思索の森と空の群青

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2016年 03月 12日

「それは、楽なの?」とわたしはきいた——川上未映子『すべて真夜中の恋人たち』

c0131823_15492023.jpg川上未映子『すべて真夜中の恋人たち』講談社、2011年。46(968)


 版元

 2015年に残してきた本


 主人公は控え目な、あるいは人まかせな、あるいは自分のなかに閉じこもりがちな女性で、その仕事はフリーランスの校閲で、勇気を出すためにお酒を飲むようになります。主人公に仕事を依頼する大手出版社で働く石川聖は主人公とは違って自分の価値観を信頼している——あるいは信頼しようとしていてできていない——からとても強気で、だからそれに合わない人や事柄を排したくなるところがあります。

 彼女らの仕事についての会話にはわたしの仕事に通じる内容も含まれ、その部分をも含めておもしろく読みました。

 偽りさえも温かく、それは裏切りとしては残らないのかもしれません——書き出しは、「真夜中は、なぜこんなにもきれいなんだろうと思う」(3)。


「それにしても参考文献ってさ、なんだっていつもこんなに大量にあるのかしら。参考にしないで書けないものなの、彼らは。それにいつも思うんだけど、今回のなんてとくにほとんどが引用じゃない? 本人が書いてるのってじっさい半分以下だよね」(5)

でも、わたしはいつもよくわからなかったのだ。何をどう楽しんでいいのか。断りたい仕事があっても、それをどんなふうに断るのが正しいのか。考えれば考えるほど、最後にはいつも自分の気持ちのようなものがわからなくなって、それで行動を起こせないままにやってきただけだった。(10)

「わたしはね、信頼できる仕事をする人が好きなの」しばらくして聖が言った。〔略〕
信用っていうのは、信用貸しとかいう言葉もあるくらいでさ、この人とは利害が一致するなと思ったら——つまり、人って一方的に信用したりしなかったりすることができるじゃない。だからそこには相手がいない感じがするのよね。つまりいったん信用したとしても、何かのちょっとした加減で、そんなのいつでも信用できなくなることもできるっていうか」
「うん」
「その意味では、信用なんてたいしたことじゃないのよ。ちょっとした都合や風向きで簡単になかったことにできるものなのよ。でもね、信頼っていうのはわたしにとってそうじゃないのよ。信用と信頼は、ちがうの。信頼したぶん、わたしも相手に、何かをちゃんと手渡しているって、そういうふうに感じるの〔略〕わたしが信頼するのは、〔略〕まずその人の仕事にたいする姿勢であるってことなの〔略〕たとえばデイトレードでも肉体労働でもなんでもいいの。種類でもなければ、結果を出すとか出さないとか、そういうものでもないの。結果なんて運もあるし、そんなものいくらでも変わるもの。他人なんていくらだって言いくるめることはできるし、ごまかすことだってできるしね。でも、自分にだけは嘘はつけないもの。自分の人生において仕事というものをどんなふうにとらえていて、それにたいしてどれだけ敬意を払って、そして努力しているか。あるいは、したか。わたしが信頼するのはそんなふうに自分の仕事とむきあっている人なのよ〔略〕そして、そういう人に向けられた自分の気持ちを、わたしは信頼しているところがあるの」
(21-4)

わたしたちは、ないところから何かをつくりだすことはできないけれど、でもすごく大事な仕事をしている。わたしは文学とか小説とか批評とか、そういうむずかしいことは何もわからないけれど、でも自分の仕事に誇りをもってる」(26)

なんといっても校閲のまえには、すべての原稿はひとしく平等だから」と聖は言った。そして、
『ひとしく平等』って、鉛筆を入れたくなるね」と言って笑った。わたしもそうだねと言って笑った。
(35)

 わたしのところへ回ってきたゲラが上下巻のものだったうえに、それぞれ枚数も多く、初校だった。わたしは毎日十五時間以上机に向かい、それが三週間ほどつづいた。それでも時間は足りなかった。
 集中すればするほど、目のまえの文字がばらばらと好き勝手に動きだして逃れるようにしてこぼれてゆき、わたしはそれをひとつひとつつまんで紙のうえにもどして整列させた。そのひとつひとつが意味するものを念入りに拾いあげて、ふるいにかけるみたいにして、いつものように、そのひとつひとつを疑っていった。
(51)

今回のゲラは一冊で六百ページも分量があるもので、両手でもっても手首がぐらりとするくらいの重さがあった。聖は抱きかかえるようにしてそれをもって、その厚みと重さを確かめるみたいにして首を軽くふり、わたしをみて笑った。
信じられる? 人が人に向かって、こんなにも言いたいことがあるなんて
(63)

「……校閲の仕事を始めて最初に教えられるのは、その、そこに書かれてある物語を読んではいけないということなんです。……なんというか、小説でもなんでも、読んじゃだめなんです」
「読んではいけないの?」
「はい。つまり、……どんな場合であっても、その文書にのめりこんだり入りこんだりすることは、校閲者には禁じられているんです」
(97)

「……なんだかね、たとえばさ、うれしいとか悲しいとか、不安とか、色々あるじゃない。テレビみて面白いなあとか、エビ食べておいしいなあとか、なんでも。でもね、そんなのっていつか仕事で読んだり触れたりした文章の引用じゃないのかって思えるの。何かにたいして感情が動いたような気がしても、それってほんとうに自分が思っていることなのかどうかが、自分でもよくわからなくなるのよ。いつか誰かが書き記した、それが文章じゃなくてもね、映画の台詞でも表情でもなんでもいいんだけど、とにかく他人のものを引用しているような気持ちになるの〔略〕感情みたいなのが動くたびに、白々しいような気持ちと自分が何かに乗っとられてるような気持ちになって——気がついてなかっただけで、じつは物心ついたときからわたしが生きてきたって思いこんでいるものは、しょせんそんなものだったんじゃないのかって、まあそんなふうに感じるってことなのよ〔略〕だから、この『しょせん何かからの引用じゃないか、自前のものなんて、何もないんじゃないのか』っていうこの気持ちも、やっぱりどこかからの引用じゃないかっていうような気がして、まあ、なんかいろいろ、だめなのよ(138-40)

「なんで入江くんにこんな話できたのかっていうとね」と典子は言った。
それは、入江くんがもうわたしの人生の登場人物じゃないからなんだよ
(222)

 でも、とわたしは思った。それでも目のまえのことを、いつも一生懸命にやってきたことはほんとうじゃないかと、そう思った。自分なりに、与えられたものにたいしては、力を尽くしてやってきたじゃないか。いや、そうじゃない。そうじゃないんだとわたしは思った。わたしはいつもごまかしてきたのだった。目のまえのことをただ言われるままにこなしているだけのことで何かをしているつもりになって、そんなふうに、いまみたいに自分に言い訳をして、自分がこれまでの人生で何もやってこなかったことを、いつだってみないようにして、ごまかしてきたのだった。傷つくのがこわくて、何もしてこなかったことを。失敗するのがこわくて、傷つくのがこわくて、わたしは何も選んでこなかったし、何もしてこなかったのだ。(251-2)

いま、わたしは三束さんにさわれているんですか。それも、光と似ていますね、と三束さんはわたしに指さきをにぎられたまま言った。ふれるというのは、むずかしい状態です。ふれているということは、これ以上は近づくことができない距離を同時に示していることにもなるから。(277)

楽なのが好きなんじゃないの? 他人にはあんまりかかわらないで、自分だけで完結する方法っていうか。そういうのが好きなんでしょ
「方法?」とわたしはきいた。
「要するに、我が身が可愛いのよ」と聖が言った。「わたしはべつにそれが悪いって言ってるんじゃないわよ? ただ、そういうメンタリティでしょっていう話。自分から何も——できないのか、しないのか、そんなの知ったことじゃないけれど、自分の気持ちを伝えたり、動いたり、他人とかかわってゆくのって、まあすごく面倒で大変なことじゃない? 誤解されるのはうっとうしいし、わかってもらえないのは悲しいし、傷つくこともあるだろうし。でもそういうのを回避して、何もしないで、自分だけで完結して生きていれば、少なくとも自分だけは無傷でいれるでしょ? あなたはそういうのが好きなんじゃないの?」聖は言った。「自分以外の誰かにべつに何かを求めない代わりに、自分にも誰からも求めさせないっていうかね。まあそうやって生きていければ、それは楽なんじゃないの?
それは、楽なの?」とわたしはきいた。
(287-8)


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by no828 | 2016-03-12 16:03 | 人+本=体 | Comments(0)
2015年 04月 30日

自分で作ったはずもない言葉と一緒になって作ってる——川上未映子『人生が用意するもの』

c0131823_20273496.jpg川上未映子『人生が用意するもの』新潮社、2012年。81(904)


 版元

 まだ全部用意できていない → 


 3.11後のエッセイ。共感する箇所多々。最近のアップロードの並びでいうと、三島由紀夫と川上未映子に同意するところが比較的多くあり、これは何。

ラズノグラーシエ」(以下ラズ)という概念があるそうで、これはバフチンと山城むつみがドストエフスキー(以下ドス)を解読するときの開鍵概念として使用しているそうで、この意味は「たとえば。謙遜でも遠慮でもなく、本当に思ってることとして「俺、頭わるいんだよ」と発言してみたとしよう。でもそれを聞いた相手から「そうだね。君、頭悪いよね」と言われたら、認めてないわけじゃないのに、こう「うっ」となる感じありませんか。おなじ言葉・内容であっても、自分が言うのと他人が言うのではなにかが決定的にズレてしまうのである。この「ズレ=異和=うっ」こそが「ラズ」であり、この運動のちからこそがドスの作品を貫く秘密であるとそういうわけであるのだった」(170-1)。ということを踏まえて、以下の引用の一部はお読みください。

 しかしその前に、もっとも共感した部分の長めの引用からはじめたい。これは人にとって重要な体験であるように思われるし、少なくともわたし——と川上——にとっては重要な体験でありました。わたしのこの体験は割と遅かったわけですが——つまりは本人が考えながら悩みながら、それが深く、あるいは暗くなってもなお止められずに、あきらめられずに考え悩み、それを何とか表現しえたとき、「それでいい」といってくれる人がいるかどうか——この体験があるかどうか、それが、おそらくは自己肯定という点で、大きな意義があるのだとわたしは思います。自分で自分を肯定するのはけっこうしんどいとわたしは思うし、肯定しきれないのではないかとも思います。他者による肯定が自己肯定をもたらす——といったことも以下の引用のなかには含まれていたりもします。しかし、先に記したような他者を肯定すべきポイントを見抜き、そこで肯定することのできる人というのは、そんなに多くないのではないかとも思います。子どもにとって外部性の高い職業的教師は、それを見抜かなければならないと思います。外部であることの意義は、あるいはここに(も)あるのかもしれない。


 小学5年のある日、作文を書くように言われ、これまではなんとなく今日のできごととかほわわんとしたようなことを書いていたのだけれど、そのときよほど切羽詰まったものがあったのか「自分だけじゃなくて、まわりのみんながいつか死んでしまうのがこわい。いなくなるのがこわい。こんな考えかたはずるいかもしれないけれど、そのことを思うと、わたしはお母さんよりも先に、誰よりも先に、死んでしまいたいと思う。でも、よく、わかりません」というようなことを書いた。こういうことを親とか大人にきいたり言ったりするといつだって「その辺、走ってこい」と一蹴されて終わりだったから今回もいやな顔をして怒られるのかと思ったら、当時の担任の——大竹欽一先生はわたしの名前を厳しい顔で呼んで立たせ、それから大きな拍手をしてくれたのだ。そして「その考えと気持ちをずっと忘れないでいてください。素晴らしい作文でした」と言ってくれたのだった。
 そのときはわたしは非常に驚き、そうか、こういうことを書いてもいいんだ、人に話してもいいんだ、こういうことをもっと考えてもいいんだと胸を膨らみ興奮し、本当に本当にうれしかったのを覚えている。大竹先生の言葉はあれからずっとわたしのなかのどこかに残っていて、こうして人様に向けて文章を書くことを日々の生業としている「いま」に、確かにしっかりと繫がっている。

 あれは家族以外の、少し離れた人からはじめて受け取った肯定で、それは語彙が少ないぶんだけ言いようのない不安と恐怖にまわりを囲まれていた当時のわたしをいったいどれほど勇気づけてくれたことだろう。
(195-6)

------

〔略〕震災をめぐる報道でクローズアップされるのは、家族や夫婦といった社会的に認められた関係にある人々ばかりだったと哲学者の中島義道さんがある雑誌でお書きになっていたのを読んだ。〔略〕中島さんが言うように「行方不明の恋人を探す」場面や「避難場所で暮らす同性愛者たち」といった——通常のルールから外れていると社会が見なす人々が公に登場するのをみる機会はたしかになかった。(42)

「安全」を繰りかえすテレビの報道を見ながら、わたしは被災地にいらっしゃるお年寄りや赤ちゃんを抱えたお母さんのことを思う。テレビで安全と言われつづける限り、それを信じないわけにはいかない人たちだ。避難しなくていいと言われればそこに留まるほかない人たち、想像の選択肢がない人たちだ。それが正しかった場合はいいけれど、もしもそうでなかった場合は? 犠牲になるのはいつも、人を信じて疑うことをしない人たちなのだ。(69-70)

 → 教育

 もうそろそろ、危険派と安全派のトップ8みないた人が一堂に会して、攻撃しあうのではなく本当のことだけを突き詰める方針で5時間くらいテレビでガチンコ討論してくれたりしないかな(日本はまだテレビの国だから)。〔略〕いつの日にかこの時期のことを振り返って「あなた水も牛乳も飲んだ派? あれなんだったんだろうねーー」なんて成長した子どもたちが冗談を言って笑ってくれるようになるといいんだけど。ほんとに。(78-9)

しかしやっぱり早いとこ原発を停止する方向で固めてもらって、経済学者たちには原発が無い状態を始点として日本が経済を維持できるような理論を立ち上げて実践していただけたらと、お茶の間発想で申し訳ないけど切に願う。(87)

 だとしたら小説を書く行為は孤独な作業かと思えばまさかそうではあるまいよ。自分で作ったはずもない言葉と一緒になって作ってる。言葉があるということはわたしにとって諸悪の根源でありながらやっぱり諸善の根源でもあるのだと——つまり全部なのだと思ってまた胸が熱くなる。春だもの。(141)

 しかしラズを乗り越えるっていったって、やっぱり独自にやり遂げられるものではなくて、やっぱり他者の価値基準によるのだよね。先述したわたしの「目が離れている」の克服だって、それがいつの間にか市民権を得た——つまり「離れ目、イイ!」という価値観が広く共有されたからに他ならないし。自己肯定はどこまでも他者の承認と評価を根拠にしてしまうものなのだろうか。(172)

 できることなら意表を突きたいし、突かれたい。(182)

思えば人類の歴史を推進してきた巨大なエンジンのひとつは、この訳のわからなさに対しての抗いでできあがっている。宗教も科学も戦争も愛も哲学も、けっきょくは生を維持すること=死への恐怖、そしてその解明と克服とを原動力にして日々育っている最中なのだ。(214)


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by no828 | 2015-04-30 20:38 | 人+本=体 | Comments(0)
2015年 03月 19日

なにもしていないように感じる程度にはたしかに辛いがこれがいま——川上未映子『ぜんぶの後に残るもの』

c0131823_2054855.jpg川上未映子『ぜんぶの後に残るもの』新潮社、2011年。75(898)


 版元 

 引きずり中 → 


 日記というかエッセイというか。(← どこかで書いたな。)

 3.11後のことが収められています。最初2つの引用部分、とくに2つ目の後半の部分に共感しました。


事態は全方位に一刻の猶予もないほどに逼迫していて、思考も手足も動かさずにはいられないのは重々わかるけれどしかしもう少しだけ、ことの推移を見守ること、判断を保留すること。なにもしていないように感じる程度にはたしかに辛いがこれがいま、個人に期待できる冷静さのひとつではなかろうか。(20)

小説は原理的に書くのも読むのも時間がかかるものだから、社会になにかとてつもなくおおきなことが起きてしまっても、即座に反応できるわけがないのもそのとおり。ただ、粛々と観察し、自分に紡げる物語や文章を作成してゆくしかないのも、それはほんとうのことなのだった。むしろ即座に反応してみせることのほうが、物語をつくるものとしての態度においては正しくないのではないか。ことのなりゆきをじっと息ひそめて見つめ抜き、そして、ひととおりのことがしずまったあとにそっとさしだせるなにかがあれば、さしだせるものをつくることができれば。そんな気持ちでこの数カ月を過ごした小説家も、少なくないと思うのだ。もちろんわたしもそのひとり。〔略〕
 けれども、なにかが違うと思ってしまう。今回の震災だけがとくべつではなく世界では常にそのような悲惨な出来事が勃発しているのに、しかし今回のことだけにこのように心動かされてしまう自分を恥じつつも「フィクションにかかわっている=小説を書く仕事に就いている」ことに、どこか甘えているところはないか。あとがきでこんな自意識について書いているのもしんどい話だけれども、でもやはり、なぜだかぬぐいきれない後ろめたさがべったりだ。
(188-9)


-----

「逃げる・逃げない問題」でいうと高橋源一郎さんが「逃げる」じゃなくて、「東京から『出る』、でいいんじゃないですか。ぼくは、東京から『逃げない』のではなく、ただ東京に『いる』だけです」とコメントしていたけれど、本当にその通りだと思う。個人がその考えと判断に基づいて行動することの自由がありそれを尊重しあうこと。改めて書くと馬鹿馬鹿しいほど自明なことも思えるけれど我々はまだ遠いところにいるなあ。(17)

 生活の力というのは強大だ。食べて動いて寝るというサイクルに支えられた日常は、それがどんな非常事態でもやがて丸呑みしてしまう。国や東電のおそらく目論見通りに、なし崩し的に日常がもどり始めているのが不気味だ。わたしはその渦中にいながら、どこからやってくるのかわからないまるで津波のように静かに圧倒的にすべてを塗りかえてしまう——いっぽうでは希望と呼ばれるであろうそんな力に、心の底から驚嘆している。(26)

どういった言葉も適切でない気がするから、ただ黙ってるしかないのだ。(32)

〔略〕みんなが等しくかけがえのない一回性を生きているからこそ、どうじにそれが等しく無価値にもなるのではなかったか。「わたし」というものはほとんど無限に存在している/してきた人間のなかの一例でしかないわけで、圧倒的なその感触を踏まえるところからしか、「わたし」の唯一性は立ちあがってこないのではないのだろうか。なんであれ、自分の行動を裏付けている動機を疑わなくなったら危険だよね。(35)

ノンアルコールビールを飲むことで、自分がお酒のどの部分が必要でどの部分が要らなかったのか、そういうことがはっきりとわかったような気がしたのである。〔略〕うまうまと飲みながら、そっか自分は酩酊したいわけではなかったのだな、ということがわかった。けれどもわたしはいったいなにを楽しんでいることになるのだろう? つまり、お酒が与えてくれる諸々からお酒の主成分であるアルコールを引くと、残る成分はいったいなにか? まさか雰囲気だけではあるまいよ。ちなみに好きな銘柄はサントリーの「オールフリー」。(54-5)

〔略〕セーラー服でもミニスカートでもなんでもいいけど、「デザインにはそれを着る肉体がすでに組み込まれている」せいではないかと思うのだった。つまりミニスカートはそれだけで存在するのではなく、むちむち&パーンと張りきった太股とともに存在するもので、そこを無視するから悲惨なことになるのではないかと愚考するのであった。見えないがしかしそこには付随するものが存在し、それが本質であるというような……この考え方はなかなかに好むところで、またけっこう腑に落ちもする。(103)

〔略〕「そうねえ。1年間、無事に生きられたことをおめでとう、でいいんじゃないの」。
 なんと……凡百の「おめでとう」がこれまでもこれからも一直線にただ無邪気に未来と希望に捧げられるのに対してこの「おめでとう」は過去への深い思いやりと諦めに満ち、なんともいえない切なさと後ろめたさに支えられていてこれこそが「おめでとう」の正体ではなかったかと思わせる。
(128-9)


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by no828 | 2015-03-19 20:13 | 人+本=体 | Comments(0)
2015年 03月 18日

悲しいという言葉と、悲しい気持ちが、むすびついたはじめてのときのことを——川上未映子『魔法飛行』

c0131823_18531163.jpg川上未映子『魔法飛行』中央公論新社、2012年。74(897)


 版元  ただし文庫版

 あと半分くらい? → 


 日記というかエッセイというか。レシピもあります。今度やってみよう。


 悲しいという言葉と、悲しい気持ちが、むすびついたはじめてのときのことを思いだそうとさっきから旋回しているのだけれど、この春じゃどうも見つからないみたい。(9)

しかし、書き物の仕事のように、思念と行動がもろに仕事に反映されてしまう、いわゆるオンとオフと呼ばれる境界のないこの文筆の仕事につくまえから、——この時間を売ってわたしはお金を稼いでいるのだとしか思えないような仕事をしていたときから、休みの日はじっと動かないでいるのがすきだった。(18)

問題はつねに「生」と「死」で、そこに「老い」の余地はなかった。しかしわたしにはいま「老い」がとても見えてしまう。関節に卵子に髪に歯に。胃に爪に脂肪に骨に睡眠に。昨日よりも今日、そしておそらくは今日よりも明日、死んでいっている自分の体の一部のことが、これが本当によくわかる。(77-8)

 ひとりぶんだと卵は一個。ふたりぶんなら卵二個です。それをがつがつ泡立てて、そこに粉チーズ(パルメザンね。うえによくふりかける白いやつ)をちょっと強気に適当に投入してさらに念入りにかきまぜる。ここで麺を茹ではじめる。それからベーコン。ベーコンをかりかりに焼くにはフライパンに油をひかず、ただベーコンが丸裸のままじりじりにちにち焦げてゆくのを見守るだけでよいのであって、油いらず。かりかりになったのを見届けて、そこに茹で汁をお玉に半分くらい入れて、そこにいい感じに茹であがったら麺を入れて、卵&チーズを入れてあわせる。卵のかたさはお好みで。火にかけすぎるとダマになってしまうから、さっとからめるくらいでいいみたい。(138)

 体にどこも悪いところはないけれど、祖母はいつ、ふと思いだすみたいにして亡くなったとしても不思議じゃない年齢で、祖母に育てられ祖母を大好きなわたしは、物心ついてから、この祖母もいつか死んでしまうときがくるのだと。そればかりをいつも考え、覚悟してきて、数えきれないほどの疑似をかさねてしてきた。この数年のあいだ、もしかしたら明後日、三年後、半年後、この週末、わからないけど、何よりも恐れていた「そのとき」が「このとき」になるのだ、恐れていたことはほんとうになってしまうのだと、そんなことを感じている。ただただ、感じている。(154)


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by no828 | 2015-03-18 18:58 | 人+本=体 | Comments(0)
2015年 02月 04日

大好きはそのあとをいつも期待してしまう苦しさを連れてくるけれど——川上未映子『発光地帯』

c0131823_18421534.jpg川上未映子『発光地帯』中央公論新社(中公文庫)、2014年。54(877)


 単行本は2011年に同新社
 版元 


「日記的エッセイ」との説明が裏表紙にあります。BとOとKとFの付く古書店の108円ではないコーナーにあった川上未映子本をごそっと買った記憶があります。本書もたしかそのときの1冊。


 完全に、ではないけれど、わかります。「罪悪感」それ自体の構成のされ方、出来上がり方に関心があります。外部にあった「善悪」に関する規範の内面化とその参照の不可避。という状況をもたらしたのは何か。教育? 心理学的な説明はもちろんなされているのでしょう。
わたしといえば、そんなふうにして、おいしいものを追いかけた記憶もないし、きっとこれからだってないように思う。食べたいのに我慢してるとかそういうことじゃないけれど、なんというかその理由はわりにはっきりとしていて、おいしいものを自分が食べる、ということに、罪悪感があるのだった。お腹が満たされれば食べ物の目的は達せられるし、自分がおいしいものを食べるよりもさきに、おいしいものを食べるべき人がいるんじゃないかとそう思うと、とたんに味がなくなってしまうのだった。誰にも言われたわけじゃないのに、食べること。拡大して受けとれば楽しむことに原罪(!)のような感覚がこれはたしかにあるのだから、楽しかったあとは悲しい気持ちにかならずなって、落ち込み、そんなだから生きていて、楽しそうですねと言われることがあるわけじゃないけれど楽しいことはほとんどないのもしかたなく、文章を書くのは大好きだけれどまったく楽しいことではないから、なんとかつづけていけるのだと思うのだった(「風は光ったりしない」105-6)


 とてもよくわかります。上の最後の文章とも関連します。
大好きだけれど楽しくないことにこれほど夢中になれるのは僥倖というよりほかないけれど仕事がうまく運べばそのほかのことがなにもうまくゆかぬでもそれでも仕方がないなと思えるくらいにやはり文章を書くことが大好きなのだ、あなたはなにが楽しくなくても好きですか? しかしこの質問にはあまり意味がないのだったね、だって好きと楽しいはもともと関係がないのだからさも関係があるのが当然であるかのように前提してなにかそこにあり気な装いはいい加減にしたまえよ、〔略〕問題はいつだって楽しさだ、大好きはそのあとをいつも期待してしまう苦しさを連れてくるけれど、楽しいはその場で完了するみずからの力を持ってるね(「楽しいですか十二月」142)


「世界を介護する」!
 小説は、人によって違うと思うけれど、描写することに再現や親切さや丁寧さが求められるからどこか世界を介護するような気持ちに近くて、詩作は、瞬間、瞬間にかちっと光った言葉をつかまえて、なんの遠慮も誰への気遣いもなく白いところに焼きつけると、有無をいわさずにひっつけたり、時には折ったり、ねじ込んだりして、あるいは切手を貼るような角度で言葉を扱う作業なのだけれども、そうしながらも言葉はそれ自体で意味を持ってしまうから、その意味であまりに素晴らしく、そんな言葉とのあれこれは、どちらかというと戦いに近い、と思っていたけれど。(「詩ったら」121)


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by no828 | 2015-02-04 18:53 | 人+本=体 | Comments(0)
2014年 12月 23日

それは、わたしはきみに会えて本当にうれしい、ということだった——川上未映子『きみは赤ちゃん』

c0131823_20103866.jpg川上未映子『きみは赤ちゃん』文藝春秋、2014年。45(868)


 版元 


 新刊で購入。良書。

 川上本人の妊娠・出産体験の記録。川上の思考――が反映された文章――は、「哲学」という言葉の本来の意味において哲学的で、永井均の本とともに、刺激を受けてきました。そんな川上が妊娠・出産について何を感じ、何を考えたのかが気になって入手しました。とくに気になったのは、出生前診断についてです。35歳の川上は出生前診断とどう向き合ったのか。出生前診断を受ける/受けないという結論よりも、その結論に至る思考の過程、その結論の根拠に関心がありました。

 本書は看護学校の講義でも紹介しました。

 はじめはそのように、理性からこの本に入ったわけでありますが、それだけで終わったわけではありませんでした。わたしは自分で赤ちゃんを生むことはないし、誰かと生むこと/誰かに生んでもらうことも果たして来るのかどうか、その辺り具体化していませんが、それでも、この本を読んでわたしの内面に到来したのは、非常に温かな気持ちでありました。

 ちなみに、文中では息子のことが「オニ」と呼ばれていますが、これはその顔が「おにぎり」みたいだから、です。


 というわけで、ぶじに産院も決まって、つわりはあるけどなんとか妊娠も10週をこえたこの時期、わたしたちがどうしようかと悩んでいたのは、「出生前検査」についてだった。
 これは、おなかの赤ちゃんに、先天的な異常があるかどうかを調べる検査のこと。〔略〕
 母体に負担がほとんどなくて比較的かんたんに受けられる検査には、「クアトロテスト」というのがある。これは母親の腕からちょっとだけ血を採って、赤ちゃんや胎盤や卵巣で産生されているタンパク質やホルモンの濃度を調べて、ダウン症候群(21トリソミー)と、開放性神経管奇形(18トリソミー)などの先天的な異常があるかどうか、その「確率」を調べるもの。〔略〕この「確率」というのが、考えれば考えるほど、わからなくなってくるのだった。
 や、考えなくてもわかるのだけれど、どんな倍率がでたってそれはやっぱり確率でしか、ないのだよね。だから「ものすごく確率低いよ」といわれても、また「すんごく高いよ」って言われても、けっきょくは生んでみるまではわからない、つまりはまえもって、なんにもわかったことにはならないのだよね
 というか、出生前検査を受ける動機って、なんなのだろう。
 これは出生前検査を考える人のほとんどが自問自答することかもしれないけれど、「安心して、出産に臨みたい」というのが、本音にして大きな動機のひとつなのだろうと思う。みんな、安心したいのだよね。〔略〕
 そして、つぎに重くのしかかってくる自分への疑問は、
検査してさ、もし異常があったとして、じゃあ、それを知ってどうするの
 ということ。
 わたしたち夫婦は長い時間をかけて、このことについて話しあった。

 そもそも検査する必要があるのか、どうか。
 もし異常がありますということがわかったら(確定したら)、どうするのか。
 そのときにもし堕胎という選択をするのなら、わたしたちはいま、いったい誰のための、なんのための出産に臨もうとしているのか。

 以前、ある友人と出生前検査について話していたときに教えられたことがある。
おなかの赤んぼうは100%こちらの都合でつくられた命で、100%こちらの都合で生まれてくるのだから、それならば、われわれはその『生』を100%の無条件で、全力で受け止めるのが当然じゃないのだろうか。それが筋、ってもんじゃないのだろうか
 出産というものが、この生きやすいとは到底いえない世界にいきなり登場させる、ある意味でとても暴力的なもののように思えてしかたのなかったわたしは、友人のこの意見をきいたとき、本当に深いため息をつきながら、「そうだな」と思えたことをよく覚えている。
 それは「生むための言いわけを手にしただけ」の安堵のため息だったかもしれなかったけれど、でも、その考えには深く胸を打たれる、まっとうさのようなものが確かにあった。
 どんな状態のどんな子どもが生まれてきても、ありのまま引きうける覚悟で臨むこと。
 その気持ちさえあれば、こちらの都合で生んだことをその子に恥じないですむというか、後ろめたさを感じないですむかもしれないという、ひとつの「答え」をもらったように思えたのだった。逆にいえば、そうできないなら子どもを生んではいけないのではないか――こちらの都合で子どもを生むということにもし資格というものがあるとしたら(そんなものはないのだけど)、その一点なのじゃないかと、それくらい、友人のその考えは、わたしの心と頭に深くつきささったのだった。〔略〕「きみよ、安心して生まれてこい。わたしが全力で受けとめる」ってことが、赤ちゃんをこの世界に無相談で参加させるこちらがわの、最初にして最大の誠意というか覚悟というか、唯一の態度であるような、そんなような気がしてならなかった。〔略〕
 悩み考えた末に、けっきょく、わたしは出生前検査を受けることにしたのだった。

 気がつくと、最初にあった「安心したい」っていう動機は、「知りたい」という目的に、完全に変化してしまっていた。
 この問題について考えすぎると、なぜか「異常がある」のが前提みたいになってしまって、「それをいつ知るのか」という判断を日々、迫られているような感じになるのだった。
 とにかく、少しでも早く問題を把握して、そして、心の準備や現実的な対処をしなければ。気づけば、そんな気持ちがいちばんになってしまっていた。〔略〕
 そして、その「知りたい」という気持ちがじぶんのなかで正当化されてゆくにつれ、「異常が認められたとき、堕胎するか、しないか」の現実的な選択については、あまり考えなくなっていった。や、考えられなくなっていった、というのが正確かもしれない。でもそれは「命の尊さに気がついて、生むという選択しかなくなった」なんていう立派なもんじゃぜんぜんなくて、単純に、
「いやなことは後回しにする」
 っていうのに似たような、そんな感覚だった。
 とにかく知る。知ってから、考える。
(23-8)

 けれども、頭のどこかに、友人のあの話にたいして「そうだよね」と、わたしが本当に思ったその感覚というのはやっぱり残っていて、それがいまでもちょっとだけ暗い気持ちにさせるのだった。
 もしも、「異常がある可能性が高いです」といわれて、確定診断を受けて、それが決定していたとしたら、わたしはいったいどういう選択をしたのだろう?〔略〕
 でも、少なくともわたしは出生前検査をした時点で、「きみよ、生まれてこい、わたしがありのままで受けとめる」という態度はとらなかったんだな、ということは事実だった。後悔とか、後ろめたさとか、そういうのじゃないけれど、でもたしかに、それは点のような空白として、わたしのなかに残っている。
(34)

人間が無限に編みだしてゆくすべての関係は、なにがどこに作用したけっか、そうなるのかわからない。誰にもわからない。〔略〕これから自分が生もうとしている人間の、可能性としての加害と被害について考えると、ほんとうにこれ、無限にゆううつになってくるんである。
 ああ。つまり、人があらたに人をつくるということは、なんというか、基本的に無茶苦茶なことというか、ある部分での人間の能力を超えたことでもあるというか。でも能力の範囲内だからこのようにできてしまうことでもあって、いったいなんなんだろうこれ。
(49)

「野田聖子の人生は、野田聖子の人生だよな」というようなものだった。
「子どもがかわいそうだよ」っていう意見がとても多かったけれど、でも、ある人が、「50歳で子どもがほしいと思って、実現できる状況があったのでそうした」ことと、「たくさん障害をもって生まれてきて手術で痛い思いをする子どもがかわいそう」という共感と現状のふたつには、やはりなんの関係もないと思うからだった。ある人がそう生きたい、と思うことに、思ったその時点で、どうして他人がそのことに口を出すことができるだろう。動機とけっかのこのふたつは混同されがちなんだけど、はっきり、べつのものだと思う。〔略〕
 基本的に「年齢もこんなになってから生むなんて、この出産、野田聖子さんのエゴすぎる」っていう先入観というか意見とかが、とにかく多いみたいだった。
 でも、そんな批判はまったく成り立たないと思う。
 だってすべての出産は、親のエゴだから。〔略〕
 もちろん、出産は命がけの非常事態で、それじたいはすさまじいものなんだけど、でもそれは親になる人が勝手に望んでやっていることなのだ。その文脈で、個人的に胸をうたれたのは、野田さん自身が「丈夫に生んでやれなくってごめんね」とか「わたしのせいで」みたいなことを、一度も口にしなかったことだった。
(75)

 わたしの意志で、わたしの都合で、生まれてくる誰かが、いるんだな。(104)

 わたしがいま胸に抱いているこの子は誰だろう。どこから来た、いったいこの子はなんなのだろう。わたしとあべちゃんが作ろうと決めた彼は赤ちゃんで、わたしのおなかのなかで育ち、そしてわたしのおなかからでてきた赤ちゃんなのだけど、でも、肝心なところ、彼がいったいなんなのか、どれだけみつめても、それはわからなかった。そして、やっぱり彼は、わたしとあべちゃんが作ったわけでは、もちろんなかった。〔略〕わたしはいま自分の都合と自分の決心だけで生んだ息子を抱いてみつめながら、いろいろなことはまだわからないし、これからさきもわからないだろうし、もしかしたらわたしはものすごくまちがったこと、とりかえしのつかないことをしてしまったかもしれないけれど、でもたったひとつ、本当だといえることがあって、本当の気持ちがひとつあって、それは、わたしはきみに会えて本当にうれしい、ということだった。きみに会うことができて、本当にうれしい。(154-5)

 目のまえの、まだ記憶も言葉ももたない、目さえみえない生まれたばかりの息子。
 誰がしんどいって、この子がいちばんしんどいのだ。
 おなかのなかからまったく違う環境に連れてこられて、頼るもの、ほしいものはわたしのおっぱいしかないのだ。
 こんなふうに両手にすっぽりとそのからだのぜんぶを抱っこできる時間なんて、この子の一生からみてみればあっというまに違いない。
 深呼吸して、顔をみよう。生まれてきた赤ちゃん。手足。
(170)

 いまこの胸に抱いている息子の、わたしは何歳までをみることができるのだろう。
 そんなことを考えてしまうのだった。
 いずれにせよ、おじいちゃんになった顔はみることはできないのだな。〔略〕ああ、わたしはこの子と、長くてあと50年しか一緒にいられないのか。そうなのか。いつか、ぜったいこの子と別れる日が、これもう冗談でもたらればでもなんでもなくって、いつか確実にわたしたちをとらえてしまう、そんな日がくるのだな。まじで。〔略〕いつかやってきてしまう、別れの日を思ってはなにもかもがおそろしくなって悲しくなって、子守唄をうたいながら、泣いても泣いても、涙が、どこまでも流れてくるのだった。
(176-7)

 しかしあれやね。親というかわたしというかは勝手なもので、ふだんは「個性」とか「独特の意気ごみとか姿勢」とかを広く善しとしているのに、こういう基本的なこと〔=健診、身長や体重〕に限っては「標準」を強く求めているのだから、なんだかなあ。(199)

 小説とか書いて既存の価値観にゆさぶりをかける、とかふだんもっともらしいことを言ってるくせに、この体たらくだよ。自分にがっかりしつつ、さっちゃんに電話をかけて、甥っ子たちがいまのオニの月齢のときの体重をきいて、また心配に。(248)

 なにが、なぜ、どのように苦しかったり悲しかったり不安だったりするのかを、言葉にしてみることって大事なんだなーとあらためて思う。そうすることで、気づくことがたくさんあるのだよね。(227)

 だいたい、経済的にも自立していて、夫がいなければならない理由などわたしには1ミリも存在しないのだ。もともと入籍には反対だった(入籍制度、ひいては戸籍制度に疑問があるので)。それなのに、なんでこんな思いまでして男であるあべちゃんと一緒にいなければならないのだろう。大事なことはなにひとつわかりあえない男という生きものと、なぜ一緒にいなければならないのだろう。もう男のご飯など作りたくない。顔もみたくない。〔略〕この時期は、あべちゃんが、というより、男というものが本当にいやになっていたのだ。自分の体験や実感をこえて、世間一般の「男性性」にたいする嫌悪がみるみるふくらんで、それがあべちゃんという個人に逆輸入されるようなあんばいだった(232)

 オニがこっちをみている。小さな手をふっている。なにーといいながらオニのそばにいく。抱っこしようと手をのばすと、ウン、といいながらゆっくり立って、一生懸命、歩こうとしている。背をむけて、足を動かして、むこうに一歩を踏みだそうとしている。もう赤ちゃんじゃなくなった。もう赤ちゃんじゃなくなった、オニ。どうかゆっくり、大きくなって。きみに会えて、とてもうれしい。生まれてきてくれて、ありがとう。(288)


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by no828 | 2014-12-23 20:27 | 人+本=体 | Comments(6)
2014年 11月 24日

書くのが苦しいのは、絶対に完璧な本なんて書けない、ということが最初から——川上未映子『六つの星星』

c0131823_1138374.jpg川上未映子『六つの星星——川上未映子対話集』文藝春秋(文春文庫)、2012年。32(855)


版元 
単行本は2010年に同春秋


 6人との対話、7つの対話。

 斎藤環
 福岡伸一
 松浦理英子
 穂村弘
 多和田葉子
 永井均(2回登場)

 強く深く長く共感するところが多かったです。


斎藤 インタヴューでも「体は脱げない」ということをおっしゃっていましたが、この感覚はやっぱり女性特有だと思うんです。〔略〕体に対する他者性みたいなものは男性には、実はあまりないんです。身体の自己所属感が強いので、放っておくと男性の身体はどんどん透明になってしまいます。運動して汗をかきたがる男性が多いのも、負荷をかけることで自分の身体を確認したい、ということもあるんでしょう。(11)

斎藤 絶望のさなかの幸福とか、決定論的世界における意志とか、価値の底が抜けた世界における倫理とか、そういう絶対的な逆説の可能性が彼〔ヴォネガット〕のテーマですね。「愛は負けても親切は勝つ」って名言は、そういう逆説を背景にしています。
川上 前に斎藤さんは、「川上さんの作品は哲学よりも精神分析のほうに相性がいいんじゃないか」っていうふうにおっしゃってましたね。
斎藤 はい。『乳と卵』の書評にそう書きました。〔略〕あるところまでは分析の考え方のパターンみたいなものを押さえておいたほうが、より哲学的な方向で追求できるんじゃないかなと思うんですよ。〔略〕精神分析と哲学で一番対極的なのが「性」の取り扱いです。極言すれば、哲学はほとんど性の問題を扱えない。性の私秘性は、普遍を志向する哲学とは相容れないからです。いっぽう精神分析は、あらゆることを性(関係)的な文脈で考える。
(36-8)

川上 書くのが苦しいのは、絶対に完璧な本なんて書けない、ということが最初から分かっているからなんですね。
斎藤 うわーっ、そうだったんですか。〔略〕カントの統制的理念じゃないけど、「完璧な本」という言葉だけにしても、そういう、あらかじめ実現不可能な理想があって、それが抑圧している感じですかね、そうすると。
(48-9)

 強く深く共感。


福岡 科学をやってきて非常によくわかったのは、科学は「Why なぜ」という疑問にはほとんど答えられないということです。「Why」は出発点としては大事なんですが、結果としては「How いかなる状態になっているか」ということを記述できるだけなんです。(66)

松浦 だけれども、私の不快感の根源はたぶん社会制度じゃなくて、やっぱり物理的な個体間の差異の問題なんですよ。そこから差別も生まれるし、逆に非常に豊かな、それこそ文学なんかも生まれるんですけれども、それも鑑みた上で、文学がなくてもいいから差異がない方がいい、というぐらいに思っちゃってるんです。たとえば人間ひとりひとりが違うから面白い、なんて言うのは、その人が恵まれているから言えるんじゃないかという疑いをもっているんですよ。はたして恵まれていない弱い者の前でそれが言えるのか、と。
川上 でも、差異がない状態というのは想像できますか?
松浦 無の世界であったりするんだろうけれど、それがなんか憧れなんですね。
川上 その憧れはわかります。私も西田幾多郎の言う「主語のない世界」を小説で表現できたら、なんて考えることがあります。
(110-1)

川上 評論家の石川忠司さんに、川上未映子の文章にマルが極端に少ないのは、完結して終わらせたくない絶対保留への意思である、といったことを書かれたのですが、あ、そういう側面もあるかも知れない、と素直に納得してしまいました。(118)

川上 多和田さんにとって、小説を書かせる原動力があるとしたら、それはいったい何なんでしょうか。
多和田 どうしても、ひとつ挙げるとすれば、前の小説を書いてしまったってことでしょうか。
(151)

 ずどーん。


川上 すべてのものは、ひとつのフォーマットに入ると、そのフォーマットのなかでのありようを強要されるのかなって。だから、プールの枠に入るとプールの水になって、それがコップだと飲み水になる。
 人間だってそうじゃないですか。人との関係性によるところが大きい。人を好きになるのに、「この人といる時の自分が好き」という言い方があるけれど、それって自分が今この形になっているのが心地よいってことですよね。そういう私にしてくれる関係性。反対に窮屈だと感じる関係性もある。文章がすごいと思うのは、そのフォーマットに入るだけじゃなくて、そのフォーマット自体までつくることができる可能性をもっている。
(165-6)

永井 だって人間は死ぬんだからね。しかも若死にする人だっていくらでもいるじゃないですか。そう考えると、殺すというのが最大の悪というのも不思議ですね(181)

永井 プレイヤーでない者として言っている、プレーヤーでないから言えるという、むしろその構造自体を示したいんです。アインジヒトは「自分はプレイヤーじゃないから、猫であって人間社会の一員でないから言えるんだ」と自分ではっきり言ってしまっているわけですが、本当はそのことを上手く示せたらいいのですけど。
川上 でもそこで言ってる「言える」っていうのは言うことが許されるってこと? can っていうこと? どっちですか。
永井 両方です。両方が重なるんです。
川上 can と、許されるに対応する英語がわからないけど、猫はその両方なのね。
(198)

 わたしもここに関心があり、考えています。


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by no828 | 2014-11-24 11:51 | 人+本=体 | Comments(0)
2014年 11月 21日

自分で考えた価値観を自分の責任において遂行するだけのこと——川上未映子『オモロマンティック・ボム!』

c0131823_1934511.jpg川上未映子『オモロマンティック・ボム!』新潮社(新潮文庫)、2012年。30(853)


版元 → 
単行本は2010年に同社、原題は『夏の入り口、模様の出口』。題名が異なるので別の本だと思い、単行本も文庫もどちらも買ってしまいました(ただし、古本屋で)。文庫のあとに単行本を手に取り、読みはじめたら既読感に急襲されました。


 コラムです。裏表紙に「いろんな視点で眺めれば、日常が隠す不思議の種は、みるみる哲学に育つ」とありまして、たしかに、「哲学に育つ」、なるほど、と思いました。


 できる限り世界には客観性をもって臨みたいけど「わかってしまう」のあの不思議。無根拠ゆえの絶対感。なむー。(「ピッコン!」13)

 哲学的思考は倫理学のそれとは違って、好き嫌いや情念は関係なく「そうとしか考えられない」という意味での「真理」を目指す運動でもあって、それゆえにときには社会道徳と相反する価値観を導くことももちろんある。だからこそ、こんなふうに自分の頭で問いをたてて考えをすすめてゆくセンスが決定的に欠如しながら単に調子だけはいいという人を勢いづけ、じつは論理的思考とはまったく関係のない「情念の部分」に都合良く機能してしまう側面もあってしまう。残念だけどこれも事実なので仕方がない。(「おめでたい人」34)

いわゆる「悪」とされるものの根拠に本気で迫りたいのならば、彼はなぜ殺したか、ではなく、我々はなぜ殺せないか、という側面から語られる言葉もおなじように準備するべきである。(「おめでたい人」35)

 世間は手を替え品を替え物語を用意して、最近は「言い切る」かたちで捏造して煽ってくるけど、お待ちください。この人生の主導権はいつだってこっちにあるのだからそういった物言いはすべて堂々と無視する力をもちたいものだ。自立なんてのはお金を持つことでも独立して新しい家族をもつことでも世間の感情に自分の感情をすり寄せることでもなくて自分で考えた価値観を自分の責任において遂行するだけのことなのだった。その意味において自分の好きなように生きてよいのが人生だから、まあときどきは、チョコなどを食べてがんばろう。(「2月、飛躍するチョコレート」148)


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by no828 | 2014-11-21 19:40 | 人+本=体 | Comments(0)
2012年 07月 01日

あたしはいつのまにか知らんまにあたしの体のなかにあって——川上未映子『乳と卵』

c0131823_1431743.jpg祝 100(560)川上未映子『乳と卵』文藝春秋(文春文庫)、2010年。

版元 → 

単行本は2008年に同春秋より刊行。


 あいかわらず提示される認識がおもしろいです。

〔略〕なんだって単純なこのこれここについてるわたしの胸をわたしが大きくしたいっていうこの単純な願望をなんでそんな見たことも触ったこともない男性精神とかってもんにわざわざ結びつけようとするわけ? もしその、男性主義だっけ、男根精神だっけかが、あなたの云うとおりにあるんだとしてもよ、わたしがそれを経由してるんならあなたのその考えだって男性精神ってもんを経由してるってことになるんじゃないの、わたしとあなたで何が違うの、と答えたわけだ、するとその冷っと女子は、だーかーら、自分の価値観がいったいどこから発生してるのかとかそういうことを問題にしつつ疑いを持つっていうか飽くまでそれを自覚してるのと自覚してないのとは大違いだって云ってんのよ、とこう云って、その批判に対して胸大きく女子は、まあ何がそんなに違うのかあたしさっぱりわかんないけれど、わたしのこの今の小さい胸にわたし自身不満があること、そして大きな胸に憧れのようなものがあることは最初から最後まであたしの問題だってこう云ってんのよ〔略〕(41-2)

 看護学校で、「「幸せ」という言葉は曲者だ」ということを言うと、「どうして難しく考えるんですか、「わたしは幸せです」っていうその人の言葉を素直に受け入れればいいじゃないですか」と学生から言われます。

あたしの手は動く、足も動く、動かしかたなんかわかってないのに、色々なところが動かせることは不思議。あたしはいつのまにか知らんまにあたしの体のなかにあって、その体があたしの知らんところでどんどんどんどん変わっていく。こんな変わっていくことをどうでもいいことやと思いたい、大人になるのは厭なこと、それでも気分が暗くなる。どんどんどんどん変わっていく。過ぎていく。(45)

 この肉体って何なんですかね、ということも看護学校で直接言わずに示唆しています。

〔略〕仕方ないやろ、食べて行かなあかんねんから、ってお母さんが大きい声で言ったから、あたしはそんなんあたしを生んだ自分の責任やろってゆってもうたんやった、でもそのあと、あたしは気がついたことがあって、お母さんが生まれてきたんはお母さんの責任じゃないってことで、あたしはぜったい大人になっても子どもなんか生まへんと心に決めてあるから、でも、あやまろうと何回も思ったけど、お母さんは時間がきて仕事に行ってもうた。(64)

もしかして、言葉って、じしょでこうやって調べてったら、じしょん中をえんえんにぐるぐるするんちゃうの(90)

 最終的な根拠は結局ないのでは? というところに行き着いてしまいますよね、ということも看護学校で言いました。


追伸:2012年をかけて非学術書100冊ほどを予定していましたが、上半期(と1日)でその緩い目標冊数となりました(実はまだレビューしていない本が20冊ほどあります)。テレビを観ないから、移動時間が増えたから、がその理由だと思いますし、そのぶん研究をしなくなったから、ではないと固く固く信じたいです。


@研究室
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by no828 | 2012-07-01 14:35 | 人+本=体 | Comments(0)
2011年 11月 02日

もちろんかたちとしては違うよ。でも原理的にはおなじだよ。なにが違う?——川上未映子『ヘヴン』

c0131823_13243566.png
114(436)川上未映子『ヘヴン』講談社、2009年。

版元 → 




 小説、だが、哲学書だと思う。この小説には、少なくともニーチェの思想が反映されている。価値をひっくり返したあとにニーチェが見たもの、見ようとしたものとは一体何であったか。

 主題は「いじめ」、舞台は中学校。いじめられる側が見出す「いじめ」の意味、いじめる側の無意味あるいは論理。


「爪なんてつまらないよ」とコジマは面白くなさそうに言った。
「だから、ぜんぶをぴしっと切っちゃうんじゃなくて、一部だけちょっと、ほんの少しだけ切るのが大事なんだって。君ちゃんと見た? 学校のだってぜんぶさきっちょしか切ってなかったでしょ? あれぜんぶ完璧におなじ長さなんだよ。大きくじゃきじゃき派手に切ったりして、それが使えなくなったりしたらそれはもうだめなの。その機能じたいに迷惑かけることが目的じゃないの
「機能に迷惑」と僕は言った。
「そう。たとえばカーテンだったらね、なんていうのか、カーテンのカーテン性みたいなのを損なわない程度の切りじゃないと、だめなわけ。〔略〕」

□(32-3)

「カーテンのカーテン性」。


「言葉がなかったら、どんなふうなんだろうって、ときどき思うことあるんだよ」と僕はなんとなく言った。
「でもさ、人間だけだよ、言葉を話すの。犬も、制服も机も花瓶も、しゃべったりしないよ」とコジマは僕の顔を見て言った。
「そうだね。物のなかで僕らは圧倒的に少数派なんだけど」と僕は言った。
言葉でああだこうだ話して、それでなんだかんだ問題をいっぱいつくって色々やってるのがこの世界で人間だけだなんて、考えてみればちょっと馬鹿みたいね」コジマはそう言うと鼻をすんと鳴らして笑った。僕はそうだね、と言って肯いた。

□(51)

「机とか花瓶とかは、見た目には傷はついても、やっぱり、傷つきはしないように見えるもの」
「それは、もしも傷ついていたとしても、机や花瓶は誰にもそれを言うことができないから、そんなものはないってこと?」僕はきいた。
「わからないけど、そうかもしれない」とコジマは言った。
机も花瓶も、傷はついても、傷つかないんだよ、たぶん」とコジマはつぶやくように言った。
「うん」と僕は肯いた。
「でも人間は、見た目に傷がつかなくても、とても傷つくと思う、たぶん」とコジマはさっきにくらべてもっと小さくなった声で言い、それきり黙ってしまった。
〔略〕
……わたしたちがこのままさ、誰になにをされても誰にもなにも言わないで、このままずっと話さないで生きていくことができたら、いつかは、ほんとうの物に、なれますかね

□(53)


「……君も、わたしも、なんでこんなふうに、……みんなからこんなふうにされているんだと思う?」
 僕は思わず目をそらした。
 胸が音をたてて鼓動が速くなるのがわかった。僕は大きく唾をひとつ飲みこんだ。
「あの子たちは、……本当にね、なにも考えてないのよ。ただ誰かのあとについてなにも考えずにその真似をして、それがいったいどういう意味をもつことなのか、それがいったいなんのためになるのか——、わたしたちはね、そんなこと想像したこともないような人たちのね、はけぐちになってるだけなのよ」コジマはためいきをついた。
ねえ、でもね、これにはちゃんとした意味があるのよ。これを耐えたさきにはね、きっといつかこれを耐えなきゃたどりつけなかったような場所やできごとが待ってるのよ。そう思わない?」とコジマははっきりとした声で言った。

□(93-4)

 あえて“それ”を抱え込もうとする、意味づけようとする——それはわからなくもない。そうする以外にない、ということがあるかもしれない。しかし、誰か・何かに対する負い目・引け目がそうさせることもある。それによって獲得・達成されるのは、いわば自虐的快楽であろうと思われるが、それは単なる快楽ではなくやはりあくまで自虐的なそれなのであって、自己はどんどん追い詰められていく。だからそういうことはやめたほうがいいとわたしは思う——というのはあまりに普通な言い方か。いろいろ意味づけて納得しようとすることのすべてがよくないとは思わないが、それがすべてになるとやはりよくないと思うのだ。


「権利があるから、人ってなにかするわけじゃないだろ。したいからするんだよ」
 百瀬はそう言うと咳ばらいをひとつして、人さし指の関節をなでるようにさわりながら言った。
「あとなんだっけ、そうだ、無意味なことをするなって君は言ったね? 無意味だってことには賛成できるけど、そんなの無意味だからいいんじゃないか。無意味だから、いいんだろ。それにたいして放っておいてほしいと君が感じるのはもちろん百パーセント、君の勝手だけど、まわりがそれにたいしてどう応えるかも百パーセントまわりの勝手だ。ここんとこはなかなか一致しないもんだよ。君が世界に望む態度で世界が君に接してくれないからって世界にたいして文句は言えないだろう? そうだろ? つまりいまのことで言えば、なにかを期待して話すのは君の勝手だけど、僕がなにを考えてどういう行動にでるのかについては君は原則的にかかわることはできないってことだ。それとこれとはべつの話ってことだよ」

□(166)

意味なんてなにもないよ。みんなただ、したいことをやってるだけなんじゃないの、たぶん。まず彼らに欲求がある。その欲求が生まれた時点では良いも悪いもない。そして彼らにはその欲求を満たすだけの状況がたまたまあった。君をふくめてね。それで、彼らはその欲求を満たすために、気ままにそれを遂行してるってだけの話だよ。君だってさ、やりたいことってなにかあるだろう? で、できることならそれをやってるだろう? 基本的に働いてる原理としてはだいたいおなじだよ」
「違う」と僕は反射的に言った。それからポケットのなかで何度か爪をこすりあわせた。
「そんなのは、……君が都合よく解釈してるだけだ。たとえば、……行きたいところに一人ででかけることと、殴りたいからって人に暴力をふるうってこととは違うじゃないか
もちろんかたちとしては違うよ。でも原理的にはおなじだよ。なにが違う?

□(170)

「だから、君の言葉で言うところの苛めを君が受けたくないんだったら、僕たちを、というか二ノ宮を、まあどうにかするしかないよね。さっきも言ったけれど、僕は楽しくもなんともないよ。面白いともなんとも思わない。でも、なぜかそういうめぐりあわせのなかにあって、僕がたまたまアイデアをだしたり、まあそういうことができてるってだけの話なんだよ。君とここでこんなふうに話してるのもそういうことだ」
「じゃあ、人の、……人の気持ちはどうなるんだ」と僕は独りごとのようにつぶやいた。
「知らない」と百瀬は言った。
当然のことだけど、自分の気持ちは自分で考えるしかないんじゃないの? 僕は君に僕の気持ちを考えてくれなんてそんなわけのわからないことは言わないよ。だってそうだろう? 誰もそんなこと言わない」

□(173)

 百瀬は目をまるく見ひらいて僕の顔をじっと見た。
自分がされたらいやなことからは、自分で身を守ればいいんじゃないか。単純なことじゃないか。ほんとはわかってるんだろうけどさ、『自分がされたらいやなことは、他人にしてはいけません』っていうのはあれ、インチキだよ。嘘に決まってるじゃないか、あんなの。ああいうのは自分でものを考えることも切りひらくこともできない、能力もちからもない程度の低いやつらの言いわけにすぎないんだよ。しっかりしてくれよ」と言って笑った。

□(175-6)

「弱いやつらは本当のことには耐えられないんだよ。苦しみとか悲しみとかに、それこそ人生なんてものにそもそも意味がないなんてそんなあたりまえのことにも耐えられないんだよ」
「誰に、……そんなことがわかるんだ」僕は声をしぼるように言った。
「ふつうの頭を持ってたら誰にだってわかるさ」と百瀬は笑いながら言った。
「地獄があるとしたらここだし、天国があるとしたらそれもここだよ。ここがすべてだ。そんなことにはなんの意味もない。そして僕はそれが楽しくて仕方がない」

□(177)

「僕が君を、殺すと言ったら」
「殺せるんなら、殺せばいいさ」と百瀬はすかさず言った。
「できることはできることだろ。したいことをすればいいさ。誰も君を止める、——それこそ権利みたいなものは持っていないさ。でも問題はさ、そんなたとえ話じゃなくってさ、なぜ君は殺す動機とかタイミングがじゅうぶんあるのに、いま現在僕たちのなかの誰か、僕でもいいけれど、そいつを殺していないのかってことだろ? まあ殺すとか殺されるとかってちょっと飛躍しすぎであれだけど。たとえばこないださ、僕たちはバレーボールに君の頭を入れて蹴りあげることができた。できただろ? 君蹴られただろ、しっかり。でも君にはそれができない。なんでできないんだよ? ここが重要だろ? 多勢に無勢だったからだって君は言うかもしれないけれど、それは僕に言わせるとほとんど関係ないことだ。仮に仕返しもなにもしないからいいからいまやってみなって言われて、僕の頭にバレーボールかぶせて君は蹴ることができるか?」
「僕は」と言ってのどがつまり、僕は大きく唾を飲みこんでしばらくしてから言った。
「そんなことは、したくない」
「そうだろ。問題はそこだよ」と百瀬はうれしそうに笑った。
君はどうしてそれをしたくないんだ? できないんだ? 問題はそこだ。どうして君は僕たちを包丁かなにかで刺してまわらないんだ? やってみると状況もあんがい変わるかもしれないのに、なんで君にはそれができないんだと思う? 捕まるのがこわいか? でもいまなら犯罪にはならないんだぜ?」

□(178-9.傍点省略)

 原理の次元で考えると一見真逆なことが同一になることがある、とするならば、原理だけで行ってもいけないのであり、表出された具体あるいは仮象が案外大事になることもある、のかもしれない。

 百瀬の論理で行くと、“何でもあり”になるわけだが、これへ対抗するには、しかもただ対抗するのではなく相手を納得させるように対抗するためには、どういう論理を構築すればよいのか——というところでニーチェは結局何に光を見出したのかが気になったわけだが、それは“自分を大切にする”ということであったような気がしているのだが自信はあまりなく、そればかりか“自分を大切にする”というのは、つまりは百瀬の言っていることでもあるように思われるのである。


@研究室
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by no828 | 2011-11-02 15:18 | 人+本=体 | Comments(2)