ない。私達存在者は時間を客観的に捉えることが出来ないからである。
 客観的時間を体感することは不可能なのだ。

□(629)

 時間か……。


「どれを選ぶか、と云うことだと思います」
「選ぶ——のか」
「能く、世間の立派な人は未来は自分で選ぶんだと云いますけど——未来なんてものは選べないんだと思うんです。自分で決められるものじゃない」
「まあ——そうだろうな」
 未来を選ぶとはまた歯の浮くような台詞だ。人は流されるように生きている。自分の意志で泳いでいると思うのは驕りである。流れに棹さしてみても無駄で、遡ることなど出来はしない。そもそも。
 未来なんてものはない。
でも、過去は選べるんですよ、きっと
「選べるか」
どの過去を選ぶかで、今が変わる。今を一番良くする過去を——きっと京極堂は選ぶんです
〔略〕
「皆、思い込みを信じて自分勝手に生きてるだけなんです。なら思い直せば別の世界に行ける。過去なんてものは、もうないんです。未来がないのと同じように」
「ない——か」
 ないのだろう。
だから——今が大事なんだな
 今、生きて此処に居ることが大事なんだろと私は云った。

□(908-9)

 未来も過去も現在である——これはわかる、そう思う。選べるのは未来ではなく過去である——これはまだわかったとは言えない。


「俺はな、大鷹君。長いこと刑事やっててな、そりゃ大勢の死に際に立ち会い、大勢の死に様を眺めて来たよ。だがな、矢ッ張り死の実感はないよ
「ないですか」
「ないな。死人の生前を知らない。俺達が関わる死人の生前は全部、誰かの記憶か何かの記録で作られるもんだ。でな、実際に身の回りの知人ってのは、いつの間にか死んじまってるもんなんだ」
 息子も。
 同僚も。
 女房も。
 気が付くと死んでいた。
「女房だろうが子供だろうが、他人の死は実感出来ないよ。死ってのは——我が身に降り掛からないと解らないものなんだ、きっと。お前さんは若いから解らないだろうが、俺くらいになると」
 何時自分が死骸になるか。
 他人事じゃなくなってくるのよと云った。

□(930)

 わたしはこれまでふたりの祖父とひとりの祖母を亡くした。死ということは今でもよくわからないが、“これでもうじいちゃんと話をすることができないのだ、ばあちゃんと話をすることができないのだ”と思うと、哀しく、寂しく、なった。これは、祖父の死それ自体、祖母の死それ自体を哀しんでいるのではない、寂しがっているのではない。そうではなく、わたしはここで“もう2度と祖父母とわたしとが一緒に存在することはできない”ということを哀しみ、寂しく感じているのだ。祖父母が亡くなった、というよりも、祖父母とわたしとが一緒にいることができなくなった、そのことが哀しみ、寂しさの正体なのであろうと思う。

 ハイデガーの「共存在」とは、たぶん、そういうことを指すのではないか。


「あなた自身があなたの生の証拠です」
 京極堂はそう云った。

□(1081)


「家と云う世界を家長個人の意識内現象として捉えると云うこと——自意識を拡大し家族をその内部に物理的に取り込んでしまうこと——これがこの度の事件の動機であり目眩し〔トリック〕であり真相なのです」
□(1170)


 自分の目で現実を見て自分の足でその場所に立つしかないんだと——。
 私の友人はそう云った。

 とても厳しく哀しい口調だった。
「傷は——致命傷でない限り、手当てをすれば治るだろう。そして傷の手当ては他人にも出来るさ。でも手当てをしたって、それで傷が治る訳じゃない。本当に傷を治すのは傷を受けた当人だ。当人の肉体だ。傷は自分で塞がるものなんだ。手当てと云うのは傷を治す手助けに過ぎないし、時に傷を受けた時よりも痛いものだよ。治るか治らないか、それは当人次第だ。そこは他人には手出しが出来ない処なのだよ。それは君が」
 一番能く知っていることだろう。
 能く知っているさ。
 知っているけれど解らないんだ。

□(1182)


 京極夏彦の本には、一種の思想が紡がれている。京極は哲学者なのだと思う。

 そして京極夏彦——それに森博嗣——の小説は、「学問小説」とか「研究小説」とか、そういうジャンルを新たに立ち上げているとわたしは思う。

@研究室
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by no828 | 2011-03-05 18:28 | 人+本=体 | Comments(0)