思索の森と空の群青

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2013年 05月 06日

どこかに人類全体の巨大な意識の流れのようなものがあって——恩田陸『ライオンハート』

c0131823_16121315.jpg恩田陸『ライオンハート』新潮社(新潮文庫)、2004年。38(693)

単行本は2000年に同社。

版元 → 


 時空間を超出した物語。恩田陸の物語には追跡可能なものと追跡不可能なものとがあります。本書は後者に近い感触。ただ、とくに下掲2番目の下段の引用箇所においてですが(1番目は精神分析みたいですが)、スピノザ『エチカ』のことを思い起こしました。『エチカ』はわたしの手元、起立して右手を無理して伸ばせば届くであろうところにありながらもそれをすることの面倒から読みなおすことはしませんが、当該箇所から「巨大な意識」を「神」と呼ぶとすればその神=自然の一元論、その神に包括された人間の意識、そんなことを連想しました。人間は、という書き方は大きいかもしれないから人間のなかには、と書きなおしますが、一部(one of them)に位置付けられることを嫌い、他ならない一(the one)であることを好む人もいますが、全体のなかの一部に位置付けられることの安心感のようなものもあると感じます。わたしがかつてスピノザを読んだときに感じたのは、その包まれていることの安心感のようなものでした。スピノザは、時空間(の超出)をどう考えたのでしょうか。『エチカ』に書いてあったのかもしれませんが、忘れました。

「記憶というものは面白いものですよ。これだけは忘れちゃいけない、これだけはやらなくちゃいけないと思って何日もかけて準備していたことが、いざ当日になるとすこんと頭の中から抜けてしまっていることがある。いつもやっていることをいざ言葉にしようとしたり説明しようとしたりすると、ぎっしり詰まっていたはずの言葉がきれいさっぱり抜け落ちて真っ白になってしまったりする。ジェフリー、その日があなたにとってあまりにも重要な日だったからこそ、あなたは忘れてしまったんですよ(202)

 中国の寓話に、鍋に粥を炊くほんの短い時間に、自分の一生の夢を見るという話があった。このところ、よくその話を思い出す。こうしてペンを持つ手を休め、窓べのゼラニウムを目にする度に、自分の一生は紅茶が冷めるまでの間のような、つかのまのもののような気がしてしまう。これまでに積み上げた膨大な時間はどこへ行ってしまったのだろう。こうしてその時間の行方を思索している私の意識は、どこに存在しているのだろう。
〔略〕
 人間の意識は泡のようだと思う。それは決して連続しているわけではない。恐らく、どこかに人類全体の巨大な意識の流れのようなものがあって、個人の意識はその流れの中に浮かぶちっぽけな泡に過ぎないのだ。無数の泡は、激しく渦を巻く流れの表面にぷくりと浮かんでは、弾けて消える。今こうして存在している世界そのものが、その巨大な意識が見ている壮大な夢なのかもしれない。
(326-8)


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by no828 | 2013-05-06 16:30 | 人+本=体 | Comments(0)
2013年 03月 10日

ろくな答えのないこの世の中では、比較的きれいな答えの一つだと思うわ——恩田陸『球形の季節』

c0131823_17255467.jpg恩田陸『球形の季節』新潮社(新潮文庫)、1999年。23(678)

単行本は1994年に同社より刊行。

版元 → 


 やはり少しふわっとします、恩田陸。舞台は地方都市の(おそらくは岩手県一関市の)高校4校。物語の少なくとも1つの契機は、共同体=閉鎖空間をどう感得するか、にあると思われます。問題としないか、あるいは嫌悪するか、後者の場合は閉鎖空間の外を渇望するようになります。その外への(あるいは中途半端な)志向性のはらむ問題もあるのでは? というのが本書の基底にある問いかけのような気がしました(違うかも)。徹底的に閉じられたがゆえに開かれることもある、それが大事なのだ、というようなことです(違うかも)。

なぜアメリカやフランスではなくこの谷津〔やつ〕に生まれてしまったんだろう? この不条理な疑問に心を悩ますうちに、だが待てよ、と彼女の心には別の疑問も浮かんだ。そもそも、この家、この町、この恐ろしく日本的なのどかな風景のある同じ空間の延長上に、あのパリやニューヨークがあるという事実をどうやって信じたらいいのだろうか? 嘘かもしれない。〔略〕
 浮わついた華やかさとともに、春はどことなく大きな不安をも運んでくる。
 この不安はかつて味わったことがある、とみのりは記憶をたどった。そうだ、初めて、自分以外の人間も皆、自分と同じようにモノを考え、自分と同じようにあらゆる感情を持ち、しかもそれぞれが自分と同じように自分以外の人の考えていることが理解できないのだ、と悟った時のことだ。
(12)

 人が文字を書いているところというのは、なぜか魅力を感じるものだ。人が手元に集中して書いていると一瞬無防備になり、ちらりと思いがえないものを見せるような気がする。(63)

「信じてるの?」
〔略〕
「うん、信じたいと思ってる」
あたし、よく分かんないな、宗教って
〔略〕
じゃあ、何が分かってるっていうの?
〔略〕
「そうね——、分かってるものなんて何もないわね」
〔略〕
宗教なんて未完成だし、矛盾だらけなのは承知してるわ。でも、ろくな答えのないこの世の中では、比較的きれいな答えの一つだと思うわ
(187-8)

何かを決められる人というのは、よほど恵まれている人かよほど選択肢がないかのどちらかだ。けれど、世の中はそのどちらでもない人が圧倒的多数を占めている。
 みのりだって、出来ることなら誰かに決めてほしい。自分が何をすればよいのか、何が一番あたしにとっていいことなのか。ああ、坂井さんね、あなたはこれいいですよ、向いてますよ、一番。誰かにそういってもらいたい。
(278)

 誰かに決めてほしい、というのは無下に否定すべきことではない、といまのところ考えています。誰かに決めてもらう、からといって、決め(られ)たことに責任を持たない、ということにはすぐにはならない、これらは別のことではないか、ということです。誰かに決めてもらったことがあり、それが気に入らないからその誰かを責める、ということもあるとは思いますが、そればかりではないのではないか、誰かに決めてもらったことに責任を持つ、そういうこともあるのではないか、ということです(実際にわたしたちはそういう生を、部分的にせよ、生きています)。近代が獲得してきた「個人」を否定するような議論かもしれませんが、教育という行為がパターナリズムを完全には脱しきれないのだということをも思い起こしながら、そんなことを考えています。これははじめに書いた、閉じられたがゆえに開かれる、ということとも関連すると思います。

@研究室
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by no828 | 2013-03-10 17:39 | 人+本=体 | Comments(0)
2013年 03月 02日

人が理解してくれることが、何よりもつらい時がある——恩田陸『中庭の出来事』

c0131823_1438374.jpg恩田陸『中庭の出来事』新潮社(新潮文庫)、2009年。18(673)

単行本は2006年に同社より刊行。

版元 → 


 女優が『中庭の出来事』という芝居を演じる水準と、その芝居『中庭の出来事』の脚本を劇作家が執筆する水準とが、交互に展開します。恩田陸特有のふわっと感があります。

果たして数十年先、今という時代の状況でなかったら、幾ら彼の作品がよくできた芝居だからといって、その時の人々が上演したいと思うかといえば、そうじゃないと思うの。やはり、舞台と現実は表裏一体。ちっぽけな虚構であっても、現実の一部。常に時代と共に並んで走っている、それがお芝居。〔略〕
 でもね、やっぱり、今まで残っているものって、それなりに理由があるのよ——要するに、骨格ね。シンプルな骨格を持っているもの。もしくは、人類が存在する限り、不変の構図を持っているもの——まあ、おしなべてシンプルなものが「残る」のね。言い換えれば、余白のあるもの——いろいろ解釈の余地のあるもの、ね。
(137-8)

「シンプルな骨格を持っているもの」と「余白のあるもの」とが「言い換えれば」で同義・同格に置かれていますが、少し引っかかります。少し違うのでは? というより、逆なのでは? ということです。シンプルな骨格は解釈の余地を縮減するものである、ということなのですが、わたしはこれを書きながら、一般に「古典」と名指される書物のことを思い浮かべ、それは思想構造のシンプルさゆえに解釈に開かれているのであろうか(違うのではないか)。さらにあえて表現を引き継いで言うならば、“本来”複雑であるはずの思想構造を解釈者がシンプルにすることによって他の多様な解釈に開かれるのではないか、と考えているのです。

 不思議なもので、自分ではよかったと思った時は、必ず落ちているの。ほら、学校の試験でもそうね。難しかった、出来なかった、っていう時ほど点数がいい。今回、楽勝だったじゃん、なんて思った時は駄目なのね。自分の間違いを指摘できない、自分を客観的に見られない時は、大抵駄目。(141)

「自分の間違いを指摘できない、自分を客観的に見られない時は、大抵駄目」には納得しますが、“自分でよかったと思うときはよくなくて、自分でよくなかったと思うときはよい”というのは実感としてよくわかりません。わたしの場合は、“自分でよかったと思うときはよくて、自分でよくなかったと思うときはやはりよくない”ことのほうが多いです。

 人が理解してくれることが、何よりもつらい時がある。
 それが、好きな人であるならなおさら。
 うまくいかないものだわ。
 理解できるからその人を好きになることもあるし、理解できないからその人を好きになることもある。人の心は不思議よね。
(291)

 二律背反というのが、すっきりしないというのが、実は物事の本質なのではないかと思います。

 制服というのは便利なものだ、と彼は思う。それを着たとたん頭は仕事に切り替わるし、同じ仕事をしている他の仲間との連帯感も生まれる。そして、何より便利なのは、彼が誰からも見えなくなることである。(295)

 見えなくなることによる安心感、というのはたしかにあると思います。

かつて日本に布教にやってきたキリスト教の修道士は、LOVEに対応させる言葉がなくて、「お大切」という言葉を当てている。(322)

 事実かどうかはともかく、なるほどと思いました。

 本当はね、一番いいのは、何も証明しないことです。
 ずっと一人で家にいました。いいえ、誰もそのことを証明してくれる人はいません。
 これが一番確実なんです。立証する義務は我々にあるんですから。みんな、下手にアリバイ工作なんかしようと思うから尻尾を出す。さっきの色男みたいにね。
 だけど、やり方としては、彼は正しかったんです。
 嘘をつくのならば、一箇所だけにすること。〔略〕
 もう一つ重要なのは、聞かれないことには答えないことです。〔略〕
 聞かれないこと、聞かせたくないことは省けばいいんです。そうすれば、嘘を言ったことにはならない。嘘は言っていない、というのは自信になります。それが自然な証言に繫がるんです。
(348)

「アリバイ」とは何か、というのは、「アリバイ」を研究発表のタイトルに付したときから、気になっています。ひとりの人間が異他空間に同時存在することは不可能であるがゆえにわたしは関心がある、だからかもしれません。身体(肉体)なるものへのわたしの関心も、そこに関係しているような気がします。


@研究室
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by no828 | 2013-03-02 15:17 | 人+本=体 | Comments(0)
2013年 02月 23日

時々考えるんですよ。 理解できないというのは罪なのか、って——恩田陸『ユージニア』

c0131823_17195986.jpg恩田陸『ユージニア』角川書店(角川文庫)、2008年。13(668)

単行本は2005年に同社より刊行。

版元 → 


 関係者へのインタビューを通して事件の「事実」に迫る構造になっています。ミステリ、だと思うのですが、論理明晰タイプではありません。少しふわっとしています。

 一つの出来事を、たくさんの人の口から聞くというのは、興味深かった。
 逆に、事実って何だろう、と何度も考えましたよ。
 それぞれの人は皆事実だと思って喋っているけれど、現実に起きた出来事を、見たまま話すのって、難しい。というよりも、不可能ですよ。その人の先入観とか、見間違いとか、記憶違いがあって、同じことを複数の人から聞いたら、どれも必ず少しずつ違う。その人の知識とか、受けてきた教育とか、性格で、見方も異なるわけでしょ。
 だから、実際に起きたことを、本当に知るというのは絶対に無理なんだなあと思いました。
(49-50)

 それでもまだ、当時はのんびりしていたと思います。今だったら、あんなもんじゃ済まなかったでしょうよ。マスコミが殺到して、あっというまに家族の写真も出回って、外出もできなかったでしょうね。今は、被害者も、加害者も、まだ真相も解明されていないうちから、ほとんど私刑みたいな扱いを受けるじゃありませんか。悪いことをした人を非難できるのは、被害に遭った当事者だけです。なぜ赤の他人までが「じゃあ自分が叩いたって構わないだろう」って思えるんでしょうねえ。あたしには理解できません。(108)

 だけど、尊敬と軽蔑、憧れと妬みは紙一重。(178)

 時々考えるんですよ。
 理解できないというのは罪なのか、って。

 親でも子でも、きょうだいでも、理解できないものはできない。それっていけないことなのか。理解できないならできないと認めて、あきらめることだって理解の一つなんじゃないのか。そんなことを考えるんです。
 だけど、今日び、世界は理解できないものを許さないでしょう。分からないと言ってはいじめ、得たいが知れない、説得不能だと言って攻撃してしまう。なんでも簡略化・マニュアル化が進む。人が腹を立てるのは、理解できないからのことが多い。
 本当は、理解できるもののほうがよっぽど少数派ですよね。理解したからって、何かが解決できるわけでもない。だから、理解できない世界で生きていくことを考えるほうが現実的だと思うのは間違いでしょうかね。
(191)

——私は、今、世界から問い掛〔ママ〕けられている。これだけ私という個人に対して大きな問いを投げか〔ママ〕けられているのに、私は沈黙している。そのことに耐えられないんです。私は、どんな答えであれ、世界に返事をしなければならない。そういう意味で、私は今、大きな責任を感じているんです。
——責任? 責任というのは? 事件はあなたのせいじゃありません。何かひどいことに巻き込まれて、罪悪感を感じる人は多くいますが、その人のせいじゃありませんよ。あなたが責任を感じる必要はどこにもありませんよ。
——そうでしょうか。でも、実際のところ、巻き込まれたのは私です。他の誰かではなく、この私が選ばれたんです。だったら、それには何かの理由があるんじゃないでしょうか。私に対して、返事を求めているんじゃないでしょうか。
(210-1)

 ファミレスって、おかしな言葉だねえ。
 そう思いません? 聞く度に違和感を覚えるんだな。
 本当はファミリーレストランの略なんだろうし、頭では分かってるんだけど、俺はいつもファミリーレス、つまり家族がない、って言葉を連想しちゃうんだな。そう、セックスレスと同じ用法ね。
(230)

 兄さんが学問に関して話をする時は、なんていうのかな、兄さんの頭の中に、立体的に理論が構築されているのが見える感じがするんだ。緻密で、きちんと体系がなされている。細かいところまでしっかりしているから、どの方向から質問しても、一貫性があって、イメージしやすい。
 それに、兄さんは子供だからといって態度を変えたりしなかった。子供のほうは、自分を対等に扱ってくれる人間を本能で察知するんだね。だから、兄さんは子供にもてたんだよ。
(238)


 冒頭に「少しふわっとしています」と書きましたが、本書全体で「理解できないというのは罪なのか(いや、罪ではない)」ということを問うているのかもしれません。わからなさにしぶとく付き合うことの重要性には、気づいているつもりです。


@研究室
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by no828 | 2013-02-23 17:56 | 人+本=体 | Comments(0)
2012年 05月 19日

いいものを読むことは書くことよ——恩田陸『三月は深き紅の淵を』

c0131823_19362774.png79(539)恩田陸『三月は深き紅の淵を』講談社(講談社文庫)、2001年。

版元 → 

単行本は1997年に同社より刊行。


 昨日紹介しました、恩田『麦の海に沈む果実』(→ )の伏線になっている本です。『三月は深き紅の淵を』という本が『麦の』には出てくるわけですが、『三月は』にも出てきます。自己言及的な内容になっています、というより、なっていきます。不思議な構成の本です。

「今の若い人って、本読むのかなあ?」
〔略〕
「僕の知ってる範囲じゃ両極端ですね。読む人はマニアックなまでに読む。読まない人は読まない」
「やっぱりねえ。うちの学生見てても、読んでないですもんね。だいたい顔見ると見当がつく。本いっぱい読んでる学生は、なんといいますか、目と目の間の奥の方にぎっしり何かが詰まってるような顔してる。でも読んでない学生は、目と目の間の色が薄くって、スカッとした感じなんですねえ
(95)

「こうやって、今までの人生で読んできた本がずらりと並んでるっていうの、羨ましいですね。〔略〕生まれて初めて開いた絵本から順番に、自分が今まで読んできた本を全部見られたらなあ、って思うことありませんか? 雑誌やなんかも全部。〔略〕そういう図書館が一人一人になって、他人の読書ヒストリーをのぞくっていうのも面白いだろうなあ」(89-90)

記憶の中にある本、かつて読んだ本ぐらい面白いものはないからね(99)

いいものを読むことは書くことよ。うんといい小説を読むとね、行間の奥の方に、自分がいつか書くはずのもう一つの小説が見えるような気がすることってない? それが見えると、あたし、ああ、あたしも読みながら書いてるんだなあって思う。逆に、そういう小説が透けて見える小説が、あたしにとってはいい小説なのよね」(161)

 これは学術書や論文にもあるような気がします。わたしに、“おまえはこれを考えなくてはいけない、書かなくてはいけない”と命じてくるような文章に、たまに出会います。

 おまけ。
「そうね、ヒーローっていうのはそれ自体で完結してるから、他者の存在の介入をあまり必要としないじゃない? 女から見ると、勝手に一人でハードボイルドしてればっ、って気分になるのよね。女ってのは相手を通して自分を見てるようなところがあるから、相手の欠落を埋めたい、必要とされたいって願望が第一なのよ。要するに自尊心なんだけどさ。相手を崇拝したい、憧れたいっていうのはせいぜい十八歳くらいまでじゃないかしら?」(64)


@研究室
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by no828 | 2012-05-19 19:56 | 人+本=体 | Comments(0)
2012年 05月 18日

知っていれば人は寛大になれるもの——恩田陸『麦の海に沈む果実』

 今日は金曜ですが、たまたま講義がなく、朝から研究室に来ています。


c0131823_14554571.png78(538)恩田陸『麦の海に沈む果実』講談社(講談社文庫)、2004年。

版元 → 

単行本は2000年に同社より刊行。


 学園の図書室から消えた1冊の本をめぐる生徒(と校長)の物語。その1冊の本の題名は『三月は深き紅の淵を』。同名の小説が恩田陸によって書かれ、本書『麦の』よりも先に刊行されています(版元 → )。図らずもわたしは、『麦の』を先に読み、そのあとに『三月は』を読むことになりました。どちらも読んだ感想としては、この逆転の順番でよかったかもしれない、でした。

 ちなみに、本書の学園のある場所は、北海道の釧路湿原付近を予想させるものでした。不可思議な学園で、こんな学校は実際にもあるのかな、と思いました。

 なお、このブログ内での恩田陸は『夜のピクニック』(→ )に続いて2冊目のようです。『夜の』についてエントリした日は『BRUTUS』を買ったようですが、『麦の』をエントリする今日は、図らずも『BRUTUS Casa』を買っていました。『Casa』は収納特集です。本棚についても触れられているようなので、これは、ということであります。

「そう。人間、未知のものに対しては不安になる。腹を立てる。疑い深くなる。心が狭くなる。例えば、君が今電車に乗っているとする。ところが、突然駅と駅の間で電車が止まってしまった。そのまま電車はずっと止まっている。君はどう思う? 不安になるね。そのうち、いらいらして怒りだすだろう。これはなんの不安、なんの怒りだと思う? 情報がないことに対する不安と怒りなんだ。人間が異性に対して不安や怒りを覚えるのも、自分の中に相手の情報がないこと、理解できないことに対してなのさ。それを解消するには、体験してみるしかないだろう。知っていれば人は寛大になれるもの。私は全てのカードが自分の手の内にないと嫌なタイプなのでね」(293)

 というのは、男女両装の校長の言葉です。

「こういう場合、男は恋人を刺すのに女は新しい女の方を刺すよね。どうしてだろ」
 聖が不思議そうに呟いた。
男は恋人に裏切られたと思うから恋人を刺すのよ。女は恋人を取られたと思うから新しい女を刺すの
 憂理はすぱっと答える。
「さすがに女優は経験豊富だね」
「役の数だけはね」
(337)

 これも、「体験してみるしかない」のひとつの例でしょうか。

 本を読むことのひとつの“効能”も、あるいはそこにあるのかもしれません。さまざまな考え方に(前もって)触れておく——「想像力」とは、いきなり育つものではなく、そういう土壌があってこそ、なのかもしれません。つまり、どれほどの数の物語に没入してきたか。ここから、では「教育」の在り方とは、ということを少しばかり考えたりもします。


@研究室
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by no828 | 2012-05-18 15:26 | 人+本=体 | Comments(0)
2009年 10月 16日

損した。青春しとけばよかった——恩田陸『夜のピクニック』

 夕方、書籍部に行って雑誌『BRUTUS』を買った。特集は「美しい言葉」。言葉とか本が特集のときは買ってしまうのだ。
 
 で、目下食後。


c0131823_156390.jpg54(187)恩田陸『夜のピクニック』新潮文庫、新潮社、2006年。

版元 → 


 ある高校の全校生が夜を徹して80km歩きとおすという「歩行祭」、それに臨む高校3年生のお話。だから会話は、基本的に全部この80kmを歩きながらのもの。

「『しまった?』
 『うん。「しまった、タイミング外した」だよ。なんでこの本をもっと昔、小学校の時に読んでおかなかったんだろうって、ものすごく後悔した。せめて中学生でもいい。十代の入口で読んでおくべきだった。そうすればきっと、この本は絶対に大事な本になって、今の自分を作るための何かになってたはずだったんだ。そう考えたら悔しくてたまらなかった。〔……〕』
 『へえー』
 融は意外に思った。忍は過去のことにこだわらないタイプだと信じていたからだ。
 『だからさ、タイミングなんだよ』
 忍はボソボソと話し続けた。
 『おまえが早いところ立派な大人になって、一日も早くお袋さんに楽させたい、一人立ちしたいっていうのはよーく分かるよ。あえて雑音をシャットアウトして、さっさと階段を上りきりたい気持ちは痛いほどよく分かるけどさ。もちろん、おまえのそういうところ、俺は尊敬してる。だけどさ、雑音だって、おまえを作ってるんだよ。雑音はうるさいけど、やっぱ聞いておかなきゃなんない時だってあるんだよ。おまえにはノイズにしか聞こえないだろうけど、このノイズが聞こえるのって、今だけだから、あとからテープを巻き戻して聞こうと思った時にはもう聞こえない。おまえ、いつか絶対、あの時聞いておけばよかったって後悔する日が来ると思う』
 〔……〕
 『その雑音っていうのは、女か?女とつきあえってこと?』
 『うーん。分からない。その一つかもしれないけど、全部じゃない』
 『俺はどうすればいいんだ?』
 『どうしろとは言わないけど、もっとぐちゃぐちゃしてほしいんだよな』
 〔……〕
 『世の中、タイミングなんだよな。順番といってもいいけど』
 忍が溜息混じりに呟いて、融の顔を見た。
 『順番が違ってれば何とかなったのにってこと、ないか?』
 『あるような気がする』」
(188-190頁)。


「だが、正しいのは彼らだった。脇目もふらず、誰よりも速く走って大人になるつもりだった自分が、一番のガキだったことを思い知らされたのだ。
 そして、彼らは融よりもずっと寛大だった。一人で強がっていたのに、彼らは融のことを愛してくれていた。いつも離れずそばについていてくれたのだ。
 融は自分が情けなく、恥かしくてたまらなくなった。
 『——もっと、ちゃんと高校生やっとくんだったな』
 融は思わず呟いていた。
 『え?何?』
 貴子が振り向く。
 『損した。青春しとけばよかった』
 『何、それ』
 『愚痴』
 貴子は、本気で後悔している表情の融の表情を見て、沈んでいた心のどこかが動くのを感じた。
 忍の声が、唐突に脳裏に蘇る。
 なんて言うんでしょう、青春の揺らぎというか、煌めきというか、若さの影、とでも言いましょうか。
 忍の冗談めかした声と、つまらなそうな顔の融とが重なりあった。
 ひょっとして。
 貴子は融の顔をじっと見つめた。やけに無防備な、子供のような不満顔を。
 今ごろになって感じてるわけ?そういうものを?今更、この男が?
 貴子は、あきれて笑い出したくなった。
 この男は、落ち着いていて偉そうに見えるが、実は、とんでもなく不器用で生真面目なのだ。
 『ちゃんと青春してた高校生なんて、どのくらいいるのかなあ』」
(428-429頁)。

 わたしも、高校生の頃を振り返って、もっと青春しとばよかったなあと思う。勉強と部活で終わった気がする。もちろんそれも青春だとは思うし、たのしいこともたくさんあった。けれど、もっといろいろあってもよかったなあと思う。男子校だったから、恋、なんてこともなかったし、女子がいるからがんばれる、ということもなかった。そういう意味では、「なぜ高校に行くのか」はわかっていたけれど、「何のために高校に行くのか」はよくわかっていなかったのかもしれない。「何のために」は「大学進学のために」だと思っていたけれど、それは「なぜ」のほうだったのかもしれない。

—————

「『言わないでよ』
 『もちろん、誰にも言わない』
 『あたしも、打ち明ける気なんてないし』
 『どうして』
 千秋は小さく首を振った
 『いいの。そう思ってるだけで。告白したからってどうにかなるとは思ってないし、別にどうにかなりたいわけでもないし。これから受験で卒業するだけでしょ。今、そう思える相手がいるだけでいいんだよ』
 千秋はゆっくりと低くそう呟いた。
 今度は貴子が絶句する。
 千秋の言いたいことはよく分かった。
 好きという感情には、答がない。何が解決策なのか、誰も教えてくれないし、自分でもなかなか見つけられない。自分の中で後生大事に抱えてうろうろするしかないのだ。
 好きという気持ちには、どうやって区切りをつければいいのだろう。どんな状態になれば成功したと言えるのか。どうすれば満足できるのか。告白したって、デートしたって、妊娠したって、どれも正解には思えない。だとすれば、下手に行動を起こして後悔するより、自分の中だけで大事に持っている方がよっぽどいい」
(271-272頁)。 

 なるほどなあ。


@研究室
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by no828 | 2009-10-16 18:53 | 人+本=体 | Comments(0)