思索の森と空の群青

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2017年 06月 10日

プラグマティックな解決をあえて提起しない。プラグマティックな意味で考えると、外に出られないからです。機能よりも論理を大事にする——的場昭弘・佐藤優『復権するマルクス』

 的場昭弘・佐藤優『復権するマルクス——戦争と恐慌の時代に』角川書店(角川新書)、2016年。56(1054)

 単行本は『国家の危機』として2011年にKKベストセラーズ

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 最後の引用文に背中を押された心地がしました。どこかで考えが変わるかもしれませんが、しばらくはこの姿勢で行きます。

 本書で指摘されていた現象にしろ、解説・展開されていた思考様式にしろ、現在との接点を感じます。思考様式については、いまもまだかつてのそれから抜け出せていないところがあるということです。それが問題かどうかはさておき、新たな思考様式を獲得したいと(長らく)思っています。

33)的場 官僚の形態というのは、はっきり言ってメリトクラシーです。努力してコツコツ勉強すれば、どのような者であろうと官僚になれる。この点において、形式的には開かれているわけです。ただ、一度官僚になると簡単にやめないことで、かつての絶対王政下のプロイセンにいた官僚たちと同じように、特権団体を形成していく。ここに閉鎖性と開放性とのズレがあります。

38-9)佐藤 ヘーゲルの発想で重要なのは、僕はやはり「受肉」だと思います。理念が具体的な形を取る。結局は、一時期、ヘーゲル自身もナポレオンを「世界精神」と誤認したわけですよね。必ず何らかの形で人の形を取らないといけない。この問題があるわけですよね。

44-5)的場 プルードンはその後、基本的に経済にあまり興味をもたないで、言わば人間の改善によって社会を変えようということを考えています。その問題設定は、非常に楽観的なのですが、人間というものに対する彼なりの信頼と、人間の陶冶が彼の関心事です。ここがプルードンの積極的に評価すべき側面です。〔略〕プルードンが、人間をどうするかという問題を議論していくのに対して、マルクスは、やはり人間よりも組織というかシステムのほうに関心がある。

46)的場 プルードンは重要な点を衝いている。経済学の議論では、人間を変革できないという点です。

49)的場 独断を変えるためには、他人と議論することが必要である。他人の議論が入ることで、自らが他人の議論とかみ合うように変わるわけです。これが民主化するということです。

66-7)的場 自民党政権が何十年ももってきたというのは、基本的に国民が政治に関心をもたなかったからだと言えます。国民は基本的に経済で忙しく、どんな政治をしようと、経済がうまくいきさえすれば関心をもたなくてもよかった。ところが、経済がうまくいかなくなったとき初めて日本人が政治に関心をもち始めた。つまり、政治が変わらなければ経済が変わらないと思ったわけです。

72)佐藤 民意をどのようにして、代表民主政のもとで担保するかというのは本当に難しい。四二〇人の国会議員を四一九人にしても民意は変わらないというように考えるなら、それを一つ一つ減らしていけば、最後は一人によって民意は代表できるはずです。それこそカール・シュミットのいう大統領の独裁みたいな世界になっていく。

88)佐藤 プライベートというのはそもそもラテン語のプリーバーレから来ていますから、「奪う」ということですね、囲い込んで。
的場 自分がそれぞれもっていて、自分のものを取り合う、お互いのものを取り合うという人間関係。アソシアシオンは逆に自分のものを与え合うという関係です。アソシアシオンという言葉は、むしろマルクスよりは、フランスの社会主義者たちが盛んに使っていた言葉です。
佐藤 それ自体はそもそも「使徒行伝」です。「使徒行伝」のパウロの長い説教の最後のところに、「イエスが我々に教えてくださったように、受けるよりは与えるほうが幸いなのです」と、この考え方ですよね。

176)的場 大学院はいま短大になっているんです。わずか二年でしょう。例えば、経済学部を卒業した人間が法科の大学院に来たりします。これは法科の短大生です。

178)佐藤 壺があるとしましょう。壺というのは、時代が経ったら割れてしまいますしかし、壺の中には光が入っている。割れる壺をいくら守ろうとしても、それはダメです。ところが、重要なのは、その壺が割れた瞬間にスッと光をつかんでしまって、新しい壺に入れることなんです。
 我々が社会主義について扱うということは、そういうことではないかと思います。社会主義という思想の中には人類の英知があるし、肯定的なものがある。それをどのようにして次の壺に入れていくかという作業です。これがまさにアイザック・ルリアなどのカバラの考え方です。

264)的場 労働価値説とはいったい何なのかということです。価値を生み出すものがなぜ労働でなければいけないのかという問題、この問いが出てこなくなります。

280)佐藤 それによって世の中を変えようとする人間が出てくるかもしれない。あるいは、逆に、労働力商品化されているということを、「ああ、そういう理屈なのか、ならば搾取する側に回らない限り、いいことはない」と思い、他者を搾取することに生きがいを感じる人間が出てくるかもしれない。

281)的場 マルクスはあくまで一九世紀の人間なので、いまの私たちが陥っているようなプラグマティックな世界の発想の論理とは違った発想をしています。日本でも少なくとも一九六〇、七〇年までは大学の中に残っていました。この発想は、いったん自分を社会の外に置いて、この社会がどのように機能するかを理論的にしっかりとつかんでいく。いったん現在の社会の論理の外に出るということです。社会の機能が、どのように私たちを不幸に陥れているかを分析していき、では、どんな可能性があるのかを分析する。しかし、そのためにプラグマティックな解決をあえて提起しない。プラグマティックな意味で考えると、外に出られないからです。機能よりも論理を大事にするということです。これが批判という意味です。
 かつての学問はみんなそうであったはずです。提言していないということが、ある意味で一つの大きな提言なんです。奇しくも宇野さんは、言論と政策を分けましたが、このような形式に慣れ親しんだ時代においては、政策という問題はそれ自体問題にならない。

@研究室

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by no828 | 2017-06-10 16:03 | 人+本=体 | Comments(0)
2017年 04月 07日

重要なことは、知識の断片ではなく、自分の中にある知識を用いて、現実の出来事を説明できるようになることだ——佐藤優『読書の技法』

 佐藤優『読書の技法——誰でも本物の知識が身につく熟読術・速読術「超」入門』東洋経済新報社、2012年。32(1029)


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 タイトルどおり、読書の技法——熟読すべき本とそうでない本を見分けるために速読はあるが、たくさんの本を深く読んで知識を血肉化していないと速く読むことはできない。読書は、そこに書かれてあることを血肉化したうえで、それを自分なりに使うために行なうものである。

熟読できる本の数は限られている」というのは、読書の技法を考えるうえでの大原則である。(26)

 本書で繰り返し強調するように、読書の要諦は、この基礎知識をいかに身につけるかにある。
 基礎知識は熟読によってしか身につけることはできない。しかし、熟読できる本の数は限られている。そのため、熟読する本を絞り込む、時間を確保するための本の精査として、速読が必要になるのである。
(45)

速読の第一の目的は、読まなくてもよい本を外にはじき出すことである。(51)

 重要なことは、知識の断片ではなく、自分の中にある知識を用いて、現実の出来事を説明できるようになることだ。そうでなくては、本物の知識が身についたとは言えない。
 ドイツ語で学問(科学)をヴィッセンシャフト(Wissenschaft)という。
 断片的な知識(Wissen)ではなく、知識を結びつけて体系(-schaft)になって初めて体系知としての学問(科学)になるという考え方だ。(58)

 なぜ、真ん中くらいのページを開くのかといえば、本の構成として、初めの部分は「つかみ」と言って、どのように読者を引き込むかという工夫を著者と編集者がしており、最終部の結論は、通常、著者が最も述べたいことを書いているので、読みやすいからだ。〔略〕
 真ん中くらいというのは、実はその本のいちばん弱い部分なのである。あえて、このいちばん弱い部分をつまみ読みすることで、その本の水準を知るのである。(60)

 熟読法の要諦は、同じ本を3回読むことである。
 基本書は、最低3回読む。第1回目は線を引きながらの通読、第2回目はノートに重要箇所の抜き書き、そして最後に再度通読する。
(63)

ノートに書き写す部分については、「迷ったら書き写さない」という原則で、極力少なくする。(71)

 普通の速読で最も重要になるのは、繰り返し述べているように基礎知識だが、その次に大切なのは、本の内容を100パーセント理解しようという「完璧主義」を捨てることだ。
時間は有限であり希少材である」という大原則を忘れてはいけない。速読はあくまで熟読する本を精査するための手段にすぎず、熟読できる本の数が限られるからこそ必要となるものだ。速読が熟読よりも効果を挙〔ママ.上〕げることは絶対にない。(88)

 読書ノートを作る最大のポイントは、時間をかけすぎないことだ。30分なら30分、1時間なら1時間と自分で時間を決め、それ以上、時間をかけないようにする。
 時間を制限することで、抜き書きできる箇所はおのずと限られてくる。30分で書けるのはおそらく600字程度のはずである〔略〕。どの箇所を取捨選択するかも、記憶への定着に大きく寄与する。
 大切なのは正確な形でデータを引き出せることと、積み重ねた知識を定着させることで、完璧なノートを作ることではない。(103)

まずは時間を区切り、その範囲内で、自分が重要だと思うところと、理解はできないが重要そうなところをあわせて抜き書きしておくといい。
「コメントに書くことが思い浮かばない」という相談も受けるが、最初は、「筆者の意見に賛成、反対」「この考えには違和感がある」「理解できる、理解できない」など自分の「判断」を示すもので十分である。
「わからない」「そのとおり」「おかしい」の一言でもいい。何らかの「判断」を下すことが重要なのだ。
 次のステップとしては、自分の「判断」に加えて、「意見」も書き込むようにする。「私はこうは思わない」「この部分は、あの本のパクリだ」「同じデータに関して、あの専門家は別の評価をしている」など自分の「意見」も書き込めるようになれば、十分理解して自分で運用できる水準になっている。(104-5)

自分が専門とする分野の本、あるいはインテリジェンスの観点から役に立つ本について、A4判1枚程度(文字数で400字×3〜4枚)のレジュメを作ってくる。慣れると30分でレジュメを1枚作ることができる。1回の会合で、一人で最低2冊の本についてレジュメを作るようにする。
 読書のスピードが速い人は7〜8冊について報告することができる。本の内容についてはレジュメにまとめられているので、会合での発表は、インテリジェンスや北方領土交渉を進めるうえで、どの点が役に立つかというところに絞って行う。〔略〕
 読者にも、何人かでテーマを決めて、1週間に1回、書評の会合を行ってみることをすすめる。この場合、書評で取り扱う専門書を30〜50冊にして、それらの本をすべて消化したところで、会合を終えることだ。恒常的な勉強会となると、組織維持にエネルギーを割かれる。これを避けるのだ。(265)

@研究室

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by no828 | 2017-04-07 18:42 | 人+本=体 | Comments(0)
2017年 04月 05日

祈りによる飛躍をはじめにもってくるのはキリスト教の誤使用である——佐藤優『同志社大学神学部』

 佐藤優『同志社大学神学部——私はいかに学び、考え、議論したか』光文社(光文社新書)、2015年。30(1027)

 
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 大学とは、大学の教師とはどういうところであるべきなのか、著者の学んだ同志社大学神学部の実際にそれを考えるためのひとつの手がかりがあるように思いました。これほどまでに深くプロテスタント神学を学んだ筆者がなぜ外務省へ入ったのか、その理由も説明されています。

 ヨーロッパで、総合大学(ユニバーシティ)と呼ばれるためには神学部を擁することが必要条件だ。法学、〔略〕医学など、神学以外の学問は、人間のために役立っている。〔略〕実用性がないように見える文学も、近代的な文章語を形成するという産業社会形成にとって不可欠な環境を整えた。〔略〕
 これに対して、神学は、人間の役に立たない「虚学」だ。キリスト教では、人間は原罪を負っていると考える。従って、そのような人間に積極的な価値を見出すヒューマニズムを神学は拒否する。それだから、人間の知的営為を信頼した学問をキリスト教は拒否する。キリスト教は反知性的な宗教なのである。(19)

わたしはプロテスタント神学に魅了された。わたしが主体的に神学を学んだというよりも、イエス・キリストがわたしを掴んで放さなかったというのが真相だ。(21)

「街頭で暴れて、逮捕されることが運動だと思ったらいけない。とにかく、自分の頭でよく考えることだ。行動は完全に納得してから行えばよい。学生時代は、とにかく自分が関心をもっていることについて、よく本を読み、友だちと話をすることだ」(78)

キリスト教信仰は、人間の力で獲得するものではない。神によって一方的に与えられるものである。(107)

神は人間にとって外部の存在なのである。この外部性は、この社会に、善意の人間がいくら努力してもふきだしてくる社会問題に直面するときに、逆説的な形で認識される。人間と人間の関係からつくりだされたにもかかわらず、ある種の問題は、人間の力によっては解決されない。この境界線に至ったときに、信仰に向けた「命がけの飛躍」が求められる。言い換えるならば、この境界線に至るまでは、人間的な努力によって解決を図るのだ。祈りによる飛躍をはじめにもってくるのはキリスト教の誤使用である。(110)

祈願がなければいかなる価値判断もありえない(112.重引)

「運動をすれば、未整理、未分化の形のドラマツルギーが形をあらわすというのは希望的観測に過ぎないと思う。むしろ運動をすればするほど混沌とし、その面倒くささを思考停止で誤魔化すことになる危険性の方が高いんじゃないだろうか」(123)

「みなさんの中で、神様と会ったことがある人がいますか」
 何人かが手を挙げた。わたしは挙げなかった。
神様と会ったり、神様を見たという人で、ほんとうにそういう経験をした人は神学部ではなく、病院に行った方がいいです。精神科医の治療をきちんと受けないといけません。キリスト教の神は、人間の目に見えるような存在ではありません。われわれが神だと思ってイメージでとらえているものは、すべて、キリスト教がいう神ではありません。われわれ人間がとらえた偶像です。偶像崇拝はキリスト教で厳しく禁止されています」(128)

「教義、つまりドグマ(Dogma)とは、教会が定めた絶対に正しい真理のことです。カトリック教会にはこのような教義がある。それに対して、プロテスタント教会は、絶対に正しい教義などは存在しないというところから出発しなくてはならないと僕は思うんです
「それでは、プロテスタント神学には、教義ではなくて、何があるんですか」
教理です。ドグマの複数形のドグメン(Dogmen)です。それぞれの教会や神学者が、時代的、地理的、能力的制約の中で、正しいと信じた教理が複数存在するのが、プロテスタント神学の特徴です。僕は教義学を担当しているけれど、教義学という表現は正しくなく、ほんとうは教理学と言い換えるべきだと思うのです」(134)

キリスト教の理解では、神がこの世界を創った。そうすると神が創った自然には、神の意思が働いていると考えることができる。従って、神の意思を人間が自然から読み取ることができるという考え方ができる。このような考え方から自然神学が生まれる。カトリック神学、正教神学において自然神学は大きな位置を占める。(140-1)

「要は自然の内容をどのようにとらえるかということです。自然に、血と土地を読み込んでいくと確かにナチズムになる。逆に、自然法思想に基づいた人権を読み込むと、ナチズムに対する抵抗の思想となります。ドイツのカトリック教徒のナチスに対する抵抗運動は、カトリックの自然神学に基づいたものです」(141)

神学から、政治的に具体的指針を導き出すことはできないような気がするのです。政治には根源的な悪がある。それは悪魔的なものといってよいと思うのです。ナチズムのような政治だけでなく、それに抵抗する政治運動にも固有の悪がある。神学の課題は、この固有の悪を見つめていくことだと思うのです」(143)

イエス・キリストのために殉教することは肯定的に評価されるのに、国家のために命を捧げてはいけないのはなぜなのだろうか。わたしはよくわからなくなってきた。(150)

 複雑な歴史総体を解釈すること、すなわちその意味をとらえる歴史研究には、研究者主体の世界観なり人生観なり価値観がはいってくるが、これなくしては歴史解釈は成りたたない。(171.重引)

批判的な学術的知(体系知)をそなえていないと、社会的に形成され、時代的に限界をもつものが、永遠に変化することのない自然的なものに見えてしまう。(196-7)

半年くらいの試行錯誤で、わたしはマルクスが批判している神は、キリスト教の神でないことがわかった。フォイエルバッハやマルクスが想定している神は、人間が自らの願望を投影してつくりあげた偶像である。(234)

信仰というのは、現実の生活と分離できない(225)

 西欧が衰退しているのは、近代が臨界点に達しているからだ。プロテスタンティズムは、近代と手を携えて発展していった。従って、近代が終焉期を迎える状況において、プロテスタンティズムも機能不全を示すのだ。(253)

「ただ、俺はよくわからなくなった」
「何がわからなくなったんだ」
子供たちに、何を教えたらいいかということだ
〔略〕教師は、生徒に対して正しいことを伝達するという建前を貫き通さなくてはならない。それは学科だけでなく、子供たちの生き方についての指導においても適用される。しかし、大山君は自分の生き方について悩んでいる。子供たち、特に小学生に与える教師の影響は大きい。それを考えた場合、大山君は、ほんとうに教師になるという選択が正しいのかどうか、悩み始めたのだ。(264-5)

「僕はキリスト教についてはわからない。ただ、僕が坊さんにならなかったのは、宗教を商売にしたくないと思ったからだ
「商売ですか」
「そうだ。僕の寺は田舎では大きい方だ。檀家もそこそこある。母親は、僕が僧侶になることを望んだ。大学に入った頃は、僕も親の期待に応えようと思っていた。しかし、そういう理由で坊さんになるのはよくないと思った」
「どうしてですか」
宗教は人間の生き死ににかかわることだからだ。それでメシを食うことに僕はどうしても抵抗があった」(276-7)

@研究室

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by no828 | 2017-04-05 15:02 | 人+本=体 | Comments(0)
2017年 01月 25日

やるべきことをきちんとやり、やってはいけないことを絶対にやらない——佐藤優『人たらしの流儀』

 佐藤優『人たらしの流儀』PHP研究所、2013年。20(1017)


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「対人術の要諦」と表紙にあります。わたしの関心はそこにはあまりありません。他者の心理を自分の利益となるように操作する、という考え方があまり好きではありませんし、人間関係を円滑に進めるために何かする、ということが余計なことのように思えてしまいます。もちろんわたしも少なからずそれをすでにしているのだとは思いますが、意図的にそれをするということがあまり好きになれません。それがうまくないからそういうふうに思うのかもしれません。ヒゲを剃って面接に行っても——ほかに理由があったからでしょうが——採用されないし、といったことがあり、もうそのままで行ってダメならダメでよいし、嫌われるなら嫌われるでよいし、それでよいと言ってくれる人がひとりでもいればよい、といった姿勢でいます。

「教育」というものを疑いつつ信じつつ疑っているのも、この“他者の操作”といった辺りと関係しています(たぶん)。

 本書を手に取ったのは、佐藤優の考え方全般に興味があるからで、対人術の周辺事項にもきっと哲学・思想との関わりのなかで触れられているはずだと思ったからです。

 先に“他者の操作”と書きました。しかしながら本書における“対人術の要諦”はそのための方法というよりは、自らに誠実であれ、ということなのだと思いました。他者に誠実であれ、ではありません。“対人術の要諦”だからかどうかの前に、自らに——他者ではない——誠実であることは私にとってすでに重要であり、そうではない生き方のほうが実は大変ではないか、という思いと重なるところがありました。そういう意味では“楽をしたい”ということなのかもしれません。そこで楽をして、自分のやるべきことに頭を使う、時間をかける、ということです。

ずるい奴というのはインテリジェンスがある奴なんですよ。
 但し、ずる過ぎると、皆から信用されなくなって逆に損をする。
 だから、インテリジェンスの理想的人間像は、「ずるさを隠すことのできる程度の知恵のある、ずるい奴」なんです。(15)

——諜報社会において、嘘は相手を欺く重要な手段のように思えますが?
 それはね、結局インテリジェンスの世界はゲームだから、嘘をつくと、そのゲームが複雑になり過ぎる。(20)

 美しくない女性には「美人だ」と言わないで、「素敵なハンドバッグを持っているね」とか、モノを誉める。ホステスがよく言うのは、誉めるところがまったくない男が来たら、「いいネクタイね」とネクタイを誉めろと。大切なのは、嘘をつかないことです。(24)

自分の魅力を向上させるために何が大切かと言うなら、端的に『儲けた銭をばら撒く意思があるか否か』という点に尽きます。
 ちゃんと儲けて人に奢る気概があるか? 皆に、もっと言えば社会に還元しているか? ここですね。真のトップ、人間的魅力のある人間は、皆やっていることです。(59)

いま、重要なのは、経済の思想を根本的に変えることです。
 ——どうするんですか?
 アダム・スミスに戻る。
 ——アダム・スミス?
 労働価値説です。
 ——何ですか、それは?
 価値の源泉はすべて、労働である。
 一人の人間がサービスとか労働を生産して自分を養うことは可能です。
 それなのに、なぜ、貧困が出てくるのでしょうか?
 こんな社会は、おかしい。だから、労働価値説の基本に戻ることが大切です。一人の人間が、働いたら、その労働に見合った報酬をわたす。これです。

 ——そして、稼いだうちの、二割を還元する。
 二百万円以下ならば、五%を還元する。
 ——「天に宝を積む」ことは難しいですね。(64-5)

本の読み方は精読。これ一つしかないのです。
 ——精読?
 時間をかけて精読するのです。〔略〕
 速読というのは、雑本と良書を仕分けるためのチェックのようなものです。
 まず速読で、全体の二〜三ページでも役に立つ部分を探す。この作業をやらないといけない。〔略〕
 普通の速読は三十分。但し、その分野について通暁していることが条件ですけれど。〔略〕
 それくらいの時間で読んで、重要なページをどんどん折っていきます。
 さらに、超速読というのがあります。〔略〕超速読は、一ページ残らず、すべてページをめくることが大切です。
 そして、読んではいけません。
 目に飛び込んでくるものを脳裏に焼きつける。
 それで、自分のいま関心のあることは何か? 使える情報か? などを考えて、使えそうなところをどんどん拾っていくのです。
 キーワードに引っかからない情報は捨てるのです。〔略〕
 精読した本の中で、これは凄いなと思ったら、ノートに書き写すことです。
 そして、しばらく、時間を置く。これは発酵させると言い換えてもいいでしょう。
 この作業は絶対に必要です。

 だから、私の場合、精読するときは、頭脳とノートとが完全に一致している。
 仮にノートでなくとも、ワープロでもいい。コピーを取ってノートに貼るのでも何でもいいでしょう。
 肝心なことは、これが一番、覚えられるという方法で行なうことです。
 この段階での目的は、内容を覚えることです。(76-82)

 真理というのは、必ず、どっかに二つ、焦点があるものです。〔略〕
 質問する権利を持った人間は物語をつくることができるのです。〔略〕
 小説家は常に質問を考えながら、物語をつくっているわけですからね。(133)

 エンゲルスは、大学に進学したいんだけど、親が厳しくて、「大学に進学したら資本家になれない」と言われて、マンチェスターで工場を継がされます。
 そうしたら、儲かって儲かってしようがない。
 労働者にきちんと給料は出している。さらに、金はある。
何で、こんなに儲かるのか?
 と疑問を抱いて、研究を始めたのです。
 そして、ついにわかるのです。
これは労働者を搾取しているからだ」と。
 すべての価値は、労働者から出ていることに気がついたのです。
これはよくない世の中だ。これは共産主義にしないといけない。しかし、共産主義にするには、お金が必要だ」〔略〕
 日々の生活に追われている労働者は、革命を考える余裕もわかるはずもないだろう、というのがマルクスとエンゲルスの立場です。
 だから、お金はがっちり持ったうえで、世の中の問題を考える。(139-40)

 自分の具体的な経験には限界がある。それ以外に小説とノンフィクションから得られる疑似体験の知識があれば、それを補うことが十分できます。
 職場に投げ込まれたインテリゲンチャ〔略〕は、小説好きのほうが生き残る可能性が高いのです。
 インテリジェンス・オフィサーは、通常、外交官や官僚に比べて小説をよく読んでいます。(214)

 人たらしの条件は、1と4、すなわち「やるべきことをきちんとやり、やってはいけないことを絶対にやらない」人になることである。(218)

@研究室

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by no828 | 2017-01-25 17:19 | 人+本=体 | Comments(0)
2015年 11月 22日

自分の家族のことをほぼ考えないで政治だけやっているわけですから——手嶋龍一・佐藤優『知の武装』

c0131823_15123351.jpg手嶋龍一・佐藤優『知の武装——救国のインテリジェンス』新潮社(新潮新書)、2013年。29(951)


 版元
 

「インテリジェンス」がキーワード。「国家の舵取りを委ねられた指導者がその命運を賭けて下す決断の拠り所となる情報」(4)や「膨大な一般情報を意味するインフォメーションから、きらりと光る宝石のような情報を選り抜いて、精緻な分析を加えた情報のエッセンス」(14)と規定されています。

 なるほど、と思わされる箇所ももちろんありましたが、「インテリジェンス」とはつまりは“相手の腹の読み方”であって、それを「インテリジェンス」という言葉を使って論じるのは少し大袈裟というか、わざわざ使わなくてよいのではないか、という読後感(読中感)もあります。


佐藤 二〇一三年九月五日付の「ニューヨーク・タイムズ」の一面に、シリア反政府派の武装グループが、シリア政府軍の兵士を上半身裸にしてひざまずかせ、射殺する残虐な写真が掲載されましたが、事実、このような残虐な行為に及ぶ連中です。アメリカやフランスは遠くから手を回し、この「半グレ集団」に軍服を着せて銃と金を渡し、反政府派と名のらせて内戦をやらせてきたんです。(39)

手嶋 民間のかなり大事な交渉で、自社の社員に英語で折衝をやらせている経営者がいますが、危険極まりないですよね。外交の世界では決してそんなことはしません。外交官は英語で交渉しているはずとかなりの人が思っていますが、実はそんなことはしないんです。非公式な社交の場では英語で会話をしますが、正式な折衝では通訳を使うのが鉄則です。
佐藤 いまどき英語で自ら交渉をやっている会社は、オキュパイド・ジャパン、つまり占領下日本の発想から抜け出してない。重要な会談は、民間でも日本語を使うべきです。
(59)

佐藤 スノーデンがこの巨大会社の下級社員であった理由は、能力が低いからじゃない。インテリジェンスの非合法活動に関わっていたからですよ。だから万一、事故が生じたときに備えて、外部の民間会社の下級社員の肩書で重要な任務に当たらせていたのです。(96)

佐藤 スノーデン自身はこう語っています。「米政府が世界中の人々のプライバシーやインターネット上の自由、基本的な権利を極秘の調査で侵害することを我が良心が許さなかった」。これこそ、彼を突き動かした真の動機であると見ていいでしょう。(99)

佐藤 「スノーデンは思想犯だ。国家や民族が存在しなくても、人類は生きていくことができるという素朴なアナーキズムを信じているハッカーは多い。何かの機会にスノーデンも正義感に目覚めてしまったのだろう。この種の思想犯は手に負えない」。この見立ては正鵠を射ていると思いますよ。(100)

手嶋 彼らは意図して新しい知識や科学の知見を受けつけようとしない。そもそも公的な教育に神の子である子弟を委ねない人々なのです。福音派の教会から送られてくる教科書を使って自宅で親が学ばせている。そこにはダーウィンの進化論など存在しません。(139)

佐藤 安倍政権は、憲法改正に直ちに着手することができないので、集団的自衛権に積極的な小松〔一郎〕氏を内閣法制局長官に据え、解釈改憲を進めようとしているのでしょう。
 この手法は、ナチスがワイマール憲法を改正せずに国家体制を抜本的に転換したのと似ていますよ。ドイツの憲法学者オットー・ケルロイターは、一九四〇年ころまでナチス政権下における憲法理論の第一人者でした。戦争中にはナチス批判に転じたのですが。ケルロイターは、『ナチス・ドイツ憲法論』で、英米法のように解釈に幅のある憲法は指導者により体現されることとなるので、指導者国家の法律や命令は必ずしも憲法の縛りを受けないと主張しています。麻生副総理兼財務相の「(ナチスの)手口に学んだらどうかね」という発言は、冗談ですまされなくなります。ワイマール憲法自体の改正を迂回し、ナチス体制を構築した技法が、そこには埋め込まれているのですから。
(144-5)

佐藤 「帝国」は、外の力を包摂し、自己に吸収して、初めて生き残ることができる。かつてのような植民地を持つ形の帝国主義じゃなくて、品格のある形で自由貿易を基本としながら「帝国」として生き残る道もあるんです。沖縄という本土とは異質な文化を持つ外部領域といかにしてうまくやっていくのか。(148)

手嶋 「TPPが聖域なき関税撤廃を前提にするなら、TPP交渉への参加に反対する」——。佐藤さん、この自民党の公約をどうご覧になりましたか。
佐藤 日本が東アジアで生き残っていくためには参加すべしという私の持論からすれば、なかなかに良くできた公約です。
手嶋 〔略〕この文章を「TPPへの参加表明」と読んでいるわけですね。〔略〕このTPP交渉を事実上取り仕切っているアメリカは、かつても今も、「聖域なきTPP」など唱えていない
佐藤 ありもしない前提をあえて掲げ、そうなれば参加しないと。じつに老獪だなあ。
手嶋 僕は、戦後の政治文学の最高傑作の一つと言ってます(笑)。
(156-7)

手嶋 佐藤さんは、実念論が中心の国では、成文憲法ができづらいと興味深い指摘をしていますよね。
佐藤 イギリスがその代表例ですが、イスラエルもそうです。成文憲法はなくても目に見えない憲法があるという意識が、実念論の世界の人々には共有されている。神様は目に見えないが、存在していることをみんなが信じているのと同じです。だから、必要に応じて必要な部分だけを文字にすればいいという発想につながります。
(179)

佐藤 キュニコス学派の現実を突き離して見る姿勢は、ピュロンの懐疑派でより強まり、そのどちらが正しいかよくわからないという。人にはそれぞれ正しいことがある。あまり、何が真理かなどと議論してもよろしくない。多元的にいこうじゃないかと。究極の理想はエポケー、判断停止にすること。このエポケーが最大の理想である。判断をしないとあえて判断する、こういう立場に立つんです。〔略〕シニカルというと「冷笑的」と日本では訳されて、何か冷たい笑いを浮かべているというイメージが定着してしまった。しかしそうじゃなくて、自分を突き離すことのできる、ものすごく強い意志力が求められる。その前提として、目に見えないものが確実に存在するという感覚が必要になる。けれど、我々は人間だから目に見えないものについて知ることはできない。だから、それについて我々は語らない(182)

佐藤 イギリスの〔第二次大戦開始後のマン島への〕強制移住の話、ほとんど知られていませんね。「第五列」という意味では、アメリカでも、日系アメリカ市民の強制収容キャンプ送りがありましたが、イギリスは、ファシズムにつながる危険性があるとして、ごく一般のイギリス市民を強制移住させた事実があるんです。(186)

佐藤 CIAの係官と話していてびっくりしたんですが、中国分析をする人間は中国に渡航することが禁止されている。また、中国語を学ぶことも奨励されていないんです。そういうことがあるとバイアスがかかるからという理由でね。(189)

佐藤 カトリックの聖職者は独身ですが、裏を返せば、バチカンに集まっている人間というのは、自分の家族のことをほぼ考えないで政治だけやっているわけですから、そういう人たちが強いのは道理ですよ(209)

佐藤 一九七〇年代の前半までのことですが、東西冷戦の時代にあっても、ベルリンの壁を自由に行き来できた一群の人たちがいました。この事実は案外と知られていない。彼らは宗教界の人々だったのです。プロテスタント教会の一つ、EKD(ドイツ福音主義教会)は、六〇年代末まで東西両ドイツにまたがる組織で、この神学校の神学生は両ドイツをほぼ自由に移動できた。両陣営の暗黙の合意のもと、わざとそうした体制にしていたんですね。(213)


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by no828 | 2015-11-22 15:35 | 人+本=体 | Comments(0)
2013年 11月 17日

思想は、基本的には「人殺し」を正当化する論理を含んでいる——佐藤優『インテリジェンス人間論』

c0131823_1749485.jpg佐藤優『インテリジェンス人間論』新潮社(新潮文庫)、2010年。81(736)

単行本は2007年に同社。

版元 → 

 佐藤優の本は割と好きです。既存の思想的立場に簡単に収納できそうにないところがよいのかもしれません。筆者において地の文でも会話文でも頻出するーーとわたしには感じられてしまうーー「○○(な)ので、△△」という文章がわたしにはどうもしっくり来ません。

 鈴木宗男や小渕恵三や森喜朗やエリツィンやプーチンの人物像をインテリジェンス(諜報)との関連において描き出しています。日露関係の話がよく出てきます。

 トルクメニスタンは永世中立国。

〔略〕人間的に尊厳でき、信頼する人とあたかも友人のように楽しく歓談しても、その後、大使館に戻って、話した内容のうち、日本政府にとって役に立つ部分を公電にして、暗号をかけて、東京の外務本省に送るのが、生理的に嫌だった。公電の行間から友情や厚意に付け込んでいる自分の姿が浮かび上がるような気がしたからだ。
 人は、できることと好きなことが異なる場合がある。インテリジェンス(intelligence、諜報)とは、行間(inter)を読む(lego)という意味なので、本来的には、テキストを扱う仕事なのだと思う。〔略〕私にはその適性があると思う。しかし、このようなインテリジェンスという仕事を私は最後まで好きになることができなかった。
(3-4)

「川奈提案について、ロシア側の検討状況には過去二週間変化がありません」
「あんた、変化がないというのも重要な情報だ。明日、またモスクワに行って様子を探ってきてくれ」
「わかりました」
 小渕〔恵三〕氏が述べた、変化がないというのも重要な情報だ、というのは、まさにインテリジェンスのプロの発想なのである。
(81)

 小渕の叔父・小渕岩太郎は陸軍中野学校の出身のようで、恵三もその「薫陶」を受けていたようです。

 あるとき森〔喜朗〕氏はポケットからボロボロになった書類を出し、「君の作った書類を何度も読んだ。ボールペンで線を引いている内に穴があいてしまった」といって私に見せた。官僚がもっともよろこぶのは、政治家にその官僚の意見が尊重されているときであることを森氏は熟知している。(95)

 森の父・茂喜はロシア イルクーツク郊外のシェレホフ市の墓地に分骨されているらしいです。

 安倍〔晋三〕氏は、その点、正直だった。「戦後レジームからの脱却」とは、アメリカが日本を占領して構築した秩序と正面から抵触する。それにもかかわらず、アメリカとの衝突を避ける布石を安倍氏は打たなかった。
〔略〕
 小泉改革の本質は、新自由主義政策だった。弱肉強食の市場原理主義を導入し、強い者をより強くすることで、日本経済の活性化と国家体制の強化を図ったのである。その結果、確かに強い者はとても強くなった。しかし、それが国家体制の強化につながったかという設問に対して、答えは分かれる。
 筆者は、かえって日本の国家体制は弱体化したと考える。それは、格差がかつてなく広がり、富裕層と社会的弱者の間で「同じ日本人である」という同報意識が持ちにくくなったからである。
〔略〕問題は、一食百円以下に切りつめなければならない社会層をなくすように国家としての再分配政策を考えることだ。日本の保守主義は一味同心(力を合わせ、心を一つにすること)を基本的価値観とするので、再分配政策すなわち扶助は「美しい国」の伝統にも合致しているのだ。
 安倍氏が格差是正に本気で取り組もうとしたことを筆者は評価している。そのためには、新自由主義政策に歯止めをかける必要があったのだが、それをしなかったため、結局、安倍政権は新自由主義と保守主義の股裂きになって自壊してしまったのだと筆者は見ている。国家運営には思想が必要であるが、日本の政治エリートがその重要性に気づいていない。今後も思想的交通整理をよくしないで、相異なる政策を包含すると、政権が内部崩壊することになる。
(143-5)

 国家を前提に・単位に政治が行なわれる以上、佐藤の言うところの「保守主義」と社会民主主義は背中合わせにあるように思います。背中の部分は共有されているということです。具体的には、国民の生活を守る(← 抽象的な言い方)という点で両者は一致し、市場とアメリカにすべてを委ねてはいけないという指針も共有できるでしょう。その意味で、日本に「保守主義」はほとんどないのかもしれません。鳩山由起夫政権のときに沖縄米軍基地の「最低でも県外」というのがありましたが、あのときなぜ民主と社民と共産と自民内部の“反米保守”は連携できなかったのか、と思います。伝統的左右区分はもはや意味はなさない。一致する主張がある。そのように主張する根拠は異なる、がしかし主張自体は一致する。根拠はとりあえず切り捨ててその主張1点での集合。政治ならそのくらいのことをしてもよいのではないか、と思ったりもするのですが、それは「思想的交通整理」の観点からすると“事故”ということになるのでしょうか。理論は純度が高いほうがよい、と思うところがわたしにはあるような気がしますが、しかし/だから、政治は純度が高くなくてもよい、と思っているところがあります。政治とは妥協だ、には積極的な意味があるのではないでしょうか。

 なぜ、筆者と鈴木宗男氏は福田〔康夫〕政権の成立にこれほど忌避反応を示したのか。それは二〇〇二年の鈴木宗男バッシングにおいて福田氏が重要な役割を果たしたと二人は認識しているからだ。(148)

 蓑田胸喜の反共思想は、独特な論理構成をもっている。共産主義を直接攻撃の対象にするのではなく、共産主義のような反日・反国体思想を野放しにしている自由主義に現下日本の病因があるので、まず自由主義の拠点になっている東京大学や京都大学の自由主義的教授陣を壊滅させてしまおうとするのである。(164)

〔略〕「天皇制」という言葉はコミンテルン[共産主義インターナショナル]が一九三二年の「日本に関するテーゼ」で用いた言葉で、日本の国体の内在論理を示すのには不適切である。(222)

 ーー修験道は、神道、仏教のみならず道教や日本の土着信仰が合わさったもので、多元性を基本とする。吉野は古来より政争に敗れ、逃れてきた人々を匿い、再出発させる場だ。われわれ山伏は偏見にとらわれず、人々を人物本位、言説をその内的ロジックのみで捉える。他者を排斥しようとするような思想や政治とは、武器をとってでも戦い、多元性と寛容の世界を維持する。なぜなら、それがなくなると日本は日本でなくなるからだ。(297)

 神学の世界で、自らの知の枠組みと異なる言説を評価する場合、「私は一言もわからないが、この論文はすばらしい」というのは、よくある表現形態だ。(311)

 有識者の間では異論があるかもしれないが、私の理解では哲学と思想は異なる。哲学とは“知”を愛好する学問であるのに対し、思想は人間が生き死にをかけた営みなのだ。
〔略〕イスラム原理主義、マルクス主義、(北朝鮮の)主体思想、そして私が信じるキリスト教思想も、基本的には「人殺し」を正当化する論理を含んでいる。だから思想を扱うことと殺人は隣り合わせにある。このことを自覚していない思想家は無責任だと思う。
〔略〕
 死を内包する戦争を意識するところから思想は生まれるのだ。裏返して言うならば、戦争を意識しないような思想は、偽物とはいえないとしても「思想の脱け殻」にすぎないのだと私は考えている。
(319-20)

 以上の文章は、「思想」を「宗教」と言い換えてもその意が混濁することはないと思いました。「基本的には「人殺し」を正当化する論理を含んでいる」、これは共通するでしょう。「思想」と「宗教」の違いは何でしょうか。論理的かどうか、は違うような気がします。その体系に超越的なものを置くかどうか、も違うような気がします。信仰の対象かどうか、これも違う。信仰する人の数? よくわかりません。個人的にはいずれも、そこにあるものです。

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by no828 | 2013-11-17 18:17 | 人+本=体 | Comments(0)
2011年 01月 15日

マルクス経済学を学んでもマルクス主義者になる必要はまったくない——佐藤優『私のマルクス』

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6(328)佐藤優『私のマルクス』文藝春秋(文春文庫)、2010年。

版元




 佐藤優の本はおもしろくて、かつ、とても勉強になる。彼の本は、小説ではなく、(たぶん全部)自伝である。だから、その人、その人生に学ぶところが多いと言った方がよいかもしれない。

 今回の本では、タイトル『私のマルクス』に端的に表現されているように、佐藤における/にとってのマルクスの意味が説明されている。具体的には、著者の1975年の高校入学から、それから10年後の大学院修士課程の修了までの、マルクスとの出会いについて描かれている。出会いということで言えば、著者はマルクスとばかり出会ったわけではない。活字を通して本当に多くの、すでにこの世にいない神学者・思想家と出会った。また、生身の人間との出会いにもとても恵まれていたと言ってもよいであろう。さまざまな「先生」との出会いが、著者を形成したという側面は決して小さくない。

 ちなみに、『私のマルクス』は、ほぼ並行して読んだ植村邦彦『市民社会とは何か——基本概念の系譜』(平凡社、2010年)の、いわば参考書にも期せずしてなった。常に3、4冊同時並行で読んでいるため(と言っても同一テーマの下に意図的に集合させているわけではまったくない)、今回のように互いにつながったりすることがある。

 なお、佐藤の文体にはひとつの特徴のあることに気付いた。それは、「A(な)のでB」という接続の仕方を多用することである。「……可能なので……」「……問題なので……」「……するので……」など、「(な)ので」がとても多い。わたしであれば、「Aである。だからBなのである」とか、「Aである。そのためBである」とか、文章を分けて表現するであろうところを「(な)ので」でもってつなげているので、とても気になったのである。


 マルクス経済学を学んでもマルクス主義者になる必要はまったくない。資本主義システムの内在的論理と限界を知ることが重要なのだ。人間は、限界がどこにあるかわからない事物に取り組むときに恐れや不安を感じる。時代を見る眼から恐れと不安を除去するために二十一世紀初頭のこの時点で『資本論』を中心にマルクスの言説と本格的に取り組む意味があるのだ。
□(15)

 御意。

 あまり関係ないが、卒業論文は限界自体の存在を知らずに書くもの(だから書けてしまう)、修士論文は限界自体の存在には何となく気付きつつもその限界が一体何であるのかはわからずに取り組むもの(だから苦しむ)、博士論文は限界の存在もその内実もわかった上で取り組むもの(だから……?)、だと思う。


私が「なぜ学習塾の先生をやめたのですか」と尋ねると、「本業の仕事が忙しくなったことと、あとカネをとって知識を伝授することはやってはいけないと思うようになったからだ」と答えた。
□(39)


 教師はしばらく沈黙してから言った。
「革命をしたいと思っていたが、僕は逃げた。佐藤君、人間は誰にも逃げなくてはならないようなときがある。そのとき重要なのは『俺は逃げた』ということを正確に記憶しておくことだ。逃げたのに闘っていると誤摩化すのがいちばんいけない

□(41)


「先生がいうインテリとはどういう意味ですか。大学教師クラスの知識をもつことですか」
「そうじゃない。インテリとは自分が現在どういう状況にいるかを客観的に知ることだ。そのためにはマルクス経済学を勉強するのが早道だけど、それ以外の道もある」
「どういう道ですか」
「たとえば哲学だ。〔略〕カントをきちんと学ぶことだ」

□(101)

 これに関連して、以下。


 宇野 ぼくはこういう持論を持っているのです。少々我田引水になるが、社会科学としての経済学はインテリになる科学的方法、小説は直接われわれの心情を通してインテリにするものだというのです。自分はいまこういう所にいるんだということを知ること、それがインテリになるということだというわけです。経済学はわれわれの社会的位置を明らかにしてくれるといってよいでしょう。小説は自分の心理的な状態を明らかにしてくれるといってよいのではないでしょうか。読んでいて同感するということは、自分を見ることになるのではないでしょうか。
 河盛 これはなかなかいいお話ですね。つまり小説によって人間の条件がわかるわけですね。
 宇野 ええ、そうです。われわれの生活がどういう所でどういうふうになされているかということが感ぜられるような気がするのです。小説を読まないでいると、なにかそういう感じと離れてしまう。日常生活に没頭していられる人であれば、何とも感じないでいられるかもしれないが、われわれはそうはゆかない。自分の居場所が気になるわけです。

□(102-3)

 原著は、宇野弘蔵『資本論に学ぶ』(東京大学出版会、1975年、pp. 209-10)に収められている、フランス文学者の河盛好蔵(かわもり よしぞう)との対談「小説を必要とする人間」です。佐藤の本にも引用元はきちんと挙示されていますが、念のために図書館で借りて確認しました。古書を買おうかと思いましたが、高いので止めにしました。  


現在の私は国家主義者を自認しているが、少しだけアナーキズムの影もある。国家は重要であるが、国家が社会全体を包摂することは不可能である。国家に包摂することが原理的に不可能な家族、教会、趣味のサークルなど、部分社会はいくつもあるのだ。この部分社会については人間の自治に完全に委ねられるアナーキーな場があると考えるからだ。
□(107)


重要なのはほんとうに好きなことが何かです。ほんとうに好きなことをやっていて、食べていくことができない人は、私が知る限り、一人もいません。ただし、ここで重要なのはほんとうに好きなことでなくてはいけません。中途半端に好きなことでは食べていくことができません
「先生にとってほんとうに好きなことが学校の先生なのですか」
 堀江先生は少し考えてから、「そうです。私は高校生に哲学や倫理を教えることがほんとうに好きなのです。就職について思い煩う必要はありません。かならず道が拓けます」と答えた。

□(119)


 同志社には耳慣れない独自用語がある。たとえばキリスト教主義学校というのもその一つだ。同志社はミッションスクールという言葉を嫌う。ミッション(宣教団)スクールというのは欧米が日本を植民地とするための道具としてキリスト教を看板にした学校をつくったのであるというのが神学部の自己理解だ。
□(121)


 ちなみにドイツでは総合大学と称するためには、神学部を擁している必要がある。
□(133)


真理を保持するのが目に見えるカトリック教会か、神秘的な正教会か、またプロテンスタンティズム多数派が考えるような見えない教会であるかについて、キリスト教世界で議論があるように、マルクス主義の世界ではかつてコミンテルン(共産主義インターナショナル=第三インターナショナル)の公認を受けた共産党か、それともそれぞれに正統派マルクス主義を継承する共産主義運動体(セクト)のうちどの組織が革命(救済)の主体であるかについて種々の議論がある。しかし、救済が既に担保されているという論理構成は類比的だ。
□(144)


あるとき野本真也神学部教授が私たちに「神学には秩序が壊れている部分が絶対に必要なんです。だから神学部にアザーワールドのような、既成の秩序に収まらない場所と、そういう場所で思索する人たちが必要なんです」といっていたが、これはレトリックではなく、神学部の教授たちは、あえて通常の規格には収まらない神学生たちの活動場所を保全していたのである。
□(202)

 大事だと思います。一度、大学院の中にもこういう場所を作ろうと働きかけたことがありますが、却下されました。わたしの所属する組織はきわめて保守的です。もちろん、何かを守ることは必要です。必要なのですが、しかしわたしの所属する組織が守っているのは伝統とか体裁とか、そういうものです。


 廣松〔渉〕氏は、マルクス、エンゲルスの主著である『ドイツ・イデオロギー』(一八四五〜四六年に執筆)の流布版定本となっている〔、〕モスクワで編纂され一九三二年に公刊されたテキストに対して誰も疑念をもっていなかった一九六五年に〔、〕東京大学の大学院生でありながら季刊『唯物論研究』第二十一号に「現行版『ドイツ・イデオロギー』は事実上偽書に等しい。この事実はマルクス・エンゲルスの著作のなかで『ドイツ・イデオロギー』が占めている特異な地位と比重とを考えるとき、由々しい問題だと云わねばなるまい。〔略〕」(廣松渉「『ドイツ・イデオロギー』編輯の問題点」『マルクス主義の成立過程』至誠堂新書、一九七四年、一四八頁)との論考を発表し、マルクス研究者の間で注目された。
□(221-2)

 !

 これは原著にあたらずに孫引きしています。というのも、わたしにとって衝撃であったのは、引用文の内容ではなく、学界で注目されるような論文を大学院生のときに書いた、という、そのことだからです。


「〔略〕現実に存在する社会主義においてはほんとうの意味での宗教批判がなされていない。だから、レーニン、スターリンの個人崇拝や共産党に宗教的に帰依するという現象が起きるんだ。ロシア共産主義は宗教現象だよ。〔略〕」
□(234)


惚れるときは、大きな思想家に惚れないといけない。小物の思想家に惚れると、結局、時間を無駄にする
「どういうことですか」
「僕は失敗したと思うんだ。惚れた思想家が小さすぎた。佐藤君には僕がしたような失敗を繰り返してほしくないんだ」

□(251)


結局、一人ひとりが、自らの足場を掘り下げていくしかないと思うんだ。学問にしても、人生にしても。究極的なところでは群れたらだめだ
「それはちょっと淋しい気がしますね」
「淋しいけれど、そうなんだと思う。しかし、問題はその先だ。一人ひとりが足場を掘り下げた地下には、この鴨川のような地下水脈が流れているのだろうか
「どういうことですか。先生がおっしゃることの意味がよくわかりません」
「実は僕もよく意味がわかっていない。人生なり、研究なりを真剣に掘り下げて、その先に他の人々ともつながる地下水脈はあるのだろうか。もし、ないならば、僕は一生かけて水の出ない井戸をただ掘っているだけになるんじゃないか

□(266-7)

 わたしは、あるのではないかと思っています。何となく、ですが。


パワーポイントを使った説明は、その場では理解したような感じになるんです。それで酒を飲んで寝て、翌日起きたら、おそらく五パーセントも定着していません。アメリカ人はその場でわかればいいという発想の人たちです。これに対して、今日、ここにいらしているクラウス・シュペネマン先生をはじめとするドイツの人たちは、その場で理解したつもりになるのではなく、ほんとうに理解し、しかもきちんと記憶に定着させないと許してくれません。そのためには、話を聞くのに集中する環境を作ることが必要です。話以外の資料はない方がいいのです。
□(358-9)

 御意。だからわたしはパワーポイントは使いません。逆に言えば、聴衆に話の内容を定着させたくない場合は、パワーポイントを使えばよいということです。でも、それなら発表自体しなくてもよいのでは、と思います。そうすると、学会大会での研究発表がほとんどなくなってしまいますね、あはは。


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by no828 | 2011-01-15 19:40 | 人+本=体 | Comments(2)
2009年 10月 20日

ひとたび西側から三十一種類のアイスクリームが入ってくると——佐藤優『自壊する帝国』

c0131823_18205686.jpg食後。

* 食べたのはアイスクリームではありません。

57 (190) 佐藤優『自壊する帝国』新潮文庫、新潮社、2008年。

版元 → 

 全603頁の大著。某ブックオフにして105円。新しくてきれいなのに105円。すばらしい(といまのわたしには思われてしまう)。

 ちなみに、多くの方はその名前をご存知であろうこの著者は元外務省専門職員。この本は主に著者がモスクワに駐在していたときのお話。

 で、舞台はソ連崩壊前夜。

—————

「ソ連は帝国であった。通常、帝国は宗主国と植民地をもつ。イギリス本国とインド、フランス本国とアルジェリアというように本国と植民地は、地理的な概念で、一目瞭然に区別することができた。ソ連は帝国だったが、目に見える宗主国はなかった。
 ロシアが宗主国で、ラトビア、リトアニア、ウクライナ、ウズベキスタンなどのロシア以外のソ連邦構成共和国が植民地であったとの見方は間違っていると私は思う。ロシア人の血が入っておらず、ひどい訛りのロシア語を話したスターリンがソ連の最高権力者であったという事実からして、ロシア人が少数民族を抑圧していたという単純な図式では説明できないソ連という国家体制の、複雑さを如実に示していた。
 ソ連帝国の中心は、ロシア人を含む全ての民族を抑圧したのである。そして、その中心がソ連共産党中央委員会だった。中央委員会は絶大な権限をもつが、絶対に責任を負わない」
(19頁)。

 と、ここから共産党の無責任体制に話が転じる。わたしは帝国の話に興味があるのに。

 中国を見ていて思うのだが、中国は国家(国民国家)なのか。わたしのイメージだと、共産党という政党の中に中国という「国家」が内包されているように見える。近代国民国家で政党政治を行なったところは一般に、国家の中に政党が(複数)ある。しかし、共産党一党独裁の場合は国家よりも政党のほうが大きいし、強い。だから党の中に国家があるという、変なイメージを抱いてしまう。
 そういう意味で「元祖」のソ連が帝国であったというと、「むむむ」と興味がそそられる。わたしがこれまで勉強したことに鑑みれば、「帝国」は「国」という言葉が入っているものの、国家という体制が採用されている必要は必ずしもない。そういうところから、いわば近代国民国家から逸脱し(てい)たソ連なり中国なりを見ると、ソ連は一体何であったのか、中国は何であるのか、ということになるのである。もちろんそれは、国際関係上の相互承認をもって「国家」とするという経験的な規準ではなしに、もうちょっと理論的に考えてみるとどうなるか、ということなのだが。

—————

「モスクワ大学で、現象学や構造主義などの現代哲学の研究が進んでいることにも驚かされた。哲学部にブルジョワ哲学批判学科〔すごい名前だな〕があるが、ここは最難関で、英語、ドイツ語、フランス語に堪能な教授陣と学生が集まってくる。しかし、発表される論文の結論を見るとレーニンの引用が続き、紋切り型の評価で終わっていて知的刺激を全くうけない。これにも実はからくりがあった。
 序文では、ペレストロイカになってもイデオロギー闘争は重要だということを書き、現在、欧米で以下のような看過できない思想潮流があると書く。そして、その後、欧米の言説をできるだけていねいに紹介する。最後に共産党の決定やレーニン全集の引用をちりばめて、いかにこのようなブルジョワイデオロギーがけしからんものであるかをできるだけ説得力がない形で書く。
 このようにして、ソ連では知られていない欧米の思想を結果として流通させるのがよい書き手なのだ。読者もこのような本をどう読んだらいいか心得ているので、禁じられた思想がこのようにしてソ連社会に流通していったのである」
(77-78頁。〔〕内は引用者、以下同様)。

 これは「読み方」を知らないといけない。「説得力がない」終わり方であれば、普通は、「何だ、結論が弱いな」となるが、しかし書き手の意図はそこにはない。
 何か、おそろしいな。

—————

「ソ連社会の暗部やスターリン時代の人権弾圧、粛清などについての歴史記録が続々と紹介された。ゴルバチョフは、『グラースノスチ(公開制)』政策で『言論の自由』をある程度認めることによって、国民のソ連社会への統合が高まることを目論んでいた。確かにジャーナリストや学者はゴルバチョフ政権に対する忠誠度を高めた。自己の仕事に対する注目が増すのでこれは当然のことだろう。
 しかし、一般国民は情報公開によって、『われわれはこんなひどい社会に生きているのか』と逆にソ連社会への根源的幻滅感を深めていくことになる。もちろん、その過程で西側の情報専門家たちがゴルバチョフ改革を歓迎し、ソ連国家が内側から弱っていくことを画策していたことも間違いない」
(144頁)。

 Aで行なわれていることαがBに歓迎される。
→ Aはαが間違いであったと気付いても、それを修正するとBから批判される。だからαを続けざるをえない。

—————

「サーシャ〔モスクワ大学の学生〕は部屋に籠もり、ものすごい勢いで本を読み始めた。とにかく読むのが早い。一日に学術書を七百頁から千頁くらい読む。ノートはとらない。気晴らしだと言って、その合間に小説を読んでいるが、それが同じくらいの頁数になる。そして、その研究をまとめて月に二、三本論文を書いて、リガ〔ラトビアの首都〕の学術思想誌『ロドニク』や人民戦線系の雑誌に掲載するという生活をしていた。当時、リガのロシア系知識人の発行する雑誌、特に『ロドニク』の知的水準は群を抜いており、モスクワの闇市場で定価の十倍くらいで取り引きされていた」(262頁)。

 一日に学術書千頁、月に論文二、三本……あ、ありえん。でも、自分への刺激にはなる。がんばります。

—————

「ソ連時代、義務教育で教えられる外国語は、英語、ドイツ語、フランス語、スペイン語の四カ国語だった。もっとも、生徒が語学を選択するのではなく、学校ごとに外国語が割り振られている。生徒が何語を学ぶかは偶然によって左右された。
 ソ連の語学教育は読み書きと文法に力を入れたので、義務教育レベルをきちんと習得すれば専門書を読む実力がついた。ソ連にとっては旧敵国の言語で、国連公用語でもないドイツ語が重視されたのは、マルクス主義の正統的継承者であるというソ連国家ドクトリンと関係していた」
(287頁)。

 これに加えて、

「〔筆者〕『社会主義を維持することは不可能だったと考えているのですか』
 〔アレクセイ・イリイン。ロシア共産党第二書記〕『不可能だった。これは西側の陰謀が成功したからではない。ゴルバチョフ時代のグラースノスチ(公開制)でロシア人の欲望の体系が変容してしまったんだ。たとえば「31(サーティ・ワン)アイスクリーム」だ。ロシアのアイスクリームは「エスキモー(チョコレートをコーティングした、棒についたアイスクリーム)」、「スタカンチク(ウエハースのカップに入ったアイスクリーム)」で誰もが満足していた。しかし、ひとたび西側から三十一種類のアイスクリームが入ってくると、子供のみならず大人もみんなそれを欲しがる。車にしてもラジカセにしても欲望が無限に拡大していく。この欲望を抑えることができるのは思想、倫理だけだ。社会主義思想は欲望に打ち勝つ力をずっと昔に無くしていた』
 『いつから社会主義思想は欲望に打ち勝つ力を無くしてしまったんですか』
 『ずっと以前にだよ。フルシチョフ時代に一時期西側に開かれていた窓をブレジネフが閉ざしたのは、このまま窓を開けておくと、西側の大量消費という欲望の文化が入ってくることに気付いたからなんだよ。ブレジネフは頭がよかった。ソ連人を支配するのは唯物論(マテリアリズム)ではなく物欲(ベシズム)だということを理解していた』」
(501-502頁)。

 人間の/と欲望については考えなければならないと思っている。厳密には、欲望を引き起こす「新たな選択肢」についてである。選択肢がある、増える、与える、後二者はつまり教育ということだが、それが持つ、引き起こす規範的な問題、と同時に、選択肢がないということをめぐる規範的な問題を考えてみたいのだ。
 先に、ソ連時代は学校によって学ぶ外国語は決まっており、だから保護者や子ども本人の「欲望」とは無関係に、どの学校に行くか、その前にそもそもどこに生まれたのかという「偶然」に左右されていることを引いた(いつの時代でも、お金のある家庭は「ブライト・フライト」(苅谷剛彦)すると思うけれど)。それは、少なくともその時点においての選択肢の不在である。これはある意味で前近代的な考え方でもある。
 この「偶然」あるいは「選択肢の不在」をどう見るか。
 教育学では、とりわけ義務教育段階の学校選択制やそれを支えるヴァウチャー制に反対する研究者が多いように見受けられる。その論拠を突き詰め、さらに抽象度を上げたときに見えてくるのは、この「偶然」に対する敬意あるいは信頼なのではないかとわたしは考えている(もちろん「平等」に価値を置く人も多いと思うし、「偶然」と「平等」は重なるところもある)。母語・母文化の尊重なども、結局はそこに行き着くのではないか。ただ、「偶然」への敬意や信頼は諸刃だとも思う。「偶然」は「仕方がない」に容易に結び付くからだ。
 偶然、よりも、偶有性のほうが学術用語としては流通しているのかもしれないが(いずれも contingency)、そのことを教育学で、わたしの場合は教育哲学で引き取って考えること、それが求められている気がしてならない。そして、この考察にはかなり多くの言葉と論理と時間が求められる気がしてならない。でも、考えるべきことであるとは思っているのだ。

—————

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by no828 | 2009-10-20 15:40 | 人+本=体 | Comments(0)