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2016年 05月 21日

「なんでそんなことをしなきゃならないのか分からない」という頑固で——橋本治『バカになったか、日本人』

c0131823_1519423.jpg橋本治『バカになったか、日本人』集英社、2014年。74(996)


 版元

 2015年に残してきた本(あと1冊)


 橋本治先生の“時評集”と言ってよいでしょう。東北地方太平洋沖地震後の原発事故を含む東日本大震災に関する文章が多く集められています。とくに、政治のあり方について、民主主義のあり方について論じられています。一人ひとりがちゃんと考えなければならない——メッセージの中心はこれです。

 議論の仕方、議論の封じ込め方も示されています。後者を認識し、前者へつなげていかなくてはならない。そのためには、わからないならわからないと言い、答えなくてよいことには答えない、という態度も必要でしょう。いつの間にか都合よく作り上げられた前提に乗る必要はないのです。


 ロクに考えなくたって「それでよく安全だなんて言えるな」という状態だったりすれば、再稼働反対派は「だから再稼働なんかさせるな」と訴えられますが、原発再稼働派にとっては、それが好都合なのです。どうしてかと言うと、「原発そのものが安全かどうか」という議論から離れて、事態はもう「この原発は安全かどうか」というところに行ってしまっているからです(90.傍点省略)

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「冷静になる」ということは、「余分なことを考えない」ということでもあって、「物を考える」ということは、どうも「悲観的になる」ということでもあるらしい。楽観的になるのだったら、「なにも考えない」ということにしておけばいい。(16)

 原発事故に関して、素人の私はなにも分からない。分かったふりをしてここでなにかを書こうという気にもならない。私が知りたいのは、「大丈夫か? 大丈夫じゃないのか?」ということだけで、多くの人が知りたいのもそのことだろう。(17)

 目の前に大惨事が広がっているというのに、まず金の計算をするなんていうことは、ありうるんだろうか? もういい加減、なにかというと「経済」でソロバンをはじくのはやめないか。(33)

 二〇一四年になっていきなり「地方の再生を!」なんて言ったって手遅れすぎる。日本の経済は「東北の復興なんて無駄!」という本音を持つ官僚によって仕切られている。経済産業省が関心を持つのは、「都市」や「都市に貢献する可能性を持つところ」だけで、「地方」というところはその関心外にある。「地方」を管轄するのは農林水産省で、経済産業省からすれば、「あそこは国に利益をもたらすより、国から補助金を引き出すだけのところだ」になってしまう。経済産業省にすれば、「東北の復興なんか無駄だ」を通り越して、「貧乏な地方なんかみんななくなってしまえばいい!」なんじゃないかと、私は邪推します。(37-8)

東京電力の福島原発は、東京に送るための電気を作っているんだから、東京の人間は福島県に放射性物質を飛散させた事故の「共犯」になる。それで逃げたら、被害に遭った福島県の人達に申し訳ないだろうが。(46)

私が分かっていなかったのは、大震災の被害に遭った人達の胸の内で、それが共有されなければ「分かった」にはならない。実のところ、人の胸の内を分かることが一番体力のいることで、震災発生時の私にはそんなことが出来なかった。(48)

 いつの間にか日本人は、そのくやしさを共有することを忘れてしまった。「どうにもならないこと」に襲われて、それを「無常だ」ですませていてもどうにもならない。そこから立ち上がるモチベーションは、やはり「くやしい」という感情だろう。日本人の前向きさを下から支えていたのは「くやしい」という感情だと私は思っていて、その「くやしさ」を育むような不条理の中で日本人は生きて来た。そして「くやしいと思うことは当たり前である」という認識も育てて来たんだろうと思う。
「くやしい」という思いはそう簡単に消えない。そして、くやしがっているだけではなんにもならない。「くやしさ」から脱することが出来るようななにかをしなければならない。くやしさから脱して、でもくやしさを忘れないというかなり複雑なことをして、それが当たり前のあり方であったはずなのに、いつの間にか忘れられてしまったような気がする。
(52-3)

「落ち着け、落ち着け、落ち着いたらなんとかなる。落ち着いて策を探すんだ」という根本を見失って、「落ち着くと無策が見えちゃうから、慌てたままでいよう」という策はなかろうと思いますね。(66)

「地震と津波で原発が大変だ」と言われてる時期に、「原発でメルトダウンが起こってます」なんてことを言ったら、大パニックになってしまうのに決まっていたから、そこら辺の情報を全部隠して曖昧にしていたというなら、危機管理の上では「正解」であったのかもしれないけれど、それは同時に、情報をコントロールする側の保身行為でもあるから、そういうことをする企業や国家が国民からの信頼を得るなんていうのはむずかしいでしょうね。(70)

東海村に原子炉が完成した時もその記念切手は発行されたんだけど、買いたくなかったので買いに行かなかった。〔略〕「なんで日本に原子炉なんか作るんだろう?」ということが気になって、記念切手を買うと原子炉建設賛成の片棒をかつぐみたいでいやだった(71)

 そういう厄介な原子炉を使って、原子力発電所がなにをやっているのかというと、意外なことにお湯を沸かしているだけなんですね。お湯を沸かして、出来た水蒸気で発電機のタービンを回してる。昔そういうことを聞いて、ポカンとした。今、日本で重大な原発事故が起こって、「確か——」と昔聞いたことを思い出して唖然とした。「ただお湯を沸かすことだけに、そんな危険で厄介なものを使ってたんだ」と思ったら、腰が抜けそうになった。
 水蒸気でタービンを回すのだったら、二百年以上前の蒸気機関から一歩も出ていない。産業革命の時代になかった電力を作り出すのに、その動力が相変わらず水蒸気だと思うと、なにが「進歩」かと思いますわね。
(75)

 どうやら経済産業省は「原発の再稼働は当然」という考え方をしているみたいですね。日本は「初めに結論ありき」の国だから、東大出のゆるがない官僚が「こうだ」と決めてしまった以上、いずれ「再稼働」ということを明白に言ってくるんでしょうが。〔略〕
「初めに結論ありき」の国では、危機対策が中途半端にしか出来ません。なにしろ初めに「結論」と言う形で全体像を想定しちゃっているんだから、その範囲を超えた事態になると、もうなんともならない。危機に直面した現場で体を張っている人にすべてをまかせるしかなくなってしまう。「まかせる」ならまだいい表現だけど、実態は「丸投げ」に近くなる。
「初めに結論ありき」の国では、まともな異議が提出出来ない。〔略〕「これを受け入れるとめんどくさいことになるな」というのが分かった場合、放っとかれる。〔略〕「めんどくさい異議」は取り上げなくてもいいようになる。そして、もしそういうことが知れ渡っているから、まともじゃないクレーマーでさえ、「私がへんなことを言う人間だと思って差別されて、私の言うことは取り上げられない」と思い込めるようにもなっている。
(82)

私が言いたい「新しい議論決着のパターン」というのは、「やたらの議論を続出させ、問題の焦点をぼかし、その結果、二者択一に持ち込む——そうして、“ああ、ひと段落ついた”と思って忘れてしまう」です。(97.傍点省略)

多くの人は、「新聞はむずかしい」とも言わずに、当たり前の顔をして新聞を読んでいる——そういうことを考えて、「俺はそんなに頭が悪いんだろうか?」と思った。そして、新聞はろくに読めないがへんな風に頭が働く私は閃いた——「人が新聞を理解しながら読んでいるのは、本当か?」〔略〕〔/〕日本人の多くは、「分かろう」と思って新聞を読んでいるのではないかもしれない。日本人の多くは、理解力や読解力によってではなくて、「分からなくても平気で読み続けられる持久力」によって、新聞を読んでいるのではないかと、そう思った。
 なんか「すごい発見をした」という気になって、それを二、三の人間に言ってみたら、言われた方は絶句していた。「なにメチャクチャなこと言ってんだ」ではなく、「そうかもしれない——」の一言を残して
(108)

「おバカブーム」は多くの人に癒しと救いを与えた。そのことは実に大きな功績だが、「おバカブーム」の問題点は、その後に「バカでもいいんだ」という知能の空白状態を作り出してしまったことにある(163)

 重要なのは、〔略〕「自民党でいいか」と思って日本人が平気で自民党に政権を預けていた時代が終わってしまったということだ。つまり、「他人まかせでよかった時代」が終わったということだけど。(180)

 それでは国民は、憲法改正をどのように考えているのだろうか? 考えられる選択肢は、「改正したほうがいい」「絶対反対」と「よく分からない」の三つだろうが、そこに至る前に「なんでそれを考えなければいけないのだろう?」という気分が大きく立ちふさがっているような気がする。憲法改正に関する考え方で一番大きいのは、「問われれば考えてもみるが、今なぜそれを考えなければいけないのかがよく分からない」なのではないかと思う。(197)

私はあることに気がついた。それは特定秘密保護法の「性質」というべきもので、つまるところ日本国政府は、国民が余分なことを言うのが嫌いなのだ。「政治のことは私たち専門家に任せて、国民は余分な口出しをせずに黙っていればいいのです」という考え方が、特定秘密保護法を提出する人たちの中にあるのだ。もちろん、そんなことを言ったって、「そんなことはありません」という丁寧な答えが返ってくるだけだと知ってはいるけれど。〔略〕〔/〕「俺たちが決めるんだから、お前たちは黙ってろ」と言えば暴力的な独裁になるが、「私たちが決めますから、どうか余分な心配をなさらないで下さい」と言えば、これは「民意を汲んだ親切な政治」にもなる。実際に親切かどうかは分からないが、日本の政治が「余分な発言」を嫌うのは確かなようにも思えた。(208-9)

一頃、与党と野党の大連立という話もあって、「そんなことをして政党の別というのはどうなるの?」と思ったけれど、「政治は身内によって運営される」という考え方に従えば、大連立というものは「みんなが身内になればなんの問題もなくなる」というもので、政治の世界で「身内」というものは、「身内になってしまえば反対の声が起こる余地のない集団」であり、「身内なら、話せば分かる」ということが信じられるという、特別な集団であるらしい(211-2)

 自民党草案には「自分達が憲法を変えて、その憲法に国民を従わせる」という姿勢が明確にあって、だからこそ「国民の基本的人権」を保障する現行憲法の第九十七条が、自民党草案では丸ごと削除されている。「そこが一番の大問題だ」と言っても、そういう抽象的な総論は今の日本人にはピンと来ないのだろう。そこを突つき出すと、「基本的人権とはなにか」という、今の日本人〔に〕とってはむずかしすぎる話になってしまう。〔/〕だったら、「憲法改正なんて知らない」の無関心のままでいるのが一番いい。知らないまま、憲法改正の国民投票に「NO」の一票を投じればいい。なにしろ、今の日本人には「議論の仕方」が分からなくて、それをいいことにして、憲法を改正したがる人間は「焦点の合わない説明」をいくらでも展開するはずなのだから。一番重要なのは、「なんでそんなことをしなきゃならないのか分からない」という頑固でバカな姿勢を貫くことだろう。
 私は、なんで憲法を改正しなきゃいけないのかが、分かりません。
(227)


@研究室
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by no828 | 2016-05-21 15:41 | 人+本=体 | Comments(0)
2016年 05月 05日

アクが出るように少しずつ「自分」が溜まって、「自分」が自分の——橋本治『いつまでも若いと思うなよ』

c0131823_15435566.jpg橋本治『いつまでも若いと思うなよ』新潮社(新潮新書)、2015年。67(989)


 版元

 2015年に残してきた本


 どこかで聞いたことがあるような題名です(→ )。出版社も新書という形態も同じです。もちろん内容——『復興の精神』との重なりもあります——を反映したタイトルではありますが、橋本治先生の本ということもあり、読み手としては“これでよろしいのか”と釈然としない気持ちがあります。

 それでも切れ味鋭い老若論。


「高齢者としての線引きはいやだ!」を野放しにしてしまうと、超高齢大国の日本から「高齢者」なるものがいなくなるか、激減してしまう。そうなると、理論上は老人向け医療費の増大といった種々の問題が消滅することになるはずなんですが、そんなことはない。「高齢者として認定されるのはいやだが、高齢者であることへの特典を受け入れるのはやぶさかではない」という人は世間にいくらでもいるので、そういう人達が「私を大事にしろ」と言い始めれば、高齢者問題は解決なんかしないでしょう。往生際が本当に悪い。(14-5)

 昔の年寄りが年寄りであることを簡単に認められたのは、「若い」ということに対して価値がなかったからですね。若いということに価値があるのは女だけで、男の「若い」は「稚い〔いとけない〕」で「稚拙」で「青い」だから、たいして価値がない。(16-7)

 世の中には、「何歳になったら年寄りだという決め方をするのはおかしい!」と言って怒るなんでも「社会のあり方がおかしい」派の人はいるけれど、「私は社会通念上年寄りではあるが、それに反して私自身は一向に年寄りらしくないので笑っちゃうね」というあり方もある。それこそが「社会のあり方に縛られない」で、「一律に年寄り扱いするのはおかしい!」と言う人は、自分の老いをネガティヴに意識しすぎて八つ当たりをしているだけのような気がする。(19)

 つまり、経験を重ねないと自信は生まれなくて、自分で自信を持てるようにならなければ、経験を積んだということにはならない。だから、ノンキな顔をしていても、「俺はこれでいいんだろうか?」と、年柄年中悩んでいる。(33)

「自分」がないんだから、「自分」なんかいくらでも変えられる——私にとって「若い」というのはそういう時期だった。(50)

作家という商売をしている以上「自分」なしということはありえない。アクが出るように少しずつ「自分」が溜まって、なんだか知らないけど「自分」が自分の中心にいるようになった。〔/〕「自分が自分の中心にいる」というのもおかしな話だが、「自分」というものが「自分の中で醸成されるもの」と考えれば、そうへんではないだろう。(51)

 私は、病気になると「病気だから仕方がないじゃん」と思って平気でリラックスしてしまう人間なので、「病気と闘う」などという発想が出て来ません。「そういう人もいるのかもしれないけれど、病気と闘うのは医者の仕事だから、患者は医者の言うことを聞いて寝てりゃいい」という、あまり聞かれはしないけれども、多分「正論」であるような考えの上で眠っているだけです。(128)


@研究室
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by no828 | 2016-05-05 15:54 | 人+本=体 | Comments(0)
2016年 01月 10日

「世界は行き詰まっていない」と考えることによってしか生まれない——橋本治『負けない力』

c0131823_1662693.jpg橋本治『負けない力』大和書房、2015年。36(958)


 版元


 橋本治先生の「知性」についての本。タイトルにもある「負けない力」とは知性のことです。そして知性とは、相手の知性を認める力のことです。答えを外部に求めない姿勢を維持し続けるための持久力でもあるでしょう。

 橋本治先生は一貫して“自分の頭で考えろ”とおっしゃっています。わたしの思考回路は橋本治先生に開けてもらったようなところがあります。もう15年くらい前のことになりますが、橋本治先生の本をはじめて買ったときの風景をわたしはまだ覚えています。


 おまけに、「負けない力」という言葉にネガティヴなニュアンスも隠されています。なぜかと言えば、「負けそうな状況」がなければ、この「負けない力」は威力の発揮しようがないからです。重要なのは、そんなめんどくさい状況に巻き込まれないことで、そう思う人が多くなってしまえば、「負けない力」なんかはなんの意味も持ちません(3)

知性というのは、「なんの役にも立たない」と思われているものの中から、「自分にとって必要なもの」を探し当てる能力でもあります。(4)

でも、どういうわけか日本人は、「どうして我々は負けてしまうのだろう?」を考えないのです。考えるのは、「もう一度勝とう」ばかりです。〔略〕どうして日本は、いいところまで行って負けてしまうのでしょうか? それは日本が「ここら辺でやめておこう」という考え方をしないからです。(26)

「答は自分の中にある」と思えるのが知性です。「答は自分の中にあるんだから、自分で答を引き出さなければならない」と思うのが知性です。(41)

でも私は「もし穴に落ちたら?」と言っているのです。それに対する答が「私は穴に落ちない」だったら、その人は「自分が穴に落ちることもありうる」ということを想像出来ない、イマジネーションに欠ける人になります。(43)

 ボディコンもキャリアウーマンファッションもブランド物も、すべては「思想的なファッション」で、その背後には、それを選ぶ人達の「私は自己を主張したい」という気持があります。めんどくさい言い方をすれば、それは「私が私であることの自己証明」です。
 この自己証明は「自分の外部にあるものを選び取ることによって可能になる」というもので、最早「自分」というものは「自分の内部にあるもの」ではなくて、「自分の外部にあるものを選び取ることによって表明されるもの」です。だから、この自己証明は金がかかります。
(67-8)

「自分」があって、それを「個性的に表現する」ではなくて、「“自分”があろうとなかろうと、これを着れば個性的であれるはずだ」というのは、本末が転倒した「個性」のあり方です。(74)

 めんどくさい自己主張をする他人と付き合うのがいやになった男は、可愛くて自己主張もせず、存在するだけで「癒してくれる」になってしまうアイドルにはまります。女だって、めんどくさいことを抜きにしてただ可愛くなっているだけでキャーキャー——というかギャーギャー言われるアイドルになりたいと思います。(75)

 イギリスに留学した夏目漱石は、大日本帝国から期待された英文学者でもあったのですが、「英語や英文学を学ぶことが、日本人である自分にとってなんの意味があるのだろう?」と思うところまで行ってしまった人です。(105)

 知識を身につける目的がなにかと言えば、それは自分を育てることです。〔略〕「自分には必要だ」と思える知識は、「身に沁みる」という形で体感的に判断出来るものです。(106-7)

「私の言ったことでなにか分からないことがあるか? なにか説明不足のことはあったか?」と言う方は言っているのに、「質問というのは、言われたことを理解した人間がするものだ」と思い込んでいるから手が挙がらないのですが、「言われたことを理解した人間がなにかを言う」は、「質問をする」ではなくて、「意見を言う」です。「意見を言う」と「質問する」は違うのです。(113)

 質問というのは、相手の言うことをよく聞いていなければ出来ません。〔略〕
「どこがどう分からないの〔か〕はよく分からないけど、なんかよく分からない」と思ったら、「自分はなにに引っかかってるのか?」を考えればよいのです。「なにが分からないのか」はモヤモヤとしていることなので、すぐには正体を現しません。だからまず「なにか引っかかるものがある」と考えるのです。それを可能にするものをむずかしい言葉で言うと、「理解力」と「判断力」になります。
「自分はなにかに引っかかってる」と思ったら、「それはどこだ?」と考えて、頭の中を反芻したり、目の前に置かれているペーパーの文章を目で追います。
(114-5)

「“分からない”と言ったらバカだと思われるかもしれない」という危惧はあるにしろ、「とりあえず、相手に対して自分はバカだ」という負け方をしてしまった方が、トクではあろうと思います。少なくとも、「自分はバカかもしれないと思って腰を低くしてるのに、その相手を本気でバカにしているこの人は、たいした人じゃないな」ということだけは分かります。
 お忘れかもしれませんが、知性は「負けない力」です。「負けない力」を本気で発動させるためには、「負ける」ということを経験した方がいいのです。負けることをバカにする人に、ろくな知性は宿りません。
(121)

「権威」であるような「拠りどころ」がなくなったら、「自分のことや自分達のことは、自分や自分達で考えてなんとかする」しかありません。その「どうしたらいいんだろう?」を考えるのが、「知性」なのです。(130)

「根拠」というのは、自分の内部に作り上げるものです。「自分がある」というのは、自分の内部に「根拠」を持つことで、「根拠」というのは、自分の外側に当たり前の顔をして落っこっているものではありません。(132)

 私がなんの根拠もなく「知性とは負けない力である」と言ったのは、「知性ってなんだろう?」と考えて、「それを調べてみよう」とは思わなかったからです。〔略〕
 どこかで誰かえらい人が「知性とはカクカクシカジカのものである」と言っていたとしても、それは「この人はそう言ってるんだな」というだけの話です。それをそのまま引用してしまうと、「だからなんなんだ?」というその先のことまで、それを言った人の言葉を引用しなければならなくなります。それは「知性ってなんなのか?」ということを考えることではなく、「知性に関してなにかを言っている他人の言葉を説明する」にしかなりません。
(134)

 権威主義者は、「根拠を一から作り上げて行く」という行為そのものを理解しません。だから、そういう人が「一から根拠を作り上げて行く」なんてものに出合うと、「そんな話は聞いたことがない」とか「見たことがない」と言って拒絶します。〔略〕
「自分で考える」ということは、「自分で根拠から作り上げる」ということで、それがその先に於いて「他人の合意」を得るかどうかは分かりません。でも、「他人の合意」に出会えるところまで行かないと、「自分の作り上げた根拠」は、ただの「自分勝手な理屈」です。
「自分で作り上げる根拠」には、「これは正しい」ということをなんらかの形で証明することが必要です。でも、そんな「証明」なんかは出来ません。だから「これは正しい!」なんてことを大声で言わない方がいいのです。それが「自分の作り上げた根拠」と「自分勝手な理屈」の別れ目です。
 誤解があるかもしれませんが、「根拠」というものは一番初めにあるものではありません。一つ一つ積み上げて行って、最後になってようやく「根拠」になるようなものなのです。
(136-7)

「他人の考え方」というのは、覚えるものではなくて、学ぶものです。「そういう考え方もあるんだ」と思って参考にして、自分の硬直してしまった「それまでの考え方」を修正して、自分の「考える範囲」を広げるためにあるのが「他人の考え方を学ぶ」で、つまりは、自分を成長させることなのです。(150. 傍点省略)

「他人の考え方を知る」というのは、大袈裟に言えば、それだけで「自分の考え方」を揺るがせてしまいます。それで人は、あまり「他人の考え方」を知りたいとは思いません。「うっかりそんなことをして、へんに自分の考え方が揺さぶられるのはいやだ」と思っているのが普通で、そういう人達が知りたいのは、「自分の考え方を肯定してくれる、自分と同じような他人の考え方」だけです。
 だから、私の書くこの本は、とても分かりにくいのです。どうしてかと言えば、私はこの本の中で、読者の考え方を揺さぶるようなことばかりを書こうとしているからです。
(150-1)

普通の勉強なら、生徒に疑問を持たせて自分の頭でものを考えられるような方向に持って行きます——それが「教育」というものの本来であるはずです(153)

 日本人にとって、「正解」というのは「自分の外」にあるものですから、必要なのは、「自分で考えて答を出そうとする」ではなくて、「どこかにあるはずの正解を当てに行く」です。
 日本人の「考える」は、「なにが正解となるのか?」を考えることではなくて、「どこかにあるはずの正解はどれなのか?」と探すことで、それが「見つからない」と思ったら、すぐに「分からない」で降参です。
(170-1)

 どこかに「正解」があるのだったら、それを探そうとするのには意味があります。でももう「正解」がなかったら、それをしても意味はありません(183)

「他人の知性」が認められない人に知性はないのです。〔略〕知性というのはまず、「自分の頭がいいかどうかは分からないが、あの人は頭がいい」というジャッジをする能力です。(192)

あなたが「成績が悪くて勉強の出来ない子」の発言に驚いたのは事実です。それはつまり、あなたにその子のしたような発言が思いつけなかったということですから、あなたに「そういう知性」はなかったのです。(195)

「ものを考える」ということは「悲観的になる」ということでもあって、悲観的になることに慣れて耐性を作っておかないと「心が折れる」などということが起こって、「考える」ということがよく出来ません。〔略〕
 よく「楽観的に考える」なんてことを言いますが、これはおおよそのところで嘘です。「楽観的である」というのは、「めんどくさいことをなにも考えない」ということ
(223)

「考える」ということは、ある意味で「地獄の底まで降りて行く覚悟をする」ということです。でも、降りて行って「そのまま」だったらどうにもなりません。それはただ「地獄に落ちた」だけなので、そんなことをするのなら、そこへ降りて行く前に「戻って来る」を考えなければなりません。
 つまり、「ものを考える」ということは、「悲観的であるような方向に落ちて行きながら、最後の最後に方向を“楽観的”の方向にグイッと変えるのが必要だ」ということです。
(224)

私がなにを言っても、あなたは「なにがなんだか分からない」のままかもしれません。どうしてそうなるのかと言えば、それはあなたが「なにをしたらいいのか分からない」と思っているからです。だったら、そのままにしていればいいのです。あなたの前に「なにかへんだな」と思えることがまだ現れてはいなくて、なんの問題もないだけなのです。だったら当面「それでいい」です。「自分の問題」が見えて来ないのに、「自分をなんとかしたい」と考えるのはへんですから。(248)

「行き詰まった世界」をなんとかするための方向は、「世界は行き詰まっていない」と考えることによってしか生まれないでしょう。そのために重要なことは、「なぜ自分は“世界が行き詰まっている”と思っているのだろう?」と考えることです。人はあまり「自分の責任」を考えませんが、もしかしたら「自分がそう思うことによって事態を悪化させている」ということだってあるのかもしれません。
「自分のせいじゃないけど、でも少しは自分のせいかもしれない」と思わないと、行き詰まったままの「世界」は行き詰まったままだろうと、私は思っているのです。
(254)


@研究室
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by no828 | 2016-01-10 16:31 | 人+本=体 | Comments(0)
2015年 03月 25日

彼は、「自分の恋の不可能」に欲情する男なのだ——橋本治『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』

c0131823_19375189.jpg橋本治『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』新潮社(新潮文庫)、2005年。79(902)


 版元 
 単行本は2002年にたぶん同社

 むむ → 


 橋本治先生の三島由紀夫読解。「あとがき」含め473ページ。思考の深さ鋭さ論理の展開が相変わらずすごい。そのような頭の回り方。そういう問題設定。橋本治先生の評論寄りのものはここには載せていませんが(なぜなら哲学書だと思うから)、本書はここに記録してきた三島由紀夫を論じたものなので、アップロードします。

 カバー・デザインもよいですね。三島由紀夫作品のデザインに似せていますが、メタです。本書の内容も、つまりは三島由紀夫のメタです。


 なにが三島由紀夫をスターにしたのか。その最大の理由は、三島由紀夫が生きていた時代の人間が、みんな文字を読んでいたということである。〔略〕
 三島由紀夫が生きている間、三島由紀夫の作品を読んで「つまらない」と言える人間はいなかっただろう。それは、「つまらない」ではなく、「分からない」の言い間違えでしかなかったはずだ。そして、三島由紀夫の作品を読んで、「分からない」と言うことも出来ない。それは、「私は俗物である」という白旗を掲げることでしかなかったはずだからである。「難しい」と言ったら、「君には無理だから読まなきゃいい」という言葉が、作者からではなく、友人から返って来る。「分からない」と言って、友人達の間でひそかに囁かれるのは、「あいつはやっぱりバカなんだ」である。〔略〕今の人間なら、三島由紀夫の知性に対して、「その頭のよさにはなんか意味があるんですか?」という疑問をたやすく発せられるだろう。その疑問が公然と登場しえてどうなったか? 日本人は、ただバカになっただけである。
(20-3)

『天人五衰』の最後まで読んで、「どうしてこれで三島由紀夫は死ななければならないのか?」が分からなかった。分からなかったがしかし、「こういうものを書くと死ななければならない人が三島由紀夫という作家なのだな」という思いだけは、なぜだか動かなかった。(29)

私は、「三島由紀夫にとって、『豊饒の海』を書き終えることと死ぬことはイコールだった」と信じている。そう信じる以上、私は『豊饒の海』という作品の中から——あるいは、『豊饒の海』へと続く作品群の中から、「三島由紀夫が死ななければならない理由」を探さなければならない。(33)

重要なことは、『豊饒の海』という長編小説が、「 “一人の三島由紀夫=松枝清顕”が死に、その転生した結果の別の人物(=他者)が、“もう一人の三島由紀夫=本田繁邦”の前に現れる」という構造になっていることである。〔略〕つまり、「他者」と出会いたがった『豊饒の海』とは、そのような「他者と関わりたがった小説」なのである。(58)

 逆に、男の主人公が女に惚れるような恋愛小説では、主人公の男を通じて、読者が恋愛の対象である女に接近して行く。恋愛というものは、「相手と一つになりたい」と思う衝動だから、女に恋する男は、女になりたいのである。そのため、恋愛小説の主人公となる男は、多くの場合、その男性性を希薄にする。〔略〕ところがしかし、『春の雪』の松枝清顕はそうではない。男である自分を、絶対に崩そうとはしない。絶対に女になろうとはしないし、自分の外側にいる女の影響下に入ることさえも肯んじない。〔略〕「もしかしたらこれは、男のための恋愛小説ではないのか?」と思ったのである。「男のための恋愛小説」——つまり、「男のままで読める恋愛小説」であり、「男であり続けたいと思う男のための恋愛小説」である。(88-9)

 男に恋情して、しかし、その男と直接に関わろうとはしない——その不能状況に気づいてさえいない。彼はただ、「愛する若者の死を目前にする」ということだけを望み、そのことに対して、優越した王者の気分を感じ取っている。問題は、そこなのである。(148)

 人が人を殺すということは、その「関係」を断ち切るということである。だから人は、「関係ない」と思ったその段階で、平気で相手を「殺す」という方向へ進みうる。(149)

「愛する者を人に殺させて恍惚とする」という妄想を抱いている段階で、彼は既に「権力者」である。彼はその地位を手放さない。(150)

『仮面の告白』における「同性愛の欲望」は、それが「芸術と関わるもの」であることによって、「現実と関わらずにすむ権利」を得ているからである。(153)

《紺の股引》の階層を「下層」と思う所に生まれ育った人間だから、その「貧しい生活」に適応出来ないのである。彼が自身の階層に止まってそれを眺めやる限り、労働者の階層である「汚穢屋」や「花電車の運転手」や「地下鉄の切符切り」の生活は、「悲劇的なもの」にならざるをえない。「悲劇性」は、彼がそこから拒まれていることによるのではなく、彼の馴染んだ生活がその階層を拒んでいることから生まれる。(159)

しかし、自分を助けに来たはずの若者の死を見て恍惚とする彼は、「自由になりたいとは思わない彼」なのである。自由になりたくない彼は、彼を助けに来た若者の死を見て、「ほーら、やっぱりだめだっただろう」と、自分の正しさに陶酔する。三島由紀夫の書く『仮面の告白』——そして『仮面の告白』を書く三島由紀夫のややこしさは、すべてこのことに由来する。(170)

自分を愛そうとする者に死を命じる」とは、いかなる種類の欲望なのか? それはすなわち、「自分の恋の不可能」に対する欲望である。なんということだろう、彼は、「自分の恋の不可能」に欲情する男なのだ。「自分の恋の不可能」を確信し、その確信が「正しさ」として顕現した時、彼は、自身の「正しさ」にのみ導かれて、彼自身の快感を達成することが出来る。(171)

タブーとは、「恋によって自分の絶対が脅かされること」——つまり、「恋そのもの」なのである。
 なんという近代的なタブーだろう。
自分の絶対を信じる近代的な知性は、その絶対を脅かす者を許さない。〔略〕三島由紀夫とこれを必要とする読者達は、「他者」を、「排除しなければならないもの」として位置付けてしまったのである。〔略〕三島由紀夫とその読者達は、「恋の力によって自分を揺るがそうとする他者の存在」を、タブーとしてしまったのである。
(172-3)

《理性の自負》こそが、彼の病巣なのだ。(174)

「 “自分の恋の不可能”を信じ、その“正しさ”に欲情する」ということには、別の役割もあるからである。
 それはつまり、近代自我が望んだ自己達成の道の「補強」である。「自分は他人に惹かれる、自分は欲望に足を取られる」は、その昔から精進の妨げだった。それをしていると、「自己達成」という精進の道への妨げになる。しかし、三島由紀夫は、その“妨げ”となるようなものを、完璧に否定してくれるのである。「 “自分は他人に惹かれる、自分は欲望に足を取られる”というのは、別に大した過ちではない。その上には、“他者を排除した自分に対する恍惚”という、もっと大きな欲望がある」——三島由紀夫はそのように「欲望」を肯定してくれているとも解せるからである。
(177-8. 傍点省略)

「自分は人を愛さず、他人にばかり自分を愛される」は、傲慢なる暴君の欲望である。しかし、この「他人を拒絶することによって究極の快感を得る」という天動説の持ち主は、「自分を他人に愛させる」もしないし、他に対して「我を愛せよ」という命令もしないのだ。〔略〕「自分の精進のためには、余分な他人に足を取られていてはいけない」と信じて、ひたすらに真面目な思索の道を歩んで、真面目な人間は、他に対して吝嗇になっている自身に気づかない。〔略〕彼はただ吝嗇なのである。「他人に自分を愛させることが出来ない」は、暴君になることが出来なくなった近代人に宿る、「他人を愛せない」の別の側面なのである。(179-80)

三島由紀夫にとって、他者とは、「望んで、しかし望みたくはないもの」であるという点において、同じだったのである。(199)

 果たして三島由紀夫にとって、「女」とはいかなるものだったのか? あまり問わずにいるのは、このことである。(260)

 自分が関わりを持つ立場にあるような「現実の女」に対する執着の薄さは、逆に「永遠の女性」に対する執着の強さを語る。だからこそ三島由紀夫は、その「原型」を探し、自分自身で再構築してみようとも思う。しかし、そのルーツ探しは失敗に終わり、「永遠の女性像の再構築」も失敗に終わる。(270)

 三島由紀夫の欲望はいつでもややこしいが、つまりは、「なりたいけどなりたくない」である。(302)

 思想家・三島由紀夫の目指すものは、つまるところ、「偉大なる明治の再興」である。「過去にあった明治という時代が偉大ではなかったのなら、その先、真に偉大な明治を目指せばいい。明治は、その模範となる程度の偉大さを持ち合わせていたはずだ」というのが、三島由紀夫の天皇制思慕の根本にあるものだとしか、私には思えない。しかも三島由紀夫は、それが妄想でしかないということも知っていたはずである。
「戦後」という時代の愚かしさを知って、それを否定するために「古きよき日本」を再現する——しかし、その営みも結局は「嘘」にしかならないということを、《美しい嘘の暮し》に疑義を唱える女の芝居——『恋の帆影』を書いた三島由紀夫なら、明確に知っていただろう。「知っていて、しかそれでもなおまた憧れはある」というのならいいが、その愚を知って、三島由紀夫は、その愚を自覚することを捨てたのである。おそらく、「忘れた」ではないだろう。「忘れた」なら愚かだが、「捨てた」なら、それは悲劇である。なぜ捨てたのか?——私が知りたいのは、ただそれだけである。
(388. 傍点省略)


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by no828 | 2015-03-25 20:05 | 人+本=体 | Comments(0)
2014年 01月 26日

肯定されたかったのだ。看護婦を見て、「一人前だ」とジャッジ出来る能力を持つ、誰かから——橋本治『夜』

c0131823_16541960.jpg橋本治『夜』集英社(集英社文庫)、2011年。107(762)

版元 → 

単行本は2008年に同社


 さらに引き続き、橋本治先生の小説。5つの物語。

“「女」は「男」をどう見ているか”、
 より厳密には
“「男」が「女」の視点に立って「男」を捉えたときに浮かび上がった「女」とはいかなるものか”、
 です。


携帯電話を持つことは、「待つ」ということを受け入れることで、掛かって来ない電話を待ち続ける自分を疲弊させて、絶望に追いやることだ。だから、携帯電話を持ちたくない。持つことに鋭敏になっている自分を、意識したくはない。外でなにがあっても、関知したくはない。
 携帯電話を持つ必要のない時間があった。携帯電話そのものが一般的ではない時代もあった。夫だけが持ち、妻にはその必要がないと思われていた時もあった。妻は、家に属している——その時間が幸福だった。だから、今改めて、その幸福を壊したくない。
(「灯ともし頃」65)

 女は、男を「誠実」などという判断基準で見ない。それは、なんらかの関係がある程度以上進んでからのことで、目の前を通り過ぎる男を見る時、女はまず、「この男とはどういう関係を持ちうるのか?」という観点から見る。そこで「誠実」というジャッジを下される男は、「付き合わなくてもいい」という判断を下される男である。(「灯ともし頃」68)

 中村が死んだということさえ認めにくい。それなのに、なぜ、その遺骸が骨になって、決定的に「生者」とは無縁の形になることまで、確認をしなければならないのか。そうまでして、一人の男が生きていた事実を葬り去らなければならないのか。於初には、よく分からなかった。
 於初と中村が約束したのは、「共に生きる」ということだっただけのはずなのに。

「それでもまだ彼を愛している」というしつこさは、於初の中になかった。「それでも」もない。「まだ」もない。愛していたことに変わりはなくて、納得出来ないのは、その関係がプツンと断ち切られて、永遠になくなってしまっている、そのことなのだ。
(「夜霧」142)

 人が人を好きになるのは、「しみじみと癒されたいと思うからかもしれないな」と、於初は思った。確証はない。自分がそうだった。気がつくと、田島といてしみじみとしていた——ひび割れた枯れ木の中に、水がしみ込んで行くように。
「つらかった」ということが、ようやく分かった。
「人を好きになる」ということがどんなことかは分からないが、そこに「引き離されたくない」という思いが強くあることだけは、間違いがないと思った。
(「夜霧」147)


「私は、誰が頭がいいのかは分かる」——於初がそう自信を持つのは、於初の体の奥で、なにかが反応するからだった。(「夜霧」129)

 この感覚はよくわかります。「頭」にまつわることは、実は頭以下の肉体が頭よりも先に反応するように感じられます。何が大事か、何を思考するか、何を発言するか、こういったことの具体的な内実を肉体は告げませんが、“ここだ、ここは考えるところだ、ここはお前が話すべきところだ”というポイントを肉体は告げてくれます。少なくともわたしの場合はそうです。この“お告げ”があると、発言しますが、ないと発言しません。しかし、少し前まで“肉体は邪魔だ”と言っていたわたしではあり、この点に矛盾を感じています。

「一人前の看護婦」になっていることに気づいて、利恵は、自分がなんだか知らない「壁」のようなものにぶつかっている気がした。ふと、「大学に行けばよかったのかな?」とも思った。医師になりたかったわけではない。ただ、「なにか」がしたい。「微妙ななにか」は、「看護婦になっている自分」と、「看護婦でしかない自分」との間に横たわっていた。
 それとは理解されない微妙なギャップ。利恵は、「一人前の看護婦になれているかもしれない自分」を、誰かに「なっている」と肯定されたかったのだ。看護婦を見て、「一人前だ」とジャッジ出来る能力を持つ、誰かから——。
(「灯ともし頃」74)

 「先生」は1ミリでも1センチでも1メートルでも先を行かなければならない、ということを改めて思いました。能力のこの先行、能力のこの懸隔、それを「学生」へ示すことが「先生」の役目であるのだと改めて思いました。能力の格差が有効な効果をもたらすことがある、と言ってもよいかもしれません。

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by no828 | 2014-01-26 17:10 | 人+本=体 | Comments(0)
2014年 01月 24日

一切が解体された「戦後」という時代は新しい秩序という収まりを得ることに急で——橋本治『リア家の人々』

c0131823_17263487.jpg橋本治『リア家の人々』新潮社(新潮文庫)、2013年。106(761)

版元 → 
単行本は2010年に同社

 橋本治の小説を続けます。裏表紙の説明。「帝大出の文部官僚である砺波〔となみ〕文三は、妻との間に3人の娘をもうけた。敗戦後、文三は公職追放の憂き目に逢うが、復職の歓びもつかの間、妻はがんで逝く。やがて姉たちは次々に嫁ぎ、無口な老父と二人暮らしとなった年の離れた末娘の静は、高度成長の喧噪をよそに自分の幸せを探し始めていた。平凡な家族の歳月を、「リア王」の孤独と日本の近代史に重ね、「昭和」の姿を映す傑作長編」。


 〔美濃部達吉の「天皇機関説」の〕発表当時、まだ四歳の子供だった文三は、昭和になった学生時代にそれを読んだ。読んで、これは「これは一つの解釈だな」と思った。「こういう考え方もあるのか」と思って、どこかで「危険」を感じた。彼自身がそれを拒絶するわけではない。受け入れるわけでもない。ただ「この考え方を“危険だ”と言う人間はいるだろうな」と思った。その意味で、学生時代の彼は、もう典型的な官僚だった。自分がどう思うかではなく、「どう思えばよいのか」を第一に考えていた。それが、十代の彼が身に付けた、大正のリベラリズムだった。(13-4)

 終戦の年——ことに三月の東京大空襲の後では、役所の中にも弛緩した風が吹いていた。廃墟にも等しい町の中でなにが出来るというのか。少なくとも文部省は、戦争の勝利を推進するための役所ではなかった。〔略〕
 初等教育を受ける子供達――特に都会地の国民学校の生徒達に必要なものは、空襲の危険性のある都会地を避けて、安全な田舎へ疎開をすることだった。〔略〕都会地の初等教育などは、あってなきが如しだった。更に、東京大空襲の後では、全学徒総動員のために、国民学校の初等科を除いて、すべての学校の授業が「一年」の期間を区切って停止となった。上級学校の授業が存在しない中で、都市部を脱出した初等科の授業だけがある。仕事、あるいは担当する職務が存在するのは、初等教育を管轄する局長となった文三だけだった。
 停止するならば、すべての教育が停止してくれればいい。そうなれば、「教育」を管轄する文三にも「教育の必要」を訴えることが出来る。しかし、「労働力にならない」という理由によって、子供を収容する学校だけは開かれている。学校はあるが、果してそこにどれほどの「教育」があるのか。すべてが疲弊し失速して行く中で、どのような「教育」が考えられるのか。惰性と化した軍国教育が、とりあえず細々と続けられ、文三は、終戦へと至る年に「最後の軍国教育の責任者」となった。
(18-9)

 力の時代が終わって、平和の時代がやって来た。しかし、その平和の時代をもたらしたものが、力の時代を終わらせるだけの強大な力を持ったものであることを、古い力の時代に順応していた者達は知っていた。(19)

 父親と並んで母の位牌に手を合わせた娘に、文三は、「なにを祈ったんだ?」と言った。
 静は、「なんにも――」と言った。
だって、さっきお焼香したばかりだし、今更、どうぞ安らかにお眠り下さいって言うのも、へんでしょう。今までずっと安らかだったんだし
 娘の意外な答に、文三はいささか驚いた。
「じゃ、お前は、さっきお寺さんで、母さんになんて言ったんだ?」
 娘は仏壇の前から膝をすさらせて、父親に言った。
へんだけど、いつまでもお元気でって言っちゃった
 父親はいささか不機嫌になって、「なんでまた、お前――」と言った。
だって、お母さんがあの世で生きてるんなら、そう言うしかないでしょ。私は、お母さんにいつまでも元気でいてほしいし――
(30)

織江は十月一杯で退職して、大学受験に専念する妹のために、家内の面倒を見る――そのつもりだと、結婚を約束した二人は文三に告げた。
〔略〕
 姉とその結婚相手のいる居間に静も呼ばれて、結婚までのスケジュールと聞かされた。静は、姉に対して「おめでとう」と言い、そのデートの相手だったと思しい男にも「おめでとうございます」と言って頭を下げて、それ以上には明るい表情を見せなかった。「もしも自分が大学受験に失敗したなら、姉さんの結婚が延びる」と、そのように考えた。「織江は、お前のために家にいてくれるんだから、安心して勉強に集中しなさい」と父に言われて、「はい」と答えはしたものの、格別に心が安らぐことはなかった。静はいつの間にか、「自分の存在が他人の幸福を妨げることになったらどうしよう?」と思うような娘になっていった。
(125)

 人にはそれぞれの背景がある。同じ時、同じ場所にあっても、それぞれに得るものは違う。違うものを得て、同じ「一つの時代」という秩序を作り上げて行く。一切が解体された「戦後」という時代は、新しい秩序という収まりを得ることに急で、その秩序を成り立たせる一人一人の内にあるばらつきを知らぬままにいた。(262)

 東大が「元の東大」になかなか戻れなかった理由は簡単である。十二人の学生を処分した医学部の教授会が、自分達が下した判断の元になる「事実誤認」をなかなか認めなかったからである。
〔略〕
 医学部の教授達は、なぜさっさと「処分の再検討」をしなかったのか?
 彼等は、処分の再検討をしたくなかったのである。彼等は、その処分によって、医師法改正に反対する「問題のある学生達」を、大学から排除したかったのである。そして、「東大教授」という彼等の信じる権威と誇りによって、「自分達の判断が間違っているはずはない」と信じ、「問題のある学生達の声」などは封殺出来ると思い込んでいたのである。
 問題は、政治でもない、反戦でもない、思想の対立でもない。問題の中心は、既に出来上がっていた秩序を形成する人間達の「体質」にあったのである。
(308-9)


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by no828 | 2014-01-24 17:41 | 人+本=体 | Comments(0)
2014年 01月 23日

私はね、自分が我慢しているってことを理解してもらえない人と一緒にいるのがいやなのよ——橋本治『鞦韆』

c0131823_197291.jpg橋本治『鞦韆』新潮社(新潮文庫)、1991年。105(760)

「鞦韆」の読みは「ぶらんこ」

版元 → 情報なし
単行本は1988年に白夜書房より刊行


 今度は、さまざまな「性愛」。

 内容はむろん突き抜けているのですが、本の作りも独特です。328ページや335ページや337ページには1文字も書かれていません。1行だけ、というページも結構見受けられます。327ページは「あ。」、334ページは「ぐッ。」。


 終わったの?

 すぐ終わるのね。
 終わったたんびにいつも思う。
 なんでこんなことするんだろうって。たかがこれっぽっちのこと。
 我慢すればどってことないけど、結局私はね、自分が我慢しているってことを理解してもらえない人と一緒にいるのがいやなのよ。そういうことを“愛情”だって思いこむような人と一緒にいるってことが。
 いやなのよ。
 そんだけ。
(「鬼」312-3)


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by no828 | 2014-01-23 19:09 | 人+本=体 | Comments(0)
2014年 01月 22日

私が不幸だからあの男もやさしくしてくれた、だからもっと不幸になれば——橋本治『愛の帆掛舟』

c0131823_2043090.jpg橋本治『愛の帆掛舟』新潮社(新潮文庫)、1989年。104(759)

版元 → 情報なし
文庫書き下ろし

 前作(→ )に引き続き、いろいろな「愛」の4つの物語。文章の流れのなかにときどき読み手を一気に引きずり込む(とわたしの感じる)文章があります。その引きずり込まれた先は、しかしながら混沌ではなく、理解なのです。

 そして前作に引き続き、挿画入り。田中靖夫、宇治晶、東恩納裕一、山本容子。


数恵は、勇作の抽象的な思考能力を買っているのだ――と、自分では思っているのだ。ただの数字だけをいじくっている経理マンではなく、抽象的な数字の向こうになにか目的を見出すような、そういう能力を——。
 しかし数恵は気づいていない。勇作の能力が、ただ“向こうを見ようとすること”で尽きていることに。
 勇作の思考には、目的も展望もない。「こうすればこうなる」ということを知っているコンピューターのオペレーターが、自分の為ではなく、ただ他人の要請に基づいてコンピューターを操作するように、勇作もただ操作するだけなのだ。
(「愛の帆掛舟」57)

 この期に及んでさ、もう何年も前に別れた男のことを待ってるのよ。
私が不幸だからあの男もやさしくしてくれた、だからもっと不幸になれば絶対にまたやさしくしてもらえる」って、そう思ってたのよねェ、バカみたい。
「こんなに不幸! こんなに不幸!」と思ってて、それでちっともいいことなんかないから、「まだ足りないか! まだ足りないか!」と思ってて、気がついたらもうその先はないってとこまで来てたのね。いくら不幸で、死にそうな不幸ってあるけど、死んじゃったらおしまいだもんね。
(「愛の真珠貝」106-7)

 真紀ちゃん、あんた、私が死んだら、あの家改築しなよ。あれじゃ古すぎる。徹達だってもう大きいんだから。航空会社からもらった補償金ね、あれ、手つかずで取ってあるから。三千五百万あるから。バアちゃんがなに言ったってかまやしないから。死んでく人間の為に生きてく人間が犠牲になる必要ないよ。
 みんなそれぞれ別々で、その別々の人間がうまくやってけるようになるのが大切なんだから。
(「愛の真珠貝」113)

 という訳で、罪もない正起が小学校二年の終わりには、既にして「自分が幸福であるということは果して罪なのだろうか?」などという哲学的な疑問を抱くようになっていたことの重要性などは誰も理解しない。(「愛のハンカチーフ」213-4)

 蟹は自分の甲羅に似せて穴を掘るというが、人間は、自分の気に入った他人の思惑に合わせて自分を作るものだ。そうやって作り上げた自分像に他人を適合させて、そうやって出来上がる“他人の中の自分”を見て、「この人になら自分のすべてを受け入れてもらえるかもしれない」なんてことを思いこむ。ややこしさもここまで手が込んでくると「人間とは不思議なものだ」という一言で片づけた方が手っ取り早い。
 しかし、この手っ取り早さがなんの解決ももたらさないというのも事実ではある——。
(「愛のハンカチーフ」216)

人間同士のすべての行為は愛を生むが、そうやって生まれた愛というものの中には一切の行為を無意味にしてしまうものだってあるのだからしようがない。(「愛のハンカチーフ」222)

 地球の底がぬけて、正起はどこまでもどこまでも落ちて行ったのだが、別にそんなことは今に始まったことではなく、ずーっと前から始まっていたことだということを、正起がやっと自覚したというだけのことだ。
 正起はどこまでもどこまでも落ちて、結局「人生とは落下の方向に対する上昇力でしかない」ということを悟るしかなくなった。
(「愛のハンカチーフ」287)


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by no828 | 2014-01-22 20:49 | 人+本=体 | Comments(0)
2014年 01月 20日

大人の世界はすき間だらけで、そのすき間を漂うのは、不幸になった子供だけだ——橋本治『愛の矢車草』

c0131823_19565358.jpg橋本治『愛の矢車草』新潮社(新潮文庫)、1987年。103(758)

版元 → 情報なし
単行本に関する情報もなし


 世の中のさまざまな「愛」。4章構成。橋本治先生の小説です。小説なので(評論以外は)ここに載せます。行間の広さというか、文脈の移動というか、相変わらずすごいなあと思いました。ご病気をされたそうですが、まだまだ元気にものを書いていただきたいです。

 各章に挿画あり。高野文子、しりあがり寿、奥村靫正〔ゆきまさ〕、吉田秋生。


 それからしばらくして、流星号の運転手はまた讃岐亭にやって来た。彼女がやって来ると、ヤエの気分も弾むのだった。ともかく、自分の仕事振りを認めてくれるのは彼女だけなのだから。
〔略〕
 人のいる前で自分をさらけ出して働くことがどんなことなのか、ヤエには全然見当もつかなかった。真面目に註文を聞いてお盆を運んでいる彼女に、まさか冗談を言う人がいるなんて、彼女には想像もつかなかった。冗談を言われて、それで一面識もない相手にお愛想を振りまくなんて、ましてやまして。
 世の中には色んな人がいて、その色んながみんなフラッとドアを開けて店の中に入って来るなんて、考えてみれば客商売というものはみんなそんなものなのに、ヤエは全然見当もつかなった。
 色んな人がいるということは明るく華やかで賑やかなことなのだということを、ヤエは自分の適応能力のなさを確認するという形で、しっかりと自分自身に刻み込んだ。だから初めの内は、言葉があまりない自分の家へ帰るとホッとしたものだった。
(「愛の牡丹雪」143-4)

 それで翔馬は、堤防のある孤児院に来た。大人の世界はすき間だらけで、そのすき間を漂うのは、不幸になった子供だけだ。(「愛の矢車草」215)


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by no828 | 2014-01-20 19:59 | 人+本=体 | Comments(0)
2013年 05月 12日

「無意味」は薄々分かっている。しかし、そのことに直面したくはなかった——橋本治『巡礼』

c0131823_14291888.jpg橋本治『巡礼』新潮社、2009年。42(697)

版元 → 


 橋本治先生の長篇小説。「男はなぜ、ゴミ屋敷の主になったのか?」と帯にあります。男の名前は「下山 忠市(しもやま ちゅういち)」です。ゴミを捨てられない、片付けられない、そういう人の内面の論理、誰もが部分的に抱えているかもしれないそういう側面の論理にも通ずるのではないでしょうか。捨てられない、片付けられない、それを一喝するのではなく、なぜ捨てられないのか、片付けられないのか、それを探ることも必要だと思います。おそらくそれは、一般的に言えば、向き合うべきだと自覚している自分の弱さ・暗さに向き合っていないことをも自覚しているのにもかかわらずに向き合っていないこと、です。

 「無意味」ということを考えました。「無意味」をどう供養するか、という表現には必ずしも納得してはいないのですが、それが重要なのかもしれない、そんなことも考えました。

 人は悲しいと泣くという。しかし、深く埋められた悲しみは、それが悲しみであることさえも忘れさせてしまう。人の感情をぶれさせる悲しみが悲しみとして機能しなくなった時、人の表情は動かなくなる。かろうじて持ち堪える自分自身に介入してそして発動されるのは、驚きと、そして怒り。驚き、怯え、怒って揺り動かされたものは、見えなくなった悲しみを増幅させる。しかし、それがいくら増幅されても、見えないものは見えない。
〔略〕
 自分のしていることが無意味でもあるのかもしれないということを、どこかで忠市は理解している。しかし、その理解を認めてしまったら、一切が瓦解してしまう。遠い以前から、自分の存在は無意味になっていて、無意味になっている自分が必死になって足掻いている——その足掻きを、誰からも助けてもらえない。絶望とはただ、誰ともつながらず、誰からも助けられず、ただ独りで無意味の中に足掻く、その苦しさ。
(78-9)

 当然のことながら、勝二は加世を求めた。将来に於ける「当然」は保証されている。「だったら今でもいいじゃないか」と、若い勝二は思った。もちろん加世は、そのことを拒んだ。体を触れられることはいやではない。しかし、性急な行為は、未来の確かさを危うくする。それゆえに、加世は拒んだ。仕方なしに、勝二は引き下がった。しかし、引き下がってもやはり、「保証された未来」は依然としてある。「だったら、今でもいいじゃないか」と、勝二は思った。思っても仕方がない。未来の到来に焦る勝二は、まだ若かった。「いいじゃないか」「だめよ」というやりとりが繰り返されて、加世はその先を許さなかった。加世にとっては、「求められている」と思うそのこと自体が快感で、その先のことを遮断しても、まだ堪えていられた。(136)

 「無意味」は薄々分かっている。しかし、そのことに直面したくはなかった。「自分のして来たことには、なにかの意味がある」——そう思う忠市は、人から自分のすることの「無意味」を指摘されたくはなかった。「それは分かっているから、言わないでくれ」——そればかりを思って、忠市は一切を撥ねつけていた。(211)


 田村喜久江の内に眠る上昇志向は、社会的な名誉欲とは結びつかない求道心に近いものだから、下手な弟子におべんちゃらがらみの褒められ方をしても、嬉しくはない。「そんなことを言っている暇に、少しは自分でも勉強してみたら」と言って、「だって、私には先生みたいな才能がないんですもの」と言われる。明かるい駅ビルの中の教室を譲ってしまった——「あなたならやれるわよ」と言ったことの内には、「あなた程度のレベルでいいのよ、教えられるわよ」という、教室に対する絶望もあったが、そればかりは言わなかった。(45)


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by no828 | 2013-05-12 15:10 | 人+本=体 | Comments(0)