思索の森と空の群青

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2017年 05月 06日

もしね、もしイエス・キリストが執行のその場にいたとしたら、キリストは何て言うと思いますか——森達也『死刑』

 森達也『死刑——人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う』朝日出版社、2008年。46(1044)


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 死刑をめぐる森達也の自問自答の記録。副題逆接以後が森の結論です。でも僕は、人を救いたいとも思う。

118)ところが捜査や法廷、そしてメディアは、この揺れや矛盾を視界の外に置き、とりあえずの一貫性や整合性を無理にでも構築しようとする。端数は切り上げる。あるいは切り捨てる。つまり四捨五入して整数にしようとする。

019)でも僕は悩む。うじうじと。吐息を洩らす。存置を主張するつもりはないけれど、明確な廃止を叫ぶことにもためらいがある。要するにどっちつかず。

036) 確定死刑囚は家族と弁護士以外とは面会を許されない。外部との手紙のやりとりも原則的には禁じられる。だからもしも家族がいなければ、死刑確定後は誰にも会えなくなる。友人にも恋人にも会えない。手紙のやりとりもできない。つまり存在が不可視となる。その理由を法務省は、死刑囚の心情の安定を保つためと説明する。
 バカじゃないかと思う。世の中には硬直した規制や取り決めはいくらでもあるけれど、これほどに硬直した規制は他にはちょっと思いつかない。人と会話をさせないこと、コミュニケーションを取らせないことが、心情の安定に結びつくと法務省は本気で思っているのだろうか。

039)しかし本当に悪い人間ほど先に許すことで救われる者もいるのではないかと考えますよ。 ※岡崎一明

043) 確定してから死刑囚が拘置所で過ごす期間は平均約七年と十一ヵ月(法務省調べ。一九九七〜二〇〇六年の平均)。十年以上の人も多い。それだけの長期にわたって日光を浴びず、どこにも行けず、誰にも会えない。そんな生活をあなたは想像できるだろうか。僕はできない。確定囚には基本的に会えないから、その実感を聞くこともできない。

049) 「〔『モリのアサガオ』〕連載開始前に一カ月ぐらい思い悩んだのですが、結局(存置か廃止かの)答えが出なかった。ならばわからないまま始めて、新人刑務官の及川というフィルターを通して、描き進めながら考えていこうと思いました」
「及川は迷いながらも死刑制度に大きな疑問を持っています。郷田さん自身の今の心情を敢えて言えば……」
敢えて言うのなら、……死刑は必要だと考えています
 メモを取るノートから僕は顔を上げた。聞き間違いじゃないし郷田の言い間違いでもない。 ※郷田マモラ


053)多くの被害者遺族の感情を最大限に優先するのなら、存置論者の多くがよく口にする「死刑は国家による仇討ちの代行である」とのレトリックが成立する。ならば死刑が確定した段階で、国家は遺族に処刑の方法を聞くべきだ。自ら執行を望む遺族には自分でやらせるべきだし、死刑までは望まないという遺族がもしいれば、じゃあやめましょうかとの対応が理想のはずだ。つまり現行のシステムを変えねばならない。少なくとも執行への遺族の立会いくらいは認めるべきだ。でもそれはできない。〔略〕死刑の意味を「国家が代行する報復」とだけ規定するならば、その瞬間に罪刑法定主義は崩壊し、この国は近代法治国家の看板を外さなくてはならなくなる。

069) 人には蛮性がある。郷田へのインタビューの際に、僕はそんなことを口走った。獣性という人もいるけれど、でも実際の獣のほとんどは、自分が食べる以上の命は殺めない。同族を殺戮することもほとんどない。
 人は人を殺す。戦争で。虐殺で。嫉妬で。憎悪で。利害で。独占欲で。かっとして。錯乱して。報復で。快楽で。宗教で。理念で。イデオロギーで。善意で。思いやりで。正義で。愛情で。
 蛮性があり、そして善性がある。彼にも。彼女にも。あなたにも。そして僕にも。だから時おりは優しい。時おりは残虐になる。時には誰かを傷つけ、時には誰かに傷つけられ、やがて年老いる。そして死刑囚はかつて誰かを殺し、その報いとして自分も殺される。

076) 〔米国ノースカロライナ州では〕執行は通常、金曜日の午前二時に行われる。その週の火曜日に死刑囚は執行室隣の監房(death watch)に移される。区画内は自由に出入りできるし、外部に電話も自由にできる。処刑の日時は死刑囚の家族にも連絡され、最後の面会が行われる。
 車輪付きベッドにベルトで縛り付けられて執行室に運ばれた死刑囚は、まずは睡眠薬を注射され、次に呼吸障害を起こす薬物を注射される。処刑の際の立会い人は十六人。内訳は刑務所長と弁護士や警察官など公的な立会い人四名に加え、被害者遺族や死刑囚の親族の立会いも可能であり、さらにはメディア関係者五人の枠もある。特にノースカロライナだけが情報公開が進んでいるわけではない。フロリダでもインディアナでもニュージャージーでも、死刑制度を存置する州のほとんどは、情報公開に前向きに取り組んでいる。〔略〕
 アメリカの少年死刑囚の肖像を撮り続けているトシ・カザマは、撮影と並行しながら死刑廃止のメッセージを強く打ち出しているカメラマンだ。その彼にすら、アメリカの司法当局は撮影を容認する。徹底した情報公開。ならば日本はどうか。

088) その後も永山〔則夫〕は独房で執筆活動を続け、一九八三年の新日本文学賞を小説『木橋』で受賞する。一九九〇年には秋山駿加賀乙彦の推薦を受けて日本文芸家協会へ入会を申し込むが、一部の理事が殺人事件の刑事被告人を入会させてはならないと反対して入会は却下される。これに抗議した中上健次筒井康隆柄谷行人らが文芸家協会を脱会したことは、当時は大きな話題となった。

103) ただし、だからどうしたと思う気持ちも僕にはある。たとえ世界中が死刑廃止をしたとしても、確固とした存置への理念と哲学がこの国にあるのなら、他国に迎合する必要などない。胸を張って執行すればよい。しかし今のところ、そんな理念や哲学は見つからない。

103) 「仇討ち的な発想では連鎖します。だからこそ国家の刑罰権は、仇討ちの連鎖を制御するためにつくられてきた。それが近代法治国家じゃないかと思うのだけど……」 ※保坂展人

106)つまり民意。政治家はこれには逆らえない。メディアもこれには逆らえない。でも同時に、民意に大きな影響を与えるものは政治であり、メディアなのだ。救いのない堂々巡り。そう言えば郷田マモラも、堂々巡りと何度も口にしていた。
 ただしこれは死刑制度の本質ではない。野球の本質はテレビの視聴率や観客動員数にはない。滲んではいるけれど、そこだけの視点では言い足りていない。本質はきっとどこかにある。

121) 「……精神医学用語のひとつで注察妄想という症状があるのですが、彼〔=宅間守〕は明らかにその傾向がありました。ずっと誰かに見張られている。嫌な目で見られているとか、悪く思われているとかいうことですね。それを自分はずっと我慢してきた。だから報復する権利が自分にはあるとの理屈です。〔略〕なにもいいことがない。この世は生きるに値しない。自分なんか生きていく価値はない。死ぬならばこれをやってから死にたい。それで決行してしまった」
「ということは、もしも死刑制度というものがなければ、彼はあんな犯行は起こさなかったということも考えられますね
「かもしれません。彼は本当に、望んで、死刑になりたいと言っていた」 ※戸谷茂樹

199-200) 「父〔=古川泰龍〕は死刑という言葉がおかしいとよく言っていました。死は誰かの手によって与えたり与えられたりするものではない。つまり刑と言うならば死刑ではなく、殺刑とか殺人刑と言うべきです」 ※古川龍樹

221) でもここで僕は思う。苦痛を軽減するという発想は本当に正しいのだろうか。もしも死刑が個人の応報感情の国家による代行なら、なぶり殺しだってあってよいはずだ。イスラム社会では今も石打ちなどの残虐な刑罰が残されている地域がある。死刑の機能に犯罪抑止効果を認めるのなら、より残虐な刑罰のほうが、つまり死刑囚を苦しめたほうがその効果を増大させることになるとの考えも成り立つ。
 安楽に殺すこと、長引かせないことが人道的? 僕にはわからない。そこまで人権や苦痛に配慮しながら殺すことの意味が。

222)死刑は残虐だ。それは議論の余地はない。だって人が人を殺すのだから。でもその残虐なことを先にやったのは死刑囚のほうだ。だから重要なことは、社会が主体となるこの後発の残虐さに、正当性があるかどうかなのだ。

225) 「話すことは身の上話とか?」
「そうですね。たとえば連続殺人事件の犯人として死刑囚となったN。彼は幼いときに両親に捨てられて親戚に引き取られたのだけど、その親戚のおやじさんがヤクザ者だった。学校で同級生の女の子のペンがなくなったとき、彼は教師からみんなの前で『泥棒だ』って言われたらしい。彼は盗んでいない。そして真犯人も知っていた。でもそのとき彼は、みんなの目の前で『俺がやった』って言ったそうです
 しばらく間が空いた。 ※教誨師T

226) 「……もうすぐ処刑される人を目の前にして、Tさんはどんな心境になりましたか」
 僕のこの質問に、Tはたっぷり二分間は沈黙した。二分は長い。 ※教誨師T

228-31) 「精進落としのその場には検察官もいましたか」
「検察官はいません。立会って書類にハンコを押してから、彼らはすぐに帰ってしまった。酔ったひとりの刑務官が私のそばに来て、『先生はあいつを抱きしめてくれた。我々にはそれはできない。でもここにいる全員が、できることならそうしたいと思っていました』って言ってくれました」〔略〕
「処刑の直前って、みんな取り乱したりしないんですか」
「しない、みんな落ち着いていた」
「……なぜでしょう。僕には想像できない」
「たぶん何年も、何度も何度もシミュレーションしているんだよね」
「それは宗教の力ですか」
「……わからない」
「そんな気持ちになった人を、吊るす必要があるのですか」〔略〕
「でも人を三人も殺している。それも事実です」
「人は変わります。Kさんも犯行時とは顔立ちまでまったく変わっています」
「でも、KやIの場合は、死刑になるからこそ人の心を取り戻せたと考えることはできないですか」
 再び長い間。Tはゆっくり息を吐き出した。
「………………あるかもしれない。人によると思います」〔略〕
「僕はキリスト教について門外漢です。だから失礼なことを言ってしまうかもしれないけれど、もしね、もしイエス・キリストが執行のその場にいたとしたら、キリストは何て言うと思いますか」 ※教誨師T

233)……でも、僕はやっぱり、外的要因が強いと思っているんです。死刑囚の話を聞いているとわかるんだけれど、家族の愛情に恵まれた人はほとんどいない。ほぼ共通しています。もちろん家庭が恵まれなくても立派に生きている人はいくらでもいます。でももしも僕が彼らと同じような育ち方をしていたら、そうならない保証はない。紙一重だと思う」
〔略〕社会責任論だ。データとしては確かに否定できない。事実なのだろう。でもこれを突き詰めれば個が消える。人格形成において後天的な要素は大きい。〔略〕もしも後天的な要素や偶然性を理由に死刑を否定するのなら、それは死刑制度のみではなく、罪と罰の体系が崩壊することを意味することになる。つまり人は人を裁けなくなる。 ※教誨師T

237) 四、生命を絶たれるという与件の下では、人は反省機能を失い、自己の観念的世界に逃げ込む可能性が高い。生命を保障され、いつか社会に復帰できる可能性があるという状況で、人は初めて自らの犯した罪と真摯に向き合うことができる。 ※佐藤優の死刑廃止論の根拠のひとつ

272-3)この社会の本質は当事者性ではなく、他者性によって成り立っている。大多数の人にとって当事者性はフィクションなのだ。ただしフィクションではあるけれどとても大切なこと。〔略〕でも同時に思うこと。人は当事者にはなれない。大多数の人が他者であり第三者だからこそ、この世界は壊れない。当事者の感覚を想像することは大切だ。でも自分は他者であり第三者であることの自覚も重要だ。だって当事者ではないのだから。

286-7) 「相手が生きているかぎり許せないんです。被害者みんなそうだと思います。死刑廃止派の人はよく『人権を尊重しろ』と言われるけれど、じゃあ死んだ人の人権はどうなるのか。人権を踏みにじった人間が生きていていいのか。そういう人は生かしておいちゃいけない。死んでもらわなければいけない。死刑は残虐だというけれど、あの死に方(絞首刑)は楽なんです。たとえば丸太で叩かれて顔がつぶれて誰だかわからなくなって殺された人だっていっぱいいるわけです。だから死刑を廃止するならば、応報権をぜんぶ私たちに返しなさいということです」 ※松村恒夫

291) 「松村さんがもし、山田みつ子の死刑執行のボタンを押してくれと言われたら?」
「やりますよ。それぐらい孫は可愛かったです。孫の未来をぜんぶ奪ったことは絶対に許せません。彼女が本当に更生して、ものすごく良い人間になったとして、やっぱり許せないですね。だって更生してくれなんて誰も願ってないわけですよ。更生させるのは国の仕事であって、被害者遺族としては更生しようがしまいが関係ない」 ※松村恒夫

296-7)春奈を返してくださいということです
 僕は答えられない。松村はじっと僕を見つめている。
……それと、もしも死刑を廃止するならば、私に殺させてくださいということですよ。仇討ちになってしまうかもしれないけれど、本来ならば一緒の空気を吸いたくないということです」
「加害者が更生しようが……」
「関係ない。全然関係ない。よく生きて償うっていうじゃないですか。何するのよ。どうやって償えるの。償うっていうことは殺した人を生き返らせることなんだよね。それができるなら初めて生きて償うって言えると思う。それ以外、生きて償うということはありえないと思いますよ」 松村恒夫

300) 多くの人に触れることで、揺れ動く自分の情緒を見つめようと僕は考えた。その帰結として僕は何を得るのだろう。何を知ることができるのだろう。
 そして何よりも、「僕にとっての死刑」に、この作業は輪郭を与えてくれるのだろうか。逆に混迷し始めている。当たり前だ。多くの情緒に触れるということは、多くの述語に触れるということだ。主語が揺らぐ。揺らいでほしかったのは述語のほうなのに。

309)目の前にいる人がもしも死にかけているのなら、人はその人を救いたいと思う。あるいは思う前に身体が動くはずだ。その気持ちが湧いてこない理由は、今は目の前にいないからだ。知らないからだ。でも知れば、話せば、誰だってそうなる。それは本能であり摂理でもある。

313-4) 死刑問題の本質は、「何故、死刑の存置は許されるのか」ではなく、「何故、死刑を廃止できないのか」にあるのだと思います。換言するならば、「何故、権力は死刑という暴力に頼るのか」、「なぜ、国民を死刑を支持せざるをえないのか」です。
「犯罪被害者が声高に死刑を求めている」からではなく、「社会全体が漠然と不安である」から、死刑は廃止できないものだと思います。 ※本村洋

@研究室

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by no828 | 2017-05-06 16:23 | 人+本=体 | Comments(0)
2017年 04月 26日

共同体に帰属することで、思考や他者に対しての想像力を停止してしまうことです。その危険さを僕は描いたつもりです——森達也『「A」』

 森達也『「A」——マスコミが報道しなかったオウムの素顔』角川書店(角川文庫)、2002年。44(1042)

 2000年に現代書館から刊行された『「A」撮影日記』に大幅な加筆修正

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 ドキュメンタリー映画「A」ができるまで。オウム真理教広報部長の荒木浩を追っていますが、それを介して森達也自身とこの共同体が、そしてこの共同体に安住する人びとが問い返されています。

 フィールドワークをしながら経験科学を主としていたときには、本書でドキュメンタリーのそれとして繰り返し言及されている「客観性」についてよく考えました。また、そのあと理論に軸足が移ったあとは、即断しない、というか、重要な事柄ほど即断できないのではないか、ということに気づくようになりました。考えるためには、そして考えさせるためには、ペースを乱すことは有効かもしれない、と思っています。

55) ……ずっと考えていた。撮影対象であるオウムについてではない。自分についてだ。「オウムとは何か?」という命題を抱えて撮影を始めた僕が、いつのまにか、「おまえは何だ?」「ここで何をしている?」「なぜここにいる?」と自分に問いかけ続けている。

78)昨日も地元のテレビ局の記者が、施設を管理する管財人の了解をもらったから取材を始めると撮影クルーを帯同してやってきて、これを阻止する荒木浩としばらく施設前でもめた。管財人が了解したのだからオウム側にこれを拒否する権利はないと主張し続けた記者の論旨は、譬えて言えば大家の了解をとったから店子の生活を無断で撮影できると主張しているに等しく、冷静に考えるまでもなく論理としては破綻している。ずっとガムを噛みながら荒木浩と話していたこの記者にだって、いくらなんでもその程度の常識は通常ならあるはずだ。また会話のときにはガムを吐き出すくらいの礼節は知っているはずだ。しかしオウムという単語が方程式に代入された瞬間、おそらくは彼の思考が停止した。

87)「僕にとってドキュメンタリーを作ることは、絶対的に主観的な行為です

89-90) ドキュメンタリーの仕事は、客観的な真実を事象から切り取ることではなく、主観的な真実を事象から抽出することだ。一頭の母ライオンがカモシカの子供を狩る場面を撮ったとする。出産直後の母ライオンの子育てにドキュメントの主軸を置くのなら、観る側は彼女の牙がカモシカの頚動脈に食い込んだ瞬間に快哉をさけぶだろう。カモシカの母と子の主軸を置くのなら、彼らが逃げ切った瞬間に安堵の溜息をもらすだろう。そういうものだ。映像で捉えられる真実とは、常に相対的だし座標軸の位置によって猫の目のように変わる。
 カメラが日常に介在するということは、対象に干渉することを意味する。微粒子は観測する行為そのもので大きな影響を受け、粒子としての本来の姿を決して現さないとする量子力学の基本原理と同じだ。自然なドキュメンタリーなど存在しない。撮る行為によって撮られる側は、時には触発されるし、時には規定される。そしてまた撮られる側の反応が、撮る行為に大きな影響を与える。
 その意味では撮影における客観性など存在しない。映像を作るという作業はすべて主観の産物のはずだ。雨乞いの儀式を仕込んだかどうかは表層的な問題でしかない。その状況で、自分が如何に自分の主観的な真実を信じることができるかどうかが問われなくてはならないのだ。もちろん自分と対象との相関的な座標を正確に表出することは必要だ。しかしその位置さえ明確に呈示すれば、後は観る側が判断するだけのことなのだ。バランスをとるのは表現する側ではない。観る側だ。

90)視聴率という大衆の剥きだしの嗜好に追随する現実を、公共性というレトリックに置換するために、「客観的な公正さ」という幻想を常に求められ、また同時にそれを自らの存在価値として、テレビは勘違いを続けてきた。僕も今まで勘違いを続けてきた。

112-3) 道を歩いていてふとレンタルビデオ屋を覗こうという気になるように、彼らはその人生のある瞬間、ふとオウムに足が向いたのだ。テレビの司会者は、「なぜ彼らがオウムに惹かれたのか、その理由は今もどうしてもわかりません」と眉間に皺を寄せるが、そんな理由は信者によって様々だし、解明する意味はない。〔略〕
 しかし、残された信者、逮捕された信者が、今もオウムにこだわり続ける理由は解かなくてはならない。理由はきっとあるはずだ。その思いは僕にこのドキュメンタリーを発想させた動機の一つだ。そして今、理由はおぼろげながら見え始めている。彼らが今もオウムに留まり続ける理由、そのメカニズムは、オウムの内ではなく、オウムの外、すなわち僕らの社会の中にある。

129-31)「……映像を貸してもらえない理由は何ですか?」
 形勢有利とばかり畳み込んだ僕の言葉に、数秒の沈黙の後、荒木浩はぽつりと言う。答えようとして、僕は一瞬言葉に詰まる。制作途中の映像素材を第三者に見せたり貸したりすることはできない。確かにこれは大原則だ。しかしその大原則の根拠を、今この瞬間明確に説明することができない自分に気がついた。
「……僕は、この作品でオウムの便宜を図る気もありませんし、警察に協力するつもりもありません。あくまでも中立な立場でこの作品を作るつもりです」
「それは充分にわかっています。味方をして欲しいと言ってるつもりはありません。事実を証明してくれと言ってるだけです。それは森さんたちの中立性を損なうことになりますか?」
「……きっと今、荒木さんたちに映像をお渡ししたら、この作品の生命はそこで間違いなく断たれると思うんですよ」
 絶句した僕に代わり、カメラを胸元に構えたまま、安岡がゆっくりと話しだす。普段は教鞭をとる彼の口調は、こんなときには実に説得力を発揮する。
「それでなくともこの作品は、社会から無条件に受け入れられる作品ではありません。たぶん発表のときには、僕らのスタンスは厳しく問われる事態になると思います。その制作過程で、理由はどうあれ、素材をオウム側に提出したという事実は、まさしく命取りになります。つまり、作品としての価値はそこでゼロになるということです。それがわかっていながら、今映像をお渡しすることは僕らには不可能です」〔略〕
 苦し紛れに「中立でありたい」と僕は荒木浩に口走った。公正中立に事実を客観視するなどという慣用句は、不祥事を起こしたマスメディアが無自覚に口走る陳腐なスローガンにすぎないと知りながら、だ。
 公正中立でものは作れない。
 断言できる。主観の選択が結実したものがドキュメンタリーなのだ。事実だけを描いた公正中立な映像作品など存在しない。
そもそも中間に立とうにも、オウムの座標がわからない限りは、両端から等距離の位置など測定できるはずがない。その覚悟はしていたつもりが、追いつめられると苦し紛れに、こんなにもあっさりと馬脚を顕していた。

172-3)「何かさあ、自分の言葉でものを考えられないメディアの構造って、オウムの構造に似ているよな
「メディアだけじゃなくて、社会全般じゃない? 本質的には変わらないよ」
「でも社会は人を殺してないぜ」
「いや、見方を変えれば同じだよ」
「私もそう思う。エイズに発症することを知ってて血友病の薬剤を認可していた厚生省と、地下鉄にサリンを撒いたオウムの信者たちと、その意識構造に本質的な差違はないと思う」
「極端すぎるぜ、それは」
「いや確かに本質は近いよ」

185)「質問というのは、答えを聞きたいからするものですよね。皆さんの質問が、本当に答えを求めているとは私には思えないんです

196)メディアは僕たち社会の剥きだしの欲望や衝動に、余計なことはあまり考えずに忠実に従属しているだけだ。

199) 結論だ。オウムはわからない。「信じる」行為を「信じない」人間に解析などできない。この一線を超えるためには自身も「信じる」行為に埋没するしかない。しかしその瞬間、僕は間違いなく「表現」を失うだろう。選択肢はない。オウムは既成の言語に頼る限り、どこまでいっても「わからない」存在なのだ。

200-1)公開に際して僕が決めた作品タイトルは「A」。オウムの頭文字のAでもあるし、麻原のAでもあるし、何よりも荒木浩のAでもある。しかし真意はそんな語呂合わせではない。要するに何だってよいのだという意思表示をしたかった。タイトルが内容を凝縮するものだという前提がもしあるのなら、そんな言語化はこの作品について言えば、無意味な作業なのだということを、そのタイトルで現したかった。無自覚な凝縮や象徴が如何に危険なことであり、この作品はその試みを徹底的に拒絶するということを宣言したかった。

216) 改めて言う。編集は事実を加工する作業なのだ。そもそもの素材は事実でも、カメラが任意のフレームで切り取ることで撮影者の主観の産物となった現実は、更に編集作業を経て、新たな作為を二重三重に刻印される。それがドキュメンタリーであり、映像表現の宿命でもある。

248-9)「これは本当にドキュメンタリーかい?〔略〕オウムの信者はもちろん、この作品に登場するメディアも、警察も、一般の市民も皆、リアルな存在にはどうしても見えない。まるであらかじめ台本を手渡されてロールプレイングをやっているとしか私には思えない。これが本当に実在する人たちなら、日本という国はそうとうに奇妙だと思う。要するにフェイクな国だ」〔略〕
「この作品に登場するオウムにも警察にもマスメディアにも、とにかくほとんどの日本人に共通するメンタリティがあります。共同体に帰属することで、思考や他者に対しての想像力を停止してしまうことです。その危険さを僕は描いたつもりです。組織への帰属意識や従属度は日本人に突出して強い傾向だと思うし、傍から見ればもしかしたらフェイクにしか見えないのかもしれないけれど、ドイツ人にはそんなメンタリティはないと本当に言いきれるのでしょうか?」

256-7) 「体験」を意味づけることを社会システム理論で「体験加工」という。体験加工の機能は、日常生活を支えるセマンティクス(意味論)への回収だ。その作業は通常、意識せずに行われる。その場合、体験と体験加工は分離できない。
 問題は、日常を支えるセマンティクスにうまく塡らない体験をしたときだ。体験をどう解釈するのかという行為が問題になる。体験と行為の違いは「訪れるもの」か「選ぶもの」かという違いである。 ※宮台真司「私たちが自滅しないための戦略」

258) 体験加工の保留は「A」にも見出される。オウムは敵だ・社会は味方だと体験加工(意味づけ)する前に、オウムも社会も、様々な方向からじっくり体験(見る・聞く)してみる。〔略〕
 森監督とお会いするたびに、一水会の元代表・鈴木邦男氏のことを思い出す。共通して脱力した人だ。世間では、パッパパッパと体験加工していける、即断即決型の人間が聡いと思われている。そうした視線からは、二人とも驚くほどスローに見える。
 だが鈴木邦男の著書『がんばれ! 新左翼3』の解説で詳述した通り、近代ではこうした「遅れ」こそが批評性の要になる。なぜなら「遅れ」のなさこそが、近代を構成する様々なフレームの尤もらしさを各所で支えるからだ。 ※宮台真司「私たちが自滅しないための戦略」

260) 体験(見える・聞こえる)を拙速に体験加工(意味づけ)するとき、私たちは既存のフレームに拘束され、思考停止した駒になる。かつてなら許されたこうした振舞いは、今や近代社会の存続可能性を脅かすものとなった。
 しかし、思考停止した駒になるのをやめようと体験加工を遅らせるならば、今までのマスコミ組織や社会の中で「使えない奴」との烙印を押される。逆にいえば従来の物差しでは「使えない奴」こそが、存続に関わる危機から社会を救う可能性があるのだ。 ※宮台真司「私たちが自滅しないための戦略」

@研究室

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by no828 | 2017-04-26 19:46 | 人+本=体 | Comments(0)