思索の森と空の群青

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タグ:安西水丸 ( 6 ) タグの人気記事


2013年 01月 18日

昨年の九月にアンチテーゼ採りにボルネオに行ったまま——村上春樹・安西水丸『夜のくもざる』

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村上春樹・安西水丸『村上朝日堂超短篇小説 夜のくもざる』新潮社(新潮文庫)、1998年。188(648)

単行本は1995年に平凡社より刊行。

版元 → 


 昨年ぶんを続けます。タイトルにありますように、超短篇の集まりです。

 学友の所属していた劇団では「バウムクーヘン」でした(同じ主題を扱っていたと言いきれるかというと、実は少々不安です……)。
「私たち人間存在の中心は無なのよ。何もない、ゼロなのよ。どうしてあなたはその空白をしっかり見据えようとしないの? どうして周辺部分にばかり目がいくの?」(「ドーナツ化」55-6)


 こういうの、好き。
 昨年の九月にアンチテーゼ採りにボルネオに行ったまま消息のとだえていた伯父から、やっと一枚の絵葉書が届いた。〔略〕
誠に残念なことだが、昨今は当地でも大物と呼べるほどのアンチテーゼは姿を消してしまったようだ」と伯父は書いていた。
(「アンチテーゼ」60)


@研究室
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by no828 | 2013-01-18 17:41 | 人+本=体 | Comments(0)
2012年 09月 19日

悪口を言われているくらいがちょうどいい——村上春樹・安西水丸『村上朝日堂はいかにして鍛えられたか』

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141(601)村上春樹・安西水丸『村上朝日堂はいかにして鍛えられたか』新潮社(新潮文庫)、1999年。

単行本は1997年に朝日新聞社より刊行。

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 エッセイ集。学校/教育について書かれた文章も収録されています。個人的には、「僕らの世代はそれほどひどい世代じゃなかったと思う」(306-10)の「被差別部落」の話が印象に残っています。印象の残り方にはいくつか(あるいはそれ以上)あると思いますが、このエッセイは、この文章が、というより、全体的に、なので、引用はしません。

 村上春樹の通った公立中学の話。村上は1949年生まれ。
 もちろん生徒を殴らない先生もいた。でも半分以上の男の教師は生徒を殴ったと思う。よくウヨクの人たちが「戦後の民主主義教育が日本を駄目にした」というようなことを言うけれど、なんのことだかさっぱり理解できない。僕にとっては「戦後の民主主義教育」なんてどこにも存在しなかったようなものだから。
〔略〕「こんなことで殴られるのは理不尽だし不公平じゃないか」と感じたからこそ今でもよく覚えているのだ。少なくとも僕は、その母校をもう一度訪問したいという気持ちにはどうしてもなれない。〔略〕
 考えてみれば、そこで教師たちに日常的に殴られたことによって、僕の人生はけっこう大きく変化させられてしまったような気がする。僕はそれ以来、教師や学校に対して親しみよりはむしろ、恐怖や嫌悪感の方を強く抱くようになった。〔略〕
 数年前に同じ兵庫県の高校で女子生徒の校門圧死事件があったときにも、「とんでもないことだけれど、僕の体験を考えれば、そういう無茶苦茶なことが起こっても不思議ではないのかもしれない」と思った。そしてその教師を「不幸な事件だが、教育に熱心な先生だった」と弁護する人さえいることを知って、ますます暗澹たる気分になった。熱心であることが問題をますます深刻なものにしているという事実が、この人たちにはわかっていないのだろうか?
(「体罰について」26-8.傍点省略)


 翻訳について。
翻訳でいちばんわくわくするのはなんといっても、横になっているものをまず最初に縦に起こし直すあの瞬間だからだ。そのときに頭の中の言語システムが、ぎゅっぎゅっと筋肉のストレッチをする感覚がたまらなく心地よいのである。そして翻訳された文章のリズムの瑞々しさは、このしょっぱなのストレッチの中から生まれ出てくる。この快感は、おそらく実際に味わった人にしかわからないだろう。
 僕は文章の書き方というものの多くを、このような作業から結果的に学んだ。外国の優れた作家の文章をひとつひとつ横から縦に「よっこらしょ」と直すことによって、文章の持つ秘密(ミステリー)を根もとから解き明かしてきたわけだ。翻訳というのはやたら時間のかかる「鈍くさい」作業だが、それだけに細かいところがしっかり身につくという大きな利点がある。
(「趣味としての翻訳」70.傍点省略)


 批評について。
 何かを非難すること、厳しく批評すること自体が間違っていると言っているわけではない。すべてのテキストはあらゆる批評に開かれているものだし、また開かれていなくてはならない。ただ僕がここで言いたいのは、何かに対するネガティブな方向の啓蒙は、場合によってはいろんな物事を、ときとして自分自身をも、取り返しがつかないくらい損なってしまうということだ。そこにはより大きく温かいポジティブな「代償」のようなものが用意されていなくてはならないはずだ。そのような裏打ちのないネガティブな連続的言動は即効性のある注射漬けと同じで、一度進み始めるとあとに戻れなくなってしまうという事実も肝に銘じておかなくてはならないだろう。
〔略〕それよりはむしろ「これはいいですよ、これは面白いですよ」と言って、それを同じようにいいと思い、面白いと喜んでくれる人をたとえ少しでもいいからみつけたいと思っている。経験的に深くそう思う。これは早稲田大学文学部が僕に与えてくれた数少ない生きた教訓のひとつである。
(「テネシー・ウィリアムズはいかにして見捨てられたか」86-7)


 生きていく姿勢について。
レースのキャリアにおいても人生においても、志なかばでこの世界を去って行かなくてはならなかったことは、無念以外のなにものでもなかっただろう。走っていて苦しくなると、今でもよくそのことを考える。そして「苦しくても、少なくとも俺はこうして走っていられるんだし、こうして書いていられるんだ」と思う。(「果されなかったもの」238)

 走るだけではなく、仕事の面でも、ものごとがあまりすらすら順調に運んでいると、どういうわけか気持ちが落ちつかなくなってくる。なにかもそもそとこそばゆくなってくる。誰かに褒められると体が緊張して(もちろん僕だって褒められれば嬉しいんだけど)、ついろくでもないことを口走り、自己嫌悪におちいってしまう。ところが風向きが逆になってくると、僕は俄然生き生きしてくるみたいだ。「よしよし、これで上り坂だ」と思うと顔がほころんできて(というのはちょっとオーバーだけど)、ギアをおもむろにローに入れる。自分でも変な性格だなと思わないでもない。長距離走が好き、それも上り坂が好きなんてね。でも性格ってきっと死ぬまで変わらないですね。(「梅竹下ランナーズ・クラブ通信❷」117)

〔略〕今思えばカウンターの中から世界を眺めていた七年間の体験は、作家としての僕にとって、何ものにもかえられない貴重な財産になった。僕はそこからいろんな教訓を頭ではなく、体でみっちりと学びとることになった。「下手に褒められるよりは、悪口を言われているくらいがちょうどいいんだ」というのがその教訓のひとつである。批判されたり悪口を言われたりするのはもちろん面白いことではない。でも少なくとも、欺かれてはいない。(「更衣室で他人の悪口を言わないで下さい」295)


@研究室
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by no828 | 2012-09-19 15:21 | 人+本=体 | Comments(0)
2012年 07月 16日

経済動物ってのは説得力のある言葉ですね——村上春樹・安西水丸『日出る国の工場』

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109(569)村上春樹・安西水丸『日出る国の工場』新潮社(新潮文庫)、1990年。

版元 → 

単行本は平凡社より1987年に刊行。


 土日祝日と大学の研究室は冷房が入りません。通常、研究室に来たらまず珈琲を淹れ、ホットのブラックで飲み、ホットのブラックが好きなのですが、もうこの暑さになると、はじめから少し濃く淹れた珈琲を氷たくさんのコップに注いでアイス・コーヒーにするしかありません。

 ごくごく。

 さて。

 本書は日本にある7つの工場の取材の結実です。7つというのは——一般名詞と固有名詞が乱立しますが——人体標本工場、結婚式場、消しゴム工場、酪農工場、コム・デ・ギャルソン工場、コンパクト・ディスク工場、アデランス工場です。取材自体は1986年に行なわれたようです。

 ——一頭から何CCくらい採るんですか?
 菊池「今は平均でだいたい一回に一四、五キロというところですね。一日に二七キロくらいになっています。一頭平均ですね。乳牛の場合は若い牛よりもある程度お産をかさねてきた方がおっぱいは沢山出るんです。だいたい四産か五産くらいがピークになりますね。中には七、八産になってグッと出た牛もありますけどね。でも一般的には四、五産で最高に出るわけです」
 ——牝牛の働ける寿命といいますと、どれくらいなんですか?
 菊池「こっちの場合も(種牛と同じように)一〇歳くらいですね。うちで最高に年とった牛で一四、五産とったのがいるんですよ。毎年とったとしても、十七、八歳になりますね。ただ平均すると経済動物なわけですから、今のところは五産六産とって、ピークを過ぎた牛は淘汰されるわけです。経済動物だから、天寿を全うということはないんですね」(※ここでおっこちた牝牛もやはり加工肉にされちゃいます)
 ——なるほどね。経済動物ってのは説得力のある言葉ですね。
(134-5.強調省略)

 こういうのを見ていると、現場の人たちが牛のことを「経済動物」と呼ぶ感覚は本当によくわかる。彼らにとっては——というか世の中にとっては——ホルスタイン牛というのは有効に乳を出すという目的(経済行為)のために存在しているのであって、もしその目的遂行にかげりが生じたなら、それは処分されることになる。そこが人間のサラリーマンと少し違うところで、人間の場合は経済的有効性が失われて定年になっても、いちおう退職金とか年金とかもらって、まあのんびり余生を過ごすことになる。でも牛には余生なんてものはなくて、少し力が落ちたらもう一発でコーンビーフかキャットフードである。都会に住んでいる人間はどうしても「緑の牧場」という牧歌的なイメージを抱きがちだけれど、結局のところ、牧場だってやはり資本投下=回収という原理によって進行しているひとつの経済体にすぎない。その中で牛はただ原料の役割を果しているだけのことだ。もしそれを「原料」というように思わなくなってしまったら、原理そのものが揺らいでしまうことになるのである。(139)


アデランス成功の秘密は「デリケートな薄毛の顧客」のデリケートさをきちんと丁寧に扱った点にあるのであって、アデランスという会社がどれだけ明るくふるまおうが、そのような企業と顧客の関係の本質はいつまでも不変であるだろう。
 だからアデランスの工場には企業秘密というものは一切ない。「何を見ていただいても、何を書いていただいても結構です」と彼らは言う。「我々の企業秘密というのは要するにユーザーに対するきめ細かいサービスの動員力であって、これは他の会社には真似できないんです」

 帰りの新幹線の中で、僕はこの企業は何かに似ているな、とまたずっと考えていた。そう、新興宗教団体に似ているのだ。清潔で力強く、強固なポリシーを持ち、そして明るく、人々の悩みを糧として発展している。そして上原謙や若原一郎や藤巻潤、ポール・アンカといった改宗者たちがキリストの十二使徒のごとくTVでアデランスの福音を説いている。人々は様々な理由で不幸になるし、また様々な理由で幸福にもなるのだ。
(235.傍点省略)



@研究室
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by no828 | 2012-07-16 15:34 | 人+本=体 | Comments(0)
2012年 06月 13日

町で本を読みたいと思ったときは、なんといっても——村上春樹・安西水丸『ランゲルハンス島の午後』

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94(554)村上春樹・安西水丸『ランゲルハンス島の午後』新潮社(新潮文庫)、1990年。

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単行本は1986年に光文社より刊行。


 エッセイ25編です。表題作(書き下ろし)がいちばんじわっときました。が、引用はそこではない2カ所から。

 
町で本を読みたいと思ったときは、なんといっても午後のレストランがいちばんだ。静かで、明るくて、すいていて、椅子の座り心地が良い店をひとつ確保しておく。ワインと軽い前菜だけでも嫌な顔をしない親切な店が良い。町に出て時間が余ったら書店で本を一冊買い、その店に入ってちびちびと白いワインを舐めながらページを繰る。こういうのってすごく贅沢で気分の良いものである。チェーホフなんか読んでいると、情景的にすごく似合いそうである。(「レストランの読書」11)

 かなりよさそうです。

 
引出しの中にきちんと折ってくるくる丸められた綺麗なパンツが沢山詰まっているというのは人生における小さくはあるが確固とした幸せのひとつ(略して小確幸)ではないかと思うのだが、これはあるいは僕だけの特殊な考え方かもしれない。なぜならひとり暮らしの独身者をべつにすれば自分のパンツを自分で選んで買うという男性は、少く〔ママ〕とも僕のまわりにはあまりいないからである。(「小確幸」82-3)

 村上さんのエッセイには、たびたびこの「小確幸」という表現が出てきますね。

 
@研究室
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by no828 | 2012-06-13 15:10 | 人+本=体 | Comments(0)
2012年 05月 27日

こういう性格は往々にして他人を傷つけるし——村上春樹・安西水丸『村上朝日堂の逆襲』

c0131823_144933.jpg84(544)村上春樹・安西水丸『村上朝日堂の逆襲』新潮社(新潮文庫)、1989年。

版元 → 

単行本は1986年に朝日新聞社より刊行。


 エッセイ集。納得した3カ所の引用となります。

 僕はだいたいがこんな風にまわり道をしながら好きなやり方でゴリゴリと押していく性格で、何かに辿りつくまでに時間がかかるし、失敗も数多くする。しかし一度それが身についてしまうと、ちょっとやそっとでは揺るがない。これはべつに自慢して言っているわけではない。こういう性格は往々にして他人を傷つけるし、自分でそのスタイルを矯正しようとしてもなかなか上手くいかないものである。他人に何かを勧められてもだいたい聞き流すし、他人に何かを真剣に勧めるということもあまりない。しかしこんな風に生きてきたんだから今更仕方ないよなと思う。(59)

 わたしもたぶんこういう性格ですから、“そうですよね、「仕方ないよな」ですよね”と思いました。わたしの場合は勧めてくれる「他人」によっては耳を傾けますが、「他人を傷つけるし」というのはやはりあると思いました。

 この〔アメリカの大学の「創作科(クリエイティブ・コース)」という〕システムの良さは生徒がプロの作家と触れあえ、実践的なアドバイスを受けられることと、作家の収入が定安〔ママ。安定?〕することにある。教師としての仕事量はそれほど多くないから、作家は余暇を自分の創作にあてることもできる。こういうシステムが教育手段としてどれくらい有効なのかは僕には判断できないけれど、日本の大学にも少しくらいはこのようなコースがあっても良いのではないかと思う。僕にはとても無理だけれど、教えるのが得意な作家と教わるのが得意な生徒が合体すればそれなりの効果は生まれるはずである。「大学の教室なんかで小説の書き方が学べるものか」という意見はやはり一面的にすぎると思う。人は——とくに若い人々は——あらゆるところから何かを学んでいくものだし、その場所が大学の教室であったとしても何の不都合もないはずである。(109)

 高等教育における「授業」の意義をしばしば考える今日この頃であります。わざわざ同じ時間に同じ場所に集まって同じ人間の話を聞くことの意義は何か、です。たとえば、図書館で本を読んでいてもよいのでは? ということです。授業が“学び”の起動する「あらゆるところ」のひとつだとはもちろん了解していますが、それにしても、と考えてしまいます。学生の前でこういうことを正直に話してみても、なかなか理解してもらえないようです。

 僕がこういうことを言ってもあまり説得力はないかもしれないけれど、我々はそろそろそのような〔アメリカのあの大恐慌のような〕クラッシュ=価値崩壊に備えて自らの洗いなおしにかかるべき時期に至っているのかもしれない。(161)

 価値はどのように論じればよいのか、ということを考えています。答えは出ていません。が、価値は語らざるをえないものである(価値を語らない、はありえない)、ということは前提にしてよいのではないかと考えています。


@研究室

 
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by no828 | 2012-05-27 15:26 | 人+本=体 | Comments(2)
2012年 03月 16日

これはもう、文章云々をべつにしてとにかく生きるということしかない——村上春樹・安西水丸『村上朝日堂』

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35(505)村上春樹・安西水丸『村上朝日堂』新潮社(新潮文庫)、1987年。

版元 → 

※ 単行本は1984年に若林出版企画より刊行。


 短めのエッセイの集成。結構昔の本なんですね。

 村上さんは、幼い頃に「世界文学全集」と「世界の歴史」を読んでいたそうです。もしこれが「日本文学全集」と「日本の歴史」であったなら、考え方も書くことも違っていたはずだ、と書かれていました。そこを読んで、「教育」について考えました。「教育」はやはり、不可逆的なのです。

 ↓ 昨日の奥泉光とも関連します。“生きてなお書きたいと思うならば、書けばよい”というのが結論でした。


 文章というのは「さあ書こう」と思ってなかなか書けるものではない。まず「何を書くか」という内容が必要だし、「どんな風に書くか」というスタイルが必要である。
 でも若いうちから、自分にふさわしい内容やスタイルが発見できるかというと、これは天才でもないかぎりむずかしい。だからどこかから既成の内容やスタイルを借りてきて、適当にしのいでいくことになる。
 既成のものというのは他人にも受け入れられやすいから、器用な人だとまわりから「お、うまいね」なんてけっこう言われたりする。本人もその気になる。もっとほめられようと思う——という風にして駄目になった人を僕は何人も見てきた。たしかに文章というのは量を書けば上手くなる。でも自分の中にきちんとした方向感覚がない限り、上手さの大半は「器用さ」で終ってしまう。
 それではそんな方向感覚はどうすれば身につくか? これはもう、文章云々をべつにしてとにかく生きるということしかない。

□(「文章の書き方」26-7.傍点省略)

 ↓ 読んで安心しました。(ただ、「質」というのも「実体のないもの」と言えなくもないと思いました。)


 数字というのは実に複雑である。だから総理府統計局なんてところはどうも信用できない。GNP も絶対に眉つばである。
 そりゃ GNP なんていうものが新宿西口広場にどんと置いてあって、さわりたい人は誰でもさわってよろしいっていうんなら僕だって信用してもいいけど、でなきゃ実体のないものなんてとても信じられないよ。
〔略〕
 それはともかく学生時代にアルバイトして買ったレコードは今でもちゃんと覚えていて、一枚一枚大事に聴いている。なんだってそうだけど、数とか量の問題じゃなくて、要は質なんだよ、ということです。

□(「アルバイトについて」12-3)

 ↓ 学部教育の意義は何か? わたしは教育学部ではないところから教育学の大学院に入った。入ってそこで、教員から“君は教育学を勉強してこなかったからね”というようなことを言われた。悔しいので勉強した。でも、“何をどうすれば「教育学を勉強した」ことになるのか”、よくわからなかった。それは誰も教えてくれなかった。学部(学類)で教育学を専攻してきた先輩同輩後輩を見ても、「教育学を勉強してきた」の意味が何なのかはよくわからなかった。


 僕は実は早稲田大学文学部の映画演劇科というところに入っていて、映画の勉強をしていた。しかしだからといってとくに映画にくわしいとか、そういうことはない。また他人に比べて映画をより良く理解できるかというと、そんなこともない。そう考えると大学教育というのはあまり意味がないみたいだ
□(「ビリー・ワイルダーの「サンセット大通り」」90)

 ↓ 大学つながり。村上さんは学生時代からジャズ喫茶を開いていたのです。ちなみに、村上さんは大学を卒業するのに7年かかったらしい。さらにちなみに、奥さんは5年。若いときに“時間をかけた”ことが、あとあと意味を持ってくるのかなぁ……(そうするようにしたい、というのは当然として、そうなってほしいなぁ……)。


 今、「金もないけど、就職もしたくない」という思いを抱いている若者たちはいったいどのような道を歩んでいるのだろうか? かつて僕もそんな一員だっただけに、現在の閉塞した社会状況はとても心配である。抜け道の数が多ければ多いほどその社会は良い社会であると僕は思っている。
□(「国分寺の巻」57)

 ↓ “おぉ、そういうものなのかぁ”と感動しました。「実感」が描かれていると、しかもそれが、自分からもそう遠くはないところにあるものだけれど自分は経験していないことの「実感」だと、すごく“おぉ”と思います。


 先日神田の三省堂書店で本を買っていたら、同じレジで僕の書いた本を買っている女の子がいた。この人は二冊本を買っていて、一冊が僕の本だった。もう一冊が何だったか、その時は覚えていたんだけれど、今どうしても思い出せない。本の著者というのは自分の本が他のどんな種類の本と組みあわせて買われているのかということに対して、すごく興味があるものなのである。
□(「「三省堂書店」で考えたこと」118)

 ↓ 実感つながり。ドイツ滞在1ヶ月の実感。


 それよりはドイツの若い連中がみんな反核バッジを胸につけていたり、パーシングⅡ反対キャンペーン・シールを車にベタベタと貼っているのを見ている方が、世界の空気の流れみたいものを肌で感じることができる。
 本当の情報とはそういうものだと僕は思う。
決して新聞が役に立たないというわけではなく、世の中には右から左に抜けていくだけの身につかない情報が余りにもあふれすぎてるんじゃないかと思うだけである。

□(「新聞を読まないことについて」149)

 ↓ 理由は根本において通用しないのです。「だってそうなんだもん」にならざるをえない。


野蛮というのは人間の性向の問題ではなく、コンセプトの問題である。僕がカキを食べられてハマグリを食べられないことに対して「何故そうなのか?」と問いつめられても、僕としてはものすごく説明に困るのである。性向を説明することは可能だが、コンセプトを説明するのはほぼ不可能だからだ。
 話はぐっと飛んじゃうけど、「どうしてああいう奥さんと一緒になったの?」という質問も同じライン上にある難問である。僕はこういう種類の現実を仮りに〈同時存在的正当性〉と呼んでいるんだけど、なんだか今回は話は〔ママ〕ややこしくなった。

□(「食物の好き嫌いについて(2)」159)

 〈同時存在的正当性〉は、よくわからないのですが、「だってそうなんだもん」としか答えようがない「現実」の正当性は論証・実証しようがない、ということでしょうか。なぜ〈いま・ここ〉がこのようにあり、あのようにはないのか、という問題系、あるいは同一主題における選択を複数同時に実行することは不可能である(たとえば、19時03分に研究室を離脱するという選択と19時03分に研究室に留まるという選択とを両立することはできない)、という命題を指示しているのでしょうか。よくわかりませんが、わからないがゆえに関心が駆り立てられます。


@研究室
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by no828 | 2012-03-16 19:11 | 人+本=体 | Comments(0)