思索の森と空の群青

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タグ:筒井康隆 ( 15 ) タグの人気記事


2017年 06月 02日

答えは不要でただ設問だけが重要なのかもしれない——筒井康隆『虚人たち』

 筒井康隆『虚人たち』中央公論社(中公文庫)、1984年。51(1049)

 単行本は1981年に同社

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 妻と娘を誘拐された男が息子と妻と娘を探す物語。結末がないというか、物語の水準が1次と2次を行き来し、さらに物語にとっての不要・不在も記されていくので、展開は安定していません。読点なし、改行少なし、空白のページあり。

62)「時間の経過は無意味なようではありますがわれわれにとって何が無意味かはとりもなおさず無意味に経過しているようにしか見えないその時間が教えてくれるのですよ

63) 彼は息子がいつの間にかサンドイッチを半分食べてしまっていることに気づく。コーヒーも減っている。さっき一瞬彼から遠く離れたレストランの隅へ行ったように見えたその時に食べたのかもしれないし食べるという表現抜きに食べたのかもしれない

82)だがいくら嫌われていようが父親にとって青年期の特に大学生の息子というのは憎らしいはあるが可愛くもあり頼りにしたくもあるがその実まったく頼りにならず頼りにならないことを骨身にしみて承知していながらやはりなんとなく信じたくもあるという厄介な存在なのだと彼は思い彼はしたがってそのように振舞わねばならない

89)「コーヒーを飲もう。お前もおれと一緒にこの奇態なシチュエーションの中へ同化してチキンを食べコーヒーを飲んだ方がいい。傍観者立場に固執しようとする悪あがきをやめれば気が楽になるよ

118)答えは不要でただ設問だけが重要なのかもしれない。

147)個性と環境が互いに否定しあった結果についての責任は彼にはなく環境にもない。誰にもないとさえ言えよう。あるとすればそうした不自然さのモデルにされ易い現実にあると言えるのではないかと彼は思う。思ってからすぐにいや本当にそうだろうかと思いなおすのが彼の思考の論理法則である。不自然さのモデルにされ易い以上は現実もそれ以上の不自然さを持っている筈と考えられるから現実との境界は見極めることができない。境界のないようなものには責任もないのではないか。

205)「しかし現実同様ここにもまた不可知論は存在するのです。われわれの言動の何が重要で何が重要でないかはわれわれには一概に決定できぬところがあるからです。つまり私たちの言動の本質は私たちの認識を超えたところにあるとする主張があってもかまわないということになります。〔略〕そうではなく問題は結論に到る紆余曲折の方が結論そのものより重要かもしれないと考えられるからです

208)どうでもいいことはひとつもないからこそ逆に何もかもどうでもよくなるということがあります」

208)「それが世界的な状況だとすれば何が重要で何が重要でないかは世界が決定するのではなく個人の趣味が決定を下すことになります

254) 「何もしていないことをしているという言いまわしを除いて何もしていない」という次の一行がからかいを加速する。それがさらに天気の話になって決定的になる。天気が判然としないのは、それが「今の彼に無関係である」からだというのだ。無関係ならば書かなければよい。いわゆる小説家はそうするのである。同じことは直後にあらわれるテレビの画面の話にしても同じだ。彼が何かテレビを見ているということを書けばよいのであって、「音楽番組かもしれないしドラマかもしれないしニュースかもしれないがそのうちのどれでもないかもしれない」などと書く必要はない。だが、筒井康隆はあえてそれを書きつらねる。なぜだろうか。いわゆる小説の奥行きなるものが省略によって成立していることを暗示するためである。むろん筒井康隆自身がそれをはっきり意識していたかどうかは知らない。しかし、この展開が示しているのはそれだ。からかいが徹底しているのだ。 ※三浦雅士「解説」

@研究室

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by no828 | 2017-06-02 18:14 | 人+本=体 | Comments(0)
2014年 10月 19日

子供ひとりの生命の代価をたったの五百万円とか一千万円とかに軽く見積ったことは——筒井康隆『富豪刑事』

c0131823_20434061.jpg筒井康隆『富豪刑事』新潮社(新潮文庫)、1984年。23(846)


版元 → 
単行本は1978年に同社


 4作品からなる連作短篇。裏表紙の説明「キャデラックを乗り廻し、最高のハバナの葉巻をくゆらせた“富豪刑事”こと神戸大助が、迷宮入り寸前の五億円強奪事件を、密室殺人事件を、誘拐事件を……次々と解決してゆく。金を湯水のように使って」。

 ドラマ化されたようですが、そちらは観ていません。

 と書いて思い出したことがあります。わたしは講義のなかで、本の紹介を学生に課すことがあります。学生の顔と名前を一致させるため、という隠れた目的もありますが、第一義は本を読む習慣を付けてもらいたい、鞄に本を入れておいてもらいたい、本を読んで勉強してもらいたい、というところにあります。しかし、本を紹介するさい、「この本は映画化もされているようなので、本を読むのが大変だという人は、映画を観てください」といったようなことを言う学生が結構いまして、ああ趣旨が理解されていないと、わたしは頭を抱えるのです。


「むろん犯人に対してです。誘拐という卑劣な手段に腹を立てていることはもちろんですが、子供ひとりの生命の代価をたったの五百万円とか一千万円とかに軽く見積ったことはもっと許せない。さらには、たったそれだけの金を支払うこともできない多くの人びとが現実に存在することも腹立たしい。それから、そんなことに怒りを向けなければならない自分にも腹が立つ」
「金持ちの息子として生れたことにも腹を立てとるのだろうな」喜久右衛門が悲しげに言った。「わしはよくない親じゃ。許してくれ」
(「富豪刑事のスティング」152)


@研究室
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by no828 | 2014-10-19 20:46 | 人+本=体 | Comments(0)
2014年 07月 20日

中学生が自分で方針なんか決められるわけ、ないじゃないか——筒井康隆『エンガッツィオ司令塔』

(前置き。ここ数日の本ブログへのアクセスの大半は「借りぐらしのアリエッティ」と「切ない」の語句検索によるものです。前者はテレビで放送されたのでしょうか。後者は前者と関係あるのでしょうか。関係ないとすると……推測不能です。「切ない」の検索によってどのエントリがアクセスされたのかまではわかりません。「切ない」ブログへようこそ。)

c0131823_19292555.jpg筒井康隆『エンガッツィオ司令塔』文藝春秋(文春文庫)、2003年。168(823)


版元 → 
単行本は2000年に同春秋


 断筆解除後の短篇集が文庫化されたもの。「附・断筆解禁宣言」も収録。本書には断筆中に書かれたものも含まれているようです。

 エログロの印象が強烈です。が、以下の文章が収められた「夢」の最後は切ないものでした。引用の理由はしかし、教育についての思考を刺激するものだったからです。子どもに関わって、芥川龍之介『河童』(→ )のある場面を想起させる内容でもあります。


「今となってはもうどうしようもないよ。どこの大学へも行けなくなっちまった」彼は投げやりに言う。
「早くから方針を決めないからだ」おれは食卓に向かい、平静を装いながら茶を飲んでいる。
 息子は苦笑した。「子供だったんだ。何をしていいかわからなかったし、どんな才能があるかもわからなかった。希望はミュージシャンだったけど、そんなものになれっこないことは中学生になってからわかったんだ。中学生が自分で方針なんか決められるわけ、ないじゃないか
お前は自由だったんだ。だからお前が未来を選択すべきだったんだ。親のせいにしてはいかんな。子供だったかどうかは関係ないだろう。お前を生む前に、生まれたいかどうかお前に聞くべきだったよ」
「無茶ばかり言って」いつの間にか息子と並んで立っている、まだその頃は若かった妻が悲しげに言う。「あなたは、子供に希望を持たなかったんですか」
「おれは他人に希望を持ったりしない」
「他人かあ」息子は笑って言う。「じゃ、おれに希望を持ってくれる勤め先をどこか、捜すことにするよ」
「自由からの逃走か」厭味たっぷりに言うおれを睨みつけてから、息子は出ていった。
「わたしがさんざん、いい大学に入れないから何か方針を決めてやってって、あなたに言い続けてきたのに。自由放任主義もいいとこでしたわね」次第に老けていきながら、夫婦だけの日本間で炬燵に入った妻が背を丸くして言った。
「おれが息子の未来を決めたりしたら、おれ自身の自由が奪われてしまう。それなら子供なんか、いない方がましだ」
(「夢」127-9)


 ちなみに解説は小谷野敦。本書の「下品さ」に辟易した人には『腹立半分日記』(版元 → )を勧めています。「誠実であるがゆえに下品な作品を書くのだということが分かるだろう」(292)とあります。

 というわけで、昨年読了分の本の記録がようやく完了しました。次回から今年分に移行します。番号は「1(824)」からはじめます。その前に、N古屋での学会大会参加についてもアップロードしたいところです。

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by no828 | 2014-07-20 19:38 | 人+本=体 | Comments(0)
2014年 07月 19日

引用のない本——加納朋子『ななつのこ』宇江佐真理『晩鐘』筒井康隆『乱調文学大辞典』

 引用なしの3冊を一気に記録しておきます。

c0131823_19441926.jpg加納朋子『ななつのこ』東京創元社(創元推理文庫)、1999年。165(820)

版元 → 
単行本は1992年に同社(たぶん)

 加納朋子は『ガラスの麒麟』(→ )に続いて2冊目。


c0131823_19442618.png宇江佐真理『晩鐘——続・泣きの銀次』講談社(講談社文庫)、2010年。166(821)

版元 → 
単行本は2007年に同社。

『泣きの銀次』(→ )の続編。


c0131823_1945396.jpg筒井康隆『乱調文学大辞典』角川書店(角川文庫)、1986年。167(822)

版元 → 情報なし
単行本は1975年に同社(たぶん)

 筒井編の辞書。文学辞典のパロディ。項目は「現象学」から「枚数制限」まで。一家に1冊。


 昨年読了分の研究以外の本の記録も、あと1冊となりました。(書誌情報後ろの 小さめ数字(大きめ数字) は 昨年読了冊数(本ブログ開設以来の冊数) を表します。)

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by no828 | 2014-07-19 19:57 | 人+本=体 | Comments(0)
2014年 06月 21日

同じ作家でも、作品ごとに語り手としての人格は異なる——筒井康隆『朝のガスパール』

c0131823_15242843.jpg筒井康隆『朝のガスパール』新潮社(新潮文庫)、1995年。158(813)


版元(ただし電子版) → 
単行本は1992年に朝日新聞社


 本書は新聞連載が初出で、連載中に読者からのコメントなども取り入れながら小説を作っていくという体裁になっています。しかし、どこまでが本当にあったコメントの反映で、どこからが筒井の創作なのか、その境界線はきわめて見出しにくいです。現実と虚構の境界線です。物語——作中作と呼ぶべきか——の進行する事実水準——にも実は複数あるのですがとりあえず——と、その物語に言及する観察水準とが相まって『朝のガスパール』は進行します。しかし、その観察水準が事実かどうかはわかりません。つまり、この事実と観察の2つの水準のさらに上に、この物語を執筆する筒井本人が想定されます。がしかし、この筒井本人は唯一の筒井康隆か、という問題も提起されています。この2つというか3つの水準の整合的な錯綜——という表現は論理的な矛盾か——が『朝のガスパール』です。小説の小説の小説。 

 ややこしい。

 2つ目の引用に印字されていた言葉遣いから、ハイデガーを想起しました。『存在と時間』をちょうど読んでいるところです。「世界内存在」とか。


「これはジェラール・ジュネットのいう『語りの水準』の問題だ。つまり『まぼろしの遊撃隊』や貴野原たちの世界のことを語っている語り手はおれだ。では、こうして会話しているおれや君を語っている語り手は誰だい」
「筒井康隆でしょう」
「その通り。しかしながら、その語り手が即ち現実の筒井康隆自身かというと、そうじゃないんだなこれが。あくまでこの『朝のガスパール』だけを語っている筒井康隆に過ぎない。たとえばの話、『吾輩は猫である』の語り手としての夏目漱石と『明暗』の語り手としての夏目漱石はあきらかに違う」
「そりゃだって『吾輩は猫』は漱石の処女作だし、『明暗』は遺作だもの。十年もの開きがあります」
「じゃ『坊っちゃん』と『虞美人草』でもいいよ。一年しか違わないけど、語り手はあきらかに別の人格だ。ええい。ややこしいことを言うな。おれは同じ作家でも、作品ごとに語り手としての人格は異なるということを言いたかっただけだ
(81-2)

「われわれを見下げてる者は、いったい何者なの」笑いながら彼女は続けた。「ご心配なく。石部智子ですから」
 櫟沢は唸った。「時間と空間を越えたのか」
 智子がうなずく。手にオレンジ・ジュースのグラスを持っていた。「虚構の壁が破れたんです。それを破ったのは櫟沢さんでしょう。それがお望みだったんでしょう」
最終目標だった」感に堪えぬように櫟沢は吐息をつく。「そのための努力だった。虚構の側から現実への侵犯は可能か。ぼくはずっと、そればかりを考えていた
「現実を模写してばかりだったんですものね」智子は櫟沢の主張を心得ているようだった。「今までの虚構は」
「もちろん、ここも虚構の中だが」櫟沢はにやりとする。「さらなる現実をめざして、君と一緒にもう少しじたばたしてみるか。せっかく君が来てくれたんだから」
 智子は立ちあがった。「じゃあ、お連れするところがあります。そこには、わたしみたいに最初から虚構の存在だった者だけじゃなく、もともと現実に存在していながら、虚構内存在にされた人たちもいますから」階段をおりてきた。
 瀬の高い智子を見て、櫟沢はたじろぐ。「それはおっかないな。ぼくは今まで物語世界外の存在にろくな登場のさせかたをしていないからね」
(307)


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by no828 | 2014-06-21 15:31 | 人+本=体 | Comments(0)
2014年 03月 19日

科学哲学って、あれは、そういう通じる言葉を作る役じゃないんでしょうか——筒井康隆『脳ミソを哲学する』

c0131823_18385125.png筒井康隆『脳ミソを哲学する』講談社、1995年。126(781)

版元 → 

 筒井康隆と科学(に関わる仕事をする)者との対談集です。筒井の科学に関する背景的知識の多さに驚きます。

 本書内でA・E・ヴァン・ヴォクトの『宇宙船ビーグル号の冒険』(版元 → )に何度か言及されています。同書に登場する「総合科学者」の役割の重要性が指摘されています。細分化した科学の下位分野間の“通訳”のような役割を果たせる人のことです。というわけで、『宇宙船ビーグル号の冒険』をいま読んでいます。

 また、107ページにあった筒井の発言(6番目の引用)には強く共感しました。“この先、行き止まり”の標識を掲げることにも意義があると思います。成功したことだけを綴る論文は、何というか、本末転倒のようにわたしは感じます。

 ちなみに、対談相手は以下の人たちです。

 科学哲学  村上陽一郎
 解剖学   養老孟司
 生命誌   中村桂子
 動物行動学 日高敏隆
 数学    森毅
 気象学   根本順吉
 生物工学  軽部征夫
 理論物理学 佐藤文隆
 イカ学   奥谷喬司
 評論    立花隆


筒井 対象をあまり愛しすぎるのはアマチュアだと村上さんは以前おっしゃっていましたが、もちろんよい意味でのアマチュアということでしょうが、そういうアマチュアっぽさもないとなんというか、科学の先端をやっている人たちがみんなサラリーマン的では、わたしもなにか情ないような気がしますね。(18)

村上 サラリーマン的な研究者というのは小さなレンガは積みますが、そこに積んだレンガの上に美しい装飾をかけるのは、やっぱり面白がったり、こんなのはどうだという独創的な発想のある人なんです。地道さというのは大事ですが、地道さだけで、この世界が動いているとは思えませんね。〔略〕地道な人は地道な人で、そのかたがたにも協力していただきましょう、だけども、そこにあえて軽薄という言葉を使えば軽薄、あるいは面白いからこんなことやってみようよというのが付け加わっていかないと、やっぱり豊かにはならない。(25)

筒井 さっきから考えているんですけど、科学哲学って、あれは、そういう通じる言葉を作る役じゃないんでしょうか。
村上 ある意味ではそうです。分化した、それぞれの科学の基礎に、どうやったら、共通の文法と共通の翻訳ができるような土台が見つかるか、その土台を探すものではあるんです。
(28)

中村 生きものは三十億年くらいは海にいて、五億年くらい前に陸に上がった。実際に、わたしたちは生まれてくるまではほとんどの間、水の中にいるわけです。羊水って、ほぼ海の水と同じ成分なんですね。そこから、だんだん陸へ出ていくといったような歴史を身体で表現している。(80)

日高 ぼくは昆虫の研究から入ったわけですが、なぜかというと、昆虫を見ていてこいつらなにをしているんだろうっていうのが、いちばん気になってしかたがないんですね。なぜだろうって。(96)

筒井 この実験を延々とやってきたけれど、仮説の立て方が間違っていて全部失敗に終わったという場合でも、少なくともこれは間違いであるということは記録に残る。それはつまり、役に立っているわけですよね。(107)

軽部 なぜかと言いますと、三十五億年にわたって偶然性によって進化してきた生物を、偶然にではなく、わたしたちの意思でわたしたちの役に立つように改良することができるようになったからです。
 生物の進化や、人間はこれからどのように進化していくべきかというようなことを、自分たちで決めることができるようになってきたのです。幸か不幸かわかりませんが、これがバイオテクノロジーの本質じゃないかと思っています。
(185)

立花 でも、フロイトが精神分析論で説明づけたような精神的病いが、実は遺伝子レベルのある酵素欠陥が原因だったというようなことが、いま、どんどんわかってきつつあります。そうすると、あの理論というのは一体なんだったんだということになるわけです。
筒井 心理学は実証ということがまったくできない学問で、自然哲学に近かったり、統計学に近かったりするわけです。でも僕は、なにかのかたちで統合的に科学になり得ると思うのです。
筒井 心理学が科学になり得るのは、それが脳の実際の構造機能と結びついたときでしょうね。
(272)

軽部 たとえば、高齢化社会と言われていますが、言葉でコミュニケーションをとれなくなったお年寄りと言葉を介さず、脳と脳でコミュニケーションできるようになれば、より満足のいく介護もできるでしょう。(205)

 ALS。

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by no828 | 2014-03-19 18:53 | 人+本=体 | Comments(0)
2013年 05月 08日

周囲から肉をとり去っていって最後に残る人間の本質こそがこの空洞——筒井康隆『革命のふたつの夜』

c0131823_20264736.jpg筒井康隆『革命のふたつの夜』角川書店(角川文庫)、1974年。39(694)

元々は『母子像』という題名で1970年に講談社より刊行。

版元 → 情報なし


 短篇集。表題作含め8篇。科学技術が新たに展開していくにしたがってかつてSF小説で描かれていた世界が現実のものとなっていくとSF小説にはもはや存在意義はないのではないか、という話や、カミュの『ペスト』のパロディが含まれています。しかし、人間の中心が穴である、という言い方は、結構見かけるような気がしてきました。だから何なのか、ということであり、その「何」を言いたいからこそその根拠としての人間の肉体、ということなのでしょうか。

「どうもありがとうございました」ご苦労さまといいたげに司会者は馬鹿ていねいなお辞儀をひとつし、見得を切るように、あらためて重蔵を睨み据え、それからゆっくりと訊ねた。「では、そういった予言が、ほとんど現実のものになってしまった今、SFに書かれるネタがだいぶ減ったということはいえますね
 しまった、と、重蔵は思った。
(「巷談アポロ芸者」101)

消化管が、人間の胴体を上から下へと貫いている唯一の空洞である以上、人間はその空洞をとりまいている肉塊でしかない。逆にいえば人間の中心部は単なる空洞なのであって、周囲から肉をとり去っていって最後に残る人間の本質こそがこの空洞——つまり、何もない空間なのだ。ドーナツやレンコンと同様、人間もまた中央部の穴の存在によってしか存在を許されない存在であった。(「コレラ」147)


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by no828 | 2013-05-08 20:46 | 人+本=体 | Comments(0)
2013年 02月 08日

文学なんて、人に「やりたい」っていう前に自分でこっそり——筒井康隆『文学部唯野教授のサブ・テキスト』

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筒井康隆『文学部唯野教授のサブ・テキスト』文藝春秋、1990年。2(657)

版元 → 


 1週間空きました。140人ぶんの記述式試験の採点はなかなかに大変であります。採点期間が1週間もない、というのはきつい、と思っていましたが、そのくらいでやってしまったほうがよいのかもしれない、とも思うようになりました。

 このブログ開設以前に『文学部唯野教授』それ自体を読みました。そのサブ・テキスト。「文学部唯野教授に100の質問」などからなります。

——世渡りは上手いですか、ヘタな方ですか?
 わかんないね。大学の中っていうのは「世の中」じゃないんですよ。
(18)

——現在、大学が社会に果たしている機能は?
 それ考えちゃいけないの。それ考えるからおかしくなっちゃうの。大学はそれ自身の目的を持ってなくちゃいけないの。大学人は社会のことなんか考えなくていいの。これはたとえ医学部だろうと社会学科だろうとそうなの。
(25)

——連続射殺事件の永山則夫被告が日本文芸家協会への入会を理事会で拒否されたこと(結局本人が申し込みを取り消す)へのご意見を。
 恥かしいことやっちまったねえ文芸家協会は。だいたい「協会の体面を汚した者は」だなんて条項があることすらおかしい。あのさあ、「体面」なんてことば、小説家とはいちばん無縁のことばでしょうが。虞犯者の集団じゃなかったの。自分だっていつ人殺しするかわかんないって想像できない人が小説家やっちゃいけない。あたしゃ入りたくないね、あんなとこ。
(31-2)

——「文学をやりたい」という学生にアドバイスを。
 ふつうは「ぼく、セックスしたいんですけど」なんてひとに言わないよね。あのさあ、文学なんて、人に「やりたい」っていう前に自分でこっそりやってなきゃだめでしょうが。本読むのだって、文学部入ったのだってすでに文学ですよ。「風呂に入りたい」とか「フランスに行きたい」とか言うみたいに「文学やりたい」って言ったって、ここから先がそうですといってさせてあげることはできません。
(36-7)


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by no828 | 2013-02-08 16:21 | 人+本=体 | Comments(0)
2013年 01月 12日

批評はどんどん公的な領域から孤立していくんです——筒井康隆『フェミニズム殺人事件』

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筒井康隆『フェミニズム殺人事件』集英社、1989年。185(645)

版元 →  ただし、文庫。


 引き続き、昨年ぶん。筒井康隆の長篇ミステリ。小説家(というのは筒井本人)と大学の文学教員と企業に勤めるフェミニスト、といった人たちがそれぞれに休暇を過ごすために集うことになったホテルで起きた殺人事件のお話。

 フェミニズム理論についての記述がもっとあるのかと期待しましたが、あまりありませんでした。

「しかし、イギリスの大学には、ヴィクトリア朝時代から英文学科があったでしょう」小曾根氏が言った。「そこでは文学教員が行われていたのでしょう」
「たしかにそうなんですが」と、松本が口を出した。「そのために文学研究のプロがあらわれて、アマチュアの文人と対立して、あげく超越的になってしまったんだと思いますね
アメリカでも『新批評』などという難解なものがあらわれて、批評はどんどん公的な領域から孤立していくんです
〔略〕
「文芸批評が次第に難解になっていったとそれからどうしました」〔略〕
「ますます難解になり続けたのです」〔略〕「それ以後、次つぎと新しい文学理論が生れます。『ロシア・フォルマリズム』『現象学』『解釈学』『受容理論』『記号論』『構造主義』『ポスト構造主義』『精神分析批評』『マルクス主義批評』といった具合ですが、だいたいまあ、あとになればなるほど難解になっていきます。これを詳細に小説の中で説明したりすると大変なことになりますから、やらないつもりです。それにこれは、わたしと同じ神戸在住の筒井康隆という作家が『文学部唯野教授』という小説の中でやっておりますので」
(67-8)

 わたしの記憶がたしかならば、『文学部唯野教授』では上の引用文中に列挙された文学理論の順番に(すべてではないにしても)章が立てられていたはずです。章名自体が「ロシア・フォルマリズム」、「現象学」、……というふうに。そしてその章構成というのは、テリー・イーグルトンの『文学とは何か』に依拠したものであったはずです。

 メモ1:「(海を)浚えて」の読みは「さらえて」。
 メモ2:「(地味な)装り(に身をやつしている)」(263)の読みは? 「よそおり」? 正しくは「装い」?


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by no828 | 2013-01-12 15:09 | 人+本=体 | Comments(0)
2013年 01月 09日

自国の習慣や宗教を盾に、理解しあおうとすることを厭がる傾向さえあった——筒井康隆『ベトナム観光公社』

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筒井康隆『ベトナム観光公社』中央公論社(中公文庫)、1979年。182(642)

単行本は1976年に同社より観光刊行。

版元 → 


 筒井康隆 初期短篇集。筒井康隆はすごいかもしれない、ということに(ようやく?)気づきつつあります。

 現実を批判的に(そして筒井の場合はユーモラスに)相対化——し、そこから別様の新たな現実を作り出——していくためには、その現実とは別の時点・地点に視点を置く必要があります。おそらくこれは不可避。批判は社会内在的に、と記述主義社会学の側からは要請されるかもしれませんが、視点は「外」に置かざるをえない。ただし、社会学者の言い分を逆手にとれば、“わたしが視点を「外」に置くのも社会の要請である、その意味でこれは社会内在的である”と主張することもできるでしょう。

 筒井の場合は、というより、小説家は、その視点を想像の世界に置きます。研究者は、というより、哲学者は現実を規定している認識・思想とは別の認識・思想にその視点を置き、歴史学者はそれを過去に置きます。社会学者はその現実のなかにある別の現実に視点を置きます。社会学者はそれとともに、哲学者や歴史学者の営みを「〜ということが現在、哲学的・歴史学的に行なわれており、それはこの現実の社会が“要請”したことである」というふうに、社会のなかに埋め込みます。そしてそれにより、哲学者や歴史学者の主張もまた相対化されることになります。メタ・ポジションへ行くことの意味を改めて考える次第です。

 人間みな、いい恰好の服を着たり化粧したりするが、中身は汚物でいっぱいだということである。いや、それを汚物と決めてしまったのは人間の勝手であって、それを見て汚いと感じるのは教育が悪かったせいだ。(「最高級有機質肥料」95)

「サユルケオンに関して発言する前に、ひとことおことわりしておきたいのです。われわれシェー族は現在、サユルケオンを生産しているコッピー族を植民地人として扱っております。これは彼らが自主独立できる能力を一日も早く持てるようになるまで、われわれとしては援助しているわけであります。また、サユルケオンの売買に関しては、われわれは彼ら未開のコッピー族に、何やかやと助言をたえてやっております。もちろんこれによって、われわれも利益を得ているわけですが、それは実に微々たる利益なのであります(「マグロマル」112-3)

 私はすでにこの会議に絶望していた。いや、星間連盟という組織そのものに絶望していた。これは組織ではなかった。地球の歴史をふり返って見ても、各国間でこのような話しあいの場が作られた例は何百回となくあった。しかしそれらの会議が、どれほどのことをなし得ただろうか。結局片がつくのはいつも戦争あるいは戦争に近い脅迫によってではなかったか。地球人同士でさえ、話しあい、理解しあうことはできなかったではないか。いや、自国の習慣や宗教を盾にとり、理解しあおうとすることを厭がる傾向さえあったではないか。そこには、言語コミュニケーションの難しさなどという以前の問題があった。(「マグロマル」121)

「同輩に恥をかかせて平気か」
あれを恥というのなら、貴公は恥をかくべきだった。他人にさえわからなければ、貴公は自分に対して恥をかかないというのか
(「時越半四郎」131)

貴公たち、ちっとは借りものでなく、自分の頭でものごとを考えたらどうか。おれがどんな恥をさらした。かりにおれが恥をさらしたとして、それがなぜ貴公らの恥になるのだ。またそれがどうして、ご主君や藩の恥になるのだ。そんなことを言い出したらきりがない。おれが恥をかいたと思うなら、勝手に物笑いの種にしていればいいではないか。おれは貴公たち同様、やっぱり貴公たちが貴公たちが嫌いなのだ。だから没交渉にしていればいいではないか。おれを抛っといてくれればいいではないか」(「時越半四郎」145)

どうして評論家に、私が給料を払ってやらなきゃならんのですか?
だって評論家は、要するに作家の書いた小説を批評するだけでしょう? 自分の書いたものを批評してほしいというあなた個人の願望をかなえてくれる、いわばごますり屋でしょう? 要するにあなた個人の従属物でしょう? そんな者に官費を支給することはできません」
(「カメロイド文部省」167)。


@研究室
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by no828 | 2013-01-09 15:13 | 人+本=体 | Comments(0)