思索の森と空の群青

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2017年 08月 03日

祈りは、自分以外の誰かのためでなくてはならない——加賀乙彦『海霧』

 加賀乙彦『海霧』新潮社(新潮文庫)、1992年。68(1066)

 版元サイトなし|単行本は1990年に潮出版社

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 心理療法士の牧子が北海道に渡り、開放的な精神病院に勤め、堂福院長の考え方に触れ、漁師の青年・洋々に恋をするものの……という物語。

 個人、共同体、社会。島国根性=全体主義?

18) 「百人も二百人もの患者を一箇所に集める病院というのは、患者の集団管理を容易にするために発想された施設だが、精神障害者のように各自が微妙な悩みをもつ患者に対しては、適当とは思えないんです。だから、ぼくは普通の人々が生活するのに近い環境を用意した。一軒に、多くて二十人、できれば数人が家族のように暮すのが理想でね」

23)死こそは私自身に属する慰めだと思った。

38-9) 堂福院長の考え方を私も段々理解してきたが、その中心となるのは、精神病者を社会に連れ戻そうという思想だった。〔略〕精神病者は社会を乱す危険な存在だから、精神病院に隔離収容せねばならぬというのが、どこの近代国家も考えたことだった。〔略〕病院の規模が大きくなれば、どうしても患者の治療は大ざっぱとなり、画一的となる。そして、そもそも大病院設立の目的が隔離・島流しにあったのだから、患者の入院期間は増大する傾向が生じる。〔略〕
 そうではなく、精神病者は治療し、軽快した患者はすみやかに社会に復帰させるべきだというのが、近来のまっとうな考え方である。大病院のかわりに小病院を、集中病棟のかわりに分散病棟を、監禁のかわりに開放を、隔離のかわりに社会復帰をというのが堂福院長の考えなので、堂福病院はその方針にしたがって建てられたのだ。
 しかし、精神病者を社会に連れ戻そうとする彼のやり方は、地元の人々とさまざまな衝突を引きおこした。

50)イトウという、このあたりの湿原に住む怪魚だ。ひどく敏感で獰猛で素早く、釣人の足音を遠くから聞き分けて逃げてしまうので、釣るのは至難のわざだ、しかしそれだけに釣人が追いもとめて釣るので、今では本当に数が少なくなったという。
「わたしね、イトウを見たことがある」
「へえ、どこで」と洋々は驚いた。
「水族館で。池袋にサンシャイン60という高層ビルがあって、水族館がある。珍しい魚が集められていてね、アマゾンのピラニアもいたわ。イトウも数匹いるの」
東京って何でも集めるところだなあ

68-9) 「さっきの松浦さんの症状もそうですけど、精神の病というのは、その人の置かれた状況を極端に示していますね。松浦さんが被害妄想の穴の底に落ちてしまうのも、出海さんがすごく攻撃的な躁状態へと飛びあがるのも、わたしには分るような気がするんです。この町の人は多かれ少なかれ松浦さんや出海さんのような状況に置かれています。すると……そこがわたしの疑問なんですけど、病気を治すより先に、社会を治さねばならないんじゃないかと思えるんです。はっきり言って、病気なんか治す必要はないと……
「おいおい」と堂福院長は手で制した。「そこまで行ってしまうと危険だよ。医療というのは仏典にある毒矢の比喩みたいなものだ」

79) 「面白い小説ってのは、どこか恐い所があるよ。毒があるだべさ。つまらねえ小説ってのは、なあも恐い所がねえで。人間が人間の善意を信ずるなんてえ甘いもんだな。この区別は、純文学だろうが推理小説だろうが変らねえ」

97-8) 長い長い旅のすえ、やっと故郷に帰ってきた鮭たちを待っていたのが、この棍棒による処刑である。長靴にゴムズボン、ゴム手袋の男たちの腕前はたしかで、いとも簡単に鮭は撲殺される。夢中でもがく魚が一瞬のうちに死体と変るさまは、明るい美しい日の光のなかで、何か場違いな殺戮として迫ってきた。〔略〕雌も雄も、このとき生を終えて、愛の成就をことほぎながら死をむかえる。自分の生命と活力と生涯の帰結を、ただ授精の刹那の快楽にささげる。しかし、実際には愛ははばまれ、雌雄の仲は割かれ、人間の手による授精のみがおこなわれる。人間たちはやがて稚魚を川に放ち、稚魚たちは故郷を目指す長い長い旅に出るのだ。それは、ただただ人間によって捕獲され撲殺されるための旅立ちである。

122-3) 「馬というのは子馬の時〔ママ〕から、はっきり性格も能力もきまっていて、将来使いものになるかどうか見分けられるんです。人間も同じでしょうな」
 横山医師が肯定した。
「五歳の子供の心理テストを、十歳、十五歳のそれと比較した研究があるんですが、人間の性格も知的能力も、すでに五歳のとき〔ママ〕に定まっているという結果です。むろん、その折おりの教育や訓練の成果で性格や能力はぶれていくが、持って生れた素質を本質的には変えられんのです〔略〕好き嫌いが定まるのは三歳ぐらいまでだと、フロイトが言っています。ぼくは二、三歳のとき親父におぶさって北アルプスを縦走したんだそうで、山登りの趣味はそのときに植えつけられたらしいんです」

152-3) 「事実というものは、ややこしく、こんがらがっていて、単純に二つの派の“対立”という具合に単純化できない。それを勇猛果敢に単純化したのが、出海さんや松浦さんの精神の病さ。あらゆる精神の病は現実の極端な単純化の上に成り立っている。だから激しく鋭く、おのれを亡ぼし、他人を亡ぼす。精神の病だけじゃない。戦争だって革命だって、またわれわれの喧嘩だってそうだろう。ただ、正常だと自認する人々はそういう極端化を心中では思っても、あからさまに口には出さず、内に認めている。つまり彼らは狡猾なのさ。ところが精神を病む人々は、本音を隠すことができず外に出してしまう。彼らは正直なのさ
 ▶︎ 単純化しないと動けない、単純化しないから動けない

157) 「狂ってる世の中では、狂っている人が正常なのに、あえて狂いを治す——つまり正常者という名の異常者を作り出さねばならない

182)「そうだ、あの町にもキリスト教の教会がある。カトリックでね、外人の牧師がいる」
カトリックなら神父というのよ。町に教会があるなんて知らなかったわ
「おれみたいな地元の人間でも知らなかったんだ。この前、牧子さんが聖書を読むと分っているから、注意して見たら、わが町にもちゃんと教会があった。なんと、町の入り口でね、しょっ中その前を通ってたんだ。無関心てのは、何も見ないってことだ

189)精神の病という、心に巣くった癌のようなものを、温かい人間の感情で解きほぐし、消失させていく作業だ。外科医がメスで切断するのに対し、心理療法士は、辛抱強い話し掛けと付き合いでそれを取り除こうとする。

201)魚をとるなら心をきれいにして魚をとれ。きれいな漁師になれ。だけど、そうするのは疲れることだ。

235-7) 「真面目ってどういう意味です
「あなたは意味を知りたがるね。物事をいい加減にすませないっていう意味だ。悩むときは、とことん悩むし、一度行動をおこせばとことん突き進む〔略〕そのため不必要な周囲と軋轢をおこす〔→ 不必要な軋轢を周囲とおこす〕。大体世の中は、不真面目な人たちで成り立っている。他人には本音を言わない。それが処世の術だ。ところが、洋々青年は、まっしぐらに本音で進む。〔略〕」
でも、あの人は無口です
嘘が言えないから無口なんだ。嘘、お世辞、おべっか、へつらい、おだて、そういう詐術ができないので黙っている。ぺらぺら喋りまくる世馴れた人間てのは、そういう詐術にたけてるだけだ」〔略〕
「さっきの真面目の意味だがね。キリストも真面目な人だったね
「……そう言えますね」
この世から弾き出された余所者だ。しかしこの世を動かすのは、結局は余所者なんだよ
「余所者ですか」私はぎくりとして、院長の淋しげな表情を見た。

278-9)焦ってはいけないと自分に言い聞かせ、自分の祈りを反省してみた。自分のためにのみ祈ったのでは神は応答してこない。祈りは、自分以外の誰かのためでなくてはならない。ところで、洋々のために祈るというのは、幾分かは自分のためでもある。むしろ、彼を手に入れたいために祈っていたのではないか。私は祭壇を見上げた。

@研究室

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by no828 | 2017-08-03 17:55 | 人+本=体 | Comments(0)
2017年 07月 31日

日時が経つにしたがって、自分というものと犯罪とが切り離されて感じられてくるんだよ。判決を下したら、すぐさま刑の執行をすべきなんだよ——加賀乙彦『死刑囚の記録』

 加賀乙彦『死刑囚の記録』中央公論社(中公新書)、1980年。66(1064)


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 著者は、東京拘置所の精神科医務官として勤務し、死刑囚と面接してきた経験があります。本書は、小説『宣告』は事実に即しすぎた、との評価への応答である——と「あとがき」にあります。『フランドルの冬』の内容とも接するところがあります。

44)無期受刑者として無反則で一所懸命つとめれば、十年後には仮釈放の申請ができる、十年先の希望にむかって全力をつくすというのが彼が明るい口調で、きっぱりと述べたことだった。死刑と無期刑との差が、いかにへだたっているかを私は実感した。

50) 死刑囚においては、無罪を主張することが、私よりまぬがれる唯一の方法であり、この点彼らが、日頃の願望として、もし無罪であればと念じていることは確かである。その願望の上に、無罪妄想から完全な虚言まで、さまざまな主張がおこなわれると見られる。
 この場合、ゼロ番囚や死刑確定者が、おしなべて独居房に拘禁されていることに注目したい。他人より隔離され、毎日一人で壁と鉄格子を眺めて暮すうちに、個人の思惟は同じところをぐるぐると回り、一つの方向への思いが肥大してくるのである。一般の囚人でも拘禁反応をおこす者は独居房に多いので、独居房は妄想の培養基といえる。

95-7) 「つまり、判決を受けた瞬間はよ、犯行のことが頭にあるだろう。判決を受ける覚悟もして出ていくんだし、お前の犯罪はこうだと判決理由でながながと言われりゃ、おれはひどいことをしたんだ、申し訳ないという気持になるだよね。ところがさ、日時が経つにしたがって、自分というものと犯罪とが切り離されて感じられてくるんだよ。つまり、犯行は、だんだん遠い昔のことになってしまい、果して自分がやったものなのかどうか、実感をともなってこなくなるだね。そうすると、判決の結果だけ、自分が死刑囚であるという重っ苦しい現実だけがよ、自分にのしかかって来るだろう。自分はあれだけのことをやったんだから、こうなるのが当然なんだと、いくら考えても納得がいかなくなる。犯罪がぼんやりしているうえに、自分は殺されるためにだけに、オマンマ食って生かされてるのが、不思議な感じがしてくるだよ
「なるほど。きみ、率直に聞くけど、死ぬのは恐い」〔略〕
「恐いね。死ぬのは、殺されるのは、本当に恐いよ。おれは人を殺した経験があるから、人が死ぬのは、どんなに痛くて苦しいもんか知っているからね。絞首台にしゃっ首をつるされるとき、痛かないなんて言うけどね、誰も生きかえった者がいねえんだから真相はわかりゃしねえさ。痛いのは、いやだね、恐いね」〔略〕
先生、死刑の判決を下したら、すぐさま刑の執行をすべきなんだよ。それが一番人道的なんだよ。ところが、日本じゃ、死刑確定者を、だらだら生かしといて、ある日、法務大臣の命令で突然処刑するとくるんだろう。法務大臣はどんなにえらいか知らねえが人間じゃないか。たった一人の人間の決定で、ひとりの人間が殺されるのはおかしい。残虐じゃないか。とくによ、殺される者が犯罪のことなんか忘れた頃に、バタンコをやる。まるで理由のない殺人じゃねえか」 ※傍点省略

149)問題は、このような嘘を、嘘をついた本人がいつのまにか本当のことと信じてしまうことである。嘘か真かの区別が、本人にも曖昧になってしまうような現象を精神医学では空想虚言(Pseudologia phantastica)とか空話症(mythomania)とよぶ。空想虚言者または空話症者は、人をだます詐欺師であるとともに、自分もだまされる空想家であって、彼の行為には金銭を欺しとる詐欺犯罪と他愛のないいたずらとが混合している。

217) 無期囚たちがおちいっていたのは、長いあいだ刑務所にいた人に、おしなべてみられる“刑務所ぼけ”(prisonization)といわれる状態であった。刑務所ぼけは、感情の麻痺と退行の二つにわけて考察しうる。囚人たちは、厳格で単調な刑務所での生活になれきり、人間としての自由な精神の動きを失ってしまう。この外部と隔絶した施設内では、いつも同じ人間、同じ場所、同じ規則の反復にかこまれているから、囚人たちの感情の起伏はせまく、何ごとに対しても無感動になる。ふつうの人間であったら耐えられぬような単調な生活に彼らが飽きないのは、実はこの感情麻痺があるからだといえる。

221) 未来につらなる刑務所の生活は、来る日も来る日も寸分たがわぬ、単調なくりかえしにすぎない。そこでは一切の自由は失われた灰色の時間が、ゆっくりと流れるだけである。人間らしい自由を望んだり、自発性をもって行動すること、まして創造的な生活をおくることは許されない。もっとも楽なのは、刑務所のうすめられた時間を受けいれ、それに飽きないように自分自身を変えていくことである。彼らがおちいっている刑務所ぼけの状態こそ、うすめられた時間への適応を示すものである。 ▶︎ 適応的(順応的)選好形成

223-4)二種類の時間恐怖ノイローゼ〔略〕ひとつは時間の喪失をおそれる恐怖症患者である。日々の仕事があまりにも多すぎ、過去も未来も現在に迫りかかっているように感じられ、閉ざされた時間に追いまわされている人である。これは、せまい空間に閉じこめられるのをおそれている閉所恐怖に似ていて、“時間の閉所恐怖”である。この反対に、無意味に続く時間や、暇な時をおそれ、いつも時間がすきすきでいるように感じられ、何とかそこから逃げだしたいと思っている人がいる。怠惰に日々を送りながら、ちょっとした気晴しで、急に生きいきとしたり、退屈のあまり何かに熱中しようとしたりする。これは“時間の広場恐怖”とも言うべき状態である。死刑囚と無期囚の時間が、これら二種類の時間恐怖に似ていることは明らかである。

229) 死刑囚を描いた小説『宣告』(新潮社刊、一九七九年)を書きおえてから、あのような仮構の形ではなくて、現在の日本で、死刑囚がどのような生活をおくっているかという事実を報告しておく義務をおぼえた。私が見たありのままの死刑囚たちをドキュメントとして報告し、人びとに知ってもらうことは、死刑の問題を考える資料としても役立つだろうと思った。さらに『宣告』に対して事実に密着しすぎ、実在の人物をなぞったという評価が一部にあったことへの反論として、あえて私の経験した事実とはこのようなものであったと示したくも思った。 ※「7版あとがき」

230-1)私自身の結論だけは、はっきり書いておきたい。それは死刑が残虐な刑罰であり、このような刑罰は廃止すべきだということである。〔略〕
 死刑が残虐な刑罰ではないという従来の意見は、絞首の瞬間に受刑者がうける肉体的精神的苦痛が大きくはないという事実を論拠にしている。〔略〕
 しかし、私が本書でのべたように死刑の苦痛の最たるものは、刑執行前に独房のなかで感じるものなのである。死刑囚の過半数が、動物の状態に自分を退行させる拘禁ノイローゼにかかっている。彼らは拘禁ノイローゼになってやっと耐えるほどのひどい恐怖と精神の苦痛を強いられている。これが、残虐な刑罰でなくて何であろう。

232) 死刑存置論者のもう一つの大きな主張は、死刑のもつ威嚇力を重くみることになる。死刑の廃止は、殺人犯への威嚇力をなくして、殺人が野放図におきるようになるだろうという。しかし、この論旨は、どれだけ実際の殺人犯の調査にもとづいておこなわれているのだろうか。私は百四十五名の殺人犯について、犯行前あるいは犯行中に、自分の殺人が死刑となると考えたかどうかを質問してみた。犯行前に死刑を念頭に浮べた者はただの一人もいなかった。犯行中に四名が、死刑のことを思った。殺人行為による興奮がさめたあとでは二十九名が、自分の犯罪が死刑になると思った。つまり、死刑には威嚇力がほとんどなく、逃走を助長しただけだったのである。殺人の防止には、刑罰を重くするだけでは駄目なことは、私が多くの殺人犯に会ってみた結果、知りえた事実である。

@研究室

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by no828 | 2017-07-31 17:42 | 人+本=体 | Comments(0)
2017年 06月 14日

自然も人も、未知なるが故に、我愛す——加賀乙彦『フランドルの冬』

 加賀乙彦『フランドルの冬』新潮社(新潮文庫)、1972年。58(1056)

 版元サイトなし|単行本は1967年に筑摩書房

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 日本人精神科医コバヤシがフランスに留学するところからはじまる物語。愛と(自)死について。

38)この男は外国人なんだ。内勤医が嫌になればさっさと帰国すればいい。いつでも逃亡可能な特権的状態にいる。だから諸事、落着きはらって傍観していられる。

78)「死というものは」クルトンはおしころした低い声で言った。「陽気なものです」
「そんな……」ギョーム女史は相手の真意を測りかねて睨んだ。クルトンは相変わらず無表情であった。で、女史は生徒に説諭をする時のような具合に言足した。「あなた。死は悲しいことにきまっています。ことにエスナール神父のような方が亡くなられた場合はなおさらのことです」
なぜ、ひとが死ぬと悲しいのですか
「なぜって、それが当たり前のことだからです」相手の生真面目な調子にひきこまれて女史も静かに答えたが、そう言った語尾は何だか自信がなさそうであった。
「あなたのお気にさわったのならぼくあやまります。でも神父の死をきいて、あなたが泣きたいと思われたと同じように、ぼくは陽気にピアノを弾きたくなったのです。それだけです」
「でも、もし、あなたが死んでも誰も悲しまなかったら」
「結構です。残された者が幸福な喜びにひたれるような、そんな死に方をぼくは理想としていますから」

94)「いや、わたくしにはあなたの私生活には干渉する権利はない。一般的な問題として一つだけ御忠告したい。一人の人間を愛しすぎてはいけません。愛することのみが生き甲斐なのはいけません。なぜって人間はどうせ死ぬんですからね。愛していた人間が死んだらどうしますな
「ミッシェルは死にゃしません」
「彼の事じゃないのです。一般的な問題です」
「わかりませんわ。そんな話。人間を愛しちゃいけないだなんて……」
一人の人間をですよ。たとえば全人類を愛するのならかまいません
「そんな抽象的な愛は贋の愛です。信じられません」
ところがその贋の愛こそ貴いのですな。科学への愛、書物への愛、みんな贋の愛ですが、これを持てるのはごく少数の人々です」 ※傍点省略

126)「ぼくの考えでは」コバヤシはゆっくりと適切な言葉を探すため口ごもった。「クルトンは、自分の思想に忠実だ。彼が異常にみえるのはそのためだ。なぜって、自分の思想を持ってる人は少いし、たとえ思想をもっていても、自分の思想に忠実な人はもっと少いからだ

262)「ぼくが子供を持たないのはね(黒い目が光り厳粛な表情)、ぼくが子供を持つだけの資格、子供に対して全責任をとれるだけの立派な大人としての資格がないからだ
世の大人どもは無責任に子供をつくっているというわけか
そのとおり。ただ情慾のため、習慣のため、世間並になるためにね。フランスではもう一つ、政府から補助金を貰うために子供をつくる下劣なやからがうようよいる」

292)《精神病者というものは、正常人のひそかにいだく観念を異常に拡大するものだ

298)「どうやってあの患者を鎮めましたの
ただ待っていただけだ
「なにを?」
「あの患者が鎮まるのをさ」
「不思議ですわ」
「なにが?」
「あなたっていうお医者さんがです」

405-6) 「一つだけ、おききしたい。あなたは彼女を理解していますか
「そこなのです」コバヤシは、急所を突かれたようにぎくっと肩をひいた。「ぼくは嫌っています、彼女の既知の部分を。ぼくは愛しています、彼女の未知の部分を
「それは妙ですね」
「そう、妙です。でも本当です」〔略〕
こう考えたらどうでしょう」ドラボルド神父は照れくさそうに重々しく口をはさんだ。「人間の未知の部分は無限です。つまり、あなたは彼女を無限に愛することができると
「え」コバヤシは、何かよい言葉を聞いたと思い、神父の童顔にうかんだ柔和な微笑を横目で見、車の速度をおとした。「もう一度言ってください、今の言葉」
「ええ」神父はゆっくりと繰返した。「ただし、これはぼくの思想じゃありません。パリ宣教会の或る神父様に教わったのです」
「いい思想ですね」
「ええと、その神父様の言葉は本当はこういうのでした。《自然も人も、未知なるが故に、我愛す》と」
「ああそれは、すばらしい言葉です」

445) 「いいかね、われわれがこの世に生まれてきたこと、存在することが茶番ならば、死ぬこと、存在しなくなることも茶番じゃないか。なにも死だけを厳粛な現象として区別する根拠なんかありはしない
「君の言ってるのは自然死のことだろう。自殺はちがうさ。自殺は行為だ」
「行為? なるほど、いい言葉だ。しかし、自殺は莫迦げた行為だよ」

467) もっともミッシェル。あなたには女のこの退屈さが分っていたとはいえない。あなたがた男は(そうコバヤシも、ドロマールも聞いてちょうだい!)何かの思想に賭けたがる。つまり、独創によってこの世の永久の退屈な繰返しに終止符をうとうという野望をいだく。ところが、その思想というもの……わたしに言わせればこれほど退屈で無意味なものはありはしない。それが証拠に哲学者の数だけ意見があるじゃないの。〔略〕これから何千年、何万年と人類は生きて繁殖していくだろうが、人類の歴史が長くなれば長くなるだけ、哲学者も文学者も科学者も数が増えるだけ、そうして意見の数も増えるだけ。それは退屈だわ。子供を生むより、もっともっと退屈だわ。

526) 「できることはどこかへ逃げていくことです。現にコバヤシは去ろうとしている。利巧なつまり卑怯なやりかたです。彼は逃げていく国があるかのように錯覚している。しかし、この世界に逃げていく国が存在するわけがない。この世は巨大な牢獄で、わたくしたちすべては無期徒刑囚なのですから。よく譬えられるように人間を死刑囚とみるのは不正確な比喩です。〔略〕誰だって狭いところにとじこめられれば狭所恐怖〔クロウストロフォビィ——原文ルビ〕をおこすでしょう。時間のクロウストロフォビィの場合も同じことです。しかし、無期囚は……〔略〕あなたがたすべては無期囚なのにその不安の本態を自覚する人はごくわずかです。それは無限に続くかにみえる水平線にかこまれた大洋のただなかに投げこまれた人の不安です。死という予測不能な終末までの時間を牢獄の陰鬱な壁の中に拘禁される。残された自由といったら自分の寿命を短くすることだけである。それは時間の広場恐怖〔アゴラフォビィ——原文ルビ〕です。それこそあなたがたの正体なのです。この人間に残された唯一の自由を行使する。それが自殺です

@研究室

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by no828 | 2017-06-14 18:19 | 人+本=体 | Comments(0)
2017年 04月 15日

外見のほうが簡単かつ正確に把握できるため、内面への関心や内面を見ようとする努力が失われつつある——加賀乙彦『不幸な国の幸福論』

 加賀乙彦『不幸な国の幸福論』集英社(集英社新書)、2009年。37(1034)


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 著者は精神科医。そして、『宣告』の著者でもあります。また、これを読んで知ったことですが、最後の引用にもあるように、著者は尊厳死協会の会員でもあります。

 自分で自分を冷静に把握するためには、他者の存在が不可欠。しかし、他者のまなざしを強烈に内面化してしまうと、自分の、ではなく、他者のものさしで自分を評価することになってしまう——といった内容が含まれていました。

あふれるモノと情報に欲望を刺激され、自分に欠けているものを絶えず意識させられる……。(12)

外見のほうが簡単かつ正確に把握できるため、内面への関心や内面を見ようとする努力が失われつつある(15)

ポジティブ・シンキングやプラス思考をすすめる本が次々に出版され、他者に対し装うだけでなく、自分自身に対しても常に明るく前向きであることを強いる傾向が強まっていきました。(17)

 対人恐怖症は有名なので、みなさんもご存知でしょう。他人と同席するさまざまな場面で過度の不安や緊張を覚えるため、そういう状況を怖れ、避けるようになる。言うなれば、「他者の評価を意識しすぎる自分の心」が引き起こす病です。(36-7)

 たとえば、統合失調症というのは文化や言語を問わず、どの国でもおよそ百人に一人ぐらいの割合で発症する精神疾患ですが、同じ統合失調症の妄想でもフランスで目立っていたのは「他人と顔や心が同じになってしまった」という訴えでした。「みんな(あるいは誰か)と同じだと思われている」「自分の独自性がなくなってしまう」と悩むのです。
 一方、日本の患者さんの場合は、「私はみんなと違ってしまった。だから嫌われ、悪口を言われる。仲間はずれにされている」と、切々と訴える。(40)

 やがて子供たちは、親以外に秘密を共有したいと思う対象と出会い、親密さを分かち合うことで、他者を信頼することを学んでいきます。(45)

子供が秘密をもったら、親はその子が自立心を養いはじめた証として喜ぶべき(46)

 親を信頼していれば、子供はタイミングを見て自分から秘密を打ち明けるものです。(47)

 地べたに座ったものを食べたり、電車のなかで化粧したりする若者たちは、傍若無人で一見、人の目などまるで気にしていないように見えます。しかし、彼らが気にしないのは、自分とは無関係な存在だと思っている第三者。自分の属する集団のなかでは、仲間からどう思われているかを互いに過剰なほど意識し合い、空気を読み合い、仲間うちで浮いてしまうことのないよう気をつかっているのだと思います。(53)

 あの一連の騒動と、選挙で誕生した「小泉チルドレン」の姿を興味本位で追う雑誌やテレビを見ながら、そして「数の力」で重要法案が通るたび、この国の生きづらさが増していくのを感じながら、私はなんとも複雑な気持ちになりました。少年時代に目の当たりにした光景とよく似ていたからです。
 一九四〇年九月に日独伊三国同盟が締結されたとき、東京の街を「ヒトラー万歳! ムッソリーニ万歳!」と叫びながら提灯行列をする庶民の姿であふれ、お祭りさながらでした。当時すでにヨーロッパでは第二次世界大戦が勃発しており、ドイツと手を組めばアメリカやイギリスと戦わなければならなくなるということはわかっていたのです。
 にもかかわらず、日本が参戦したら自分たちの暮らしはどうなるのかと深く考えもせず、同盟締結を喜び、浮かれ騒いだ。(94-5)

 そもそも、人とうまくやっていくことを第一に考える日本のような社会では、考える力自体が育ちにくい。一人ひとりが「私はこう思う」と自分の意見を主張し、対等な立場で論じ合ってこそ、互いの考えを深めていくことができるのですから。そういう日本人の性向は、二百六十五年に及ぶ世界に例を見ない江戸の平和のなかでさらに強まり、「考える」という知性が少しずつ骨抜きにされていったような気がします。(104)

たとえ今は誰も待つ者がなく、自分にしか成し遂げられないことなどないように思えたとしても、未来には必ず自分を必要とする誰か、自分によって生み出されるはずの何かが待っている——そう意識することが絶望に抗う武器となるのです。(132)

人生に期待するのをやめて、人生から自分が何を期待されているかを考えよう。(133)

 逆境に弱い人を見ていると、「場」だけでなく、時間的にも非常に狭いところで生きているような気がします。「今、ここ」にとらわれていて、自分の状況を長い目で見られない。見ようとしない。(138-9)

 でも前にいじめられた体験があったからでしょう。いつまでもこれが続くわけではないと考えることができたのです。つらくてどうにかなってしまいそうなときも、「卒業までの三年間だ。人生全体から見たらたいした時間じゃない」と自分に言い聞かせていると、気持ちが軽くなっていく。そのうち、「どうしてこの人はこんな意地悪をするんだろう」「おっ、今度はこうきたか」などと相手を観察する余裕まで生まれ、さらに楽になりました。(140)

 傷つくことを怖れて自分の殻のなかに閉じこもっていると、ますます傷つくのが怖くなってしまいます。しかし勇気を出して殻を破り、何度か失敗したり傷ついたりしているうちに、なんだ意外と平気じゃないかと思えてくる。そのときはつらくても、苦しみはやがて薄れていくこと、心というものがけっこうタフであること、マイナスだと思った体験が心を鍛え、その後の人生でプラスに作用していくこともわかってくるはずです。(146-7)

諦める」という言葉は〔略〕「明らかに見極める。事情をはっきりさせる」などの意味をもつ「明らむ」から派生した言葉です。〔略〕物事の本質を見極めれば、つまらないことに固執しなくなります。おそらくそんなところから、「諦める」=「思い切る」「断念する」という意味が生まれてきたのではないでしょうか。(154)

 人はみな死刑囚として生まれついている——。
 パスカルをはじめ多くの賢人たちが、死すべき定めにある人間を死刑囚になぞらえて考察を行ってきました。(203)

 私自身は一九九〇年に日本尊厳死協会の会員となり、延命措置を拒否する「リヴィング・ウィル」を作成しました。悩んだ末に尊厳死宣言をしようと決意したのは、医師の一人として医療の現場に関わるなかで、ほんの短期間に過ぎない延命のために生と死の尊厳がおかされていることを常々疑問に感じていたからです。また、なんの意思表示もしないまま意識不明になって、子供たちに延命措置をするかどうかというつらい選択をさせたくないと思ったからでもあります。(206)

@研究室

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by no828 | 2017-04-15 14:10 | 人+本=体 | Comments(0)
2013年 03月 09日

人を殺したから悪人となったのではなくて、悪人であるが故にたまたま殺したにすぎない——加賀乙彦『宣告』

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加賀乙彦『宣告 上・下』新潮社(新潮文庫)、1982年。22(677)

単行本は1979年に同社より刊行。

版元 → 情報なし


 名著です。

 読みすすめたい、でも結末は(薄々とは予想できながらも本当には)知りたくない、だから読みすすめたくもない——と思わせる本は、実はそんなにありません。本書においてそれは、主人公の死を読みたくない、さらにはそれを望みたくない、ということにもなるのですが、それでよいのか(殺人と殺人者を擁護することになりはしないか)、というふうにも考えます。しかし、刑としての死を望まないこと(その人の生の持続(によって開かれてくる新しい認識)に期待すること)と、殺人と殺人者を擁護することとは別物であり、では殺人と殺人者に価することとは何なのか、と思います。

 上巻653ページ、下巻619ページの大部。

 殺人者・死刑囚の楠本 他家雄〔たけお〕が主人公なのですが、視点が他の人物にときどき移ります。なかでも拘置所医官(精神科医)の近木が準主人公の位置にあります。ちなみに、著者加賀自身が精神科医で、拘置所勤務経験もあります。わたしの内部では、かなり以前に読んだ、大塚公子『死刑執行人の苦悩』(版元 → )なども思い出されました。

 楠本がなにゆえに誰を殺したのかは、なかなか説明がなされません。殺人の——誰もが納得するように作り上げられた——「理由」には重点を置かないということなのか、と思いながら読みました。

 犬耳がたくさんできてしまったので、選ばないといけません。が、長くなりそうな予感が……

 芝居にだって poetic justice ということがある。この言葉をおれは何か演劇の解説書で覚えたと思うのだが、要するに劇中の悪人は罰せられねばならぬということ、それによって劇が均衡を保つことだ。犯罪についてもこの種の均衡が必要なのだ。人を殺した者は殺されねばならぬ。
 砂田が死ねば事件は均衡を保って終る。世間は一件落着として安堵するのだが、この均衡が心情の中でのみ保たれていることに気がつかない。砂田は十数人を殺したという。ならば真の均衡を保つためには十数人の砂田を殺さねばならぬ。おのれ一人しか罰せられぬことで、砂田はいつも得をしている。より多く殺した人間ほど得が大きい刑罰、それが死刑だ。死刑は殺人者を増やす。死刑があるために殺人はいくらでも増えていく。
(上.129-30)

 おれは人間であることを許されてはいない。法律規則という人間の作った文章が、おれから人間の属性を一つ一つ剝ぎとっていった。刑法、刑事訴訟法、監獄法、数多くの訓令、通牒、通達、判例が、眼に見えぬメスとなっておれから人間の属性を削ぎ落としていった。
 しかし……しかし、それでもなおおれは考える、おれは死刑囚でも番号でも一枚の板でもなく、人間でありたいと。なぜならばおれは絶望することができるから、一枚の板のように従順に静かに平和に存在するのではなくて、おれには絶望する自由が残されているから。絶望するという自由をもつかぎりにおいておれは人間であるのだから、おれは絶望しなくてはならぬ。絶望によってのみおれは人間に復帰できる。
 それでは絶望とは何か。それは未来に立ちはだかる処刑台に怯え、再び実社会に帰りえぬことを嘆くことではない。そういったことは絶望の外面的条件にすぎない。もし何らかの機会におれが減刑され、あるいは実社会に戻れた場合でもなお消えぬ絶望、それが真の絶望である。ああ、しかし、このことを人はなかなかに理解してくれない。人はおれの陥っている外面的な条件ばかりを見、分析し、おれの真の絶望には目を向けてくれない。はっきり言おう。おれは悪人だ。おれは殺人者だ。おれが死刑囚であることは殺人者であることにくらべればとるに足らぬ些事なのだが、同囚たちも看守たちも、そして新聞記者も善良な神父や修道女たちも理解してはくれない。(上.140-1)

「しかし神父様、神が悪を許し給うは、その悪より善を導き出すほどに全能だからであると聖アウグスチヌスが言ってますが、本当でしょうか」(上.169)

「いや彼女が何かに甘えなくちゃ生きていけない弱い人だってことは認めますよ。しかし、彼女がそうなったのは彼女だけの意志じゃない。貧困、上京、男の我儘、大都会の孤独、妾を許容する因習、いろんな条件がからみあっている」
そういった条件は、志村なつよだけにあるんではなくて、大勢の女たちにもあります。ただ、そういった条件を、選びとったのは志村なつよ自身です。つまり条件に甘えたのです
(上.250)

「そうじゃなくてよ、本当にこわいのは、いつ殺されるかわかんねえってことだよ。だいたいが長い裁判でやっとこすっとこ死刑を決めて、いざ執行の時になると法務大臣の命令でやるってのはおかしいやね。法務大臣がいつどうして刑の執行をしようとするかわかんねえってのは変じゃねえかよ。刑が確定してから四年も五年も生かしといて、ある日法務大臣がよ、便所で糞ひりながらよ、あいつを殺そうと考えつくと殺される。人間ひとりの命をよ、たったひとりの人間の思いつきでよ、殺すってのは変じゃねえか(上.271)

「ぼくは精神医なもんだから、人間の命の中に精神も含ませて考えちゃう。極端に言えば、肉体は殺しても精神を生かす場合がありはしないかと……(上.279)

「或る意味で、ここは屍体収容所ですから。わたしどもの唯一の義務は殺されること、それも恥辱の形においてくびり殺されることです。生きていることの意義がそれだけというのがわたしどもです」(上.358)

 お前、近木医官、善良で無邪気な青年よ。形而上学にひそむ苦しみを知らぬ若き科学者よ。死ぬまで悪人であらねばならぬ恐怖、それが本当の死の恐怖なんだ。いいかね、安らかに処刑台に上るには、自分が処刑台に価する人間だと百パーセント納得していなくてはならないだろう。もし悔悟し改心し悪人であることをやめたら、信仰によって神の許しをえてしまったら、もはや自分は処刑台に価しないじゃないか。お前にこの矛盾が解けるかね。イエスと立場が正反対なんだよ。無垢なる人は殺されることに意義があった。しかし悪人は殺されることに意義がないことで、はじめて意義があるんだ。おれが死はこわいと言ったのはそのためさ。わかるかね、お医者さん。(上.372)

おおよそ言えることは、彼は人を殺したから悪人となったのではなくて、悪人であるが故にたまたま殺したにすぎないということだ。悪は行為の前にすでに彼の内部を悪性の腫瘍のように浸蝕していた。もし殺人という行為だけを犯罪と呼ぶならば、事は簡単だが、もし彼が何もしなくても彼は殺人者でありえた、このことが河野にも砂田にも理解してもらえない。(上.593)

「では、弱い人間は何をしてもいい、人を殺してもいいと、おっしゃいますの」
「そうではないけれど……」近木は言葉に詰った。
でも、人間の弱さを肯定なすったら、弱い人間の犯す犯罪をも肯定することになります。それは世の中には、弱い人間もいますでしょう。しかし、弱いということだけで、罪を犯す場合もある。その場合の、弱さは肯定できない。彼女の弱さが、殺人を犯したんです
「そうなんだ」近木は率直に頭をさげた。「その点は、実んところ、ぼくにも未解決な点です」
(下.62-3.傍点省略)

「逆も言えるだろう。神——どうもぼくみたいな男がこの言葉を口にすると面映いんだが——もし神が暗黒をも支配するのなら、暗黒を創ったのも神ではないのかね(下.102)

「変だなあ、そこもお前とおれとは反対なんだ。おれは自分の処刑を仕方のないこととして受入れているが、死刑制度には反対なんだ。一人を殺した人間を殺すというのでは、結局二人の人間を殺すだけだからね。そこには二重の殺人があるばかりだ(下.133)

結局、自分が狂人だと隠しきれない人が、狂人になるんだと思うね(下.170)

「〔略〕殺人とは一人の人間の自由と可能性を暴力的に全的に奪う行為のみならず、被害者の家族や子孫の生活と心すべてを一生傷つける、決定的な悪なんだ」(下.257)

「ぼくが文通している小児麻痺で寝たきりの娘さんがいてね、彼女の唯一の希望は誰か足の悪い男の人と結婚することです。その人の手紙に結婚の二字が書かれていると、それは内側から照らされた真珠のように輝いているように思えます。それだけを希望に生きてきた人の思いが言葉に光をあたえるんです。
 人はみんな遠近法が違うんです。ぼくの望みはね、たとえば、監視人なしで百メートルひとりで歩くこと、バッハの音楽を静かな部屋で十五分ほど聴くこと、〔略〕」
(下.369)

「言葉がすべてだ。すべてが失われても言葉は失われない。最後に言葉ありき。おれはあやうく言葉を失うところだった」(下.577)

 恵津子君、きみのおかげでぼくの死は豊かになりました。ありがとう。そして、さようなら。
 幸福になるんですよ。幸福を探すんですよ。探せば、大丈夫、かならず見付かりますからね。
(601)

 死刑制度の側から殺人(者)を否定(あるいは批判)する論理と、殺人(者)の側から死刑制度を否定(あるいは批判)する論理とは、実は同じなのかもしれない、ということがわかりました。いずれの論理も、一見相手を否定するようでいて、結局は反転して自らを否定することになる、ということです。そうすると、言葉はその内容よりも、あるいは、ではなく、やはりそれを誰が言うのか、のほうが大事だということになるのでしょうか。

いつもそうだが、何十年も前の昔の論文を読むとき、紙の間に閉じ籠められていた時間が紙面の上に脹れあがり解放の喜びをもって流れ出てくるような感銘を覚える。近木は、自分の書いた論文を、五十年、百年後の若い学者が読む場面を想像し、学問とは何と奇妙な伝達をとげることかと思う。(下.236)


@研究室
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by no828 | 2013-03-09 18:45 | 人+本=体 | Comments(0)