思索の森と空の群青

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タグ:法月綸太郎 ( 12 ) タグの人気記事


2015年 01月 18日

理屈抜きに名探偵という存在にこだわり続ける権利を得ているとも——法月綸太郎『しらみつぶしの時計』

c0131823_1926328.gif法月綸太郎『しらみつぶしの時計』祥伝社(祥伝社文庫)、2013年。50(873)


版元 
四六版は2008年に、新書判は2011年に、それぞれ同社


 法月林太郎は出てきますが法月綸太郎は出てこない法月綸太郎の本格ミステリ。10作品が収録された短篇集。


「ところが今僕が抱えているプロットでは、我等が名探偵は事件に介入していくだけの必然性を全く持ってないんです。だからどうやってそれを絡ませるべきか、ずっと頭を絞ってるんですが、うまい知恵もなくて」
「なんだそんなこと」警視は率直に意見を述べた。「最初から名探偵なんぞ出さなきゃそれで済むことじゃないか」
「うん、なるほど」林太郎は仔細らしくうなずいてみせてから、「確かに誰でもそう考えます。しかし僕のように頭の古い探偵小説家にとっては、名探偵の出てこない探偵小説なんていうのは禁忌〔タブー〕でしてね。生温くなったトマトジュースみたいに舌触りの悪いものなんです。ところが——」
「名探偵なんて存在が時代遅れになってしまった」と警視。
「——その通り。名探偵とか本格謎解小説〔パズラー〕とかいった idea は誕生してから僅かな百年たらずでその頂点を極めてしまいました。その後はもう静かに滅びるのを待つしかない、あまりにも急激に巨大化しすぎたために種族の滅亡を早める結果を招いた中生代の爬虫類たちのようなものです。
 それがわかっているからこそ、僕はひどく居心地の悪い思いをしなければならない。半世紀前の美女に恋する少年みたいに。でもそのおかげで僕は、かえって理屈抜きに名探偵という存在にこだわり続ける権利を得ているともいえます。
 だから大袈裟な言い方になりますが、この袋小路を打開するためにも、僕は名探偵の復権を目指して様々な新手を編み出さねばならないと決意したのですよ、あっというような新手をね
 ところがこいつは口で言うほど易しい仕事じゃない」
(338-9)

「名探偵」を「哲学」へと言い換えて読みました。

@研究室
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by no828 | 2015-01-18 19:26 | 人+本=体 | Comments(0)
2014年 09月 01日

現実には、なんぴとたりとも物語の外に立つことはできない——法月綸太郎『二の悲劇』

c0131823_18242933.gif法月綸太郎『二の悲劇』祥伝社(祥伝社文庫)、1997年。11(834)


版元 → 
1994年に同社ノン・ノベル新書版


 ミステリ。ルームメイトの一方が殺され、顔も焼かれ、その他方が犯人と目されるけれども、以下の引用は相変わらず本筋とは関係なく、法月綸太郎のミステリへのスタンスに関わるようなところであります。


「ぼくなんか来年三十になって、いい歳こいて名探偵だぞ。二十一世紀を間近に控えて、発端の怪奇性と中断のサスペンスと解決の意外な合理性を備えた本格探偵小説だぞ。背中がむずがゆくならないかい? 自分で言ってて恥ずかしくなる。穴があったら入りたい。そりゃ二十代の青年のうちは、若気の至りでございますとかいって、何とか申し訳は立つさ。でも、三十にもなってそんな看板掲げて、駄ボラを吹いてるやつがどこにいる? 名探偵だの本格だのを希求する心性は、よきにつけあしきにつけ、青年期に特有の熱病みたいなものだ。やがて、ある朝すっと熱が引いて、ふと鏡をのぞくと、頰がこけて目を落ちくぼんだ病み上がりの自分を発見することになる。ぼくはもう先のことを考えるだけで、みっともなくて夜も眠れない」
「そういうもんかしら」
「そういうもんさ」
「そうじゃないって言ってもらいたがっているような顔してるけど」
(32.傍点省略)

「いい歳して名探偵の看板がカッコ悪いとか、本格探偵小説は時代錯誤だとか、こいつがこぼすしみったれた愚痴を真に受けちゃいけませんよ、容子さん。誰に頼まれたわけでもないのに、勝手に自分で妙なジレンマを背負い込んで、その荷が重すぎるけれど下ろすこともできないとか何とか、さっぱり筋の通らない文句を言って威張ってるが、要するに、仕事を怠ける口実に大義名分を持ち出したいだけなんで、その証拠に私なんか、ほとんど毎日のように同じことを聞かされて、耳にタコができてしまった。まるでそれが人生の大問題みたいな顔をして、いったいぜんたい自分を何様だと思っているのやら。まったく二十九にもなって、甘ったれの中学生じゃあるまいし、そんなふがいないありさまだから、おまえは未だに嫁の来手もないんだ」(41)

「回りくどいのは相変わらずだが、それがおまえの唯一の取柄なんだから、とやかく言ってもしょうがない。要するに、おまえには一種の名探偵コンプレックスみたないものがまとわりついていて、いちいち自分で自分を納得させないと、身動きもままならんというわけだ。俺はおまえのそういうところがじれったくて、見ちゃおれんと思うことがしょっちゅうだが、まあ、今回は大目に見てやろう」(170)

「二人の顔を見るまでは、奈津美といい百合子といい、名前だけで、連立方程式のXとYみたいな存在でしかなかった。それは相互に交換可能な記号みたいなもので、机上の図式に収まる数学的な項にすぎませんでした」
「いつだったか、おまえはこんなことを言っていたな。奇抜な仮説を弄んだり、人の死を記号のように扱ったり、嬉々として他人の罪を暴いたり――そうしたことのすべてに、興味が持てなくなったと」
「ところが、昨日の晩、ぼくがしたことは、まさにそうしたことの繰り返しだったわけです」綸太郎は自嘲的な口調で言った。「いやはや、われながら、自分の度しがたい能天気さにあきれてしまいますがね。でも、それは探偵であることに付きまとう宿命のようなもので、そうしたことのすべてをいっさい退けることはできない。というよりも、まず形式的であることが必要不可欠の前提なんです。その前提抜きで、人間を自明のごとく語れると思っているような連中は馬鹿ですよ。しかしまた、形式だけでやっていけると考えるのも大きなまちがいで、つまり、形式というのはのっぺらぼうなんです
(171-2.傍点省略)

 かつて綸太郎は、求心的な物語の最後の語り手たらんと欲した女に出会ったことがある。西村海絵という女だった。彼女はかけがえのない自己の物語を完結させるために、堅く口を閉ざして、それを誰にも語らないというアイロニカルな方法を選んだ(『頼子のために』講談社刊)。しかし、そのやり口とは、物語の結節点を高みから見下ろすメタレベルの語り手となって、自らの絶対的な優位を確保しようとすることにほかならない。だからこそ、彼女は物語の終りを宣告する沈黙を見届けるメタレベルの聞き手を、気まぐれで尻軽な狂言回しなんかではなく、最後で唯一の終止符となりうべき共犯者をひとりだけ必要としたのだった。そして、綸太郎は予期せぬ不意討ちのように、その終止符の役割を押しつけられ、やがて、語られざる物語からにじみ出る毒に冒されて、身動きがとれなくなってしまった――あれはそういうことだったのだ。
 だが、現実には、なんぴとたりとも物語の外に立つことはできない。というより、現実ということの意味がそれなのだ。物語の終りを宣告したつもりでも、それは恣意的な錯覚にすぎない。彼女はそのことに気づいているだろうか? 物語の終りは、常に次の語り手によって乗り越えられる。いや、それは文字通りの意味で乗り越えられるんじゃない、手探りで数珠をつなぐような人と人との出会いの過程で、どこまでもその続きが語り継がれていくのみ。ひとり繭のような沈黙の中に浸り続けても、最後で唯一の終止符の役割を担うべき共犯者が、否応なく次の結節点に動かされてしまったら、自己完結した語られざる物語といえども、また別の物語の連鎖の一環として開かれざるをえないということを、彼女は認めてくれるだろうか?
(214-5)


@研究室
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by no828 | 2014-09-01 18:39 | 人+本=体 | Comments(0)
2014年 08月 25日

たとえ他人の文章であっても、現に書いているという実感さえ手に入れば——法月綸太郎『一の悲劇』

c0131823_20423796.jpg法月綸太郎『一の悲劇』祥伝社(祥伝社文庫)、1996年。9(832)


版元 → 
1991年に同社ノンノベル(新書判)


 ミステリ。錯綜する誘拐事件。誰が誰をなぜ誘拐したのか。

 引用は、相変わらず本筋とは関係ないところからです。


「なるほど。それにしても、三浦は何の目的で、こんな剽窃をしたのでしょう」
「——一種の現実逃避なんです」法月は苦い口ぶりで言った。「たとえば、ぼくの場合、半日ワープロの前に坐って、真っ暗な画面とにらめっこしても、まともな文章が一行も浮かんでこないことがあります。そういう時は、つい本棚に手が伸びる。自分を鼓舞するために、好きな本の気に入った場面を写していくんです。中世の修道院の写字生みたいに。ディック風に言うと、尊敬する作家の執筆行為を疑似体験するわけです
「そんなことをしても、時間と労力の浪費ではないですか」
「確かに。しかし、たとえ他人の文章であっても、現に書いているという実感さえ手に入れば、一行も書けない状態より、はるかに気が楽なものです。それが優れた文章なら、なおさらです。もっとも、こうして楽をしている限り、一歩も先には進まないんですが。締切りを目前に控えた時は、特にそうです。書けない時は、書けないという現実を直視しなければ、何も始まりません。
 むしろ、それ以上に危険なのは、最初は軽いウォーミング・アップのつもりで始めても、やがて、写していく作業そのものに、麻薬的な快感を覚えるようになることです。そこで引き返さないと、深みにはまってしまう。読む行為と書く行為の境界が曖昧になり、自前の文章より引用に頼る頻度が高くなります。
最終的には、どこかからコピーしてきた文章を、平気で人前に出すようになるでしょう。そうなったら、作家としてはおしまいです」
(226)


@研究室
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by no828 | 2014-08-25 20:46 | 人+本=体 | Comments(0)
2013年 09月 19日

引用なし——法月綸太郎『法月綸太郎の新冒険』

c0131823_16493827.png法月綸太郎『法月綸太郎の新冒険』講談社(講談社文庫)、2002年。71(726)

版元 → 

1999年に同社ノベルス。



 ひるがえってこちらは引用なし。読み終わったときに引用しようと思った箇所がなかったことに気付き、自分でも驚きました。『冒険』(→ )のほうにはかなり共感する部分があったのに、ということでもあります。

@図情図書館
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by no828 | 2013-09-19 16:53 | 人+本=体 | Comments(0)
2013年 09月 13日

一度偽善の道を歩み始めた者は決して途中で引き返すことはできないのだ——法月綸太郎『法月綸太郎の冒険』

c0131823_18235937.png法月綸太郎『法月綸太郎の冒険』講談社(講談社文庫)、1995年。70(725)

版元 → 

1992年に同社ノベルス。


 短篇集。司書の沢田穂波が頻繁に登場します。「土曜日の本」という短篇も含まれます。が、引用は「死刑囚パズル」のみからになってしまいました。わたしの研究における――ということはわたしの実存における、ということにもおそらくなりますが――問題意識とかなり重なる部分がありました。その部分はおそらく法月自身の――おそらくはエラリー・クイーンから引き継いだ――問題意識でもあるでしょう。その部分にこだわり続ける姿勢にわたしは共感します。そんな部分など気にしないほうが、忘却したほうが、おそらく断然生きやすいとは思いますが、それでもなお――この、それでもなお、というところが、わたしは重要だと思っています。そしてこの、それでもなお、である事柄というのは――わたしに引きつけて言えば――理論家の思案の対象であるだけではなく、実務の最前線の人たちの日々の実感なのでもないかと思ったりもしています。そこをつなげる仕事、研究ができれば、ということを最近は考えています。「それでもなお」の内容は、以下の引用から明らかになるかと思います。
 だが、こうして、死刑囚を刑場に送り出す日を迎える度に、魂の底からいつも同じ、恐ろしい疑いが湧き起こってくるのだ。すなわち、どんなに誠意をこめて、煩悩を断つこと、来世での救いを説いたところで、彼らは絞首される身であり、おのれが絶対の安全圏にいるという事実は免れない。この亀裂をそのままにして、自分が語る言葉にどれだけの説得力があるのか? 自分がしていることは単なる偽善、国家ぐるみの大がかりな欺瞞に荷担しているのみであって、宗教家として最も戒むべき恥辱ではないだろうか、と。
 しかし、今まさに、定められた死を甘受せんとしている男の前で、こうした疑いを口にすることはできなかった。担任教誨師の逡巡は、死刑囚を突き放し、動揺させる結果を招く。たとえかりそめのものではあっても、安心立命の境地に達した死刑囚に、改めて死の恐怖を押しつけるような行為は、かえって仏の道に背くものである。一度偽善の道を歩み始めた者は、誰しも、決して途中で引き返すことはできないのだ。それでも、有明省二は浄土に迎えられるだろう――このおのれが地獄に落ちるとしても。
(「死刑囚パスル」26-7)



 中里の視線は、保安課長の右腕に釘付けになっている。その手が振り下ろされる瞬間に、ボタンを押さなければならないのだ。もし一瞬でも遅れたら、それは自分以外の四人の同僚に罪悪感を押しつける裏切り行為になるか、あるいは最悪の場合、全ての責任を自ら背負い込む結果を招きかねない。中里の掌は重圧のためにじっとり汗ばんでいたが、他の四人も彼と同様のありさまだった。
 五個のボタンは、人命を奪うという罪の意識を五分の一にするのではなく、ただ単にそれを五倍にするだけにすぎない。中里はそう考えていた。たとえ法の名の下に行なわれるものであっても、死刑の執行は一個の殺人行為にほかならない。
(「死刑囚パズル」31-2)

「執行の際の罪悪意識を軽減する目的で、誰の行為が致命的なものだったか、わからないようにするための措置です。これについては、誰かがうまいことを言っています。国家には〈私〉を殺人者にしない義務がある、とね。でも、一度でもこのボタンに触れたことのある人間なら、そんな仕掛けが何の意味も持たないことを知っていますよ(「死刑囚パズル」73)

「法が力の論理であることは、その通りです。しかし、この狭い部屋の中では、国家とか、法とかいうものは、所詮、ひとつのフィクションでしかあり得ません。国家は死刑囚に絞縄をかける腕を持たないし、法は執行ボタンを押す指を持たない。それは、われわれの良心に対して、ささやかな盾の役割を果たすのみです。手を下すのは、常にわれわれの役目なのですから(「死刑囚パズル」77)


@大学中央図書館
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by no828 | 2013-09-13 18:32 | 人+本=体 | Comments(0)
2013年 06月 08日

全てはそこに帰着するのだ。人々に関わることの是非に——法月綸太郎『ふたたび赤い悪夢』

c0131823_1510247.png
法月綸太郎『ふたたび赤い悪夢』講談社(講談社文庫)、1995年。50(705)

1992年同社ノベルス

版元 → 


 「——西村頼子の霊前に捧げる」と扉に記された本書は『頼子のために』(→ )の続編であり、たしか『雪密室』(→ )に登場した畠中有里奈が再登場します。

 『頼子のために』の最後になした法月綸太郎の行為から帰結した事柄のために、本書において法月綸太郎は探偵であることをやめようとします。

 僭越な重ね方になりますが、法月綸太郎が作品のなかで煩悶することとたぶんほぼ同じことを、わたしは学問のなかでしています。

探偵という立場を支える根拠など、何もない。どこにも存在しない。彼の確信は、この時から静かに崩れ始めていた。
 かつて、こんな思いをしたことはなかった。それとも、単に西村頼子の事件が特殊だったにすぎないのだろうか? 綸太郎は自問を繰り返した。探偵にとっては、関与すべきゲームと関与すべきでないゲームがあると考えたらどうだろう? その上で、前者のみを選択し、後者には近づかないようにするのが賢明な策かもしれない。だが、もとよりそんなことは不可能だ。ひとつの事件が、探偵という立場の無根拠を露呈させるかどうかは、解決の瞬間までわからない。そして、その時にはもう、誰も後に引き返すことはできないのだ。
 今までの自分は、途方もない欺瞞の上に平然とあぐらをかいていた!〔略〕義務感からワープロに向かっても、たえず根源的な疑惑を鼻先に突きつけられているような気がして、めまいがしてくるのだった。だから、何も書けない。書けないことが、いっそう綸太郎を苦しめた。今までのスランプとは、次元がちがっていた。こういう感覚は、彼のような人間にとって、生きる根拠の剥奪と変りなかった。
(20)

 こうした煩悶の処方箋として本書で挙げられているのは、エラリイ・クイーン(すなわちフレデリック・ダネイとマンフレッド・ベニントン・リー)であり、その『九尾の猫』(と『ダブル・ダブル』)という作品です。いずれも未読。読んでみようと思いました。

「勘弁してください、お父さん。ぼくは、以前のぼくじゃない。今は、人殺しの話題に付き合える気分ではないんです。誰かの人生を左右するようなもめごとに、飛び込んでいく自信がないんです
「だが、おまえはもう飛び込んでいるのだ」警視は厳しい口調で宣告した。「彼女の電話を受けた時から、おまえはこの一件に関わってしまったのだ。もう後戻りは利かない。彼女を見捨てるとしたら、おまえは自分の責任を放棄することになる。何もしないことで、彼女を裏切ることになる」
(85)

 “それ”に関わるか関わらないかは、実は自分では選べないのかもしれません——教育と関連させてこの点をもう少し考えてみたいと思います。

仮に信念に基づく約束が、現実の前に敗北し、空手形に終るべく定められているとしたら、むしろ初めから事件に手を出さないことが、唯一の倫理的な立場といえるのではないか?
 綸太郎はまたしても、半年前と同じジレンマの中にあった。全てはそこに帰着するのだ。人々に関わることの是非に。いや、それはもう、是非の問題ですらない。単に続けるか、手を引くかの二者択一でしかなかった。しかし、いずれを選ぶにしても、その決断には妥当な根拠が存在しない。よりよい結末が考えられない状況で、いったいどこに選択の余地があるのだ? どうやって、答を出せというのだ?
(362)

 この問題に憑かれた——という表現がよいのかどうかはわかりませんが、これが問題にならない人にとっては問題ではないのです——法月綸太郎は586ページで、柄谷行人『探究Ⅱ』(!)におけるスピノザの神への言及に触れています。柄谷もスピノザ『エチカ』も読みましたが、まさかここで出くわすとは思いませんでした。“外部はない”というお話だと思います、と書いて、根拠は外部なのか? とも思いました。根拠は主張の外部に存在するものである、存在していなければならない、なぜなら主張に根拠が内在するということは同語反復だから、……。むむむ。

 砂漠か、と綸太郎は思った。砂漠へ出よ、それがクイーンが残した道標なのだ。そして、それ以上でも以下でもない。後は自分で考えることだ。久保寺容子に教えられたように。それしかない。粘り強く、執拗に考え続けることだ。(591)

 やはり……。

@研究室
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by no828 | 2013-06-08 16:11 | 人+本=体 | Comments(0)
2013年 06月 02日

私は自分のことを観念の化け物だと思っています——法月綸太郎『頼子のために』

c0131823_1710292.png法月綸太郎『頼子のために』講談社(講談社文庫)、1993年。49(704)

1989年同社ノベルス

版元 → 


 「頼子」は殺された娘の名前。父は警察の捜査に疑問を抱き自ら犯人を裁こうとし、母は事故のためにベッドに寝たきり。作家 法月綸太郎が真相解明に乗り出す。

 下掲引用文はその寝たきりの母と法月との会話ですが、本書主題に直接的な関係はありません。看護学校の「生命倫理」の講義に関わる、ということは、講義をするわたしの問題意識とも関わるということですが、そんな内容です。ちなみに、心身二元論の更新のようなことに今年度は学生と一緒に取り組んでいます。これは以前から実存的に関心のある事柄です(→ )。「講義」とは何か、それはその科目の専門家のあいだで広く合意された内容を伝達するものなのか、それともその講義を担当する者の考えを伝達するものなのか、この2つを極に据えることができると思います。わたしは、「その講義を担当する者の考え」は研究論文によって伝達すべきだと基本的には考えています(講義では偉そうにしゃべるけれども論文は書かないし学会発表もしないというのは本末転倒だと考えています。何を「本」とし、何を「末」とするかという問題です。大学人は研究者であることが「本」だと目下のわたしは考えます)。だから講義では「その科目の専門家のあいだで広く合意された内容」を伝達すればよいと考えています。しかし、これは“それがどういう性格の科目なのか”にも左右されると思うのですが、「その科目の専門家のあいだで広く合意された内容」を簡単に前提してよいのかどうかという問題もあります。そのさいは、“「その科目の専門家のあいだで広く合意された内容」を簡単に前提してよいのかどうか”という疑いを差し挟んでいる者の考えを提示せざるをえません。看護学校の講義では、わたしの「考え」と呼べるほどに確固としたものではなく、“思考の右往左往”をそのまま示すような恰好になっています。学生自身に考えてほしいという願いもありますから、わたしのああだこうだも思考の足がかりくらいにはなるのではないかと思っています。

 ここまで長くなりました。以下、引用です。

私の体の三分の二は自分の意志ではどうにもならないもてあましものですわ。この機械仕掛けのベッドがなければ、私は満足に生きていくこともできません。下の世話まで他人に任せなければならないのです。そういう状態がどういうものか、あなたにわかるかしら」
 綸太郎は首を振った。
「——私は自分のことを観念の化け物だと思っています
 彼女は自嘲の響きすら込めることなく言った。綸太郎はぞっとする戦慄を覚えて、答えることができなかった。〔略〕
「でも、私はまだ幸運な方ですわね」と彼女は続けた。「私よりずっと重い障害に苦しんでいる人はたくさんいます。私はまだ腕を動かすことができますから。もっとも左手はかなり不自由ですけど」
 夫人はやせた左手をぎこちなく持ち上げた。それは針金に紙粘土をつけただけのようなみすぼらしい腕だった。だがその腕は有無を言わせない強制力を備えていた。それから目をそらすことは、ゆるされないことであった。
(136)

 下方比較をすることにより自らが恵まれた位置に存在することを確認することにどれほどの意味があるのか、とよく考えます。“「途上国」の子どもを実際に見て、「先進国」に生まれた自分がすごく恵まれていることに感謝しようと思いました”といった趣旨の発言を耳にすることがあるわけですが、わたしはこれに違和を感じます。この違和感の正体をうまく論理的に言語化することがまだできません。

@研究室
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by no828 | 2013-06-02 17:37 | 人+本=体 | Comments(0)
2013年 03月 01日

義憤と憶測を武器に他人を攻撃する人間は内部に直視できない罪悪感を——法月綸太郎『生首に聞いてみろ』

c0131823_154607.jpg法月綸太郎『生首に聞いてみろ』角川書店(角川文庫)、2007年。17(672)

単行本は2004年に同書店より刊行。

版元 → 


 法月綸太郎の登場する法月綸太郎作品です。伏線回収型。「江知佳(エチカ)」という名前の女性が出てきます。ラテン語で「倫理学」の意です。スピノザにも『エチカ』という書物があります。もちろん『生首に聞いてみろ』にスピノザは出てきません。

 義憤と憶測を武器に他人を攻撃する人間は、往々にして自らの内部に、直視できない罪悪感を隠し持っていがちなものである。(145)


@研究室
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by no828 | 2013-03-01 16:25 | 人+本=体 | Comments(0)
2012年 12月 29日

アリバイじゃなくて、バイバイだ——法月綸太郎『パズル崩壊』

c0131823_17553365.jpg
法月綸太郎『パズル崩壊』集英社(集英社文庫)、1999年。180(640)

版元 → 

単行本は1996年に同社より刊行。


 法月綸太郎(のりづき りんたろう)のミステリ短篇集。最近続けて読みました。ちょうどよい負荷です。

 A地点の不在証明は非A地点の存在証明になる、という当たり前のことを思いました。以前に1度、あるセミナーで「アリバイ」を付したタイトルで発表したことがあります。それもあって引っかかったのだと思います。
現場不在証明というより、現世不在証明じゃないか。アリバイじゃなくて、バイバイだ(178.「シャドウ・ワーク」)


 311以降、原爆・原発関係の叙述に目が止まるようになりました。311以前に作品のなかで、しかも本筋とは少し外れたところで、原爆・原発について触れたことのある人の意識は、311以降どのように変化したのかしなかったのか、少し気になります。
「あたしは、昭和二十年の十一月に生まれた。母親の実家の下関で。それは知ってたわね。でも、母の嫁ぎ先が広島の片田舎だったことは話したかしら。母は終戦の直後まで、そこにいたの」
「——広島に?」
「そう。原爆が落ちた時も。母の嫁いだ先は爆心地から遠くて、直接の被害はもちろん、被爆者の認定を受けるような症状も出なかったらしいけど、確かなことはわからない。いいえ、きっと放射能の影響を受けたはずよ
(273-4.「カット・アウト」)。


@研究室
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by no828 | 2012-12-29 18:08 | 人+本=体 | Comments(0)
2012年 12月 21日

まず決定があって、その後から、必然性がついてくることだってあります——法月綸太郎『誰彼』

c0131823_15203319.png法月綸太郎『誰彼』講談社(講談社文庫)、1992年。176(636)

『誰彼』の読みは「たそがれ」。単行本は1989年に同社ノベルスとして刊行。

版元 → 


 わたしの場合、「遠征先」で読むものがなくなることがかなり苦痛なので、いつも本は多めに鞄に入れているのですが、その遠征先で古本屋に寄ることも多く、結局のところ鞄が重くなることがしばしばです。

 本書もそうして入手したものです。講義先へ向かう途中の古本屋で購入し、講義をしたその帰りの電車内でほぼ読了しました。

 具体的なことを削ぎ落としますが、次の論理、すなわち事実αの存在を隠蔽するための(と少なくとも外部の観察者からは推定される)行為Aは、実は事実αの不在を隠蔽するために行なわれたかもしれない、という論理、をおもしろいと思いました。

 3人兄弟と宗教が絡むミステリです。著者「法月綸太郎」は作中の登場人物の名でもあります。

 安倍誠は決して悪い人間ではなかったが、長年にわたって培った教育者としての自負心の底には、自己中心的な性格が潜んでいた。そして、子供の微妙な気質のニュアンスを感じ取る思いやりの欠如が、妻をなくした後の数週間で、彼の双子に対する態度を決定づけてしまった。(10)

 これはかなり本質を抉った洞察ではないか、とわたしには思われたのですが、一般化可能でしょうか? どうでしょう?

「ある人物が、事実Aを知っていることを証明することは可能ですが、事実Bを知らないことを本人でない観察者が証明することはできない。事実Bを知っている人間は、表面上それを知らないふりをすることが、どこまでも可能だからです」(201)

「しかし人間が行動を選択する際、常に合理的な理由が、決定に先行するとはかぎりません。まず決定があって、その後から、必然性がついてくることだってあります。その後付けの必然性が、ずばりと状況にはまってしまった時、人は、最初の決定に神秘的な解釈を施しがちなものです」(279)


@研究室
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by no828 | 2012-12-21 15:44 | 人+本=体 | Comments(0)