思索の森と空の群青

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2016年 11月 30日

わかるより、わからない方がまし——森博嗣『人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか』

 森博嗣『人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか』新潮社(新潮新書)、2013年。12(1009)


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 エッセイ。タイトルを一見して“何だそれ”、“手抜きか”と思いました。しかし、本書の主な内容が“抽象的に考えるとはどういうことか”のため、こんな抽象的なタイトルでよいのかもしれません。以前、「多様な視点から」がサブタイトルの某フォーラムに参加したことがあったことを思い出しました。今回と同様の感想を持ちました——“何も言っていないに等しいではないか”、と。しかし、少なくとも本書は何かを確実に言っています。

抽象的に考えるというのは、簡単にいえば、ものごとの本質を摑むことで、見かけのものに惑わされることなく、大事なことはどこにあるのかを探すような思考になる。(8)

 僕には一つアイデアがある。お互いの国で、その島が相手の国の領土だと主張する学者(専門家)を探す。少なくとも、その学者は、自国の国益を棚上げしているだけでも、普通の人より客観的だろう。〔略〕そういう学者を出し合って、会議をさせるのである。それぞれが、「この島は、貴方の国の領土です」という議論を戦わせることになる。それを公開して、両方の国のみんなで見ると良いだろう。(10-1)

 現実に見えるものの多くは、誰かによって見せられているものであって、その人にとって都合の良いように加工されているため、そのまま受け取ってしまうと、結果として自分の考えに合わない方へ流され、渦の中へ吸い込まれていくことになる。別の言葉でいえば、知らず知らず、他者に「支配」されてしまうのである。(52)

なんでもみんなで多数決を取る、というのは考えもので、それぞれその専門家が考える方が間違いがない。原発反対の人が多いから原発は廃止すべきだ、という数の理論は成り立たない。それが成り立つなら、税金は安い方が良いということになるし、領土は、人口の多い国のものになるだろう。(57)

 重要なのは、決めつけないこと。これは、「型」を決めてしまって、そのあとは考えない、では駄目だという意味だ。抽象的に、ぼんやりと捉えることで、決めつけない、限定しない、という基本的な姿勢を忘れないように。(65)

 これは、「視点」といったものでも同じで、客観的な視点を持つためには、まず主観的な自分の視点がどういうものかを把握する必要がある抽象的なものを捉えるためには、排除すべき具体性を知っていなければならない。いずれも、囚われないためには、囚われているものを、あるいは囚われている状況を、しっかりと見極める必要があるからだ。(69)

 具体的な指示は、そのとおり従えば文句は言われないので、なにも考えることなく、ただそのまま実行すれば良い。これは人間ではなく、ロボットだってできることだ。しかし、指示が抽象的になるほど、どう行動すればその指示に合致するのかを考える必要があるし、また、何故そんな指示が出たのか、さらに上のレベルの理由や精神まで想像することにもなる。お客を丁寧に扱わなくてはならない、その理由は何か、という具合にである。そこまで理解しないと、自分のしていることの意味がわからない。非常に人間らしい、有能さを期待される。(76)

 オリンピックの百メートル走の記録は、スタートの合図を聞いてから反応するまでの時間が含まれている。つまり、百メートルを最も速く走るだけの競技ではない。自由にスタートさせ、スタートしたときからゴールするまでのタイムを測れば、本来の「最も速く走る人」になるのではないか。〔略〕
 同様に、走り幅跳びは、跳んだ(踏切り)位置から測れば良いし、高飛びも、バーの位置に拘らず、最も高かった地点で測ってあげれば良いと思う。(113)

 人の評価を気にする人は、ただ人と同じ気持ちを共有したい、という感情で作品に触れているだけだ。それは、みんなが笑っているから私も笑う、というロボットのような動作であって、人間の感性のすることではない。
 芸術の本質とは、貴方の目の前にある作品と貴方の関係なのである。(122)

「わからないよりはまし」ではなく、「わかるより、わからない方がまし」なのである。抽象的にものを見ることができない人が、言葉に頼る。わからないままにしておけないのは、それだけ思考能力が衰え、単純化しないと頭に入らない、という不安があるためだろう。これは、「わかってしまえば、もう考えなくても良い」という、思考停止の安定状態を本能的に求めているわけで、「お前はもう死んでいる」と言われそうな状態に近い。(123)

 これに似ている仕事として、僕が一つだけ思いつくのは、芸術家である。これは、ある意味で研究者ととてもよく似ている。科学を扱うか芸術を扱うか、論理を使うか感性を使うか、という違いはあるものの、結局は自分の「発想」が頼りとなるし、効率とか、人間関係といった現実的なものにあまり囚われない、基本的に無縁の作業として成立する職業だ。(135)

研究というのは、〔略〕考えて考えて、思いついて、そして、それを確かめる、もし確かめられなかったら、また考えて考えて、思いつく、という繰返しである。運良く上手く事が運んだときには、論文を書く作業も仕事のうちである。時間的には、考えている時間か、確かめている時間が最も長いけれど、しかし、なくてはならないのは、やはり思いつくことすべては、発想に起点がある。それは、時間にすれば、ほんの一瞬のことだ。(137)

具体的な(肉体の)生活は、質素で無変化であってもかまわない。むしろ、その方が健康を維持しやすい。健康は、思考を支えるためにある、と僕は思っている。(160)

自力で頭脳の世話をしなければ、新しい発想、優れたアイデアが生まれる土壌は育たないし、また維持もできない。(181)

のんびりとリラックスしているときにアイデアが浮かぶよりも、忙しくて必死になって考えているときの方が、断然発想することが多い。(184)

 慌ててどちらかに決める必要などない。ぼんやりとしたままの状態で良いではないか。〇か一かを決めないといけない、と考えるのは、「もう考えたくない」という生理的な欲求によるものだと思われる。(195)

できるだけ「正しい」ものに近づきたいと願うのならば、とにかく、状況が許すかぎり保留して、自分に猶予を与えるべきだ。〔/〕一般的に言えることは、遅い判断の方が正しさに近い、ということだ。頭に血が上った状態で採決を取りたい、と考える人たちは、大衆が感情的で判断を誤ることをチャンスだと考えているのだろう。(196)

「遅い判断」がより正しいのなら、われわれは問題を先送りしなければならない、のかもしれません。大陸の某政治家もそんなことを領土問題の文脈で言っていた気がします。投票による多数決がもたらすのは全面的な解決ではなく別の問題です。「専門家」の役割とは何なのか、改めて考えています。

@研究室

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by no828 | 2016-11-30 22:39 | 人+本=体 | Comments(0)
2015年 10月 07日

「早く辞めて働けば良かったな」とは思わない——森博嗣『「やりがいのある仕事」という幻想』

c0131823_20112373.jpg森博嗣『「やりがいのある仕事」という幻想』朝日新聞出版(朝日新書)、2013年。18(940)


 版元


“働くこと”の相対化。“やりたいことを仕事にすること”の相対化。やりたいことがあり、しかしそれを仕事でやる必要はない。やりたいことは仕事を通して実現しなければならない、わけではない。


 これは理屈だ。「理屈ではわかっているけれど、実際はそうじゃない」という反論もあるだろう。しかし、まず自分自身がきちんとした理屈で考えるべきであって、自分の気持ちに対しては、自分の理屈を当てはめるのが、つまり「正しい」ということだと思う。(42)

 たとえそうであっても、もし経済的に許すならば、自分に投資する、すなわち学業に専念する(という振りをする)方を選ぶのが有利だ、と僕は考えている。
 これは、やはりこの「学業に身を置く時間」というものの重みが、一生つき纏うからである。人生のどこかで、ほんの少しかもしれないが、たしかに利いてくる。学生時代というものは、あとになって「もっと学んでおくべきだった」と振り返ることはあっても、「早く辞めて働けば良かったな」とは思わない。そういう存在なのである。
(81)


どうも大人は、「仕事は大変なんだ」と苦労を語りたがる。そうやって、大人という立場を守ろうとしているのだ。「お父さんは、こんなに大変なことをしているのだよ」と子供に言いたがる。実に情けないことだ、と僕は感じる。(13)

仕事というものは、今どんな服を着ているのか、というのと同じくらい、人間の本質ではない。(16)

仕事というのは、抽象的に表現すると、「したいという気持ちはそれほどないけれど、それをしないと困ったことになるからするもの」ということになる。(30-1)

先進国では少なくとも憲法というものができて、「人は皆平等である」と定められた。そもそもこのように憲法というものを持ち出さないと守れないほど難しい認識だった証拠でもある。(35)

 そもそも、就職しなければならない、というのも幻想だ。人は働くために生まれてきたのではない。どちらかというと、働かない方が良い状態だ。働かない方が楽しいし、疲れないし、健康的だ。あらゆる面において、働かない方が人間的だといえる。ただ、一点だけ、お金が稼げないという問題があるだけである。(51)

つまりは、自分がどれだけ納得できるか、自分で自分をどこまで幸せにできるか、ということが、その人の価値だ。その価値というのは、自分で評価すれば良い。(59)

大人になったのだから、自分のことは自分で褒めよう。自分で褒めるためには、何が自分にとって価値のあることなのかを、まず考えなくてはならないだろう。それが、流されないための唯一の方法だ。(74)

仕事の目的は金を稼ぐことである。〔略〕この社会で生きていくためには、呼吸をするように、〔略〕やはり「働くしかない」ということ。〔略〕生きていくには、「働くことが一番簡単な道」なのである。(63)

 人生の生きがいを仕事の中に見つける必要はどこにもない。もちろん、仕事に見つけることもできるかもしれない。それと同じように、仕事以外にも見つけられる。好きなことをどこかで見つければ良い。どうして仕事の中でそれを探そうとするのか、自問してみよう。(143)

ホッチキスの針を打てば、それでいくらもらえる、と計算できるのが仕事であって、そうなれば案外続けられるのではないかと考えた。「この仕事でお金をもらって、どんな楽しいことをしようか」と想像しながら、ホッチキスを打てる。わくわくできると思う。
 だから、仕事をしていて楽しいと感じるのは、「これでお金がもらえるんだ」と思い出したときだろう。
(147-8)

仕事のメリハリは、できればない方が良い、と僕は思う。その方が仕事も綺麗に仕上がるし、自分の健康にも良い。(148)

子供が無邪気に遊んでいたり、犬が走り回っている様子を見ると、心が温まる。しかし、子供も犬も、温かい態度を取っているわけではない。見ている者が、自分で自分の心を温めるのだ。したがって、僕が冷たいと感じる人は、自分の心が冷たいということに気づいただけである。(216)


@研究室
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by no828 | 2015-10-07 20:28 | 人+本=体 | Comments(0)
2015年 01月 24日

つまりは、好き勝手に生きられた幸運のおかげであって——森博嗣『工学部・水柿助教授の解脱』

c0131823_1942820.jpg森博嗣『工学部・水柿助教授の解脱』幻冬舎、2008年。51(874)


版元 


 研究者生活の一端、あるいは大学教員生活の一端、というか森博嗣の生活の一端。

 『工学部・水柿助教授の日常』→ 
 『工学部・水柿助教授の逡巡』→ 


片方が潔ければ、交渉が揉めることはない。お互いに失うものがなければ、議論は白熱しない。(45)

 よく海外で困らないために英会話を習う、といったことを耳にするが、本当に自分が話したいこと、本当に知りたい情報であれば、中学の英語の基礎と、あとは辞書があれば通じるはずだ。流暢にしゃべる必要もないし、早口でしゃべる相手には、「もう一度ゆっくり言ってくれ」と要求すれば済むことである。(94)

 これが本当のコミュニケーションである。街角で、挨拶したり、無駄口を叩くことがコミュニケーションではない。つまり、方法から入ろうとするから、英語や英会話が身につかないのだ。英語を使って何をしたいのか、が重要なのである。(95)

「うん、お金があることで考えられることが増えるのは確かだね。それは、やっぱりメリットだと評価できる。大金を手にすることで、デメリットはなにもなかったし
「心が歪んだりしたかもしれないよ」
「歪んでいるかな」
「さあ、気づかないだけで歪んでいるかも」
「うん、だけど、やっぱりそれって、お金を持っていない人が想像しているだけのことだよね。お金で失敗して、悪いことをするのは、大金を手に入れた人ではなくて、大金を手に入れようとした人だよね
(106)

 結局こういうことだと思う。買った人には、値段など無関係なのだ。買わない人が、「お金がないから」とか「本が高いから」という理由を口にするだけである。しかし、お金があっても、本が安くても、やっぱりその人は買わない。(197-8)

「えっと、新刊についてですが、どんなところに力点を置かれましたか?」
「力点って何ですか?」
「先生が、力を込めた部分という意味です」
キーボードを使っていますから、どのキーに力を入れたか、といえば、まあ、一番はリターンキーではないでしょうか
(250)

「しかし、芸術家には定年はありませんよ」
「ええ、ですから、それは自分を見失っているんだと思います。自分を見失うことが芸術家の本分なのかもしれませんが。あ、今の面白いですね」
(255)

 他人に求めてはいけない。
 たとえ、最愛の人であっても、求めてはいけない。自分に与えられるのは自分だけだ。〔略〕人間だけが、他人に期待し、他人が自分の思いどおりにならないことで悩む。悩んでいるといっても、ただ恨むだけのことだ。〔略〕
 他人のために行動する場合も、他人のために行動する自分が好きだからするのである。それが素直な見方だ。他人のためにやっているのだ、と思い上がることは間違っている。〔略〕
 けれども、こんなことを考えるようになったのは、つまりは、好き勝手に生きられた幸運のおかげであって、これはたまたま目の前に現れただけのものだったかもしれない
(274-5)

 この最後の「けれども」パラグラフは、森博嗣らしからぬ印象も受けました。こういうメタ認知の仕方はしない人だと捉えていました。

@研究室
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by no828 | 2015-01-24 19:53 | 人+本=体 | Comments(0)
2014年 08月 08日

悩んだうえで「どちらであっても良い」と許容するのです——森博嗣『封印サイトは詩的私的手記』

c0131823_2140536.jpg森博嗣『封印サイトは詩的私的手記』幻冬舎、2001年。4(827)

版元 → 

 ウェブ日記全5冊のなかの第3弾。本書には1999年の1年分が収められています。読むのはこの第3弾が最後です。

 第1弾『すべてがEになる』(→ 
 第2弾『毎日は笑わない工学博士たち』(→ 
 第3弾『封印サイトは詩的私的手記』(→ 今回)
 第4弾『ウェブ日記レプリカの使途』(→ 
 第5弾『数奇にして有限のよい終末を』(→ 

 本文には太字で強調されている部分がありますが、以下の引用ではそれを反映させていません。


 けれど、この無駄が悪いといっているのではありません。無駄が嫌いでもありません。人間は無駄なものに価値を見出すことができます。無駄があるからこそ、生活できている人も沢山います。森も本が好きです。本がなくなったら困るでしょう。
 ただ……、これは好きか嫌いを論じる問題ではないのです。〔略〕
 誰かの希望をきいているのではないのです。地球環境という立場から、大衆書物は100年さきには確実になくなる。否、なくさなくてはならないでしょう。
(46)

 〆切間近に仕事をしているという状況って、実に頑張っている状態にその場は見えるんですが、実際には、「もう時間がないから」という理由で省略され、議論が尽くされないわけで(おそらくそれを狙っている場合が多い)、つまりは間違いなく「手抜き」なのです。したがって、「〆切間際に徹夜しているんです~」とかって叫びをよく耳にしますけれど、それは、ある種の「懺悔」なのか、あるいは、このぎりぎりでも自分にはできるという楽観的な「自慢」なのか、いずれかではないでしょうか。いかなる点を見ても、余裕で仕事をする人間の方が誠意があり、努力しているし、人格も信頼にたえうるのは当然です。(74-5)

何度も言っておりますが、「才能は決して埋もれません(117)

 楽な仕事を見つけて逃避する人は、本当に仕事熱心な人よりも、ずっと仕事熱心に見える。(169)

 自分だってまだまだ走っているのに、子供のことなんかにかまっていられないよ、というのが正直なところ。親は正直であれば良い、と思います。「走れ走れ」と言うよりは、一緒に走ってやる方がきっと効果的です。育児はしませんでしたが、父親としてはせめて通信簿は見ない、という態度を森は取っております(微笑)。(224)

 機能も値段も便利さも時とともに廃れますが、いつまでも残るものは思想です。MacとWinは何が違うのか、それは思想の有無です。そんなものに価値はないという方も多いでしょう。そのとおり価値はありません。「価値」などその程度のものなのです。でも、その程度のものだ、ということを知っているか知らないかが問題なのですね*。

* 先生は「AとBのどちらであってもかまわない。肝心なのは「Aである(Bである)」という自覚の有無である」というご意見を書かれていますね。こういう場合「自覚の有無」が引く一線とは何なのか、「自覚している人」はどういう姿勢・行動をとるものなのか、といったことについて、もう少しお話ししていただけますでしょうか?

 なかなか傾向を抽出した的確な質問です。自覚の有無は、それを常に問い直す姿勢、客観的な視点、必ず一層下の根拠を探る思慮、そして結論を安易に統合しない精神、などでわかります。まず、「AかBかどちらだろう?」と悩むことが大切です。悩んだうえで「どちらであっても良い」と許容するのです。
(260)

 アウトプットするよりも、まだまだインプットしていたいのです(その方が森は学会に貢献できるでしょう)。よく思いますけれど、本気で森の研究内容に触れたいのなら、森の論文を読めば良いわけです。何も隠していません。講習会に参加するよりはずっと解りやすいでしょう。(263)

 それから、叱るときには、相手に嫌われても良い、という「本気」が非常に大切だと感じます。「子供には嫌われたくない」、なんて思っていたら、たいてい嫌われます。(385)

 ここから、一般論ですが……、「苦労しましたね」という意味のcongratulationはときとして相手に失礼になります。たとえば、結婚する花嫁にcongratulationは大変失礼な言葉ですし、作品を書き上げた作家にも、「取材が大変だったでしょう」「何日もかかったのですね」といった言葉は、(もちろん悪気はないのでしょうが)才能がないから苦労した、という意味にとられてしまうわけですね。難しいものです。
 オリンピックで入賞した選手などに対しても、たゆまぬ努力した、日頃の苦しいトレーニングを積み重ねた結果だ、とマスコミは報道したがりますけれど、そうやって、才能を平凡化して、大衆を安心させようという意図が働くようです。天才は大衆に好かれません。「練習なんかそんなにしてませんよ」と選手が本音を口にすると、すぐに憎まれ者になってしまう。まあ、人間はかように心が狭いのです。
(440)

 ところで、日本の学生ってどうしてこんなに授業中に寝るのでしょうか。ちょっと外国では考えられないですよね。そのわりに授業が終わると、あくせくバイトしているわけで、それは、ザルで水をすくっているみたいなメカニズムです。お金を稼いで、その金を使って硬い椅子で寝るというのも贅沢の1つかもしれません。
 どうも、働いていれば偉い、みたいな間違った認識があるみたい。若い頃は働くよりも、投資することの方が大事です。自分の時間を即座にお金と交換しないで、もっと将来有望なものに投資しましょう。バイトする時間があったら、生活費を切り詰めて(たとえば)読書をした方がはるかに有意義です。その方が、いずれは(って、たぶん30過ぎた頃には)得だと思います。
(433)

 非常勤講師先の短大に、バイトをせざるをえない状況で勉学に励んでいた学生がいたことを思い出しました。読書をして、生活費を切り詰めて、それでもなおバイトをせざるをえない学生がいます。

@研究室
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by no828 | 2014-08-08 22:00 | 人+本=体 | Comments(0)
2014年 05月 17日

引用のない本——大崎梢『サイン会はいかが?』森博嗣『イナイ×イナイ』岸田るり子『密室の鎮魂歌』

c0131823_19225982.jpg大崎梢『サイン会はいかが?——成風堂書店事件メモ』東京創元社(創元推理文庫)、2010年。146(801)

単行本は同社より2007年。
版元 → 

 本格ミステリ。書店が舞台である、あるいは書店員が活躍するという、『配達あかずきん』(→ )、『晩夏に捧ぐ』(→ )に続くシリーズ第3弾。


c0131823_19231667.jpg森博嗣『イナイ×イナイ PEEKABOO』講談社(講談社文庫)、2010年。147(802)

2007年に同社ノベルス。
版元 → 

 ミステリ。「Xシリーズ」第1弾。探偵。


c0131823_19232995.jpg岸田るり子『密室の鎮魂歌』東京創元社(創元推理文庫)、2008年。148(803)

単行本は同社から2004年。
版元 → 

 本格ミステリ。表紙デザインがこれではない版を読みましたが、そのデザインがウェブ上で探し出せません。


@研究室
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by no828 | 2014-05-17 19:27 | 人+本=体 | Comments(0)
2014年 03月 21日

沢山の講義に出て、質問をして、自分で見極めることが大事です——森博嗣『大学の話をしましょうか』

c0131823_18294454.jpg森博嗣『大学の話をしましょうか——最高学府のデバイスとポテンシャル』中央公論新社(中公新書ラクレ)、2005年。127(782)

版元 → 


 題名のとおり、森博嗣の大学論、学問論などが含まれています。共感するところが多かったです。

 実際に大学などで教えるようになり、一斉授業の意味・意義を考えることが増えました。わざわざ同じ時間に同じ場所で同じ教員の講義を受ける意味・意義とは何か、考えます。それは学生が考えればよいことだ、とも考えられますが、出欠を確認しなければならないところ——があるのです——ではとくに、教員も考えなければならないのではないかと思います。来年度は、本件に関するこれまでの私的な仕組みを変更し、部分的に学校側の決まりに反抗しながら、一斉講義を展開していこうと企画中です。本書を通してヒントを得られたところもありますが、その大学に常にいるわけではない非常勤講師という身分で何ができるのかは、また自分で考えないといけないと思いました。


 ただし、働いている者が偉い、働かない者は一人前ではない、という考え方は間違っていると思います。その理屈が、男女差別や、老人差別、子供差別の基本になっているものです。〔略〕これまでは、みんなが労働をしなければ生きられない貧しい時代だった。〔略〕しかし、労働という意味が、既に昔とは異なってきているのです。(24)

大学の教育とは、講義室で行われる授業にあるのではなくて(あれは単なるガイダンスだと思って良いだろう)、学びたい学生が、自分からすすんで教官の部屋へ訪ねてくる。そこで議論があり、ともに学ぶことができる。こういった学び手の主体性のうえに成り立っているのが本来の大学のシステムだろう、と森は考えている。(62-3)

何が問題なのか、何を研究すべきなのか、といったスタート地点を探すことから自分の力でしなくてはならないのだ(原則して、ではあるが)。
 森も最近気づいたことだが、本当のところ、研究とは、何を研究したら良いのかを見つければ、峠はもう過ぎていると考えても良いくらいだ。〔略〕どこに問題があるのかを考えることができるのは、個人の頭脳だけ。博士とは、つまり、その能力に与えられる称号といえる。
 仕事と手法が与えられたとき、それを的確に解決できるのが、学士。仕事を与えられたとき、手法を自分で模索し、方向を見定めながら問題を解決できるのが、修士。そして、そもそも、そのような問題を与えることができるのが博士である。
(67)

 だから、「大学院へ進学して何が良かったか?」ときかれれば、答は「大学院で勉強していた、そのとき、その瞬間が最高に楽しかった」と答えることにしているし、今でも、それが正解だと信じている。できることなら、もう一度、大学院生になりたい。(70)

〔略〕これから研究を始めようというときには、実績なんてない。そうでしょう? 実績があるのは、もうその研究である程度のレベルに達している証拠です。どちらかというと、実績がないところへこそ資金を回すべきなのです。(96-7)

学者として、研究者として、自分が知りたいもの、解決したいもの、作り上げたいものへ向かっている視線に魅力を感じるだろう。
 少なくとも、学生だったときの僕はそうだった。そういう先生たちの視線を垣間見たからこそ、自分も大学に残ろうと決心した。
(136)

〔略〕面白い講義とは、やはりその先生が、そのテーマに真剣に取り組んでいて、それが伝わってくる、そういうものではないでしょうか。若者というのは、本当に敏感で、先生が研究に打ち込んでいるその視線を必ず感じ取るものです。
 だから、〔略〕良い研究者であれば、自然に良い教育者だ、と僕は考えています。学びたい人間にとって、力のある研究者が身近にいることが重要であり、そういった人に接することこそが大学の最終的な、ほとんどの唯一の存在理由でしょう。
(157-8)

〔略〕教育というのは、先生が生徒に力を見せるものなんです。(164)

 極端な話ですが、大多数の人が反対するようなことでも、正しいことはあるのです。〔略〕それを指摘するのが、学者の使命だといえます。そうなると、本当はどこからも資金提供を受けていない立場の人間でいることが重要なのです。だから、すぐに役に立つ研究ばかりに手を出さないで、基礎学問をもっと押し進めてもらいたいと思います。(169-70)

〔略〕良い先生を捜さなくてはなりません。そのためには、沢山の講義に出て、質問をして、自分で見極めることが大事です。そして、この先生ならば、という人が見つかったら、そこのゼミを希望して、学問を体験する、ということが大学でできる最も正当な道ですね。(174)


@研究室
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by no828 | 2014-03-21 18:50 | 人+本=体 | Comments(0)
2013年 05月 09日

ある作品を最適に評価できるのは、通常はただ一人なのである——森博嗣『ηなのに夢のよう』

c0131823_1342861.png森博嗣『ηなのに夢のよう Dreamly in spite of η』講談社(講談社文庫)、2010年。40(695)

2007年に同社ノベルス

版元 → 


 「η」は「イータ」。Gシリーズ第6作のようです。第7作は『目薬αは殺菌します』(版元 → )だそうです。あまり数えずに読んでいます。このブログに書き綴っている非学術書に関しては基本的に(例外もあるということですが)、古本屋にあるかないか(とくに105円の棚に)、というのがわたしの購買条件です。

難しい手続きこそが、生きていくこと、生き続けることの象徴だからだろう
〔略〕
「〔略〕ひっそり死ぬ人の方が、他人に迷惑をかけたくない、と考えているわけだから、むしろ社会性があるってことなのかなあ。ああ、そうだよね。自分が死んでも、家族は遺る。そういう身内に宇少しでもダメージが及ばないようにって考えたら、ひっそりいなくなって、誰も知らないうちに死ぬのが、一番順当だもんね。それって、社会性があるってことになるか」
 海月の方を見る。彼は小さく頷いたようだった。
(59)

「わからないものは、全部、宗教?」
「命を粗末にしている、と私たちは思いますよね。だけど、彼らにしてみれば、ああいうのが、一番命を粗末にしてない、大切にした結果かもしれないわけですし
「それは、一理ある」西之園がすぐに頷いた。
(67)

「そうだ。それが、いわゆる納得できる理由ということだ。どういった種類のものが動機として認められるのか。それは、加害者にもなんらかの正当性がある、という観測あるいは評価だ。たとえば、復讐で殺す、というのは、加害者が過去に負った不利益が原因で、辛い目に遭ったのだから、殺そうと考えてもしかたがない。つまり、ある程度は同情することができる。そういった種類のものだ(148)

「しかし、ある作品を最適に評価できるのは、通常はただ一人なのである。その一人に鑑定されるかどうかで、ものの価値は決まってしまう。少なくとも、世の中に知れる価値とは、そういった偶発的な要素を含んでいる、と椙田は考えていた」(215)


@研究室
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by no828 | 2013-05-09 13:31 | 人+本=体 | Comments(0)
2013年 03月 25日

何故、そんなに肉体を諦めている?——森博嗣『迷宮百年の睡魔』

c0131823_1775042.jpg森博嗣『迷宮百年の睡魔』新潮社(新潮文庫)、2005年。30(685)

単行本は2003年に同社

版元 → 


 『女王の百年密室』(→ )の続編のようです。

 現代ほど、少数民族の自主独立が絶対的に保障・優先された時代はかつてなかった。前世紀の中盤にエナジィ問題が解決されて以来、人類はかつてない豊かさを手に入れ、物質の所有権を巡る争いは自然に沈静化した。それと同時に、他人に対して無関心になり、それぞれのサークルの中で、自分たちだけの秩序を築こうとする動きが主流になった。(31)

新しい技術には危険がつきものですが、技術的な試行を継続することで人間は必ず活路を見出してきました。諦めれば、進歩は止まってしまいます」(179)

 ただし、教育に関しては、地域の独立性が完全に保障されている。現代において、子供をどう育てるかは、基本的に、個人あるいは地域社会の自由だ。他人が口出しすることではない。(187-8)

 思うに、僕はもっと複雑で、そして、人間は本来もっと複雑なのだ。複雑さを認めようとしない、認めたくないのは、単なる回避、つまり、それこそが危険回避なのだ。
 自殺することと、自殺なんてしないと決めることは、どちらも危険回避という点で同値だし、同じ結論だ、と僕には思える。僕は自殺しない理由は、ここにある。あんなことがあったのに、僕が生きていられる理由は、つまり、死ぬことができない理由は、そういうことだ。死を選ぶなんて結論は、僕には単純すぎる。我慢できないほど、単純すぎる。
(212)

「あなたが面白い。稀有の存在といえるかもしれない。何だろう? 何故、そんなに肉体を諦めている? 生きることと、思考することを、切り離そうとしているのは、どうしてだ? あなたの躰と、あなたの視線は、まるで統制がとれていない」(216)

 躰なんてものがあるから、あんなに重かったのだ。
 なにをしても、すぐに疲れてしまった。
 ようやく重力から解放された。
 もともと、その部分は、余分だったのだ。
 そう、単なる入れもの。
 単なる器。
 それがないと、自分が存在できないと、錯覚していた。
 不自由であることが、存在の証だと、誤解していた。
 そもそも、存在って何だ?
 存在することの価値って、何だろう?
 自分が存在することで、その位置を、その場所を、占有する、
 他者を排除する、それが何だというのか?
(252)

「希望?」
「はい」
「何だ? 希望とは。希望の実態とは、何だ?」
「わかりません」ロイディは首をふる。「おそらく、それを言葉として口にすることが、未来に影響するという認識を人間が持っているためと考えられます
(276)

「そうか、動物が起きている状態って、もともと、とても特別な活動なんじゃない? ずっと眠っているのが本来の姿なんだね。起きているのが異常状態で」(465)


@研究室
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by no828 | 2013-03-25 17:46 | 人+本=体 | Comments(0)
2013年 03月 17日

学校なんて仕組みは、既に物質的な空間では存在しない——森博嗣『虚空の逆マトリクス』

c0131823_17392210.png森博嗣『虚空の逆マトリクス』講談社(講談社文庫)、2006年。25(680)

2003年講談社ノベルス

版元 → 


 引き続き、森博嗣の短篇集。
 
 短い文章ですが、「学校」という物理的な空間の意味・意義を考えさせられました。現在からすると、どうやら未来のことを描いているようです。
 学校なんて仕組みは、既に物質的な空間では存在しない。子供を一箇所に集めることは現代ではありえない。危険でさえある。(94.「トロイの木馬」)


 回文が頻出する「ゲームの国」という作品があります。もっともしっくり来たのが以下の回文。
イタリアで見る絵、買える身でありたい(242.「ゲームの国」)

 回文を考えてみたいと思ったことはありません。ただ、さっきまで講義のシラバスについて考えていまして、それと回文を結び付けたらこんなものができました。「すばらしいシラバス」。これについては、わたし自身にはとくに感想はありません。


@研究室
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by no828 | 2013-03-17 17:50 | 人+本=体 | Comments(0)
2013年 03月 15日

どれだけ沢山のものを保留していられるかが、重要な能力の一つだ——森博嗣『今夜はパラシュート博物館へ』

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森博嗣『今夜はパラシュート博物館へ』講談社(講談社文庫)、2004年。24(679)

2001年講談社ノベルス

版元 → 


 短篇集。森博嗣を久しぶりに読んだ気がします。犀川&萌絵が出てくるのがよいです。

「世の中、いつもいつも、すぐに答が見つかるわけじゃないんだよ」犀川は淡々と話す。「どれだけ沢山のものを保留していられるかが、重要な能力の一つだ(37)

未解決の問題が複数になったり、細かく分散していたり、あるいは大きさや位置が定まらないような場合には、まず、それらを関連づけ、必要であれば問題自体の欠陥を仮に補い、仮想でも良いから、方向性を明確にしてやる必要がある。そうすることで、無数の問題が有限個にモデル化されるからだ。西之園君の思考は、適当な数値を重要性を度外視して、次々に方程式に代入して両辺を比べる、というやり方だ。高速な演算能力だけが、それを可能にする。重み関数さえ、君の思考には導入されていない。しかし、方程式が曖昧だったり、方程式が複数になると、飛躍的に計算は難しくなる。学校の試験みたいに問題が明確である場合には、非常に効率が良くて短時間で解答を得ることが可能だけれどね、さっき言ったように、世の中に存在する問題の大半は、問題自体がどこにあるのか、何が問題なのか、ということが明確に提示されない。それが最大の問題なんだ。わかる?」
「わかります」萌絵は口を尖らせて頷いた。「私、どうすれば良いのですか?」
「それをまず考えなさい」犀川はそう言って微笑んだ。
「泣きたくなりました」萌絵は上目遣いに犀川を睨む。
(56)

「不可能に見える」私は軽い口調で言った。「しかし、不可能に見えるのは、単に可能性が限定されている、というだけのことだ。普通ならば無数の可能性が存在し、それらを逐一検討しなくてはならない。それが、今回はどうだね?」(233)

「殺す理由として万人が納得できる理由が存在するだろうか? 避ける方法はなかったのか? みんなが頷ける理由がもし存在するのなら、何故殺人者は裁かれる? 冷静になってみれば、殺すまでの必要などないことがほとんどだ。冷静ではないから殺す。そのスタートラインには、まっとうな理由などあるはずがない。したがって、それに付随するすべての行動に、合理的な理由も、理解が可能な理由もあろうはずがない、と少なくとも私は考えているのだ」(235)

「本当かどうかなんて、わからないじゃありませんか」
事実かどうかが問題なのではありません。僕は、それを信じている。それがすべてです
(265)


@研究室
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by no828 | 2013-03-15 18:51 | 人+本=体 | Comments(0)