思索の森と空の群青

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2015年 02月 14日

残念乍ら美学を含めた人文学はちっとも進歩しない所に特徴がある——奥泉光『『吾輩は猫である』殺人事件』

c0131823_18512521.jpg奥泉光『『吾輩は猫である』殺人事件』新潮社(新潮文庫)、1999年。61(884)


 版元 ただし電子書籍
 単行本は1996年に(たぶん)同社
 先はまだまだ長いです。写真の範囲に入ってきました。→ 


 舞台は『吾輩は猫である』の時代の上海。この「猫」が主人公で、殺されたのは「苦沙弥先生」です。全616ページ。

 375ページに「馬尻」とあって「バケツ」とルビが振ってあります。また、573ページに「亀毛兎角」とあります。“ありえないもの”を指すようです。亀に毛はなく、兎に角はない。
 すると「兎に角(とにかく)」や「兎角(とかく)」の由来・原意の説明はどうなるのでしょう。「結局」のようなニュアンスがあります。

 自分にはロマン主義的要素が(強く)含まれていると思いました。ロマン主義の問題点もあるとは思い、それがどういう問題点であるかも(少なくとも部分的には)理解・自覚しているつもりではあります。

 学問に関する記述もあり、興味深く読みました。ユーモアのある文章です。


「それに何だか虚しくなって仕舞ってね」
「何が虚しいのだろうか」
「君は先だっての日露の戦争でどれだけの人が死んだか知って居るかい」と虎君は意想外の事を云う。
「何人位だろう」
日本人の死者が二十万、露西亜が三十万さ。計五十万の人間が戦場の露と消えた計算になる。然し本当に夫程の数の人間が死ぬ必要があったのだろうか
戦争なんだから仕方がないのだろう
そう云ってよいのだろうか。戦争は国家がするものだ。果して国家にはそれ程の犠牲を人に強いる権利があるのだろうか
(111)

「私の知って居る或る男抔は、子供の時分に父親を殺したならず者を探し廻って居る裡に白頭白髯の老人になって仕舞った。そうして愈死の床に就て、神父が呼ばれて見ると、何と此神父こそが憎むべき仇だったのさ。互いに人生の巡り合わせに感嘆して、神父の方も既に身寄りのない爺さんだったから、是非殺して貰いたいと願ったら、男は貴公の御蔭で人生を充実させて貰って有り難かったと涙を浮かべて感謝したそうだ」(274)

と云うのも吾輩は勇気と同時に謙譲の美徳を備えた君子的猫である。従ってわざと勇気を誇示して世間にひけらかす抔は遠慮が勝って出来にくい面がある。ロシュフコーとか云う仏蘭西の著述家も、真の勇気は目撃者のいない場合に示されると云って居る。とすれば諸猫が吾輩の行動を見守る現今の状況は吾輩が勇気を発揮すべき所ではない。勇気を発揮したいのは山々なれど、見え透いた真似をするのは吾輩の自恃が許さぬ。考えれば君子とは不自由なものだ。(300-1)

 凡そ浪漫的なる事とは遠くから憧れる所に其本質はある。絶対に手の届き得ぬ存在へ憧憬の視線を投げ、決定的に失われし者を空想の裡に取り戻す所に浪漫はある。幻と知りながら其幻を愛し切る精神こそが正しく浪漫的と呼ばれるにふさわしい。とすれば吾輩の為すべきは、三毛子なる美の理念を脳裏に思い描き、以て清澄なるエーテルの大気中に其理念と一体と化す事である。美しい花を愛でるのではなく、花の美しさを身を焦がす迄に愛し尽くすこそが吾輩に残された事業である。そう云えば昔、ノバーリスと云う独逸の詩人が婚約者の墓前で吾輩と似たような心境になったと聞いた事があるが、誰も考える事は一緒と見える。そうである。吾輩には三毛子の面影がある。決して滅びる事も傷つく事もなく、変らぬ輝きを放ち続ける三毛子のイメジがある。此貴重な宝を生涯に亘って愛し抜こう。左様に決意して見れば、失意の暗黒に一条の光が差し込んだ様な気がして、吾輩はほんの僅か丈元気を回復した。(336-7)

「まして国家転覆を企む様な気力も無い。だいいち国家を転覆したところで住んでいる人間は同じなのだからね。相変わらず馬鹿を相手にしなければならない。教育したって人間の本性はそうそう〔*〕変るもんじゃない。新島や福沢はしきりに教育を云うが、僕は啓蒙家になる程親切でも暇でもないからね。それで別個に国を作ろうと思った次第さ(350)
* 2度目の「そう」は原文では「く」を縦に延ばしたようなあれ

「君は本当の事と云う概念を如何なる意味で用いて居るのかね」と再び将軍が教師然とした調子で云う。「確認して置くが、儂が先刻より述べて居るのは飽くまで仮説である。そも推理競争と云う趣向は、各々の仮説の優劣を競うのではないのかね。科学的仮説の優劣とは『本当の事』抔とは関係ない。現象をどれだけ広範囲に、論理の矛盾なく説明出来るのか、其有効性を以て測られるとは科学論のいろはである。従って儂は自分の推理が本当の事だ抔とは全然主張しない。只現象の説明能力に於て優れて居るのを誇る許りだ。本当の事を仮に真理ととるならば、慥かに真理は一個だろうが、究極の真理を知り得るのは神丈だ。有限性に止まる人間や猫に許された事は、仮説に仮説を重ねて唯一の真理に接近して行く無限の運動丈なのだ。其意味では神ならぬ身である我々にとっては、真理は常に複数あると知るべきだ」(419-20)

「そんな事じゃ済まないさ。犠牲、犠牲と君は平気で云うが、そんなに簡単なものじゃない。まず第一からが、実際死ぬのは革命を志す者丈じゃないのだからね(466)

「つまり君の発明が悪用されたりする事が心配になる事はないのだろうか」
「悪用と云うと」
例えば君の発明が戦争に応用されて、何千、何万の人間を一遍に殺したら寐覚めが悪いんじゃないかね
そんな事を気にしていては科学の進歩発展は到底望めやしませんや
(534)

「いいですか、先生。私が思うに、美学を含め人文の学問とは人間の幸福について考える学問だと思われます。先程科学の応用の話が出ましたが、科学を如何に人間の幸せに使うか探究するのが、是からの人文学の主な課題になる筈です。である以上自然科学の進展に歩調を合わせて諸学問にも進歩して貰う必要があります
「そう云うがね、残念乍ら美学を含めた人文学はちっとも進歩しない所に特徴があるのだ。考えてもみたまえ。ソクラチスの時代に較べて我々は少しでも進歩があるかね。あるいは仏陀や基督より偉い人物が其後出ただろうか。ニーチェも云う様に、希臘の哲学から較べたら現代の哲学は寧ろ後退している位だ。だいたい学問の対象たる人間が古来から変って居らんのだから、人間に関する学問が進歩しないのは理の当然だ」
(536)


@研究室
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by no828 | 2015-02-14 19:06 | 人+本=体 | Comments(0)
2015年 02月 09日

今は結構な値段するけど、そのうちまた値崩れして安くなるんじゃないの——奥泉光『モーダルな事象』

c0131823_19561420.jpg奥泉光『モーダルな事象——桑潟幸一助教授のスタイリッシュな生活』文藝春秋(文春文庫)、2008年。57(880)


 単行本は2005年に同春秋
 版元 


 クワコーこと桑潟幸一の“レータン”こと大阪は敷島学園麓華女子短期大学助教授時代のお話。わたしは桑潟幸一が千葉のたらちね国際大学へ移ったあとの時代から読みはじめたことになります。つまり、『桑潟幸一准教授のスタイリッシュな生活』、そして『黄色い水着の謎——桑潟幸一准教授のスタイリッシュな生活2』を先に読んだということです。「助教授」から「准教授」へと制度変更も反映されています。

 本書は、『日本近代文学者総覧』という(たぶん)学会の編纂する事典の項目執筆をすることになったクワコーが「溝口俊平」という当時はマイナーな人物を担当することになる、というところから展開していきます。

 169ページに「いとうけいこう×奥泉光「文学漫談」」というのが挿入されています。同様のパロディが217ページにもあります。「川崎氏は原稿を持って母校の遠畿大学まで行き、恩師である文芸評論家の鍋直美氏と、その同僚でやはり批評家の鮭秀実氏に意見を聞いたところ〔後略〕」という文章です。ははは。

 それから328ページ。「大岡昇平の『武蔵野夫人』」という部分がありますが、大岡昇平の「平」が平凡社の「平」、つまり「丷」が「八」になっているのですが、大岡昇平の「平」の正式な表記は「八」であったのでしょうか。


「もっとも地球では、いまのところ人間しかいない。あの頃は人間の命の値段は安かった。兵隊なんてただ同然。そういう人間はいまでも世界にはあるだろう? 日本じゃ今は結構な値段するけど、そのうちまた値崩れして安くなるんじゃないの(253)


@研究室
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by no828 | 2015-02-09 20:07 | 人+本=体 | Comments(0)
2015年 01月 31日

知識が本質的に閉鎖的な性格を持つが故にこそ、知識の場は開かれて——奥泉光『ノヴァーリスの引用』

c0131823_19493745.jpg奥泉光『ノヴァーリスの引用』集英社(集英社文庫)、2003年。52(875)


版元
単行本は1993年に新潮社


 よいタイトルだと思いました。経済史の院生時代にお世話になった大学教授の葬式に集うところから物語ははじまります。研究会の仲間であったある男の死は本当に自殺であったのか——。ノヴァーリスを引用しながら論文を書いた彼の死は本当に自殺であったのか——。

 解説は島田雅彦。


つまりこれは教育である。教育が根本において悉く余計なお世話であるという意味において、これは正しく教育である。善導、と唱えれば用語の古めかしさに笑いが浮かぶ。が近からずといえども遠からず。狩りの目的は殺戮ではない。撃つことではない。服従のなかに正しく生かすこと。(153)

自分が死んだ後も世界が存続するとは考えられる。だが死後もなお世界との関係を、いまとは同じではないにせよ持ちうるのか、確信できない点に不安は存する。(9)

当時よく聞かれた文句を使うなら、研究会は言葉を媒介に人々が切り結ぶべき場所であった。知識が本質的に閉鎖的な性格を持つが故にこそ、知識の場は開かれていなければならない。この原則を私たちは、知識に係わる者の最低限のモラルとして、過剰なほどに意識し遵守していた。研究会員としての義務、週に一度研究室に足を運び真剣にテキストに取り組む、それだけの義務を果たす者ならば、誰であれ排除する理由はない。(47)

「思想とは理性的な夢である」(65)

 アフォリズム集とはいえ、その本性上、全体として扱われ、評価されるのを望むものではないだろう。とはいえ一つの場所に並べ置かれた一連の文章を前にすれば、当のテキストから中心主題を引き出したいとの欲望が生まれるのは避けがたい。書き手の意図とは別個に運動するのが批評の生命であるから、作家には我慢して貰うほかあるまい。(71)

〔批判がいつでも自己批判であるのと同様、革命はいつでも自己革命である。したがって革命戦争の主戦場は、わたしたちの魂そのものである〕(72)

内部への沈潜、内面への洞察は、同時に登昇であり、天に昇る行為であり、真に外的なものを観ることである(83)

 ——どんなに下らない神であっても、何も信じていないよりはましだと思う。まるで根拠がない、架空の幻想にすぎないにしても、超越者を想うことで、祈ることで、少なくとも自分のいる場所を知ることができる。この場所を相対化できる。(147-8)

 刑事も探偵も哲学者ではない。だが、彼らも推論を商売としている。推論は元はといえば、哲学者の仕事であった。古代ギリシャ時代、哲学者たちは自然の営みを独自の推論によって説明しようとした。彼らは仮説を立て、それを証明するために形式を必要とした。形式を踏襲することで、確からしさを高め、仮説への反論を封じ込めようとした。(島田雅彦「解説」)


@研究室
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by no828 | 2015-01-31 19:57 | 人+本=体 | Comments(0)
2014年 12月 29日

彼に必要なのは言葉なのよ。あるいは、言葉を媒介にした、なんていうかな——奥泉光『その言葉を』

c0131823_1852579.jpg奥泉光『その言葉を』集英社(集英社文庫)、1993年。48(871)


 版元 
 単行本は1990年に『滝』の書題で同社


 「その言葉」と「滝」の2篇が収録されています。引用は前者「その言葉」からのみ、その書き出しは「飛楽〔ひがき〕俊太郎と再会したのは、ぼくが二年間の浪人の後、東京の中堅私大に入学し、東北の田舎町から上京してアパート住まいを始めた年の暮れ、一九七六年のことであったと思う」(7)。


 まったく余計なお世話なのだが、ぼくは端的に言って、飛楽にテナーを吹いてほしくなかった。〔略〕飛楽の三年間、内容は分からぬがその重量に圧迫感を覚えるとともに、安全なところにいる人間が、自分ではないまさしく他人の、ラディカルで危険な生に憧れとロマンを抱くのと同じ気持ちで、何かしら期待するものがぼくにはあって、全く勝手な話ではあるが、すっかり裏切られたような気分だった。飛楽が不幸な境遇にあるにしても、その不幸そのものがきらきらと光り輝くような特権的なものでなければならない、飛楽は幸福とひきかえに何か大事なことをなし、大事なことを考えているのであって、その飛楽にテナーを吹いている暇などないのだ!(29-30)

テナーサックスはドラムとならんで、なによりもジャズのために発明された楽器、ジャズの精神を具現化した楽器であって、他人とのセッションのただなかでのみその機能を発揮し、そのただなかでこそ演奏技術の習得が図られるべき楽器なのだ。他者との交わりを離れたところでは、ドラムスがただの騒音製造器でしかないのと同様、テナーサックスは鈍重な吠え声を発する馬鹿な器械にすぎず、孤独の鍛錬に価値があるのは、それがひたすらセッションの「実戦」に向けられるからで、またセッションでのより力強く、より素早く、より熱い演奏のためにこそ孤独の修練は必要なのである。セッションのなかに解放されるあてのない技術は、マウンドにあがることのない投手の投球技術がそうであるように、決して習得されえない。(33-4)

「つまり頭の病気、彼にはね、他人が必要なのよ、誰でもいいから、彼の世界のなかに登場してくる他人が必要なの
 誰でもいいからという句〔フレーズ〕が相手の気分を害する可能性にビリーさんは思い至らなかったようで、同じ言葉がすぐにまた続けられた。
何でもいいから、彼が他人に向けて、誰でもよい誰かにむかって、言葉を発する必要があるの
「でも、ビリーさんには何か言ってるわけでしょう?」
「そう、でも、私じゃ駄目なのよ、女じゃ駄目。よく言うでしょう、男にとって女は母親か娼婦でしかないって。あれはかなりの真実を含んでいるのよ、とくにこの国ではね。母親や娼婦との関係に言葉はいらないでしょう? 彼に必要なのは言葉なのよ。あるいは、言葉を媒介にした、なんていうかな、間接的な人間関係、これが必要なの。どんなに詰まらなくて下らない言葉でも、それには何かしらの意味があるし、存在意義があるんだってことを彼は学習する必要があるのよ、分かるでしょ?」
 分からなかったぼくは、それでも何とか体裁を整えるべく、
「つまり、詰まらなくて下らない言葉を語る他人として、ぼくは彼の部屋へ行くト」
といい加減なことを言うと、ビリーさんは、
「まさしくその通りなの」
と真顔で返答を寄越した。
(43)

愛してるっていう言葉だって同じなのよ、私が誰かに愛してるって言っても、それが私の伝えたい意味として伝わる保証はどこにもない
「そりゃそうですよ」
「それであなたは平気なの?」
「え?」
自分の言葉の意味が正しく人に伝わらないかもしれないってこと、不安じゃない?
「でも、だからこそ、何度も何度も言う必要があるんじゃないかト」
「どういうこと?」
「つまり、何度も何度も言ってるうちに、言葉の本当の意味は伝わらないまでも、熱意だけはどうにか伝わるんじゃないかト」
「なるほどね」ビリーさんはまた強く腕を締めつけ、笑い出した。「あなたがのべつまくなしに喋り続けている理由がようやく分かったわ」
(72-3)

 七〇年代的な関係の不(非)可能性。それがこの文庫に収められた二編をはじめ、最新作の「ノヴァーリスの引用」に至るまでの著者の一貫したテーマになっているのだと僕は理解している。〔略〕ほんとうのことを言えば、小説(散文)が書かれる契機は、いつも七〇年代的な不(非)可能性にこそあるのだ。〔略〕つまりお互いが理解可能なら最初から言葉を費やす必要もないのだ。そもそも理解不可能なことを説明しようとするからこそ、小説という手続きが必要なのではなかったか。
 共感だとか、共生だとか薄気味悪い言葉がはびこる時代だ。だからこそ、小説はもっともっと七〇年代的であるべきだと僕は思う。
(清水アリカ「解説」210)


@研究室
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by no828 | 2014-12-29 18:58 | 人+本=体 | Comments(0)
2014年 12月 08日

彼女らはラウンジや芝生から教室へたまたま場所を移した人たちにすぎなかった——奥泉光『黄色い水着の謎』

c0131823_15272411.jpg奥泉光『黄色い水着の謎——桑潟幸一准教授のスタイリッシュな生活2』文藝春秋、2012年。40(863)


版元 → 


 私立たらちね国際大学の准教授である桑潟幸一が主人公。『桑潟幸一准教授のスタイリッシュな生活』(→ )の続編です。表題作「黄色い水着の謎」のほか、「期末テストの怪」が収められています。

 たしか都内のB○○K○FFで購入。著者サイン入りの本でした(たぶん。誰かが著者のサインを捏造して書いたのでなければ。奥泉光のサインがどのようなものかわたしは知りません)。

 研究員仕事の一環で講義に出て、教室最後部から先生の話を聞きながら学生の様子をもうかがっていますが、学生の受講態度はあまり褒められたものではありません。何をしに来ているのか、わかりません。2つ目の引用、わかります。


 クワコーこと桑潟幸一准教授が、千葉県権田市にあるたらちね国際大学で教えはじめて最初の学期が終わろうとしていた。
 ただしこの場合、「教えはじめて」とはあくまで言葉のアヤであって、桑幸がいちおう教師を職とする者であり、教師とは人に何かを教える職種であるとの世間の思い込みゆえにそう表現されたにすぎない。以前に勤務していた東大阪の敷島学園麗華女子短期大学——通称レータン時代と同じく、こんな人間でも大学の先生になれる世の中とは案外でたらめなものであるから、なるべく注意したほうがいいと、身をもって学生に教える、それ以外の教育活動を桑幸はしていなかった。
(「期末テストの怪」6. 強調省略)

 一方、教室の学生たちは、ケータイをいじったり、昼寝をしたり、化粧を直したり、スナック菓子を食べたり、漫画雑誌を読んだり、おしゃべりに興じたりと、それぞれが思い思いに過ごした。彼女らはラウンジや芝生から教室へたまたま場所を移した人たちにすぎなかった。(「期末テストの怪」7)

木村部長から火の番をするよう命じられたので、カマドの前に布椅子を置いて、忠実に火の世話をした。しだいに濃くなる闇に炎がきれいだ。見上げた空には星が瞬きだす。しかし、いったい自分はこんなところで何をしているのか? ふと思えば、そもそも自分は何のために生まれてきたのだろうかと、いつものように哲学ふうな問いが浮かんできたが、思索を巡らすまでもなく答えははじめから出ていた。自分は死ぬまで生きるために生まれてきたのである。それだけだ。それ以上でもそれ以下でもない。そう思うと一段と寂しさはつのって、とりあえず何か卑猥なことでも考えてこの時間をやり過ごそうとしたとき、丹生愛美と熊島鈴香の一年生組がやって来た。(「期末テストの怪」98. 強調省略)


 *「おさおさ」……(あとに打ち消しの語を伴って)ほとんど、まったく。
 *「異数」……普通とは違った待遇。特別な恩恵。他に例がないこと。めったにないこと。また、そのさま。異例。
 *「攻撃誘発性」に「バルナビリティー」のルビ(174)。むむむ、と少々考え込みました。

@研究室
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by no828 | 2014-12-08 15:27 | 人+本=体 | Comments(0)
2014年 05月 17日

信じがたきものを信じよ!——奥泉光『石の来歴』

c0131823_1853474.jpg奥泉光『石の来歴』文藝春秋(文春文庫)、1997年。145(800)

版元 → 
単行本は1994年に同春秋


 石に魅せられた男、その子どもの死、妻の狂気。表題作も然ることながら、同時に採録された「三つ目の鯰」もよかったです。


 教えることはすなわち学ぶことである。それでは科学の魅力とはいったい何であるかと真名瀬は自らに問い、科学啓蒙書などひっぱり出して斜め読みしながらあれこれ知恵を絞ったあげく、しかし結局行き着くのはレイテの洞穴で聞いた上等兵の話であった。
 変哲のない石ころひとつにも宇宙の歴史が刻印されているのである。
(「石の来歴」44)

 ――しかし、革命っていうのは人間が生きるためにするものなんだろう。人間が死ぬためのものじゃないはずだ。(「石の来歴」90)

 福音書のどこだったかは忘れたけれど、たしかにイエスは、家族のあいだに対立をもたらすために私はやってきたと語っている。キリスト教は伝来の宗教意識を徹底的に否定する。旧来の人間関係の秩序を全面的に破壊して、新しい共同体に人を投げ入れる。東京にいればさまでは感じられないが、こうして田舎にあってあらためて眺めてみると、キリスト教、とりわけプロテスタンティズムとはほとんど極左思想である。〔略〕血縁地縁を大切にし、先祖伝来の田畑を守り続けている田舎に浸透するのは、ほとんど不可能事だと思えてくる。(「三つ目の鯰」161)

本当をいうとね、キリスト者にとっては墓なんてどうでもいいんだよ」とワタルおじさんはまた口を開いた。「キリストが再臨される日に、人は新しい霊の身体で甦りを与えられるわけだから。墓は一時的な仮の宿にすぎない。というよりこの世自体が仮の宿なんだよね。だから極端な話、それこそ焼いた骨をその辺に捨てたっていいんでね」(「三つ目の鯰」162-3)

森中先生は合理性と非合理性を主題に語った。マックス・ウェーバーを枕に、合理性なる概念内容を素描したあと、最も合理的なるものが、ひたすら合理性を求めて企図されたものが、いつのまにかその反対物に転化する歴史の逆説をまず語り、では合理性はいかに維持されうるのか、と課題を提出した論者は続いて、それは根底に非合理を抱えることでしか果たしえないのだと、いっきに、しかしたいして大声にもならずに、結論を述べた。非合理に支えられて合理ははじめて合理たりうる。この驚くべき逆説、と森中先生はいい、キリスト教とはまさに、イエスの死と復活という、まともな神経ではとうてい容認し難〔ママ〕い、ひとつの非合理を認め、信じることで、逆説的に、徹底的に合理性の立場を貫き、他の一切の非合理を打ち破る宗教であると論じた。〔略〕受け入れがたき非合理を受け入れよ。汝、狂気の淵を越えよ。信じがたきものを信じよ!(「三つ目の鯰」185-6)

 信じられないものを信じるということが信じるという行為の本質だ、というふうに読みました。理性で割り切ることのできる事柄は「信じる」の対象にはならない。それは「理解する」の対象です。理解できないけれどもしかし、という事柄が「信じる」の対象になる。その、理解できないけれどもしかし、を信じないで何を信じるというのか。

@研究室
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by no828 | 2014-05-17 19:00 | 人+本=体 | Comments(0)
2013年 12月 26日

とうてい愛することのできないものを愛することこそ本当の愛なのではないか——奥泉光『葦と百合』

c0131823_18522780.jpg
奥泉光『葦と百合』集英社(集英社文庫)、1999年。95(750)

版元 → 

単行本は1991年に同社


 奥泉光の書くものは学問への言及が多々あるので好きです。本書は民俗学、歴史学に関する議論です。硬質な内容と言えばそうなのですが、そういうのが好きなのかと言われれば好きなのです。

 H田先生が「口碑」に一定の史学的価値を認めない理由はやはりそういうことなのかもしれない、と思いました。再確認というか。

 本書における「ロマン主義」には共感します。実現された時点でそれは欠如態となる、というのがわたしのなかにあります。実現されたのだからそれは充足態である、ではなく。実現は欠如をもたらす、というふうに考えます。しかしわたしは、この思考様式ですべてを語っていないし、語ろうともしていない、という自覚もあります。なぜなのか。おそらくこれとは別の思考様式も脳内に存在していて、それとの関係はどうなっているのか。その辺りがいまいち鮮明ではありません。思考様式というか論理構造というか型というか、内容を注ぎ込むべきそうしたものが定まっていないという自己評価があります。ただ、少なくともそうした疑問が出てくるのは体系的に物事を論じたいという欲求がわたしにあるからだ、ということはわかっています。

ロマン派というのは遠くから憧れるところに本質があるんであってさ、書斎での夢想がむしろ本来の形じゃないの。時々近所の森に散歩に行くくらいで。シュバイツァーにはならないままにシュバイツァーに想いを馳せる」(26)

「さっき中山さんがコミューン運動にはもうひとつついていけないところがあったと言ってたけど、それはおれにもよく理解できるんだ。つまりコミューンといったって無人島に孤立してあるわけじゃないんだよね。外部社会にいわば埋没する形で存在しているわけで、だからかりにコミューン内部にどんな理想的な社会が実現したにしても、結局それは外の社会に寄生してはじめて可能になったともいえる。コミューンがまさしく否定しようとする、たとえば資本主義社会に依存してしか理想の実現はないことになる。このあたりが問題にならざるをえないわけでしょ」(28)

生活感の希薄な学生が最も急進的になるのはどこでも見られる普遍的法則だよね(31)

「口碑に一定の歴史資料としての価値を認めるべきだという考えにはぼくも賛成です」〔略〕「ただたしかに岩館さんの言われるように、口碑をどう扱うのかが問題になる。で、結論を言ってしまえば、客観化できるような方法論は存在しないんだと思うんです。柳田や折口の仕事にしても、達人の直感とも言うべきものに支えられているのであって、客観的な方法があるわけじゃない。さらに言えば、それじゃ今後そうした方法論が確立するあてはあるのかといえば、ないといわざるをえない。これはぼくの素人考えなんですが、歴史学を含め近代の人文社会科学は、自然科学をモデルにしてきたわけで、しかしそれは無謀だったというか、無理な面があったんじゃないでしょうか。つまり自然科学と同じような客観法則を求めた場合、言えることは極めて僅かになってしまう。そこを超えて何かしようとすれば、どうしても、たとえば想像力といった、客観化法則化できないものに頼らざるをえない。もちろんそれは方法を持たないということではなくて、どう言うか、つまり対象に先んじて方法があるのではなくて、対象に即して方法を編み出していく。方法の構築が同時に対象の解明であるような仕方でやる他ないんじゃないかと思うんですが
〔略〕
「ただ、これもまたぼくの素人考えなんですが、歴史学の場合には特有の問題があるとは思うんです。たとえば最初の歴史記述というものは、だいたい国家の成立段階に、支配者が己の支配の正当性を保証しようとの意図で始まったわけで、つまり過去の歴史はいつでも現在を生きる者から政治的に利用される危険がある。それはある意味でぼくは歴史学の宿命だとは思うんですが、しかしたしかに、そうした危険を避けるために、客観的に明らかにできるものだけに徹底的に自己限定していく、禁欲に徹するというありかたは認めざるをえませんね。少なくとも客観を装いながら主観を強要するよりははるかにいい
(76-7)

「存在するものが視えるんじゃなくて、視えるものが存在するんじゃないかしら」(112)

大学院に進むことと、ものを考えることとは別問題さ(189)

「ロマン主義は幻滅を運命づけられているわけだ」とぼく。「遠くから見ている間はいいが、近づくととたんに駄目になる」
「そう」といったんは肯定した中山氏はすぐに、いや、というかね、と言葉を継いだ。「本物のロマン主義者は、偉大なるリアリストでもあるんじゃないかな。理想というのは現実じゃないから理想なのであって、必ず現実の壁にぶつかる。そこで現実世界の暗黒のリアリティーに耐えつつ、リアリスティックに理想を追求していく。それが本当のロマン主義なんじゃないの
(215)

「私はね、式根さん、アメリカ大統領が持っているのと同じ核釦〔ボタン〕を人類の全員が持つべきだと思うんですよ。男も女も、先進国も開発途上国もない。人類であるなら例外無しに誰もが持つ。私ももちろん、式根さん、あなたも持つ。そして誰かが一人でもその釦を押すなら、人類は破滅を迎える。絶望して自殺する人間が全員を道連れにしようと考えるかもしれない。あるいは単に気の狂った人間が釦を押すかもしれない。大変な緊張感ですよ、これは。それでも現在の状況よりはましです。危機に気づかぬふりをして暮らすよりはいい。人類の未来に対して一人一人が重大な責任を負っているのだという自覚が否応なくもたらされる。どうです、こういう考え方は?」
「あまり気分のよいものではないでしょうね」
「その通りです。しかしその気分の悪さはいま現在も同様なんです。不愉快であるのが私達本来の状況なんです。気が付かないふりをしている、ただ皆が責任を回避しているだけの話なんです。だが全員が核釦を持たされればそうはいかない。知らないふりはもはや許されない
〔略〕
「しかし、それだけではないんです。私の装置には、もう一つの釦があって、それは核釦の逆なんです。核釦がたとえば赤とするなら、それは緑色に塗られていて、その緑色はつまり核釦の作動を永久に停止させるものなんです。これを押すことは自分が核釦を押す権利を断念することを意味する。いったんそれを押すと自分は核ミサイルを永久に作動させることはできない。式根さんならどうします、そういう装置が与えられたとしたら」
「直ちに緑色の釦を押しますね」
「私もそうします。多くの人がそうするでしょう。そしてついにある日、人類の全員が自らの責任において、緑色の釦を押す終わるときが来るなら、最終的に核は廃棄され、永久に作動の停止した核ミサイル群は、この時代の一大モニュメントとなて地下で風化していくことになる。これこそが人類の希望です。真の希望です。しかし、そこまでの過程で誰かが一人でも赤い釦を押すなら全ては終わる。いかがです、この構想は」
「あまり意味があるとは思えませんね」
(245-7)

おれの考える学問の使命は、すべてが幻想なんだと言い続けることなんだね。一回言えばいいというものじゃない。言われ続けないと人はすぐに隙あらばという感じで、幻想を実体化して足をすくわれる。哲学というものに意味があるとするなら、どんなささいなものであれ、あらゆる事象の仮構性を不断に暴き続けるという、考えてみれば寂しいことでしかないんだね。哲学はね、世の中を詰まらなく脱色するために存在していると言ってもいい(311)

「学問の先輩として忠告しておくが、いやしくも学者たる者、嘘をつくのは学術論文だけにとどめろよ」(332)


「式根くんはね、自分には人類を愛することなどできない、が、とうてい愛することのできないものを愛することこそ本当の愛なのではないか、そんなことを淡々と語ってた。ぼくはよく分からないままに、しかし何か言わなくてはいけない、何か言うべき言葉があるはずだと必死で考えるんだが、頭の中はいつものように空虚でね」(337)

あなたは愛すべきものを愛しているにすぎない。自分に愛せるものを愛しているにすぎない。あなたのなかにいるわたしを愛しているにすぎないんじゃないかしら。あなたの外にある、あなたには絶対に手の届かないかもしれない、本当のわたしを愛してはいない」(395)

 共感。「愛する」が「好きである」とは別の意味を有する(別の意味を与えることが可能である)とするなら、そこ、なのではないかと思います。

@研究室
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by no828 | 2013-12-26 19:08 | 人+本=体 | Comments(0)
2013年 11月 07日

実存的状況とは取り返しのつかぬ状況、つまり「後の祭り」のことであって——奥泉光『バナールな現象』

c0131823_1635754.jpg奥泉光『バナールな現象』集英社(集英社文庫)、2002年。78(733)

単行本は1994年に同社。

版元 → 

 虚構と現実との交錯。1991年湾岸戦争。「一面の砂漠である」ではじまり、「一面の砂漠である」でおわる小説です。
 
 「バナール」は banal で、“平凡な、陳腐な”といった意味。ハンナ・アーレントの『イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』(版元 → )の原題は Eichmann in Jerusalem: A Report on the Banality of Evil です。ちなみに先日、映画「ハンナ・アーレント」(→ )を観ました。タイトルが「ハンナ・アーレント」だけなので内容が予想できなかったのですが(よく調べませんでした)、もう少し具体的には「『イェルサレムのアイヒマン』のハンナ・アーレント」でした。映画のことはまた別建てにすることになると思います(たぶん)。

 108-9ページに大学の単位、大学教員の役割について論及されています。『桑潟幸一准教授のスタイリッシュな生活』(→ )にもありました。単位か、知識/技術か。

哲学書の棚の前に木苺は立った。大学学部時代から哲学を専攻し、三十四歳になる現在に至ってなお大学に残り「哲学研究」を続ける木苺のこれは習慣である。カントヘーゲルハイデッガー、ニーチェデカルトフッサール。馴染みの面々の勢ぞろい。ずらり並んだ背表紙を眺めていると木苺は勇気を与えられる。ここにはたしかに哲学があった。黄昏にあってなお燦然と輝く王者の栄光があった。木苺にとって哲学とは主に哲学者の名前のことであったから、それらが一堂に会した書棚を眺めるこの時間は、彼が最も哲学的な営みをなす時間でもあった。哲学に限らず日本の大学の学問の多くは、当の学問領域の存続をこそ第一義的な目標にしているのだから、大書店の一隅を哲学書が堂々占拠している様子を眺めて、王家の家臣団の末席に連なる木苺が嬉しく思うのは正当である。(12)

 薄く笑った友人の評言は正しかった。子供を養育する責任は当然引き受けるつもりが木苺にはある。けれども子供がこの世に生まれ出ること自体の責任は避けたかった。逆に子のない夫婦の生活が将来かりに空虚であったとして、その空虚には耐えていかざるをえないし、また耐える自信はある。だが自分の判断が空虚をもたらしたのだと、あとになってから呵責に捉えられたのでは困る。だから木苺にとっての理想は妻が強く主張をなすことである。欲しいなら欲しい、いらないならいらない、そうはっきり判断してくれるのが一番有り難い。ところが妻の側も夫と同じように考えている節があって、夫婦互いが下駄を預けあい、腹を探りあう状況が結婚当初から続いていた。
 かような次第であったから、避妊はしていたものの、若干の甘さがあった。できたらできたで構わない、いい加減に処してよしとする気分が夫婦間にはあって、気づいたときには木苺の鞭毛そよげる生殖細胞は妻の子宮内にしっかり着床していた。ここに至ってようやく木苺は、やはり子供は持つべしと、実存的決断を下した。実をいえば彼が子供の問題に関して真剣な考察をなしたのは妻の妊娠が判明した後のことであった。実存的状況とは取り返しのつかぬ状況、つまり「後の祭り」のことであって、いまさら考えても詮のない事柄をあれこれ考えたあげく、やっぱり手遅れでどうにもならないのだと諦めるのが、既成事実が絶対の重みを持つ東洋における実存的決断である。したがって木苺の決断は文字通り実存的であった。
(32-3)

 ――そんなことないさ。捕虜虐待の禁止というのは国家間の取り決めだからね。戦場で個人と個人が出会う場面ではそれだけじゃ事は済まない。個人の自己の責任において状況に応じたルールをその都度確立しなければならないわけさ。それをするのが倫理的ということでね。カントが示したのは道徳の普遍妥当性の可能性の原理にすぎない。彼もちゃんといってるよ。結局道徳は決疑論的に考察するしかないってね。何が倫理的なのかは具体的な場のなかで個人が判断するほかない。カントの道徳論はマニュアルじゃなくて参考資料にすぎない。(99-100)

 ――しかし、実際に助けてみなければ分からないじゃないですか。
〔略〕
 ――やってみなければ分からないことは絶対にやらない。徹底的に考察したうえで結果が確実なことだけを迅速に行う。それがわれわれ民族の考え方でね。われわれには失敗が許されないから。
(118-9)

 ニーチェはアンチ・テーゼである。だからテーゼがないところでは意味がない。神の死の宣告が衝撃なのは神がいたからである。彼が「世界史的怪獣」であるのは、世界史のある場所だけでの話である。これと示しうるテーゼもなく、神もおらず、歴史もないところでニーチェは無意味である。(222)


 ところで、文中「任して」(101)「任せて」(273)なので、「まかせて」(106)も「任せて」だと思いました。論文や本の校正などを実際にしてみると、こういうことが気になるようになります。

@研究室
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by no828 | 2013-11-07 16:53 | 人+本=体 | Comments(2)
2013年 09月 09日

知的に後退すればするほど、本当の自分は凄いのだと——奥泉光『桑潟幸一准教授のスタイリッシュな生活』

c0131823_16271832.jpg奥泉光『桑潟幸一准教授のスタイリッシュな生活』文藝春秋、2011年。68(723)

版元 →  


 最近は、大学、学校、図書館、本屋、出版社が舞台となる本をよく読んでいます。あとは(とくに自覚的にというわけでもないのですが、たぶん良質のいわゆる「本格」が揃っているからという理由で)創元推理文庫。

 本書は大学ミステリ。敷島学園麗華女子短期大学(通称レータン、東大阪市)から、たらちね国際大学(千葉県権田市)へ移った桑潟幸一准教授(通称クワコー、桑幸)であります。いずれも「底辺」の大学という設定です。本書に部分的に描かれた、大学への就職や大学の運営など政治化しがちなテーマに絡む部分を読んで、筒井康隆の『文学部唯野教授』を思い出したり、自らの置かれた位置を改めて振り返ってみたりしました。

 桑幸のたらちね最初の給与明細に「110,350」と記されていたのには驚きました。常勤なのに? わたしは「相場」を全然知らない(別段知ろうとしていない)ので、「現実」と比較的に捉えることができません。

 著者の奥泉光自身が大学教員でもあります(→ )。

 桑幸が担当する授業は、「日本文学概論」「日本文化の諸相(2)」「文章技術」「児童文学概論」といったもので、どれもレータン時代のノートをそのまま使えばすんだ。だいたい日本文学とか日本文化などというのは、わざわざ教えたり学んだりするようなものではないのである。日本に生まれ育って日本の空気を吸っていれば自然と身に付くものであって、それで身に付かないようなものはそもそも必要がない、というのが桑幸の持論であった。したがって教えなくてもいいのであった。(54.強調省略)


 鯨谷光司教授曰く
このあいだ教授会に出て、ホンマ驚いたんやけど、学期末のレポートを提出しなかった学生には単位をやらんちゅうんですな。そんなアホなことがありますか? 学生はちゃんと学費を払っている。そんなもんに単位をやらんでどうします? レポートを出す出さんは学生さんの勝手でっしゃろ。あっちはカネを払ってるんやから。そしたら、別のセンセが発言して、毎回出欠とって半分休んだあらオトすちゅうんですな。あんた、気ぃでも狂ったんか? といってやりましたわ。たかが出席せんとか、試験を受けんくらいで、単位をやらんなんて非常識がまかり通ってるんですからな、大学ちゅうところは。ホンマ呆れたもんですわ」と慨嘆した鯨谷教授は、学生が単位を登録した段階で全員に一律「優」を与えるという制度を提言したいと、本気でいうので、リクルート委員会の名前で文書を作成した。(129-30.強調省略)


なんか茨城って、日本のフランスらしいよ
「なに、それ?」
「意味わかんねー」
「だけど、だけど」とナース山本は批判を急いで跳ね返す。「筑波大の先生がいってたんだって
「なんて?」
「だから、茨城は日本のフランスなんだって。ただし、パリはないんだって」
(160.強調省略)

 その先生は誰ですか?

 大学教師は、一度なってしまえば試験も何もなく、つまり客観評価を受ける機会がなく、だから主観の妄想の花園にずっと棲息し続けることができることの、桑幸は好例であった。学生による「授業評価」というのがしばらく前からはじまっていて、桑幸も前にいた敷島学園麗華女子短期大学——通称レータンで経験はした。桑幸に対する学生評価は、「冬の海にいるような感じ」「かわききったタコツボ」といった気のきいたコメントも散見されたものの、全体的には最悪で、しかし桑幸は、そもそも学生の頭が悪いのだから意味なし、自分の講義はサルに小判だとうそぶいて恥じるところがなかったから、どうにもならない。しかも、驚くべきことには、世の中、下には下があるもので、桑幸より評価の低い教師がかなりの数いたのである!

 オレはレータンごときで本気を出していないし、出す必要もないし、これでオレが本気を出したら大変だよ、すんごい評価になっちゃうよ、そうなっちゃっても知らんからね、と、傲然となりこそすれ、なにひとつ桑幸が反省しなかったのは、文部科学省にも予想外だっただろう。
 桑幸の自己評価は巨木のごとくブレがなかった。というより、知的に後退すればするほど、無能ぶりが露呈する場面が重なれば重なるほど、本当の自分は凄いのだとする、根拠のない確信の家畜は肥え太り、妄想の花園で花々が絢爛と咲き誇るのだった。
 だが、〔略〕そんな桑幸にも、自分の「低さ」をリアルに鼻面につきつけられる機会がついに訪れた。たらちねへ移って最初の給与明細である。
 110,350——。
 数字の明快さには幻想の入り込む余地がない。
(225-6.強調省略)


@大学中央図書館
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by no828 | 2013-09-09 16:36 | 人+本=体 | Comments(0)
2013年 06月 22日

演奏しないのが一番いいなんてのは、ただの屁理屈だ。屁理屈以下の戯れ言だ——奥泉光『シューマンの指』

c0131823_11515139.png奥泉光『シューマンの指』講談社、2010年。55(710)

版元 → 


 奥泉 光(おくいずみ ひかる)を最初に知ったのは、柄谷行人ら近畿大学の教員とともに出版された『必読書150』(版元 → )であったと記憶しています。奥泉は現在も近畿大学で教えています。

 物語の多層構造。

 題名にある「シューマン」とはもちろん、「ロマン派音楽」の作曲家ロベルト・シューマンのことです。

 音楽は、とりわけ西洋のいわゆる古典音楽〔クラシック〕は、一つの建築物であり、それ自身小宇宙をなすものであるけれど、不可逆性を有するところに建物との違いがある。音楽は全体を一遍に受け取ることはできず、時間のなかで順番に聴かれるしかない。物語もきっと同じだろう。順々に、根気よく語っていかなければならないのだろう。(42)

 グレン・グールドが前期ロマン派の音楽に否定的だったことはよく知られている。〔略〕
 グールドはなぜ前期ロマン派を嫌ったか。これはなかなか興味深い問題である。
 〔略〕
 ロマン派音楽の特徴の一つはその物語性にある。これはオペラに起源を持つので、その意味では、バロックこそが最も物語的だといいうるし、古典派にも当然ながら物語性は色濃く刻印されている。だが、ロマン派以前の音楽が、どこかで神話の輝きを帯びた叙事詩的な性格を備えていたのに対して、ロマン派は、近代文学と同様、個人の感情や内面の葛藤を物語の軸に据えるところに特色がある。だからこそロマン派音楽は、演奏者や聴き手の「感情移入」を容易に許す。物語が感情を揺さぶり、心から溢れ出す感情が物語を生み出す——。その果てしのない循環のなかで人は音楽と戯れる。
 「お話を作り過ぎる」グールドは、物語に触れて感情が過多になりがちな自分を厭がったのではないか。これが彼がロマン派を嫌った理由だというのが、私の仮説である。
(103-5)

「そう。だから、弾けなくていいんだよ。というか、シューマンは限界を超えることを求めてるんだ。あの曲、というか、ソナタはどれもそうだけど、曲そのものが限界を超えている(125)

□■□■□

音楽を台無しにしない演奏なんてないさ。どんな天才が弾いたって音楽は台無しになる。僕が目指したのは、いってみれば零の演奏、というか空虚の演奏さ。何も弾かないのと同じくらいに何もない演奏。絶対の零。あるいは虚数の演奏。そう、虚数っていうのが一番ぴったりかもしれない。かけ算するとマイナスになる。そういう演奏」(216)

イデアだか何だか知らないが、ようするに音楽性がないっていうだけの話さ。演奏しないのが一番いいなんてのは、ただの屁理屈だ。屁理屈以下の戯れ言だ。演奏しなくて、どこに音楽があるっていうんだ。演奏しないのが一番なんていうのは、恐いからだ。弾いて失敗するのが恐いからだ。そんなのはただの甘えだ。甘えているだけの話だ。あんな凄い演奏ができるのに、なんでちゃんと弾かないんだ!」(220)

かりに本当の音楽なんてものがあったとしても、誰かが懸命に演奏して、それをなんとか実現しようとするからこそ、ありえるんだ。完璧がありえないのはたしかだけど、それへ一歩でも近づこうとしなかったら、それは消えてしまう。しかし、君は、近づくんじゃなくて、どんどん遠ざかろうとしている」(221-2)

 この3つの引用に見られるような、イデア論とそれに対する批判は——史的にはおそらく逆にヘラクレイトスが先でプラトンが後のはずですが——人間の思考構造を繰り返し象ってきたと思います。そして、これを——たとえば人間はなぜイデアのようなものを想定したがるのか、のようなかたちで——メタ・ポジションへ上がることによって間接的に解決しようとしてきたとも思います。わたしはメタ・ポジションへ上がらずにこの思考構造を問題化したいと思っています。メタへ行くことがおもしろいと感じていたこともありますが、博論以降は顕著におもしろいとは思わなくなりました。ここから、あえてベタを語る方向へ進むこともできますが、わたしはこの“あえて”というのもあまり好きではありません。もちろんこの思考構造の問題がわたしの研究の主題ではありませんが、研究には思考が不可避的に伴うわけですから、その思考自体に関心が向かうのは当然だ——むしろ向けるべきだ——というのがわたしの考えですが、わたしの研究の主題が部分的に属する領域ではほとんど問題にされていないように見受けられます。

@研究室
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by no828 | 2013-06-22 12:40 | 人+本=体 | Comments(0)